大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

三河本宿・旧東海道脇の名刹「法蔵寺」は家康公幼少の頃の手習い所

2011年10月25日 08時53分17秒 | 地方の歴史散策・愛知県岡崎市
岡崎の観光ガイドブックを眺めていると、旧東海道と藤川宿というページにふと目がいき、そのページの下段に小さく「法蔵寺」という記事が掲載されているのに気がつきました。

法蔵寺境内

わずか数行の説明文なのですが、なんと神君家康公が幼少の頃にここ法蔵寺で手習いを受けたことが記されていました。

ちょうど名鉄線で東岡崎から豊橋へと戻る途中にある本宿駅からさほど離れていないということで法蔵寺を訪れてみることにしました。そういえば名鉄線に乗って東岡崎へ向かう途中、この本宿駅にさしかかると車窓からかなり規模の大きな寺が見えていました。いったいどんなお寺なのだろうと気にはなっていたのですが、ガイドブックに掲載されている寺であることは今回の訪問で初めて知った次第です。

本宿駅を下り改札口をでると目の前に国道1号線が走っています。比較的交通量が多く、長距離のトラック便がひっきりなしに通過していきます。駅前ということで商店街などがあるのかと思いきや、それらしい商店街がなく静かな田舎町といった風情が漂っています。

駅前には法蔵寺への道案内もなく、どの方向へ行ったらよいのかわからず、すかさずi-Padのナビに頼ることにしました。駅から法蔵寺まではおよそ400mくらいなので、徒歩でゆっくり歩いても7~8分といったところです。

国道1号をわたり、さらに進むと旧東海道との交差点にさしかかります。この交差点の角に石造りの常夜灯が置かれ、その向かいには古い商家の建物が旧街道に色を添えるように建っています。

この旧東海道を豊橋方面に向かって歩くと右手に目指す法蔵寺の参道が現れます。その参道口に「東海道」と刻まれた石柱がぽつねんと立てられています。

東海道石柱

また参道入口の左側に神君家康公のお手植えと言われる「御草紙掛松」という松の木がありました。この名の由来は家康公の幼少の頃、竹千代時代にここ法蔵寺での手習いの際に、この松に草紙を掛けたといわれています。尚、この松はその時代のものではなく4代目となっているとのことです。

御草紙掛松

家康公と浅からぬ関係にあるこの法蔵寺前を通る東海道では、江戸時代には必ず下馬して通らなければならなったそうです。

法蔵寺山門
法蔵寺山門

法蔵寺の山門は旧東海道から少し奥まった場所に構えています。堂宇は小高い丘の中腹に配置されているようで、ご本堂の大きな屋根は目線を上にあげた位置に見ることができます。山寺ではないのですが、寺の背後は木々の緑で覆われた山が迫っています。擬宝珠を奉じた赤い欄干の小さな橋を渡ると、時代を感じさせるような古さを滲ませた木造の総門(三門)が現れます。

法蔵時の総門(山門は)知恵の門「少しでも前進の生活を」、慈悲の門「やさしい心で生活を」、方便の門「仏に正直な生活を」の3つを意味しています

総門(三門)をくぐると石段がつづき、見上げると鐘楼と門を兼ねた「鐘楼門」が迎えてくれます。この鐘楼門は境内に現存する建造物の中で最も古いものです。

鐘楼門

法蔵寺の創建は古く、大宝(701)に開基はあの有名は行基です。そして至徳4年(1387)に松平・徳川氏の祖である親氏(ちかうじ)によって本格的な伽藍が建立された古刹なのです。そして家康公の幼少の頃、竹千代はここ法蔵寺に入学し、時の住職である教翁に師事し手習いを受けたのです。

法蔵寺本堂
方丈
本堂
本堂内

鐘楼門の正面に立派な本堂、本堂の右手には方丈(客殿)が控え、本堂の左手には回廊で結ばれた六角堂が建っています。

六角堂

お堂には聖観音、十一面観音、千手観音、不空羂索(ふくうけんじゃく)、馬頭観音、如意輪観音が祀られています。
この六角堂は前九年の役で奥州へ向かう源頼義が永承6年(1051)に戦勝祈願をし、自らの甲冑を奉納しています。

また家康公は長篠合戦の出陣に際して必勝祈願し、これ以後開運の観音様と呼ばれ親しまれています。
現在の六角堂は江戸時代の享保13年(1728)に再建されたもので、平成12年に回廊を含め大修理を行っています。

そして六角堂の脇から傾斜角のある坂道を進むと境内を見下ろすような場所に思いがけない人物の塚が現れてきます。というのもここ法蔵寺境内を歩いているときに、「誠」の旗印が目についていたのですが、やっと判明しました。そこには幕末に活躍したあの新撰組隊長「近藤勇」の胸像とその脇には彼の首を埋めたとされる「首塚」が置かれていました。

