大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

我が家の家宝紹介(其の弐)~日独伊防共協定記念絵葉書~

2012年05月25日 17時36分41秒 | 我が家の家宝
大江戸の風情を紹介する当ブログの内容とは若干異なりますが、先日来我が家に伝わる古文書類を整理しているうちに、それほど古いものではないのですが、戦前から敗戦へと至る日本の行く末を決定したといっても過言ではない「日独伊防共協定」締結を記念する絵葉書セット(未使用)がでてきました。

「日独伊防共協定」は1936年に締結されていた日独防共協定に翌年1937年にイタリアが加入したことによって三国に拡大し締結されたものです。その協定の主旨は「反ソ」「反共」を目的としたものです。

しかしこの日独伊防共協定では三国の協力関係が曖昧だったため、より軍事同盟色を強めるため1940年に「日独伊三国同盟」へと進化していきます。遠く過ぎ去った時代とはいえ、わずか75年前の出来事なのですが、台頭するアジアの盟主である日本をはじめ、欧州の覇権を目指す独、英そしてその間隙を縫うように立ち回るソ連、更には世界の潮流を読みながらその覇権競争に参加の機会を伺う米国がそれぞれの地域で覇権を握るべく動き回っていた時代なのです。

ここでは日独伊防共協定の是非については言及するつもりはありません。

さて記念葉書はカバー付の3枚組が2セットあります。一つは防共協定記念会発行のもので、もう一つは外務省情報部後援、報国漫画倶楽部が制作したものです。
まず防共協定記念会発行のセットを見ていきましょう。やはり印象的なのはそれぞれの国の指導者の写真が掲載されているものです。3人の肖像が印刷されており、右からヒトラー、近衛文麿首相そしてムソリーニです。その他の2枚はドイツのハーケンクロイツ(鍵十字)をあしらった旗、日章旗、イタリア国旗を描いています。そしてそれぞれに乃木将軍の肖像が印刷された2銭切手が貼られ、小石川郵便局の記念スタンプが押されています。

葉書セットカバー
ムソリーニ・近衛文麿首相・ヒトラー
三国国旗と世界地図
三国国旗と日本地図

さらにこの絵葉書セットにはイタリア国歌、ナチスの歌、ドイツ国歌そして黒シャツの歌(Giovinezza)の楽譜が付いています。黒シャツの歌はおそらくイタリアの歌ではないかと思われますが、どのような内容なのかは定かではありません。

ナチスの歌楽譜

報国漫画倶楽部の3枚は75年の時の移ろいを感じさせないくらいに鮮やかな色が残り、当時の漫画家が描いたと思われるデザインが特徴的です。特に日独伊三国を3つの拳にたとえて共産主義の赤鬼を叩きつぶしている様はなかなかのデザインです。

もう一つの葉書セットカバー
葉書
葉書
葉書

平和な時代に生きる我々にとって、こんな時代もあったのかと思うと同時に、暗い時代から敗戦を経験して今また世界に冠たる日本を築き上げた先人に心から感謝しています。





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

我が家の家宝紹介(其の一)~曹洞宗大本山永平寺第六十四世・森田悟由禅師直筆之書~

2012年05月24日 17時32分10秒 | 我が家の家宝
父親が他界した30年ほど前に実家から古めかしい箱が一つ送られてきたのですが、その当時は開封することもなくそのままワードローブの奥にしまいこみ、いつしか忘れ去られていました。そして家族の誰もがそんな箱に気付かず30年が過ぎてしまいました。

先日、暇にあかしてワードローブの整理をしていると、何やら忘却の彼方に置き去られていた箱がワードローブの奥に置かれているではありませんか。まずは箱を引っ張り出し、広い場所へ移動した上で、まるで浦島太郎の心境でおもむろに箱の蓋を開けてみることにしました。

