大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

三島の名勝・楽寿園の池が枯れている……

2013年05月31日 18時53分29秒 | 地方の歴史散策・静岡三島の楽寿園
東海道五十三次街道めぐりの下見のついでに街道をそれて名勝と謳われている「楽寿園」へと向かいました。

三島といえば富士の湧水が市内のあちこちに湧き出し、市内の何処にも湧水を集めて流れる清らかなせせらぎを目にすることができるのです。

私たちは三島大社から楽寿園へ向かう道すがら桜川と呼ばれる流れに沿って歩いていきましたが、その流れは清く透きとおり、地方都市とはいえそれなりの人口を抱える都市の川とは思えないほど清涼感に満ちた流れなのです。

桜川の流れ

これほどまでに豊かな水量の流れはまぎれもなく富士の湧水がここ三島で地表に顔を出したことに他ならないのです。

そんな桜川を辿って行くとそれまで幅とは打って変わるように、川幅は大きな池のような姿となって私たちの前に現れます。

白滝公園

この大きな池となる場所が「白滝公園」と呼ばれています。木々に覆われた公園の中を歩くと足元から湧水が滾々と湧き出る場所を見つけました。手に触れてみるとヒンヤリとした冷たさが伝わってきます。

白滝公園内の湧水
鬱蒼とした白滝公園

この白滝公園のちょうど向かい側に楽寿園の入口があります。入口付近から鬱蒼とした木々に覆われているのがわかります。

楽寿園標柱
楽寿園入口

楽寿園は小松宮彰仁親王が明治23年に別邸として造営したものです。現在は市立公園として三島市が管理しています。

広大な敷地の中には天然池泉が配置され、その池には富士の湧水を満々と湛えている……はずなのですが、なんと、なんと楽寿園を代表する一番大きな池である「小浜池」はほぼ完全に干上がり、三島溶岩流の岩肌が完全に露出した見るも無残な姿が目に飛び込んできました。

干上がった小浜池
干上がった小浜池
干上がった小浜池
干上がった小浜池

ほんの僅か申し訳程度に水はあるものの、これを枯山水と呼んでいいものなのか、と目を疑うばかりです。

私もこれまで数多くの回遊式日本庭園を見てきましたが、水を湛えていない大きな池のある日本庭園を見たことがありません。あまりに見事に枯れてしまった池を目前にして「入場料300円」は高くないかい?と思うことしきり。

本来は枯れることがなかった富士の湧水は昭和30年代中ごろから上流地域の地下水汲み上げの増加に伴い、年々地下水位が低下しているようです。地下水が豊富であれば自然と地表に湧き出してくるのですが、水位が低いためになかなか地表にまで届かないらしいのです。

であれば多量の雨が降れば池に水がたまるのでは、と思うのですが、降った雨は池に溜まらずそのまま水位の低い地下水脈へ流れだしてしまうそうです。

まあ、年に一度くらいは満水になるらしいのですが、次回はいつのことやら。

尚、面白いことに園内の一部の池には水を満々と湛えています。素人目には同じ水脈にしか思えないのですが…?



三島・初音ケ原の松並木と石畳
伊豆の国の一の宮・新緑の三嶋大社



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美しすぎる一里塚~before & afterの姿・宝池寺と玉井寺の伏見一里塚~

2013年05月27日 11時21分48秒 | 地方の歴史散策・静岡清水町
三島市を出立して東海道筋を辿り、静岡県清水町に入ると旧街道の両脇に2つの寺が現れます。
沼津方面に向かって右側に「玉井寺(ぎょくせいじ)」そして左側に「宝池寺(ほうちじ)」が堂宇を構えています。

旧東海道と南北に走る道が交差する場所で道幅が広くなっています。そんな場所に2つの寺が仲良く向かい合っているのですが、まず目に付くのが旧街道の左側の宝池寺前の広場に置かれている一里塚です。

宝池寺の一里塚

お江戸から数えて29番目の伏見一里塚です。目の前に現れるその姿に、「これぞ完全復元版」と手をたたきたくなるくらいの出来栄えなのです。

宝池寺の一里塚

まるで緑色のプリンの上に榎が1本。絵になるというか、あまりに美しすぎる姿ではありませんか。江戸時代の昔でも、これほどまでに美しい姿をしていたのかと疑いたくなるような造りです。

