統監道(とうかんみち)を辿ると、大磯中学校前信号の先にある横断歩道橋の袂にでてきます。そのまま国道一号線に沿って右側を進んでいいのですが、大磯名物の松並木の風情を間近に感じるためには左側を進むべきでしょう。というのは旧東海道の本来の道筋は西へ向かう下り車線側なのです。
若干の足の疲れを感じながら歩道橋の階段を上り橋上にでると、下り車線側に沿って見事な松並木が目に飛び込んできます。
橋上からは松並木が延々と続いているようにみえるのですが、およそ300mに渡って街道らしさを味わえる道筋のようです。
歩道橋上から見る松並木
松並木が始まる場所の左側には大磯中学校の長い塀が続いています。この大磯中学校の敷地はかつて第3代・9代の内閣総理大臣を務めた山県有朋の別荘「小淘庵 ( おゆるぎあん )」があった場所です。
中学校の塀が始まる辺りからこれまでの街道巡りの中で初めて見るような大きな幹回りの松ノ木が現れます。樹齢300年以上と言われる大木で、幹の直径がなんと1m超えという古木です。
街道の松並木
街道の松
街道の松
その昔、街道を旅する人たちは相模湾の潮風を袂に、キラキラと輝く海原と遥か彼方に見える島影を眺めながら小田原への旅路を急いでいたと思うと感慨深いものがあります。
そして海風で幹が傾き、さらに幹がグニュ~と曲がった「そなれの松(磯馴松)」が1本立っています。
そなれの松(磯馴松)
この「そなれの松」は江戸時代の文久2年(1862)に市村座で初演された『白浪五人男』の一人である南郷力丸(なんごうりきまる)の「渡り科白」の中で鎌倉から大磯に至る湘南の地名の一つとして出てきます。
その一説は「さてどんじりに控えしは、潮風荒き小ゆるぎの磯馴(そなれ)の松の曲りなり……」です。
さらにこの科白の中の「小ゆるぎ」の「ゆるぎ」とは波の動揺を表す言葉ですが、かつて現在の大磯町と二宮町は相模国余綾郡(ゆるぎぐん)と呼ばれていました。そして今でも大磯から国府津あたりまでの海浜一帯を「こゆるぎの浜」と呼んでいます。
「こゆるぎ」とは何とも響きのいい名前です。広々とした相模湾のゆったりとした波間と波頭を照らす陽射しがキラキラと揺れるさまは「こゆるぎ」の名にふさわしいものです。
大磯中学校が途切れると次のブロックには古河電工の大磯荘の入口が現れます。ここはかつて旧陸奥宗光邸と旧大隈重信邸を併せた敷地で、二人の邸宅を旧古河財閥の古河市兵衛が買い取ったものです。
古河電工の大磯荘の長い塀沿いの松並木を歩くと、次に大磯プレイスと呼ばれるリゾートマンションが現れます。ここは旧佐賀藩主である鍋島直大(なおひろ)の邸宅があった場所です。
滄浪閣跡
そして大磯プレイスを過ぎると左手に大きく開けたスペースが現れ、今は何も使われていない建物がど~んと構えています。
ここが大磯で最も有名な邸宅である伊藤博文公の滄浪閣があった場所です。歩道に面して「滄浪閣跡」の石柱が置かれていますが、かつての建物は今はなく、この場所は昭和26年(1951)に西武鉄道に売却され、1954年には大磯プリンスホテルの別館となり、2007年まで西武グループとして営業を続けてきました。その後、当施設は売却されることが決定され、大手建設会社が交渉権を得ることになりました。
しかし歴史的建造物として大磯町が25億円で買収計画を立てましたが、建設会社の提示価格と大きな開きがあることから大磯町は買収を断念しています。今後は新たな所有者に保存を要望することとなりますが、荒れ果てた滄浪閣は何も語らず寂しそうに佇んでいます。
旧滄浪閣の次のブロックにはなにやら由緒ありそうではあるのですが、誰にも使われず廃墟のような雰囲気を漂わす洋館が一つ建っています。この場所がかつて西園寺公望の別邸があった場所です。
さきほどの旧滄浪閣と旧西園寺公望の別邸の境目に細い路地が海岸へ向かって180mほど伸びています。舗装もされない海岸へと延びる道なのですが、路地からは滄浪閣と西園寺公望邸の荒れ果てた敷地を垣間見ることができます。
路地を進むうちに、ふいに前方が開け美しい相模湾が目の前に現れます。これまでの道中で初めて出会う海原です。実は路地を進むと現れるのが「大磯こゆるぎ緑地」と呼ばれる海岸を見下ろす高台の遊歩道だったのです。
緑地といっても松の木がたくさん植えられているわけではないのですが、晴れているときはなだらかに湾曲する湘南の浜と沖合には大島をはじめ伊豆七島の島影、そして右へ目を移すと伊豆半島のシルエットがまるで絵葉書のような美しさで眼前に展開します。
大磯こゆるぎ緑地
わずか120mほどの遊歩道ですが、後ろ髪を引かれる思いで本来の旧街道へと戻ることにしました。
旧街道に戻るとあの美しい松並木も途切れてしまいました。
其の四へつづく
私本東海道五十三次道中記~大磯宿から二宮そして国府津~(其の一)
私本東海道五十三次道中記~大磯宿から二宮そして国府津~(其の二)
