大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

赤穂義士が眠る泉岳寺 Sengaku-ji temple

2018年11月14日 09時00分21秒 | 港区・歴史散策
Sengakuji is one of the most famous and popular Buddhist temple in downtown district of Tokyo.
Sengakuji was built by Tokugawa Ieyasu who was the first Shogun of Tokugawa government in 1612 near Edo Castle. However, after only 30 years, it was devastated by fire and this led to a reconstruction at the present site. The biggest reason for making Sengakuji famous is that there is a grave of Ako-gishi in the precincts.

深まりゆく秋を感じながら、久しぶりに赤穂義士ゆかりの高輪泉岳寺を訪れました。ここ泉岳寺では毎年、師走の14日には盛大な義士祭りが行われています。義士祭りが行われる日は境内は派手な幟が立てられ、線香の煙が漂う中で義士の墓へ詣でる多くの参拝客で賑わいます。

泉岳寺は旧東海道筋(現在の15号線)からほんの僅か奥まった場所に山門を構えています。かつては旧東海道に面して総門が置かれていたようですが、時代の変遷の中でその姿は失われています。御存じのように泉岳寺は曹洞宗の寺院です。いわゆる禅宗の寺ですが、禅宗の寺の伽藍配置は一般的に総門、中門、山門、仏殿(本堂)、法堂、方丈がほぼ一直線に並んでいます。ですから泉岳寺も総門、中門、山門、仏殿が一直線に並んでいました。
泉岳寺の最寄りの駅は都営地下鉄の泉岳寺駅です。この泉岳寺駅のA2出口から緩やかな坂道を進んでいくと泉岳寺の中門へ至ります。その距離わずか150mです。

泉岳寺中門 Middle Gate

この緩やかな坂はかつて車坂と呼ばれていました。そしてこの坂道の両側の地域は芝車町と呼ばれていました。この「車」の由来は江戸時代にはこの地域一帯に牛車を曳く牛小屋大八車の置き場が並んでいたといいます。このことから車坂、車町と呼ばれていましたが、実はこの場所こそ大八車の発祥の地と言われています。

また、この辺りの地名は高輪と呼ばれていますが、この地名の由来もこの車と関わりがあるようです。実は使えなくなった大八車の車輪をうず高く積み上げたことから「高く積み上げられた輪」ということで「高輪」という地名になったとも言われています。

また、この近くに願生寺という寺が堂宇を構えていますが、この寺の境内には大八車を曳いていた牛の霊を鎮める「牛供養塔」が置かれています。

それでは泉岳寺の中門へと進んでいきましょう。かつては総門の次に現れる門だったので「中門」と呼ばれました。この中門は江戸時代の天保7年(1836)に再建されたものです。中門には「萬松山」の山号が掲げられています。「萬松山」の意味は「萬代にわたって松平家が栄える」ということです。

中門の山号 Main gate

ここで言う「松平家」は徳川将軍家のことをいいます。実は泉岳寺は開幕の祖である家康公と深い関わりがあります。そもそも泉岳寺は家康公の命によって創建された寺です。家康公は幼少の頃から9年間の長きに渡って駿府の今川義元の下で人質生活を送っていました。そしてあの桶狭間で義元公が信長に討たれた後、家康公は故郷の岡崎に戻り、三河の守護職となり、信長との同盟締結を経て、戦国時代を生き抜いてきました。そして関ヶ原の戦の勝利で天下を手中に収めたのです。

家康公は天下をとった後も、幼少時代に過ごした駿府での生活を忘れていなかったようです。そして義元公に対しても尊敬の念を抱いていたようです。そんなことで家康公は義元公の菩提を弔うための寺を江戸に創建することを決めたようです。
その寺が泉岳寺なのです。もともとの泉岳寺の創建は家康公が亡くなる4年前の慶長17年(1612)で、開山の地はお城に近い外桜田(現在の警視庁)と言われています。

しかしその後、三代将軍家光公の時代の寛永18年(1641)の寛永大火で外桜田の泉岳寺は消失してしまいました。
そして泉岳寺はここ高輪に移転することが決定されるのですが、その再建がなかなか進まなかったといいます。これに業を煮やした家光公は五家の大名を指定して堂宇の再建を急がせたのですが、その大名家の中に赤穂・浅野家の名前が入っていたのです。ということは浅野家と泉岳寺の繋がりはここから始まったのです。

将軍家と深い関わりをもつ泉岳寺は広大な寺領の中に七堂伽藍を構え、曹洞宗江戸三ケ寺の一つに数えられ権勢を誇っていました。

中門を抜けると、参道がまっすぐにのびています。その参道の右手に門前らしい雰囲気を漂わせる店が数軒並んでいます。これらの店は参拝客のための土産物を販売しています。

参道に並ぶ店 Shops in the precinct

そして参道の奥に二層の山門が構えています。この山門は天保3年(1832)に再建されたもので、2階には十六羅漢様が安置されています。

山門 Main gate

この山門の右脇に誰もが知る有名な人物の像が置かれています。ご存じ大石内蔵助吉雄です。大正10年に除幕されたもので、その姿は元禄羽織に手には連判状を持っています。

大石内蔵助吉雄の像 Bronze statue of Kuranosuke Oishi

それでは山門の脇をすり抜けて、本堂前の広場へと進んでいきましょう。石畳が敷かれた広場の右側は庫裡の建物がつづき、一番奥にご本堂が置かれています。この本堂は終戦後の昭和28年(1953)の再建です。ご本堂には白い文字で書かれた「獅子吼(ししく)」の扁額が掲げられています。

ご本堂 Main hall

獅子吼の扁額

「獅子吼」とは釈尊が説法する様子がまるで獅子が吼ええているような様子であることを意味しています。すなわち釈尊が大衆に恐れることなく説法することを指しています。

さ~て、お待たせいたしました。本日のタイトルの「赤穂義士が眠る泉岳寺」の話題へと進んでいきましょう。泉岳寺と言えばまず真っ先に頭に浮かぶのが「赤穂四十七士」です。それと同時に浅野内匠頭長矩が眠る寺として知られています。このため泉岳寺の境内を彩るすべてが赤穂四十七士に関わるものばかりです。

