大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

梅雨の彩り「紫陽花」が咲きほこる白山神社

2011年06月23日 11時02分33秒 | 文京区・歴史散策
梅雨といえば紫陽花の季節です。都内の庭園や寺社の境内には少なからず紫陽花がその彩りを添えているのが今の季節です。

夏至を迎え、梅雨の晴れ間の暑い陽射しの中、涼を求めて都内では有数の紫陽花の名所として知られている文京区白山に鎮座する白山神社へ散策を愉しみました。

白山神社本殿

ここ白山神社では恒例の文京あじさい祭りが行われるのですが、すでに祭りの期間は終わり、訪れる人もかなり少なく境内は閑散としていました。祭りの期間は終わっているのですが、境内の処々には満足できるだけの紫陽花の花弁が私たちを癒してくれます。

境内には3000株の紫陽花が植えられているといいます。初めて訪れてみたのですが境内には期待するほどの紫陽花の乱舞はありませんでした。物足りなさを感じながら社殿の裏側(白山公園)に回ると、社殿裏の植え込みに紫陽花の花が乱舞していました。







社殿の裏手には浅間神社の富士塚があり、塚全体にも紫陽花が植えられています。ただ塚に登れるのは「あじさい祭り」の期間中だけで、すでに門は閉まっていました。





神社の本殿を背景にして咲く紫陽花の花が鎮守の杜にそよと吹く風にゆらりと揺れている風情は、まもなくやってくる本格的な夏の到来を告げているような趣を感じました。





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私本東海道五十三次道中記~品川宿」の名刹・古刹巡り~大きな地蔵が門前に鎮座する品川寺~(その五)

2011年06月21日 08時42分50秒 | 私本東海道五十三次道中記
旧東海道はまもなく京浜急行の「青物横丁駅」へ通ずるプラタナスの並木(ジュネーブ平和通り)へとさしかかります。なぜジュネーブ平和通りかと言うのは、品川寺とスイス・ジュネーブ市がある理由で深い関係があることからなのですが、この理由は後ほど述べる事として品川寺へと歩を進めていきましょう。

お地藏様と山門

この品川寺ですが読み方として品川にあるので、つい「しながわでら」と読んでしまいがちなのですが、実は「ほんせんじ」と読むのが正解なのです。

旧東海道の道筋に面して品川寺の入口が構えています。この品川寺には大きな青銅の地蔵菩薩座像が鎮座しているのですが、実はこの地蔵は「江戸六地蔵」に一つに数えられています。江戸に出入りする六つの街道の入口にれぞれ一体ずつ安置され、品川寺にはその第一番東海道の尊像として、「天下安全、仏法繁栄(ぶっぽうはんえい)、衆人快楽(しゅうじんけらく)」の祈願のもと奉安されています。このお地蔵さまが当寺に寄進されたのは開幕からおよそ100年余り経った宝永5年(1708)のこと。その後、現在まで300余年に渡って街道を行き来する人たちの旅の安全を見守ってくれていたんですね。

お地蔵さま

実は私自身、江戸六地蔵と呼ばれ、現存している5体の地蔵さまの内、4体のお地蔵様にすでにお参りしていました。そして5体目にあたる品川寺のお地蔵様にやっと巡り合うことができました。
お地蔵様は旧街道からほんの少し奥まった場所に鎮座していました。江戸名所図絵を見ると、ほぼ現在の位置と変わらない場所に鎮座しており、お江戸の時代からその位置が変わっていないことがわかります。

柔和なお顔立ちのお地蔵様としばし対面した後、街道から奥まったところに構える山門へとすすんで行きます。境内は新緑の葉に覆われた木々がうっそうと繁り、梅雨の晴れ間の陽射しも遮られ、ひやっとした感覚が肌に伝わってきます。

山門

境内はそれほど広く感じないのですが、訪れる人もなく静かな空気が境内を包んでいます。その境内に梵鐘を吊り下げた鐘楼が立っています。この梵鐘こそが冒頭に記した「スイス・ジュネーブ」と深い関係があるのです。

鐘楼

実はこの鐘は幕末の慶応3年(1867)にパリ万国博覧会に出品されたのですが、日本に返される途中になんと行方不明となってしまうのです。その後、大正8年にこの鐘がスイスのジュネーブにあるアリアナ美術館に保管されていることがわかり、昭和5年(1930)にここ品川寺にめでたく返還されたという嘘のような本当の話が伝わっています。このような話からこの鐘は「洋行帰りの鐘」と呼ばれています。
これをきっかけに品川区とジュネーブ市は平成3年に友好都市提携を結びました。だからジュネーブ平和通り、と名付けたり、この通りには「しながわ・ジュネーブ友好の花時計」が置かれています。

またこの梵鐘はあの振袖火事が起こった明暦3年(1657)に徳川三代の将軍、家康公・秀忠公・家光公の供養のために鋳造されたもので、徳川三代の将軍のそれぞれの号、東照宮、台徳院殿、大猷院殿と6体の観音像が浮き彫りにされ、さらに観音経一巻が陰刻されており、江戸の時代には「世にもまれなる梵鐘」と呼ばれていました。

