四谷界隈の入り組んだ裏路地を散策している途中、ふと出くわした寺が西念寺です。なにげなく山門脇の案内板を読みすすむと、なんとあの「槍の達人」として有名な服部半蔵が眠る寺であることが判りました。
西念寺本堂
山門からは境内に静かに佇むご本堂が目に入ります。まずは半蔵の墓を目指して境内へと進んでいきます。ご本堂の前を過ぎてほんの少し進んだ左側にその墓が置かれています。盛りを過ぎた八重桜の花びらが半蔵の墓の周囲を埋め尽くしています。
服部半蔵の墓
服部半蔵の墓
宝篋印塔(ほうきょういんとう)型の墓はどっしりとした趣を醸し出し、さすが神君家康公に使えた武将らしい佇まいを見せています。またここ半蔵の墓だけが竹の柵で囲われ、なにやら特別な扱いを施されているような雰囲気を漂わせています。
半蔵は神君家康公の家臣であったことは言うまでもありませんが、「徳川十六将」の一人で「大半蔵」と呼ばれていました。本能寺の変の時、たまたま堺に滞在していた家康公を護衛しながら伊賀を越えて無事国許に帰還させるという武勲を挙げています。そして家康公が江戸入府後は江戸城の警備を担当し、現在ある皇居の半蔵門近くに屋敷を構えていたことから、「半蔵門」という地名の由来ともなっています。
墓の台座には「安誉西念大禅定門」と刻まれ、左側には「三州住人服部石品五十五才」の文字が読み取れます。半蔵の法名の中に「西念」とあることから、この法名が寺名になったのでしょう。
半蔵の墓を後にしてご本堂の右脇の細い道の向こうになにやら案内板らしきものが立てられているのに気が付き、進んでいくとなんと家康公と築山御前の間の嫡子として生まれ、その後、信長公の娘である「徳姫」と結婚した「岡崎次郎三朗信康」の供養塔が立っているではありませんか。
岡崎次郎三朗信康の供養塔
この岡崎次郎三朗信康については悲運の人物として語られていることで知られています。信長の娘「徳姫」と結婚した信康だったのですが結婚後、徳姫は父信長に夫である信康との不和、乱暴な手打ち、甲州武田との接触など12ヶ条にわたる所業をしたため送ったのです。このことで信長は激怒し、反逆の意ありとして信康の自刃と併せ、信康の母であり家康の妻である築山殿の殺害をなんと家康公に命じたのです。
岡崎次郎三朗信康の供養塔
天正7年(1579) 9月15日、家康は信康を二俣城へ送り、城主大久保忠世、使者天方通綱(あまかたみちつな)、服部半蔵に命じて、信康に腹を切らせた。このとき半蔵は信康の介錯をすることができなかったといいます。
このとき検使をつとめたのが半蔵なのですが、信康の自刃が半蔵の心の中で深い傷となっており、半蔵の隠居と同時に信康供養のため西念寺を創建したと伝えられています。このことは父・家康公にとっても悔いの残る出来事だったと推察します。戦国時代とはいえ自らの家を守り、生き延びるために自分の長男までをも切腹させなければならなかった事情を察するに、忠実な家臣であった半蔵の気持ちとすれば信康供養のために当寺を創建したのではと考える次第です。尚、信康の墓は天竜市の清竜寺にあります。
供養塔の三つ葉葵
供養塔前の石造の門扉には徳川家の御紋である三つ葉葵がきちんと刻まれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/ad/e684f0f4619ea5407c52c65d4f5c0c14.jpg)
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山門からは境内に静かに佇むご本堂が目に入ります。まずは半蔵の墓を目指して境内へと進んでいきます。ご本堂の前を過ぎてほんの少し進んだ左側にその墓が置かれています。盛りを過ぎた八重桜の花びらが半蔵の墓の周囲を埋め尽くしています。
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宝篋印塔(ほうきょういんとう)型の墓はどっしりとした趣を醸し出し、さすが神君家康公に使えた武将らしい佇まいを見せています。またここ半蔵の墓だけが竹の柵で囲われ、なにやら特別な扱いを施されているような雰囲気を漂わせています。
半蔵は神君家康公の家臣であったことは言うまでもありませんが、「徳川十六将」の一人で「大半蔵」と呼ばれていました。本能寺の変の時、たまたま堺に滞在していた家康公を護衛しながら伊賀を越えて無事国許に帰還させるという武勲を挙げています。そして家康公が江戸入府後は江戸城の警備を担当し、現在ある皇居の半蔵門近くに屋敷を構えていたことから、「半蔵門」という地名の由来ともなっています。
墓の台座には「安誉西念大禅定門」と刻まれ、左側には「三州住人服部石品五十五才」の文字が読み取れます。半蔵の法名の中に「西念」とあることから、この法名が寺名になったのでしょう。
半蔵の墓を後にしてご本堂の右脇の細い道の向こうになにやら案内板らしきものが立てられているのに気が付き、進んでいくとなんと家康公と築山御前の間の嫡子として生まれ、その後、信長公の娘である「徳姫」と結婚した「岡崎次郎三朗信康」の供養塔が立っているではありませんか。
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この岡崎次郎三朗信康については悲運の人物として語られていることで知られています。信長の娘「徳姫」と結婚した信康だったのですが結婚後、徳姫は父信長に夫である信康との不和、乱暴な手打ち、甲州武田との接触など12ヶ条にわたる所業をしたため送ったのです。このことで信長は激怒し、反逆の意ありとして信康の自刃と併せ、信康の母であり家康の妻である築山殿の殺害をなんと家康公に命じたのです。
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天正7年(1579) 9月15日、家康は信康を二俣城へ送り、城主大久保忠世、使者天方通綱(あまかたみちつな)、服部半蔵に命じて、信康に腹を切らせた。このとき半蔵は信康の介錯をすることができなかったといいます。
このとき検使をつとめたのが半蔵なのですが、信康の自刃が半蔵の心の中で深い傷となっており、半蔵の隠居と同時に信康供養のため西念寺を創建したと伝えられています。このことは父・家康公にとっても悔いの残る出来事だったと推察します。戦国時代とはいえ自らの家を守り、生き延びるために自分の長男までをも切腹させなければならなかった事情を察するに、忠実な家臣であった半蔵の気持ちとすれば信康供養のために当寺を創建したのではと考える次第です。尚、信康の墓は天竜市の清竜寺にあります。
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供養塔前の石造の門扉には徳川家の御紋である三つ葉葵がきちんと刻まれています。
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