大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

八重桜舞う服部半蔵の墓と岡崎次郎三朗信康の供養塔~四谷・西念寺~

2012年05月08日 11時11分36秒 | 新宿区・歴史散策
四谷界隈の入り組んだ裏路地を散策している途中、ふと出くわした寺が西念寺です。なにげなく山門脇の案内板を読みすすむと、なんとあの「槍の達人」として有名な服部半蔵が眠る寺であることが判りました。

西念寺本堂

山門からは境内に静かに佇むご本堂が目に入ります。まずは半蔵の墓を目指して境内へと進んでいきます。ご本堂の前を過ぎてほんの少し進んだ左側にその墓が置かれています。盛りを過ぎた八重桜の花びらが半蔵の墓の周囲を埋め尽くしています。

服部半蔵の墓
服部半蔵の墓

宝篋印塔(ほうきょういんとう)型の墓はどっしりとした趣を醸し出し、さすが神君家康公に使えた武将らしい佇まいを見せています。またここ半蔵の墓だけが竹の柵で囲われ、なにやら特別な扱いを施されているような雰囲気を漂わせています。

半蔵は神君家康公の家臣であったことは言うまでもありませんが、「徳川十六将」の一人で「大半蔵」と呼ばれていました。本能寺の変の時、たまたま堺に滞在していた家康公を護衛しながら伊賀を越えて無事国許に帰還させるという武勲を挙げています。そして家康公が江戸入府後は江戸城の警備を担当し、現在ある皇居の半蔵門近くに屋敷を構えていたことから、「半蔵門」という地名の由来ともなっています。

墓の台座には「安誉西念大禅定門」と刻まれ、左側には「三州住人服部石品五十五才」の文字が読み取れます。半蔵の法名の中に「西念」とあることから、この法名が寺名になったのでしょう。

半蔵の墓を後にしてご本堂の右脇の細い道の向こうになにやら案内板らしきものが立てられているのに気が付き、進んでいくとなんと家康公と築山御前の間の嫡子として生まれ、その後、信長公の娘である「徳姫」と結婚した「岡崎次郎三朗信康」の供養塔が立っているではありませんか。

岡崎次郎三朗信康の供養塔

この岡崎次郎三朗信康については悲運の人物として語られていることで知られています。信長の娘「徳姫」と結婚した信康だったのですが結婚後、徳姫は父信長に夫である信康との不和、乱暴な手打ち、甲州武田との接触など12ヶ条にわたる所業をしたため送ったのです。このことで信長は激怒し、反逆の意ありとして信康の自刃と併せ、信康の母であり家康の妻である築山殿の殺害をなんと家康公に命じたのです。

岡崎次郎三朗信康の供養塔

天正7年(1579) 9月15日、家康は信康を二俣城へ送り、城主大久保忠世、使者天方通綱(あまかたみちつな)、服部半蔵に命じて、信康に腹を切らせた。このとき半蔵は信康の介錯をすることができなかったといいます。

このとき検使をつとめたのが半蔵なのですが、信康の自刃が半蔵の心の中で深い傷となっており、半蔵の隠居と同時に信康供養のため西念寺を創建したと伝えられています。このことは父・家康公にとっても悔いの残る出来事だったと推察します。戦国時代とはいえ自らの家を守り、生き延びるために自分の長男までをも切腹させなければならなかった事情を察するに、忠実な家臣であった半蔵の気持ちとすれば信康供養のために当寺を創建したのではと考える次第です。尚、信康の墓は天竜市の清竜寺にあります。

供養塔の三つ葉葵

供養塔前の石造の門扉には徳川家の御紋である三つ葉葵がきちんと刻まれています。





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甲州道中・内藤新宿のお地蔵様~太宗寺の江戸六地蔵~

2012年05月07日 17時34分49秒 | 新宿区・歴史散策
開幕まもない慶長6年(1601)に家康公は江戸を基点する街道の整備に着手しました。その当時、日本橋を起点とする甲州街道の最初の宿場は日本橋から約4里の距離にある「高井戸」に設けられていました。