残念ながら梵鐘の側にまで行く事ができないため、遠目から眺めるしかありません。境内にはもう一つ目をみはるような大きな銀杏の木が聳え立っています。なんと樹齢400年を数えるというほどの大銀杏です。

ご本堂
大銀杏
山門

当寺、品川寺は幕末の頃は荒れるがままに荒廃していたといいます。品川寺の復興は大正初期まで待たなければなりませんでした。現在ある堂宇はすべて大正以降に建立されたものです。ただ門前のお地蔵さまと大銀杏だけが物言わぬ証人として、品川寺の歴史を語ってくれているような気がします。

私本東海道五十三次道中記~品川宿」の名刹・古刹巡り(その一)
私本東海道五十三次道中記~品川宿」の名刹・古刹巡り~荏原神社~(その二)
私本東海道五十三次道中記~品川宿」の名刹・古刹巡り~東海禅寺と沢庵和尚の墓~(その三)
私本東海道五十三次道中記~品川宿」の名刹・古刹巡り~北の天王さん・品川神社と板垣退助の墓~(その四)





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私本東海道五十三次道中記~品川宿」の名刹・古刹巡り~北の天王さん・品川神社と板垣退助の墓~(その四)

2011年06月17日 13時00分53秒 | 私本東海道五十三次道中記
当ブログの品川宿の名刹・古刹巡りの(その二)でご紹介した荏原神社と対をなす品川神社は南に位置する荏原神社を「南の天王さん」に呼応して北の天王さんと呼ばれ親しまれています。

その縁起は古く、12世紀後半の文治3年(1187)に安房国(千葉県館山)洲崎明神の天比理乃�起命を勧請して祀ったのがはじまりといわれています。
また家康公とは関わりが深く、関ケ原の戦いに出陣する祭に家康公は当社に詣で神前で太々神楽(だいだいかぐら)を奏でたそうです。そのご利益があってか関ケ原の戦いで勝利した後、家康公は御輿と仮面を当社に奉納されています。

第一京浜に沿って走る京浜急行の「新馬場駅」から至近に位置する品川神社はかつては風向明媚な江戸湾の海原を一望できる高台に鎮座しています。第一京浜の賑やかな通りに面して立派な鳥居が立っています。他の神社にはあまり見られないような、鳥居の両柱には龍が巻き付いているレリーフが施されています。

品川神社石柱
品川神社鳥居
龍のレリーフ(左)
龍のレリーフ(右)

鳥居の脇には「新東京百景」と刻まれた石柱が立っています。実は当社は昭和7年(1932)に新束京八名勝の第三位に選出されたらしいのです。その時の一位が池上本門寺、二位が西新井大師だったそうです。

新東京百景の石柱

鳥居をくぐると見上げるような急峻な石段が天空へとのびています。所謂、これが俗に言う「男坂」なるものと勝手に判断しながら、老骨に鞭打ちゆっくりと登りました。膝がケタケタ笑いそうな位にしんどい石段です。石段を登りきり振り返ると、遥か彼方に天王洲のビル群が目に飛び込んできます。江戸時代には東海道の脇まで江戸湾の波が打ち寄せ、その波打ち際には洲崎の砂洲が広がっていたのではないでしょうか。そしてその砂州にはあの利田神社の祠を遠望できたのではないでしょうか。

石段
石段を見下ろす

石段を登りきると、もう一つの鳥居が迎えてくれます。境内の右手には神楽殿、そして一番奥に拝殿が控えています。境内には梅雨どきの代表花である「あじさい」が彩りを添えていました。

品川神社本社殿
本社殿とあじさい

実は品川神社を訪れた別の理由として、板垣退助の墓を一度詣でたいと常々考えていたことを実現したかったからです。神社にどうして板垣退助の墓が?と疑問に思っていたのですが、板垣退助の墓はかつて当神社に隣接していた東海禅寺の塔中の「高源院」の墓地にあったものなのです。しかし現在、高源院はなく板垣退助の遺言に従って墓だけを残したと言われています。尚、高源院は昭和14年に世田谷の烏山へ移っています。

品川神社の本社殿の裏側へ通じる細い道を進んでいくと突然視界が広がります。ちょうど高台にしつらえられたテラスのような場所なのですが、この一角全体が板垣家の墓域になっているようです。もう少し整備してもいいのではないかな、と思うような佇まいです。

板垣家の墓域
板垣退助の墓
右:板垣退助 左:奥様
板垣死すとも…の石碑

この一角の一番奥におそらく板垣退助と奥様の墓が並んで置かれているようです。確かに立派な墓石が2基立っています。そしてその傍らに「板垣死すとも、自由は死なず」と刻まれた大きな自然石で造られた石碑が置かれています。憲政史に残る偉大な政治家である板垣退助が眠る墓前で、昨今のあきれた政治に愚痴をこぼしてきた次第です。

