大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

佃を望む明石町に明治を偲ぶ外国人居留地跡を訪ねる

2011年01月27日 12時02分52秒 | 中央区・歴史散策
隅田川河岸から対岸に江戸時代の漁師町「佃」の町並が見えるあたりが、明治時代の初期の頃に外国人居留地として異国情緒を醸し出していた「明石町」です。明石町の名の由来は、対岸の佃島を淡路島に見立てると、播磨の国の明石にある「明石の浦」の風景に似ていることから名付けられたと言われています。
そんな風向明媚な明石の海岸沿いに造られたのがいわゆる「外国人の町」で、当時は西洋建築様式で建てられた学校や病院、教会、住宅が並ぶ、西洋文化の香りが色濃く漂う「ハイカラ」な場所だったのです。現在、その場所には聖路加国際病院がエキゾチックな佇まいを見せています。

そんな現在の明石町でかつての異国情緒の名残りを探してみました。

明石町と言えば、この地を代表する「聖路加国際病院」でしょう。この病院も外国人居留地と無縁ではありません。明治35年(1902)に宣教師トイスラーによって発足した病院です。当時は聖路加病院と呼ばれていましたが、大正6年(1917)に聖路加国際病院に改称しています。

現在、当病院の敷地内に宣教師館として建設された西洋風の建物「トイスラー記念館」が立っています。この建物は明治時代のものではありませんが、昭和8年に隅田川に面した場所に建てられたものです。2階建ての瀟洒な佇まいを見せています。尚、太平洋戦争末期の米軍の空襲では、ここ明石町が外国人居留地であったことで空襲からは免れ、この宣教師館も被災せずに残ったものです。平成10年に隅田川河畔から聖路加国際病院の敷地内に移築され復元されています。

トイスラー記念館
トイスラーの銘版

このトイスラー記念館の入口に通じる小道の脇に「アメリカ公使館跡の記念碑」が置かれています。
そもそも幕末の安政5年(1858)6月に締結された日米修好通商条約により、それまで下田にいた総領事ハリスを公使に昇格させ、翌年安政6年(1859)年東京港区麻布にある善福寺をアメリカ最初の公使宿館と決定、同年8月に初代公使ハリスが到着しました。

アメリカ公使館跡の記念碑

その後、明治8年(1875)に明石の外国人居留地に公館を新築し、公使館としての体裁を整えました。そして明治23年に現在の虎ノ門裏のアメリカ大使館へ移転しています。
伊豆半島の海岸で切り出された石材で造られた記念碑が5基置かれています。2基には当時のアメリカの国章である盾、1基には星と鷲と盾、2基には五陵の星が刻まれています。当時の公使館の様子は今となっては知るよしもありませんが、言い伝えによると木造2階建てのクリーム色で塗られた瀟洒な洋館だったようです。

そしてもう一つ、明石小学校の前にある堂々としたファサードの「カトリック築地教会聖堂」はまるでヨーロッパの街角にふと迷い込んでしまったような佇まいを見せています。



この教会は明治7年(1874)に長崎、横浜に次ぐキリスト教会として明石町の外国人居留地に建設されたものです。聖堂自体は明治11年に創建されましたが、関東大震災で焼失したため、昭和2年(1927)にフランスのパリにある聖マグダレナ天守堂を模して、ギリシャ神殿パルテノン様式で再建されました。正面ファサードを飾る6本のドーリア式の柱と正面切妻の壁にはバラとチューリップのレリーフが刻まれ、ヨーロッパの香りを感じる空間を演出しています。

カトリック築地教会聖堂
切妻のレリーフ

明石町一体にあった外国人居留地は幕府が欧米各国と締結した不平等条約改正を待って、明治32年(1900)に廃止されます。明石町の築地居留地は横浜の居留地に比べ、あまり発展はしなかったようです。横浜居留地が横浜港の発展とともに隆盛していった結果、商社などの外国企業も横浜に根を下ろしてしまって、東京へ移転しようとはしなかったためです。その反面キリスト教各宗派の宣教師たちが明石町に移住し、教会などを建設したり、現在の大学の礎となる私塾がここ明石町に開設されるなど、教育機関誕生の地としての役割を担っていました。

立教学院発祥の地碑

尚、外国人居留地の異国情緒溢れる建物は関東大震災でそのほとんどが焼失してしまい、見るべき洋風建築は残っていないのが非常に残念です。

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隅田川の流れと石川島そして中央大橋周辺の史蹟探訪

2011年01月26日 23時10分24秒 | 中央区・歴史散策
隅田川が江戸湾に流れ込む河口は江戸時代には江戸前の海と呼ばれていました。ちょうど現在の永代橋がかかるあたりを境にして江戸湾が広がっていたと考えていいでしょう。その永代橋の沖合いに浮かんでいたのが石川島と佃島、そして陸側には霊岸島、鉄砲洲そして明石の海岸が続いていました。

江戸時代の後期、11代将軍家斉公の時代に寛政の改革を断行した松平定信は火附盗賊改方長谷川平蔵宣以(鬼平)の建議によってここ石川島に「人足寄場」を創設したことで知られています。

今回は私が住む江東区からは門前仲町から越中島方面を目指し、中央区への入口にあたる相生橋を渡り、石川島そして佃島へと進むルートを辿ります。相生橋上からは石川島に林立する「リバーシティ21」の高層マンションの絶景が目に飛び込んできます。

相生橋を渡るとすぐに右方向へ進みます。この道を進むと前方に中央区の八丁堀方面へと繋がる「中央大橋」が見えてきます。隅田川に架かる橋の中でもかなり斬新なデザインで、現代感覚に溢れています。平成5年に竣工したもので、橋の主塔の上部は兜をイメージしてデザインされたものです。実は架橋地点はかつて「鎧島」と呼ばれていたため、鎧の対にあたる「兜」をデザインしたと言われています。

