大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

悲しきかな彰義隊が眠る下谷の円通寺

2011年10月17日 17時26分20秒 | 荒川区・歴史散策
徳川幕府が終焉を迎える慶応4年(1868)、その年の1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いで幕府軍はあえなく敗れてしまいます。敗軍の将となり、賊軍の汚名まできせられた最後の将軍、慶喜公は密かに大阪から江戸へ逃げ帰り、そのまま恭順の意を表すために上野寛永寺大慈院へと身を潜めます。

そしてこの年の3月13、14の両日に渡って江戸総攻撃を回避するために行われたあの歴史的な西郷と勝の会談を経て、4月11日に江戸城無血開城が決定されたのです。この記念すべき4月11日のまだ夜が明けない午前3時に慶喜公は寛永寺大慈院を出て、ご自分の故郷である水戸へと落ちていったのです。

将軍なき江戸に残されて徹底抗戦を掲げる旧幕臣、家臣、旗本たちが結成した「彰義隊」は徳川家の菩提寺である上野寛永寺に集結し、新政府軍との市街戦を繰り広げることになるのです。

江戸城無血開城の日から1ヶ月余りすぎた5月15日の午前7時、いよいよ新政府軍と旧幕府軍の戦闘が上野の山を舞台に繰り広げられます。新政府軍の兵力は1万人、かたや旧幕府軍の開戦時の兵力はわずか1000人(最終的には4000人)とその差は歴然としています。そして圧倒的な違いは新政府軍が装備した兵器の威力です。当時最強とされた武器「アームストロング砲」を擁する新政府軍は始終優勢に戦いを進め、その日の夕方5時には戦闘は終結し、彰義隊はほぼ全滅してしまったのです。

この戦いで新政府軍側の死者は100人、かたや旧幕府軍側は266人を数えるのですが、敗走した彰義隊の生き残りは戊辰戦争が終結する過程で行われた関東、北陸、東北の各地で転戦を余儀なくされたのです。

戦闘が終わった後、上野の山には「賊軍」がゆえに彰義隊の方々の遺体は葬むられることなく散乱し、放置されたままであったと伝えられています。目を覆いたくなるような惨状に、なんとか供養しなければと立ち上がった僧侶がいたのです。その僧侶こそ下谷の円通寺の二十三世「大禅佛磨大和尚」だったのです。

新政府軍の官許を得ずに供養を行ったことで、一時は新政府軍に拘束されてしまうのですが、最終的に円通寺に埋葬供養を許すという官許をいただくことができたのです。これにより明治時代には円通寺は賊軍の法要をおおっぴらにできる唯一の寺として、旧幕臣の方々の信仰を集めることとなったのです。

円通寺山門

そんな円通寺は地下鉄三ノ輪駅からJRの陸橋をくぐり、日光街道をほんの少し進んだ左側に山門を構えています。当寺の創建は古く、延暦10年(791)年に遡ります。江戸時代には「下谷の三寺」と呼ばれ、下谷・廣徳寺、入谷・鬼子母神と共に江戸庶民の信仰の場所として知られていました。

円通寺の境内で最も目立つのが、やはり彰義隊士の墓なのですが、山門から眺めると隊士の墓の手前に黒色の柵のようなものが置かれています。これが有名な上野の山に建っていた寛永寺の総門(黒門)です。近づいてみると当時の激戦の名残でしょうか、無数の弾痕がまるで蜂の巣のように残っています。これだけの数の銃弾が浴びせられたのであれば、彰義隊の方々はひとたまりもないでしょう。この門を死守しようとして戦った彰義隊の方々の怒声が聞こえてくるようです。

黒門
門に残る弾痕
黒門

この黒門に守られるように背後に置かれているのが彰義隊の方々の墓域です。個人名の墓碑も散見されるのですが、266体の遺骸を荼毘にふして埋葬した五輪塔タイプの墓が墓域の奥に置かれています。