それでは順番に見学していくことにしましょう。参考までに泉岳寺境内に置かれている赤穂四十七士の記念碑の簡単な見取り図を下記に掲載いたします。



境内の広場から左手へと伸びる細い道を進んでいきましょう。この細い道の突き当りに赤穂四十七士の墓があります。
そんな道の脇に現れるのが「主税梅と瑤池梅」です。この主税梅は大石主税がお預けになった松平家の三田屋敷で切腹した庭に植えられていた梅の木と言われています。
また瑤池梅は義士の墓守をした堀部妙海法尼瑤泉院から賜った鉢植えの梅をここに移植したものと言われています。

そして少し進むと、こんどは「血染め梅・血染め石」が置かれています。これらは浅野内匠頭長矩が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられている梅の木と庭石です。

血染め梅・血染め石 Chizome plum tree and stone

御存じのように、浅野内匠頭長矩は元禄14年3月14日に江戸城内松の廊下で吉良上野介に対して刃傷事件を起こして、即日切腹を言い渡されたました。なんと享年35歳という若さです。
そして「風さそう 花よりもなお 我はまた 春の名残りを いかにとやせん」という時世の歌を残しています。

そして次に玉垣に囲まれた場所に置かれているのが「首洗い井戸」です。時は元禄15年師走の14日、赤穂四十七士が本所松坂町の吉良邸に討ち入り、見事、主君の仇である吉良上野介の首をあげ、泉岳寺に眠る主君の墓前に首を供える前に、この井戸で首を洗ったと伝えられています。

首洗い井戸 Kubi-arai well

このあと、右手に「天野屋利兵衛」の顕彰碑が現れます。この人物は大阪の商人で浪士たちの討入りを支援したと伝えられています。しかし浪士の討入り前に、浪士たちに槍20本を送ったかどで捕縛され拷問にかけられました。
しかし拷問にも白状しなかったのですが、浪士たちの討入り成功後に自白したといいます。
尚、仮名手本忠臣蔵の中では「天河屋義平」の名で登場し、「天河屋義平は男でござる。子にほだされて存ぜぬことを存じたとは申せぬ」なんていう名台詞が有名になりました。

天野屋利兵衛の顕彰碑

顕彰碑に刻まれた文字の一番下の二文字「浮図(ふと)」とは塔、仏塔さらには僧侶や仏教徒の意味を持っています。

天野屋利兵衛の顕彰碑を過ぎると、石段が現れます。この石段を上ると赤穂四十七士と浅野内匠頭長矩そして正室の阿久里姫(瑤泉院)の墓へと通じていきます。

浅野内匠頭長矩墓

その石段を上ったところに門が置かれています。この門はもともと浅野家の上屋敷(鉄砲洲)の裏門として使われていました。

墓域へと通じる門 Gate to Ako Gishi's Graves

それでは墓域へと歩を進めてまいりましょう。私たち日本人にとって「忠臣蔵」「赤穂浪士」「仇討」はいつの時代でも誰もが感動し涙するドラマではないでしょうか。判官贔屓なんて言葉もありますが、この赤穂浪士の義挙は日本人の血にながれる「武士道」「忠君」「潔さ」を長く伝える美談そのものであると感じます。

そんな義士たちが眠る墓域は泉岳寺境内の中でも特別な場所です。むしろ霊域といってもいいような佇まいを見せています。
そんな霊域に眠る義士たちの墓の配置図を下記に掲載します。

赤穂義士の墓域図

御存じのように赤穂浪士の方々は討入り後、4家の大名家にお預けになりました。その内訳をみると、大石内蔵助吉雄を含む17名は肥後熊本54万石の細川家、大石主税や堀部安兵衛など10名は伊予松山藩15万石の松平家、その他10名が長府藩6万石の毛利家、そして9名が三河岡崎藩5万石の水野家にそれぞれ分かれて預けられました。

しかしこれら4家に預けられた人数の合計は46名です。おやっ、おかしいな! 赤穂浪士は四十七士なはずですが……?
一人足りません。実は、この一人は「寺坂吉右衛門」という人物です。

この寺坂吉右衛門は討入り後、大石内蔵助の密命をおびて行方をくらませています。その後、討入りから20年後に江戸に戻り曹渓寺(麻布)の寺男になっています。そしてこの寺の口利きで土佐山内家の分家に仕官し、82歳で亡くなっています。そして墓は曹渓寺に置かれています。

浪士の墓は前述の4家ごとに分けて配置されています。そして墓石を数えると全部で48基あります。は~て、これもおかしいな! 赤穂浪士は四十七士なはずですが……?

墓域への石段

これにも訳があります。上記の寺坂吉右衛門は四十七士の一人ですから問題ないのですが、もう一人はいったい誰なのでしょうか? その一人が実は「萱野三平」という人物です。この方は討入りには参加していない人物です。

萱野三平はもともと討入りメンバーの一人だったのですが、父親と意見が合わず、最終的に討入りに加わることができず、討入り前の元禄15年1月14日に26歳で自刃しました。このため彼の志を顕彰する目的で四十七士と共に祀られています。
よって先の寺坂と萱野三平の2名を加えて、48基の墓石が置かれています。

岡崎藩水野家お預けの9名の墓

岡崎藩水野家の墓の一番奥に寺坂吉右衛門の供養墓が置かれています。寺坂の墓には「遂道退身」の文字が刻まれています。
彼のその後に人生を表すように「道を遂げて、身を退く」と刻まれています。

墓石に刻まれた戒名の一番上には「刃」という文字があります。この「刃」の文字の意味は傑出した人物を表していると言われています。また一説には、本来は討入りという罪を犯した罪人なのですが、武士という身分で切腹をしたことを表しているとも言われています。

「刃」の文字

細川家お預けの17名の墓

細川家お預けの17名の墓

毛利家お預けの10名の墓

大石内蔵助の墓

大石主税の墓

赤穂浪士が切腹してから今年(2018)で315年も経っています。長い長い時の移ろいを経ても、未だに日本人の心の中に残る彼らの義挙は未来永劫、引き継がれて行くことと信じています。





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江戸の南西裏鬼門・芝増上寺の東照宮

2011年10月26日 16時28分14秒 | 港区・歴史散策
ご存知のように江戸を政治の中心地とする上で、神君家康公は天海僧正の類い稀なる風水の知識を取り入れ、四神相応を基本理念とした結界を江戸市中に張り巡らしたのです。

芝東照宮

これにより江戸城の北東にあたる重要な鬼門として浅草の浅草寺を置き、その延長上にこれまた重要な東の叡山として東叡山・寛永寺の造営を寛永年間に完成させました。

一方、江戸の裏鬼門をなす西南には結界を繋ぐ五色不動の一つである「目黒不動」を置き、更に寛永寺から江戸城本丸を繋ぐ直線を延長した所に徳川家菩提寺である増上寺を配したのです。

