大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

真夏の小江戸・川越の歴史散策(其の伍)~小江戸川越の蔵の街と菓子屋横丁~

2012年07月31日 18時44分32秒 | 地方の歴史散策・埼玉小江戸川越
本丸御殿と三芳野神社のある場所から再び小江戸巡回バスに乗って、川越の街を代表する景観を楽しめる蔵の街へと進みます。
バスは氷川神社前そしてかつての川越城の大手門があった場所を経由して、時の鐘の塔の真下を通って蔵の街バス停に到着します。

蔵の街の通りは南の仲町交差点から北の札の辻交差点までの間に昔懐かしい蔵造りの家並みがつづくことで知られています。特に景観が優れているのはこの通りには電柱と電線が地下に埋設されているため、空がものすごく広く感じられ、蔵造りの家々が青空を背景にくっきりと浮かびあがるのです。

川越時の鐘

まずは蔵の街のシンボル的存在の「時の鐘」に向かうことにします。平日に訪れたこの日、日本人もさることながらどういうわけか中国人とおぼしき人たちが結構多いことに驚きました。その中国人とおぼしき人たちが時の鐘の下に大勢たむろしている姿に、川越の歴史景観地区もかなり国際化してきたんだなあ、と一人つぶやいた次第です。

川越時の鐘

川越の時の鐘の始まりは江戸時代の寛永年間(1624~44)に川越城主酒井忠勝が城下多賀町 (いまの幸町)に建てたものが最初といわれています。オリジナルの時の鐘の塔は明治26年(1893)の川越の大火で焼失してしまい、翌年の明治27年に再建されたものです。
とはいえ蔵の街にひときわ高くそびえる時の鐘の塔は歴史景観に色を添えるばかりか、現在でも1日に4回(午前6時・正午・午後3時・午後6時)に時を告げてくれています。

川越時の鐘

時の鐘の周辺にも蔵造りの家々が並んでいますが、やはり通りに面して建つ蔵造りの美しい景観を見なければここに来た甲斐がありません。通りにはひっきりなしに車が行き交い、ここぞと思う場所で写真を撮ろうとすると車が入り込み、蔵造りの家を邪魔してしまうのです。

鐘つき通りの道標

車の流れが途切れた瞬間にシャッターチャンスが訪れます。とはいってもゆっくり三脚を使って撮ったものではないので、若干不満の残る画像ですがご覧ください。また、逆光にならないように撮ったため、方角がすべて同じになってしまいました。

蔵造りの家
蔵造りの家並み

それでも東京都心ではまったく見ることができない町家の姿に、かつて日本橋本町界隈にはこのような蔵造りの町家が軒を連ねていたことを頭に浮かべながらそぞろ歩きを楽しみました。

蔵造りの家並み
路地裏から見た蔵造り
蔵造りの家

この蔵造りの家並みの裏側の路地にも興味が沸いたので行ってみることにしました。江戸の町づくりを思い返すと、通りに面して店(たな)が並び、店の裏側には長屋が軒を連ねているなんて光景を江戸の町のイラストで見た覚えがあります。だからといって平成の世に江戸の町と同じように、店(たな)の裏手に長屋が並んでいるなんてことはありません。

養寿院山門

その路地を進んでいくと由緒ありげなお寺の山門が現れました。ほんとうに見事な山門です。寺名を確認すると「曹洞宗養寿院」とあります。山門は扉を固く閉じているため、右手に回り境内へと進みます。正面にご本堂、右手に客殿とおぼしき古めかしい建物がたっています。境内は綺麗に整備され、緑濃い木々が境内に彩りを添えています。

ご本堂
客殿

境内の裏手に板東八平氏の一つで秩父氏の出の川越太郎重頼の墓があると看板がでていました。川越氏のなんたるかは存じ上げなかったのですが、興味本位に行ってみることにしました。本堂の左手の細い道を進んで行くと左前方にほんの少し土をもったような場所が現れます。その盛り土の奥に小さな五輪塔が立っています。

川越太郎重頼墓所

これが川越太郎重頼の墓なのだそうですが、一応、言い伝えということらしいのです。重頼のことを調べてみると、時代は源平の頃に遡ります。源頼朝が挙兵した当時、川越氏は平家方だったようです。しかし重頼の妻が頼朝の乳母である比企禅尼の娘だったことで、ついには頼朝方について平氏追悼に加わり、鎌倉幕府に尽力した方と言われています。

尚、重頼の娘はなんと義経の正妻に選ばれ、そして上洛することとなったのですが、頼朝と義経の仲たがいでどういうわけか重頼は誅殺され、所領まで没収されてしまったのです。そんな悲運の重頼の五輪塔は木漏れ日の中に静かに佇んでいました。

川越太郎重頼の五輪塔

養寿院をあとに、さらに路地を進むと川越の観光名所の一つである「菓子屋横丁」の入口に辿りつきます。平日の午後ということで人影もまばらで、お店も開店休業状態のようです。

菓子屋横丁
菓子屋横丁

今回の川越の旅は一人旅のため、どこかで美味しいものを食べるにしても一人では心もとないので、菓子屋横丁のバス停から小江戸巡回バスに乗り川越駅へと戻ることにしました。夏の陽射しで火照った体にバス車内の冷房はなんとも心地よいものです。炎天下の川越観光には是非、小江戸巡回バスをご利用されることをお勧めいたします。

真夏の小江戸・川越の歴史散策(其の壱)~天台宗別格本山・中院~
真夏の小江戸・川越の歴史散策(其の弐)~神君家康公を祀る仙波東照宮~
真夏の小江戸・川越の歴史散策(其の参)~本丸御殿に在りし日の栄華を偲ぶ~
真夏の小江戸・川越の歴史散策(其の四)~童歌「通りゃんせ」の故郷・三芳野神社~
真夏の小江戸・川越の歴史散策(其の六)~天海・家康公・家光公そして春日局ゆかりの川越大師・喜多院~