彰義隊の墓
彰義隊の墓域

更には彰義隊士ではないのですが、彰義隊の遺骸の収容を手伝い、慶喜公とは浅からぬ縁のある「新門辰五郎碑」も墓域の中に建てられています。

新門辰五郎碑

そして当寺の境内には彰義隊の墓の他に、平安時代後期の武将である八幡太郎義家が奥羽征伐して賊首四十八をこの場所に埋め四十八塚を築いた「塚」が残っています。このことからこの辺りのことを「刑場」として知られている呼び名である「小塚原」となっているのです。

四十八塚
鷹見の松

この塚のすぐ脇に植えられている枯れかけたような松の木が一本立っています。実はこの松は「鷹見の松」と呼ばれているのですが、その名の由来は寛永2年(1625)に三代将軍家光公が鷹狩を行った際に、円通寺の境内の松に鷹がとまったことから名付けられたそうです。なにやらとってつけたようなお話ですが…。





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吉原の遊女が眠る浄閑寺~生きては苦界、死しては浄閑寺~

2011年10月15日 19時09分19秒 | 荒川区・歴史散策
かつて桃源郷と呼ばれた吉原遊里からさほど離れていない場所に、吉原遊女と深く関わりのある一つの寺があります。

吉原の入口にある「見返柳」の脇を走る日本堤(土手八町)を三ノ輪方面へ進んでいきましょう。かつて吉原への道として多くの遊客が通った日本堤が行きどまる場所に山門を構えるのが、通称三ノ輪の「投げ込み寺」と呼ばれている浄閑寺です。開基は古く江戸の明暦元年(1655)ですから、新吉原誕生の2年前のことです。創建当時から投げ込み寺と呼ばれていたわけではなく、安政の大地震の時に多くの吉原遊女が投げ込まれたことがその由来となっています。

浄閑寺山門

投げ込み寺とは一般的には宿場町の飯盛女や遊女が無縁仏として埋葬された寺のことを指すのです。もっと残酷な言い方をすれば、身寄りのない遊女たちが亡くなると人目につかないように密かに寺へと運ばれ、寺男が掘った墓穴に投げ込まれ、回向供養を一切行わないことを意味しています。一応過去帖には記されていたようですが、これも「○○売女」「○○遊女」といったもので、死んでまでも売女、遊女呼ばわりされていたのです。

そんな扱いをされながらも、江戸一番の遊里であった吉原で働く遊女たちが来世での平穏な生活を約束された場所、「浄閑寺」に二万五千人もの遊女が葬られています。

山門脇に顔が磨り減った黒ずんだお地蔵様が置かれています。お地蔵様の名は小夜衣(さよぎぬ)と言います。そしてこの小夜衣さんは吉原の遊女で、遊郭の主人に放火の罪をかぶせられ 火炙りにされ亡くなったと伝わっています。山門に入るときから、かなり気持ちが暗くなるお寺なのです。

小夜衣地蔵

山門を抜けると前方に本堂がど~んと構えています。本堂の手前左手に廟域へと通じる門があります。その門をくぐるとすぐ右手に置かれている墓があるのですが、これもまた吉原の遊女の墓です。

浄閑寺本堂
若紫の墓

通常、遊女の墓が単独で置かれることは珍しいのですが、これには訳があるのです。この墓の主は明治時代に吉原の有名な妓楼「角海老楼」の「若紫」という遊妓だったのです。この若紫は5年間の年季明けをあと5日後に控え、年季明けには晴れて所帯を持つことを約束していた男性がいたのでした。しかし彼女には5日後はやってこなかったのです。というのも、偶然登楼した客の凶刃に倒れてしまったのです。若紫に惚れていた客だったのか、トバッチリか理由は判らないのですが、幸せが手の届く所に来ていたのに、その夢もはかなく消えてしまったのです。