この中央大橋をデザインしたのはフランスの会社です。どうしてフランスの会社がデザインしたかというと、隅田川はフランスのパリ市内を流れるセーヌ川と友好関係にあります。このことからフランスのデザイン会社にデザインを発注したのではないでしょうか。
フランスのデザイン会社が「鎧島」のことを知っていたのかは定かではありませんが、外国人がイメージする日本はサムライの鎧と兜と考えれば、兜をデザインに取り入れた理由は確かにうなずけます。
また、中央大橋の主塔真下の台座の上に、当時、パリの市長であったシラク氏(後のフランス大統領)から贈られた「メッセンジャー像」が置かれています。メッセンジャー像はフランスでは航海の安全を司る神と言われています。

隅田川と中央大橋

この橋を渡る手前の石川島東部分の石川島公園にはあまり知られていないモニュメントが置かれています。パリ広場と呼ばれるもので、東京都とパリ市の友好関係を記念して造られたものです。なぜこんな所にあるのかと不思議に思うのですが、前述のようにパリとの関係はまず隅田川とセーヌ川が友好河川であるということ、シラク氏から贈られた3本のマロニエの木が石川島公園内に植えられていたということ、もう一つ、中央大橋の中ほどには、パリ市から贈られた「メッセンジャー像」が飾られていることに由来しているのではないでしょうか。パリ広場には子供達が手をつないだ様子をモチーフにした、銀色のアーチ型モニュメントがあります。「友情から未来へ」の銘板がモニュメントの上部に掲げられています。

パリ広場のモニュメント
友情から未来へ

このパリ広場のすぐ側には「日本初の民営洋式造船所 発祥の地」の碑が建っています。

日本初の民営洋式造船所 発祥の地
蒸気軍艦「千代田形」

碑文によると「米国ペリー艦隊が来航した嘉永6年(1853)に幕府の命を受けた水戸藩がこの地に石川島造船所を創設した。同造船所は洋式帆装軍艦「旭日丸」をはじめ、日本人によって設計、建造された最初の蒸気軍艦「千代田丸」など数多の艦船を次々と建造、造船技術を通じてわが国産業の近代化に大きく貢献した。
明治維新後の明治9年(1876)に平野富二によりわが国初の民営洋式造船所として再スタートし、その後明治22年(1889)には 渋沢 栄一などの協力により会社組織となり、有限責任石川島造船所、株式会社東京石川島造船所の社名の下、明治から大正・昭和にかけて多くの軍艦・商船を世に送り出してきた。この地での造船事業は昭和14年(1939)に造船部門が東京深川区豊洲へ移設したことで幕を閉じた。
その後、石川島重工業株式会社、石川島播磨重工業株式会社と社名が変更される中で当地は日本屈指の重機械類の専門工場として活躍してきたが昭和54年(1979)の工場大移転により、その長い歴史を終えた。」と書かれています。

中央大橋を渡り、かつての霊岸島側へ向いましょう。橋上から少し下流を眺めると奇妙な形のモニュメントが目に飛び込んできます。ちょうど亀島川が隅田川に注ぎ込むあたりです。



霊岸島検潮所・量水標跡」と呼ばれています。明治初期に利根川や隅田川、荒川などの主要河川に量水標を設置し、ここで得た平均水位を基準面として使用しました。東京近郊では明治6年(1873)にここ霊岸島に検潮所を設け東京湾の平均潮位を基準としたことで、これを記念したモニュメントです。
そして明治24年に現在の国会議事堂前にある憲政記念館敷地内に創設された「日本水準原点」の標高(24.4140m)はここ霊岸島検潮所の平均潮位を基準に決定したものです。

今でこそ隅田川のスーパー堤防がつづく霊岸島河岸ですが、かつては東京湾(江戸湾)の波が打ち寄せる海岸地帯であったことを伺わせる貴重な史蹟ではないでしょうか。

中央大橋を渡り、八丁堀方面へとほんの少し亀島川に沿って進むと、趣ある橋が現れます。一見しただけでも歴史を感じさせるデザインです。昭和7年に架けられた鉄橋で「南高橋」と呼ばれています。
橋の本体には旧両国橋の一部が使われているそうです。旧両国橋は明治37年(1904)に架けられた三連トラス橋で、関東大震災で被害を受けたため、中央部分を南高橋に移設、部分補強をして再利用したものです。この南高橋は都内に現存する明治期の鉄骨橋梁としては2番目に古いものだそうです。

南高橋

この橋を渡り隅田川に沿って南下すると鉄砲洲神社、そして聖路加国際病院へと進みます。

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お江戸遊廓・洲崎パラダイスってご存知でしたか?【深川・洲崎】

2011年01月20日 20時07分05秒 | 江東区・歴史散策
先日、仕事で深川七福神巡りをご案内する機会がありました。ご参加者は皆ご年配の方々で深川の昔日を知る方が大勢いらっしゃいました。道すがら、お江戸の時代の洲崎十万坪という風光明媚な土地柄の噺をしたのですが、洲崎という地名に大いに反応された男性がいらっしゃったのです。

お江戸の歴史を語る上で、洲崎は庶民の遊山地として観光地となっていたことで知られていますが、それと共に明治から昭和にかけて洲崎は言わずと知れたお江戸の岡場所として男衆には絶大な人気を博していた場所なのです。この洲崎という地名に反応された御仁が、それまで洲崎が岡場所であったことをとんと知らなかった私に、事細かに洲崎遊廓を面白おかしく教えてくれたのです。