江戸四宿の品川、千住、板橋の各宿は日本橋から約2里の距離にあったのですが、甲州道中の高井戸宿だけが4里と遠く離れていました。そのためさまざま不便さを強いられていたのですが、江戸の中心から4里も離れている高井戸宿はその後90約100年にわたり、江戸からの第一宿として栄えていました。

その不便を解消するべく元禄の10年(1697)に浅草の商人たちが日本橋と高井戸間に新しい宿場の開設を幕府に請願することとなったのです。そして翌年の元禄11年(1698)に宿場の開設を許可し、日本橋から2里弱の距離で、青梅街道との分岐点付近に新たな宿場が設けられることになりました。正式には元禄12年(1699)に内藤新宿が開設されました。

江戸六地蔵三番

そんな内藤新宿にお堂を構えるのが浄土宗の寺である「太宗寺」です。当寺は内藤新宿の真ん中に位置する中町にお堂を構える寺で、創建は古く慶長年間(1596~1614)の頃といわれています。歴史を遡ると寛永6年(1629)に内藤家四代の正勝が没して、はじめて太宗寺に葬られ、五代重頼が開基となっています。墓域の一画に内藤家の大きな墓所があります。山門を入ると最初に目に付くのが右手にある大きな地蔵尊です。

江戸六地蔵三番

これが金銅大地蔵尊と呼ばれる地蔵で、俗に言う「江戸六地蔵」の三番目にあたります。江戸の六地蔵とは江戸の出入り口にあたる街道筋に置かれた地蔵で、旅人の安全を祈願するために造立されたものです。ここ太宗寺の地蔵は甲州道中を旅する人たちの安全を長く見守ってきたもので、江戸時代の正徳2年(1712)に造られました。

閻魔堂

大きなお地蔵様の左手に江戸の三閻魔の一つである太宗寺の閻魔堂があります。都内最大の閻魔像は高さが5.5mもあります。お堂の中は薄暗いのですが、一眼レフのデジカメの絞りを全開しフラッシュなしでお堂の中を撮ってみました。すると色鮮やかな閻魔様が現れました。

閻魔様

閻魔堂と対峙するように建つのが不動堂です。この不動堂と稲荷神社の間にところどころ白くなっている像が安置されている祠があります。これが太宗寺の「塩かけ地蔵」です。足立区の西新井大師の境内にも似たような地蔵さんがありましたが、ここ太宗寺にも同様の地蔵さんが鎮座しています。

不動堂
塩かけ地蔵

この塩かけ地蔵は「おでき」にご利益があると言われ、地蔵さんにかけられた塩を持ち帰り、患部に塩を擦り込むとおできが治るそうです。まあ、塩には消毒作用があるのでおできにも効果があるのかもしれませんが、傷口に塩を擦り込むこと自体かなり痛そうですが…。

喧騒渦巻く新宿にあって、ここ太宗寺の境内だけは古刹の佇まいと静かな空気が流れていました。

浄土宗霞関山本覚院太宗寺
新宿区新宿2-9-2
03-3356-7731

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四谷怪談の旧地・田宮稲荷神社とお岩稲荷神社

2012年05月07日 12時14分40秒 | 新宿区・歴史散策
たまたま地下鉄丸の内線の四谷三丁目で降りる機会を得て、以前からお参りしてみたいと思っていたお岩稲荷神社が近いことを知りぶらっと行ってみることにしました。

新宿通りと外苑東通りが交差する四谷三丁目交差点から四谷警察署の前を通り過ぎて、最初の角を左へ曲がり、突き当りを右へ進むと赤い幟が見えてきます。

田宮稲荷神社跡

狭い路地を挟んで進行方向の右側にまず現れるのが「田宮稲荷神社跡」なのですが、この場所自体があのお岩さんの婿である伊右門が住んでいた田宮邸なのです。そしてこの田宮の屋敷社に田宮於岩にあやかって「於岩」を合祀し、於岩稲荷と称されるようになったようです。鳥居の傍らに建つ柱には「於岩稲荷田宮神社」の文字を見ることができます。