22歳という若さで亡くなってしまった若紫を哀れと思い、角海老楼が法名「紫雲清蓮真女」を号し手厚く葬むり単独の墓を建てることにしたのです。墓石の上部には角海老の文字がくっきりと残っています。

角海老の文字

墓域を進み、ご本堂の裏手に回るとすぐに目に飛び込んでくるのが立派な石積みの塔です。これが新吉原総霊塔です。この塔は遊女たちの霊を慰めるために建てられたもので、基壇の中には骨壷が積み重なり異様な雰囲気を漂わせています。霊感の強い方はかなり感じる場所ではないでしょうか。その基壇には「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と刻まれた石版が埋め込まれています。

新吉原総霊塔
石版

霊感がそれほど強くない私でも、ここ浄閑寺が醸し出す雰囲気はどうも好きになれません。山門に立った時から、気のせいなのかもしれませんが何やらよどんだような空気を感じてしまいます。

江戸っ子たちの桃源郷「長編・吉原今昔物語」





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日ぐらしの里の名刹(日暮里)~雪見の寺・浄光寺に残る元禄の地藏様(江戸六地蔵)~

2011年07月05日 08時25分23秒 | 荒川区・歴史散策
静かな雰囲気を漂わす住宅街がつづく日ぐらしの里を奥へ奥へと進むと前方に木々に覆われたこんもりとした森が現れてきます。うっそうとした木々に覆われ、夏の高い陽射しも透さない森の中には諏訪神社が鎮座しています。

諏訪神社の鳥居と鎮守の杜

この諏訪神社の鳥居が立つ右手に今日のお題「浄光寺」の山門が構えています。神社とお寺が隣り合わせに並立している例は日本中のいたるところで見る事ができます。この浄光寺も江戸時代には前述の諏訪神社の別当寺だったのです。
※別当寺(べっとうじ)とは、神仏習合が許されていた江戸時代以前に、神社に付属して置かれた寺のこと。神前読経など神社の祭祀を仏式で行う者を別当(社僧ともいう)と呼んだことから、別当の居る寺を別当寺と言った。

浄光寺山門

さて浄光寺の山門脇に「六地蔵三番目」の石標がぽつんと立っています。おやっ!ここにも六地蔵が?
すでに当ブログの中で江戸六地蔵についてはご紹介をしているのですが、浄光寺の地藏様は含まれていません。というのもお江戸の六地蔵は元禄時代(五代将軍綱吉公が治めた時代で1688~1704)にできたものと、宝永時代(同じく綱吉公の時代で1704~1711)にできたものがあったんです。

「六地蔵三番目」の石標
浄光寺説明書

ここ浄光寺の六地蔵は元禄時代のもので現存する唯一のものです。そしてお江戸の中で3番目のお地藏様で高さ3メートルの銅製の立像です。流れるような袈裟を羽織ったスラリとした立ち姿。お顔立ちはどこまでも涼やかで慈愛に満ちた優しさが溢れています。伏目がちなまなざしで上から見下ろされると、妙に諭されているような気持になってきます。

江戸六地蔵

また浄光寺は荒川辺八十八ヶ所霊場第8番札所、豊島八十八ヶ所霊場第5番札所となっていることで、立像の左隣には銅造地蔵菩薩坐像が置かれています。

銅造地蔵菩薩坐像

浄光寺にはもう一つ徳川将軍家にまつわるエピソードが伝えられています。時は八代将軍吉宗公の御代。吉宗公が狩の途中に当寺に立ち寄り、座った石が残っていると伝えられています。その石は「将軍御腰掛石」と呼ばれているそうですが、今回は目にする事ができませんでした。吉宗公以来、幕末まで当寺は将軍の御膳所となったと伝えられています。(将軍腰掛石はご本堂の裏に置かれています。)

