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大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

三河西尾は大給松平家六万石の城下町~寺社と城址巡り(其の二)~

2011年11月28日 12時46分10秒 | 地方の歴史散策・愛知県西尾市
ここ三河の西尾藩は1600年の関ヶ原の戦い以後、数多くの大名が入れ替わり、立ち代わり藩主の座を変えてきました。関ヶ原直後に最初に西尾に入った大名は本多家で、その後松平(大給)家、本多家、大田家、井伊家、増山家、土井家、三浦家を経て、最終的に大給松平家と落ち着いたのが10代将軍家治公の時代の明和元年(1764)に松平乗祐(のりすけ)が初代西尾藩主になってからで、およそ100年五代に渡って大給松平家が西尾藩主として明治の廃藩置県まで支配していました。

西尾城二の丸表門・鍮石門

そんな大給松平家の西尾における菩提寺である「盛厳寺」へと向かうことにしました。盛厳寺は大給松平家の転封ごとに各地を移転したのですが、明和元年(1764)に松平乗祐(のりすけ)が初代西尾藩主になった折にここ西尾に移り、大給松平家の菩提寺として藩主の厚い庇護を得ていました。

盛厳寺山門
盛厳寺本堂

立派な山門をくぐると正面にご本堂が構えています。ご本堂の左手奥に西尾藩四代藩主の松平乗全(のりたけ)と奥方様の立派な墓があります。尚、江戸表における西尾藩大給松平家の菩提寺は虎ノ門にある天徳寺で累代墓が置かれています。

松平乗全と奥方の墓

松平乗全は1839-1862まで藩主を勤め、その間の1643年に幕府寺社奉行、1644-1645の2年間は大阪城代、1645-1855幕府老中、1658-1860ではあの安政の大獄で井伊派の幕閣として一ツ橋派の処分を行った幕府老中を担っています。それなりの人物だったことから、墓もそれなりに立派な造りになっています。

それではいよいよ大給松平家の居城である西尾城へ登城することにいたしましょう。かつて西尾城の天守が聳えていた場所は現在は西尾市歴史公園という名前に変わっています。六万石の大名の居城であることから、当時はかなりの規模を有する城下町であったことが覗われます。

大手門跡の石碑

かつて大手門が置かれていた場所には、その場所を現す石柱が歩道脇に立てられています。この大手門跡から内堀があったであろう場所まではかなりの距離があり、町屋の面積を加えると西尾藩はたいそう規模の大きな城下町を形成していたように思えます。

西尾城見取り図

登城はまずイラストマップ上の二の丸表門である鍮石門(ちゅうじゃくもん)から入ることにしました。この鍮石門は政務が行われていた二の丸御殿の表門として使われていたそうです。お城の表門としての威厳が感じられる立派な構えです。実はこの門はオリジナルではなく平成8年に再建されたものです。

鍮石門

鍮石門をくぐるとかつて二の丸御殿があった「椿聴苑」の広場が現れます。その広場の奥手にある建物が平成7年に京都から移築された「旧近衛邸」です。どうして近衛家の建物がここ西尾にあるのかは定かではありませんが、江戸時代後期に造られたもので、書院と茶室が備わっています。

椿聴苑
旧近衛邸

この場所に近衛邸が移築された理由として、想像するにここ西尾が抹茶の故郷ということで紆余曲折を経て、茶室を備えている近衛邸が選ばれたのではないでしょうか。ここ近衛邸では月曜と祝日の翌日を除いて「抹茶」を楽しめるとのことです。ちなみに「抹茶一服300円(和菓子付)」。

大名時計

近衛邸を後にかつて天守が聳えていた本丸へと進んでいきましょう。本丸につづく道を進むと右手に水を湛えた濠が現れます。そしてかつては渡櫓があったであろう門跡を抜けると数段の階段とその左手に丑寅櫓の石垣が現れます。

内堀
本丸跡へとつづく石段
西尾神社鳥居
本丸井戸址

本丸跡地には西尾神社のお社ともう一つ「御剣八幡宮」のお社が置かれています。特にこの御剣八幡宮は西尾城内の鎮護のために本丸内に置かれたもので、代々の城主の崇敬が深く、源家相伝の名剣「髭切丸」と「白旗一流」を奉納したことから御剣八幡宮と名付けられたそうです。

御剣八幡宮

御剣八幡宮を回り込むように右手に進むと、現在の西尾城址のシンボルともなっている3層の本丸丑寅櫓が見えてきます。ここ西尾城も明治に入り、廃藩置県で天守や隅櫓などほとんどが櫓台とともに壊されてしまいました。しかし丑寅櫓だけは前述の御剣八幡宮の境内だったためか櫓台は壊されずに残されました。そして平成8年に三層の櫓が木造で再建されました。この櫓も入場可能なのですが、たまたま訪れたのが月曜日に重なり、残念ながら登楼することができませんでした。

西尾城址石碑

現在はそれほどの広さではない二の丸、本丸跡ですが、地方の城下町の風情を感じさせてくれる美しい姿の本丸櫓が色付きが遅れている木々の梢越しに絵葉書のような姿を見せています。

本丸丑寅櫓
本丸丑寅櫓

西尾市内にもまだまだ見るべき名刹・古刹がたくさんあります。今回は時間の都合で他の見所を割愛しましたが、次回は西尾市に隣接する旧吉良町と併せゆっくりと見学したいと思います。

三河西尾は大給松平家六万石の城下町~寺社と城址巡り(其の一)~




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三河西尾は大給松平家六万石の城下町~寺社と城址巡り(其の一)~

2011年11月27日 12時28分50秒 | 地方の歴史散策・愛知県西尾市
愛知県の東部に位置する豊橋から名古屋へ拠点を移したことで、俄然行動範囲が広くなり、併せて県内のいたる場所へのアクセスが便利になりました。