このように江戸の結界を構築した天海僧正は更に強力な鬼門として日光東照宮を造営し、神となった家康公の力を借りて江戸を守護するための結界を完成させたのです。そして家康公を尊敬してやまない三代将軍家光公の御代に江戸の重要な鬼門である上野寛永寺境内に壮麗な社殿をもつ東照宮を造営、さらには西南の鬼門である増上寺領内に家康公の寿像を祀る社殿「安国殿」を設け、大権現家康公の神力をもって江戸の守護と繁栄を願ったのです。

さて現存する上野東照宮の社殿は創建当時の絢爛豪華な粧いで現代に生きる私たちにも神君家康公の神力を授けてくれています。しかし増上寺の東照宮は長い歴史の中で紆余曲折を経て、その姿は上野東照宮の絢爛さの足元に及ばないほど地味なものになっています。

増上寺の東照宮のそもそもの始まりは、神君家康公の遺言により家康公が自ら造らせたご自分の像である「寿像」を増上寺に祀るための堂を創ったことに始まります。その堂は家康公の院号の頭をとつて「安国殿」と付けられ、家光公によってほぼ現在の東照宮が置かれている場所に壮麗な建造物が造営されたのです。その際に家光公がお手植えされた銀杏の木が今でも残り、樹齢300年の堂々とした姿を見ることができます。

現在の安国殿

江戸時代を通じて増上寺の中の堂宇の一つとし大切に扱われてきましたが、徳川幕府崩壊後の明治になってから大権現を祀る安国殿を神仏分離政策により東照宮と名を改めて、本来の安国殿は家康公の守り本尊である「黒本尊」を祀るため改めて増上寺大殿の脇に移され現在に至っています。

そして家康公の寿像を祀る東照宮は明治、大正、昭和とその壮麗な社殿を引き継いでいったのですが、昭和20年の大空襲により灰燼にきしてしまうのです。その際、御神体の寿像はからくも助かったのですが、現在その所在ははっきりしていません。一説によると増上寺に近い芝大神宮に保管されているらしいのですが真意のほどは謎のままです。尚、寿像のレプリカは両国の江戸博物館に展示されています。

芝東照宮石柱

現在の東照宮の社殿は昭和44年に完成したものです。
賑やかな日比谷通りに面して目立たない存在で東照宮の石柱が立っています。ほとんどの方はここに東照宮が置かれていることすら気付かずに通り過ぎてしまいます。日比谷通りから社殿に続く参道が伸び、その参道に鳥居が立っていることで何らかの神社が置かれていることは認識できます。

東照宮参道

その鳥居には東照宮の扁額が掲げられ、その扁額の文字を書いた人物である「家達」という名前が読み取れます。この人物こそ十五代将軍慶喜公の後の徳川宗家を引き継いだ田安亀之助こと家達氏なのです。

東照宮鳥居
鳥居の扁額

家達氏は幼少時にあの天璋院篤姫が手許に置き、養育をしたことで知られています。明治に入り増上寺に東照宮を勧請したことで、徳川宗家を引き継いだ家達氏が扁額の文字を書いたことはしごく当然のように思われます。

鳥居をくぐり石段を登ると東照宮境内に入ります。まず右手には前述の三代将軍家光公がお手植えの大銀杏の木が目に飛び込んできます。現在この木は都の天然記念物の指定されています。おりからの「江」人気に便乗して、木の根元には「社宝・公孫樹 お江の御子三代将軍家光公お手植え」と書かれた板が置かれています。秋深まり紅葉の季節には、この大銀杏も黄金色に染まり美しい姿を見せてくれます。

東照宮境内
家光公お手植えの銀杏
銀杏越しに見える東京タワー

新しく造営された社殿はこじんまりとした佇まいで、絢爛豪華な装いとは言いがたいのですが、拝殿とその後ろに本殿が連結された造りになっています。彩色も地味で向背部分も極彩色の色使いはまったくありません。

東照宮拝殿
東照宮拝殿
扁額

空襲で焼ける前は、おそらく権現造りの素晴らしい拝幣殿、中門そして本殿が配置されていたことでしょう。この東照宮だけでなく終戦間際の大空襲で増上寺境内の徳川家の壮麗な霊廟群もことごとく灰になってしまいました。当寺には現在、国宝にまで指定された霊廟郡の建造物もわずか二代将軍秀忠公の旧台徳院惣門、十二代将軍家慶公の霊廟前に置かれた二天門など数えるほどしか残っていません。

旧台徳院惣門
現徳川家霊廟前の鋳抜門

もし、これら霊廟群が現代まで残っていたのなら、日光東照宮に匹敵する国宝として私たちの目を楽しませてくれたことでしょう。

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「江」が眠る芝・増上寺、戦後初の三門特別公開に行ってきました。





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「江」が眠る芝・増上寺、戦後初の三門特別公開に行ってきました。

2011年10月25日 18時36分50秒 | 港区・歴史散策
NHK大河ドラマ「江」も終盤に入ってきました。今週10月23日(日)は慶長19年(1614)の大阪冬の陣が舞台となり、いよいよ淀殿と秀頼が追い詰められ、家康公が目論む徳川将軍家による天下統治が目の前に迫ってきました。冬の陣の年、江はすでに42歳となっており、長男竹千代君(三代将軍家光公の幼名)も10歳を数えます。

増上寺三門

江の享年は54歳ですからドラマの中では残すところ12年間しかありません。この12年の間には元和元年(1615)の大阪夏の陣、元和2年(1616)の家康公死去、元和6年(1620)の五女・和子の入内、元和9年(1623)の家光公の三代将軍宣下と歴史に残る出来事が次から次へと起こってきます。

そして寛永3年(1626)後水尾天皇の二条城行幸にあたって秀忠、家光、忠長の父子は揃って京都へ向かいます。この記念すべき天皇行幸の日が迫る中で、江の危篤が京へ知らされます。しかし大御所・秀忠も将軍家光も大切な行事をすっぽかして江戸に戻ることができません。ただ次男の忠長だけは特段の許しを得て江戸に向かうのですが、結局、江の臨終には間に合わなかったのです。将軍御台様、将軍の母、ましてや天皇家に嫁いだ娘の母親である江の臨終に夫にも子供達にも会うことができなかったのです。江、54年の人生に幕を降ろした年が寛永3年です。

