大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

三河西尾は大給松平家六万石の城下町~寺社と城址巡り(其の二)~

2011年11月28日 12時46分10秒 | 地方の歴史散策・愛知県西尾市
ここ三河の西尾藩は1600年の関ヶ原の戦い以後、数多くの大名が入れ替わり、立ち代わり藩主の座を変えてきました。関ヶ原直後に最初に西尾に入った大名は本多家で、その後松平(大給)家、本多家、大田家、井伊家、増山家、土井家、三浦家を経て、最終的に大給松平家と落ち着いたのが10代将軍家治公の時代の明和元年(1764)に松平乗祐(のりすけ)が初代西尾藩主になってからで、およそ100年五代に渡って大給松平家が西尾藩主として明治の廃藩置県まで支配していました。

西尾城二の丸表門・鍮石門

そんな大給松平家の西尾における菩提寺である「盛厳寺」へと向かうことにしました。盛厳寺は大給松平家の転封ごとに各地を移転したのですが、明和元年(1764)に松平乗祐(のりすけ)が初代西尾藩主になった折にここ西尾に移り、大給松平家の菩提寺として藩主の厚い庇護を得ていました。

盛厳寺山門
盛厳寺本堂

立派な山門をくぐると正面にご本堂が構えています。ご本堂の左手奥に西尾藩四代藩主の松平乗全(のりたけ)と奥方様の立派な墓があります。尚、江戸表における西尾藩大給松平家の菩提寺は虎ノ門にある天徳寺で累代墓が置かれています。

松平乗全と奥方の墓

松平乗全は1839-1862まで藩主を勤め、その間の1643年に幕府寺社奉行、1644-1645の2年間は大阪城代、1645-1855幕府老中、1658-1860ではあの安政の大獄で井伊派の幕閣として一ツ橋派の処分を行った幕府老中を担っています。それなりの人物だったことから、墓もそれなりに立派な造りになっています。

それではいよいよ大給松平家の居城である西尾城へ登城することにいたしましょう。かつて西尾城の天守が聳えていた場所は現在は西尾市歴史公園という名前に変わっています。六万石の大名の居城であることから、当時はかなりの規模を有する城下町であったことが覗われます。

大手門跡の石碑

かつて大手門が置かれていた場所には、その場所を現す石柱が歩道脇に立てられています。この大手門跡から内堀があったであろう場所まではかなりの距離があり、町屋の面積を加えると西尾藩はたいそう規模の大きな城下町を形成していたように思えます。

西尾城見取り図

登城はまずイラストマップ上の二の丸表門である鍮石門(ちゅうじゃくもん)から入ることにしました。この鍮石門は政務が行われていた二の丸御殿の表門として使われていたそうです。お城の表門としての威厳が感じられる立派な構えです。実はこの門はオリジナルではなく平成8年に再建されたものです。

鍮石門

鍮石門をくぐるとかつて二の丸御殿があった「椿聴苑」の広場が現れます。その広場の奥手にある建物が平成7年に京都から移築された「旧近衛邸」です。どうして近衛家の建物がここ西尾にあるのかは定かではありませんが、江戸時代後期に造られたもので、書院と茶室が備わっています。

椿聴苑
旧近衛邸

この場所に近衛邸が移築された理由として、想像するにここ西尾が抹茶の故郷ということで紆余曲折を経て、茶室を備えている近衛邸が選ばれたのではないでしょうか。ここ近衛邸では月曜と祝日の翌日を除いて「抹茶」を楽しめるとのことです。ちなみに「抹茶一服300円(和菓子付)」。

大名時計

近衛邸を後にかつて天守が聳えていた本丸へと進んでいきましょう。本丸につづく道を進むと右手に水を湛えた濠が現れます。そしてかつては渡櫓があったであろう門跡を抜けると数段の階段とその左手に丑寅櫓の石垣が現れます。

内堀
本丸跡へとつづく石段
西尾神社鳥居
本丸井戸址

本丸跡地には西尾神社のお社ともう一つ「御剣八幡宮」のお社が置かれています。特にこの御剣八幡宮は西尾城内の鎮護のために本丸内に置かれたもので、代々の城主の崇敬が深く、源家相伝の名剣「髭切丸」と「白旗一流」を奉納したことから御剣八幡宮と名付けられたそうです。

御剣八幡宮

御剣八幡宮を回り込むように右手に進むと、現在の西尾城址のシンボルともなっている3層の本丸丑寅櫓が見えてきます。ここ西尾城も明治に入り、廃藩置県で天守や隅櫓などほとんどが櫓台とともに壊されてしまいました。しかし丑寅櫓だけは前述の御剣八幡宮の境内だったためか櫓台は壊されずに残されました。そして平成8年に三層の櫓が木造で再建されました。この櫓も入場可能なのですが、たまたま訪れたのが月曜日に重なり、残念ながら登楼することができませんでした。

西尾城址石碑

現在はそれほどの広さではない二の丸、本丸跡ですが、地方の城下町の風情を感じさせてくれる美しい姿の本丸櫓が色付きが遅れている木々の梢越しに絵葉書のような姿を見せています。

本丸丑寅櫓
本丸丑寅櫓

西尾市内にもまだまだ見るべき名刹・古刹がたくさんあります。今回は時間の都合で他の見所を割愛しましたが、次回は西尾市に隣接する旧吉良町と併せゆっくりと見学したいと思います。

三河西尾は大給松平家六万石の城下町~寺社と城址巡り(其の一)~




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三河西尾は大給松平家六万石の城下町~寺社と城址巡り(其の一)~

2011年11月27日 12時28分50秒 | 地方の歴史散策・愛知県西尾市
愛知県の東部に位置する豊橋から名古屋へ拠点を移したことで、俄然行動範囲が広くなり、併せて県内のいたる場所へのアクセスが便利になりました。