私本東海道五十三次道中記~品川宿の名刹・古刹巡り(その一)
私本東海道五十三次道中記~品川宿の名刹・古刹巡り~荏原神社~(その二)
私本東海道五十三次道中記~品川宿の名刹・古刹巡り~東海禅寺と沢庵和尚の墓~(その三)
私本東海道五十三次道中記~品川宿の名刹・古刹巡り~大きな地蔵が門前に鎮座する品川寺~(その五)





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私本東海道五十三次道中記~品川宿」の名刹・古刹巡り~東海禅寺と沢庵和尚の墓~(その三)

2011年06月17日 10時54分32秒 | 私本東海道五十三次道中記
荏原神社の参詣を終え、いったん旧街道から大きくそれて第一京浜の北側にある品川神社とあの問答河岸で有名な東海禅寺を目指すことにします。

三代将軍家光公が当河岸の波止場から東海禅寺に入る時に沢庵和尚が迎え出て問答をした故事に因んでいます。
その問答とは
将軍「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」
和尚「大軍を率いても将(小)軍と言うが如し」

また沢庵和尚は家光公に自らが作った「たくわえ漬」を供したところ、家光公はその美味しさに「たくわけ漬」でなく「たくわん漬」と名付けたという逸話が残っています。

目黒川左岸を北上すると前方に京浜急行の新しい駅「新馬場」の高架が見えてきます。ちょうど目黒川を跨ぐように造られた駅です。この駅に沿って走るのが第一京浜です。そして第一京浜が目黒川を跨ぐ橋が東海寺に因んで名付けられた「東海橋」です。まずは山手通りに沿って「東海禅寺」の山門へと進んで行きます。

東海禅寺の石柱

この東海禅寺は臨済宗大徳寺派の寺院で創建は寛永16年(1639)。開基はなんと三代将軍家光公なのです。そして家光自身が沢庵宗彭(たくわんそうほう)を招聘して住職としたほどの権威ある寺院だったのです。

東海禅寺山門

現在の東海禅寺は山手通りからつづく参道の先に山門を構え、境内は目黒川沿いにまで広がっています。ただ将軍家光公開基の寺にしては規模といい、伽藍の構成において見劣りしてしまうほど縮小されています。これは維新後、新政府により寺領が接収され一時期、衰退し荒れ果ててしまったことを物語っています。
かつて寺勢が最も強かった頃の寺領は現在のJRの線路を越えた高台から、品川神社の境内を含んだ広大な範囲の中に10以上の塔中、子院が点在していたのです。尚、品川神社は東海禅寺の鎮守として創建されたものです。

鐘楼

山門をくぐると右手に見事な梵鐘を吊り下げた鐘楼が目に飛び込んできます。この本鐘は元禄5年(1692)に幕府の御用鋳物師である名工椎名伊予守良寛によって造られたもので総高187cm、口径106cmの巨大な鐘です。

世尊殿
世尊殿前の蓮花

この鐘楼に隣接して東海禅寺の仏殿である「世尊殿」が堂々とした姿で置かれています。それほど古くはなく、昭和5年(1930)に建築されたものです。仏殿には本尊の釈迦三尊像をはじめ、閻魔王・帝釈天・達磨大師・地蔵菩薩・十六羅漢などの仏像が安置されているとのことです。

そして最も訪れて見たかった沢庵和尚の墓はどこにあるのか、と境内を探したのですが見つかりません。いたしかたなく山門をでて参道を進んだところに、墓域は別の場所にある旨の掲示板がありました。前述のようにかつて広大な寺領を有していたことを裏付けるように、JRの線路の向こう側の高台に沢庵和尚の墓があるのです。

山手通りに沿ってなだらかな坂を登ること5分ほどでJRの高架下に到着します。高架をくぐるとすぐ右に細い道が線路づたいに続いています。この道の入口脇に「官営品川硝子製造所跡」の碑が置かれています。この官営品川硝子製造所は明治に入って、かつての東海禅寺の境内に建てられたものです。

官営品川硝子製造所跡碑

線路沿いの細い道を進むと沢庵和尚の墓を示す石柱とその石柱の脇に墓地へとつづく石段が目に飛び込んできます。木々に覆われた石段は昼でもなにやら薄気味悪い雰囲気を漂わせています。意を決して石段を登って行くと木々に覆われ陽射しを遮られた墓域は静寂の空気に包まれています。

沢庵和尚墓の石柱
墓域へつづく石段

和尚の墓はすぐにわかります。墓域は木製の門と竹の囲いで囲まれています。その墓域の一番奥に直径1m高さ0.5mのやや扁平な自然石を台座の上に載せているだけの質素な墓が置かれています。一般的に開山僧の墓は丸みをおびた卵型の塔身が置かれた「無縫塔」と思っていたのですが、沢庵和尚の人となりを表したような天衣無縫な墓であったことに感動しました。実はこの墓の設計者は造園の名手であった小堀遠州と伝えられています。