であればかつての遊廓の名残りが若干なりとも残っているのではないかと、暇にあかせて行ってみました。どうせならと行く前に少し洲崎遊廓について調べて見ました。

ご存知のように江戸時代において官許の遊里は言わずと知れた浅草裏手の吉原遊廓だけです。しかし官許以外の遊里は岡場所という名で、五街道の入口にあたる宿場町で公然と遊廓を開いていたのです。その代表として品川宿、内藤新宿、板橋宿、千住宿なのですが、明治に入るとこれに根津が加わります。

根津はもともと根津神社のお膝元で、概して門前町には岡場所が例外なく開かれます。余談ですが、深川富岡八満宮にも花街や岡場所があり、鎮守様詣でのついでに多くの男衆が色町で遊んだと言われています。特に深川芸者は向島、柳橋、浅草、神田の芸者衆と違い、「おきゃん」と呼ばれ、粋な深川を地でゆくキップのいい芸者だったと言われています。

まあ、そんな土地柄だったのかどうかは定かではありませんが、深川総鎮守のあった門前仲町からさほど離れていない洲崎は岡場所ができる素地があったのかも知れません。
実は前述の根津の岡場所の話に戻るのですが、明治に入り東京帝国大学が本郷に出来ると、教育機関ある本郷のそばの根津に遊廓があってはまずいという事で、根津の遊廓が洲崎に強制的に移転させられた歴史があります。明治17年ころの話のようです。根津から移転させられた遊廓は83軒あったそうです。そして明治42年にはここ洲崎にはなんと遊廓160軒、従業婦1700人、大正10年には遊廓277軒、従業婦2112人になったといわれています。

そして戦後、この場所は「洲崎パラダイス」という名の歓楽街となり、昭和29年頃はカフェー220軒、従業婦800人ほどが働いていたと言われています。昭和33年4月1日の売春防止法施行によって洲崎ではすべての遊廓の営業が廃止されました。

実は以前から不思議に思っていたことがあります。木場公園という大きな公園があるのですが、その公園の端を走る道に「大門通り」という表示が付けられています。どうして「大門通り」なのかと今に思うと、吉原でもそうであるように、遊廓の入口に立てられていた「大門」がここ洲崎遊廓にもあったのでしょう。その大門に通じる道が今なお、大門通りという名で残っていたのです。

かつての洲崎パラダイスがあった場所は東西線木場駅から東陽町へ向い、東陽3丁目交差点を左へ入った所です。すぐに旧洲崎橋があり、比較的広い道を進むと、すぐに左手にそれらしい建物が見えてきます。まぎれもなくかつて遊廓として使われた2階建ての建物で、現在は1階に商店が店を構えています。

 


2階部分にアンバランスな佇まいで柱が備わっています。その柱がタイル貼りになっていることが、かつてここが遊廓であった証拠なのです。当時の遊廓(昭和の時代)はどこも皆外壁や柱に派手なタイル貼りを多様していたと言われています。

もう一つ、これは完全に歴史的建造物ではないかと思われるような建物が残っていました。この建物こそが「洲崎パラダイス」と呼ばれていた頃からあるもので、壁面に「大賀」という郭号が残っています。当時の古い写真を見るとほぼ完全な姿でこの大賀は残っています。1階の入口の円柱は黒いタイル貼りが残り、やはり遊廓のシンボルとしてタイル貼りが使われていたと思われます。

 
 


現在この建物の1階には某政党の事務所が設けられています。かつての遊廓の建物に政党の事務所が入っていると言う時代の変遷を感じます。

尚、ここ洲崎を題材とした映画があることを知りました。昭和31年に製作された映画で題名が「洲崎パラダイス・赤信号(日活)」で、出演者は新珠三千代、三橋達也、芦川いづみ、小沢昭一と記されています。懐かしい方々ですね。私は昭和31年当時はまだ小学校の低学年で、この映画を見たことはありません。おそらく両親もこの映画の内容から子供には見せたくなかったのではないかと思われます。映画の内容を調べて見ると、赤線の女たちとそこに遊びに来る男たちの姿を描いているというではありませんか。当然、成人映画に指定されていたのかも知れないですね。

時代は下り、平成の世にかつての洲崎遊廓の名残りが僅かながら残っている風景はかなり貴重ではないでしょうか?そんな時代もあったのか、と思いながら洲崎を歩いてみました。





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お江戸の台所・築地魚がし場外市場裏路地紹介

2011年01月20日 15時09分21秒 | 中央区・歴史散策
お江戸の時代には「日に千両がおちる場所」として歌舞伎や浄瑠璃を興行する芝居町、浅草田圃の遊廓・新吉原そして日本橋川岸に広がる「魚河岸」が江戸の三大繁華街と言われていました。

時代の変遷とともにお江戸・東京の繁華街はその場所を変えていきますが、庶民の暮らしを支える「市場」だけは昔と変わらない活気とさまざまな人間模様を描き出しています。

江戸前の海から獲れた豊富な魚介類が日本橋河岸の魚河岸に運ばれ、まずは幕府に献上され、その残りを魚河岸の問屋組合を通じ、市場に流通していたのです。日本橋袂に広がる魚がしの様子は正徳時代の日本橋本通りを克明に描いた「熈代勝覧(きだいしょうらん)」をご覧になると一目瞭然です。下記のURLをクリックしてください。熈代勝覧の中の「日本橋界隈」を見る事ができます。

http://www.muian.com/muian10/1002p06.jpg

そして江戸湾で獲れた最高級の魚は「白魚」です。この白魚は将軍のみ食することが許されたもので、一般庶民にはとうてい手が届くしろものではありませんでした。この白魚の漁を独占的に許されたのが、あの佃島の漁民なのです。この白魚を将軍家に献上するための「献上箱」が中央区明石町にある「タイムドーム」という江戸資料館に展示されています。献上箱は鋏箱と朱色の内箱の二重になっていて、白魚がたいへん貴重なものであったかを伝えています。
面白い事に260年に渡って白魚を献上したことを今に伝えるために、現在でも佃の漁師の方は徳川家に白魚を届けているとのことです。