江の葬儀は死後一ヶ月を経過して、増上寺から少し離れた場所に荼毘所を設け、江戸市中の寺から集まった千人の僧侶が弔いの行列を作り、荼毘所で燃やされた香の煙は空高く立ちのぼり、遥か遠くからでもみることができたと言います。そんな盛大な葬儀にも将軍家光公は参列していません。また夫である秀忠公も京都から大阪へ移動し、葬儀の時はまだ江戸に戻っていませんでした。

そんな「江」が眠る増上寺では現在、徳川将軍家霊廟と三門の特別公開を開催中です。特に三門の内部公開は極めて稀で、今回は戦後初の催しで次回はいつになるかわからないほど貴重な機会です。

増上寺での江フェアと山門公開の知らせ
江フェアのポスター

増上寺の伽藍建築の中でも創建当時の姿を唯一残す三門は国の重要文化財に指定されています。今回の特別公開では三門の楼上二階部分に安置されている天正末期から慶長前半時代に製作された釈迦如来像をはじめ、普賢菩薩像、文殊菩薩像、羅漢像(16体)、歴代の増上寺上人様の像を拝することができるチャンスなのです。

増上寺三門石柱

江戸時代を通じて増上寺の参拝は一般の江戸庶民には許されていませんでした。ただ年に数回だけ江戸庶民に山門への登楼が許されていました。その数回のチャンスに多くの江戸庶民が増上寺に押しかけ、三門の中に鎮座する仏様や羅漢様を拝み、その際に三門の階上から江戸湾の美しい景色や、遥か房総を眺め楽しんだと言います。

三門脚

これまで多くの寺院で三門や楼門を見てきましたが、登った経験はまったくありません。今回初めて寺院の楼門に登ることができたのですが、記念に是非内部の画像をカメラに収めたいとおもったのですが、写真撮影が厳しく制限されて仏像、羅漢様をカメラに収めることができませんでした。

三門の袖口で拝観料(500円)を払い、楼上へと続く細い階段を登っていきます。階段は一方通行となっているので下りの人が降りてくることはありません。

楼上への狭い階段
楼上の回廊から

狭い階段を登りきると、三門の二階部分に設けられている釈迦如来と羅漢様が鎮座する広い板の間に出てきます。創建以来、どれほどの数の人がこの板の間を踏みしめたのか、時の流れと歴史の深みを湛えるような空間が広がっています。

外光だけが射し込む楼上の板の間の片側に黄金に輝く釈迦如来、普賢菩薩、文殊菩薩、羅漢像、歴代上人像が居並ぶように座しています。三門の楼上に人しれず安置された仏様と対面しながら、寺院の入口に置かれた三門の意味を改めて思い知らされた瞬間でした。寺院に参拝するものがまず煩悩を捨てる場所として三門をくぐり、浄土へと誘われる入口が即ち山門であるということ。そのために三門楼上に仏像が安置されているということだったのです。

階上の窓から、かつて江戸庶民が見たと思われる江戸湾の方向にカメラを向けてシャッターを落としました。ファインダーの向こうには大門と浜松町の街並みが広がっています。

楼上から見た浜松町方面

この三門の一般公開は本年11月30日(水)まで行われています。めったにない機会ですので、是非参拝されることをお薦めいたします。

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お江戸元麻布の善福寺に幕末アメリカ公使館跡の名残りを偲ぶ

2011年02月15日 11時24分41秒 | 港区・歴史散策
お洒落な雰囲気を漂わす麻布十番をそぞろ歩きしながら、お江戸の時代からこの界隈は門前町としての賑わいを見せていたのです。そんな様子を今に伝える「江戸名所図絵」には古刹「善福寺」の山門にいたる麻布十番通りの町屋の連なりや参詣に訪れる人々が描かれています。

江戸名所図絵「善福寺」

江戸名所図絵にも麻布十番通りと思える道が善福寺山惣門までつづき、惣門から勅使門(中門)へと参道がのび、石段をのぼっていくとご本堂が構える構図は現在見る姿と寸分の違いもありません。そして参道に沿って善福寺の塔中や子院が並んでいる様子は現在も変わっていません。

最初のアメリカ公使館の石柱

善福寺は麻布の中心ともいえる寺で江戸府内では淺草の浅草寺に次ぐ古刹です。山号は麻布山。
この古刹がさらに有名になるのは幕末に日本で最初のアメリカ合衆国公使館となったことです。安政5年(1858)六月に締結された日米修好通商条約でそれまで下田にいたアメリカ総領事ハリスは公使に昇格し、翌六年八月に幕府が米国の公使館とした善福寺に入居しました。通訳官ヒュースケンら一行20名がここ善福寺に在留し、執務は奥書院と客殿を使っていましたが、文久3年(1863)の水戸浪士による放火で焼失してしまいました。その後は本堂や開山堂を居所や応接間に利用していました。

勅使門
本堂
開山堂
鐘楼

境内には推定樹齢750年以上、幹回りが10.4メートルもの都内最大の銀杏の木(国指定天然記念物)や墓地の入口付近には越路吹雪の碑が置かれています。

大銀杏
越路吹雪の碑

そしてかつてこの寺が最初のアメリカ合衆国公使館であったことを示す「ハリス記念碑」が本堂前広場に建てられています。一枚岩の立派な記念碑にはハリスの肖像と最初のアメリカ公使館がこの寺に置かれたことを記述した英文が刻まれています。

ハリス記念碑
碑面

ON THIS SPOT
TOWNSEND HARRIS OPENED
THE FIRST AMERICAN LEGATION
IN JAPAN JULY 7 1859 

尚、ここ善福寺に置かれたアメリカ合衆国公使館は明治8年(1875)12月に築地の外国人居留地内に移ります。維新後、8年余りはここ善福寺が日米の外交の舞台となるのですが、おそらく山門には星条旗がたなびき、麻布十番の門前町は外交官が乗る馬車や多くの外国人が行き交う国際色豊かな地域であったのではないかと思いつつ、善福寺を後にしました。





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お江戸幕末・激動の歴史を刻むイギリス公使館「東禅寺」に漂う京を思わせる古刹の佇まい

2011年02月14日 12時35分24秒 | 港区・歴史散策
高輪に残る幕末の残照を巡りながら、ふと思い出したのがお江戸の内府に設けられた異国の公使館跡を訪ねてみることです。