そんなことで東京に戻る前に以前から興味を抱いていた三河の城下町「西尾」の歴史散策を楽しんできました。名古屋から名鉄線で新安城経由西尾へ向かいました。所要時間は約45分ほどで静かな雰囲気を漂わす西尾駅に到着します。

西尾城本丸丑寅櫓

駅舎は近代的なビルになっていますが、駅前は予想にたがわず閑散としており、商店街らしき建物がありません。駅舎の一階に観光案内所が置かれているので、散策前に立ち寄りガイドブックや地図を入手することをお勧めします。案内所の方が言うには、見所を一巡するには2時間もあれば十分とのこと。いただいた地図に記された散策ルートに従って歴史散策を始めることにしました。

名鉄西尾線西尾駅

※西尾市の観光案内所ではレンタサイクルを準備していますが、台数が少ないため事前に予約をしたほうがいいでしょう。

まずは西尾の歴史的背景を説明しておきましょう。標題にあるように「大給松平家」が江戸時代にここ西尾を治めていた藩主ですが、この「大給(おぎゅう)」とは何のことなのでしょうか?大給松平家(おぎゅうまつだいらけ)は、松平親忠の次男松平乗元を祖とする松平氏の庶流です。三河国加茂郡大給(愛知県豊田市)を領したことから大給松平家と称しました。松平宗家(徳川氏)に仕え、江戸時代には譜代大名四家のほか、数多くの旗本を出した名家なのです。

六万石の西尾藩となったのは、明和元年(1764)に山形藩から大給松平宗家六代の乗祐が入城してのことです。大給松平氏は代々老中などの幕府の要職を務め、以来、廃藩となるまで五代続きますが、明治維新を迎えると城は天守閣を始め、ほとんどが取り壊されました。

第三代藩主・松平乗寛は松平定信の寛政の改革に参与し、幕政改革に従って藩政改革も行ない、幕府機構の取り入れを行なっています。第四代藩主・松平乗全は井伊直弼の安政の大獄で井伊派として一橋派の処分に務めています。
そして第五代藩主・松平乗秩時代の慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、佐幕派と尊王派による大論争が行なわれて藩が分裂の危機に陥いりましたが、下級武士層による尊王派が大局を占め、尾張藩に従って新政府に与し存続に苦慮しています。明治2年(1869年)の版籍奉還で乗秩は西尾藩知事に任じられましたが、明治4年(1871年)の廃藩置県で藩知事を免官され、西尾藩も廃藩となってしまいました。

こんな歴史を歩んだ西尾市は現在、人口19万人を擁する三河の小京都・抹茶の故郷と呼ばれていますが、個人的な印象としては街全体は活気がなく、商店の数も少なく、僅かにある商店もシャッターが閉じているといった寂しさが漂う街並みが続いています。

それではまずは城下町・西尾の代表的な寺社巡りへご案内いたしましょう。西尾駅前から細い路上を縫いながら歩いて最初に辿り着いたのが、本町北の交差点に位置する「康全寺」です。

康全寺山門と常夜灯

広い通りに面して山門を構えています。その山門の左手脇に「西尾町道路元標」なる立て看板と小さな石柱が置かれています。大正9年に各市町村の起点を示すものとして置かれたものなのですが、西尾町の県道や町道の原点を示す標識で、この場所が西尾の中心だったのです。

山門の左脇に立つ立派な常夜灯はここ本町交差点の真ん中に立っていたものを、道路整備のため康全寺門前に移したそうです。

実は康全寺の「康」は神君家康公の「康」の字をいただき、西尾の守り神となる仏を祀る「大日堂」があります。大日堂の天井には巨大な龍が描かれていますが、この龍にまつわる話が残っています。

康全寺大日堂

ある日のこと、本町が火事になった。このままでは西尾の町はすべて燃え尽きてしまう。そんな時、現れたのが大日堂の巨大な龍だったのです。龍は昔から「水」を司る使いとして崇められてきました。そんな康全寺の大日堂の龍は「水吐き龍」として西尾の町を大火から救ったというお話です。その大日堂の天井を見ると龍の姿らしき絵が残っています。

大日堂天井の水吐き龍

山門を入ると境内の奥に2本の大木を従えたご本堂がどっしりと構えています。康全寺の創設は応永5年(1398)に遡ります。その頃の寺名は吉良山満全寺と号していましたが、天正9年(1581)に神君家康公が当寺に止宿した折、家康公から一字をいただき「康全寺」と改め、天正13年の西尾城改築の際、城内の御剣八幡宮から現在地へ移し、鎮城の禅寺としたと伝えられています。

康全寺ご本堂

康全寺を後に、西尾の町の中でも最も「絵」になる路地へと向かうことにします。康全寺から徒歩数分のところに突然現れる趣きある路地なのですが、いわゆる幾つかの寺院が狭い路地を挟んで並び、寺院の甍、白壁と木製の塀が織り成す光景がまるで鉛筆画を見ているような錯覚に陥ります。

唯法寺と順海町通り
唯法寺
唯法寺

この路地の左側に連なる建物が江戸時代の寛永年間に順海上人によって開基された唯法寺(ゆいほうじ)なのです。そしてこの路地を開いた順海上人に因んで「順海町通り」と呼ばれています。電信柱がない静かな裏路地を歩くと、その昔に迷い込んだような気がします。西尾市には町屋が残る通り、蔵が残る通りなどレトロ感溢れる通りが点在していますが、個人的にはここ順海町通りが最も趣を感じる場所ではないかと思います。

三河西尾は大給松平家六万石の城下町~寺社と城址巡り(其の二)~



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錦秋に輝く根津の社殿~秋色に装う根津神社~

2011年11月25日 18時26分46秒 | 文京区・歴史散策
都内に数ある神社の中でも個人的に最も好きなのが「根津神社」です。東照宮とみまがうほどの壮麗な楼門、唐門そして社殿を配した境内の大銀杏は秋深まるこの時期に見事な黄葉を見せてくれます。