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真夏の小江戸・川越の歴史散策(其の四)~童歌「通りゃんせ」の故郷・三芳野神社~

2012年07月31日 16時28分11秒 | 地方の歴史散策・埼玉小江戸川越
川越城本丸御殿のちょうど目の前に、なんとあの「通りゃんせ」で知られる童歌の発祥の地があるではありませんか。

三芳野神社社殿

通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細通じゃ
天神様の 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに 参ります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ

という文言の中にでてくる天神様が本丸御殿の目の前にその社殿を構えています。



その天神様が三芳野神社です。創建は古く平安時代初期の大同2年(807)に遡ります。川越城が築城される前から社を構えていたことになるのですが、神社の場所はそれこそ本丸御殿のすぐ脇ということは、この神社はお城の中に取り込まれていたことになるのです。

このため川越城築城当初から城内の鎮守として歴代の城主たちから崇敬されてきたことになります。ということはこの三芳野神社は一般庶民がおいそれと参詣に訪れることができない場所に鎮座していたことになります。

説明書きによると、江戸時代にこの天神様にお参りするには、川越城の南大手門から入り、田郭門をとおり、富士見櫓を左手に見てさらに天神門をくぐり、東へ向かう小道を進み、三芳野神社に直進する細い道を通ってお参りしたそうです。この細い道が「通りゃんせ」の歌詞の発祥の地であると言われています。この道程を本丸住居絵図に照らしてみるとかなりの距離になることがわかります。

三芳野神社への「細道(参道)」
三芳野神社

そんな長い距離があるにもかかわらず、「通りゃんせ」の歌のように庶民が「子供の七つのお祝いに御札を納めに行く」ために城内を歩くことが許されていたことに面白さを感じるとともに、城主の粋な計らいに感心してしまいます。

わらべ歌発祥の所碑

尚、「行きはよいよい 帰りはこわい」の意味はさまざまに解釈されるようですが、一般的には城内の様子を見てしまったはずの庶民にとって、見てはいけないものもあるはずなのです。そんな城内の秘密めいたものや、参詣客に紛れた敵の間者が簡単に城外へ出てしまわないよう出口で厳しく取り締まったことを「帰りはこわい」で表現したのでは、と一人想像をめぐらしたしだいです。

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真夏の小江戸・川越の歴史散策(其の参)~本丸御殿に在りし日の栄華を偲ぶ~

2012年07月30日 14時31分51秒 | 地方の歴史散策・埼玉小江戸川越
仙波東照宮のご社殿への参拝を終えてから隣接する川越大師こと「喜多院」の境内へすすみ、つぶさに見学とご本堂への参拝を済ませた後、かねてから訪れてみたいと思っていた「川越城本丸御殿」へ小江戸巡回バスに乗って向かうことにしました。

本丸御殿玄関

喜多院から狭い道を何度も曲がりながらおよそ10分弱のバスの旅で本丸御殿に到着します。巡回バスの停留所は本丸御殿の脇にあるので、これまた長い距離を歩かずに正面玄関(入口)に行くことができます。

本丸御殿

重厚な佇まいを見せる御殿正面の姿はさすが関東の雄藩である川越の城といった雰囲気を漂わせています。見事な唐破風屋根が設けられている間口3間の幅を持つ玄関はさすが17万石の大名御殿らしい威厳と風格を感じさせてくれます。玄関で靴を脱ぎ、廊下をほんの少し左へと行ったところにチケット販売所が置かれています。入館料は大人一人100円です。

御殿玄関
御殿内の廊下

さて現在みることができる川越城の本丸御殿は幕末の嘉永元年(1848)に建てられたもので、その当時の本丸部分の建物の数は16棟を数え、その広さは1025坪に及んだといわれています。すなわち藩の政治を行う「表」、藩主の私的空間であった「中奥」そして女性たちスペースであった「奥」もあったのではないかと思われます。

しかし維新後はこれら本丸の建物の多くが移築されたり、解体されたりして大きく姿を変えてしまいます。明治4年の廃藩置県で川越に入間県の県庁が置かれた際に、本丸御殿の玄関と大広間が県庁舎として利用されることになります。その後、入間郡の公会所となったり、煙草工場になったり、武道場になったり、戦後は中学校の仮校舎や屋内運動場として使われ、御殿であったことすら忘れ去られてしまうほどに姿を変えていきました。

そんな川越城本丸御殿は昭和42年に本来の姿を少しでも復活すべく大規模修理を行い、当時の規模とは比べ物にならないのですが本丸御殿の一部として現在、一般公開されています。

御殿内廊下

かなりの復元大修理のお蔭で、現在は往時の屋敷らしさをほんの少し感じます。玄関からつづく幅の広い廊下とその廊下に面していくつもの部屋が並んでいます。これらの部屋もかつての「本丸住居絵図」をみるとほぼ正確に復元されています。そして各部屋にはそれぞれなんのための部屋だったかを記しています。

家老詰所棟
家老詰所棟の畳廊下

前述の本丸住居絵図を見る限り、現在みることのできる本丸御殿はほんのごく一部にすぎません。広々とした廊下は御殿の各部屋を取り囲むようにつづいています。その途中に継ぎ足されたような棟へつづく廊下を渡ると、一応「家老詰所」と呼ばれている建物へと進んでいきます。この棟もいくつかの小さな部屋に区切られています。奥へ奥へと進むうち、ふいに3人の人影が現れます。一瞬、「ドキッ」とするのですが、これは人形でご家老が家臣2人となにやら会議をしている様子を表しています。

家老詰所

ふたたび元の棟へ戻り、廊下を進んで行きます。その途中に現れるのが36畳敷きの大広間です。かつての御殿の中でも2番目に大きかった部屋で、来客が藩主に会うまで待機するために使用されたものです。藩主との対面は今は残っていませんが、大書院で行われていたようです。