幕末といえば尊皇攘夷の掛け声とともに、その最右翼でもあった水戸、長州の藩士や浪士による外国人や外国公館への度重なる襲撃を思い出します。安政5年(1858)6月に幕府は歴史的な日米修好通商条約が違勅という形で締結されるや、同年7月に蘭、露、英、9月には仏と次々に条約を締結していきます。
そして翌年安政6年5月には神奈川、長崎、函館の三港を開き、露、仏、英、蘭、米の五ヶ国に貿易の許可を与える事になったのです。これらはあの安政の大獄が激しさを増している最中の出来事です。

西欧列強との条約調印がなった安政6年から顕著になったのが「夷人斬り」と言われる外国人殺傷事件です。最初の「夷人斬り」は同年7月に起きたロシア艦隊の士官と水夫3名の殺傷事件です。10月にはフランス公使館の清国人、元号が変わり翌年万延元年の正月7日にはイギリス公使館付きの通詞・伝吉が刺殺、そして12月にはハリスの片腕で米国の通訳官ヒュースケンが襲撃され落命するという惨劇が繰り返されます。

東禅寺門前の石柱

そしてここ東禅寺を舞台とした事件が起きたのが文久2年5月(1861)の第一次東禅寺事件と呼ばれる襲撃事件です。イギリスの仮公使館として使われていた東禅寺が水戸浪士ら14名に襲撃されたこの事件は公使オールコックが長崎から日本国内を旅行して江戸に戻ってきた翌日に起こったのです。襲撃理由は夷人が国内を歩き回ったことで「神州が汚された」と考えたから。

さらに1年後の文久3年5月(1862)には同公使館の警備にあたっていた松本藩士が館内に侵入し、水兵2名を殺傷する事件が起こります。これが第二次東禅寺事件と呼ばれるものです。

こんな幕末「夷人斬り」の舞台となった東禅寺は今、150年前の凄惨な事件があったことが嘘のように静かな空気に包まれ、まるで京の古刹が東京にやってきたような雰囲気を漂わせていました。

第一京浜からなだらかな坂道を少し進んだ高台の中腹に位置する門前には「最初のイギリス公使宿館跡」の石柱が建ち、その背後に二天像を従えた山門が威厳を感じさせるように構えています。山門をくぐると木々に覆われた参道が境内へとのびています。この参道を襲撃浪士たちが走りぬけていったのかと思うと感慨深いものがあります。

東禅寺山門
二天像
二天像
境内へつづく参道

境内に入り、眼に飛び込んでくるのが立派な三重塔とご本堂です。ご本堂には海上禅林の額が掲げられています。禅林とあることからこの古刹が禅寺であることがわかります。この海上禅林の名の由来はかつては眼前に江戸湾が広がっていたことから名付けられたようです。幕末の頃、江戸湾の波打ち際は現在のJRが走っている線路の辺りだったのです。東禅寺を背にしてわずか数百メートル先に江戸湾の風向明媚な光景が広がっていたのでしょう。

>鐘楼
本堂
三重塔


特に三重塔は高輪という地の一角にありながらそれほど目だった存在ではないのです。外部の喧噪から隔絶されたような静かな境内は京都の寺に迷いこんだような錯覚に陥ります。

境内俯瞰





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お江戸五之橋・幕末外国人殺傷事件ヒュースケンが眠る光林寺

2011年02月13日 21時49分29秒 | 港区・歴史散策
ペリーの浦賀来航により、幕内は260年の永きに渡る鎖国政策の是非を問う喧喧諤諤の論議が始まります。その魁としてペリー来航の翌年(安政元年/1854)に日米和親条約が締結され、いよいよ日本は西欧列強との本格的な外交が始まります。

そしてついに幕府大老・井伊直弼は違勅を顧みず、米国との間で日米修好条約を調印を皮切りに、堰を切るように西欧列強との間で条約の調印を進めていったのです。

この条約調印に伴い、それまで江戸から離れていた場所に置かれていた各国の公館が江戸市中に移設され、そのほとんどが寺院の中に開設されていきました。そんな各国の公館となっていた寺院がお江戸の高輪に集中していることはそれなりに理由があったはずです。

その大きな理由として、高輪という土地は今でもそうなのですが起伏の多い高台となっているのです。その高台には「石を投げれば寺にあたる」というくらいに寺が密集しているのです。
この土地が高台であることから、天然の要衝として独立性が高く、そのため不穏な行動に対して防衛しやすいという利点があったと考えるべきでしょう。幕府は攘夷が吹き荒れる当時の状況を勘案した結果、高輪の高台に各国の公館を集め、攘夷派の攻撃に対処しようとしたのです。そして幾つかの寺院が公館として選ばれたのです。

幕府の思惑に反して、攘夷派による外国人襲撃と寺院攻撃は次から次へと起こり、その度毎に幕府は各国に陳謝、そして賠償金支払いを繰り返していたのです。

そんな幕末に起きた外国人襲撃事件の中から、今日は初代米国総領事タウンゼント・ハリスに雇われて来日し、ハリスの秘書兼通訳を務め若干28歳で攘夷派志士のよって殺害されたヒュースケンを取り上げてみました。

ヒュースケンが日本にやってきたのは幕末の安政3年(1856)、彼が24歳の頃です。西欧列強が植民地政策を推し進めていた時代に、24歳の若きヒュースケンにとってはまだ見ぬ極東の島国「日本」という国は彼自身の興味と探究心を満たしてくれる恰好の世界だったのではないでしょうか。

大国アメリカの総領事であるハリスの後ろ盾があればこそ、ヒュースケンの若気のいたりともいうべき行動の中に、ある種驕り的な振る舞いもあったのではないでしょうか。その一例として自分の愛馬に跨り、有頂天になって走り回っている様子が絵に残されています。そんな姿を見た攘夷派志士たちはおそらく腹立たしさで煮えくりかえっていたのではないのかと想像します。

そして事件が起こるのです。万延元年(1861)12月、その日、ヒュースケンは芝赤羽接遇所(港区三田)のプロシア使節宿舎でプロシア全権大使オイレンブルグと一緒に食事をしたのでした。食後、アメリカ公使館のある高輪の善福寺へと向うのですが、芝赤羽接遇所を出て百歩足らずのところで攘夷派の薩摩藩士、伊牟田尚平・樋渡八兵衛ら7名の志士に襲われたのです。
幕府の役人が護衛についていながら、いとも簡単に襲われ、外交官が命を落としてしまう参劇に在留外国人たちは恐怖におののいたことでしょう。わずか4年の在日期間、母国に帰ることなく28歳の若さで異国の地で短い生涯を閉じたのです。