根津神社楼門

秋晴れの今日、下町根津へ足を運んでみました。この時期の都内の紅葉、黄葉はその地域によってちょうど見ごろであったり、まだ少し早いのかな、とまちまちなのですが、ここ根津神社境内は銀杏の葉の黄葉がまさに見ごろといったところです。

朱色の大鳥居に覆いかぶさるように黄金色の葉を纏った銀杏が素晴らしいコントラストを描いて迎えてくれます。

根津神社大鳥居
鳥居と黄葉
楼門
楼門
根津神社境内俯瞰

神橋の向こうにどっしりと構える朱色の楼門が色付いた銀杏の葉と絶妙な絵柄を見せています。比較的広い境内なのですが、どこからカメラを構えても黄金色に色付いた銀杏の木がアングルの中に収まります。

神楽殿
透塀
唐門
社殿前
楼門

そんな錦秋たけなわの根津神社境内の様子をお届けします。





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亀戸天神の菊祭りと秋雲の下でひときわ輝く東京スカイツリー

2011年11月24日 10時52分26秒 | 墨田区・歴史散策
秋晴れの23日(勤労感謝の日)、ちょっと盛りを越えた亀戸天神の菊祭りへと出掛けてみました。毎年恒例の菊祭りも終盤を迎え、展示されている懸崖づくりの菊も心なしかしぼんでしまっているような感じでしたが、それでも境内には色とりどりの菊の花の芳しい香りが漂っています。

東京スカイツリー

今年の大型の展示はやはり「東京スカイツリー」を模したタワー型の懸崖づくりです。境内からは社殿越しに完成間近のスカイツリーが秋の日差しに映えてキラキラと輝いています。

社殿越しのスカイツリー
懸崖つくりの菊
菊のタワー
菊と社殿

亀戸天神の菊祭りが終わると、お江戸も本格的に寒い冬が到来し、次に天神様が賑わうのはお正月の初詣となります。来年の梅祭りそして藤祭りを心待ちにしながら、久しぶりに業平の東京スカイツリーへと向かいます。

すでに第一展望台に据え付けられたいたクレーンが取り払われ、白いレースを纏った貴婦人のように優雅な姿を見せているスカイツリーは来年5月の営業開始に向け工事も最終段階に入っているようです。

スカイツリー

ほぼ完成に近いタワー本体の真下では、付属の商業施設の建設工事が急ピッチで進められています。スカイツリーの工事現場にこれまで何度も訪れていますが、祝日にもかかわらず以前の工事最盛期に比べるとそれほどの人手ではありません。面白いもので建設途上の活気に満ちた現場の息遣いや躍動感は今は鳴りをひそめ、今は静かに完成の時を待っているといった雰囲気がタワー周辺に漂っています。

スカイツリー
直下から見るスカイツリー

そんなタワーの表情をカメラに収めました。秋雲を背景に白磁のような上品な白さが秋の日差しに映えています。

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めったに見られない!浅草浅草寺の寺宝「大絵馬」と伝法院庭園の拝観

2011年11月22日 16時55分46秒 | 台東区・歴史散策
お江戸下町の最大の行楽地である浅草には個人的には数え切れないほど訪れています。名古屋から久しぶりにお江戸に戻り、大好きな浅草へふらりと出掛けてみました。

伝法院大書院

相変わらずの賑わいを見せる仲見世通りには、震災後激減した外国人観光客(特に中国人)がいくらか戻ってきたような気がします。そんな仲見世通りを抜けて奥山地区へ足を向けると、なにやら特別なイベントが開催されているような雰囲気が漂っています。近づいてみると、浅草寺に奉納された歴史的な大絵馬の特別展示と、なんと普段では絶対に入ることができない伝法院の庭園が特別に公開されているではありませんか!

大絵馬寺宝展入口

この特別公開は本年12月5日(月)までで、たまたま浅草にやってきた甲斐があったというものです。拝観料はわずか300円。一度は見てみたかった伝法院の僧坊と庭園の見学チャンスを見逃してなるものか、とまずは特別展示館で開催されている「大絵馬寺宝展」へ入場しました。

大絵馬と寺宝の展示スペースでは写真撮影が禁じられていましたので画像はありません。展示されている絵馬は私たちが願掛けのために寺社に奉納する小さなものではなく、「巨大」なと表現したほうがいい位の大きなもので、武者絵、伝説絵、歌舞伎絵など江戸時代の著名な絵師が描いた力作が多数展示されています。中でも、浅草寺を祈願寺として庇護した徳川将軍家の二代将軍秀忠公と三代将軍家光公が寄進した金蒔絵仕立ての神馬の絵馬はさすが将軍家といわしめる精巧な造りで一見の価値があります。これまで知らなかった浅草寺の寺宝と間近に対面できたことに感動しながら、伝法院の庭園へと向かうことにします。

五重塔とスカイツリー
五重塔とスカイツリー

特別展示館から出て参観順路に従って進んでいきます。この順路を進んですぐのところから見える光景はここからしか見られない浅草寺五重塔とスカイツリーのコラボレーションです。典型的な日本建築の五重塔と現代高層建築の代表格のスカイツリーが並んでアングルに収まっています。

梢越しに見る五重塔

順路をさらに進むと、左手に浅草寺本坊に属する「大書院」建物が現れます。なだらかな屋根の傾斜と長い廊下、畳の間と廊下を隔てる真っ白い障子を持つ大書院の建物が庭園の池の水に映えています。

大書院の廊下と障子
大書院の掛け軸

伝法院の庭園は寛永年間に幕府の作事奉行を勤めた、あの築庭の名手である小堀遠州の手によるものと伝えられています。池を囲むように回遊できる庭園は、賑やかな浅草のど真ん中にあることを忘れさせるような豊かな緑と閑静な佇まいを見せています。