本丸庭
大広間

日本全国に点在する「城郭」でかつての遺構として本丸が残っているのは極めて僅かなのです。なおかつ掘割に囲まれた内郭に本丸が残っている例は京都二条城を除いては彦根城くらいなものでしょう。維新後、明治政府は廃藩置県、版籍奉還の名のもとに旧封建社会のシンボル的存在である天守や本丸はては大名屋敷までをも解体し、あたかも徳川幕藩体制の恨みを晴らすかのごとく徹底した粛清を行ったように思えます。

本丸外観

とはいえもし天守や本丸を当時の明治政府が残したとしても、おそらく第二次世界大戦の米軍の空襲で燃えてしまったのかもしれませんが…。それでも川越が在りし日の本丸の姿を僅かながらでも残していることは称賛に値するものではないでしょうか。

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真夏の小江戸・川越の歴史散策(其の弐)~神君家康公を祀る仙波東照宮~

2012年07月27日 11時49分40秒 | 地方の歴史散策・埼玉小江戸川越
これまで日本各地に点在する代表的な東照宮詣でをしてまいりましたが、灯台下暗しともいうべきか東京からさほど離れていない川越の東照宮が取材先から漏れていました。

江戸の風情に溢れている川越の中で最も取材をしてみたい場所が日本の三大東照宮と言われている「仙波東照宮」だったのです。先の中院からは徒歩で数分の距離に神君家康公は鎮座しています。中院からまっすぐに延びる道を歩いていくと、ふいに仙波東照宮と書かれた看板が目に飛び込んできます。

仙波東照宮参道入り口

私にとっての東照宮は尊敬する神君家康公を祀る社であると同時に、徳川将軍家の心の拠り所としても、江戸時代を通じて幕藩体制を堅固にした象徴的な特別な存在として威厳をもって迫ってくるのです。

川越の東照宮は元和3年(1617)、徳川家康の遺骸を久能山から日光に移送する途中、喜多院に4日間とう留して家康公の政策ブレーンであった天海僧正が大法要を営みました。そのことにより寛永10年(1633)に喜多院の境内に東照宮が創建されたのです。

そんな川越の仙波東照宮の佇まいは日光や久能山に比較するとかなり地味な装いで私を迎えてくれました。参道入り口からは東照宮の社殿を見ることができませんが、一直線にのびる参道の向こうに朱で塗られた門が置かれています。これが随身門と呼ばれる門です。

随身門

これまで詣でた東照宮の中ではかなり地味な色合いと華美にならない簡素な門といった印象です。かつては門の左右にはそれぞれ随身が置かれていたようですが、今はその姿を見ることができません。どこへ行ってしまったのでしょう?

参道と鳥居
鳥居に刻まれた文字

夏の陽射しを背中に受けながら随身門をくぐると前方に石造りの鳥居が建っています。三大東照宮にしてはその鳥居の規模も地味なのですが、長い歴史を刻んでいるような佇まいを見せています。鳥居には「寛永15年9月17日」の文字が刻まれています。かつては「東照大権現」の扁額も掲げられていたと思いますが、現在はその扁額すらありません。どうしてどうしょうか?この鳥居は寛永の大火の後、三大将軍家光公の命により東照宮の再建に当たった当時の川越城主であった堀田正盛が奉納したものです。

鳥居をくぐるとその向こうにはこんもりとした東照宮の杜が見えてきます。先ほどの随身門から鳥居を一直線に結んだ先に東照宮ご社殿へと通じる長い石段が見えます。

社殿へつづく石段

周囲の木々の緑に覆われた石段をのぼって行く瞬間は、いずこの東照宮参拝でも気持ちが引き締まる思いです。石段をのぼりきると大きな葵のご紋が掲げられた鉄扉が迎えてくれます。この葵のご紋に迎えられる気持ちは家康公好きの私にとっては何にもまして代えがたいものです。

社殿入口の門の葵の御紋

いよいよ東照宮社殿が居並ぶ神域へと入ってきます。ご社殿はまず拝幣殿、そしてその背後に平唐門とそれに付随する瑞垣、その瑞垣に囲まれた本殿の順で配置されています。全体的な雰囲気としては愛知県の鳳来山東照宮や同じく瀧山東照宮の佇まいに似ているような気がします。

拝幣殿
拝幣殿

現在見る東照宮の各殿の建物は寛永の大火後の再建の際に、江戸城内にあった空宮を解体しここに移築、再建したもので拝殿の向背部分の装飾は非常に地味で極彩色の彩りはありません。

拝幣殿の向背部分

拝殿の後方の唐門と本殿には近づくことができませんが、唐門とそれに付随する透塀、更にはその背後の本殿の姿はさすが三大東照宮の一つと言われる風格を感じさせてくれます。遠目でしかわかりませんが、本殿はきっと極彩色の彩りと見事な彫刻群で飾り立てられているのではないでしょうか?

唐門と本社殿

拝殿が置かれている敷地の左右にはたくさんの石灯籠がたっています。これらの石灯籠は歴代の川越城主が寄進したもので全部で26基並んでいます。

石燈籠群

特に歴史上の人物として名高い松平信綱(知恵伊豆として有名)をはじめ、歴代の川越城主であった松平輝綱、松平信輝、柳沢吉保、秋元喬房、秋元涼朝、松平直恒、松平斉典が奉納寄進した灯篭は拝殿後方の唐門手前にずらりと並んでいます。

唐門手前の石灯籠

尚、現存する東照宮の随身門、鳥居、拝幣殿、平唐門、瑞垣、本殿すべてが重要文化財に指定されています。

今回の仙波東照宮参拝をもって名だたる東照宮詣でがほぼ終了いたしました。これまで辿った東照宮詣でをリンクしましたので是非ご覧ください。

住所:埼玉県川越市小仙波町1-21-1
電話:049-224-3431
拝観時間:9時~16時
拝観料なし
通常は拝殿手前までは入場できます。

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真夏の小江戸・川越の歴史散策(其の壱)~天台宗別格本山・中院~