近藤勇像と首塚
近藤勇像

なぜこんな場所に近藤勇の首塚があるのか?
近藤勇はあの戊辰戦争の始まりである鳥羽伏見の戦いの後、武蔵の流山で官軍に捕らえられ、慶応4年(1868)に東京の板橋で打ち首になっています。その首は塩漬けにされ京都に送られ、三条大橋に晒されていました。それを見た新撰組同志によって密かに首が持ち出され、近藤勇が親しくしていた京都新京極裏寺町の称空義太夫和尚に供養してもらうつもりだったのですが、そのとき称空義太夫和尚がここ本宿の法蔵寺の貫主となっていたことがわかり、首は本宿まで運ばれたそうです。

首は目立たぬように土に埋められ隠されていたために、その存在すら忘れ去られていましたが、昭和33年(1958)に発掘されました。現在、その場所には近藤勇の胸像と首塚の石碑そして新撰組の隊旗が置かれています。

この近藤勇の首塚の前に、思わせぶりな、何か重要な人物と関わりがありそうな小さな広場があります。石畳で敷き詰められたこの広場には古めかしい大きさの異なる「五輪塔」が並んでいます。一番大きな五輪塔が家康公の父君である広忠公の墓です。

松平広忠と一族の墓

なんとこの場所が家康公の父君である松平広忠公とその一族の方々が眠る墓所だったのです。以前、岡崎市内にある松平家の菩提寺である大樹寺を訪れたときに、広忠公の墓を見たような記憶があるのですが…。

東照宮社殿
社殿扁額


そしてさらに細い傾斜道を登っていくと、ここにもあった「東照宮」といった感じで社殿が姿を現します。確かに神君家康公の幼少の頃にここ法蔵寺で手習いを受けたという関わりがある以上、東照宮が勧請されていてもおかしくはないのですが、境内を見下ろす一番高い場所に置かれている東照宮の本殿は絢爛豪華とは言いがたく、朱色の彩色は目立つものの、そのほかの彩色は若干色褪せ、石灯籠もなく寂しくぽつねんと置かれているような佇まいでした。

法蔵寺境内俯瞰

この東照宮が置かれた高台からは法蔵寺の境内全体を見下ろすことができ、遥か彼方に連なる山並みまで一望にすることができました。

《三河・岡崎にある東照宮》
■滝山東照宮(一応、日光、久能山と並ぶ日本三大東照宮の一つと言われている)
三代将軍・家光公は祖父の家康公が生まれた岡崎にも東照宮を勧請したいと考え、正保原燃(1644)に酒井忠勝、松平正剛に命じて建立場所を選定させました。そして岡崎の郊外にある古刹滝山寺に正保3年(1646)に創建されました。
■東三河・本長篠の鳳来寺山東照宮(飯田線の本長篠駅):標高695m 1425段の石段をのぼる
家康公の父「広忠」は子供がいないことを憂い、母である伝通院(於大の方)と共に鳳来寺峯薬師へ子宝祈願をしました。その後願いが叶い、家康公が誕生しました。そんなことで家光公は慶安元年(1648)に東照宮造営を命じ、4代家綱公の時代の慶安4年(1651)に落成しました。

家康公の故郷・三河岡崎~画僧「月僊」ゆかりの古刹・昌光律寺の佇まい~(愛知県岡崎市)
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三河岡崎の東照宮とみまがう六所神社の壮麗な社殿

2011年10月24日 11時10分10秒 | 地方の歴史散策・愛知県岡崎市
念願の瀧山東照宮の参拝を終えて、再び名鉄東岡崎駅前に戻ってきました。市内に点在する三河松平、徳川氏に縁のある主な寺社はこれまでの岡崎訪問で参拝を終えていたのですが、実はたいへん重要な神社が名鉄東岡崎駅からほんの僅かな距離にあったのです。駅から近い場所にあることから、いつでも行けると思って参拝が後回しになっていたので、今回は瀧山東照宮と共に必ず訪問する場所に決めていました。

六所神社楼門

神君家康公の故郷である岡崎はほんとうに街全体が松平氏と徳川氏ゆかりの寺社が多数残り、まるで野外博物館のような様相を呈しています。

名鉄東岡崎駅の西側には緑に覆われた小高い丘が広がっています。その緑濃い木々に囲まれた丘に歴史に彩られた六所神社の壮麗な社殿が鎮座しています。この六所神社の創立は古く、斎明天皇(655~661)の勅願により、奥州塩竃六所大明神を勧請されたことに遡ります。そして時代が下り、三河を治める松平氏の時代に家康公(竹千代君)誕生の折に「産土神(うぶすなかみ)」としてここ六所神社に拝礼された由緒ある神社なのです。

神君家康公の産土神を祀る神社であることから、慶長7年(1602)には家康公じきじきにご朱印状が下され、新たに社殿が造営されるほど徳川家から厚い庇護を受けています。そして三代将軍家光公の上洛の際(寛永11年/1634)には、岡崎城内にて六所神社にむけて遥拝を行い、寛永11年から13年にかけて本殿、幣殿、拝殿を連結し、絢爛豪華な彩色を施した権現造りの社殿が完成したのです。その後、貞亨5年(1688)には見事な楼門が建てられています。

六所神社大鳥居

名鉄の線路脇から続く参道を進むと前方に二基の石灯篭を従えた大鳥居が目に飛び込んできます。鳥居の向こうは鬱蒼とした木々に覆われ、その木々の間からさす木漏れ日の中に水盤舎と神馬の像が静かに佇んでいます。