庭園と大書院
庭園
庭園
庭園

池を回りこむと五重塔とスカイツリーを左右に従える大書院の素晴らしい景色を撮ることができました。こんなアングルは伝法院のお庭に入らなければ絶対に見ることはできません。

五重塔とスカイツリー
大書院と五重塔

あらためて伝法院が浅草寺の本坊として特別な存在であり、そのお庭も限られたものしか入ることができなかった秘園であったことを窺い知ることができました。

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徳川御三家筆頭・尾張公の居城「名古屋城」見聞録

2011年11月21日 11時35分59秒 | 地方の歴史散策・名古屋城
お江戸の街には尾張徳川家に所縁のある場所が幾つか残っています。尾張家の上屋敷があった場所は現在の防衛省がある市ヶ谷の高台。それに中屋敷があった場所は四谷の紀尾井町という地名に紀伊、尾張、井伊の頭文字をとって残っています。そんなことで尾張徳川家は江戸っ子である私にとって身近な存在であることで、今回は尾張徳川家の居城である名古屋城をゆっくりと見学することにしました。

名古屋城天守閣

神君家康公が普請した城の中でも江戸城に次ぐ名城として名高い名古屋城は濃尾平野を見下ろす高台に堂々とした姿で聳え立っています。惜しむべくは、オリジナルが先の大戦で焼失してしまいましたが、再建された天守閣にはかつての豪壮華麗な姿が蘇っています。

名古屋城石柱
名古屋城正門

登城ルートは現在の正門から入城することとしました。この門も戦災で消失したため再建されたものです。正門脇のチケット売り場で入場券(大人500円)を購入し入城。正門の櫓下に尾張初代藩主である義直公と正室の菊人形が展示されていました。

義直公と正室の菊人形

正門をくぐるとそこはかつての西の丸御殿があった場所。ここから天守閣の直下へと続く内濠沿いの小道を進みます。歩を進めていくにつれて五層の天守が覆いかぶさるように間近に迫ってきます。澄み渡る秋空の下、天守がくっきりと浮かび上がります。

天守遠望
天守閣

天守内部の見学は後回しにして、まずは期間限定で公開されている「西北隅櫓(すみやぐら)」へと向かいます。この西北隅櫓へ向かう途中に、現在復元工事が進められている「本丸御殿」の木材加工場があります。大量の木材をここで加工しているのですが、御殿の梁を造っている様子を見学通路から見ることができました。この工事は2009年に始まり、全ての建物が完成するのは2018年を予定しています。尚、工事は第1期、第2期、第3期と行程が区切られ、その期毎に完成部分を公開する予定です。「平成の大普請」をうたい文句に大復元工事が着々とすすんでいます。完成の暁には是非訪れて見たいものです。

本丸御殿完成画

今回、幸運にも特別公開されている「西北隅櫓」は名古屋城に残る3つの櫓の一つです。3つ共に重要文化財に指定されています。「西北隅櫓」の創建は天守閣が完成する以前の元和5年(1619)のことで、建設には他の建物の古材を転用しています。

西北隅櫓

外観から小天守のような美しい姿をしています。築造当時の原形を今に伝える建物で現在の名古屋城の建物の中では最古の建造物です。屋根が三層、内部が三階の櫓です。内部は予想していたよりも広く、防戦や食料、武器の貯蔵施設として城を守る武士たちが大勢待機するのに十分な広さを持っています。

櫓1階
天井の梁
櫓2階
櫓3階

板張りの床と太い柱そして天井を這う太い梁が長い歴史を感じさせてくれます。最上階からは水を湛える内濠と梢越しに天守閣の美しい姿を眺めることができました。これまで城郭に備えられた隅櫓に登ったことがなかったのですが、内部の造は完全に戦闘用で石落しを間近で見ることができました。

櫓3階から眺める天守

この西北隅櫓がある一帯を「御深井丸」と呼んでいます。この一帯にもう一つ期間限定で特別公開されている建造物があります。それが「乃木倉庫」です。明らかに城郭様式の建造物ではないことがわかります。

乃木倉庫
乃木倉庫正面

実はこの建物は明治初期に旧陸軍省の弾薬庫として建てられたものです。名前の由来から当時、陸軍少佐であった「乃木希典」によって建てられたと言われています。白壁のどっしりとした建物で、いかにも頑丈そうな佇まいを見せています。内部はガランとした感じで何ら飾り気がありません。入り口の扉はなんと三重の鋼鉄製です。

乃木倉庫内部
入口の3重の扉

レンガ造りのこの倉庫は先の大戦の空襲にも耐え、焼失した本丸御殿の襖絵などを避難させておいたため、難を逃れ現在も残っています。新しい本丸御殿が完成したら国宝級の襖絵が今一度御殿を飾ることを期待します。

今回の名古屋城訪問では幸運が重なるもので、さらに特別公開の施設に出くわしました。それは同じく御深井丸の端にある「茶席」です。

茶席

茶席は「書院」「猿面望嶽茶席」「織部堂」「又隠茶席」の四つの庵から構成され、それぞれが趣深い木造建築で侘び寂びの極致といった風情を醸し出しています。各々の庵の名前には由来があり、特に猿面望嶽茶席には信長公の居城であった清須城の古材が柱に使われているとのこと。この柱の節が猿の顔に似ていたことから、秀吉に「汝の顔に良く似ていると」戯れたと言われたことから、このように名付けられたと言います。

茶席への入口
書院
猿面望嶽茶席
猿面望嶽茶席内部
織部堂
織部堂内部

さていよいよ天守閣ですが、数年前に一度ここ名古屋城に訪れたことがあります。その際に天守に登ったのですが内部は各階に展示スペースがあり、さまざまな展示物が置かれていました。確かに見応えはあるのですが今回は割愛させていただきます。

