大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

護良(もりなが)親王(大塔宮)を祀る「鎌倉宮」と墓所を訪ねる

2016年05月08日 16時27分08秒 | 地方の歴史散策・鎌倉江の島
2016年のGWの後半は賑やかな鶴岡八幡宮を避けて、少し奥まった道筋を辿ることにしました。初夏というより夏本番を思わせる陽気に誘われ多くの観光客が鎌倉を訪れています。

賑やかな鎌倉駅前からバスで「鎌倉宮」へ向かいます。鎌倉宮までバス路線に沿って歩いても1.9kmと苦にならない距離なのですが、強い陽射しのもとでの「徒歩」はあきらめました。あっという間にバスは鎌倉宮に到着です。若宮大路の賑わいとは異なり、静かな雰囲気が漂っています。

鎌倉宮の大鳥居

さて、今回「鎌倉宮」の参詣を選んだ理由は「護良親王(もりなが)」という人物が祀られているからなのですが、実は東海道五十三次の街道筋には護良親王の首塚や首洗い井戸が少なくとも2か所現れます。その一つが戸塚宿に入るちょっと手前に「首洗い井戸」、そして沼津宿に入る手前の黄瀬川の畔にある「智方神社」には「首塚」が置かれています。

そんなことで「護良親王」については東海道を歩きながら、その折々に人物について案内していましたが、親王が壮絶な最後を遂げた鎌倉の地に創建された「鎌倉宮」を訪れたことがなかったのです。今回は護良親王を深く知るための鎌倉訪問です。

それでは「護良親王」について歴史をひも解いてみましょう。
後醍醐天皇の皇子である護良親王は幼い頃から仏門に入り、比叡山延暦寺の天台座主にもなっています。

※天台座主とは
天台宗の総本山である比叡山延暦寺の管主(住職)のことで、天台宗の諸末寺を総監する役職です。「山の座主」とも呼ばれていました。中世以降、摂家門跡、宮門跡の制度が整い、天台三門跡(妙法院・青蓮院・三千院)から法親王が天台座主として就任することが多くなりました。護良親王も天台座主となった法親王の一人です。

時は元弘元年(1331)、後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕を目的とした「元弘の乱」が起きます。この時、天台座主であった護良親王は還俗して参戦します。そして足利尊氏新田義貞らの参戦により、元弘3年(1333)に鎌倉幕府は滅亡します。

鎌倉幕府滅亡後、護良親王は尊氏に対して敵意をいだき、自らの兵力を増強していきます。というのも「尊氏はわずかな戦で勝利を得て、万民の上に立ち権勢を得ようとしている。そうであればまだ勢力が小さいうちに尊氏を討っておいた方がよい」という考えがあったようです。

討幕後、京都では尊氏は上洛した武士を集めて京都支配の指揮を強めていきます。一方、護良親王は尊氏の勢力を警戒し、信貴山に拠り尊氏を牽制します。両者の対立を見た後醍醐天皇はその妥協策として、護良親王を征夷大将軍に任命します。

そして討幕後の翌年の1334年に年号が「建武」と定められます。武家政権から天皇親政へと順調に移行するはずだったのですが、新たに発する新令も機能せず、新政権内に混乱が生じ始めます。

護良親王と対立を深める尊氏は後醍醐天皇に「親王は帝位を奪うため諸国の兵を募っている。」と奏聞し、護良親王の令旨を差し出しています。これを聞いた後醍醐天皇は「親王を流罪に処すべし」と拘束し、建武元年(1334)の11月15日に鎌倉へ流され、尊氏の弟である直義に身柄を預けられました。鎌倉に送られた護良親王は二階堂の土牢(現在の鎌倉宮がある場所)に押しこめ、約9か月の幽閉生活を送ることになります。

土牢

時代は鎌倉幕府から新政へと移行していたのですが、旧北条氏の守護国を中心に各地で反乱が勃発していました。そして建武2年(1335)の7月に「中先代の乱」がおこります。この乱は北条高時の遺児である時行が叔父の奏家と共に挙兵し、一時的に鎌倉を占拠したものです。

この時、鎌倉を守っていた足利直義は時行が護良親王を奉じて、新政権に対抗するのではと危惧し、淵辺義博に命じて護良親王を殺害し鎌倉を逃れたのです。

斬首された護良親王の首は理智光寺に葬られたと伝えられ、現在この場所は宮内庁が正式に護良親王の墓と認定した場所です。尚、理智光寺は明治初期に廃寺になっています。

理智光寺跡碑

このように悲運の最期を遂げた護良親王を祀るため、明治2年(1869)に明治天皇が自ら創建したのが「鎌倉宮(大塔宮)」です。我が国の歴史の中で、天皇が自ら創建した神社は鎌倉宮だけです。御祭神はもちろん「護良親王」です。