水盤舎
神馬像

この水盤舎と神馬が置かれている場所の左手にかなりの勾配の見上げるような石段が続いています。かつて江戸時代にはこの石段は五万石以上の大名しか登ることができなかったと言われています。その石段を登りきったところに構えるのが社殿入口に構える「楼門」です。この楼門は四代将軍家綱公が寄進したものと伝えられており、重要文化財に指定されています。

石段と楼門

石段の下から仰ぎ見る楼門の姿は「どこかで見たような」姿が頭によぎります。これまでに見た家康公縁の寺社の中で、あの久能山東照宮の楼門と酷似しているのです。朱塗りの堂々とした楼門の姿に徳川将軍家の並々ならぬ庇護の証を感じ取ることができます。楼門の左右にはおそらく二天像か随身像が置かれていたのではないかと思われる壇があるのですが、どういうわけか何も置かれていませんでした。

楼門
楼門

楼門をくぐると左手にこけら葺きの屋根の歴史を感じさせる「神供所(しんぐしょ)」が置かれています。どのような目的のための建物かというと、神様にお供えする供物を準備するためのものなのですが、以前訪れたことがある岡崎の伊賀八幡宮にも同じような目的で置かれている「御供所(ごくしょ)」があったことを思い出しました。

神供所

そしてこの神供所と並ぶように建つのが神楽殿です。それほど古いものではなさそうですが境内にアクセントをつけているかのように慎ましく佇んでいます。

神楽殿

圧巻はやはり拝殿、幣殿とその背後に連なる本殿が一体化した権現造りの社殿群の姿です。さきの楼門の姿といい、社殿群はそんじょそこいらの東照宮が足元に及ばないくらいの豪華さと威厳を湛えています。朱色と黒を基調とした色使いの中に、金、青、緑がバランスよく配色されている社殿の彩色は、日光東照宮、大猷院廟、久能山東照宮の社殿に匹敵するかのような贅沢な美しさを表しています。拝殿、幣殿、本殿、神供所ともに国の重要文化財に指定されているのですが、それなりの価値があることは疑いのないところです。

拝殿
拝殿の向背部分
拝殿と本殿
社殿を囲む透塀
神君家康公の手形

静かな境内でふと思うことは、これほどまでに徳川将軍家の庇護を受けていた六所神社にどうして東照宮を勧請しなかったのかという疑問なのです。瀧山東照宮の創建理由ももっともながら、ここ六所神社の社殿の造りはまさしくそれなりの地位と格式をもつ権現造りであることと、併せて神君家康公の産土神を祀る当社であれば東照宮としての社格が与えられていてもなんら不思議ではないという思いがふつふつと湧き上がってくるのは私だけでしょうか。

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名刹滝山寺と神君家康公を祀る瀧山東照宮の佇まい

2011年10月21日 17時48分39秒 | 地方の歴史散策・愛知県岡崎市
久しぶりに三河岡崎に戻ってきました。今回はかねてより是非訪れたいと考えていた瀧山東照宮をまず目指しました。

瀧山東照宮拝殿・幣殿

東照宮といえば、最も有名なのが日光東照宮、そして二番目には家康公が亡くなってすぐに埋葬された静岡の久能山にある東照宮なのですが、三番目というとかなり曖昧になってきます。前述の日光と久能山の両東照宮は家康公の亡骸が実際に運ばれたことで、お墓というイメージが強くそのために霊的な聖地として崇められているという印象があります。

しかしこの日光と久能山以外に日本全国にはなんと200ヶ所以上の東照宮が存在しているのです。家康公が立ち寄ったという理由で創った東照宮や、家康公が座った「ムシロ」を祀る東照宮など、家康公とほんの僅かでも関わりがあれば、その場所に東照宮を創ってしまったためこれだけの数の東照宮が日本全国に散在することになってしまったのです。

こうなると三つ目の東照宮を選ぶ根拠となる理由を見つけるのがかなり困難になるのですが、実はここに論理的に納得がいく理由で選ばれた三つ目の東照宮があるんです。理由は後述いたしますが、その東照宮こそ愛知県岡崎市の郊外に鎮座する「滝山東照宮」なのです。

名鉄の東岡崎駅前のバスターミナル4番乗り場から滝団地行きのバスに乗り、途中の滝団地口で下車するのが一番便利です。所要約20分で滝団地口に到着です。ここから徒歩で瀧山東照宮を目指します。

バスを降りると前方に大きな交差点がありますが、交差点を渡り直進します。前方に滝山寺の大きな山門が見えてきますので迷うことはないでしょう。この仁王門(現在修復工事中)を過ぎると右手に青木川が流れ、長閑な景色が現れてきます。緑濃い山並みに囲まれた静かな雰囲気の中で青木川のせせらぎの音だけが心地良い音色を響かせています。

バスを降りて10分ほどで左手に大きな石柱が現れます。いよいよ滝山寺と東照宮の入口に到着です。石柱には「瀧山東照宮」の文字が刻まれています。寺と東照宮へと続く道のりはかなりの段数の石段を登らなければならないことは覚悟していたのですが、鳥居から見上げるように続く石段を見てすぐにわかりました。