沢庵和尚の墓の門
沢庵和尚墓域
沢庵和尚の墓石

私本東海道五十三次道中記~品川宿の名刹・古刹巡り(その一)
私本東海道五十三次道中記~品川宿の名刹・古刹巡り~荏原神社~(その二)
私本東海道五十三次道中記~品川宿の名刹・古刹巡り~北の天王さん・品川神社と板垣退助の墓~(その四)
私本東海道五十三次道中記~品川宿の名刹・古刹巡り~大きな地蔵が門前に鎮座する品川寺~(その五)





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私本東海道五十三次道中記~品川宿の名刹・古刹巡り~荏原神社~(その二)

2011年06月16日 15時47分01秒 | 私本東海道五十三次道中記
再び、旧東海道へ戻り旅をつづけます。

これまで地方に残る東海道筋を巡っていますが、大きな都市の中を走る旧東海道はどこも様変わりし、古さはまったく感じられませんでした。もちろん大都市・東京のお膝元にある品川宿もかつての古さや趣を感じる場所がほとんど残っていませんが、わずかな距離の中にこれほどまでに神社・仏閣が次ぎから次へと現れてくることに驚かされます。

旧街道を下りながら、山側すなわち街道右側のちょっと奥まった場所に大小のお寺が密集しているのです。
すべてのお寺に立ち寄りながら、所縁や縁起などに触れるのもいいのですが、あまりに多いため今回は代表的な神社・仏閣に焦点をあてながら散策を愉しみました。

こんなに多い神社・仏閣を巡る場合はやはり地図が必要です。事前に「旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会」のホームページから「まち歩きマップ」を印刷するか、旧街道にある「品川宿交流館」で「まち歩きマップ」を購入(一部50円)することをお薦めします。散策には結構どころか、かなり役立つ優れものです。

そんな神社・仏閣の中で次に訪れたのが由緒ある荏原神社です。旧街道が目黒川にさしかかるところに架かるのが「品川橋」です。この橋上から上流を眺めると朱色に塗られ、宝珠を備える欄干が目に飛び込んできます。
「鎮守橋」と呼ばれる橋で荏原神社の鳥居へと繋がる参道をなしています。

荏原神社鎮守橋
鎮守橋から大鳥居へ

目黒川の左岸にこんもりとした鎮守の森の中に荏原神社の社殿が鎮座しています。目黒川に沿って河岸を歩いていくと大鳥居が現れ、鳥居の奥に木々に囲まれた社殿が静かに佇んでいます。梅雨の晴れ間の暑い陽射しが木々の葉で遮られ、いっときの涼を愉しむことができました。

荏原神社名石柱
荏原神社大鳥居
荏原神社社殿

当社の由緒によると古くは「源氏」との関係まで遡ります。後冷泉天皇の御代、康平5年(1062年)、朝廷の命を受けた源頼義・義家両朝臣が陸奥の安部貞任・宗任を討伐することとなりました。前九年、後三年の役のことで両人は当社に戦勝祈願奉幣され、戦勝後も再び奉幣されたと言われています。まあ、この二人はいたる所で戦勝祈願や凱旋報告をし、その都度なんらかの物を奉納しているのですが、当社にはその所縁のものはないようです。

そして徳川将軍家との関わりとしては、天正18年(1589年)、家康公の東海道御通行の際、御愛蔵の左文字壱振りを当社に奉納され、天正19年11月には、御自身の武運長久を祈られて、神領五石の朱印を寄進されました。天正19年(1590)には家康公は豊臣勢に加わり、小田原北条氏を攻め滅亡させています。
その後幕末まで歴代将軍より朱印を寄進されるなど、幕府の崇敬も篤く関ヶ原の戦い、大阪冬の陣には、二代将軍秀忠公の戦勝祈願の参詣も受けています。

更には皇室との繋がりも深く、明治元年10月12日、東京遷都の際をはじめとして同年12月8日・翌2年3月27日の明治天皇京都・東京行幸の際に当社に行幸され、内侍所とされました。(内侍所とは宮中賢所にあたります。)また明治2年、英照皇太后東京行幸の際にも当社にお立ち寄りになられました。
たしかに旧東海道のすぐ脇に社殿を構える当社は、神道を奉ずる天皇家にとって御休憩所としては願ったりかなったりの立地だったと思われます。

またこの荏原神社は江戸時代には大江戸夏祭りの花形であった「南の天王祭」が執り行われることで知られています。この天王祭とは宝治元年六月、京都八坂神社より牛頭天王が当社に勧請されたことに始まります。都内で唯一、御神面を神輿につけての海中渡御が行われており、荏原天王祭「かっぱ祭り」として、全国に知られています。尚、今年は震災の影響により天王祭は中止となりました。

私本東海道五十三次道中記~品川宿の名刹・古刹巡り(その一)
私本東海道五十三次道中記~品川宿の名刹・古刹巡り~東海禅寺と沢庵和尚の墓~(その三)
私本東海道五十三次道中記~品川宿の名刹・古刹巡り~北の天王さん・品川神社と板垣退助の墓~(その四)
私本東海道五十三次道中記~品川宿の名刹・古刹巡り~大きな地蔵が門前に鎮座する品川寺~(その五)