それでは大鳥居をくぐり境内へと進んでいきましょう。緑濃い裏山を背景にして石段と二の鳥居、そしてその奥に拝殿が控えています。

境内
二の鳥居と拝殿

二の鳥居をくぐると拝殿が現れます。

拝殿

拝殿の右脇には、「南方社」「村上社」の2つ境内社が置かれています。 「南方社」には、護良親王とともに鎌倉に下り、親王に仕えた藤原保藤の娘「南の方」を祀っています。そして「村上社」は「元弘の変」において護良親王の下で戦い、親王の身代わりとなって自刃した村上義光(むらかみよしてる)が祀られています。

村上社前には村上義光の鎧姿の木像が置かれています。この像は「撫で身代わり」と呼ばれ、病気や厄除けの身代わりにご利益があるとされています。尚、この像は平成16年(2004)に置かれたもので新しいものです。

村上義光像

境内の一部は有料拝観エリアのため、拝観料を納めて入場します。拝観料:大人300円

鎌倉宮パンフレット

入口から拝殿横を進んで、本殿の裏手の一画に護良親王が幽閉されていたとされる「土牢」があります。土牢の入口は木の柵が嵌められているので中を見ることができません。

土牢

本殿の裏手は木々が生い茂る森になっています。深閑とした森の中を進んで行くと「御構廟」と書かれた木札が現れます。ここは淵辺義博が護良親王の首を置いて逃げ去った場所と伝えられています。うち捨てられた首は前述の理智光寺の僧によって今はなき理智光寺に葬られたのです。

護良親王は淵辺義博によって斬られる時、義博の刀を噛み折り、死んでも放さなかったことから、恐れをなした義博は首を捨てて逃げ去ったと伝えられています。

御構廟
境内
境内から見る本殿

本日の護良親王を辿る旅はまだ終わっていません。鎌倉宮は護良親王が幽閉され、斬首された場所です。そうであれば親王が眠る墓を詣でて旅が完結します。ということで宮内庁が正式に認める親王の墓へと向かうことにしました。

かつて理智光寺があった場所は鎌倉宮から500mほど歩きます。ただし護良親王の墓への案内板や矢印はありません。理智光寺があった場所にはその跡地を示す「石碑」が置かれています。

理智光寺跡碑

この跡碑が置かれている場所に相対して護良親王の墓への入口があります。玉垣に囲まれた入口を入ると「後醍醐天皇皇子・護良親王墓」と刻まれた石柱が置かれています。

護良親王墓の石柱

さすが宮内庁認定の正式な墓所ということでかなり綺麗に整備されています。墓所といっても平坦な場所ではなさそうで、入口から眺めるとかなりの段数の急峻な石段が山の上にのびています。どれほどの段数があるのか登ってみなければわかりません。

墓所へのびる石段

意を決して、墓所へとつづく石段を登りはじめました。かなり急な石段で、手すりもなく息絶え絶えで一気に登っていきます。石段は木々が生い茂る山の中へとのびています。私たちが訪れた時、ここを訪れている人は誰もいません。雰囲気的にちょっと不思議な感覚を覚える場所のような気がします。一人では来たくない場所です。ましてや暗くなってからはぜったいに来たくない場所です。
穿った見方をすれば、壮絶な最後を遂げた護良親王の怨念が生き続けているような雰囲気を漂わせています。

石段

石段は2段階に分かれて山の上へとのびています。登ってきた石段を数えるとなんと172段もありました。石段を登りきると墓域の入口が現れます。

墓域の入口

墓域の入口の門はかたく閉ざされています。その門の前には誰が置いたのか「供え物」が…。墓の入口の門の向こうには苔むした石段がさらにつづき、ちょうど山頂にあたる場所に十六文の菊の御紋がついた門が見えます。ここが護良親王の墓所です。

護良親王の墓

確かに宮内庁管理の正式な墓といった雰囲気を漂わせています。それほど長居はしたくないので、そそくさと登ってきた石段を下ることにしました。それにしてもGWの最中だというのに、私たち以外に誰も訪れないこの場所はいったい何なのだろう。来てはいけない場所に来てしまったのだろうか?