田宮稲荷神社の鳥居

この神社の「於岩」とはあのお岩さんのことなのですが、実はこの女性は江戸時代の初期に、ここ四谷左門町で健気な一生を送った女性で、この女性の美徳を祀っているのがこの神社なのです。

怨霊となったお岩さんの噺があまりにも有名になってしまっているのですが、前述のようにお岩さんの美徳を祀っているこの神社には本来、福を招きいれ、商売繁盛のご利益があり、はたまた芸能の成功、興行の成功にはことさら霊験あらたかと言います。

田宮稲荷神社の社殿

鳥居の奥に社殿が鎮座しています。鳥居から眺める境内の雰囲気は怪談噺の舞台であるが故の先入観なのか、どうも陰気臭い空気が漂っているような気がします。玉垣にはこれまで四谷怪談を演じた多くの役者の方々が興行の成功を祈願したのか、役者の名を刻んだ玉垣が並んでいます。

ともあれ、お岩さんの美徳と商売繁盛を社殿前で祈願し辞することとしました。

しかし、この「於岩稲荷田宮神社」のはす向かいになんともう一つの「於岩稲荷」が現れます。山門には「於岩霊堂」 の扁額が掲げられ、寺名が「陽運寺」とあります。山門の両脇には「於岩稲荷」の提灯が吊るされていることから、まぎれもなく「お岩さん」を祀っていることがわかります。ただし、大きく異なるのが神社ではなく「寺」であることです。

陽運寺山門
陽運寺山門脇の提灯

さてはて至近に「於岩稲荷田宮神社」があるにもかかわらず、言ってみればそれこそ目と鼻の先にお岩さんを祀る寺があるのか不思議でなりません。調べてみると、こんな歴史がわかってきました。

>陽運寺本堂

お岩さんが亡くなったのは江戸時代の初期の寛永13年(1636)のこと。古い話なのですが、それからおよそ200年後の文政8年(1825)にあの四世鶴屋南北の歌舞伎「東海道四谷怪談」が大当たりしたことから、ここ左門町にあったもともとのお岩稲荷にたくさんの江戸庶民が参詣に訪れました。江戸から明治へと時代が下り、明治5年にお岩稲荷をお岩さんの嫁ぎ先である田宮家の名をとり、田宮神社と改めました。ところが明治12年にこの田宮神社が火災で焼失したことで、中央区新川へ田宮神社を移転しています。田宮神社が移転してしまったことで、すぐそばにお堂を構えていた陽運寺が田宮神社と名乗り現在に至っています。

よって明治に新川に移ったのが「新田宮神社」でここ左門町に置かれている「於岩稲荷田宮神社」は旧地と呼ばれる所以だったのです。

お岩さん由縁(ゆかり)の井戸
陽運寺の於岩稲荷

しかし、「鬼のいぬまに」を地で行く陽運寺さんの境内には「お岩様由縁(ゆかり)の井戸」 や 「於岩稲荷水かけ福寿菩薩像に南無妙法蓮華経のお題目を唱えながら水を掛けると、あなたの厄が除かれる」 などと書いた立て札が置かれています。





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お江戸牛込神楽坂ぐるっと散策~毘沙門天・赤城神社~

2012年01月27日 17時14分30秒 | 新宿区・歴史散策
お江戸の中でも「粋」な町として知られている神楽坂はJR飯田橋駅のそばを走る外堀通りを入口とする「神楽坂」を中心とした地域です。

江戸時代には神楽坂下から外堀に架けられた橋を渡ったところに御城へ通じる重要な門である「牛込御門」がありました。江戸の切絵図を見ると外堀側から坂を登り、登りきったところにある善國寺までが神楽坂、その先が肴町、通寺丁の寺社地へと続いています。

この寺社地を抜けた地域が「矢来町」なのですが、江戸時代初期(1624年頃)に大老坂井忠勝が屋敷を構えたことで、坂上の矢来の屋敷から前述の牛込御門までの道筋を大老の登城道としてつくられたのが今で言う「神楽坂」なのです。