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私本東海道五十三次道中記~品川宿の名刹・古刹巡り(その一)

2011年06月16日 14時07分10秒 | 私本東海道五十三次道中記
お江戸歴史散策で必ずやご案内するエピソードとして街道(道中)の起点である日本橋の噺はもちろんのこと、各街道(道中)の最初の宿場町である「江戸四宿」についての話は避けて通れません。

江戸四宿といえば、東海道中の品川宿、甲州街道の内藤新宿、中仙道の板橋宿そして奥州道中・日光街道の千住宿なのですが、これらの宿場町はお江戸の時代から旅人や参勤交代の大名やお供の家来などが府内への出入りに
際して、必ずや立ち寄る場所として宿駅の役割だけでなく、一大歓楽街としての性格をもってたいそうな賑わい振りを見せていたのです。また、品川宿、板橋宿、千住宿は犯罪者の江戸追放の場所としての役割を担っていました。

そんな四宿の一つである「品川宿」の今昔をお題に何回かに分けて、お江戸の歴史が今に残る名刹・古刹をご紹介してまいります。今回歩いたのはJR品川駅から第一京浜に添って京浜急行の北品川駅付近から始まる旧東海道の入口へと進み、その後かつての賑わいを今に伝える商店街をそぞろ歩きしながら鮫洲駅までの行程です。
途中、旧東海道から大きくそれて第一京浜の北側の地区まで足を伸ばしたので、かなりの距離を歩いたことになります。

JRの線路が下に走る「八ツ山橋」を越え右手へ進むとかつての品川宿を貫いていた旧東海道の入口です。道の傍らに「旧東海道八ツ山口」と刻まれた石柱が立っています。日本橋から二里、最初の宿場「品川宿」の始まりです。
旧街道に沿って商店街がつづくのですが、電柱と電線が地下に埋設しているので、スッキリとした光景が広がります。

旧東海道八ツ山口
旧東海道商店街の風景

お江戸の古地図を見ると「東海道中」は日本橋を起点に現在の中央通りを南下し、新橋に至ります。新橋を越えて現在の浜離宮(浜御殿)辺りから江戸湾の美しい海岸線が始まったのではないかと推察します。すなわちJR浜松町から芝浦から田町、泉岳寺、高輪、品川駅に至る辺りは江戸湾の波打ち際だったのです。
そして江戸湾に沿ってあの鈴森獄門場へと至り、その後は東海道中は大きく内陸へと入り込み、川崎宿へと向かうことになります。

江戸開幕間もない頃は、かの家康公は葦が生茂る江戸湾で鷹狩を愉しんだと言われているくらい、海岸線がつづいていたのです。現在の品川地区は埋め立てが進み、かつての海岸線は遥か南に後退し、併せて高層ビルが林立し海を臨むべくもありません。

江戸時代には八ツ山のすぐ左手の海岸線は「問答河岸」と呼ばれていました。河岸という文字の通り、かつてはこの場所は海に面していたところです。そして問答と名付けられた訳は三代将軍家光公が当河岸の波止場から東海禅寺に入る時に沢庵和尚が迎え出て問答をした故事に因んでいます。
その問答とは
将軍「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」
和尚「大軍を率いても将(小)軍と言うが如し」
さすが禅寺・東海寺の和尚である沢庵らしい返答と感心します。
尚、東海禅寺については東海道中一番目の宿場町「品川宿」の名刹・古刹巡り(その二)でご紹介いたします。

賑やかな旧東海道の商店街を進み、最初に訪れたのが1294年創建の古刹「善福寺」です。現在の品川宿界隈で最も鄙びた、一見すると荒れ寺のような佇まいを見せているのがここ「善福寺」です。藤沢の遊行寺こと藤沢山無量光院清浄光寺を総本山とする時宗の寺だそうです。

善福寺山門

旧街道からすこし奥まった所に古めかしい寺の山門、その山門をくぐると味気のない本堂前の広場、そして広場の奥に崩れかけそうなご本堂がなにやら薄気味悪い雰囲気を漂わせて佇んでいます。本堂に近づいてみるとその壁は大半が崩れ落ち、わずかに何かを形どったようなレリーフが壁に残っています。良く見ると「龍」の頭の部分がかろうじて残っています。これが有名な伊豆長八の漆喰鏝(こて)絵で非常に貴重なもののようです。尚、伊豆の長八は江戸の左官として比類ない名人であったようです。

善福寺山門
善福寺ご本堂

ここで旧街道からそれて台場横丁を下り有名な「利田神社(かがたじんじゃ)」へ向かうことにしました。それるといっても旧街道から利田神社までは距離として200m程度です。

沢庵和尚が寛永3年(1626に旧目黒川の河口の洲崎に弁才天を祀ったことから始まると伝えられる神社で洲崎弁天とも呼ばれ、浮世絵師安藤広重の名所江戸百景にも描かれています。八ツ山通りの脇にたつ当神社の規模はそれほど大きくはありません。かつては江戸湾の波打ち際に立っていたのでしょう。弁天を祀る神社であれば浮島を配した池があってもよさそうなものなのですが、利田神社にはそんなものはありませんでした。