調べてみると、南北朝の動乱期には護良親王の怨霊による祟りがあったということが「太平記」に記述されているようです。そして現代の世でもこの場所は心霊スポットとして有名な場所のようです。





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真夏の鎌倉・江の島探訪 その五 ~江ノ島弁財天と宗像三女神を祀る江島神社~

2015年09月10日 12時38分18秒 | 地方の歴史散策・鎌倉江の島
鎌倉駅を拠点として巡る神社・仏閣は数限りなく、これを虱潰しに見て回ることは物理的にも、体力的にも限界があります。

鎌倉五山にしても円覚寺と建長寺の二寺しか訪れることができませんでした。五山以外にも名刹・古刹があまたあるのですが、これは次の機会に回すこととしました。

そして藤沢に戻る途中、久しぶりに江の島の島内を少し時間をかけて巡ることにしました。
江の島詣ではこれまでに何度か訪れたことがあるのですが、島の入口から江島神社への参道に並ぶ土産屋を除く程度で、詳しく見て回ることはありませんでした。

ということで、古の時代から信仰の対象となっている「江の島弁財天」「宗像三女神」を巡ることにします。

江ノ電の江の島駅から江の島大橋入口までは少し距離があります。この道筋にはたくさんのお土産屋さんや小洒落たレストランなどが並び、歩いていて飽きることはありません。

海岸通りの134号線にさしかかると、前方に江の島が現れます。地下道を使って江の島大橋へと進んでいきます。江の島大橋入口には名勝・史跡江ノ島の石碑が置かれています。

名勝・史跡江ノ島の石碑

江の島大橋は渡り始めて、橋が途切れるあたりまで約550mの長さがあります。

江ノ島大橋

照りつける夏の日差しをまともに受けながら550mの橋を渡り、やっと江の島の入口の青銅の鳥居が私たちを迎えてくれます。

青銅の鳥居

この青銅の鳥居は江の島弁財天信仰の象徴として、もともとは江戸時代の延亨4年(1747)に創建されたものですが、現在の鳥居は文政4年(1821)に再建されたものです。それでも194年の長きにわたってこの場所に立っています。

そしてこの鳥居をくぐると、江の島を代表する江島神社の参道が始まります。狭い参道の両側にはたくさんのお土産屋さんが軒を連ね、店先で海産物を焼いたり、民芸品を並べ、多くの観光客が足を止めて店先にたむろしているので歩くのに一苦労する参道です。

ほんの少し勾配のある参道をのぼり、お店が途切れると石段の上に朱の鳥居が現れます。江島神社の二の鳥居です。

江島神社の二の鳥居

石段を登り、赤い鳥居をくぐると眼前に竜宮城の門を模した瑞心門(楼門)が現れます。

瑞心門(楼門)

瑞心門の意味は人々が瑞々しい心でお参りできるようにと名付けられているそうです。
瑞心門から下を眺めると先ほどくぐった朱の鳥居とその向こうに参道がまっすぐにつづいています。

瑞心門をくぐるとさらに石段がつづき、私たちを辺津宮(へつみや)の社殿へ誘ってくれます。

辺津宮の社殿

さて江島神社ですが、ちょっと説明しましょう。
タイトルに宗像三女神を祀るとなっています。
実は江島神社の御祭神は九州福岡の宗像大社や広島の厳島神社と同神です。

その御祭神は三人の女神さまで江島神社の奥津宮には多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)中津宮二は市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)辺津宮には田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)がそれぞれ祀られています。

これら三女神を江島大神と称し、さらに仏教との習合で弁財天女とされ江島弁財天として古くから崇められてきました。
江島弁財天の功徳としては幸福・財宝を招き、芸道上達の功徳を持つ神であり、さらには海の神、水の神として信仰の対象になってきました。

ですから江島弁財天詣では三女神を祀るそれぞれの社殿を巡ることが必要なのです。そしてぞれぞれの社殿は島内に分散されて置かれているため、かなりの距離を歩かなければなりません。

そしてこの辺津宮(へつみや)の左側に八角形のお堂があります。江島弁財天と染め抜かれた朱色の幟がお堂を取り囲み、お堂の正面には「日本三大弁財天・八臂弁財天(はっぴべんざいてん)と妙音弁財天(みょうおんべんざいてん)」と書かれた札が掲げられています。

八臂弁財天は源頼朝が鎌倉開幕に際して、奥州の藤原氏の平定を祈願するために奉納したものと言われています。八臂とは八本の腕を持つ意味です。妙音弁財天は別名「裸弁財天」と呼ばれ、裸の弁財天が琵琶を抱えた姿をしています。妙音とは妙なる音楽を奏でるという意味です。

奉安殿

このお堂に報じられている弁財天が仏教との習合による神様で、江戸時代にはこの弁財天詣でのためにお江戸の庶民が多く参詣したのです。

このあたりまでは以前に来たことがあるのですが、これから先の「中津宮」と「奥津宮」への道のりは私にとっては道の領域に入っていきます。

中津宮への標に従って歩くこと5分ほどで市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)を祀る「中津宮」に到着します。社殿につづく参道には江戸歌舞伎「市村座」と「中村座」が奉献した一対の石燈籠が置かれています。