さて、本題の築地場外市場ですが、形成されたのはあの大正12年の関東大震災以降のことです。それまでこの場外市場のある場所は築地本願寺さんの敷地だったのです。この場所にはなんと58もの寺院が甍を連ね、本願寺村といってもいいくらいにたくさんの寺院が並んでいました。ところが関東大震災により寺院群は焼失、焼け残った寺も郊外に移転し、現在は10寺ほどしか残っていません。その名残りとして「もんぜき(門跡)通り」があるのですが…。

そして現在、築地本願寺さんの正面は新大橋通りに向いていますが、当時は現在の晴海通り側が正面だったのです。その晴海通りを挟んだ地域、すなわち現在の場外市場が本願寺さんの末寺、塔中が集中していたのです。震災復興の計画の中で晴海通りが造られ、その結果本願寺さんの寺領であった敷地が分断され、同時に新しい魚がしが誕生したことで、かつて門跡があった場所に場外市場が形成されることとなり、今に至っています。



そんな場外市場は場内の仲卸業者とは異なり、ほとんどのお店が小売を生業としています。このため客あしらいは場内のそれとは大違いで、買いやすさが魅力なのです。魚も切り身販売、もちろん三枚におろしてくれます。
どれくらいの数のお店が軒を連ねているのかは定かではありませんが、上野御徒町の「アメ横」が四角い地域に凝縮されているような場所です。但し、私の個人的な見解ですが、アメ横の商品よりははるかに上質なものを扱っているように思えます。このため、やたら値引きをしないので、逆に安心して買えるような気がします。

私も月に数回は午前中の早い時間に場内、場外の好みの店を訪れ、新鮮な鮪の刺身や貝類などを購入するのを楽しみにしています。魚介類だけではありません。場内の青果部門で季節ごとの旬の果物を安く手に入れるのも魅力です。

特に場外では買い物もするのですが、私の趣味としては試食品のつまみ食いと気に入ったものを少量購入し、歩きながら食べるのが場外での楽しみの一つになっています。

ここで私が独断と偏見で選んだ一押しの「つまみ食い」をご紹介いたしましょう。
まずは地図上の「波除通り」沿いから始めましょう。築地でクロワッサンなどいかがでしょうか?店構えはバラックのような簡素な造りなのですが、クロワッサン専門のパン屋さん「ル・パン」です。どのクロワッサンもモチモチとして生地で歯ごたえが良く、小腹を満たすにはちょうどいい大きさです。私の一押しは「あんこ入りクロワッサン(1個200円)」です。さくさくとした生地にまとわりつくちょうどいい甘さのあんこが絶妙で、是非食していただきたい逸品です。

ル・パン
ル・パンのショーケース
あんこ入りクロワッサン

そしてこのル・パンから少し進んだところにある小さな店構えの「玉子焼きの山長さん」の一串の玉子焼きは隠れた名物ではないでしょうか?若干甘さが強い玉子焼きですが、一串100円という魅力ある価格で、アツアツの玉子焼きをほおばれる「つまみ食い」の代表格です。

山長さん
山長の一串玉子焼き

そしてもう一つの名物「玉子焼き」の店があります。あのテリー伊藤さんのお兄さんが経営する「丸武」の玉子焼きです。メディアに取り上げられ、お土産として買いに来るお客さんで常に店先は賑わっています。テリー伊藤さんの顔写真が掲げられているので、見過ごすことはないと思います。ここの玉子焼きも若干甘さが強いのですが、お薦めできる逸品です。店先に試食用の玉子焼きが置かれていますので、購入前にお試しあれ!

丸武店頭

このあと波除通りの休憩所を背にして、まっすぐに伸びる路地へと入っていきましょう。次にお薦めなのが「諏訪さん」の佃煮です。つやつやと輝く佃煮が店先に並んでいます。一般的に佃煮は値がはる傾向にありますが、それなりに手間隙かけた食材の芸術品であればこそ、納得できる価格なのではないでしょうか?私は何種類かの佃煮を少量小分けにして買うようにしています。

手前:諏訪、奥:山本

この諏訪さんのお隣に店を構える山本さんは「豆」の専門店です。このお店の一押しは丹波の黒豆の「納豆」なのですが、ざらめの砂糖でまぶしているのではなく、豆の本来の甘さだけの「ぬれ甘納豆」の黒豆です。一袋650円だったと思いますが、なかなかの美味です。店先に試食用の黒豆の甘納豆が並んでいますのでお試しあれ!