2012年07月27日 09時38分26秒 | 地方の歴史散策・埼玉小江戸川越
本格的な夏の到来で連日猛暑がつづき、炎天下での取材に二の足を踏んでしまう昨今なのですが、そうも言ってられず今日は覚悟の上で川越の歴史散策を敢行した次第です。

東武東上線の川越駅を降りた途端、肌にまとわりつくような熱気に「散策に耐えられるだろうか」という不安が頭によぎります。午前中にもかかわらず気温はもう30度を軽く超え、さすが関東内陸の猛暑地帯を実感。こんな環境ですべてを徒歩で巡ることはあまりにも無謀。それではと川越市内の見どころを効率よく巡ってくれるバスサービスを利用することにしました。

今回選択したバスサービスは「小江戸巡回バス」。レトロ感が漂うボンネットバスで知られるイーグルバスという会社が運行しています。小江戸巡回バスは区間ごとに乗車賃を支払いながら利用することができるのですが、お得な「1日フリー乗車券」を500円で購入すれば、何度でも乗り降りができるものです。1区間ごとの料金は170円ですから3回以上の乗り降りを予定している向きにはこの「1日フリー乗車券」が断然お得です。

川越駅の西口の6番乗り場にボンネットバスが出発を待っています。最初の目的地を喜多院とその周辺にさだめ、いよいよ小江戸・川越の歴史散策というよりか、ボンネットバスの旅を始めることにします。

まずは喜多院や仙波東照宮からさほど離れていない場所に伽藍を構える「中院」へ向かうことにします。川越駅からボンネットバスでおよそ10数分の距離です。中院のバス停留所は川越総合高校のグランド脇を走る道に、それこそ中院の山門の真ん前に置かれています。

中院山門

中院は今から1200年前の830年頃にに慈覚大師、すなわち円仁が開基した天台宗の古刹です。その時に朝廷から賜った勅号が「星野山無量寿寺仏地院」すなわち中院なのです。しかしながらそれから110年後には天慶の乱(941)で寺運が衰え、その後の元久の乱で堂宇は灰燼に帰してしまいます。

中院が再び復興するには三百数十年の時を待たなければなりません。時は永仁4年(1296)に尊海僧正により仏地院が再建されます。その後、寺勢は盛んになり朝廷から関東天台の本山の勅許を得るまでになります。尊海僧正はその後、仏蔵院(北院=現喜多院)と多聞院(南院)を建立しています。ということはかつては3つの寺院が北から順番に中、南と並んでいた訳です。

山門はバス通りに面してどういうわけか2つ並んでいます。一つは色は若干褪せていますが朱色に塗られた門で、門柱に400年前に建立されたものであることが記された木札が貼ってあります。400年前といえば江戸時代の初期のころにあたるのですが、それ以上の詳しい記述がないのでこの朱色の門がここに置かれている由来がわかりません。

中院赤門

この朱色の門から左へわずか進んだところに中院の正門である「山門」が構えています。門の前には「天台宗星野山中院」の石柱が立っています。山門をくぐると境内に広がる手入れされた庭が現れます。綺麗に剪定された植え込みの緑がが夏の陽射しに映えて輝いています。

中院山門

ご本堂は境内の一番奥にどっしりとした姿で構えています。美しい庭と適度に配置された木々の緑が静かに佇むご本堂にアクセントを加えています。

境内から見る赤門と山門
中院庭園
ご本堂
ご本堂

境内の庭園の一角に「不染亭(ふせんてい)と書かれた額が掲げられた建物が置かれています。実は中院は島崎藤村と浅からぬ関係があり、この建物は藤村ゆかりの「茶室」だそうです。境内の墓地には藤村の義母である加藤みきの墓があります。。「不染亭」の前には、藤村の書による「不染之碑」が立っています。

不染之碑と不染亭
不染之碑

さらに境内を奥へ進むと木々の緑に覆われた場所にもう一つのお堂が建っています。釈迦堂と呼ばれている建物で比叡山延暦寺の西塔にある釈迦堂を模して建立されたものです。

釈迦堂

釈迦堂の傍らに置かれているのが「狭山茶発祥の地」の記念碑です。中院を開山した慈覚大師(円仁)は京都からお茶の実を持参し、この場所で茶の栽培を始め、このことで後世にお茶の栽培が普及し、埼玉県の代表茶である「狭山茶」が誕生したと言われています。

狭山茶発祥の地碑

こんな歴史に彩られた中院を辞して、次に神君家康公を祀る仙波東照宮へと向かうことにします。その途中の路傍に寂しく佇んでいるのがかつて南院があった場所に置かれた石塔婆の姿です。

南院跡の石塔婆群

前述のように無量寿寺には北院、中院、南院があり、永禄年間(1558~1570)頃までは3院が存在していました。ところが江戸時代はじめに川越大火があり多くの寺院が焼失し、かつて中院のあった場所には仙波東照宮が建てられた為、中院は200m南に移動し、一方南院は明治の初めに廃院となり、その場所には現在数十基の石塔婆がかつての栄華を偲ぶように置かれています。

住所:埼玉県川越市小仙波町5-15-1
電話:049-222-2170
アクセス:【電車】西武新宿線「本川越駅」より徒歩20分/【バス】川越駅西口、小江戸巡回バスで喜多院先回りコース「中院」下車
拝観:拝観料なし

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杉並梅里の「真盛寺」は三井越後屋の菩提寺~堂宇に漂う豪商三井の威厳と香り~

2012年07月24日 18時02分24秒 | 杉並区・歴史散策
伊勢松阪の商人で現三越の前身である越後屋の三井高利がお江戸日本橋に江戸店を構えたのが江戸時代の延宝元年(1673)のことです。江戸に進出した越後屋は当寺とすれば斬新な現金掛値無し、反物の切り売りなどの新商法導入して繁盛し、豪商の名を独り占めにしたのです。



そんな三井越後屋の菩提寺が杉並の梅里に堂宇を構えています。その寺名は天台真盛宗の「真盛寺」です。環状7号に面して長い参道を持ち、その参道の遥か奥に立派な山門を構えています。