ヒュースケンの墓は米国の公使館があった善福寺ではなく、同じ高輪の光林寺に置かれています。これは善福寺では土葬が禁じられていたため、キリスト教徒であるヒュースケンは土葬可能な光林寺に埋葬されたのです。

光林寺山門
光林寺山門


光林寺は古川の流れに架かる五之橋を渡った袂に建っています。黄色の築地塀に歴史を感じさせる山門が迎えてくれます。山門をくぐると正面に立派な装いの「方丈」がど~んと構えています。方丈の庭先の梅の木には冬の陽射しの中で可憐な紅梅の花が静かに揺れています。

方丈
方丈前の梅

寺の境内に入る前に、ヒュースケンの墓の位置を確認しておかないと、見つからないほど墓は簡素なものです。想像を裏切るといってもいいくらいに、墓は隅に追いやられたように侘しく佇んでいます。和洋折衷のような墓石に刻まれた十字架と名前、誕生地、没地がうっすらと読み取れます。

ヒュースケンの墓
墓石に刻まれた文字

SACREDto the memory of
HENRYC JHEUSKEN
Interprcter to the AMERICAN LECATION
in Japan

BORN AT AMSTERUAM
January 20 1832

DIED AT YEDO
January 16 1861

そしてヒュースケンの墓のそばにイギリス公使オールコック付きの日本人通詞伝吉/小林伝吉の墓が置かれています。

伝吉の墓

ボーイの伝吉は、あのジョセフ・ヒコと同じ船(栄力丸)で遭難した漂流民である。アメリカ船に助けられ、のちに中国に渡りイギリス公使館付通訳として帰国を果たしました。しかし彼は驕慢な性格の持ち主で、また日本人女性を外国人に斡旋していたことが発覚したことから攘夷派浪士に狙われるところとなり、安政七年(1860)一月、イギリス公使館が置かれていた東禅寺門前で何者かに刺殺されました。

伝吉の墓に刻まれた英文字

伝吉の墓石の裏面にも英文で名前が刻まれていました。





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お江戸三田魚藍坂・赤穂浪士切腹を唱えた荻生徂徠先生が眠る長松寺

2011年02月11日 23時03分24秒 | 港区・歴史散策
日本橋茅場町のど真中、永代通りに面する場所に蕉門十哲と言われた宝井其角の草庵・江戸座があったのですが、なんとその草庵に隣接して徂徠先生の屋敷が広がっていたといいます。ちょうどこの界隈には江戸時代から庶民の人気の寺社として有名な茅場町薬師や日枝神社が鎮座しているところです。

茅場町に建つ其角住居跡碑

徂徠先生が茅場町に屋敷を構えたのは将軍綱吉公の死後、側用人であった柳沢吉保の失脚とともに徂徠はそれまで世話になっていた吉保の屋敷を去らなければならない事情があったからです。
そして44歳になった徂徠先生がこの茅場町に開いたのが「�擂園塾」です。前述の其角とご近所づきあいがあったのかどうかは定かではありませんが、隣に屋敷を構える徂徠先生に親しみを感じていたような其角の句があります。
「梅が香や隣は荻生惣右衛門」

荻生徂徠像

そんな徂徠先生は儒学者・思想家・文献学者として幕府の御用学者として名声を博し、将軍吉宗公には従来の儒教思想を発展させた政治と宗教道徳を分離する政治改革論「政談」を提出したことは良く知られています。

また、あの元禄の大事件「赤穂浪士討入り」後の幕府内での処分裁定論議では強硬に義士切腹論を唱えた事で知られています。「武士たる者が美しく咲いた以上は、見事に散らせるのも情けのうち。武士の大刀は敵の為に、小刀は自らのためにある。」と浪士たちをおもんばかっての自論を展開をしたのです。

そんな徂徠先生は多くの門弟を育て、享保13年(1728)に63歳で亡くなり、桜田通り沿いの三田魚藍坂に近い長松寺の墓地に眠っています。

荻生徂徠墓の石柱

長松寺はやや急な坂を登ったところに山門を持つ高台の古刹です。その坂道が始まる歩道脇に「荻生徂徠の墓」の石柱が建っています。山門を入るとそれほど広くない境内の右手にご本堂が建ち、境内の一番奥に墓地が広がっています。

坂上の高台に建つ長松寺山門
長松寺ご本堂

その墓地の一角にそれらしい墓石が並ぶ場所があります。お墓は徂徠先生単独の墓石だけかと思っていたのですが、実は荻生家代々の方々のお墓が一角にまとめられていました。
徂徠先生の墓はどこに置かれているのか、一瞬戸惑いましたが、墓域の説明書が掲示されていたのですぐに判明しました。

荻生家の墓域
徂徠先生の墓

静寂に包まれた荻生家の墓域は幕府の御用学者という崇高な香りを漂わすように、それぞれの墓石には偉大な業績を称えるように「先生」という文字が刻まれています。

長松寺からさほど離れていない路地の入口に「幽霊坂」の道しるべが建てられ、そこから一直線に細い坂道が伸びています。

>幽霊坂の道しるべ

いまでこそコンドミニアムや住宅が立ち並ぶ地域なのですが、かつてはお寺がこの路地に沿ってたくさん密集していたようです。お寺と言えば、お墓があります。このためお寺が密集する場所に通じる坂道であることから「幽霊坂」と名付けられたのです。
興味本位にこの坂道を上がってみました。確かにお寺が次ぎから次へと現れてきました。昔は日没後はちょっと気持ち悪い坂道だったことでしょう。





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お江戸高輪・天下のご意見番「大久保彦左衛門」所縁の寺~立行寺

2011年02月10日 21時50分11秒 | 港区・歴史散策
東京でも一二を争うほどのお洒落な住宅地高輪、白金には由緒ある寺院が密集していることで知られています。瀟洒なコンドミニアムが似合う高輪界隈の路地を徘徊していると、角ごとに次から次へとお寺が顔を出すといった具合です。寺好きの私にとっては高輪、白金地区はまさに歴史散策の素材の宝庫といったことろです。