まず目にしたのが、巻物が数巻と歴史を感じさせるような古めかしい錦織に包まれた箱が並んでいました。はやる気持ちを抑えながら、巻物を順番に広げていくことにしました。

悟由禅師之書

そして最初に広げた巻物(掛け軸)が今日のお題の「書」だったのです。巻物を紐解いて開いていくにつれ、目の前に現れる見事な書体の文字を眺めつつ、まず頭に浮かぶのは誰が書いたものなのか、そしてどれほど古い時代のものなのか、と自問自答する始末です。

悲しいかな書かれた文字はまったく判読することができません。が、筆者であろう「永平悟由」の文字と落款を見つけました。) 落款は道号の大休悟由(だいきゅうごゆう)となっています。

悟由禅師之落款
永平悟由と落款
もう一つの落款

早速、WEBで「永平悟由(えいへいごゆう)」を検索するとヒットしたではありませんか。
そして下記のようなプロフィールが記述されていました。

《永平寺六十四世 森田悟由禅師》

(世称)森田悟由(もりたごゆう)
(道号・法諱)大休悟由(だいきゅうごゆう)
(禅師号)性海慈船禅師(しょうかいじせんぜんじ)
(生誕)天保5年(1834)1月1日
(示寂)大正4年(1915)2月9日
(世壽)82歳
(別号)「六湛」「空華」
(特記) 大本山永平寺重興

※森田悟由禅師の詳しい記述は下記のwebを参照してください。
http://eiheizen.jimdo.com/

ちなみに我が家の宗派はもちろん曹洞宗ですが、この書が我が家に伝わったいきさつは皆目わかりません。少なくとも100年は経過していると思われるのですが、家系図を調べてみると私の祖祖父が秋田・能代の曹洞宗寺院である玉鳳院で「十三世瑞雲補天大和尚(禅師)」名で住職を務めたことで悟由禅師または大本山永平寺さんとなんからの接触があったのでは…と推測します。

マンション住まいの我が家には畳敷きの日本間もなければ、ましてや床の間もないのです。すべての部屋がフローリングのため、掛け軸を掛ける場所すらありません。やっと日の目を見た悟由禅師直筆之書も再び箱に戻し、次にお会いできるのはいつになるのやら、と一人思うのです。

このほか興味をそそる巻物がいくつかありますので、順に紹介してまいります。





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

開業2日目のスカイツリータウン~何処も彼処も人、人、人~

2012年05月23日 15時58分13秒 | 墨田区・歴史散策
昨日の雨模様の開業日とはうって変って、真夏の陽射しと暑さのもとスカイツリータウンは人、人、人の大混雑の様相を呈しています。



野次馬根性丸出しでどれほどの賑わいなのかを確かめたくて一っ走り行ってきました。まずは十間川沿いのプロムナードのそぞろ歩きを楽しみました。以前の薄汚れた川が、小魚が泳いでいるのを目視できるくらいに澄んだ流れになっているのには驚きました。おそらく浄化装置を設置したのではないかと思われます。

十間川
十間川

人影もまばらな河岸のプロムナードからスロープを利用して「そらまち」入口へと進んで行くと、平日とは思えないほどの人の波。

せっかく来たので「そらまち」の東側1階へと進むと、一見すると浅草の仲見世風の街並みが一直線につづきます。それほど広くない通路の両脇に並ぶ店の雰囲気は下町のイメージをことさら強調するような造りになっています。ゆっくりと眺めたいといった気持の余裕も吹き飛ぶくらいの人混みなので早々に1階から上層階へと移動することにしました。

「そらまち」前の広場
「そらまち」入口
「そらまち」入口
そらまち商店街

各階ともにたくさんの店が軒を連ね、今はやりのショッピングモールといった感じです。お店巡りはあまり興味がないので、東側の5階テラスへと向かいました。テラスから眺めるスカイツリーはそれこそ「塔の真下」にいることを感じさせてくれるアングルを楽しむことができます。

5階テラスからみるスカイツリー

5階テラスからは十間川の流れとその河岸の景色を眺めることができます。

5階テラスから見る十間川
5階テラスからみるスカイツリー

開業2日目のスカイツリータウンの賑わいは予想できるものの、周辺の町の飲食店はそれほどこのお祭り騒ぎの恩恵を受けていないような気がします。それもそのはずで観光客は最寄りの駅から一目散に「そらまち」を目指し、「そらまち」に吸い込まれていきます。そして「そらまち」の中のお洒落な飲食店でスカイツリータウンの雰囲気を満喫した後、そのまま帰路についてしまうのでしょう。