江戸時代に「江戸前の海」という呼ばれ方をした江戸湾ですが、その範囲はというとそれほど明確なものはありませんでした。ただ一説によると、深川の洲崎神社とこの利田神社を線で結んだ内側を江戸前の海としたと言われています。当然、海に面した神社であったことが覗われるのですが、江戸前の海では魚だけでなく、なんと鯨まで迷いこんできたのです。そんな逸話が残っているのがここ利田神社です。

利田神社鳥居
利田神社社殿

寛政10年(1798)5月1日に品川沖に迷い込んだ大鯨を捕らえたという噂が江戸中に広がり、11代将軍家斉公までが上覧するほどの騒ぎになったそうです。その鯨の骨を埋めたのが鯨塚がこの利田神社の社殿脇に置かれています。

利田神社「鯨塚」

このあと、再び旧東海道へと戻り旅をつづけます。(その二へ)

私本東海道五十三次道中記~品川の名刹・古刹巡り~荏原神社~(その二)
私本東海道五十三次道中記~品川宿」の名刹・古刹巡り~東海禅寺と沢庵和尚の墓~(その三)
私本東海道五十三次道中記~品川宿」の名刹・古刹巡り~北の天王さん・品川神社と板垣退助の墓~(その四)
私本東海道五十三次道中記~品川宿」の名刹・古刹巡り~大きな地蔵が門前に鎮座する品川寺~(その五)





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家康公の故郷・三河岡崎~画僧「月僊」ゆかりの古刹・昌光律寺の佇まい~(愛知県岡崎市)

2011年06月11日 16時56分04秒 | 地方の歴史散策・愛知県岡崎市
岡崎観光「文化百選めぐり・中北部コース」に含まれる名刹・古刹「昌光律寺(しょうこうりつじ)」は徳川将軍家の祈願所として名高い伊賀八幡宮の大鳥居と道路を挟んだ反対側に位置しています。

浄土宗・昌光律寺は三河地方浄土律寺の根本となるべき道場として、宝暦13年(1763)徳巌和上(とくがんわじょう)が松林院を改築して昌光律寺を開設しました。歴代学識高い住職が歴任しましたが、特に7代万空和上(ばんくうわじょう)は詩文をよくし、京の頼山陽とも付き合いがありました。特に画家月僊(げっせん)とはきわめて交わりが深く、多くの作品が保存され「月僊寺」とも言われています。尚、当寺は東京の芝増上寺の末寺です。

昌光律寺参道

車の行き交う大通りから山門へとつづく参道の両脇には松の木が整然と並び、古刹らしい雰囲気を漂わせています。参道を進むと白壁に山門が出迎えてくれます。山門の脇には「不許葷酒肉入門」の文字が刻まれた石柱がものものしい居ずまいで立っています。

昌光律寺戒壇石

このような文字が刻まれた石柱は禅宗系の寺院の門前によく見られるもので、「結界石(戒壇石)」と呼ばれています。

「葷酒肉山門に入るを禁ず」と言って、「葷」はにら、にんにく、ねぎなどの臭気のきつい野菜や唐辛子、「肉」は魚の類、そしてお酒を飲んでいる人は山門より中に入るべからずという意味なのです。境内に仏道修行の妨げになる酒や精力のつくものを入れてはならないという戒めなのです。禅宗の寺院ではこのように特に戒律が厳しかったことが覗われます。

境内

山門をくぐると新緑の葉を纏った木々が陽射しを遮り、木々の陰が苔むした地面を明暗を施し、初夏の木漏れ日が静かな境内にアクセントをつけています。狭い境内ながら長い歴史を刻んできた古刹の佇まいは、木々の葉の緑のグラデーションと光と影のコントラストの中に妙に溶け込んでいました。

ご本堂
木々の緑とご本堂

当寺には月僊の作品が数多く保存されているといいますが、おそらく特別なことがないかぎり一般公開はしていないと思います。機会があれば是非、鑑賞してみたいと思います。

※月僊(げっせん)
月僊は寛保元年(1741)1月1日、尾張名古屋の味噌商人の家に生まれ、7歳のとき剃髪し、10代で江戸の増上寺に入りました。月僊は生まれつき絵が好きで、修行の傍ら桜井雪館(せつかん)という、のちに雪舟12代を称していた画家について絵を学びました。増上寺の大僧正定月は彼の絵の才能や修行ぶりを誉めて、自分の名の一字を取って「月僊」の号を与えました。その後、月僊は京都の浄土宗総本山知恩院に修行することとなり、写生表現を重視した円山応挙の門に入り、与謝蕪村を尊敬し、中国の絵画をも学びました。

家康公の故郷・三河岡崎~家康公の父「忠弘公」密葬の地能見の「松應寺」を訪ねて
家康公の故郷・三河岡崎~家康公誕生の城・岡崎城~(愛知県岡崎市)
家康公の故郷・三河岡崎~徳川将軍家菩提寺「大樹寺」~(愛知県岡崎市)
家康公の故郷・三河岡崎~徳川家累代祈願所「伊賀八幡宮」~(愛知県岡崎市)