瀧山東照宮石柱
瀧山東照宮大鳥居
東照宮への石段

久能山ほども段数ではないのですが、やはり足腰が弱った体にはこたえます。しかし最後の石段を登りきるとそれまでの疲れが吹き飛ぶような美しいシルエットの建造物が目の前に現れます広い境内にその存在感を示すように建つのが当山、滝山寺のご本堂(重要文化財)なのですが、緩やかな反りをもつ屋根が特徴的で寄棟造、檜皮葺きの優雅な姿を見せています。室町時代の前期に建立されたもので、江戸時代のものとは建築様式があきらかに違うことがわかります。

滝山寺ご本堂

そもそも滝山寺の創建は古く、奈良時代の天武天皇の御世にまで遡ります。開基は当時の呪術者である役行者(えんのぎょうじゃ)とのこと。役行者草創の伝承をもつ寺院の多くは山岳信仰、水源信仰に関わる山寺なので、ここ滝山寺も山懐に抱かれた場所にあることから山岳信仰の場として崇められてきたのでしょう。

滝山寺ご本堂

そして時代が下り鎌倉時代には、当寺の住職である寛伝が源頼朝の従兄弟であるということから、鎌倉幕府の庇護を受け、頼朝の死後の三回忌に追善のため仏師運慶と湛慶親子に観音菩薩と両脇侍像を作らせ、現在も寺に伝わっているとのこと。その後、南北朝時代には足利尊氏の庇護、江戸時代には徳川家の厚い庇護を受けた歴史を持っています。

ご本堂内部

それぞれの時代ごとに為政者の庇護を受けた当寺には、近世の支配者である徳川家将軍家のご威光が見え隠れします。その一つに寺に寄進された鐘楼と梵鐘です。本堂に向かって左手に配置されているこの鐘楼と梵鐘は五代将軍綱吉公から寄進されたものだそうです。もちろんここ滝山寺の境内の一角に東照宮が勧請されてからの寄進なのですが、徳川将軍家が当寺を庇護していた証となるものです。その鐘楼の奥には徳川家の御紋がついた石灯篭が整然と並んでいます。

鐘楼と梵鐘
綱吉公寄進の梵鐘
鐘楼の奥に並ぶ石灯篭

それではいよいよ本来の目的である東照宮へと進んでまいりましょう。本堂と隣接するように右手に東照宮の拝殿、本殿が配置されています。日本三大東照宮の一つに数えられている社殿がいかに壮麗なのか、高鳴る気持ちを押さえつつ社殿入口の鳥居へと進んでいきます。

東照宮の鳥居
鳥居の扁額
東照宮拝殿・幣殿
拝殿の向背部分
水屋
中門
本殿

冒頭でここ瀧山東照宮が三つ目の東照宮として、それなりの論理的理由があると記述しましたが、その理由は家康公が生まれた地である岡崎城に近い場所であることなのです。日光東照宮は家康公の遺骸が最終的に葬むられている場所、久能山東照宮は駿府城で亡くなった家康公の遺骸が最初に葬むられている場所であることから、生誕の地である岡崎に将軍家が認める東照宮が置かれることはしごく自然ではないかと考えるからです。

瀧山東照宮の起源は家康公を深く崇めていた三代将軍家光公が前述のように家康公が生まれた岡崎城の近くにも東照宮を勧請したいという考えに基づき、酒井忠勝と松平正綱らに命じ、その場所の選定にあたらせたところ、岡崎郊外の古跡、名刹として名高い滝山寺が選ばれ、正保3年(1646)に創建されました。

このように肝いりで創建された瀧山東照宮なのですが、つい日光や久能山のそれと比較したくなってしまいます。見るからに日光と久能山に比べて、小振り、地味といった第一印象です。まあ、三番目というとやはり地味になってしまうのでしょうか?

東照宮拝殿・幣殿
拝殿横に並ぶ石灯篭
滝山寺境内俯瞰(右奥が東照宮神域)

それでも境内には重要文化財に指定されている拝殿・幣殿、中門、本殿、水屋が連なり、神域といった雰囲気が漂っています。各社殿の装飾や色彩は日光、久能山よりはかなり地味な感じです。

ともすれば上野の東照宮、川越喜多院の東照宮とどっこいかなといった印象です。それでも神君・家康公と深い関わりのある岡崎に祀られている大権現様に御参りできたことを幸いに思いつつ下山の途へ就いた次第です。

江戸の南西裏鬼門・芝増上寺の東照宮
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家康公の故郷・三河岡崎~画僧「月僊」ゆかりの古刹・昌光律寺の佇まい~(愛知県岡崎市)

2011年06月11日 16時56分04秒 | 地方の歴史散策・愛知県岡崎市
岡崎観光「文化百選めぐり・中北部コース」に含まれる名刹・古刹「昌光律寺(しょうこうりつじ)」は徳川将軍家の祈願所として名高い伊賀八幡宮の大鳥居と道路を挟んだ反対側に位置しています。