山門

開基は江戸の初期の寛永8年(1631)に現在の文京区湯島に堂宇構えましたが、その後谷中、本所と移転し現在地に移ったのは大正11年(1922)のことです。

参道の長さとそれに連なる長い塀を見るだけで当寺の格式と威厳を感じざるを得ません。緑濃い参道を進むうちに都内でこれほどの立派な参道を持つ寺がいくつあるだろうかと思案していると、目の前に立派な山門が現れます。その山門の脇に「檀家以外の参拝はご遠慮ください」の立札が置かれていました。

境内へとつづく参道

そんな立札を横目に、山門からさらにつづく参道を眺めつつどうしても境内に入ってみたい誘惑にかられ、禁を破って境内を拝見させていただきました。境内へとつづく参道は大きく湾曲しているため、境内の全貌をすぐには掴めません。境内に進んで行くと参道の幅が急に広くなり、広々とした境内の奥にご本堂がどっしりとした姿で構えています。この本堂は安永五年(1776)に本所から移築したものだそうです。

ご本堂

そして本堂から左へ目を移すと大名屋敷の表玄関を思わせるような建物が連なります。この建物は客殿と呼ばれているもので明治26年に旧細川侯爵邸として建てられた伝統的な書院造りの建物を移築したものです。

客殿

さらにこの中玄関書院の左手には奇妙な格好をした建物があります。美しい白壁の一階部分と屋根の上に飛び出したようにつけられた二階部分が和洋折衷様式の建物のような雰囲気を醸し出しています。この建物は庫裏と呼ばれ、これも旧細川邸から移築されたものです。これらの歴史的建造物が手入れされた広い境内の庭を囲むように配置されています。

庫裏

その庭の傍らの木々に覆われた場所に鐘楼堂が一つ佇んでいます。

鐘楼堂

深閑とした空気が漂う境内には誰一人訪れるものもなく、都心の寺院では当然のように高層ビルが借景のように林立する光景に見慣れている私にとっては木々の緑と広い庭だけの光景はむしろ新鮮さを感じるものです。

本音をいうと静かな空気が漂う境内の庭でしばし寛いでみたいとおもったのですが、あまりの人影のなさに早目に辞することにしました。参道を山門へと戻る途中に小さなお堂を見つけました。あまり聞き慣れない名前のお堂なのですが、「元三大師堂」と呼ばれています。

元三大師堂

元三大師とは平安時代の天台宗の僧侶で良源(りょうげん)のことなのですが、諡号は慈恵大師(じえだいし)。一般には通称の元三大師(がんさんだいし)の名で知られ、比叡山延暦寺の中興の祖として知られている人物です。もちろん実在の人物です。

角大師

余談ですが良源は言い伝えによると鬼の姿に化けて疫病神を追い払ったと言われています。その時の姿を表したのが「角大師」と言われる2本の角を持ち、骨と皮とに痩せさらばえた鬼の絵なのです。おそらくどこかでご覧になった方がおおいのではないでしょうか。この鬼の絵は魔除けとして家々に貼る習慣があるようです。

まるで京の古刹の佇まい~お江戸上井草の宝珠山観泉寺は名家・今川氏の菩提寺~
「厄除けの御祖師さま」は浅草観世音に並ぶ西の霊験名刹~堀之内妙法寺(日蓮宗本山)~その壱
「厄除けの御祖師さま」は浅草観世音に並ぶ西の霊験名刹~堀之内妙法寺(日蓮宗本山)~その弐



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「厄除けの御祖師さま」は浅草観世音に並ぶ西の霊験名刹~堀之内妙法寺(日蓮宗本山)~その弐

2012年07月24日 10時22分58秒 | 杉並区・歴史散策
将軍御成の間を辞して再び境内へと戻ってきました。その境内には鐘楼堂が置かれています。鐘は古いものでなんと享保4年(1725)に鋳造されたものです。

鐘楼堂
梵鐘

このあと祖師堂の脇の道を進んで、さらに奥に建つ三軌堂(さんきどう)と呼ばれるご本堂へと向かいます。ここ妙法寺の特徴として山門以外のすべての伽藍が回廊で結ばれていることなのです。この三軌堂は祖師堂からも総受付と大玄関からも回廊で繋がっています。

三軌堂へつづく参道
三軌堂

さてこの三軌堂ですが、本来のご本堂です。ここには祖師堂に奉安されている「祖師御尊像」つまり「やくよけ祖師像」とは別に出開帳のために持ち出された祖師像が奉安されています。また、三軌とは如来の衣・座・室を表し、法華経を信じ説く人の三つの心構えを表しているそうです。境内の真ん中にどっしりと構える祖師堂が本堂かと思ってしまうのですが、実は祖師堂の奥に置かれたこの建物が「ご本堂」だったとは……。

三軌堂

妙法寺の境内は広くこの三軌堂の後方にも別のお堂が配置されています。三軌堂の後方へ行くためには回廊の下をくぐってさらに参道を進んでいきます。すると正面に現れるのが日朝上人の尊像が奉安されている「日朝堂」です。言い伝えによると日朝上人は眼病を患うほど一生懸命に勉学に励んだ方なのだそうです。上人の眼病はその後回復したことで、眼病を患っている多くの人を救いたいとの思いが多くの人に通じ、上人は「学問と眼病の守護」としても崇められるようになりました。現在でも学業成就と眼病平癒祈願で多くの人が訪れています。

日朝堂

日朝堂に向かって右手の回廊をくぐると木々に覆われた場所に小さなお堂が現れます。お堂の名前は「二十三夜堂」と名付けられています。二十三夜とは古から伝わる「月待信仰」に根ざすもので十三、十五、十七、十九、二十三、二十六などの月齢の夜に人々が集まり、月の出を待って供物を供え、観音経を唱え、安心立名、無事息災を祈るという、勤行や飲食を共にする風習なのです。