それではこの路地を更に進んでいくと、場外の中で最も人気のある鮮魚屋さん「斉藤水産」が左手に見えてきます。この店もさまざまなメディアに取り上げられ、試食ができる魚屋さんとして知られています。もちろん小売の魚屋さんですから、消費者にとっては買いやすく商品が並んでいます。この斉藤水産は鮮魚部門の店と甲殻類部門の店が別れています。

斉藤水産鮮魚部
斉藤水産甲殻類部

斉藤水産を過ぎて、すぐに左手に折れる狭い路地へ入ると「シュウマイの菅さん」があります。ここの「シュウマイ」はおそらく場外の中で一二を争うほどの美味しさを誇っています。お薦めは「手づくりジャンボシュウマイ(8個入り560円)」の良心価格。一箱を買って歩きながら食べるにはちょっとボリュームがありますが、つい贔屓にしてしまうほど「やみつき」になる美味しさです。このお店にはこんなエピソードがあります。今は真打になっているある落語家「立川談春」が、寄席で修業ができないのなら築地で修業ということで菅商店で働いていたことがあるとのこと。

最後にご案内したいのが、菅商店さんの路地を進み、次の角を右に曲がり晴海通り側へ進んだところにある築地ならではのお菓子の店「さのきや」さんです。ここ築地では「鯛焼き」ならぬ「まぐろ焼き」が似合うのです。
間口半間たらずの小さな店なのですが、順番待ちのお客様で連日賑わっています。鯛焼きは平ぺったい形状なのですが、さすが鮪ということで、お腹がぷっくらと膨らんだボリューム感溢れる形をしています。さらに面白いのが、餃子の羽付のように鮪焼きの周囲になんと羽根が付いているのです。外側の皮はパリパリで甘さ控えめのあんこが絶妙な味を醸し出してくれます。あんこ入りの「ほんまぐろ」が150円と価格もリーズナブルです。

さのきや看板
鮪焼き

まだまだご紹介したいお店はたくさんありますが、掲載したお店を回りながら「つまみ食い」をしているだけで、十分に満腹感を味わえるのが、「場外市場」なのです。

ついでに新大橋通りに面してつづく「もんぜき通り」の極め付けの美味しいお店を2軒ご紹介いたしましょう。
それはまず東京ラーメンの真髄を味合わせてくれる「井上ラーメン」と煮込み丼の「きつねや」です。

もんぜき通り入口
井上ラーメン
きつねや

両店とも、もんぜき通りでは超人気の店で店先は常に大勢の人だかりです。つまみ食いだけでは飽き足らない御仁は是非、この両店の逸品をご賞味あれ!

尚、築地場内及び場外の休市日については事前にお調べになってから行かれることをお薦めいたします。

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お江戸の台所・築地中央卸売市場内の魚がし横丁お薦めのお店

2011年01月18日 22時14分15秒 | 中央区・歴史散策
仲卸業者での買い物を終えたら、場内で最も人気のある「魚がし横丁」へ行ってみましょう。この魚がし横丁は元来、早朝から仕入れに通う食のプロたちが、買い物したり、食事をしたりする場所で、新鮮なネタが自慢の飲食店やプロ仕様の刃物や魚屋さんの什器備品などを扱う店、そしてお土産屋さんなど約140軒が並ぶ商店街です。



いまや一大観光地となった築地中央卸売市場の中にあって、日本人だけでなく海外からやってくる外国人にも知れ渡っている人気のスポットです。この魚がし横丁と言えば、やはり新鮮なネタをおしげもなく提供する寿司や海鮮丼を扱う店を目当てにやってくる大勢の観光客で連日賑わっている場所として有名になっています。

魚がし横丁の棟

そんな中で個人的にお薦めしたいお店が幾つかあるのですが、人気店は朝9時ころからすでに長蛇の列ができ、席に案内されるまでなんと1時間から2時間待ちは当たり前といったところなのです。
特に土曜日は押すな押すなの大賑わいで、閉店時間が迫る午後1時頃まで列が途切れないという状況です。ちなみに平日はお店にもよりますが、比較的長時間待たずに美味しい寿司や海鮮丼を愉しむことができるはずです。

さて、魚がし横丁で一番の人気店は握り寿司の「大和(だいわと読みます)」でしょう。どの店も間口一間ほどの小さな店構えで、店内は10人ほどが座れるカウンター席の造りになっています。このため人気店は長蛇の列になってしまうのです。

大和

ここ大和は6号館の中ほどに位置する寿司屋さんです。店舗は2軒分をぶち抜きでカウンター席が22席と他店に比べて広いのですが、やはり横丁で一二を争う人気店のため、常に20人から30人が店先に並んでいます。
よく言われるのですが、築地だから寿司がやたら安いと思っておられる方が多いようですが、確かにかなり安い店もあります。しかし寿司だけは「安さ」を優先すると、失望感しか残らないという結果が待っています。
特に団体のツアーのタイトルで「築地で寿司を!」なんていう安いツアーに参加すると、「これが築地の寿司かよ!」と思わず叫びたくなるような握り寿司が提供されることが多いのです。
それもそのはず、安いツアー代金では1000円程度の寿司を出すのが精いっぱいで、ネタは貧弱、更に寿司は作りおきのため、みずみずしさは失われ、まるで回転寿司の乾ききったネタを食べさせられることが多いのです。
だから築地には個人で散策し、列を作る寿司店に入り、少なくとも10貫2500円以上の握り寿司を召し上がっていただきたいのです。

そこで大和の握り寿司ですが、アラカルトでも注文できるのですが、ここではやはり「おまかせセット」がお薦めです。カウンターに座って眺めると、ほぼ全員がこの「おまかせセット」を注文しているのですが、内容はけっして客を裏切りません。長蛇の列を作っても「待つ価値」はあることだけは申し上げておきます。
握り7個、巻物1本とみそ汁のセットは3500円の価格通り築地の寿司の王道をいっています。

寿司大

そして同じ6号館にある「寿司大」もお薦めの握り寿司屋さんです。魚がし横丁では前述の大和さんと人気を二分するほどの人気店です。店内はカウンター席が13席のみのため、連日順番待ちは当たり前の様相を呈しています。この店も単品での注文ができるのですが、ほとんどの客が「旬魚おまかせセット」(3670円)を注文しているようです。旬の魚の握り10貫に巻物、自家製玉子焼き、日替わりの椀、最後に好きな握り寿司1貫が選べます。大和と同様に魚がしに隣接する強みなのでしょう。ネタの新鮮さとぜいたくなネタの大きさには誰もが大満足。