頑張れ! 押上商店街、錦糸町。



日本史 ブログランキングへ



八重桜舞う服部半蔵の墓と岡崎次郎三朗信康の供養塔~四谷・西念寺~

2012年05月08日 11時11分36秒 | 新宿区・歴史散策
四谷界隈の入り組んだ裏路地を散策している途中、ふと出くわした寺が西念寺です。なにげなく山門脇の案内板を読みすすむと、なんとあの「槍の達人」として有名な服部半蔵が眠る寺であることが判りました。

西念寺本堂

山門からは境内に静かに佇むご本堂が目に入ります。まずは半蔵の墓を目指して境内へと進んでいきます。ご本堂の前を過ぎてほんの少し進んだ左側にその墓が置かれています。盛りを過ぎた八重桜の花びらが半蔵の墓の周囲を埋め尽くしています。

服部半蔵の墓
服部半蔵の墓

宝篋印塔(ほうきょういんとう)型の墓はどっしりとした趣を醸し出し、さすが神君家康公に使えた武将らしい佇まいを見せています。またここ半蔵の墓だけが竹の柵で囲われ、なにやら特別な扱いを施されているような雰囲気を漂わせています。

半蔵は神君家康公の家臣であったことは言うまでもありませんが、「徳川十六将」の一人で「大半蔵」と呼ばれていました。本能寺の変の時、たまたま堺に滞在していた家康公を護衛しながら伊賀を越えて無事国許に帰還させるという武勲を挙げています。そして家康公が江戸入府後は江戸城の警備を担当し、現在ある皇居の半蔵門近くに屋敷を構えていたことから、「半蔵門」という地名の由来ともなっています。

墓の台座には「安誉西念大禅定門」と刻まれ、左側には「三州住人服部石品五十五才」の文字が読み取れます。半蔵の法名の中に「西念」とあることから、この法名が寺名になったのでしょう。

半蔵の墓を後にしてご本堂の右脇の細い道の向こうになにやら案内板らしきものが立てられているのに気が付き、進んでいくとなんと家康公と築山御前の間の嫡子として生まれ、その後、信長公の娘である「徳姫」と結婚した「岡崎次郎三朗信康」の供養塔が立っているではありませんか。

岡崎次郎三朗信康の供養塔

この岡崎次郎三朗信康については悲運の人物として語られていることで知られています。信長の娘「徳姫」と結婚した信康だったのですが結婚後、徳姫は父信長に夫である信康との不和、乱暴な手打ち、甲州武田との接触など12ヶ条にわたる所業をしたため送ったのです。このことで信長は激怒し、反逆の意ありとして信康の自刃と併せ、信康の母であり家康の妻である築山殿の殺害をなんと家康公に命じたのです。

岡崎次郎三朗信康の供養塔

天正7年(1579) 9月15日、家康は信康を二俣城へ送り、城主大久保忠世、使者天方通綱(あまかたみちつな)、服部半蔵に命じて、信康に腹を切らせた。このとき半蔵は信康の介錯をすることができなかったといいます。

このとき検使をつとめたのが半蔵なのですが、信康の自刃が半蔵の心の中で深い傷となっており、半蔵の隠居と同時に信康供養のため西念寺を創建したと伝えられています。このことは父・家康公にとっても悔いの残る出来事だったと推察します。戦国時代とはいえ自らの家を守り、生き延びるために自分の長男までをも切腹させなければならなかった事情を察するに、忠実な家臣であった半蔵の気持ちとすれば信康供養のために当寺を創建したのではと考える次第です。尚、信康の墓は天竜市の清竜寺にあります。