浄土宗・昌光律寺は三河地方浄土律寺の根本となるべき道場として、宝暦13年(1763)徳巌和上(とくがんわじょう)が松林院を改築して昌光律寺を開設しました。歴代学識高い住職が歴任しましたが、特に7代万空和上(ばんくうわじょう)は詩文をよくし、京の頼山陽とも付き合いがありました。特に画家月僊(げっせん)とはきわめて交わりが深く、多くの作品が保存され「月僊寺」とも言われています。尚、当寺は東京の芝増上寺の末寺です。

昌光律寺参道

車の行き交う大通りから山門へとつづく参道の両脇には松の木が整然と並び、古刹らしい雰囲気を漂わせています。参道を進むと白壁に山門が出迎えてくれます。山門の脇には「不許葷酒肉入門」の文字が刻まれた石柱がものものしい居ずまいで立っています。

昌光律寺戒壇石

このような文字が刻まれた石柱は禅宗系の寺院の門前によく見られるもので、「結界石(戒壇石)」と呼ばれています。

「葷酒肉山門に入るを禁ず」と言って、「葷」はにら、にんにく、ねぎなどの臭気のきつい野菜や唐辛子、「肉」は魚の類、そしてお酒を飲んでいる人は山門より中に入るべからずという意味なのです。境内に仏道修行の妨げになる酒や精力のつくものを入れてはならないという戒めなのです。禅宗の寺院ではこのように特に戒律が厳しかったことが覗われます。

境内

山門をくぐると新緑の葉を纏った木々が陽射しを遮り、木々の陰が苔むした地面を明暗を施し、初夏の木漏れ日が静かな境内にアクセントをつけています。狭い境内ながら長い歴史を刻んできた古刹の佇まいは、木々の葉の緑のグラデーションと光と影のコントラストの中に妙に溶け込んでいました。

ご本堂
木々の緑とご本堂

当寺には月僊の作品が数多く保存されているといいますが、おそらく特別なことがないかぎり一般公開はしていないと思います。機会があれば是非、鑑賞してみたいと思います。

※月僊(げっせん)
月僊は寛保元年(1741)1月1日、尾張名古屋の味噌商人の家に生まれ、7歳のとき剃髪し、10代で江戸の増上寺に入りました。月僊は生まれつき絵が好きで、修行の傍ら桜井雪館(せつかん)という、のちに雪舟12代を称していた画家について絵を学びました。増上寺の大僧正定月は彼の絵の才能や修行ぶりを誉めて、自分の名の一字を取って「月僊」の号を与えました。その後、月僊は京都の浄土宗総本山知恩院に修行することとなり、写生表現を重視した円山応挙の門に入り、与謝蕪村を尊敬し、中国の絵画をも学びました。

家康公の故郷・三河岡崎~家康公の父「忠弘公」密葬の地能見の「松應寺」を訪ねて
家康公の故郷・三河岡崎~家康公誕生の城・岡崎城~(愛知県岡崎市)
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家康公の故郷・三河岡崎~家康公の父「忠弘公」密葬の地能見の「松應寺」を訪ねて

2011年06月10日 13時02分52秒 | 地方の歴史散策・愛知県岡崎市
さすが岡崎には家康公ゆかりの名刹・古刹がいたるところに点在しています。大江戸散策を生きがいとする私にとっては岡崎は「宝の山」に思えてきます。

岡崎の街をレンタサイクルで巡ったその日、ふと立ち寄った古刹が「松應寺」です。当寺にまつわるエピソードは今から遡ること460年余り前、家康公が8歳の頃に起こった事件に関係します。

天文18年(1549)の3月、家康公の父上である忠弘公が織田方の間者によって暗殺されてしまいます。そしてこの年の11月に今川義元軍は安祥城の織田信秀の子である信弘を攻め、ついには捕虜として捕らえてしまいます。そしてこの時、すでに織田方に捕らえられていた竹千代(家康公)と信広を捕虜交換で、竹千代は岡崎へと戻ることができたのです。しかし、竹千代は岡崎に1ヶ月ほどの滞留の後、駿河の今川義元のもとへと送られることとなったのです。

再び人質として駿河に赴かなければならない竹千代(家康公)は岡崎城からさほど離れていない「能見の原」にある父忠弘公の密葬地を参拝し、墓の目印にと松の子株を植えたのです。竹千代の思いは、この松の子株が枝葉を伸ばし繁茂してくれれば松平家も再興できると……。

そして11年後の永禄3年(1560)の桶狭間の合戦の後、岡崎に戻った家康公は父が眠る能見の原の松の木に対面すると、念願通り松は元気に繁り、墓の場所を示していました。

長きに渡る人質生活から開放され、やっと岡崎のために働けるようになったことを喜んだ家康公はこの能見の地に寺を建立し、この時、「松が応えてくれた」ことを意味する「松應寺」と号されたとのことです。

松應寺へつづくアーケード

現在の松應寺はそれほど規模は大きくありません。寺の境内へとつづく参道の両側にはスナックが並び、家康公ゆかりの名刹としての趣が感じられないのが残念です。かつては幕府の厚い庇護の下、仏殿、御廟、方丈、鐘楼、山門、総門などが建ち並び、それはそれは立派な伽藍であったのですが、明治以降、新政府によりその規模が縮小されたとのことです。また、家康公お手植えの松は平成3年に枯れてしまい、今は見ることができません。