天守下の不明門
天守真下から

天守閣の真下にあたる場所は現在本丸御殿の復元工事のため大きな建屋が占拠しています。建屋内部の見学は月、水、金、土、日、祝日に行われています。今回は残念なことに曜日が合わず見学ができませんでした。

本丸御殿工事建屋

後ろ髪を引かれる思いで、清正石と呼ばれている巨石を見ながら、表ニ之門を抜けて二の丸庭園へと向かいました。その途中に清正公の石曳きの像が立っています。この像が立つ辺りから東南隅櫓(重要文化財)の美しい姿を見ることができます。

東二之門へとつづく石垣
巨大な清正石
東南隅櫓
清正公の石曳きの像

歴史を振り返ると、関ヶ原の戦いで勝利した家康公が慶長14年(1609)に豊臣方への防備として名古屋城の築城を決定し、翌慶長15年から工事が始まりました。ほぼ天下を手中に収めた家康公は豊臣を追い詰めるための策を着々と進めながら、慶長17年に名古屋城を完成させます。そして、尾張藩初代藩主として家康公の九男である義直公が名古屋城に入ります。そして大阪冬の陣、夏の陣を経て徳川の世を盤石なものとし、それ以来、名古屋城は徳川御三家筆頭の尾張公の居城として栄えたのです。



江戸時代を通じて尾張藩からは将軍を輩出することがなかったのですが、将軍家の居城である江戸城に勝るとも劣らない壮麗な城郭と碁盤の目のように整備された美しい城下町がここ名古屋には広がっていたのです。それは御三家筆頭の誇りと名誉がなせるわざだったのではないでしょうか。

豪華絢爛・名古屋城本丸御殿
ただ今、建設中!名古屋城本丸御殿の裏側




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尾張名古屋に鎮座する東照宮~趣を異にする社殿~

2011年11月21日 09時51分06秒 | 地方の歴史散策・名古屋市内
神君家康公生誕の地である三河の地で参拝した東照宮は岡崎と鳳来寺山の二社ですが、それぞれに東照宮特有の権現様式の中に絢爛豪華な彩色を施したものでした。

名古屋東照宮本社殿

三河の地から尾張名古屋へと移動し、まず真っ先に訪れて見たい場所は名古屋のど真ん中に鎮座する東照宮でした。というのも名古屋東照宮は他の東照宮と比較して、その建築様式が大きく異なっているという特徴があるからなのです。そして何よりも徳川御三家筆頭の尾張公のお膝元に鎮座する東照宮には是非とも参拝しなければという思いが強かったからなのです。

名古屋東照宮が鎮座するする場所は、名古屋城の外堀に面した丸の内と呼ばれる行政関係の庁舎が並ぶ一画です。東京でいえばそれこそ外堀通りに面して建つビルの谷間に位置しているような感じです。

東照宮鳥居

そもそも名古屋東照宮は名古屋城内の三の丸に初代尾張藩主・義直公によって元和5年(1619)に創建され、それはそれは絢爛豪華な姿の社殿が置かれていたのですが、明治9年にかつての藩校「明倫堂」があった現在地に移されたと言います。

しかし昭和20年(1945) 5月14日の空襲により、義直以来の本殿、主要建造物を焼失したため、昭和29年(1954) 建中寺より義直の正室春姫(高原院)の御霊屋を移築して本社殿とした経緯があります。このため前述のように、他の東照宮の建築様式と異なる姿になっているのです。

かつての壮麗さは失われているにしても、それなりの規模を持っているのではと思いつつ鳥居をくぐると、境内は思いのほかこじんまりとした佇まいを見せています。江戸時代には藩校「明倫堂」があったといいますが、その面影はまったく残っていません。鳥居をくぐると左手奥に社殿前の唐門が現れます。

東照宮境内
唐門

一見するだけでこれまで見てきた東照宮とは趣を異にした門構えです。まったく彩色されていない門の向こうに、これまた東照宮の常識を覆すような黒々とした装いの本社殿がどっしりとした姿で鎮座しています。

東照宮本社殿

その外観から確かに霊廟の御霊屋を想起させるような造りです。東照宮といえば典型的な権現造りの社殿が特徴なのですが、終戦後のどさくさの中で新たに社殿を造ることができないという理由だったのか、借り物の社殿といった感が否めません。

透塀と燈籠

さらにこれまで見てきた東照宮には夥しい数の石燈籠が整然と並んでいるのですが、ここ名古屋東照宮には僅かな数しかありません。いったいどこへ行ってしまったのでしょうか?

透塀と燈籠

御神体はもちろん神君家康公なのですが、実は名古屋東照宮は江戸時代から名古屋を代表するお祭りの代表格だったようです。いわゆるお江戸の天下祭り(山王権現社と神田明神)と同じように、藩公が認めた格式のある「祭」で、おそらく山車が城内に繰り出すことを許されていたのではないでしょうか。

そんなかつての栄華に思いを巡らせながら、金の鯱を天守に仰ぐ御城へと向かうことにしました。

日本三大東照宮の一つ「鳳来山東照宮」参拝記(其の一)~鳳来寺参道散策~
日本三大東照宮の一つ「鳳来山東照宮」参拝記(其の二)~歴史を刻む天空への石段~
日本三大東照宮の一つ「鳳来山東照宮」参拝記(其の三)~神君家康公が座する天空の社殿~
江戸の南西裏鬼門・芝増上寺の東照宮
名刹滝山寺と神君家康公を祀る瀧山東照宮の佇まい
真夏の小江戸・川越の歴史散策(其の弐)~神君家康公を祀る仙波東照宮~
神君・家康公を祀る「久能山東照宮」参拝記
下総船橋の日本一小さな東照宮
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日本三大東照宮の一つ「鳳来山東照宮」参拝記(其の三)~神君家康公が座する天空の社殿~

