岡崎の観光ガイドブックを眺めていると、旧東海道と藤川宿というページにふと目がいき、そのページの下段に小さく「法蔵寺」という記事が掲載されているのに気がつきました。
法蔵寺境内
わずか数行の説明文なのですが、なんと神君家康公が幼少の頃にここ法蔵寺で手習いを受けたことが記されていました。
ちょうど名鉄線で東岡崎から豊橋へと戻る途中にある本宿駅からさほど離れていないということで法蔵寺を訪れてみることにしました。そういえば名鉄線に乗って東岡崎へ向かう途中、この本宿駅にさしかかると車窓からかなり規模の大きな寺が見えていました。いったいどんなお寺なのだろうと気にはなっていたのですが、ガイドブックに掲載されている寺であることは今回の訪問で初めて知った次第です。
本宿駅を下り改札口をでると目の前に国道1号線が走っています。比較的交通量が多く、長距離のトラック便がひっきりなしに通過していきます。駅前ということで商店街などがあるのかと思いきや、それらしい商店街がなく静かな田舎町といった風情が漂っています。
駅前には法蔵寺への道案内もなく、どの方向へ行ったらよいのかわからず、すかさずi-Padのナビに頼ることにしました。駅から法蔵寺まではおよそ400mくらいなので、徒歩でゆっくり歩いても7~8分といったところです。
国道1号をわたり、さらに進むと旧東海道との交差点にさしかかります。この交差点の角に石造りの常夜灯が置かれ、その向かいには古い商家の建物が旧街道に色を添えるように建っています。
この旧東海道を豊橋方面に向かって歩くと右手に目指す法蔵寺の参道が現れます。その参道口に「東海道」と刻まれた石柱がぽつねんと立てられています。
東海道石柱
また参道入口の左側に神君家康公のお手植えと言われる「御草紙掛松」という松の木がありました。この名の由来は家康公の幼少の頃、竹千代時代にここ法蔵寺での手習いの際に、この松に草紙を掛けたといわれています。尚、この松はその時代のものではなく4代目となっているとのことです。
御草紙掛松
家康公と浅からぬ関係にあるこの法蔵寺前を通る東海道では、江戸時代には必ず下馬して通らなければならなったそうです。
法蔵寺山門
法蔵寺山門
法蔵寺の山門は旧東海道から少し奥まった場所に構えています。堂宇は小高い丘の中腹に配置されているようで、ご本堂の大きな屋根は目線を上にあげた位置に見ることができます。山寺ではないのですが、寺の背後は木々の緑で覆われた山が迫っています。擬宝珠を奉じた赤い欄干の小さな橋を渡ると、時代を感じさせるような古さを滲ませた木造の総門(三門)が現れます。
法蔵時の総門(山門は)知恵の門「少しでも前進の生活を」、慈悲の門「やさしい心で生活を」、方便の門「仏に正直な生活を」の3つを意味しています
総門(三門)をくぐると石段がつづき、見上げると鐘楼と門を兼ねた「鐘楼門」が迎えてくれます。この鐘楼門は境内に現存する建造物の中で最も古いものです。
鐘楼門
法蔵寺の創建は古く、大宝(701)に開基はあの有名は行基です。そして至徳4年(1387)に松平・徳川氏の祖である親氏(ちかうじ)によって本格的な伽藍が建立された古刹なのです。そして家康公の幼少の頃、竹千代はここ法蔵寺に入学し、時の住職である教翁に師事し手習いを受けたのです。
法蔵寺本堂
方丈
本堂
本堂内
鐘楼門の正面に立派な本堂、本堂の右手には方丈(客殿)が控え、本堂の左手には回廊で結ばれた六角堂が建っています。
六角堂
お堂には聖観音、十一面観音、千手観音、不空羂索(ふくうけんじゃく)、馬頭観音、如意輪観音が祀られています。
この六角堂は前九年の役で奥州へ向かう源頼義が永承6年(1051)に戦勝祈願をし、自らの甲冑を奉納しています。
また家康公は長篠合戦の出陣に際して必勝祈願し、これ以後開運の観音様と呼ばれ親しまれています。
現在の六角堂は江戸時代の享保13年(1728)に再建されたもので、平成12年に回廊を含め大修理を行っています。
そして六角堂の脇から傾斜角のある坂道を進むと境内を見下ろすような場所に思いがけない人物の塚が現れてきます。というのもここ法蔵寺境内を歩いているときに、「誠」の旗印が目についていたのですが、やっと判明しました。そこには幕末に活躍したあの新撰組隊長「近藤勇」の胸像とその脇には彼の首を埋めたとされる「首塚」が置かれていました。
近藤勇像と首塚
近藤勇像
なぜこんな場所に近藤勇の首塚があるのか?