※坂井忠勝
武蔵川越藩の二代藩主、その後、若狭小浜藩の初代藩主。三代将軍家光公、四代将軍家綱公の時代に老中、大老を務めた。

現在の神楽坂は坂道なのですが、江戸時代を通じてこの道は階段だったそうです。ですから江戸の古地図をみると神楽坂には階段を示す「横線」が入っています。明治に入り、周辺の武家屋敷を取り壊し、町人の町、花柳の町になってから坂道になったようです。

毘沙門天善國寺
毘沙門天善國寺山門

そんな坂道を登っていくと神楽坂の守護神として鎮座する「毘沙門天善國寺」が左手に現れてきます。朱塗りの山門には毘沙門天と善國寺の提灯が燈され、花街神楽坂を連想させるような雰囲気を漂わせています。

山門に燈された提灯

毘沙門天善國寺の創設は古く今から400年ほど遡る文禄4年(1595)のことです。家康公の江戸初入府が1590年のことですから、御城や江戸の町づくりがまだ本格的に始まっていない頃です。もともと善國寺は家康公より寺地を賜り、日本橋馬喰町に開基した歴史をもっています。

また徳川御三家の水戸家の黄門様も善國寺の毘沙門天に深く帰依し、寛文10年(1671)に火事で焼失した当寺を黄門様の手により麹町に再建したことが伝わっています。さらに御三卿の田安家、一橋家の祈願所として徳川家とは深く縁があった寺なのです。

善國寺毘沙門天ご本堂

善國寺がここ神楽坂に移ってきたのは寛政4年(1792)のことです。この頃から善國寺の毘沙門天は江戸の三毘沙門として庶民の尊崇の的となり、それまで武家屋敷が連なっていたこの地域も徐々に町屋が増え、明治に入ると花街が形成され、華やかな町へと姿を変えていきました。

善國寺毘沙門天境内

山門をくぐると目の前にご本堂がど~んと構えています。そのご本堂を守るかのように一対の獣像が置かれています。実はこれは寅毘沙と呼ばれているもので、神社で言えば狛犬に相当するものです。なぜ寅毘沙と呼ばれているかというと、毘沙門天は寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻にこの世にお出ましになったといわれているからだそうです。この寅毘沙は江戸時代後期に造られてものです。

寅毘沙(左)
寅毘沙(右)

毘沙門様をあとに更に坂を登り進み、ほぼ登りきったあたりにあるのが「赤城神社」です。実はかなり以前にこの場所を歩いたときに見た景観が一変していることに気がつきました。以前の赤城神社は鎮守の杜の中にお社が構えていたように記憶していたのですが、なんとあまりに美しく変身してしまっていたのです。

赤城神社鳥居

鳥居も以前は石造りのものであったのですが、今は見るも鮮やかな朱色の鳥居に変わっています。そして何よりも御社殿へとつづく参道が現代感覚に満ち溢れ、その参道にそって高級そうなマンションが建っているではありませんか。

赤城神社参道とモダンな狛犬
本殿と蛍雪天神

この赤城神社は江戸時代には牛込の総鎮守「赤城大明神」と呼ばれ、日枝神社、神田明神と並んで「江戸大社」の一つに数えられた格式ある神社なのです。…が、時代が変わり、平成の世になって諸般の事情があったのでしょう。なんと赤城神社再生プロジェクトなるもので、老朽化した社殿を建て替え、さらに安定的な収入を得るために境内に隣接して分譲マンションを建ててしまったといいます。

蛍雪天神の祠

そして面白いことに境内には本社殿の他に、蛍雪天神なる真新しい社殿が置かれています。「蛍雪」とあることから予想がつくと思いますが、なんとあの受験雑誌「蛍雪時代」で有名な旺文社の寄付で再興された社で、受験生の合格を専門的に祈願することを目的としているようです。もちろん祭神は菅原道真公なのですが…。





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