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家康公の故郷・三河岡崎~家康公の父「忠弘公」密葬の地能見の「松應寺」を訪ねて

2011年06月10日 13時02分52秒 | 地方の歴史散策・愛知県岡崎市
さすが岡崎には家康公ゆかりの名刹・古刹がいたるところに点在しています。大江戸散策を生きがいとする私にとっては岡崎は「宝の山」に思えてきます。

岡崎の街をレンタサイクルで巡ったその日、ふと立ち寄った古刹が「松應寺」です。当寺にまつわるエピソードは今から遡ること460年余り前、家康公が8歳の頃に起こった事件に関係します。

天文18年(1549)の3月、家康公の父上である忠弘公が織田方の間者によって暗殺されてしまいます。そしてこの年の11月に今川義元軍は安祥城の織田信秀の子である信弘を攻め、ついには捕虜として捕らえてしまいます。そしてこの時、すでに織田方に捕らえられていた竹千代(家康公)と信広を捕虜交換で、竹千代は岡崎へと戻ることができたのです。しかし、竹千代は岡崎に1ヶ月ほどの滞留の後、駿河の今川義元のもとへと送られることとなったのです。

再び人質として駿河に赴かなければならない竹千代(家康公)は岡崎城からさほど離れていない「能見の原」にある父忠弘公の密葬地を参拝し、墓の目印にと松の子株を植えたのです。竹千代の思いは、この松の子株が枝葉を伸ばし繁茂してくれれば松平家も再興できると……。

そして11年後の永禄3年(1560)の桶狭間の合戦の後、岡崎に戻った家康公は父が眠る能見の原の松の木に対面すると、念願通り松は元気に繁り、墓の場所を示していました。

長きに渡る人質生活から開放され、やっと岡崎のために働けるようになったことを喜んだ家康公はこの能見の地に寺を建立し、この時、「松が応えてくれた」ことを意味する「松應寺」と号されたとのことです。

松應寺へつづくアーケード

現在の松應寺はそれほど規模は大きくありません。寺の境内へとつづく参道の両側にはスナックが並び、家康公ゆかりの名刹としての趣が感じられないのが残念です。かつては幕府の厚い庇護の下、仏殿、御廟、方丈、鐘楼、山門、総門などが建ち並び、それはそれは立派な伽藍であったのですが、明治以降、新政府によりその規模が縮小されたとのことです。また、家康公お手植えの松は平成3年に枯れてしまい、今は見ることができません。

松應寺ご本堂
鐘楼
梵鐘

狭い境内の端に見事な鐘楼が置かれています。梵鐘は、寛永12年(1635)家康公の九男で尾張徳川家の始祖、徳川義直が鋳造・寄進したもので、銘は江戸時代の有名な儒学者・林道春(林羅山)です。
太平洋戦争中、寺院の梵鐘は、武器製造などのため供出が強制されましたが、この梵鐘は文化的な価値が高いとして、供出を免れました。しかし、昭和20年(1945)、米軍の空襲で、梵鐘も戦火に包まれましたが、幸い破砕はしませんでした。

家康公の故郷・三河岡崎~画僧「月僊」ゆかりの古刹・昌光律寺の佇まい~(愛知県岡崎市)
家康公の故郷・三河岡崎~家康公誕生の城・岡崎城~(愛知県岡崎市)
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梅雨の晴れ間・新緑と菖蒲の花が競う下町の名庭園「清澄庭園」

2011年06月10日 09時39分49秒 | 江東区・歴史散策
清澄通りに隣接して緑豊かな木々がうっそうと繁る下町の名庭園「清澄庭園」の菖蒲が今盛りと聞いて早速行ってきました。

春、桜の季節から2ヶ月余りの時が過ぎ、園内の木々は眩しいほどの緑に覆われ、爽やかな風が木々の枝をすり抜け体全体で初夏を感じることができます。

大正館




平日のこの日、園内はそれほど多くの観光客の姿はありません。静かな空気の中に鳥のさえずりが心地よく耳に届きます。広々とした園内の泉水のほとりを遊歩道に沿ってゆっくりと巡ります。初夏の陽射しに泉水が鏡面のように輝き、周囲の木々の緑を水面に写しています。



泉水のほとりに置かれた「涼亭」の美しい姿が周囲の木々の緑の中に溶け込み、優雅さを際立たせています。




園内の一番奥にあるのが「菖蒲園」です。様々な種類の「菖蒲」が植えられているのですが、今を盛りと咲き誇っています。菖蒲園の遊歩道の脇には梅雨時の代表格である「あじさい」も可愛らしい花弁を見せています。

あじさいと涼亭
菖蒲園
菖蒲園

是非、今週の土・日に下町散策のついでに立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

お江戸名園シリーズ~六義園・将軍綱吉の庇護の下、権勢を誇った柳沢吉保の庭【岩槻街道御成道沿い】
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浜御殿を彩る白銀の世界~雪に覆われた徳川将軍家のお庭(浜離宮)~





