大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

渥美半島の隠れた歴史に彩られた三河田原③~歴史に彩られた三河田原の城~

2011年08月19日 18時23分42秒 | 地方の歴史散策・愛知県三河田原
それでは登城へまいることにいたしましょう。
三宅家菩提寺の霊巌寺からさほど遠くない距離に、かつて田原城の堀近くに置かれた惣門が復元されているというので、お城への道すがら立ち寄ってみることにしました。

惣門(報民倉)

路地を抜けると目の前に突然石垣と白壁の大きな門が現れます。確かに復元されているのであまり趣きは感じないのですが、現在この惣門は田原市の報民倉として災害時の資機材の保管場所として使われています。

そもそも報民倉とは田原藩が救民のため建設した備蓄倉庫のことで、この報民倉のため天保の飢饉の際に、田原藩は1人の餓死者、流亡者も出さなかったといいます。

現在この惣門(報民倉)がある一帯は大手公園として整備されており、惣門の背後には規模は小さいながらも池と遊歩道を備えた公園になっていました。

大手公園

惣門を後にして、いったん田原市のメインストリートともいうべき豊鉄の三河田原駅からまっすぐにのびる道へと進みます。そして「殿町」の交差点に置かれた常夜灯型の時計台を見ながら、交差点を左手に進んでいきます。殿町と名付けられているのは、おそらくかつては武家屋敷が並んでいたからではないだろうか、と一人考えながら歩いていくとなだらかな坂道の前方になにやらお城の風情を感じる緑濃い一帯が見えてきます。

常夜灯型の時計台
城へつづくなだらかな坂道

近づくにつれ右手には袖池と呼ばれる堀割が現れます。この袖池ともう一つの桝池と呼ばれる掘割との間に構えるのが、所謂田原城の大手門である「桜門」です。

袖池(掘割)
桝池(掘割)

桜門の前の道沿いには、これまたお城にマッチした常夜灯型の公衆電話が置かれています。なんとも凝った趣向で感心しました。

常夜灯型の公衆電話ボックス

お城の各施設はほとんどが復元されたもので、古さはまったく感じられません。この桜門も平成6年に復元されたといいます。御門の手前に一輪のユリの花がわずかに吹く風に揺れているのを見ると、その昔も同じようにユリの花が咲き、その花を見ながら家臣たちが登城したのではと往時を偲んで見ました。

桜門脇に咲く一輪のユリ
桜門石標
桜門

桜門をくぐると左手に白壁がまぶしい二の丸二重櫓が迎えてくれます。この二重櫓も昭和33年にまったく新しく建て替えられたもので、かつては下見板張りであったようです。

二の丸二重櫓

二の丸二重櫓から更に奥に進むとかつての本丸跡にでるのですが、現在はこの本丸跡に神社が構えています。確かに本丸があった場所を思わせるようなかなり広い敷地をもった神社です。この神社は藩主・三宅氏の遠祖である児島高徳を祀る巴江神社が建っています。

巴江神社の鳥居
巴江神社本殿

本丸跡から空堀を抜けて城の裏側にでると多門櫓のような立派な建物が現れます。これが田原市博物館で崋山自刃の刀、遺書、その他関係の書画、遺品等の重要文化財を通して崋山の生涯から没後までを、わかりやすく紹介しています。一見の価値があります。

田原市博物館と崋山の記念碑

田原を訪れる前まで、崋山の故郷であったことなどまったく知らなかったのですが、田原市は崋山一色の町で彼の教えや業績を今なお大切に継承していることが処々に感じることができました。

崋山神社
崋山記念碑
崋山神社本殿

田原城訪問の後、崋山を祀る崋山神社へと足を伸ばし、神前にお参りする機会を得ました。

渥美半島の隠れた歴史に彩られた三河田原①~幕末の先覚者・渡辺崋山が眠る城宝寺~
渥美半島の隠れた歴史に彩られた三河田原②~田原藩主・三宅家の菩提寺「霊巌寺」~




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渥美半島の隠れた歴史に彩られた三河田原②~田原藩主・三宅家の菩提寺「霊巌寺」~

2011年08月19日 12時28分35秒 | 地方の歴史散策・愛知県三河田原
まず三河田原藩の歴史を少し紐解いてみましょう。小藩でありながら戦国の世を生き残り、なんと明治4年の廃藩置県で廃藩になるまで続いた名家「三宅家」を調べてみました。

そもそも田原城はいつごろ築城されたのかという疑問から解いていきましょう。なんとその時代は室町時代にまで遡ります。その頃の城は戦国の世に築かれた城というものではなく、むしろ「砦」のような形態であったと考えられます。