お江戸日本橋を出立して多くの一里塚を見てきましたが、その多くはこれほどまでに完全な姿ではありませんでした。

そして面白いことに旧街道を挟んで反対側の玉井寺には木々に覆われ、すぐには一里塚と認識できないような塚が残っています。

玉井寺の一里塚

これぞまさしくbefore & afterではありませんか。基本的に街道の一里塚は左右一対をなすものです。
東海道筋に残るかつての一里塚の中で当時の姿を今に伝えるものもあるのですが、場所によっては片側だけが残っているものや、一対の姿で残っているものもあります。

しかしここ伏見の一里塚のように片側が当寺のままの姿で、もう一方が完全修復された姿として残している場所はほとんどないのでは…? と思いつつも「よくやった!」とつい声がでてしまいました。

この宝池寺の一里塚は昭和60年に復元されたものです。

住所:静岡県駿東郡清水町伏見



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三島・初音ケ原の松並木と石畳

2013年05月25日 12時09分54秒 | 地方の歴史散策・静岡三島の初音ケ原松並木
長~い、長~い箱根西坂の下りがほぼ終わりかける頃、いよいよ三島宿へと入っていく手前に現れるのが「初音ケ原」と呼ばれている場所です。

とはいえまだ箱根西坂は完全に終わっていません。緩やかにつづく坂道が三島宿へとつづいているのですが、そんな道筋にかつての街道松が1キロにわたって延々と続いています。

初音ケ原松並木入口

初音ヶ原は箱根旧街道の松並木北側あたりの名称ですが、初音の名は源頼朝が蛭ヶ小島に配流されていたとき、この高原で鶯の初音を聞いことから名付けられたと言われています。

初音ケ原松並木

国道1号線に沿ってつづく初音ケ原の旧街道は美しい松並木とともに、綺麗に整備された石畳が敷かれています。この石畳は江戸時代のものではなく三島市が整備したものです。

初音ケ原の石畳

そんな石畳の道を進むと傍らに現れるのが一里塚です。江戸から数えて28番目にあたる錦田一里塚です。 錦田は明治22年(1889)に谷田村と川原ヶ村が合併して出来た村で、街道を境に地名が違うため右側は初音ヶ原一里塚とも呼ばれるようです。国道1号を挟んで反対側にも一里塚が残っています。

錦田一里塚(1)
錦田一里塚(2)
反対側の一里塚

この錦田の一里塚は太平一里塚(愛知)、阿野一里塚(愛知)、野村一里塚(三重)とともに、東海道に4つしかない国指定史跡の一里塚として大変貴重なものです。

初音ケ原松並木

この初音ケ原の石畳は一応遊歩道として整備されたものらしく、石畳道の脇には車を乗り入れないように、と高札風の注意書きが置かれています。

初音ケ原石畳
車進入禁止の立札
石畳を走る車

でも、一台の車が石畳の道からでてきたことを考えると、この注意書きはあまり効果がないようです。

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伊豆の国の一の宮・新緑の三嶋大社



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伊豆の国の一の宮・新緑の三嶋大社

2013年05月24日 17時48分24秒 | 地方の歴史散策・静岡三嶋大社
東海道五十三次街道巡りの旅も箱根西坂を越えていよいよ三島宿へと入ってきました。思えば遠くへ来たもんだ、と感慨深げに初音ケ原の松並木の石畳を三島市内へと進みます。

三嶋大社鳥居

三島といえば頭に浮かぶのが「鰻」「富士の湧水」そして何と言っても伊豆の国の一の宮である「三嶋大社」です。それなりの社格をもった神社と聞いているのですが、これまで一度も訪れたことがありません。

人づてに聞くところによるとその社殿は荘厳にして神々しい佇まいを見せているという。

創建年代は明らかではないというが、古来、奈良時代から三島に鎮座していたといいます。というのも三島には平安の時代に国分寺がおかれ中央から派遣された役人が国府に詰めていたといいます。そんな関係から三嶋大社は伊豆国の一宮としての社格を得ていたものと思われます。

中世以降、武士の崇敬、殊に伊豆に流された源頼朝は深く崇敬し、源氏再興を祈願しました。

旧東海道を進み日ノ出町の交差点を過ぎると、旧街道に面して三嶋大社の大きな鳥居が現れます。あの安藤広重が三島の景にうっすらと描きこんだ鳥居です。

三嶋大社鳥居

鳥居をくぐり社殿へつづくまっすぐな参道の入口へと進んでいきます。

まず現れるのが参道右手に置かれている大きな石(岩)です。「たたり石」と呼ばれているもので、もともとは大社前の東海道のど真ん中に置かれ、行きかう人の流れを整理する役目をもっていたといいます。