ここ浄光寺は日ぐらしの里の高台に位置しています。寺の東側は崖になって、その昔はこの高台から眺める景色は江戸の名所になっていたようです。ご存知のように吉宗公は庶民の愉しみのために飛鳥山に花見の桜を植えたといわれるほど、お江戸の名所にはかなり興味をもっていたのではないかと想像します。
そんな吉宗公であれば、季節毎に美しい草花が咲き誇る「日ぐらしの里」の噂は耳にしていたか、家臣からきいていたのではないでしょうか。特にここ諏訪台からみる冬の雪景色は江戸の中でも最も美しいものとされ、このため浄光寺は別名「雪見寺」と呼ばれる由縁なのです。

日ぐらしの里に残る上野戦争・彰義隊の夢の跡~経王寺山門に残る弾痕~
日ぐらしの里に静かに佇む古刹を訪ねて~木々の緑に赤く映える養福寺の仁王門~





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日ぐらしの里に残る上野戦争・彰義隊の夢の跡~経王寺山門に残る弾痕~

2011年07月04日 16時22分14秒 | 荒川区・歴史散策
JR日暮里駅から谷中銀座へと延びる道すがら、本行寺をすぎるとすぐ隣に現れるのが経王寺の山門です。
ともすれば通り過ぎてしまいそうな門前の佇まいですが、なにやら由緒ありそうな佇まいをみせる山門です。説明書きを読むと。慶応4年(1868)の上野戦争(彰義隊戦争)の時、敗走した彰義隊を匿ったとして、新政府軍の攻撃を受け、山門には今もその銃弾の後が見られます。(荒川区教委会)

経王寺山門
寺額
経王寺ご本堂

経王寺の立地を考えると、山門の前の道を隔てて向こう側には谷中霊園が広がり、その霊園の奥はかつての天王寺そして寛永寺の寺領が広がっていた上野の山なのです。

この年、慶応4年3月13日、14日の両日に行われた勝と西郷の会談で江戸城無血開城が決定されてから、幕府内の不満分子たちは新政府軍を迎え撃つために上野寛永寺本坊に陣取ります。
これに対し、新政府軍の主力である薩摩軍は寛永寺の南口、西方はアームストロング砲を有する肥前佐賀藩が主力となり、北方の背面(城にたとえれば搦手門)は長州藩が主力となって団子坂に結集しました。

火力に勝る新政府軍は5月15日の午前7時ころに南北そして西の三方から戦闘を開始します。東側は現在でも崖となって、その崖の下にはJRの線路が敷かれています。新政府軍が東口から攻めなかった理由、彰義隊の退却路としてあえて開けていたようです。

戦局はあっという間に新政府軍側が有利となり、夕方には彰義隊は瓦解し敗走し始めます。その敗残兵の一部が新政府軍の攻撃口とならなかった北東部に位置する経王寺に逃げ込んだのではないかと推測します。そして残党狩りの新政府軍兵士との間で、小競り合いが起こり経王寺門前で銃撃戦が行われたのでしょう。

山門に残る弾痕(1)
山門に残る弾痕(2)
山門に残る弾痕(3)

近代化された銃火器を装備する新政府軍にたちまち制圧されてしまったことは言うに及びません。そんな哀れな名残りが山門に残っています。

山門と番屋

上野戦争の主戦場となった寛永寺の伽藍はことごとく焼失し、徳川家菩提寺は討幕を掲げる朝廷方の恰好の餌食となってしまったと考えざるを得ません。徳川家の「魂」が宿る寛永寺そしてその塔中や子院がすべて現存していたとしたら、それは世界遺産としての価値をもっていたのではないかと常に考えます。新しい時代への胎動として避けて通れなかった「上野戦争」は薩長土肥をはじめとする官軍諸藩の蛮行であると考えてしまうのは、江戸っ子である私だけでしょうか?