二十三夜堂

ここ妙法寺では私が訪れたのが23日ということもあって「二十三夜堂」が開かれ、多くの老若男女が祈願に訪れていました。あとから気が付いたのですが23日のこの日は月待にあたる縁日が門前で開かれていました。古くからの風習が現代まで続いている日本人の伝統意識の深さを感じた次第です。

祖師堂

ここ堀之内には大伽藍を構える妙法寺の他にあまた寺院が集中しています。それぞれの寺院にはそれぞれの由緒ある縁起が伝わり、著名な家柄の菩提寺であったりと歴史好きにはたいへん興味深い地域だと思います。都心からほんの少し離れた杉並の地には隠れた名刹・古刹がひしめきあっています。

まるで京の古刹の佇まい~お江戸上井草の宝珠山観泉寺は名家・今川氏の菩提寺~
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「厄除けの御祖師さま」は浅草観世音に並ぶ西の霊験名刹~堀之内妙法寺(日蓮宗本山)~その壱



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「厄除けの御祖師さま」は浅草観世音に並ぶ西の霊験名刹~堀之内妙法寺(日蓮宗本山)~その壱

2012年07月23日 23時22分44秒 | 杉並区・歴史散策
先日に引き続いて中央線沿線若しくは地下鉄丸ノ内線を利用して東京都心から少し西へいった杉並界隈の名刹・古刹巡りの旅を楽しんでいます。

山門

さて、今日のお題は日蓮宗の本山として名高い杉並・堀之内の妙法寺なのですが、これまで日蓮聖人と深くかかわりのある名刹といえば中山法華経寺そして池上本門寺と訪ね歩いてきました。聖人様とのかかわりの強さからいえば、法華経寺と本門寺さんは聖人ご本人様が直接その足跡を残している場所に堂宇を構えていることで別格なのですが、ここ堀之内妙法寺さんは聖人様の「祖師像」が安置され、その祖師像が厄除けにたいへんご利益があることで多くの人々から信仰の対象になっているようです。そのため江戸時代には「参詣群衆すること浅草の観世音に並べり」と記されているほど多くの参詣客で賑わっていたそうです。

当山妙法寺の開基は今から三百数十年前の江戸時代の元和の頃といいますからちょうど第二代将軍秀忠公の御世です。それ以前、当寺は現在の日蓮宗ではなく真言宗の尼寺で開基は日圓法尼という尼さんです。そして元和年間(1615年 - 1624年)の日逕上人の頃、日圓法尼の菩提のため、日蓮宗に改宗し老母を開山とし、日逕上人自らは開基第二祖となられたという縁起が残されています。山号は開山日圓上人にちなみ日圓山と称し、妙法寺を寺号したのです。

そんな妙法寺は地下鉄丸ノ内線の新高円寺駅から南に15分ほど歩いた住宅街の中に広い境内と見事な堂宇をもって堂々とした伽藍を見せています。

山門
右仁王像
左仁王像

その顔となるのが当寺の山門である「仁王門」です。みるからに名刹の顔といった風格を醸し出している門で東京都の有形文化財に指定されています。門の創建は古く、4代将軍家綱公の御世の天明7年(1787)の頃。そして門の左右には家綱公が寄進したとされる金剛力士像(仁王様)が安置されています。

鉄門

この山門をくぐり右手へ進むと寺院らしからぬデザインの門が現れます。といっても門の前に埒が置かれ、鉄扉が開けられているので全体像としての美しさが若干損なわれているかな、といった感じなのですが、これが有名な「鉄門」です。なんと国の重要文化財に指定されているものなのです。

扉の上の鳳凰

実はこの門はあの有名な英国人建築家のジョサイア・コンドルが設計したもので、彼が得意とする和洋折衷様式を用いたかなり斬新なデザインなのです。扉の一番上には極彩色の鳳凰が翼を広げ、左右の門柱の上には日蓮聖人と思われる像が置かれています。この鉄門の向こうに見えるのがご本堂の玄関口である「大玄関」です。この大玄関はめったに使われることがなく、特別な行事があるとき以外はこの鉄門をくぐることもできません。

祖師堂

鉄門をあとに境内の中心へと移動すると、目の前に堂々とした姿で構えるのが当妙法寺のシンボルでもある「祖師堂」です。このお堂のなかの御簾の奥にご本尊の「祖師御尊像」つまり「やくよけ祖師像」が奉安されています。この祖師像は多くの信者からは親しみのある「おそっさま」という名前で呼ばれています。ご本堂の中に靴を脱いで入ることができます。正面の金襴の布で隠された御簾をはじめ、目を上に移すと金箔の天井とまさに絢爛豪華な世界が広がっています。

常夜灯と祖師堂
祖師堂

お祈りを済ませた後、実は当寺で最も拝見したいものを思い出し、お坊さまにそれを見ることができるかを尋ねてみました。「それ」とは江戸時代に将軍が鷹狩の際に当寺に立ち寄り、休憩の場として使われたお部屋で「御成の間」のことなのです。お坊さまに総受付で見学を申し込むように言われ、胸のなかで「やった!」と叫び、そそくさと総受付へ向かうことにしました。

祖師堂からいったん離れ、再び鉄門前をとおり「総受付」の玄関へ進みます。一瞬入りずらそうな雰囲気を漂わす玄関なのですが、思い切って中に入り、「御成の間」の見学が可能かどうかを訪ねると、快く「ご案内します」と言われ、長い廊下をお坊様に先導されながら進んで行くと、時代劇で登場するような見事な「書院造りの間」が現れました。

写真撮影が許されないので、妙法寺さんのHPの中の画像をご覧になってください。
http://www.yakuyoke.or.jp/place/index.html#a3

お坊様が電気のスイッチを入れると証明に照らされて御成の間が鮮やかに浮かび上がります。上段の間と下段の間の境の黒塗りの部分は鏡のような漆が塗られ高貴さを漂わせています。さらに部屋の天井全体にはたくさんの「雁」が飛び交う絵が描かれ幽玄な世界を造りだしています。またお部屋の周囲の障壁画や床の間の絵はかなり色が褪せてしまっているのですが、わずかながらその絵の輪郭を読み取ることができます。これらの絵は狩野幽玄常信の筆によるものでたいへん貴重なものです。