大江戸

もう一つ、8号館にある海鮮丼専門のお店「大江戸」もお薦めのお店です。店先に海鮮丼の写真を掲げ、その種類の多さをアピールしています。その種類はなんと60以上を誇っています。ここも連日長蛇の列ができる人気のお店です。値段も手ごろでネタの種類にもよりますが、1500円から2000円で宝箱のように肉厚の美味しいネタが散りばめられた丼を楽しむ事ができます。

これら3軒のお店は旅行会社のツアーでは絶対に組み込むことができないくらいに「超人気」のお店です。お客様がカウンターに座ってから握り始めることをモットーとするこれらのお店は団体客を受け入れることはお店の品格を下げてしまうことに他ならないのです。

結論的に申し上げると、築地魚がしで「美味しい」「新鮮なネタ」を食べたいのなら、団体ツアーに参加することは絶対に避けることをお薦めいたします。こんな素晴らしい店が貴方を待っていますよ!

ついでに番外ではありますが、築地でカレーはいかがでしょうか?場所は場内、海幸橋口へ向う途中の1号館に店を構えています。「印度カレーの中栄」が商号です(03-3541-8749)。大正元年創業の老舗です。ということは魚がしがまだ日本橋にあったころの創業ですね。寿司や海鮮丼が主流の築地にあって、ひときわ異彩を放つ中栄のカレーは伝統の製法でたんねんに作られたルーが極めつけなのです。種類は辛口インドカレー、甘口ビーフカレー、トマト風味ハヤシライスと「合がけ」と呼ばれる極めつけカレーです。

印度カレーの中栄

特にお薦めなのがこの「合がけ」で2種類のカレーを選んでライスにかけてくれるもので、できればインドカレーとハヤシカレーの合がけは絶妙。小食の女性の方にはちょっときついかもしれませんが…。値段も普通のカレーは500円。合がけはそれでも600円とリーズナブル。

場内の魚がし横丁には紹介したお店以外にも、魅力あるお店が並んでいます。本日紹介したお店はこれまでにメディアに紹介されたり、外国人用のガイドブックに掲載されたりと名前が広く知れ渡っています。このため日本人だけでなく、ガイドブックを片手にした外国人がたくさん列に加わり並んでいます。
しかし、この他のお寿司屋さんも、隣接する「築地魚がし」から極上のネタを仕入れ、上記の3店に負けない味覚を私たちに提供しています。場内での買い物と見学のついでに是非、魚がし横丁で極上のネタに舌づつみを!

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お江戸の台所・いまや東京の一大観光地、個人で行こう!築地中央卸売市場内見学

2011年01月18日 17時15分04秒 | 中央区・歴史散策
かつてお江戸の魚がしは日本橋の袂で賑わいを見せていたのですが、大正12年の震災で江戸時代から続いた日本橋の魚がしの歴史は終焉を迎えます。その後、昭和10年に築地に新しい魚市場が開設され、75年の歴史を刻んでいます。



平成26年に豊洲への移転がほぼ決定しているものの、昭和の香りを残す築地市場とその周辺の佇まいは大都会・東京の中で「いぶし銀の輝き」を放つ貴重な文化財としてその価値をますます高めているのではないでしょうか。そして江戸の粋が息づく、築地魚がしにはべらんめえ口調が似合う現代の「一心太助」が独特の世界を私たちに味あわせてくれます。

さてこんな魅力ある築地中央卸売市場を愉しむためには、団体で訪れるよりは個人で気ままに散策することをお薦めいたします。タイトルに記述しましたが、今や築地魚がしは東京の一大観光地なのですが、市場(場内)はいわば鮮魚の取引場であり、本来団体で入り込むような場所ではないのです。



魚介類を扱う水産部の「せり」の開始時間は早朝の4時20分から行われ、競り落とされた魚介類が中卸業者の店頭に並ぶ6時から8時ころまでは業者間の取引で場内はごった返しています。この時間帯に素人然として場内に入っても、邪魔者扱いされるだけですので避けたほうがいいでしょう。

業者間(町の魚屋さん、料理屋さんなど)の取引が一段落する9時過ぎには中卸業者エリアも幾分落ち着きを取り戻していますので、この時間帯に個人で入場することはさほど問題にはならないと思います。

場内への入場は5人以下の少人数であることが条件です。時折、数十人の団体が中卸業者のエリアの細い通路を我がもの顔で歩いている姿を見ることがあるのですが、これは危険きわまりない行為としか言いようがありません。前述のように中卸業者のエリアは取引の場所であり、団体で入場することはルール違反にあたります。細い通路は業者の方々の運搬ルートであり、ターレットと呼ばれる特殊車両、リヤカー、フォークリフト、大八車などの運搬車両が優先される場所なのです。

 



ここでいう中卸業者とは卸売業者から競り落とした品物を買出し人に小分けして販売する業者のことで、築地には約800店ほどの仲卸業者が商売をしています。本来、仲卸業者は特定の業者との取引のために存在しているのですが、最近では仲卸業者が独自のホームページを開設して一般消費者とネット上で取引を行ったり、築地の中卸業者にやってきた一般消費者に直接販売することも行っています。ということは、小売の業者で買うよりも、遥かに安い価格で新鮮な魚介類を購入できるということなのです。尚、販売価格は内税ではなく、5%の消費税が外税で加算されます。