供養塔の三つ葉葵

供養塔前の石造の門扉には徳川家の御紋である三つ葉葵がきちんと刻まれています。





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

甲州道中・内藤新宿のお地蔵様~太宗寺の江戸六地蔵~

2012年05月07日 17時34分49秒 | 新宿区・歴史散策
開幕まもない慶長6年(1601)に家康公は江戸を基点する街道の整備に着手しました。その当時、日本橋を起点とする甲州街道の最初の宿場は日本橋から約4里の距離にある「高井戸」に設けられていました。

江戸四宿の品川、千住、板橋の各宿は日本橋から約2里の距離にあったのですが、甲州道中の高井戸宿だけが4里と遠く離れていました。そのためさまざま不便さを強いられていたのですが、江戸の中心から4里も離れている高井戸宿はその後90約100年にわたり、江戸からの第一宿として栄えていました。

その不便を解消するべく元禄の10年(1697)に浅草の商人たちが日本橋と高井戸間に新しい宿場の開設を幕府に請願することとなったのです。そして翌年の元禄11年(1698)に宿場の開設を許可し、日本橋から2里弱の距離で、青梅街道との分岐点付近に新たな宿場が設けられることになりました。正式には元禄12年(1699)に内藤新宿が開設されました。

江戸六地蔵三番

そんな内藤新宿にお堂を構えるのが浄土宗の寺である「太宗寺」です。当寺は内藤新宿の真ん中に位置する中町にお堂を構える寺で、創建は古く慶長年間(1596~1614)の頃といわれています。歴史を遡ると寛永6年(1629)に内藤家四代の正勝が没して、はじめて太宗寺に葬られ、五代重頼が開基となっています。墓域の一画に内藤家の大きな墓所があります。山門を入ると最初に目に付くのが右手にある大きな地蔵尊です。

江戸六地蔵三番

これが金銅大地蔵尊と呼ばれる地蔵で、俗に言う「江戸六地蔵」の三番目にあたります。江戸の六地蔵とは江戸の出入り口にあたる街道筋に置かれた地蔵で、旅人の安全を祈願するために造立されたものです。ここ太宗寺の地蔵は甲州道中を旅する人たちの安全を長く見守ってきたもので、江戸時代の正徳2年(1712)に造られました。

閻魔堂

大きなお地蔵様の左手に江戸の三閻魔の一つである太宗寺の閻魔堂があります。都内最大の閻魔像は高さが5.5mもあります。お堂の中は薄暗いのですが、一眼レフのデジカメの絞りを全開しフラッシュなしでお堂の中を撮ってみました。すると色鮮やかな閻魔様が現れました。

閻魔様

閻魔堂と対峙するように建つのが不動堂です。この不動堂と稲荷神社の間にところどころ白くなっている像が安置されている祠があります。これが太宗寺の「塩かけ地蔵」です。足立区の西新井大師の境内にも似たような地蔵さんがありましたが、ここ太宗寺にも同様の地蔵さんが鎮座しています。

不動堂
塩かけ地蔵

この塩かけ地蔵は「おでき」にご利益があると言われ、地蔵さんにかけられた塩を持ち帰り、患部に塩を擦り込むとおできが治るそうです。まあ、塩には消毒作用があるのでおできにも効果があるのかもしれませんが、傷口に塩を擦り込むこと自体かなり痛そうですが…。

喧騒渦巻く新宿にあって、ここ太宗寺の境内だけは古刹の佇まいと静かな空気が流れていました。

浄土宗霞関山本覚院太宗寺
新宿区新宿2-9-2
03-3356-7731

東都花見絵図~深川霊巌寺・芭蕉記念公園・安田庭園・亀戸萩寺・亀戸天神~
見つけた!上野桜木・浄名院に鎮座する六番目の江戸六地蔵
お江戸五番の地藏と松平定信公の霊域~霊巌寺
日ぐらしの里の名刹(日暮里)~雪見の寺・浄光寺に残る元禄の地藏様(江戸六地蔵)~
東海道中一番目の宿場町「品川宿」の名刹・古刹巡り~大きな地蔵が門前に鎮座する品川寺~(その五)