中村座の石灯籠
中村座の石灯籠
市村座の石灯籠

三女神を称して江島弁財天と崇めら、その功徳に芸道上達があることから江戸歌舞伎の一座がこれを祈願して石灯籠を奉献したのではないでしょうか。

社殿は鮮やかな朱に彩られた権現造りで、本殿、幣殿、拝殿から構成されています。

拝殿
幣殿と本殿

さて、中津宮かさらに奥へと進んでいきましょう。道筋は江の島のちょうど裏側の断崖に沿って穿かれているようです。そして若干のアップダウンを繰り返しながら島の一番奥へと進んでいきます。

江ノ島のこんな奥までやってきたのは初めての経験です。中津宮からおよそ10分ほどの距離にあるのが奥津宮です。前方に鳥居が見えてきます。そして鳥居の先に参道がのびて拝殿前へとつづいています。
ここまでやってくる人はあまりいないようで、境内の中は訪れる人もなく静かな空気が流れています。
この奥津宮には奥津宮には三女神の一番上の多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)が祀られています。

奥津宮の鳥居
奥津宮拝殿
拝殿の奥の本殿

三女神を祀る三宮を詣でたあと、本来であれば崖下の岩屋までいって完結するのですが、岩山では急峻な石段を下ること10分もかかるということで、あえなく断念し戻ることにしました。

帰路は道筋を変えて、鬱蒼とした木々に覆われた道を下り、江島神社の朱の鳥居へと戻ってきました。
今回の私たちの鎌倉・江の島の旅は江島神社(三女神)の参詣でひとまず終えることにしました。

真夏の鎌倉・江の島探訪 その一 ~鎌倉大仏~
真夏の鎌倉・江の島探訪 その二 ~鎌倉五山第二位・円覚寺~
真夏の鎌倉・江の島探訪 その三 ~鎌倉五山第一位・建長寺~
真夏の鎌倉・江の島探訪 その四 ~竹寺・報国寺~



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真夏の鎌倉・江の島探訪 その四 ~竹寺・報国寺~

2015年09月10日 07時57分55秒 | 地方の歴史散策・鎌倉江の島
さあ!鎌倉・江の島の旅の2日目です。
藤沢から江ノ電に乗って再び鎌倉駅へ向かいます。朝早い時間帯の電車なのですが、片瀬江ノ島の海岸へ行く家族連れや若者たちで車内はかなり混み合っています。
藤沢始発ということで、難なく座席を確保することができました。

さて、本日はまず鎌倉市内から少し離れた報国寺の参拝から始めることにします。
鎌倉駅からはちょっと離れているため、バスを利用して向かうことにします。

アクセス方法:鎌倉駅前から京浜急行バスの鎌倉霊園正面前太刀洗・金沢八景行き/ハイランド行きに乗り、浄妙寺で下車(鎌倉駅前から所要15分程度)

賑やかな鎌倉の市内を抜けるとバスは静かな住宅街へと入っていきます。そんな住宅街の中に目指す報国寺は堂宇を構えています。
浄妙寺という名前のバス亭で下車し、報国寺の標に従って住宅街の中の坂道を進んで行くと、右手に報国寺の山門入口に達します。

ここ報国寺は臨済宗建長寺派のお寺で、開山は建武元年(1334)という古刹です。
開基は室町幕府を興した足利尊氏のお爺ちゃんにあたる足利家時とも、あるいは上杉一族の上杉重兼ともいわれています。

室町幕府の開幕後、尊氏は足利家から関東一円を支配するために「鎌倉公方(関東管領)」を置き、その後4代90年にわたりつづきました。

そして四代目の鎌倉公方であった足利持氏とその子の義久が本家の足利家に対抗する姿勢を見せたことで「永享の乱(1438~39)」が勃発したのですが、幕府側についた上杉憲実によって鎮圧され持氏は永安寺で自害義久はここ報国寺で自害しました。
ということはここ報国寺は鎌倉公方終焉の地だったのです。

そんな歴史を持つ報国寺は美しい竹林があることから「竹の寺」と呼ばれています。

報国寺山門前

山門を抜けて、境内へとつづく参道を進み、石段を上がると正面にご本堂が現れます。

本堂

本堂の右側には迦葉堂(かしょうどう)と呼ばれる座禅堂があります。

迦葉堂

本堂へつづく参道の左側には趣のある茅葺屋根の鐘楼堂が置かれています。

茅葺の鐘楼堂

さあ!いよいよ報国寺自慢の竹林へと進んでいきましょう。竹林の入口は本堂の左側にあります。入口で竹林の見学料(拝観料)200円を支払います。

竹林は本堂のちょうど裏手にあたるのでしょうか、予想以上に素晴らしい竹林が広がっています。

竹林1
竹林2
竹林3
竹林4
竹林5

竹林に足を踏み入れると、大きく育った孟宗竹が林立し、わずかながら差し込む陽射しに映えて、幻想的な世界を造りだしています。
陽射しが強くなる時間帯だったのですが、竹林の中は陽射しが遮られて「ひんやり」とした心地よさを感じます。