近藤勇はあの戊辰戦争の始まりである鳥羽伏見の戦いの後、武蔵の流山で官軍に捕らえられ、慶応4年(1868)に東京の板橋で打ち首になっています。その首は塩漬けにされ京都に送られ、三条大橋に晒されていました。それを見た新撰組同志によって密かに首が持ち出され、近藤勇が親しくしていた京都新京極裏寺町の称空義太夫和尚に供養してもらうつもりだったのですが、そのとき称空義太夫和尚がここ本宿の法蔵寺の貫主となっていたことがわかり、首は本宿まで運ばれたそうです。
首は目立たぬように土に埋められ隠されていたために、その存在すら忘れ去られていましたが、昭和33年(1958)に発掘されました。現在、その場所には近藤勇の胸像と首塚の石碑そして新撰組の隊旗が置かれています。
この近藤勇の首塚の前に、思わせぶりな、何か重要な人物と関わりがありそうな小さな広場があります。石畳で敷き詰められたこの広場には古めかしい大きさの異なる「五輪塔」が並んでいます。一番大きな五輪塔が家康公の父君である広忠公の墓です。
松平広忠と一族の墓
なんとこの場所が家康公の父君である松平広忠公とその一族の方々が眠る墓所だったのです。以前、岡崎市内にある松平家の菩提寺である大樹寺を訪れたときに、広忠公の墓を見たような記憶があるのですが…。
東照宮社殿
社殿扁額
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/4c/3b064d673d60b43a5c72d47cf836c950.jpg)
そしてさらに細い傾斜道を登っていくと、ここにもあった「東照宮」といった感じで社殿が姿を現します。確かに神君家康公の幼少の頃にここ法蔵寺で手習いを受けたという関わりがある以上、東照宮が勧請されていてもおかしくはないのですが、境内を見下ろす一番高い場所に置かれている東照宮の本殿は絢爛豪華とは言いがたく、朱色の彩色は目立つものの、そのほかの彩色は若干色褪せ、石灯籠もなく寂しくぽつねんと置かれているような佇まいでした。
法蔵寺境内俯瞰
この東照宮が置かれた高台からは法蔵寺の境内全体を見下ろすことができ、遥か彼方に連なる山並みまで一望にすることができました。
《三河・岡崎にある東照宮》
■滝山東照宮(一応、日光、久能山と並ぶ日本三大東照宮の一つと言われている)
三代将軍・家光公は祖父の家康公が生まれた岡崎にも東照宮を勧請したいと考え、正保原燃(1644)に酒井忠勝、松平正剛に命じて建立場所を選定させました。そして岡崎の郊外にある古刹滝山寺に正保3年(1646)に創建されました。
■東三河・本長篠の鳳来寺山東照宮(飯田線の本長篠駅):標高695m 1425段の石段をのぼる
家康公の父「広忠」は子供がいないことを憂い、母である伝通院(於大の方)と共に鳳来寺峯薬師へ子宝祈願をしました。その後願いが叶い、家康公が誕生しました。そんなことで家光公は慶安元年(1648)に東照宮造営を命じ、4代家綱公の時代の慶安4年(1651)に落成しました。
家康公の故郷・三河岡崎~画僧「月僊」ゆかりの古刹・昌光律寺の佇まい~(愛知県岡崎市)
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わずか数行の説明文なのですが、なんと神君家康公が幼少の頃にここ法蔵寺で手習いを受けたことが記されていました。
ちょうど名鉄線で東岡崎から豊橋へと戻る途中にある本宿駅からさほど離れていないということで法蔵寺を訪れてみることにしました。そういえば名鉄線に乗って東岡崎へ向かう途中、この本宿駅にさしかかると車窓からかなり規模の大きな寺が見えていました。いったいどんなお寺なのだろうと気にはなっていたのですが、ガイドブックに掲載されている寺であることは今回の訪問で初めて知った次第です。
本宿駅を下り改札口をでると目の前に国道1号線が走っています。比較的交通量が多く、長距離のトラック便がひっきりなしに通過していきます。駅前ということで商店街などがあるのかと思いきや、それらしい商店街がなく静かな田舎町といった風情が漂っています。