2011年11月17日 14時27分20秒 | 地方の歴史散策・愛知県鳳来山東照宮
鳳来寺ご本堂の前の休憩所で1425段の石段完全踏破の疲れを癒した後、いよいよ尊敬する家康公が祀られている東照宮へと向かうことにします。

東照宮拝殿

鳳来寺ご本堂の右手から東照宮へとつづく平坦な参道がうっそうとした杉木立の中に延びています。距離として約200mほど歩くと石灯籠が見えてきます。もう社殿に着くのかな、と思いきや、東照宮は簡単に姿を現してくれません。予想通り、また石段が姿を現します。それほどの段数ではないのですが、疲れ切った体にはこたえます。石段の下から仰ぎ見ると、「よくぞここまで来た」と言わんばかりに、朱色の鳥居が出迎えています。

東照宮への参道
東照宮一の鳥居

おもむろに石段を登ると、再び平坦な場所に出てきます。やっと拝殿に対面できるものと思っていたのですが、東照宮はさらに試練を与えてくれます。「家康様。もう勘弁してください。」とつい口走ってしまったのですが、これが本当に最後の石段と思われるような石造りの鳥居が段上に姿を見せています。

東照宮石柱
二の鳥居へ続く石段
二の鳥居

はやる気持ちを抑えながら、一歩づつ石段を踏みしめ天空の社殿へと進んでいきます。

さて今一度、鳳来山東照宮の縁起を簡単に紹介しておきましょう。
時は三代将軍家光公の御世、慶安元年4月、家公光が日光の東照宮に参詣した時、東照宮縁起に「家康の父君広忠公が、良い世継ぎを得たいと思われ、北の方(於大(おだい)の方)とともに鳳来寺に参篭し祈願したところ、その効あって家康が授かった」と記されてあるのに感銘をうたれ、鳳来山東照宮の建立を発願され、慶安4年4代将軍家綱の時代に完成しました。建立後は、神仏一体の制のもとに祭事その他一切を鳳来寺が行ってきましたが、明治5年の神仏分離令により独立し現在に至っています。

日光・久能山とともに、日本三大東照宮と称されています。昭和28年に、本殿・拝殿・幣殿・中門・左右透塀・水屋が国の重要文化財に指定されています。

最後の石段を登りつめると、左手に社務所、右手に水屋そして正面に極彩色に彩られた拝殿で配置されています。うっそうとした杉林に囲まれた境内は吹く風になびく杉の枝葉のさざめきだけが耳に届き、家康公を神として崇めるに相応しい環境なのです。

水屋
拝殿

拝殿の両脇には比較的新しい一対の狛犬が置かれ、どういう訳かその狛犬の後ろにのっぺりとした、まるでオットセイのような形の石が隠れていいます。この石について社務所の方に尋ねると、戦時中に若い兵士が家康公の武運にあやかる為にここ鳳来山東照宮に訪れ、狛犬の表面を削り取りお守りとして戦地に赴いたとのこと。そのため、旧狛犬は角がとれのっぺりとしてしまったのです。

狛犬
旧狛犬

拝殿はこじんまりとした佇まいで派手さはありませんが、それでも極彩色の彩りは目を見張るものがあります。拝殿の裏側へと回り込むと、立派な石灯篭が整然と並び、拝殿、幣殿と一直線に並ぶように中門が置かれ、その奥に家康公が祀られている本殿が置かれています。中門を中心にして透塀がまるで羽のように左右均等に延びています。

拝殿向背部分
拝殿向背部分
石灯篭
中門
中門向背部分
透塀
本殿

本殿には近づけないため、遠目でその姿を鑑賞しつつ、中門にて参拝を済ませました。尚、ここ鳳来山の東照宮本殿には神君家康公の像がご神体として祀られているそうです。この像はかつて江戸城内の紅葉山にあった家康公霊廟に祀られていたものをここ鳳来山に遷座したそうです。

それにしてもよくもこんな山奥に絢爛豪華な社殿を造ったものだ、というのが私の印象です。将軍家の威信というべきなのか、それだけでは説明がつかないほどのエネルギーを感じながら下山の途へついた次第です。

石段

下山は再び1425段の石段を下ることにしたのですが、登りよりもはるかに足腰に負担がかかる上に、手すりのない傾斜角40度という石段は危険きわまりないものでした。ただ鳳来山東照宮への参拝は1425段の石段を登り降りすることに価値があるものと信じています。

日本三大東照宮の一つ「鳳来山東照宮」参拝記(其の一)~鳳来寺参道散策~
日本三大東照宮の一つ「鳳来山東照宮」参拝記(其の二)~歴史を刻む天空への石段~



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日本三大東照宮の一つ「鳳来山東照宮」参拝記(其の二)~歴史を刻む天空への石段~

2011年11月09日 20時15分05秒 | 地方の歴史散策・愛知県鳳来山東照宮
長閑な雰囲気を漂わす田園風景を眺めながら鳳来寺参道へ続く石段入口に着いたのは、参道入口から歩き始めておよそ20分の時間を要していました。

いざ神君家康公が座する天空の社殿へ、と気持ちを引き締め1425段の第一歩を踏み出しました。それまでほぼ平坦な道のりであった参道から石段は急激な角度でうっそうとした杉林の中へと消えていきます。

杉木立の中へ延びる石段

石段という表現が正しいのかわかりませんが、実は整った石が積まれたものではなく、小さく切り出した石を不揃いに並べたものなので、歩行のバランスをとるために常に下を見ながら歩かなければならない状態が続くのです。このため周囲の景色を見ながら歩くことができないもどかしさを感じてしまうのです。