京都嵯峨野の竹林とは比べようもないほど規模は小さいのですが、鎌倉の隠れた名所として、多くの観光客が訪れています。

真夏の鎌倉・江の島探訪 その一 ~鎌倉大仏~
真夏の鎌倉・江の島探訪 その二 ~鎌倉五山第二位・円覚寺~
真夏の鎌倉・江の島探訪 その三 ~鎌倉五山第一位・建長寺~
真夏の鎌倉・江の島探訪 その五 ~江ノ島弁財天と宗像三女神を祀る江島神社~



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真夏の鎌倉・江の島探訪 その三 ~鎌倉五山第一位・建長寺~

2015年09月09日 14時50分50秒 | 地方の歴史散策・鎌倉江の島
円覚寺の参拝を終えて、このまま北鎌倉から鎌倉へ戻るということも考えたのですが、五山第二位の次は第一位の建長寺参詣が当然の流れということで、円覚寺門前から徒歩で行くことにしました。

広い円覚寺境内を歩いた後ということで徒歩はキツイなと思ったのですが、建長寺までの距離は1キロ弱(900m位)なので思い切って歩き始めました。
しばらくは横須賀線の線路沿いを歩くのですが、途中で鎌倉の渋滞銀座の21号線に合流し、そのまま建長総門前へと進みます。徒歩15分の距離です。

建長寺総門

当寺は臨済宗の寺院の格式を示す「五山の制」、「鎌倉五山」の第一位という格式の高いお寺です。
建長5年(1253)に宋から来日した蘭渓道隆(らんけいどうりゅう・大覚禅師)を開山として迎え、五代執権・時頼が開基となって我が国初の禅の専門道場として創建されました。
建長寺の名前は鎌倉時代の建長(元号)に創建されたからではないでしょうか。江戸時代に上野の山に創建された「寛永寺」がそうであるように。

さて、ここで鎌倉五山について解説しましょう。

端的に言えば、前述のように五山の制とは臨済宗派(禅宗)の寺院の格付け制度の言います。
時は鎌倉時代に遡りますが、臨済宗の教えを日本に伝えたのは「栄西」です。日本に帰ってきた栄西が広めようとした臨済宗は、それまでの宗派からかなりの圧力を受けながらも、最終的には鎌倉幕府の庇護を受けて、新しい教えである「禅宗」を世に広めていったのです。

鎌倉幕府がこの新しい宗教思想である「禅宗」を庇護した大きな理由として、日本の歴史上初めて出現した「武家政権」を支えた鎌倉武士団にその気風が合致したことでしょう。

そしてさらには、それまでの既存の宗派を鎌倉幕府がコントロールするために、禅宗を思想とする臨済宗をうまく利用したといってもいいでしょう。

そんな目論見で導入したのが「五山の制」なのです。
この制度を最初に導入したのが北条執権・五代の時頼の時代と言われています。

時頼が五山の制を導入した当時は厳格な順位は定められていなかったようですが、室町政権の三代将軍の足利義満の時代に現在ある五山の順位が決まったようです。

この五山は京都と鎌倉にあります。
京都五山は
第一位:天龍寺
第二位:相国寺
第三位:建仁寺
第四位:東福寺
第五位:万寿寺

鎌倉五山は
第一位:建長寺
第二位:円覚寺
第三位:寿福寺
第四位:浄智寺
第五位:浄妙寺

実は京都、鎌倉両五山の上にたつのが五山の上(ござんのじょう)という最高位の南禅寺です。
それでは鎌倉五山の最高位である建長寺の参拝へと進みます。

「巨福門」(こふくもん)

巨福門を抜けると、伽藍は禅宗寺院の特徴である三門、仏殿、法堂が一直線に配置されています。その最初の建物が三門です。

三門
三門
三門から仏殿を見る

この三門は江戸時代の安永4年(1775)に再建されたもので国の重要文化財です。尚、東日本地域で三門二重門としては最も大きな建造物です。この門も三解脱門で仏殿に至る前に、この門で人間が持つ本来の煩悩を解脱してくれるのです。

そして三門には「建長興国禅寺」の扁額が掲げられています。この扁額は戦国時代の天文八年(1539)に時の後深草天皇自らの筆(宸筆)ということです。すなわち勅額門なのですね。