立行寺山門

その高輪、白金地区で是非訪れてみたかった寺が立行寺なのですが、当寺にはお江戸の初期の頃に活躍したあの直参旗本「大久保彦左衛門」の墓があるのです。私にとって、大久保彦左衛門は幼い頃に連れていかれた映画の中でしょっちゅう登場してくれた人物であったのですが、父親に毎週日曜日に連れていってもらった映画館で上映されていたのが東映の時代劇で、ストーリーも判らず見ていた画面にしばしば登場したのが、どういうわけか大久保彦左衛門と一心太助だったのです。そしておぼろげながら一心太助役がいつも堺駿二(堺正章のお父さん)であったことを覚えています。しかしあの映画の題名はいったい何だったのか知るよしはありませんが、大久保彦左衛門が登場していたことから考えると、おそらく家康、秀忠そして家光公の時代の物語だったのでしょう。

この方、大久保彦左衛門は十六歳で元服し、家康の元で大阪の陣にいたるまで数々の武功を挙げてきました。開幕間もない頃に駿府にいた家康公に召し出され、そのときに直参旗本に任ぜられ、三河国額田郡坂崎の千石を賜りました。そしてその後に千石が加増され知行(領地)二千石の旗本となりました。
とはいえ、たかだか二千石の貧乏旗本であった彦左衛門が「天下のご意見番」と言われる理由には、実は徳川家康が臨終のとき、彦左衛門に残した遺言があるのです。
「彦左衛門のわがまま無礼を許す。今後将軍に心得違いがあるときは、彦左衛門に意見させよ」-これが「天下のご意見番」ならしめた理由なのです。
それがゆえに結構めちゃくちゃなことも平気でできたのしょう。それは有名な「たらいに乗ってのご登城」の話です。旗本以下の駕籠を使っての登城が禁止されたことに対し、「年寄りや病人など足の不自由な者もいるのに、それをとどめるとは言語道断」。彼はそう言って、大たらいに乗ってで登城したそうな。それを見とがめた役人に「たらいは駕篭にあらず」と一喝。でも、この噺は真実かどうかわかりません。

こんな破天荒な方の墓はきっと期待を裏切らないだろうと勇んで立行寺へと向った次第です。立行寺は地下鉄南北線の白金高輪駅から徒歩数分の距離にあります。桜田通りから角を曲がると前方に山門が見えてきます。赤く塗られた山門を見る限り、この寺が江戸初期の寛永7年(1630)に創建された名刹とは思えない雰囲気を漂わせています。そもそも当寺は寛永7年(1630)に現在の六本木の土地に「大久保彦左衛門」によって創建されました。このため別名「大久保寺」と呼ばれています。

立行寺山門

山門をくぐると正面にご本堂、そして境内の左手に鐘楼が配置されています。境内には大きな一枚岩の「大久保彦左衛門忠教頌徳碑」とこの碑の傍らに「一心太助碑」が仲良く並んでいます。

立行寺ご本堂
鐘楼
大久保彦左衛門忠教頌徳碑
一心太助碑

この一心太助という人物ですが、そもそも鶴屋南北の弟子河竹黙阿弥(1816-1893)が書いた歌舞伎の演目で世に知られるようになり、その後講談・小説などに登場した実は架空のキャラクターなのです。ですが、ここ立行寺には一心太助のお墓らしきものが、彦左衛門の墓のすぐ側に置かれているんですね。一説によると、一心太助なる人物は彦左衛門の草履取りだったとも言われているのですが、はたして事実かどうか?

ご本堂の左手一体が墓地が広がっているのですが、さすが彦左衛門自らが創建した寺ということもあって、大久保家の墓地は鞘堂付となっているのですぐに判ります。

墓地内に建つ大久保家の鞘堂付墓地
大久保家の鞘堂付墓地

どれどれどんな意匠のお墓かな?と鞘堂へと石段をのぼっていきます。鞘堂内には幾つもの宝塔が並び、大久保家代々の方々が眠っています。
さ~て、彦左衛門爺の墓はどれかな?
なんと扉の付いたお堂の中に納まっているではありませんか。お堂の扉には大久保家の家紋「のぼり藤に大」が嵌め込まれています。彦左衛門の宝塔はお堂の扉に遮られて、よく見えませんでした。
そして、大久保家の鞘堂の脇に、一心太助なる人物の「石塔」が置かれています。

木製のお堂が彦左衛門の墓
大久保家の家紋
一心太助の石塔
境内の梅の花

尚、大久保彦左衛門の江戸屋敷は現在のJR御茶ノ水駅から至近の杏雲堂病院が建つ場所にありました。





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お江戸・愛宕神社~幕末のページを飾った水戸尊王志士が集い、勝・西郷が揃って江戸府内を眺めた場所~

2010年12月22日 22時44分22秒 | 港区・歴史散策
都心のほぼ中心といってもいい場所にある愛宕神社は桜田通りと日比谷通りに挟まれたビジネス街を見下ろす高台に位置しています。多くのビジネスマンが忙しく行き交う通りから少し奥まったところに、あの有名な石段がまるで垂直の壁のように山の頂上へ伸びています。

愛宕神社一の鳥居

へえ~、これがあの平九郎が馬に乗って上り下りをした石段なんだ。と改めて感心するほどの急峻な石段なのです。「改めて」と書きましたが、若い頃にはこの界隈は取引先や航空会社のオフィス、各国の政府観光局などへの行き来にしょっちゅう歩いた場所で、いまさら愛宕神社もないだろう、という気持ちがつよいのですが、実は個人的に愛宕神社をゆっくりと時間をかけて参拝するのは初めてかもしれません。

出世の石段
下から見上げる石段

前述の石段を上った記憶も定かではない位に、愛宕神社への参拝の思い出はかなり希薄になっていました。そんなことで、平九郎の石段を眺めながら、あの逸話が事実なのかという疑問と、事実であれば人間離れした快挙であったのだろうと改めて感心した次第です。