松應寺ご本堂
鐘楼
梵鐘

狭い境内の端に見事な鐘楼が置かれています。梵鐘は、寛永12年(1635)家康公の九男で尾張徳川家の始祖、徳川義直が鋳造・寄進したもので、銘は江戸時代の有名な儒学者・林道春(林羅山)です。
太平洋戦争中、寺院の梵鐘は、武器製造などのため供出が強制されましたが、この梵鐘は文化的な価値が高いとして、供出を免れました。しかし、昭和20年(1945)、米軍の空襲で、梵鐘も戦火に包まれましたが、幸い破砕はしませんでした。

家康公の故郷・三河岡崎~画僧「月僊」ゆかりの古刹・昌光律寺の佇まい~(愛知県岡崎市)
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家康公の故郷・三河岡崎~家康公誕生の城・岡崎城~(愛知県岡崎市)

2011年06月08日 17時36分13秒 | 地方の歴史散策・愛知県岡崎市
名鉄東岡崎駅から徒歩15分ほどの距離に位置する岡崎のシンボル「岡崎城」はそれこそお江戸の基礎をつくり上げた家康公の生まれ故郷です。

>岡崎城天守閣

乙川に架かる「殿橋」を渡り、右岸の堤をを歩くこと数分で岡崎城を囲む緑豊かな林が目に飛び込んできます。ゆったりと流れる乙川の姿は家康が生まれたはるか昔とおそらく変わっていない素朴さを醸し出しています。

乙川に架かる殿橋

現在、岡崎城の天守が聳える一帯は岡崎公園と呼ばれ、堀割、大手門をはじめ幼少の家康公を偲ぶ旧蹟や石碑などが点在している歴史的名所となっています。

岡崎城大手門
龍城濠

家康公の生涯はここ岡崎が出発点なのですが、史実によると家康公が生まれたのは天文11年(1542)の12月26日、八代当主松平広忠公を父、於大を母に松平家九代目となる長男として岡崎城内の坂谷の産屋で誕生しました。この年が寅年で、生まれた時刻も寅の刻(午前4時頃)であったため、幼名竹千代とあわせて「寅童子」とも呼ばれています。

竹千代3歳の時、母於大の実家である刈谷城主水野忠政の跡目を継いだ於大の兄信元が今川家を見切り、織田方に身を転じたことで、竹千代の父広忠は今川家から疑念をもたれることを恐れ、信元と絶縁し妻於大と離縁してしまいます。

そして竹千代4際の時、父広忠は今川方の有力大名である田原城主の戸田康光の娘、真喜姫と再婚し織田方勢力に対峙することになります。ここで竹千代に継母ができたのです。竹千代が幼少の頃、ここ岡崎城では日常の生活が営まれ、学問の場であり、遊びの場であったのです。

竹千代の身に劇的な変化が訪れたのは竹千代6歳の時。三河岡崎に織田方の勢力が及ぶや、父広忠は今川義元に援助を請うこととなります。その見返りに義元から竹千代を人質に求められ、いよいよ駿府の今川へ送られることとなるのですが、その道すがら、義理の祖父戸田康光の裏切りにより竹千代は尾張の織田へ送られてしまいます。

織田の下で2年の歳月を過ごした竹千代は8歳になっています。この年、天文18年(1549)の3月に竹千代の父広忠は織田方の間者によって暗殺されてしまいます。そして同年11月、今川方は織田方の安祥城を守る織田信秀の長子信弘を捕虜とします。そして織田方に捉えられている竹千代と人質交換をし、竹千代は再び岡崎に戻ってきます。しかし岡崎にはつかの間で、この年12月には駿府の今川義元のもとへと送られてしまいます。

駿府で元服を向かえた竹千代は14歳で「松平次郎三郎元信」と名乗ることになります。その後、17歳で元康と改名し、今川義元のもとで数々の武勲を立てることとなります。そして19歳となった元康(家康)にとって最大の危機とチャンスが訪れるのです。

永禄3年(1560)5月の「桶狭間の合戦」です。信長の奇襲を受け今川義元が討ち取られたのです。これを聞いた元康(家康)は夜陰に乗じ、織田方の落武者狩りに出逢いながらも、松平家の菩提寺である「大樹寺」へ逃げ込むことができました。そして今川軍が撤退した岡崎城へ同月23日に、元康(家康)はなんと13年ぶりに帰城を果たしたのです。

そんな歴史を刻む岡崎城に家康公が産湯をつかった水を汲み上げた井戸が残っています。木々に覆われた場所に静かに佇んでいます。

家康公の産湯の井戸

そしてひときわ高い場所に聳える天守閣は三層五重の優美な姿を見せています。天守閣からの帰途、龍城掘にかかる朱色の神橋が新緑の木々に一段を映えていました。

岡崎城天守閣
龍城濠に架かる神橋

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家康公の故郷・三河岡崎~徳川将軍家菩提寺「大樹寺」~(愛知県岡崎市)