たたり石

しかし往来が激しくなるにつれて邪魔ということで取り除こうとすると、その度に災いが起こるため「たたり石」と言われるようになったらしいのです。その後、大正3年の道路工事で掘り出され現在の場所に据えられています。

たたり石からほんの少し進んた右側に「相生松」なる松が低い玉垣に囲われて植えられています。実はこの松が植えられている場所は源頼朝が源家再興を祈願するため、毎暁伊豆の蛭島から三嶋大社に日参するときに、頼朝の従者である盛長がこの場所で警護したと伝えられています。このため「安達藤九郎盛長警護の跡」と呼ばれています。

安達藤九郎盛長警護の跡

尚、相生松とは黒松と赤松が一つの根から生え出ていることからこう呼ばれています。

さらに参道を進むと左右に神池が現れます。社殿に向かって左側の神池には中之島が置かれ、そこには厳島神社が勧請されています。市杵島姫命を祭神として祀る厳島神社は北條政子が勧請し、信仰したと伝えられています。

厳島神社

神池を過ぎると前の前に現れるのが「総門」です。昭和6年に完成した門ですが、なかなかの風格をもった門構えです。以前の総門は改修後、芸能殿として境内に残っています。

総門

総門をくぐり桜並木の中を進むと前方に「神門」が構えています。その神門の手前の神馬舎の前に椅子のような形をした石が置かれています。

腰掛石
神馬

腰掛石と呼ばれているもので源頼朝が平家追討の心願を込めて百日の日参をした折に、腰を掛けて休息をした石とのこと。
大きな石の傍らの小さな石は北條政子が腰かけた石とのこと。ご夫婦仲のよろしいことで…。

そしていよいよ神域へとつながる神門をくぐります。この神門は幕末の慶応3年(1867)8月10日に完成したものです。

神門

神門をくぐると右手に大きく聳える木が目に飛び込んできます。樹齢なんと1200年の金木犀(きんもくせい)の木です。樹高10m、目通り周囲約4mという巨木です。

金木犀

薄黄色で可憐な花は甘い芳香を発し、それは神社付近はもちろん遠方までにおよび、時には2里(約8キロ)先まで届いたと伝えられています。9月上旬より中旬にかけ、黄金色の花を全枝につけ、再び9月下旬より10月上旬にかけて満開になります。

そして社殿前の広場の真ん中にドーンと置かれているのが「舞殿」です。もともとは祓殿と呼ばれ神楽祈祷を行った場所です。その後ここで舞を奉納したので「舞殿」と呼ばれるようになったのです。

舞殿
芸能殿

尚、この舞殿の四方の欄間と小壁には中国に伝わる親孝行の噺を題材にした彫刻が施されています。全部で24の噺からなるので「二十四孝」と呼ばれています。

そして真打登場ということで重要文化財に指定されている拝殿、幣殿、本殿が重厚な佇まいを見せて鎮座しています。
現在私たちが目にする社殿群は幕末の慶応2年に完成したものです。

拝殿
幣殿・本殿

御祭神は大山祇命[おおやまつみのみこと]、積羽八重事代主神[つみはやえことしろぬしのかみ]、御二柱の神を総じて三嶋大明神[みしまだいみょうじん]と称しています。

大山祇命は山森農産の守護神、また事代主神は俗に恵比寿様とも称され、福徳の神として商・工・漁業者の厚い崇敬をうけます。

本日ここ三島から沼津宿への下見を兼ねた旅が始まります。旅の安全を祈願していざ出立。

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私本東海道五十三次道中記 駿府・府中宿から丸子(鞠子)宿へ(其の二)

2013年05月07日 18時47分17秒 | 私本東海道五十三次道中記
安倍川を渡り、手越を抜けて丸子(鞠子)宿への旅を続けます。少将井神社をあとに旧東海道筋はやや道幅を細めつつ丸子(鞠子)宿へと延びています。
それほど変化のない道筋を900mほど歩くと旧街道は現在の東海道と合流します。合流後、200mほどで再び東海道と分岐し、旧街道の入口にさしかかります。

旧街道に入ると右手にお堂が一つ見えてきます。古めかしいお堂は子授地蔵大菩薩と名付けられているようです。この辺りの地名がすでに丸子となっているので宿の入口はかなり近くなっているような気がします。