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

四谷怪談の旧地・田宮稲荷神社とお岩稲荷神社

2012年05月07日 12時14分40秒 | 新宿区・歴史散策
たまたま地下鉄丸の内線の四谷三丁目で降りる機会を得て、以前からお参りしてみたいと思っていたお岩稲荷神社が近いことを知りぶらっと行ってみることにしました。

新宿通りと外苑東通りが交差する四谷三丁目交差点から四谷警察署の前を通り過ぎて、最初の角を左へ曲がり、突き当りを右へ進むと赤い幟が見えてきます。

田宮稲荷神社跡

狭い路地を挟んで進行方向の右側にまず現れるのが「田宮稲荷神社跡」なのですが、この場所自体があのお岩さんの婿である伊右門が住んでいた田宮邸なのです。そしてこの田宮の屋敷社に田宮於岩にあやかって「於岩」を合祀し、於岩稲荷と称されるようになったようです。鳥居の傍らに建つ柱には「於岩稲荷田宮神社」の文字を見ることができます。

田宮稲荷神社の鳥居

この神社の「於岩」とはあのお岩さんのことなのですが、実はこの女性は江戸時代の初期に、ここ四谷左門町で健気な一生を送った女性で、この女性の美徳を祀っているのがこの神社なのです。

怨霊となったお岩さんの噺があまりにも有名になってしまっているのですが、前述のようにお岩さんの美徳を祀っているこの神社には本来、福を招きいれ、商売繁盛のご利益があり、はたまた芸能の成功、興行の成功にはことさら霊験あらたかと言います。

田宮稲荷神社の社殿

鳥居の奥に社殿が鎮座しています。鳥居から眺める境内の雰囲気は怪談噺の舞台であるが故の先入観なのか、どうも陰気臭い空気が漂っているような気がします。玉垣にはこれまで四谷怪談を演じた多くの役者の方々が興行の成功を祈願したのか、役者の名を刻んだ玉垣が並んでいます。

ともあれ、お岩さんの美徳と商売繁盛を社殿前で祈願し辞することとしました。

しかし、この「於岩稲荷田宮神社」のはす向かいになんともう一つの「於岩稲荷」が現れます。山門には「於岩霊堂」 の扁額が掲げられ、寺名が「陽運寺」とあります。山門の両脇には「於岩稲荷」の提灯が吊るされていることから、まぎれもなく「お岩さん」を祀っていることがわかります。ただし、大きく異なるのが神社ではなく「寺」であることです。

陽運寺山門
陽運寺山門脇の提灯

さてはて至近に「於岩稲荷田宮神社」があるにもかかわらず、言ってみればそれこそ目と鼻の先にお岩さんを祀る寺があるのか不思議でなりません。調べてみると、こんな歴史がわかってきました。

>陽運寺本堂

お岩さんが亡くなったのは江戸時代の初期の寛永13年(1636)のこと。古い話なのですが、それからおよそ200年後の文政8年(1825)にあの四世鶴屋南北の歌舞伎「東海道四谷怪談」が大当たりしたことから、ここ左門町にあったもともとのお岩稲荷にたくさんの江戸庶民が参詣に訪れました。江戸から明治へと時代が下り、明治5年にお岩稲荷をお岩さんの嫁ぎ先である田宮家の名をとり、田宮神社と改めました。ところが明治12年にこの田宮神社が火災で焼失したことで、中央区新川へ田宮神社を移転しています。田宮神社が移転してしまったことで、すぐそばにお堂を構えていた陽運寺が田宮神社と名乗り現在に至っています。

よって明治に新川に移ったのが「新田宮神社」でここ左門町に置かれている「於岩稲荷田宮神社」は旧地と呼ばれる所以だったのです。

お岩さん由縁(ゆかり)の井戸
陽運寺の於岩稲荷

しかし、「鬼のいぬまに」を地で行く陽運寺さんの境内には「お岩様由縁(ゆかり)の井戸」 や 「於岩稲荷水かけ福寿菩薩像に南無妙法蓮華経のお題目を唱えながら水を掛けると、あなたの厄が除かれる」 などと書いた立て札が置かれています。





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