2011年06月08日 14時15分10秒 | 地方の歴史散策・愛知県岡崎市
厳かな伊賀八幡宮の境内を後に、もう一つの徳川家ゆかりの名刹・古刹である「大樹寺」を目指すことにします。観光巡りのイラストマップを見ると伊賀八幡宮の西側に国道248号が走っています。道幅もこれまでの街道より広く幹線道路のようなので、この248号を北上することにしました。やはりこのルートもそれほどきつくはありませんが、なだらかな登りがつづきます。幹線道路のためか道筋にはたくさんのファミレスやコンビニ、大型店舗が並んでいます。

伊賀八幡宮からおよそ10分ほどで大樹町の標識が現れてきます。大樹寺は岡崎市内を見下ろす高台に位置しているため門前に至る坂道は私にとっては「心臓破りの坂」に思えました。

248号線から門前に至る坂道にそって美しい白壁がつづいています。この白壁はかつて大樹寺の塔中、子院であった善楊院と開花院のものだったとのことです。白壁の長さからかなりの寺領を誇っていたことが覗われます。

大樹寺前の白壁

さあ、いよいよ大樹寺に到着です。目の前に2層の立派な門が現れます。この門が大樹寺のシンボルでもある「三門」です。規模から言うと芝増上寺の三解脱門や中山法華経寺の三門に匹敵する大きさです。大樹寺の三門はくぐることができないので、駐車場口から境内へと進む事にします。

大樹寺三門

さて大樹寺ですが、創建は松平家四代の親忠公の時代で文明7年(1475)に戦死者供養のため建てられたものです。この寺を特に有名にしたのは、徳川家の菩提寺であるとともに、実は永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川方の人質であった家康公(松平元康)がこの大樹寺に逃げ帰り、先祖の墓前で自害しようとしたときに当時の住職であった登誉に諭されて思い留まったという逸話が残っているからです。
そしてさらに家康公はこのとき登誉上人から松平家が先祖代々守ってきた教えである「厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)を伝えられたのです。この時以降、この言葉が家康公の旗印になったのです。

この「厭離穢土 欣求浄土」はこの世に万民が平和を享受できる浄土をつくるために戦う決意を表したもので、自分に厳しく、弱者に優しくあれと江戸時代を通じて武士道精神の原点となった思想なのです。

境内に入るとまず目に飛び込んでくるのが、2層の立派な鐘楼です。この鐘楼は三代将軍家光公が造営したもので現在は県の重要文化財に指定されています。

鐘楼

ご本堂には家康公の遺言により徳川将軍家の歴代将軍の臨終時の身長と同じ等身大のご位牌が安置されています。ただし15代慶喜公の位牌は大樹寺には置かれていません。これは将軍職を引いた後も存命であったことと、臨終に際し自らを赦免し爵位まで与えた明治天皇に対する恩義から神式で葬られることを遺言したためです。併せて、慶喜公は寛永寺でも増上寺でもない、東京の谷中の墓地に眠っています。

そして大樹寺の墓地に隣接して建つのが国の重要文化財に指定されている「多宝塔」です。松平家七代当主清康公(1511-1535)が寄進したもので、緩やかなカーブを描く屋根が美しい2層の塔です。保存状態もよく、徳川将軍家の絶大なる庇護の下に大切に扱われてきた事を覗わせます。

多宝塔

この大樹にはもう一つ重要なエリアがあります。それは徳川家以前の岡崎松平家八代の当主の墓が置かれていることです。一般檀家の墓地を抜けて一番奥の築地塀に囲まれた一角に静かに佇んでいます。この墓は家康公が元和元年(1615)に先祖八代の墓を再建したものです。

大樹寺ご本堂
大樹寺開山堂

石造りの門に守られ、緑の木々に覆われ凛とした空気が流れています。

松平家墓地入口

門を入り一番右に置かれている宝篋印塔が初代の親氏公(生没年不明)です。そして、二代泰親公、三代信光公、四代親忠公、五代長親公、六代信忠公、七代清康公、八代広忠公とつづき、一番左に安国院殿(家康公)の宝塔が置かれています。尚、4代の親忠公から七代清康公の墓は五輪塔、八代広忠公は無縫塔です。

初代親氏公の宝篋印塔
二代泰親公
三代信光公、四代親忠公
家康公(安国院殿)の宝塔

東京では増上寺の徳川家霊廟に眠っている6人の将軍と正側室の墓に詣でることができました。ここ岡崎では徳川家の礎である松平家初代から8代の墓に詣でることができました。私にとって、江戸以前の松平徳川家の墓をここ岡崎で詣でることができたことは、お江戸の原点に触れた思いを感じざるを得ませんでした。

大樹寺三門

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2011年06月08日 11時57分51秒 | 地方の歴史散策・愛知県岡崎市
先月の名古屋に引き続いて、今月は愛知県の豊橋に10日間ほど滞在することとなりました。名古屋ほどの賑やかさはないのですが、地方都市特有ののどかな雰囲気と静かな佇まいを満喫することができました。

豊橋市内には際立った歴史的建造物はそれほど多くありません。ただ安藤広重の東海道五拾三次之内・吉田『豊川橋』に描かれた豊川の流れと吉田城の櫓が当時の姿を思い起こさせるように残っています。吉田城については次回のブログで紹介することとし、今日のお題は松平・徳川家の故郷である岡崎での歴史散策にご案内いたします。