子授地蔵大菩薩
丸子への道筋

子授地蔵大菩薩のお堂から400mほどで大きな交差点にさしかかります。道なりに進むと交番があるので丸子宿への道筋を確認してみました。親切なおまわりさんが丸子宿の地図を示しながら、丸子(鞠子)宿の入口まで20分ほどの距離であることを教えてくれました。
ちょうどこの辺りが現在の丸子の中心街らしく、静鉄ストアやバスターミナルなどが次から次へと現れてきます。

交番から500mほど歩くと旧東海道は左へと分岐していきます。それまで太い道筋が街道らしい細い道へと変わっていきます。分岐地点からおよそ350mほど歩くと丸子(鞠子)宿の江戸見附跡の案内板が現れます。

丸子江戸方見附跡
丸子江戸方見附跡

駿府(府中宿)から5.7㌔の地点に到着です。古い街道筋に入ってきたのですが思ったより新しい街並みが続いています。交番でもらった地図の説明書きには丸子(鞠子)宿にはそれほど古い建造物は残っていないとのこと。田舎の街道筋にあるような古びた街並みを期待したのですが、ちょっと期待薄のようです。

いよいよ丸子(鞠子)宿へと入っていきます。細い道筋の両側は新しい住宅がつづき、古びた、寂れたという感じはまったくありません。な~んだ、と落胆気味に歩いていると、面白いことにすべての民家ではないのですが、家々の玄関口に〇〇屋、××屋と書かれた木の看板が掲げられています。
おそらく江戸時代には宿場内で旅籠や商店を営んでいた家柄だったことを示しているのではと勝手に想像した次第です。

軒先に下げられた屋号の木版

そして処々に本陣跡、脇本陣跡、立場跡などの標が立てられ、宿場町らしい雰囲気を醸し出しています。

丸子(鞠子)宿は江戸から数えて20番目の宿場町です。宿場の規模は本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋24軒、宿内家数は211軒、人口は795人の東海道中で最も小さな宿場でした。

丸子下宿
街道脇の馬頭観音祠
丸子川の流れ
宿内の道筋
脇本陣跡
問屋場跡
本陣跡
お七里役所跡

江戸見附跡からおよそ750mほど歩いたところに丸子(鞠子)宿で最も有名なお店である「丁子屋」がまるで真打登場といわんばかりに現れます。
芭蕉が「梅わかな、丸子の宿のとろろ汁」と詠んだ有名な「とろろ汁」の店です。

丁子屋
丁子屋

茅葺屋根の古めかしい造りの店構えは丸子宿のランドマーク的存在です。なんと創業が慶長元年(1596)といいますから今から417年前のことです。
残念ながらこの日は別の場所で昼食を済ませてしまったため、名物とろろ汁は賞味せずに外観だけを見て去ることにしました。
尚、現在丸子には老舗の丁子屋以外にかなりたくさんのとろろ汁屋があります。特に観光施設として知られている「駿府匠宿」周辺には何軒もの「とろろ汁」のお店が並んでいます。

次回、丸子(鞠子)宿から次の岡部宿を歩く際にここ丁子屋を起点にするつもりです。その時に是非「とろろ汁」を食べてから出立するつもりです。

営業時間:11:00~19:00
定休日:毎週木曜日・月末のみ水曜と木曜が連休
電話番号:054-258-1066

駿府・府中宿から丸子(鞠子)宿へ(其の一)





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私本東海道五十三次道中記 駿府・府中宿から丸子(鞠子)宿へ(其の一)

2013年05月07日 17時33分14秒 | 私本東海道五十三次道中記
今年のゴールデンウィークは4月29日から5月5日まで訳あって駿府(静岡市)に滞在していました。この間、天候に恵まれ静岡市からも富士山をくっきりと眺めることができました。

そんな好天に恵まれた5月3日に駿府の府中宿(現在の静岡市)から上方へ向かって一つ先の丸子(鞠子)宿への散策を敢行しました。府中宿から丸子(鞠子)宿への距離は1里16町(5.7㌔)と比較的短めです。

まずは駿府城のお堀端を歩き、かつての御城下を貫く七間町通りへと進んでいきます。県庁所在地である静岡市は東海地区では一二を争う大都会で、ここ七間町通りにはたくさんの店が並び、多くの人出で賑わっていました。

駿府城の外堀

七間町通りを駒形通り交差点を右へ折れて「ときわ通り」へと入ります。そして数ブロック行ったところで、左へ折れて「新通り」へと入り、安倍川の袂を目指して一直線に進んでいきます。この新通りがかつての東海道筋にあたるようです。