三門の脇には鐘楼堂が置かれています。

鐘楼堂

この鐘楼堂の梵鐘は建長7年(1255)に鋳造されたもので、国宝に指定されています。そして、当鐘は関東一の美しい鐘として知られており、特に音色が人の泣き声に似ているということから「夜泣き鐘」の別名を持っています。尚、この鐘は円覚寺、常楽寺の梵鐘と並ぶ鎌倉三名鐘の一つです。

禅宗特有の伽藍の配置はそれほど信心深くない私にとっては非常に明解で、なにより歩きやすいのです。
最初の建造物である三門を抜けると、仏殿まではちょっと距離があります。
広大な寺領を持っていたから贅沢に、かつ空間的余裕をもって伽藍を配置したのでしょうか?

そしてかつて最盛時にはどれほどの数の修行僧がここにいたのでしょうか?
そして彼らが住まう僧坊はどのように配置されていたのでしょうか?

そんなことを考えながら参道を進んでいくと正面に現れるのが「仏殿」です。

仏殿

さて、この仏殿の建物ですが実は徳川二代将軍秀忠公の正室の崇源院(お江)の御霊屋だったのです。どうしてその建物が建長寺にあるのか、というと正保4年(1647)に崇源院の御霊屋の改築に際して、お江戸の増上寺から建長寺に移築、下賜されたもののようです。
増上寺に置かれていた当時はおそらく崇源院の宝塔を納める霊廟として使われていたものでしょう。
ただ一つ疑問として残るのは、徳川将軍家の菩提寺である増上寺は浄土宗の寺院なのですが、どうして禅宗の臨済宗のお寺に移築したのでしょうか?

これは私の個人的な見解ですが、仏殿の建築様式は禅様式なので、そうであれば関東の臨済宗五山の最高位の建長寺に下賜したほうがいいのではと幕府が考えたからなんて!

建長寺にはこの仏殿の建物以外に崇源院の御霊屋の関連建造物が移築されています。
これはのちほどご紹介しましょう。

仏殿には本尊地蔵菩薩坐像が安置されています。

本尊地蔵菩薩坐像

この仏殿にほぼ隣接して建つのが法堂(はっとう)です。

法堂

もともとこの法堂は建長寺の開基である五代執権の北条時頼の十三回忌の年である建治元年(1275)に創建されたものですが、現在の建物は江戸時代の文化11年(1814)に再建されたものです。

この法堂には「釈迦苦行像」が安置されています。
世界史の教科書にも掲載されているあまりにも有名な像です。かつてパキスタンに行ったとき、実物を見た記憶があります。

釈迦苦行像

この像はパキスタンのラホール中央博物館に展示されている像のレプリカです。
平成17年(2005)の愛知万博に展示されていたもので、万博終了後、パキスタンより建長寺に寄贈されたものです。

そして法堂の天井には雲竜の天井図が描かれています。一見してかなりの大作のように思えます。

雲竜の天井図

法堂を過ぎると、右手に大庫裡そして隣接して方丈の建物が現れます。その方丈の前に置かれている煌びやかな門が「唐門」です。

唐門
唐門

実はこの唐門も仏殿と同じく、お江戸の増上寺にあった崇源院の御霊屋の付属建造物なのです。
平成23年(2011)に修理が行われ、扉を含む門の前面に煌びやかな金の装飾がなされ、絢爛豪華な装いになっています。

おそらく江戸時代の初期のころの姿はこんな感じだったんだろうな、という思いでまじまじと眺めてしまいました。なにせ将軍正室の霊廟に置かれていた御門であれば、これくらい華美であってもおかしくありません。

私たちは方丈内部へお邪魔しました。方丈から見た唐門は後ろ側も金の装飾が施されています。

方丈から見た唐門

そして方丈の裏手には禅宗のお寺らしい素朴な意匠の庭園が広がっています。背後の山の緑を借景にした庭の景色を眺めていると、ほんの少し疲れが癒されたようなきがします。

方丈裏手の庭園

円覚寺、そして建長寺と鎌倉を代表する寺を巡り、満足感と充実感を胸に鎌倉駅に戻ることにします。

真夏の鎌倉・江の島探訪 その一 ~鎌倉大仏~
真夏の鎌倉・江の島探訪 その二 ~鎌倉五山第二位・円覚寺~
真夏の鎌倉・江の島探訪 その四 ~竹寺・報国寺~
真夏の鎌倉・江の島探訪 その五 ~江ノ島弁財天と宗像三女神を祀る江島神社~



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真夏の鎌倉・江の島探訪 その二 ~鎌倉五山第二位・円覚寺~