駅前には法蔵寺への道案内もなく、どの方向へ行ったらよいのかわからず、すかさずi-Padのナビに頼ることにしました。駅から法蔵寺まではおよそ400mくらいなので、徒歩でゆっくり歩いても7~8分といったところです。
国道1号をわたり、さらに進むと旧東海道との交差点にさしかかります。この交差点の角に石造りの常夜灯が置かれ、その向かいには古い商家の建物が旧街道に色を添えるように建っています。
この旧東海道を豊橋方面に向かって歩くと右手に目指す法蔵寺の参道が現れます。その参道口に「東海道」と刻まれた石柱がぽつねんと立てられています。
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また参道入口の左側に神君家康公のお手植えと言われる「御草紙掛松」という松の木がありました。この名の由来は家康公の幼少の頃、竹千代時代にここ法蔵寺での手習いの際に、この松に草紙を掛けたといわれています。尚、この松はその時代のものではなく4代目となっているとのことです。
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家康公と浅からぬ関係にあるこの法蔵寺前を通る東海道では、江戸時代には必ず下馬して通らなければならなったそうです。
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法蔵寺の山門は旧東海道から少し奥まった場所に構えています。堂宇は小高い丘の中腹に配置されているようで、ご本堂の大きな屋根は目線を上にあげた位置に見ることができます。山寺ではないのですが、寺の背後は木々の緑で覆われた山が迫っています。擬宝珠を奉じた赤い欄干の小さな橋を渡ると、時代を感じさせるような古さを滲ませた木造の総門(三門)が現れます。
法蔵時の総門(山門は)知恵の門「少しでも前進の生活を」、慈悲の門「やさしい心で生活を」、方便の門「仏に正直な生活を」の3つを意味しています
総門(三門)をくぐると石段がつづき、見上げると鐘楼と門を兼ねた「鐘楼門」が迎えてくれます。この鐘楼門は境内に現存する建造物の中で最も古いものです。
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法蔵寺の創建は古く、大宝(701)に開基はあの有名は行基です。そして至徳4年(1387)に松平・徳川氏の祖である親氏(ちかうじ)によって本格的な伽藍が建立された古刹なのです。そして家康公の幼少の頃、竹千代はここ法蔵寺に入学し、時の住職である教翁に師事し手習いを受けたのです。
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鐘楼門の正面に立派な本堂、本堂の右手には方丈(客殿)が控え、本堂の左手には回廊で結ばれた六角堂が建っています。
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お堂には聖観音、十一面観音、千手観音、不空羂索(ふくうけんじゃく)、馬頭観音、如意輪観音が祀られています。
この六角堂は前九年の役で奥州へ向かう源頼義が永承6年(1051)に戦勝祈願をし、自らの甲冑を奉納しています。
また家康公は長篠合戦の出陣に際して必勝祈願し、これ以後開運の観音様と呼ばれ親しまれています。
現在の六角堂は江戸時代の享保13年(1728)に再建されたもので、平成12年に回廊を含め大修理を行っています。
そして六角堂の脇から傾斜角のある坂道を進むと境内を見下ろすような場所に思いがけない人物の塚が現れてきます。というのもここ法蔵寺境内を歩いているときに、「誠」の旗印が目についていたのですが、やっと判明しました。そこには幕末に活躍したあの新撰組隊長「近藤勇」の胸像とその脇には彼の首を埋めたとされる「首塚」が置かれていました。
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なぜこんな場所に近藤勇の首塚があるのか?