七間町通りの札の辻
七間町通りの商店街

まっすぐに伸びる新通りを進むとやがて「弥勒」という地名のあたりで太い道筋の「本通り」に合流します。その合流する手前の交番脇に江戸時代は「川会所」が置かれていたようです。現在は川会所が置かれていたことを示す案内板が置かれています。

川会所跡

そしてその案内板を過ぎると右手に「弥勒緑地」なる小さな公園があり、その公園の一画に「由比正雪公墓跡」と刻まれた大きな石碑が置かれています。

由比正雪墓

そんな風景を横目にいよいよ安倍川の袂へと歩を進めていくと、左手に現れるのがかの有名な安倍川餅の老舗店「石部屋」です。

安倍川餅の石部屋

街道の茶店然とした店構えに「安倍川もち」「からみもち」と染め抜かれた大きな暖簾が軒下に張られてひときわ目立っています。
お店の創業は明治に入ってからのようですが、江戸時代には多くの旅人が安倍川を渡る前にここで小腹を満たして旅だったと記されています。

石部屋店内

私も誘われるように店の中に吸い込まれ、一人前600円の黄粉のからみもちと安倍川餅のセットを味わうことにしました。上品な甘さの黄粉とこしあんに包まれた餅はさすが石部屋の安倍川餅。まさに逸品です。

からみ餅と安倍川餅のセット

小腹を満たして、いよいよ安倍川を渡ることにします。全長490mの安倍川橋を渡ると、地名は「手越」と変わります。

安倍川橋
安倍川

ここ「手越」は安倍川を挟んで上方側の渡し場があったところです。ちょうど丸子(鞠子)宿を貫く東海道が安倍川に至る場所です。
そんな手越には東海道筋の湘南や伊豆でしばしば登場する「曽我兄弟」に所縁のある少将井(しょうしょうのい)神社が街道から少し奥まったところに質素な社殿を構えています。

少将井神社鳥居

由緒ありそうな社名なのですが、行き当たりばったりの私にとって詳しい社伝がわかりません。案内地図に従って住宅地の奥へと進んでいきます。そして背後の山裾に鳥居と小さな社殿が現れました。

少将井神社社殿

そして解説版を読んでみるとこんなことが記されていました。
創建は1193(建久4)年で、主祭神は素戔嗚尊です。またこの地は鎌倉時代の美人姉妹、千手と少将君(しょうしょうのきみ)の親である手越長者の屋敷の跡地であったと言われています。そのため、このあたりのことを古くは長者屋敷や御殿と呼び、なんとその御殿は源頼朝が上洛するときに本陣として使われたそうです。

社殿

さて、ここで登場する少将君とは曽我兄弟の父の仇である工藤祐経が富士の巻狩りの際に催された夜の宴で侍らした女性なのです。 この宴が行われた夜に工藤祐経は曽我兄弟に仇討ちされるのですが、兄十郎は討死、弟五郎は捕らえられ処刑されてしまいます。 「曽我物語」では、少将君は弟五郎が処刑されることを知ると嘆 き悲しみ、善光寺で出家したと記されています。(一方、兄、十郎の菩提を弔ったのは虎御前で、彼女も善光寺で尼になったと記されています。)



この神社が少将井神社と呼ばれるようになったのは、この場所こそ少将君が生まれた場所であったからと思われます。そして少将君はこの少将井神社に合祀されています。

一方、千手は源頼朝の妻、北条政子の女官だったのですが、一ノ谷の戦いで捕虜となった平重衡が 鎌倉に護送されると、頼朝は、重衡の武士としての器量の良さに感銘し、御所内に1室を与え、千手をその女官として付けたのです。その後、重衡 は南都焼き討ちの総大将であったため、東大寺や興福寺が重衡の引き渡しを要求し、その結果奈良に連行され木津川で斬首されました。
それを知った千手は「吾妻鏡」では失神し、その3日後に息絶えたとありますが、「平家物語」では善光寺で出家し尼になり、重衡の菩提を弔ったとあります。

白拍子の像

その千手(千寿)をモデルに境内に白拍子の像が一体置かれています。
訪ねる人も少ない少将井神社の境内は飾り気のない社殿が寂しそうに佇み、すこし離れた場所に白拍子の像がポツネンと置かれている奇妙な神社といった印象です。

社殿

手越から丸子(鞠子)宿の江戸見附までおよそ2.5㌔といったところです。

其の二へつづく。

私本東海道五十三次道中記 駿府・府中宿から丸子(鞠子)宿へ(其の二)





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