但し、仲卸業者で購入する魚については、丸のまま一匹を買った場合でも三枚におろしてくれることはめったにありません。切り身で売っていることもありますが、普通は魚一匹を丸のままビニール袋に入れて渡されることが多いようです。自宅に持ち帰り、ご自分でさばいていただくことになります。この点だけを我慢すれば、新鮮な魚を自宅で味わうことができるのです。

約800店がひしめく仲卸業者はある程度扱う商品が専門化されていることを知っておいてください。人気の鮪だけを扱う店、一般鮮魚を扱う店、甲殻類を扱う店、乾き物を扱う店と分けられています。仲卸エリアのどこにどのような店があるかを細かく案内することはできませんが、個人で入場したらまずはゆるやかなカーブを描く通路を端から端までゆっくりと歩き、どのような店が並んでいるかを眺めて見ることをお薦めします。(地図上の赤く色づけをした辺り)そして歩きながらこれはと思う商品は迷わずゲットすることを心がけてください。価格は一般の小売で買うよりも間違いなく安いので、どのお店で買ってもそれほど差異はありません。もちろん築地の魚介類の品質には定評がありますから安心して買うことができます。もし、仲卸でお買い物をお考えであれば、保冷バックは忘れずにお持ちください。

ちなみにある仲卸業者の店先に置かれていた「鮪」の中トロがこんな値段で売られていました。11時前頃になるとこの値段から更に安くしてくれるはずです。築地の仲卸ではその日に競り落とした品物は翌日に繰越せずに、その日に売りきってしまいたいという意識がかなり高いので、取引時間が終わる11時頃になるとかなり安く手に入るはずです。



仲卸業者エリアの一番奥に「鮪の競り場」があるのですが、鮪の競りの開始時間は早朝の5時。この鮪の競りの様子を見学するためには特別に申込をしなければなりません。
詳しくは下記URLを参照してください。
http://www.shijou.metro.tokyo.jp/press/22/4_30.html

鮪の競場は仲卸業者エリアの一番奥に位置しています。下の写真のオレンジ色のシャッターの所です。



そして築地市場内の隅田川に近い場所、すなわち場内の一番奥に位置する場所に「活魚」の生簀があるのをご存知ですか?ここには生きた魚が生簀の中で泳いでいる姿を見ることができます。カレイ、平目、ふぐなどの魚が出荷を待っています。この活魚エリアに沿って隅田川が流れています。

 



ちょっと時間があれば河岸の岸壁まで足をのばし、勝鬨橋や対岸の月島の光景を眺めることもできます。



それとつい見落としてしまうような表示板に、かつて日本橋河岸にあった魚河岸の名残りを見ることがきるのですが、それが下の表示板の記載です。「潮待茶屋」と書かれています。江戸湾から日本橋川を遡り船を日本橋河岸に寄せるには、それなりの水位が必要なのですが、干潮の時には日本橋川は水深が浅いため舟の往来に支障がでてきます。そんな時、潮が満ちてくるまで舟の船頭たちが河岸の茶屋でお茶を飲みながらひとときを過ごしていたのです。そんな「粋」な言葉が活きつづけているのが築地の「魚がし」です。
現在の築地の魚がしでは茶屋組合が組織され、茶屋のスタッフが仲卸業者から購入した品物を業者のトラックなどに運ぶサービスを提供しています。



余談ですが、築地中央卸売市場では1日にどれくらいの量の発泡スチロールの箱がゴミとして出されると思いますか?実は約10トンの量の発泡スチロールが廃棄されています。そしてこの廃棄物を場内の処理場で第一次処理を施しているのです。処理工場は仲卸業者エリアの屋上に設置されています。ここでは廃棄された発泡スチロールを細かく砕き、更にパウダー状にしたものを熱処理を加え、長さ70cm、幅30cmほどの板にします。これは搬出しやすくするための作業です。パウダーにするときに紙やマーカーペンの色素も一緒になるので、固めると全体が薄い空色になっています。
この板状になったものを第二処理をするため、別の工場へと運ばれていくそうです。

 

 



築地市場内のとっておきのお店をVer.2で紹介いたしましょう。お楽しみに!

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お江戸の安産・水難、水商売に御利益・水天宮【日本橋人形町】

2011年01月17日 23時12分34秒 | 中央区・歴史散策
江戸時代には官許の芝居小屋として認められていた中村座と市村座があったここ人形町には、人形浄瑠璃の芝居小屋もあり、多くの人形師が住み、人形を売る店が多数並んでいたため、いつしか「人形町」と呼ばれるようになったのです。

そんな人形町と隣接する町、蛎殻町(かぎがらちょう)にあるのが今日のお題・水天宮です。冬晴れの寒さが厳しい中、境内には安産祈願に詣でるたくさんの家族連れやカップルが訪れていました。



祭神は壇ノ浦の合戦で海の藻屑と消えた平家所縁の安徳天皇、建礼門院、二位の尼です。戦の後、建礼門院に仕えていた官女、按察使局(あぜちのつぼね)伊勢(いせ)がひとり源氏方の追っ手から、九州の千歳川(現在の筑後川)辺り、鷺野ヶ原に遁れて来ました。
そして伊勢はこの地で平家一門の霊を慰めるために祠を建て、安徳天皇をはじめ平家一門の霊を祀る日々を送りました。その後、伊勢は里人に慕われ、祠は尼御前神社と呼ばれ、これが水天宮の起源となったのです。



時代が下り、江戸時代に久留米藩第二代藩主有馬忠頼(ただより)公により、現在の久留米市瀬下町に七千坪の敷地が寄進されて社殿が設けられ、水天宮本宮としてつづいています。
そのご分霊が、江戸赤羽根の久留米藩21万石有馬家屋敷に祀られ、その後、青山から日本橋蛎穀町へと移り今にいたっています。