日ぐらしの里に静かに佇む古刹を訪ねて~木々の緑に赤く映える養福寺の仁王門~
日ぐらしの里の名刹(日暮里)~雪見の寺・浄光寺に残る元禄の地藏様(江戸六地蔵)~





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日ぐらしの里に静かに佇む古刹を訪ねて~木々の緑に赤く映える養福寺の仁王門~

2011年07月01日 23時01分08秒 | 荒川区・歴史散策
詩的な響きが耳に心地よい「日ぐらしの里」は東京のどこにあるのでしょうか?
実は「ひぐらし」を漢字にすると「日暮」そして「里」を付けると「日暮里」となるのです。そう言われればうなずけるのではないでしょうか。しかし家康公が江戸に入府する以前、すなわち小田原北条氏が関八州を治めていた頃は「日暮里」ではなく「新堀」と読まれていたそうです。

江戸時代初期から中期にかけて日暮里(新堀)の丘陵地に寺院の移転が進められましたが、各寺院は競って境内の庭園を造り雪見寺(淨光寺)、花見寺(妙降寺、修正寺、青雲寺)月見寺(本行寺)と称され丘陵はさながら一大庭園のような名勝となり、いつとはなしに新堀に「日・暮・里」の字を当て「日ぐらしの里」と呼ばれるようになったというのです。

かつての「日ぐらしの里」は台東区と境を接する現在の荒川区の西日暮里界隈で山の手線の内側にあたるところです。ちょうどJR日暮里駅から谷中銀座へ向かう道筋の右側一帯と考えてください。

これまで台東区側の谷中の寺社巡りを愉しんできたのですが、ここ日ぐらしの里にも歴史に彩られた古刹・名刹がひしめきあい見どころたっぷりの隠れ里だったのです。

養福寺門柱

そんな里で最初に立ち寄った古刹が真言宗豊山派の養福寺です。いまでも静かな佇まいを見せる住宅街の中にひときわ木々の緑に覆われた境内が道路から見える当寺には、その木々の緑に鮮やかに映える赤い仁王門が参道の奥に構えています。江戸時代にはここ日ぐらしの里を訪れた多くの文人が養福寺にその足跡を残したといいます。そのためか境内にはさまざまな句碑が残されています。

仁王門

開基が元和6年(1620)といいますから二代将軍秀忠公の時代です。現在の伽藍はご本堂、鐘楼、仁王門のみですが、境内に入ると梅雨晴れの暑い陽射しがわずかな木漏れ日となるくらいに豊かな緑に覆われています。

鐘楼
ご本堂

現在の本堂、鐘楼は再建されたもので、唯一に仁王門だけが宝永年間の建立で、祀られている仁王像は胎内奉納銘札により宝永5年(1701)の造立で運慶作と言われています。仁王門は昭和63年に荒川区の指定文化財に認定されています。仁天門の表側には2体の仁王像、門の裏側に回ると広目天と多聞天の像が安置されています。

仁王像(左側)
仁王像(右側)
 

境内の木立の下に置かれた縁台に腰を掛け、木々の梢を揺らす風越しに鐘楼や仁王門を眺めながら「日ぐらしの里」のひとときを愉しみました。



日ぐらしの里に残る上野戦争・彰義隊の夢の跡~経王寺山門に残る弾痕~
日ぐらしの里の名刹(日暮里)~雪見の寺・浄光寺に残る元禄の地藏様(江戸六地蔵)~





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お江戸奥州・日光道中の宿場町「千住」の小塚原回向院に幕末の志士を偲ぶ

2010年12月01日 17時35分03秒 | 荒川区・歴史散策
荒川区三ノ輪駅からJRの線路にそって進むと、江戸時代の処刑場「小塚原」があった場所にでる。今でこ商店街や住宅地が密集する賑やかな場所になっているのですが、当時は草が生い茂り、人影もない寂しい場所だったにちがいありません。

江戸時代、ここ千住は奥州・日光道中への最初の宿場町があったところで、品川、板橋、内藤新宿と併せ江戸四宿の一つに数えられていました。当時の千住宿の中心は隅田川を渡り現在の北千住あたりであったようです。

 
 