豊橋吉田城櫓

豊橋から岡崎へは名鉄名古屋本線の特急で約20程度。岡崎にはJR東海道本線の岡崎駅と名鉄の東岡崎駅の2つ
の駅がありますが、市内中心へのアクセスは名鉄の東岡崎駅が便利です。
※名鉄の特急は一般車両であれば特急券は必要ありません。乗車賃のみで利用ができます。

名鉄豊橋駅を出発するとすぐに街並みをはずれ、田園が広がる景色が車窓に広がります。新緑の田園風景を愉しみながら20分の短い列車の旅です。進行方向の右手に乙川の流れと背後の山並みが見え始めるともう東岡崎に到着です。

駅構内の観光案内所で観光案内の小冊子を手に入れ、ついでにレンタサイクルを借りていざ岡崎の徳川家ゆかりの名所・旧蹟巡りに出発です。
※レンタサイクルは無料です。手続きは運転免許所を提示すれば保証金(1000円)を払う必要がありません。

観光案内所でこれだけははずせないという徳川家ゆかりの名刹・古刹を教えてもらいましたが、かなり広範囲に点在しているので、「歩く岡崎観光・文化百選めぐりの岡崎市中北部コース」を選択しました。このコースの中でも最もお薦めの場所の一つである伊賀八幡宮へと向かうことにしました。東岡崎駅から乙川に架かる「殿橋」を渡り、一直線に延びる街道をまっすぐに北上します。古くからの街道のようで、東岡崎のメインストリートらしく商店街が続きます。

岡崎市内の乙川と殿橋

※文化百選めぐりの岡崎市中北部コースの地図URL
http://okazaki-kanko.jp/recommend/img/tyuhokumap.pdf

東岡崎市は北へ向かう道筋は徐々に標高が高くなっていきます。なだらかな坂道なのですがギヤチェンジが効かない自転車の場合は結構、体にこたえます。

殿橋からおよそ15分ほどで伊賀町に到着です。街道沿いに比較的大きな朱色の大鳥居が構えています。葵の三つ葉葵の御紋が掲げられ伊賀八幡宮と刻まれた石柱が鳥居の脇に立っています。

大鳥居と石柱

この大鳥居からまっすぐ参道が延びています。大鳥居から50mの程いった参道にはもう一つの鳥居がたっています。この鳥居は木製のものでかなり古いものであるかのような風情を漂わせています。鳥居の脇には「徳川家累代祈願所」と刻まれた石柱がたっています。さすが家康公が生まれた岡崎を偲ばせる「権威」を感じざるを得ません。

大鳥居と木製の鳥居
木製の鳥居

この木製の鳥居からさらに250mほど進むと伊賀八幡宮の境内への入口につながる朱色の「神橋」が静かな空気の中に佇んでいます。朱色の欄干に緑の宝珠が整然と並び、将軍家の祈願所であることを誇示しています。

神橋
神橋

神橋を渡ると眼前には石造りの鳥居と、そして蓮池と石造りの「神橋」、美しい姿の朱色の随身門が整然と並んでいます。すなわち最初の大鳥居をくぐるとそれこそ一直線に参道が延び、神橋を渡ると随身門が参詣するものを迎えてくれるという、嫌が応にも厳かな気持ちを高められるような配置になっているのです。

石造りの鳥居と石造りの神橋
蓮池と神橋、随身門

蓮池をまたぐように置かれた石造りの神橋は重要文化財なので通行ができません。ぐるっと廻りこむようにして随身門(重要文化財)前に立つとその姿の美しさと威厳さはまさに徳川将軍家の「権威と力」を象徴しているかのようです。

蓮池と石造りの神橋
随身門
随身門に鎮座する家康公像

さてこの伊賀八幡宮は松平家の氏神として、武運長久と子孫繁栄を祈願する目的で1470年に松平4代の親忠公が三重県伊賀から勧請したものです。境内の建造物のほとんどが国の重要文化財になっています。1470年というとその3年前の1467年の応仁の乱を契機にして日本全土が戦国時代に突入した時代です。
三代将軍家光公はここ伊賀八幡宮に祖父・東照大権現(徳川家康公)を合祀することで、伊賀八幡宮は日光、久能山とともに東照宮の一つとなったのです。

随身門をくぐると凛とした空気が流れる境内へと進みます。正面に権現造りの幣殿が緑の木々に囲まれ威厳をもって佇んでいます。この幣殿の背後に拝殿、本殿が連なります。そして幣殿の左側には将軍家が参拝する際に神への捧げものを奉納した「御供所(重要文化財)」が置かれています。

幣殿俯瞰
幣殿前の「さざれ石」
幣殿を背景に記念撮影

ここを訪れた時、境内には私一人しかいない独り占めの状態でした。玉砂利を踏みしめる音だけが静かな境内に響いていました。お江戸260年間の徳川家の世界を頭に浮かべながら、徳川以前の松平家の歴史に触れ、家康公の「神業」とも思える偉大な事績に想いを馳せた瞬間でした。

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