石段

参道を歩いている間は快晴の空の下で、晩秋の陽射しに少し汗ばむほどだったのですが、うっそうとした杉木立に陽射しは遮られ、前夜の雨で湿り気のある空気が森全体を冷やし、肌寒さを感じるほどです。

しかしこの肌寒さが滴り落ちる汗に変わるまでにさほどの時間を要さないほど、石段の登りは過酷さを増してきます。石段の最初の一歩から山頂の鳳来寺までは1時間ほど要するとのことなのですが、歩き始めて5分ほどで息が絶え絶えになるくらいの聞きしに勝る石段の登りなのです。かつて芭蕉が当山に訪れた時、持病が突然悪化して途中で引き返したという話はまんざら嘘とは思えないほどの石段です。

石段

そんな逸話を頭に思い浮かべながら、森閑とした杉木立の中をもくもくと歩きつづけるのですが、ふと耳を澄ますと石段に沿って流れる清流のせせらぎが聞こえてきます。なんと幽玄な世界なのだろうか! 杉木立の隙間から射し込む木漏れ日が一筋の光となって照らし出す世界はまるで浄土へのプロローグを演出しているような錯覚に陥ります。

石段と山門

石段を包む周囲の自然環境は素晴らしいものなのですが、石段を懸命に登る我が身はそれころ我を忘れて天空を目指します。うっそうとした杉木立の向こうになにやら建物らしきものが見えてきます。見上げるような石段を踏みしめながら、歩を進めていくとそれが山門であることがわかりました。木々の間から射し込む陽射しの中に浮かび上がるように佇む山門は神々しさを感じさせてくれます。

山門

ちょうど一休みを考えていた頃に現れた山門(仁王門)は慶安4年(1651)に鳳来山東照宮造営を命じた三代将軍家光公によって建てられたものです。薄暗い杉木立の中に鮮やかな朱の仁王門が彩りを添えています。仁王門の左右にはそれぞれに仁王像が祀られています。尚、この仁王門は国の重要文化財で、門に掲げられている扁額の文字は奈良時代の聖武天皇の皇后様である光明皇后の宸筆であると伝えられています。実は芭蕉はこの仁王門までやってきたのですが、持病の悪化のためここから引き返したのです。

仁王像(右)
仁王像(左)
振り返って見た仁王門
石段に架けられた橋

仁王像から力を授けられ、気を取り直して延々と続く石段の旅を続けることにします。仁王像から100mほどの距離(全行程の1/5)にあるのが「傘すぎ」とよばれている杉の巨木です。石段の脇にそそり立つひときわ大きな杉の木なのですが、なんと30m以上の高さまで枝を持っていないのです。推定樹齢800年、樹高約60m、目通り幹周は7.5mと周囲の杉を圧倒する大きさです。国の指定天然記念物で新日本名木百選に選ばれているそうです。

傘すぎの説明書き

さあ頑張って天空を目指します。石段を登っていくと道の脇に少し平坦な場所が現れることがあります。そこには例外なくかつてそこに建っていた僧坊又は堂宇の名前が記された石柱が置かれています。最も僧坊の数が増えた時期は四代将軍家綱公の頃で、石段脇に21もの僧坊が山頂に至るまで連なっていたのです。現在はそのほとんどが焼失して、わずかに2院が残るのみです。21もの僧坊が連なる鳳来寺石段は「鳳来寺道」と呼ばれ、江戸時代の最盛期には数多くの参詣者で賑わっていたのです。

松高院の山門

その一つである松高院の山門が石段脇にひっそりとした趣で佇んでいます。この松高院は現在無住のお寺です。さらに石段はつづきます。山頂に近づくにつれ石段の幅が狭く、勾配もかなり急になってきます。ますます足元を注意深く見ながら石段を登ることになるので、時間もかかります。

振り返って見た松高院

その急な勾配の石段を見上げるともう一つ残っている僧坊である「医王院」のお堂が見えてきます。お堂だけが一つ残る医王院の掃除をしている人がいました。鳳来寺まではあとどれぐらいかを尋ねると、「もうすぐですよ」とのこと。

医王院へつづく石段
医王院のお堂

やっと先が見えてきたことで、最後の力を振り絞って石段を登り始めたのですが、このあたりからの石段の幅はさらに狭くなり、勾配はやたらキツク、傾斜角度が40度くらいあるとのことです。こんな状態の鳳来山の石段には「手すり」というものがまったくありません。

最後の石段?

ほんとうに最後の力を振り絞るように石段を登りきると、やっと平坦な場所に到着です。しかし鳳来寺のご本堂が見えません。平坦な道を誘われるままに進むと、前方にまた石段が現れます。心が折れるとはこのことで、すでにエネルギーは使い果たしています。それでもこの石段を登らなければ、目的を達することができないという気持ちは残っていました。

平坦な道

これが最後の石段と思いながらゆっくりと登っていきます。「着いた!」「やっと着いた!」
息も絶え絶え。腰、股間、太もも、膝、ふくらはぎ、すべてが悲鳴をあげています。

鳳来寺本堂
鳳来寺休憩所

ご本堂への参拝もそっちのけで、休憩所へ直行。崩れ落ちるようにベンチに腰を掛け、放心状態ままご本堂を眺めていました。

鳳来寺境内からの絶景

鳳来寺境内で疲れを癒し、いよいよ最終目的地である東照宮へと向かいます。

日本三大東照宮の一つ「鳳来山東照宮」参拝記(其の一)~鳳来寺参道散策~
日本三大東照宮の一つ「鳳来山東照宮」参拝記(其の三)~神君家康公が座する天空の社殿~



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日本三大東照宮の一つ「鳳来山東照宮」参拝記(其の一)~鳳来寺参道散策~

2011年11月08日 12時23分32秒 | 地方の歴史散策・愛知県鳳来山東照宮
夜来の雨があがった今日11月7日(月)は雲一つない快晴。またまた豊橋に滞在しています。