このお部屋をお使いになった将軍は第11代将軍家斉公が文化14年(1817)四月と文政2年(1819)の2回と第12代将軍家慶公が天保10年(1839)と弘化3年(1846)の2回、更には御三卿の一ッ橋家、田安家の御膳所としても使われました。そして将軍になる前の慶喜公も嘉永2年(1849)に訪れ、ここで太神楽を上覧しています。
尚、この書院造の「御成の間」も東京都の有形文化財に指定されているものです。

さらにこの御成の間の隣のお部屋にも案内をしてくれたのですが、ここには日露戦争後、日本帝国海軍の四提督が揃ってここ妙法寺を訪れて慰霊の式典を催したときの絵が展示されていました。

妙法寺の見どころはまだまだたくさんあります。このつづきは(其の弐)をご覧ください。

まるで京の古刹の佇まい~お江戸上井草の宝珠山観泉寺は名家・今川氏の菩提寺~
杉並梅里の「真盛寺」は三井越後屋の菩提寺~堂宇に漂う豪商三井の威厳と香り~
「厄除けの御祖師さま」は浅草観世音に並ぶ西の霊験名刹~堀之内妙法寺(日蓮宗本山)~その弐



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中野・上高田の萬昌院功運寺は多くの歴史人物が眠る寺

2012年07月18日 11時49分05秒 | 中野区・歴史散策
板倉重昌殿が眠る「宝泉寺」の隣に山門を構えるのが中野の名刹「萬昌院功運寺」です。通りから少し奥まった位置に見事な山門が構え、名刹らしい威厳と風格を醸し出しています。



境内に幼稚園が併設されているためか、境内への参拝や見学に際しては安全上の措置として山門脇で記帳を要求されます。その山門に至る途中に当寺に眠る歴史人物の名前が立札に列記されています。名だたる人物ばかりで当寺の権威を感じさせてくれます。



吉良上野介義央
水野重郎左衛門(旗本奴・白柄組盟主)
今川(一月)長得(義元ノ子)
長沼国郷綱郷(直心影流開祖)
歌川豊国(浮世絵師、初代、二代、三代)
栗崎道有(南蛮外科医)=吉良上野介の首と胴体を縫合した医者
林芙美子(女流作家)

萬昌院功運寺山門

さてここ功運寺は曹洞宗の寺で、開基は天正2年(1574)に遡ります。寺名は萬昌院功運寺となっていますが、昭和23年までは久寶山萬昌院と竜谷功運寺という、べつべつの寺名を持つ寺でした。久寶山萬昌院は戦国大名の今川家を開基とし、もともとはお江戸府内の半蔵門の近くに山門を構えていたのですが、その後、幾度かの移転を経て大正3年(1914)、牛込より中野に移ってきました。

一方、竜谷功運寺は慶長三年(1598)に、永井尚政が父尚勝・祖父重元のため、黙室芳�泙禅師をまねいて桜田門外に開いた寺です。尚勝・尚政の親子は、徳川家康につかえて活躍した大名です。功運寺がいくどか移転をし、三田からいまの場所に移ったのは、大正11年(1922)のことです。

山門をくぐると左手に鐘楼堂、そして山門から直線上にどっしりとしたご本堂が構えています。ご本堂はそれほど古さを感じませんが、禅宗のお寺らしい裳階を持っています。

ご本堂

ご本堂と客殿の間の道を進んで行くと、ちょうどご本殿の裏手に広い墓地が現れます。墓地への入口に丁寧な案内板が掲げられ、上記の歴史人物の墓の位置を図で示してくれています。当然のことながらこれらの人物たちの墓が一か所にまとまっているわけではないので、結果的に墓地全体を歩き回ることになります。

とはいえこれだけの人物と巡り合える機会はめったにありません。炎天下の暑さをおしてゆっくりと巡ることにしました。

まずは赤穂浪士討ち入りで名高いあの吉良上野介義央(吉良家17代)と祖父義弥(15代)、曾祖父義定(14代)、父義冬(16代)が眠る墓地へと向かいました。案内図に従って進んで行くと、墓への通路入口に標が建てられており、迷わずに行き着くことができます。

吉良家墓地

何故、吉良家の墓が?と素朴な疑問が湧いてくるのですが、実は寛永2年(1625)吉良義定(14代)の夫人を萬昌院に葬ってから吉良家との関係が生まれました。その関係で上野介の墓も置かれたのです。墓地の中では比較的広いスペースを確保された吉良家の墓域で、他の墓を圧倒するような大きな宝篋印塔が4基置かれています。義央の墓石面には「元禄十五年壬午十二月十五日」と刻まれているのを見ると、「時は元禄15年、師走の15日」の名句が頭によぎってきます。また墓域には「吉良家忠臣供養塔」と「吉良邸討死忠臣墓誌」が建てられています。右端が上野介の墓です。

吉良家墓地
吉良家墓地

ちなみに首をあげられた上野介の遺体は泉岳寺より変換された首を胴体とつなぎ合わせ、ねんごろに埋葬されたといいます。その首と胴体をつなぎ合わせたのが、当時の蘭学医である栗崎道有という医者でした。この栗崎道有の墓も当寺の墓地に置かれています。

ふと思うのは毎年師走の15日は泉岳寺及び本所吉良邸跡では「義士祭」が行われているのですが、ここでは何か催しが行われるのか調べてみたいものです。

さて日本の歴史上、数多い名家の中でも一二を争う家系である今川家代々の墓が当寺にあるのです。今川家の墓はお江戸には杉並区今川の宝珠山観泉寺(曹洞宗)と杉並区和田の萬昌山長延寺(曹洞宗)と点在しています。(近日中に観泉寺と長延寺に取材予定です。)ここ中野の萬昌山の開基が今川長得であったことから菩提寺になったものと思われます。