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三河豊橋~東海道吉田宿・豊川ほとりの吉田城址公園~(愛知県豊橋市)

2011年06月09日 20時15分52秒 | 地方の歴史散策・愛知県豊橋市
先月5月19日から10日間ほど私用で愛知県豊橋に滞在していました。その間、岡崎への小旅行や豊橋市内のぶらり散策を愉しみました。

現在の豊橋市は江戸時代にはお江戸日本橋から34番目の吉田宿(宿駅)として栄えていました。歌川広重の吉田宿を描いた浮世絵には普請のため足場を組んだ「吉田城櫓」とその背後にゆったりと流れる豊川と木造の大橋「豊橋」(現在の吉田大橋)の光景が広がっています。



広重の吉田宿の絵の構図は現在のそれと寸分たがわない姿で残っています。名古屋方面から1号線を下り豊橋市内への入口である吉田大橋にさしかかると、豊川を挟んで左手に吉田城の櫓が浮き上がり、まるで一幅の絵を眺めているような光景が目に飛び込んできます。おそらく江戸時代の旅人も江戸へ下る道すがら、ここ吉田宿に入る時に同じ様な光景を眺めていたのでは、と感慨深いものがあります。

豊橋に滞在中、この櫓が気になって是非一度訪れて見たいと思っていたのですが、いつでも行けると思い後回しになっていました。天気が良いこの日、豊橋市内の散策と併せて一度乗ってみたいと思っていた市電を利用してJR豊橋駅から吉田城址へと向かいました。

豊橋の市電

JR豊橋駅から市電で4つめの市役所前まで所要約7分ほど。乗車賃は大人150円。
市役所前という駅名から豊橋市役所に至近なのですが、実はこの駅の前にはものすごく風格のある建物が建っているのです。正面ファサードのアーチと幅の広い階段そして建物上部の2つのドームの建築様式がまるで中国西域のウルムチやトルファンにある建造物に相似していることに驚きました。

豊橋市公会堂

なんと県指定文化財でもあり、国の登録文化財でもある「豊橋市公会堂」です。この建物は豊橋市が市制25周年記念と昭和天皇の御大典記念事業を兼ねて建設したもので昭和6年に竣工しました。

日本的でない建築様式で西洋建築のルネサンス様式を基調としたものです。なかなか堂々とした風格を醸し出しており、建物上部にはモザイクタイルを貼ったドームが2つ置かれ、そのドームの四隅には力強く羽ばたいて飛び立とうとする4羽の鷲の像が付けられています。この鷲の像のレプリカが公会堂の脇に展示されていました。

鷲のレプリカ

公会堂の脇の道をまっすぐ進むと、こんもりと木々が茂った場所が見えてきます。この場所がかつて吉田城があった城址で「豊橋公園」と呼ばれています。

さて吉田城は当初は今橋城と呼ばれ、永正二年(1505)に牧野古白によって築城されました。以来、東三河の要衝として今川、武田、徳川らの戦国武将の攻防を経て、天正十八年(1590)に池田輝政が入封し、15万2千石の城地にふさわしい拡張と城下町の整備が行われました。しかし輝政は在城十年で播州姫路に移封され、のちに入封した大名は譜代ながら少禄のため輝政によって大拡張された城地も未完成のまま明治に至ったとのことです。

そんな吉田城の郭はそれほど大きくないのですが、天然の堀割として豊川を擁し、本丸、二の丸、西の丸を囲むように掘割が巡らされていたようです。大手門があったと思われるところに公園の入口があり、その入口を入るとすぐに二の丸口門跡と呼ばれる広場が目の前に現れてきます。

二の丸口門跡

二の丸跡を抜けて行くと、「兵どもが夢のあと」を思わせるように空濠となった内掘と石積みの城壁が荒城の風情を醸し出しています。天守そして本丸へつづく城門があったと思われる石積みの向こうにやや視界が広がります。その視界の中にまるで天守閣ではないかと思われるような立派な「櫓」が姿を現します。

内掘跡
本丸へとつづく城門跡
城門の石垣

三層三重の堂々とした櫓ですが、かつてはこのような櫓が本丸の4隅に置かれていたとのことです。現在は豊川を臨む北西の角に置かれているだけです。

吉田城櫓
吉田城櫓

この櫓のある場所から豊川べりに降りる階段があり、川沿いを散策する事ができます。また豊川の支流である朝倉川沿いの新緑の木々に覆われた遊歩道を進むと、それらしい木橋が現れ古城の風情を嫌が応にも堪能できます。

豊川べりへつづく石段
土塁跡
朝倉川に架かる木橋

城内を一巡してみたのですが、鬱蒼とした木々に覆われ朽ちかけた土塁がいたるところに残り、戦国の世から近世までの長い歴史を無言のうちに語りかけるように静かに佇んでいました。

東海道五十三次街道めぐり 第27回 第2日目 二川宿(本陣)から莵足神社




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