日本三大東照宮の一つとして名高い鳳来山東照宮を目指すことにしました。豊橋からはJR飯田線を利用して16駅目の本長篠下車が最もアクセスしやすいとのこと。初めて乗る飯田線はローカル線らしく2両編成の向かい合わせの座席配置。それほど混まないのではと思いきや、観光客らしき個人のグループで全席満席。たまたま同席となったご夫妻は大阪から天竜へ温泉旅行へ向かうとのこと。大阪の方特有の気さくで話好きなご夫妻で、旅行談義に花が咲き、一人旅の私を飽きさせない話で車窓の景色を眺める暇もなくあっという間にお別れの時間となってしまいました。

鳳来山東照宮拝殿

本長篠駅は山あいの静かな町に佇む田舎の小さな駅です。事前の調べで鳳来寺山行のバスが発着するターミナルが駅のそばにあるというので急いで向かったのですが、わずかの違いで乗りそびれてしまいました。仕方なくタクシーを拾い、鳳来寺山下まで急ぎ向かうことにしました。タクシーで10分程度の距離に鳳来寺山への参道入口(三ノ門)に到着です。

本長篠駅ホーム
JR飯田線車両
本長篠駅舎

参道入口には五平餅を売る茶店や料理店、そして参拝客用の旅籠が並んでいます。そんな参道の景色の中に鳳来寺へと延びる石段までの距離を記した道標が置かれています。参道入口から石段までの距離は1200mと記されています。

参道入口「三ノ門柱」
参道入り口
参道入り口の道しるべ

鳳来寺は鳳来寺山の山頂に開基された寺院ですが、この寺の更に奥へ進んだ高台に神君家康公を祀る東照宮の社殿が置かれています。この鳳来寺本堂までなんと1425段の石段を登らなければなりません。この石段の数は久能山東照宮の1159段をはるかに凌いでいることを考えると、完全踏破にはかなりの覚悟が必要で、気後れを感じながら参道を進むことになります。

鳳来寺山の道しるべ

ところで何故鳳来山に東照宮が勧請されたのかという理由について簡単にご紹介しましょう。

「東照(家康公)神君のお父君であられる贈大納言廣忠卿が子どものないことを憂いて、お母君であられる北の方傳通院と御一緒に鳳来寺峯薬師へ御参籠され御祈願をなされたら、その証があって、ある夜、北の方傳通院殿(於代の方)は、『東 の方より老翁が来て、金珠を与えられる』という夢を見られました。それから間もなく北の方傳通院殿が身ごもられ、12ケ月過ぎ、天文11年壬寅年(1542)12月26日に御出産遊ばされたのが東照神君でした。」(鳳来山東照宮ホームページより)

この縁起を家光公は日光東照宮で見ることで、鳳来寺の伽藍を造営し、併せて東照宮を鳳来山に勧請し現代に至っています。こんな霊験新たかな鳳来寺ですが、江戸時代には幕府の庇護のもと隆盛を極めたのですが、明治に入り神仏分離により寺領が縮小されたことで困窮、しかも大正時代には本堂が焼失したことで廃寺寸前まで追い込まれてしまいます。かつての寺勢は失われ伽藍、僧坊はことごとく失われてしまいましたが、昭和49年に本堂が再建され、かろうじて面目を保っています。

鳳来寺本堂

それでは石段に至るまでの参道をゆっくりと進んで行きましょう。参道を歩き始めると鳳来寺山から湧き出す清流の心地よいせせらぎの音が聞こえてきます。少し目線を上に向けるとこれから向かう鳳来寺山(684m)の山並みが目に飛び込んできます。この参道の路傍には適度な間隔を置いて十二支を順番に刻んだ石造りの道しるべが置かれています。なにやら巡礼の道を旅する気分になってきます。

参道から眺める鳳来山

参道入り口から数分歩いた場所に立つのが「二ノ門」です。この参道には全部で3つの門が置かれ、それぞれにこのような門柱が立っています。

二ノ門

参道に沿って時折、参詣客が休憩を兼ねて小腹を満たすような茶店が現れたり、小さな弁天堂が道の脇に鎮座していたり、古い造りの民家、はたまた神君家康公や芭蕉そして若山牧水の像が置かれ、その由緒を見ながら散策でき飽きることがありません。

参道の景色
参道の景色
家康公の像
古い民家

芭蕉は47歳の時にここ鳳来寺に立ち寄っています。芭蕉一行は鳳来寺へと石段を登り始めるのですが、仁王門のあたりで芭蕉の持病が激しく痛みだし、止むなく下山しています。そして麓の家根屋という宿屋に無理やり泊めてもらうのですが、この日は鳳来寺の秋祭りでどの宿屋も部屋は満員状態。与えられた部屋は風が吹き抜け、布団もお粗末だったのです。こんな様子を詠ったのが「こがらしに岩吹きとがる杉間かな夜着ひとつ祈り出して旅寝かな」。

一ノ門
芭蕉像
若山牧水像

また参道を歩いていると「硯」と書かれた看板を軒先に出している店が2軒ほど現れます。なぜ「硯」を売る店があるのかというと、実はこの地では1300年も前から鳳来硯なるものが作られているというのです。このあたりで採掘される金鳳石、煙巌石、鳳鳴石などを原料として利用されています。

硯店
参道の景色

参道入り口から15分ほどでいよいよ鳳来寺そして東照宮へと通じる1425段の「最初の一歩」が見えてきます。石段手前には旅の安全を見守ってくれるように石仏が並んでいます。そして山頂へとのびる石段がうっそうとした杉木立の中へとのびています。

鳳来寺石柱
鳳来寺看板
石仏
石段の始まり

日本三大東照宮の一つ「鳳来山東照宮」参拝記(其の二)~歴史を刻む天空への石段~
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