2015年09月08日 18時31分18秒 | 地方の歴史散策・鎌倉江の島
高徳院の大仏様を詣でた後、長谷駅駅へ戻り再び江ノ電に乗って終点の鎌倉駅へ向かいます。
次に目指したのは、鎌倉五山第二位の寺格を持つ名刹・古刹の円覚寺です。

円覚寺の最寄りの駅は横須賀線の北鎌倉駅です。私たちは鎌倉駅から大船方面に一駅の北鎌倉へ移動します。

賑やかな鎌倉駅とは違い、静かな住宅街の一角にある駅前には商店街もなく、まさに円覚寺のための駅といった佇まいです。
北鎌倉駅から円覚寺の参道入り口まではもの1分足らずの距離です。

私たちは総門へとのびる石段下に到着しました。その傍らに2本の石柱が置かれています。石段に向かって左側の石柱には「北条時宗公御廟所」、そして右側の石柱には「臨済宗大本山 円覚寺」と刻まれています。

北条時宗公御廟所
円覚寺

鎌倉五山の名刹として知られる円覚寺の総門へと登る石段はその寺格を誇示するかのような立派なもので、木々の緑に覆われた境内へと私たちを誘ってくれます。

ここ円覚寺は広大な寺領を構え、その寺領の中に伽藍が配置されています。これらの伽藍は谷戸(やと)と呼ばれる鎌倉特有の丘陵地帯の間につくられた谷に沿うように建てられています。
総門から山門そして仏殿、方丈へ一直線に伽藍が配置されているのは、当寺が禅宗の寺院であることを表しています。

石段を登り、受付で拝観料を納めて、いよいよ境内へと進んでいきます。
※拝観料:大人300円

境内へ入りまず目に付くのが正面にど~んと構える神奈川県の重要文化財の「三門」です。ここでいう三門は三解脱門とも言われ、この門をくぐり仏殿に向かう前に人間が本来持つ様々な煩悩を取り払ってくれるという誠にありがたい門なのです。

三門

この三門は江戸時代の天明5年(1785)に再建されたもので、三門に掲げられた扁額は北条貞時の時代に時の伏見上皇より賜ったものです。

三門にて

三門を抜けてそのまま境内を直進していくと右手に現れるのが「仏殿」です。仏殿は比較的新しいもので昭和39年(1964)に再建されたものです。仏殿には円覚寺の御本尊である宝冠釈迦如来が安置されています。

仏殿を右手にみながら緩やかな坂を上っていくと堂々とした「大方丈」の建物が現れます。

方丈と心字池

方丈を過ぎて、さらに緩やかな坂道をのぼっていくと左へと曲がる道筋に国宝舎利殿の標が置かれています。



今回、円覚寺を訪れた目的はこの舎利殿を間近に見てみたいということだったのですが、事前の情報をまったく持たずに訪れたため、舎利殿の敷地近くには通常の場合は立ち入ることができないことを知らなかったのです。円覚寺といえば国宝の「舎利殿」、舎利殿を見なければ円覚寺に行った意味はないのでは? と思うほどガッカリした瞬間でした。

ちなみに舎利殿の公開は正月三が日と11月初旬の「宝物風入れ」の年に6日間しかありません。
※平成27年の宝物風入れ:11月1日(日)~3日(火)

そんなことで円覚寺舎利殿の標から奥の方に見える舎利殿らしき建造物を写真に収めました。

一番奥が舎利殿

気を取り直して、少し進むと左手に現れるのが「開基廟・仏日庵」です。

仏日庵

仏日庵は鎌倉時代の弘安7年(1284)に亡くなった八代執権・北条時宗の廟所として建立されたもので、時宗の子でる九代執権・貞時、孫の十四代執権・高時が合葬されています。

仏日庵の敷地内には赤い毛氈を敷いた縁台が置かれ、有料の茶菓子をふるまっています。

私たちは境内の一番奥にある「黄梅院」を詣で、円覚寺の見学を終えました。

黄梅院・聖観音堂

鎌倉五山第二位の寺格を持つ円覚寺は予想通りの大寺院で、境内には円覚寺の伽藍以外に子院や塔頭があります。
広大な境内をくまなく見て回るにはかなりの時間が必要で、見学場所によってはかなりの傾斜の上り下りが必要です。暑い夏の季節には年寄りの私たちにキツイので、次の参詣場所である建長寺へ向かうことにします。

真夏の鎌倉・江の島探訪 その一 ~鎌倉大仏~
真夏の鎌倉・江の島探訪 その三 ~鎌倉五山第一位・建長寺~
真夏の鎌倉・江の島探訪 その四 ~竹寺・報国寺~
真夏の鎌倉・江の島探訪 その五 ~江ノ島弁財天と宗像三女神を祀る江島神社~