今川家墓地

長得は戦国大名今川義元の三男で、長得の兄今川氏真もはじめは萬昌院に葬られました。また、吉良家は今川家と先祖を同じくする一族で、江戸時代初期には吉良と今川は極めて近い姻戚関係にあったようです。お江戸の中野で戦国大名の流れをくむ今川家の墓を拝見できたことに感慨ひとしおの気分です。長得の墓は墓域の一番奥の五輪塔です。

今川家墓地

そしてこんな人の墓も!日本の侠客の元祖ともいえるあの幡随院長兵衛(ばんずいんちょうべい)を殺害した、旗本奴・水野重郎左衛門こと水野 成之(みずの なりゆき)が眠っています。まあ、お江戸の町の不良旗本の代表格である水野重郎左衛門は公道を闊歩し、連日暴行の限りを尽くしていた人物です。

水野重郎左衛門之墓

こんな行状から町奴の代表格である幡随院長兵衛と対立し、その結果長兵衛を殺してしまうのです。時は明暦3年7月18日の頃のお噺です。この事件では水野重郎左衛門はお咎めなしだったのですが、同月の28日に評定所に召喚されたところ、月代を剃らず着流しの伊達姿で出頭し、あまりにも不敬なので即日に切腹となってしまいました。享年35です。35にもなってアホやな! それでも歴史上の人物として墓の前には「水野重郎左衛門之墓」ときちんと標があること自体、死んでも名を残すあっぱれな奴です。

このほか、浮世絵師であった歌川豊国(初代から三代)の墓や、『放浪記』『浮雲』などの名作を残した「林芙美子」の墓が点在しています。

歌川豊国初代から三代の墓
林芙美子の墓

お江戸の語り部として思うことは萬昌院功運寺の墓詣でだけで、お江戸の歴史散策を演出できそうです。でもお墓の中で2時間の歴史散策はドン引きかも!

家康公の近習「板倉重昌」が眠る中野の名刹・宝泉寺
中野・願正寺には日米修好通商条約批准交換使節の正使「新見豊前守正興」が眠っていました
仏が守る早稲田通りはお寺の散歩道~新井白石が眠る高徳寺~





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家康公の近習「板倉重昌」が眠る中野の名刹・宝泉寺

2012年07月18日 00時03分06秒 | 中野区・歴史散策
なんでこんなにお寺が多いのだろう? と思うほど次から次へと歴史を感じる名刹・古刹が目の前に現れてくるのが中野区の上高田周辺である。高台にある願正寺からなだらかな坂を下ると、門前に阿吽の二像が安置されている仁王門を構える古刹・宝泉寺がふいに現れます。

宝泉寺山門
仁王門



仁王門の向こうに客殿とご本堂が並んでいます。

客殿とご本堂

仁王門に近づくとその傍らになにやら案内板が置かれています。「どれどれ」と読み進むと当寺にはなんと神君家康公の近習を務めた「板倉重昌」の墓があるという。そもそも板倉重昌とはいかなる人物か? というと、ほんの少し父親である板倉勝重について語らなければなりません。
※近習(きんじゅう):主君の側近にあって 奉仕する役のことをいうのですが、これに似たもので「小姓」があります。小姓は主君の身の回りの世話係、一方、近習は主君の身の警護係りと判断した方がいいでしょう。

父・勝重は戦国時代から江戸時代初期に活躍した人物で、実は幼いころから仏門に入り、武家とは無縁な立場にあったのですが、勝重36歳のとき、板倉家を継ぐものがいなくなり、家康公の命により還俗して跡を継ぎ再び武家の世界へ戻ったという変わり者なのです。41歳で駿府町奉行、45歳の時、家康公の江戸初入府(1590)とともに江戸町奉行と、とんとん拍子に出世街道を驀進しています。

その後、関ヶ原の戦いで家康公が天下をほぼ手中に収めると、勝重は京都所司代まで上り詰めます。そして1620年まで所司代を務めるのですが、その間に大阪の陣の原因ともなった方広寺鐘銘問題では金地院崇伝らと共に裏でことを進め、徳川方に有利になるよう策を弄しています。

そんな人物であった勝重の三男が今回のお題である「板倉重昌殿」なのです。重昌が家康公の近習となったのが家康公が征夷大将軍に宣下された年、すなわち1603年の頃です。そして大阪冬の陣では和議交渉の軍師として、大阪城に赴き秀頼公より誓紙を受け取っています。

1624年に父・勝重が亡くなると、父の遺領を分け与えられ、三河深溝1万9千石の領主、すなわち大名に列せられるのです。まあ、ここまでは順風満帆といった風で、それなりに出世街道を歩いてきたかのように思われるのですが、彼の人生を大きく変える事件が起こるのです。

それは1637年に起こった島原の乱です。三代将軍家光公の命で追討使に任ぜられ、一機盛んに出陣するも思うように戦果が上がりません。上がらぬどころか一揆勢の激しい抵抗で徳川軍は数百人の死者をだす大敗北を喫してしまいます。

そして焦りは状況をさらに悪化させていくのですが、その焦りは無計画な総攻撃をしかけたことで徳川軍は再び大敗北を喫してしまいます。そんな状況を見ていた重昌は自ら陣頭に立ち指揮をするのですが、敵方の銃弾を受け無念の戦死を遂げてしまいます。

重昌の墓は三河西尾の長円寺にもあるそうです。西尾の墓は見る限りでは非常に簡素なのですが、ここ宝泉寺のものは立派な五輪塔形式で、彼につき従うように夫人たちの墓が3基並んでいます。

重昌殿の五輪塔

中野の寺巡りでは思いがけない歴史人物にたびたび巡り会える機会を得たことに感動しています。次はいったい誰に会えるのか楽しみです。

中野・願正寺には日米修好通商条約批准交換使節の正使「新見豊前守正興」が眠っていました
仏が守る早稲田通りはお寺の散歩道~新井白石が眠る高徳寺~





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