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若干の足の疲れを感じながら歩道橋の階段を上り橋上にでると、下り車線側に沿って見事な松並木が目に飛び込んできます。
橋上からは松並木が延々と続いているようにみえるのですが、およそ300mに渡って街道らしさを味わえる道筋のようです。
歩道橋上から見る松並木
松並木が始まる場所の左側には大磯中学校の長い塀が続いています。この大磯中学校の敷地はかつて第3代・9代の内閣総理大臣を務めた山県有朋の別荘「小淘庵 ( おゆるぎあん )」があった場所です。
中学校の塀が始まる辺りからこれまでの街道巡りの中で初めて見るような大きな幹回りの松ノ木が現れます。樹齢300年以上と言われる大木で、幹の直径がなんと1m超えという古木です。
街道の松並木
街道の松
街道の松
その昔、街道を旅する人たちは相模湾の潮風を袂に、キラキラと輝く海原と遥か彼方に見える島影を眺めながら小田原への旅路を急いでいたと思うと感慨深いものがあります。
そして海風で幹が傾き、さらに幹がグニュ~と曲がった「そなれの松(磯馴松)」が1本立っています。
そなれの松(磯馴松)
この「そなれの松」は江戸時代の文久2年(1862)に市村座で初演された『白浪五人男』の一人である南郷力丸(なんごうりきまる)の「渡り科白」の中で鎌倉から大磯に至る湘南の地名の一つとして出てきます。
その一説は「さてどんじりに控えしは、潮風荒き小ゆるぎの磯馴(そなれ)の松の曲りなり……」です。
さらにこの科白の中の「小ゆるぎ」の「ゆるぎ」とは波の動揺を表す言葉ですが、かつて現在の大磯町と二宮町は相模国余綾郡(ゆるぎぐん)と呼ばれていました。そして今でも大磯から国府津あたりまでの海浜一帯を「こゆるぎの浜」と呼んでいます。
「こゆるぎ」とは何とも響きのいい名前です。広々とした相模湾のゆったりとした波間と波頭を照らす陽射しがキラキラと揺れるさまは「こゆるぎ」の名にふさわしいものです。
大磯中学校が途切れると次のブロックには古河電工の大磯荘の入口が現れます。ここはかつて旧陸奥宗光邸と旧大隈重信邸を併せた敷地で、二人の邸宅を旧古河財閥の古河市兵衛が買い取ったものです。
古河電工の大磯荘の長い塀沿いの松並木を歩くと、次に大磯プレイスと呼ばれるリゾートマンションが現れます。ここは旧佐賀藩主である鍋島直大(なおひろ)の邸宅があった場所です。
滄浪閣跡
そして大磯プレイスを過ぎると左手に大きく開けたスペースが現れ、今は何も使われていない建物がど~んと構えています。
ここが大磯で最も有名な邸宅である伊藤博文公の滄浪閣があった場所です。歩道に面して「滄浪閣跡」の石柱が置かれていますが、かつての建物は今はなく、この場所は昭和26年(1951)に西武鉄道に売却され、1954年には大磯プリンスホテルの別館となり、2007年まで西武グループとして営業を続けてきました。その後、当施設は売却されることが決定され、大手建設会社が交渉権を得ることになりました。
しかし歴史的建造物として大磯町が25億円で買収計画を立てましたが、建設会社の提示価格と大きな開きがあることから大磯町は買収を断念しています。今後は新たな所有者に保存を要望することとなりますが、荒れ果てた滄浪閣は何も語らず寂しそうに佇んでいます。
旧滄浪閣の次のブロックにはなにやら由緒ありそうではあるのですが、誰にも使われず廃墟のような雰囲気を漂わす洋館が一つ建っています。この場所がかつて西園寺公望の別邸があった場所です。
さきほどの旧滄浪閣と旧西園寺公望の別邸の境目に細い路地が海岸へ向かって180mほど伸びています。舗装もされない海岸へと延びる道なのですが、路地からは滄浪閣と西園寺公望邸の荒れ果てた敷地を垣間見ることができます。
路地を進むうちに、ふいに前方が開け美しい相模湾が目の前に現れます。これまでの道中で初めて出会う海原です。実は路地を進むと現れるのが「大磯こゆるぎ緑地」と呼ばれる海岸を見下ろす高台の遊歩道だったのです。
緑地といっても松の木がたくさん植えられているわけではないのですが、晴れているときはなだらかに湾曲する湘南の浜と沖合には大島をはじめ伊豆七島の島影、そして右へ目を移すと伊豆半島のシルエットがまるで絵葉書のような美しさで眼前に展開します。
大磯こゆるぎ緑地
わずか120mほどの遊歩道ですが、後ろ髪を引かれる思いで本来の旧街道へと戻ることにしました。
旧街道に戻るとあの美しい松並木も途切れてしまいました。
其の四へつづく
私本東海道五十三次道中記~大磯宿から二宮そして国府津~(其の一)
私本東海道五十三次道中記~大磯宿から二宮そして国府津~(其の二)
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