さて今日のお題「小塚原回向院」は寛文7年(1667)に両国回向院の住職弟誉義観によって、行路病死者の埋葬そして小塚原刑場が側にあったことから刑死者の供養のため別院として創建されたもので当時は常行堂と称していました。

千住回向院はJRの線路脇にモダンな造りの姿で建っていました。刑場、刑死者という響きからつい暗いイメージがつきまとうのですが、このモダンな建物を見る限りそれほど気にもなりませんでした。山門?をくぐるとすぐ右手に「観臓記念碑」なるものが壁に埋め込まれています。



「観臓」とは小塚原刑場で刑死者を解剖したことを指すのですが、実はあの杉田玄白・前野良沢らが蘭学医学書ターヘル・アナトミアに記された解剖図を見ながら解剖を行った結果、蘭学医学書の正確さに驚き、その後「解体新書」として翻訳したことはあまりに有名なお話です。
解体新書の出版の前に、小塚原刑場で「観臓」なる行為を行っていたことを知るにつけ、いくら刑死者の解剖とは言え杉田玄白・前野良沢らの学問への探究心には心打たれる思いがあります。

この「観臓記念碑」を過ぎると、前方左側の通路沿いに「井伊大老暗殺浪士の墓」が並んでいます。万延元年(1860)3月3日、桜田門外の変で大老井伊直弼を暗殺した十五浪士(稲田重蔵・森五六郎・佐野竹之介・金子孫二郎・岡部三十郎・杉山弥一郎・森山繁之介・蓮田市五郎・大関和七郎・関鉄之助・広岡子之次郎・斎藤監物・黒沢・山口辰之助・鯉淵要人)が文久元年7月21日に小伝馬町牢屋敷で処刑後、いったん千住回向院に埋葬されましたが、その後に郷里に移されました。

井伊大老暗殺浪士の墓

そして小塚原で処刑された「腕の吉三郎」「義賊 鼠小僧次郎吉」「片岡直二郎」などの盗賊や毒婦と言われた「高橋お伝」の墓もあります。鼠小僧次郎吉の墓は両国の回向院にもありますが、両国の墓には戒名が「教覚速善居士」となっていましたが、千住の墓には「源逹信士」となっています。尚、鼠小僧次郎吉は鈴ヶ森で処刑され、後年両国の回向院に墓が建てられたのですが、ここ千住回向院にも墓が建てられた訳はいったいどうしてなのだろうか?と疑問が残るところです。

 
 
 

「腕の吉三郎」は江戸時代の侠客で、喧嘩の果てに腕を切られたのですが、ぶら下がった腕を自分で切り落としたという豪気な人だったようです。「高橋お伝」は明治時代の毒婦と呼ばれた人で、明治12年に最後の斬首刑で処刑された人です。「片岡直二郎」は徳川末期の詐欺・ゆすりの常習者です。

千住回向院といえば幕末の尊王の志士たちが眠る場所としてよく知られています。その代表的な人物としてはやはり吉田松蔭でしょう。小伝馬町の牢で処刑後、長州の桂小五郎らの手により回向院で供養されました。墓には「松蔭二十一回猛士墓」との銘が刻まれています。

吉田松蔭墓

おなじく尊皇攘夷の推進者として知られている頼三樹三郎の墓が松蔭の墓の傍らに置かれています。

>頼三樹三郎の墓

そしてひときわ目立つのが橋本佐内の墓です。福井藩主「松平慶永」に使え、一橋派として慶喜擁立を画策するも、安政の大獄で小伝馬町で斬首刑となってしまいました。

橋本佐内霊廟 
橋本佐内墓

回向院を訪れ、幕末の志士の墓に詣でることができたことは私自身にとっては喜びの一つでもあります。新しい時代を希求し改革を目指したにもかかわらず、道半ばにして死に至ってしまった若者たちの気持ちを思うと、彼らの墓前でつい「時代は確かに変わったよ。その礎を築いたのは君たちだよ。」とつぶやかざるを得ません。





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