江戸時代の有馬家の上屋敷は現在の東京・三田に置かれていました。この屋敷内に九州・久留米から分霊した水天宮の祠があったのですが、江戸の庶民の間で水天宮信仰が高まり、屋敷の塀越にお賽銭を投げ入れる人が後を絶たず、ついに毎月五の日には参拝を願う江戸庶民のため門戸を開放したと言われています。

この有馬家の粋な計らいは江戸庶民の間で有馬家と「情け深い」ことを掛けて「情けありまの水天宮」との洒落た言い習わしが広まり、「恐れ入谷の鬼子母神」と共に江戸の二大流行語となったのです。

江戸庶民の信仰を集めた水天宮は明治4(1871)年、青山の有馬家中屋敷に移った後に、翌明治5年、有馬家下屋敷のあった現在の日本橋蠣殻町に移転し、今日に至っています。



また、水天宮の象徴として「犬」の逸話が残っています。六代藩主則維(のりふさ)公は、時の五代将軍綱吉公(犬公方)から小犬を拝領し、それ以来藩主の行列の際にはつねに拝領犬を曳きつれ、市民から「有馬の曳き犬」と称されました。犬にあやかって安産、多子を祈願する謂れが残る水天宮には「子宝犬」の像が本殿脇に置かれています。



境内には辨財天の社が置かれています。この辨財天も江戸時代には赤羽根の有馬家上屋敷に祀られていたものです。

辨財天の社

水天宮から人形町通りへ入ると、歩道脇に櫓が立っています。この櫓は仕掛け時計になっていて毎正時には櫓の扉が開きお江戸の風情を感じさせるような人形が可愛らしい仕草で姿を現してくれます。そして、人形町通りから明治座へと向かう「甘酒横丁」にあるお勧めのお店を1軒紹介しましょう。
ちなみに甘酒横丁の名前は明治時代の始めに、この横丁の入口に尾張屋という甘酒屋があったことに由来しています。


鯛焼きの柳屋

個人的見解ですが、東京で一二を争うと言っても過言ではない美味しい「鯛焼きの柳屋」です。パリパリの薄い皮に甘さ控えめなたっぷりの小豆あんがなんとも絶妙。連日長蛇の列ができる甘酒横丁の人気店です。是非ご賞味あれ。





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謹賀新年~卯の年の最初のお題は寅さんの故郷・下町の庚申様「帝釈天題経寺」

2011年01月05日 17時35分32秒 | 葛飾区・歴史散策
新しい年を迎え、元旦2日には地元江東区の深川七福神を詣で本年の家内安全、健康祈願をしてきました。
そして今日は葛飾の柴又帝釈天へ久しぶりにお参りに行ってきました。ここ葛飾柴又は私の生まれ故郷でもあります。

東京の東、江戸川のほとりに面して広がる柴又の町は同じ下町であってもその風情は隅田川沿いの町々とは異なります。高層のビルがほとんどない、住宅が密集する東京の田舎といった雰囲気が漂っています。

京成線の柴又駅も昔とそれほど変わらない風情が残り、駅名の表示もひと昔前のデザインがそのまま生きつづけています。柴又に隣り合う駅名が高砂と金町と、なにやら縁起の良い響きがあるんですね。



お正月ということで普段はそれほど混まない駅前広場も帝釈天詣での参拝客でごった返していました。その人込みの中に混ざって、柴又の町を代表する人物の像が私たちを迎えてくれます。ご存知の「フーテンの寅さん」の立像です。



駅前広場から帝釈天山門まで細い参道が続いています。その参道の両側に並ぶのが川魚料理屋と柴又名物の草団子のお店が次ぎから次へと現れます。寅さんの実家の「くるまや」は実在しませんが、映画に出てきたような昔ながらの店構えの団子屋さんがまるで映画のオープンセットのような佇まいを見せています。せっかくなので食べ歩きようの草団子を1本(150円)買い求め、「よもぎ」の香りとともに味覚を愉しみました。





ゆっくりとした歩みでやっと山門まで辿り着きました。山門には「庚申」の提灯が吊るされています。実は今日1月5日は帝釈天の初庚申の日にあたり、特別な縁日としてたくさんの参詣客が訪れていたと思われます。





庚申とは干支(えと) 即ち、庚(かのえ)申(さる)の日を意味し、この庚申の夜に人間の体の中にいる三尸の虫が寝ている間に体から脱け出し、天帝にその人間の行った悪行を告げ口に行くと伝えられています。天帝は寿命を司る神であることから、悪いことをした人に罰として寿命を縮めることができるのです。ところが三尸の虫は人間が寝ている間にしか体から脱け出ることができないので、庚申日は誰もが寝ずに徹夜をするという風習が定着していきます。これを庚申待ちという江戸時代からつづく風習です。
庚申待ちは60日に一度。ほぼ二ヶ月に一度巡ってきますから、この庚申待ちは三尸の伝説を体よく利用した息抜きの日だったという気もします。各地にこの庚申講がたてた庚申塔という石碑が残っていますから、広く行われた行事であることが判ります。次の庚申の日は3月6日(日)にあたります。





ここ柴又帝釈天では元旦から7日目までと初庚申の日にのみ授与される「お守り」があります。加太守(かぶとまもり)と呼ばれ、兜をあしらったお守りのことです。紙を兜の形に折り、竹の棒に挟んであります。特別な祈祷などは受けなくても800円で買えます。自宅に持ち帰り、その年の恵方に向けて飾るものです。





私自身は庚申信仰の信者ではないのですが、今日5日の庚申の日に徹夜は難しいので、天帝様からお許しをいただき少しでも寿命を長くしてもらいたいと願いつつ加太守を授与していただき帰路につきました。





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