室町時代の国人領主は三宅家が藩主となる以前の「戸田氏」で、この戸田氏の初代宗光によって文明12年(1480)に田原城が築城された歴史があります。

その後、徳川家康の支配下に入った田原藩は三河吉田城(現在の豊橋)の城主となった池田輝政の支配下となりました。

関が原の戦いで勝利した徳川家康は慶長6年(1601)に徳川譜代の家臣でかつて田原を治めていた戸田宗光の系譜に連なる戸田尊次に田原1万石を与え、ここに田原藩が興ったのです。しかし、その後寛文4年(1664)に第3代藩主・戸田忠昌は加増の上で肥後天草郡の富岡藩に移封されています。

代わって、三河挙母藩より三宅康勝が1万2000石で入ることとなるのですが、三宅氏は小大名ながら城持大名であることを許されるほどの名家であったが、知行高に較べて藩士が多く、さらに田原の地も痩地であった上に風水害の被害も多く、常に財政難に苦しんでいました。

三河田原藩主となった三宅家はその後15代の康保までこの地を治め、前述の明治4年の廃藩置県まで存続したのです。尚、三宅家の江戸藩邸があった場所は現在の最高裁判所辺りで、三宅坂という地名が残っています。

こんな名家の菩提寺である霊巌寺はきっと古刹・名刹の堂々とした伽藍が残っているのではと期待しながら、田原の町のそぞろ歩きを開始しました。田原の町はいたって静かで、道行く人も少なく静まり返っているという印象です。

歩き始め、ふと路上をみると「城のみち」と刻まれたウォーキングトレイルの道しるべが埋め込まれています。歴史ある街には観光客の道案内としてこのような道しるべがあるのですが、田原の町はそれほど広くなく、ウォーキングマップさえあれば道に迷うことなく目的地に辿りつける気軽さが魅力です。

「城のみち」道しるべ

そして静かな住宅街を進んで行くと、四つ角に建つ民家の塀にあの伊能忠敬がここ三河田原で測量をした場所であることを示す案内板が掲示されています。伊能忠敬が日本全国をくまなく回り測量した場所はそれこそ数え切れないほどあると思いますが、こんな場所で伊能忠敬の足跡に巡り合ったことにある種の感動を覚えました。

伊能忠敬測量の地案内

目指す霊巌寺は神明社と呼ばれるこんもりとした森に隣接して建っています。きっと樹齢何百年という老木が境内に繁り、夏の日差しを遮って一服の涼を楽しめることを期待したのですが、あにはからんや境内には日差しを遮る木々はまったくなく夏の青空が空いっぱいに広がっていました。

三河神明社境内俯瞰

気を取り直して、ご本堂裏手の墓地へと進むと歴史あるお寺とは思えないほど、閑散とした(というのは墓標が少なく、まるで廃寺のように墓が整理されてしまったような雰囲気が漂っていました。)

霊巌寺山門
霊巌寺ご本堂

私にとってはかなり期待が裏切られた寺なのですが、さらに期待を裏切られたのが三宅家代々の墓地の風情なのです。まがりなりにも玉垣に囲まれ、時の流れを感じさせる古びた墓標が並んでいるのですが、墓域には木が一本もなく藩主が眠っているわりには荘厳さや威厳がまったく感じられないのです。

三宅家代々の墓の説明板
三宅家代々の墓の入口
三宅家の墓域
三宅家の墓域
三宅家の墓域

墓には初代康貞公から17代の忠強公とすべてではないのですが正室やお子さん方が眠っておられます。

そしてこの三宅家の墓域から少し離れたところに忠臣真木定前(まきさだちか)の墓があります。定前は藩の用人として、天保の飢饉では必死の働きをもって餓死者、流亡者を一人も出さずに切り抜けたといわれる知恵者だったのです。忠臣であったが故に、藩主三宅家の菩提寺に当時の藩主であった14代康直が自ら碑銘を書いたと言われています。

真木定前の説明板
真木定前墓

猛暑の中、日差しを遮るものがない霊巌寺を早々に辞し、隣接する神明社の杜でしばし休憩をして田原城へと向かうことにしました。

神明社本殿
家康公を祀る東照宮

渥美半島の隠れた歴史に彩られた三河田原①~幕末の先覚者・渡辺崋山が眠る城宝寺~
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渥美半島の隠れた歴史に彩られた三河田原①~幕末の先覚者・渡辺崋山が眠る城宝寺~

2011年08月18日 14時30分39秒 | 地方の歴史散策・愛知県三河田原
お盆休みを利用して8月12日から愛知豊橋に再び滞在していました。東海地方も異常ともいえる猛暑に襲われ、連日うだるような暑さが続いていました。

家の中でクーラーをつけて過ごすのも能がないので、意を決して豊橋の南に位置する渥美半島の中ほどの三河田原の町に出かけてみることにしました。

豊橋から渥美半島へのアクセスは豊橋鉄道のローカル線を利用し、約35分ほどで到着します。豊橋を出発してから10分ほどで車窓には田園風景が広がってきます。遥か彼方には豊橋湾に面する港のの大きなクレーンが見え隠れします。