そんなことで東京に戻る前に以前から興味を抱いていた三河の城下町「西尾」の歴史散策を楽しんできました。名古屋から名鉄線で新安城経由西尾へ向かいました。所要時間は約45分ほどで静かな雰囲気を漂わす西尾駅に到着します。

西尾城本丸丑寅櫓

駅舎は近代的なビルになっていますが、駅前は予想にたがわず閑散としており、商店街らしき建物がありません。駅舎の一階に観光案内所が置かれているので、散策前に立ち寄りガイドブックや地図を入手することをお勧めします。案内所の方が言うには、見所を一巡するには2時間もあれば十分とのこと。いただいた地図に記された散策ルートに従って歴史散策を始めることにしました。

名鉄西尾線西尾駅

※西尾市の観光案内所ではレンタサイクルを準備していますが、台数が少ないため事前に予約をしたほうがいいでしょう。

まずは西尾の歴史的背景を説明しておきましょう。標題にあるように「大給松平家」が江戸時代にここ西尾を治めていた藩主ですが、この「大給(おぎゅう)」とは何のことなのでしょうか?大給松平家(おぎゅうまつだいらけ)は、松平親忠の次男松平乗元を祖とする松平氏の庶流です。三河国加茂郡大給(愛知県豊田市)を領したことから大給松平家と称しました。松平宗家(徳川氏)に仕え、江戸時代には譜代大名四家のほか、数多くの旗本を出した名家なのです。

六万石の西尾藩となったのは、明和元年(1764)に山形藩から大給松平宗家六代の乗祐が入城してのことです。大給松平氏は代々老中などの幕府の要職を務め、以来、廃藩となるまで五代続きますが、明治維新を迎えると城は天守閣を始め、ほとんどが取り壊されました。

第三代藩主・松平乗寛は松平定信の寛政の改革に参与し、幕政改革に従って藩政改革も行ない、幕府機構の取り入れを行なっています。第四代藩主・松平乗全は井伊直弼の安政の大獄で井伊派として一橋派の処分に務めています。
そして第五代藩主・松平乗秩時代の慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、佐幕派と尊王派による大論争が行なわれて藩が分裂の危機に陥いりましたが、下級武士層による尊王派が大局を占め、尾張藩に従って新政府に与し存続に苦慮しています。明治2年(1869年)の版籍奉還で乗秩は西尾藩知事に任じられましたが、明治4年(1871年)の廃藩置県で藩知事を免官され、西尾藩も廃藩となってしまいました。

こんな歴史を歩んだ西尾市は現在、人口19万人を擁する三河の小京都・抹茶の故郷と呼ばれていますが、個人的な印象としては街全体は活気がなく、商店の数も少なく、僅かにある商店もシャッターが閉じているといった寂しさが漂う街並みが続いています。

それではまずは城下町・西尾の代表的な寺社巡りへご案内いたしましょう。西尾駅前から細い路上を縫いながら歩いて最初に辿り着いたのが、本町北の交差点に位置する「康全寺」です。

康全寺山門と常夜灯

広い通りに面して山門を構えています。その山門の左手脇に「西尾町道路元標」なる立て看板と小さな石柱が置かれています。大正9年に各市町村の起点を示すものとして置かれたものなのですが、西尾町の県道や町道の原点を示す標識で、この場所が西尾の中心だったのです。

山門の左脇に立つ立派な常夜灯はここ本町交差点の真ん中に立っていたものを、道路整備のため康全寺門前に移したそうです。

実は康全寺の「康」は神君家康公の「康」の字をいただき、西尾の守り神となる仏を祀る「大日堂」があります。大日堂の天井には巨大な龍が描かれていますが、この龍にまつわる話が残っています。

康全寺大日堂

ある日のこと、本町が火事になった。このままでは西尾の町はすべて燃え尽きてしまう。そんな時、現れたのが大日堂の巨大な龍だったのです。龍は昔から「水」を司る使いとして崇められてきました。そんな康全寺の大日堂の龍は「水吐き龍」として西尾の町を大火から救ったというお話です。その大日堂の天井を見ると龍の姿らしき絵が残っています。

大日堂天井の水吐き龍

山門を入ると境内の奥に2本の大木を従えたご本堂がどっしりと構えています。康全寺の創設は応永5年(1398)に遡ります。その頃の寺名は吉良山満全寺と号していましたが、天正9年(1581)に神君家康公が当寺に止宿した折、家康公から一字をいただき「康全寺」と改め、天正13年の西尾城改築の際、城内の御剣八幡宮から現在地へ移し、鎮城の禅寺としたと伝えられています。

康全寺ご本堂

康全寺を後に、西尾の町の中でも最も「絵」になる路地へと向かうことにします。康全寺から徒歩数分のところに突然現れる趣きある路地なのですが、いわゆる幾つかの寺院が狭い路地を挟んで並び、寺院の甍、白壁と木製の塀が織り成す光景がまるで鉛筆画を見ているような錯覚に陥ります。

唯法寺と順海町通り
唯法寺
唯法寺

この路地の左側に連なる建物が江戸時代の寛永年間に順海上人によって開基された唯法寺(ゆいほうじ)なのです。そしてこの路地を開いた順海上人に因んで「順海町通り」と呼ばれています。電信柱がない静かな裏路地を歩くと、その昔に迷い込んだような気がします。西尾市には町屋が残る通り、蔵が残る通りなどレトロ感溢れる通りが点在していますが、個人的にはここ順海町通りが最も趣を感じる場所ではないかと思います。

三河西尾は大給松平家六万石の城下町~寺社と城址巡り(其の二)~



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