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真夏の鎌倉・江の島探訪 その一 ~鎌倉大仏~

2015年09月08日 16時17分33秒 | 地方の歴史散策・鎌倉江の島
猛暑がつづく八月、意を決してちょっと出かけてみるかということで、東京からさほど離れていない鎌倉・江の島を2泊3日で巡ることにしました。

これまで鎌倉、江の島には何度か訪れてはいるのですが、女房連れでゆっくりと巡るのは初めてです。
藤沢に宿をとり、ここを拠点にして真夏の鎌倉・江の島の旅が始まります。

話のついでなのですが、江戸時代には江戸の庶民にとって鎌倉・江の島は江戸から3泊4日程度で回る恰好の観光ルートだったようです。当時はこのルートに「大山詣で」を組み入れたものもあったようですが、一般的に江戸を出発して、東海道のちょうど10里(40キロ)の距離にある戸塚で1泊し、翌日、藤沢の遊行寺を詣で、その足で江の島の弁天様をお参りし、その日のうちに鎌倉へ入ったようです。

3日目は鎌倉の鶴岡八幡宮に詣で、その後金沢八景を経由して川崎まで戻って宿をとった。そして最終日は川崎のお大師様を詣でた後、東海道を一路、江戸へ戻ったようです。

現代人にとって一日、10里はとんでもない話なので、私たちは藤沢からは今人気の江ノ電を活用して、効率よく巡ることにしました。

※江ノ電の一日乗車券「のりおりくん」
江ノ電の全区間で、1日何度でも、その駅でも「のりおり」ができる乗車券です。
大人:600円

藤沢を始発とする江ノ電は湘南の人気スポットの江の島を経由して潮風香る腰越、鎌倉高校前、七里ヶ浜、稲村ケ崎の海岸沿いを走り、長谷へと到着します。

鎌倉大仏へ行くには、ここ長谷駅が最も至近なのですが、至近といっても長谷駅からは徒歩で15分ほどかかります。
いつも思うのですが、鎌倉は車での移動はたいへん不便です。道も込み合い渋滞に巻き込まれ、さらには駐車場を探すにも一苦労です。
徒歩であればこそ鎌倉の匂いを肌で感じそして何よりも歴史に彩られた風景を間近に眺めることができるのです。

さあ!鎌倉大仏に到着です。鎌倉大仏(阿弥陀如来)は高徳院というお寺の御本尊です。大仏が鎮座している場所へ通じる参道に置かれているのが「仁王門」です。

大仏の石柱
仁王門

高徳院・大仏の拝観料
大人:200円
尚、大仏胎内の拝観料は別に一人20円

仁王門をくぐり境内へと入っていきます。拝観料を納め境内を進むと、やおら現れるのが大仏です。

大仏1
大仏2
大仏3
大仏4

大変恥ずかしいのですが、私は今回の鎌倉の旅で初めて大仏に訪れました。長い人生の中で、大仏様にお目にかかった記憶がありません。
そんなことでかなり感動的な対面なのです。

「露坐の大仏」とは聞いていたのですが、大仏様を覆う建物はなく、夏の照り輝く太陽の下でなんともおいたわしいこと。
かつては大仏様は堂宇に覆われていたようですが、記録によると建武元年(1334)と応安2年(1369)の2度の台風、そして明応7年(1498)の大地震によって堂宇は崩壊し、これ以降「露座」になってしまったといいます。

長い年月、雨風にさらされているものの、大仏様のお顔は柔和そのもので、私たちをやさしく包み込むような寛容さと威厳を兼ね備えています。

大仏5

威風堂々とした大仏様の後ろに回ると丸みを帯びた背中が非常に印象的です。面白いことに大仏様の頭部が見えないことに気が付きます。

大仏様の後ろ姿

そして大仏様の胎内に入ることができるということで、拝観料20円を納め、粛々と襟を正して入っていきます。
確かに中は空洞になっています。ただ真夏の季節ということでかなり内部は暑く感じます。ちょうど大仏様の首にあたる場所が丸く穴になっています。
大仏様の胎内に入り、心の中で「南無阿弥陀仏」と念じた私です。

大仏様の内部

大仏様の胎内から退出して、大仏様の正面に回り込むと真夏の青空下で一段と映えるお姿が妙に印象的でした。



真夏の鎌倉・江の島探訪 その二 ~鎌倉五山第二位・円覚寺~
真夏の鎌倉・江の島探訪 その三 ~鎌倉五山第一位・建長寺~
真夏の鎌倉・江の島探訪 その四 ~竹寺・報国寺~
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