さてこの「平九郎」なる御仁のことですが、このような逸話が残っているのです。
時は江戸時代、三代将軍家光公の御代のことです。ある時、家光公が増上寺参詣の帰路にここ愛宕山のふもとにさしかかりました。その時、山頂に梅の花が咲き誇っていたのをご覧になり、一言こう言ったそうです。
「誰か、馬にてあの梅をとってまいれ!」と。
しかし、この愛宕山の石段はあまりにも急峻で、とても馬に乗って上り下りできるようには見えません。
家臣たちは皆押し黙り、一様に静まり返っています。
しばらくの沈黙を破って、一人の男が馬に乗って石段を上り始めたのです。
これを見た家光公は「あの者は誰ぞ」と供の者に聞くと、近習の者が「おそれながら、あの者は四国丸亀藩の家臣で曲垣平九郎(まがきへいくろう)と申す者でございます」と声高に伝えたのです。
そして家光公は「この泰平の世に馬術の稽古怠りなきこと、まことにあっぱれである」と賞賛したといいます。
平九郎は山頂の梅を手で折り、垂直の壁のような石段を馬で降りて家光公の御前に梅を献上したのです。
このあっぱれな所業に平九郎は家光公より「日本一の馬術の名人」の称号を与えられ、その名誉は日本中に伝えられたといいます。
この逸話に因んで、愛宕神社正面の急峻な坂(男坂)を「出世の石段」と呼ばれるようになったのです。

この石段は全部で86段、傾斜角度37度、高低差20mという代物です。上りは息は切れるわ、膝が笑うほどガクガクの状態。下りは足がすくむほど恐怖感を覚える始末。よくぞこの石段を馬で上り下りができたものかと…。

息をきらしてのぼった山頂でしばし地べたにしゃがみこむという体たらく。呼吸を整え、社殿へと進みます。
江戸の愛宕神社は慶長8年(1603)に家康公が征夷大将軍に宣下された年に創建された神社です。いよいよ江戸の大普請が始まる頃、家康公じきじきに創建した由緒をもつ江戸の愛宕神社は一説によると、純粋な信仰というより、愛宕山自体が主要街道の中心にあり、江戸城も近いこともあわせて、「隠し砦」としての役割もあったのでは?と推測されています。

愛宕神社本殿

境内には前述の平九郎の手折りの「梅」の老木が残っています。家光公の時代の事ですから、この梅の樹齢は380年くらいはあるのかな?

手折りの梅

そして江戸末期のエピソードとして伝わっているのが、あの桜田門外の変の首謀者である水戸浪士たちが井伊直弼襲撃の前にここ愛宕神社に参拝し、その後、桜田門へと向かったという話。万延元年の3月3日の午前、愛宕山からみる江戸城方面は一面の銀世界が広がり、降り続く雪でほとんど視界が閉ざされていたことでしょう。
そんな気象条件のもとで、水戸浪士たちは降り積もる雪の上を一路、桜田門へ向かったのでしょう。血気にはやる浪士たちの気持ちになって考えて見ても、防寒具がそれほど整っていない時代に、降り積もる雪の上を愛宕山から歩き、桜田門外で井伊直弼の行列をいまか遅しと待つ忍耐力に感服せざるを得ません。

境内の池

この桜田門外の変から8年後の慶応4年の歴史的な出来事は、幕府全権の勝海舟と東征軍参謀の西郷隆盛の2度に渡る会談でしょう。東征軍の江戸総攻撃は3月15日に決定していたのですが、これに対して勝海舟のギリギリの交渉が3月13日に始まります。この交渉が始まる前に設定されたのが、勝と西郷が揃って愛宕山から江戸府内を俯瞰するというセレモニーなのです。そのとき、どちらともなく「この江戸の町を戦火で焼失させてしまうのはしのびない」という言葉が出てきたといいます。そして、13日、14日両日に渡る会談で江戸城無血開城が決定したのです。

山頂から見下ろした石段

現在、桜田門外の変の水戸浪士の痕跡や勝と西郷の愛宕山会見の名残りは何もありません。ですが愛宕の山だけは江戸時代からなにも変わらない姿で今もお江戸の町を見下ろしています。





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お江戸芝、東京タワー直下の深山幽谷・紅葉で色づく「もみじ谷」はまだ秋の風情~

2010年12月22日 16時25分38秒 | 港区・歴史散策
11月の陽気を思わせる今日22日、暇にあかせて神谷町愛宕山から東京タワー直下までそぞろ歩きを愉しみました。愛宕山から御成門側をそれて、東京タワーを真上に仰ぐ距離に連なる「もみじ谷」へと分け入ります。
「分け入る」という表現がびったりの深山渓谷の姿が残るのが「もみじ谷」です。

都心とは思えないもみじ谷の風景

一歩足を踏み入れると、真昼にもかかわらず鬱蒼と繁る木々の葉で陽射しが遮られ、その木々の葉の間からの木漏れ日がまるでスポットライトをあてているかのように静かな谷あいを浮かび上がらせます。
これが都心の真ん中にある光景なのかと、目を疑う自然豊かな世界が展開していきます。遊歩道の両側はまるで黄色い絨毯を敷き詰めたように、落ち葉が折り重なり渓谷の薄暗さの中で美しいコントラストを見せています。



このもみじ谷は二代将軍秀忠公が江戸城内の現在の吹上地区にあった「紅葉山」からカエデなどを移し替えたことから「紅葉山」と呼ばれて、江戸時代を通じて庶民が遊山を楽しめる紅葉の名所としてたいへん人気があったところです。江戸城内の紅葉山には大権現の称号をもつ家康公から六代将軍家宣公までの霊廟が置かれていた徳川家の聖地であったところです。秀忠公の時代に芝に紅葉谷が造られたことは、家康公の帰依によりここ芝に寺領を与えられた増上寺と関係があるのではないかと推察します。

もみじ谷には常に清らかな水音をたたて流れる清流と滝があります。周辺の喧騒もどこ吹く風と、もみじ谷の静かな空気の中で、滝から流れ落ちる水音だけが心地よく耳に伝わってきます。滝の周辺のカエデが師走の半ばすぎというのに色鮮やかな紅葉で彩られています。

もみじ滝
もみじ滝周辺の紅葉
もみじ滝周辺の紅葉

もみじ谷の木々の間から、東京タワーの赤と白に塗られた鉄塔が見え隠れします。ここまできたついでに東京タワーの直下へ行ってみました。ご存知のように下町向島に世界一の高さとなる「スカイツリー」が建設中ですが、すでに500mをはるかに越えて、634mの高みをめざし着々と工事が進んでいます。スカイツリーがすでに東京タワーよりもはるかに高い背丈となっているのですが、東京タワーを真下から眺めると回りの高層ビルを圧倒するかのような高さがあることに改めて感心します。

 
 


青空を背景に赤と白を基調にした塗装が冬の陽射しに映え、その美しい曲線と相まって一層その色を際立たせています。





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