近藤勇はあの戊辰戦争の始まりである鳥羽伏見の戦いの後、武蔵の流山で官軍に捕らえられ、慶応4年(1868)に東京の板橋で打ち首になっています。その首は塩漬けにされ京都に送られ、三条大橋に晒されていました。それを見た新撰組同志によって密かに首が持ち出され、近藤勇が親しくしていた京都新京極裏寺町の称空義太夫和尚に供養してもらうつもりだったのですが、そのとき称空義太夫和尚がここ本宿の法蔵寺の貫主となっていたことがわかり、首は本宿まで運ばれたそうです。
首は目立たぬように土に埋められ隠されていたために、その存在すら忘れ去られていましたが、昭和33年(1958)に発掘されました。現在、その場所には近藤勇の胸像と首塚の石碑そして新撰組の隊旗が置かれています。
この近藤勇の首塚の前に、思わせぶりな、何か重要な人物と関わりがありそうな小さな広場があります。石畳で敷き詰められたこの広場には古めかしい大きさの異なる「五輪塔」が並んでいます。一番大きな五輪塔が家康公の父君である広忠公の墓です。
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なんとこの場所が家康公の父君である松平広忠公とその一族の方々が眠る墓所だったのです。以前、岡崎市内にある松平家の菩提寺である大樹寺を訪れたときに、広忠公の墓を見たような記憶があるのですが…。
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そしてさらに細い傾斜道を登っていくと、ここにもあった「東照宮」といった感じで社殿が姿を現します。確かに神君家康公の幼少の頃にここ法蔵寺で手習いを受けたという関わりがある以上、東照宮が勧請されていてもおかしくはないのですが、境内を見下ろす一番高い場所に置かれている東照宮の本殿は絢爛豪華とは言いがたく、朱色の彩色は目立つものの、そのほかの彩色は若干色褪せ、石灯籠もなく寂しくぽつねんと置かれているような佇まいでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/76/a119a22134d22b8925afc0b00fe9e650.jpg)
この東照宮が置かれた高台からは法蔵寺の境内全体を見下ろすことができ、遥か彼方に連なる山並みまで一望にすることができました。
《三河・岡崎にある東照宮》
■滝山東照宮(一応、日光、久能山と並ぶ日本三大東照宮の一つと言われている)
三代将軍・家光公は祖父の家康公が生まれた岡崎にも東照宮を勧請したいと考え、正保原燃(1644)に酒井忠勝、松平正剛に命じて建立場所を選定させました。そして岡崎の郊外にある古刹滝山寺に正保3年(1646)に創建されました。
■東三河・本長篠の鳳来寺山東照宮(飯田線の本長篠駅):標高695m 1425段の石段をのぼる
家康公の父「広忠」は子供がいないことを憂い、母である伝通院(於大の方)と共に鳳来寺峯薬師へ子宝祈願をしました。その後願いが叶い、家康公が誕生しました。そんなことで家光公は慶安元年(1648)に東照宮造営を命じ、4代家綱公の時代の慶安4年(1651)に落成しました。
家康公の故郷・三河岡崎~画僧「月僊」ゆかりの古刹・昌光律寺の佇まい~(愛知県岡崎市)
家康公の故郷・三河岡崎~家康公の父「忠弘公」密葬の地能見の「松應寺」を訪ねて
家康公の故郷・三河岡崎~家康公誕生の城・岡崎城~(愛知県岡崎市)
家康公の故郷・三河岡崎~徳川将軍家菩提寺「大樹寺」~(愛知県岡崎市)
家康公の故郷・三河岡崎~徳川家累代祈願所「伊賀八幡宮」~(愛知県岡崎市)
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