渥美半島一帯は東海地方の中でも屈指の野菜生産地で見渡す限り野菜畑が広がっています。また野菜だけでなくマスクメロンの産地で観光農園でメロン狩を楽しめるようになっています。

豊橋鉄道・三河田原駅

電車はあっという間に三河田原駅に到着です。終点駅とは思えないほどこじんまりとした佇まいがローカル色を醸し出しています。駅前には一応バスターミナルが併設されていますが、行き先は鉄道が敷かれていない渥美半島の海岸や半島先端行きの路線のようです。

ここ田原は幕末の先駆者である渡辺崋山の故郷です。崋山は寛政5年(1793)9月16日に江戸の田原藩邸で生まれ、8才で若君のお伽役となり、後に藩主より登の名を賜わりました。財政難の田原藩は家臣の減給を行っており、11名の家族で貧しい渡辺家は幼い弟妹たちを奉公に出さなければなりませんでした。このため崋山も貧しさを救うため、絵を描く内職をしながら学問に励みました。

崋山は天保3年(1832)に田原藩の家老に就任しました。崋山は32才頃から外国事情に関心をもち、蘭学や兵学の研究を始めました。三宅友信に蘭学をすすめ、高野長英、小関三英、鈴木春山らを雇い翻訳をさせ、また鷹見泉石、幡崎鼎、江川坦庵ら洋学者とも交わり、来航したオランダ甲比丹から世界の状勢を知り、当時外国事情に精通する第一人者となりました。西洋諸国が強大な力をもって東洋に侵入するのに対し、幕府の外国船打払令や鎖国が危険なことを主張し、開国、交易をするよう強調しました。

当時、蘭学の進出は幕府役人にとって目の敵であり、目付鳥居耀蔵もその一人で、江戸湾測量で江川坦庵に敗れて以来、蘭学者の弾圧を狙っていました。幕府は、鳥居の密偵によって崋山らの無人島渡航計画の噂を知り、天保10年5月、崋山、高野長英ら10数名を捕らえました。渡航の罪は晴れたものの、崋山は机底から見つけられた「慎機論」、長英は「戊戌夢物語」が幕政批判という重罪となり、崋山は、在所田原へ蟄居、長英は永牢となりました。これがあの有名な事件「蛮社の獄」です。

蟄居中の崋山一家の生活を助けるため、門人福田半香らは崋山の絵を売る義会を始めました。崋山は作画に専念し、「于公高門図」「千山万水図」「月下鳴機図」「虫魚帖」「黄粱一炊図」など次々と名作を描きました。しかし、その活動により、天保12年(1841)夏の頃から「罪人身を慎まず」と悪評が起こり、藩主に災いの及ぶ事をおそれた崋山は死を決意しました。「不忠不孝渡邉登」と大書し、長男立へ「餓死るとも二君に仕ふべからず」と遺書して切腹し、49年の多彩な生涯を終えました。

幕末好きの私にとってはまたとないチャンス。肌を刺すように照りつける日差しの中を三河田原駅から徒歩で崋山が眠る「城宝寺」を目指すことにしました。

城宝寺山門
山門前の崋山墓標
山門の扁額

城宝寺は駅からさほど離れていない場所、通称「寺下通り」に面して建っています。この寺下通りは田原城の外郭に位置し、敵の侵入に備え一種の「砦」として多くの寺を配置したことからこう名付けられて言われています。実際にこの寺下通りに面して幾つもの寺が並んでいました。

静かな佇まいを期待して訪れた城宝寺だったのですが、たまたま檀家のご葬儀が営まれている最中で境内には多くの参列者が列をなしていました。

山門を入るとすぐ右に石を積み上げた小山が視界に入ってきます。実は城宝寺古墳と呼ばれているもので、6世紀末の豪族の墓とのこと。三河田原には古代の古墳が幾つも点在しているとのことです。この城宝寺古墳は石室の大きさが、渥美半島で最大級で横穴式石室をもつ円墳として知られています。また古墳の上には階段がついていて、何と古墳の上に登ることができます。古墳の上には社が建っていました。

城宝寺古墳の説明書
古墳入口

古墳から下りて、ご葬儀に参列されている方々の脇を抜けて、ご本堂の左側に設けられている墓地へと進みます。崋山の眠る墓は探すこともなく墓地の入口に立派な鉄扉がつき、玉垣で囲まれていました。

城宝寺ご本堂
崋山家の墓配置
崋山家の墓俯瞰
中央の墓標が崋山

崋山の墓標は正面中央の一番大きなものです。その右は母の栄、左は妻のたか、左右に二男である渡辺小崋夫妻の墓が置かれています。墓所の傍らには、「見よや春 大地も亨す 地虫さへ」という渡辺崋山の句碑もあります。幕末が始まる天保時代に開明派の先駆者として活躍した崋山先生に思いを馳せながら墓前で手を合わせました。

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渥美半島の隠れた歴史に彩られた三河田原③~歴史に彩られた三河田原の城~




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