大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

ちょっとマイナーなお噺ですが…お江戸・本所の江ノ島弁財天…江島杉山神社【本所・一つ目橋袂】

2010年09月30日 14時14分10秒 | 墨田区・歴史散策
両国橋からほど近い場所に竪川に架けられている一つ目橋(現在は一之橋と呼ばれている)がある。橋の袂にはあの元禄14年師走の14日の吉良邸討ち入りを果たした赤穂の浪士たちが隊列を組んで泉岳寺へ向かう道程の途中、最初に渡ったのがこの一つ目橋であったと記されている。
この橋の名前が「一つ目」と名づけられているのは、隅田川(大川)から数えて最初の橋であることから。この竪川には一つ目から始まって五之橋まであるんです。

この一つ目橋をわたってすぐの左手にあるのが江島杉山神社である。この神社に江島がついているのは実は湘南の江ノ島と関係があるというのです。そして杉山は江戸時代の「人」の名前が冠され神社の名前になっているんです。





そこでこの「杉山」なる御仁はいったいどんな人だったのか興味が深まるのですが…。
時代が遡る事ちょうど400年前の慶長15年(1610)、一人の男が三重県の津で生まれ、その名を杉山和一(すぎやまわいち)と申したそうな。不幸にして幼い頃に失明し、17歳の頃江戸に下り盲人鍼医であった山瀬琢一に入門し修業に励んだが、出来の悪さに破門になってしまうという運の悪さ。

途方にくれる和一は、「ここでくじけたらどうにもならん」との一念から自らが信仰していた江ノ島弁財天の岩屋に篭もり断食修行を行ったそうな。はれて満願の日、江ノ島の岩屋で石につまづき倒れたときに自分の体に刺さった松葉をヒントに管鍼術(くだはりの術)の技術を得たと伝えられている。
そして京都の入江豊明に師事し、その後、再び江戸に戻り鍼の名人として一躍有名になった人なんだそうだ。



江戸で名声を博した和一は時の将軍綱吉の持病を治したことで、褒美を取らすことになった。「何か欲しいものがあればなんなりと申してみよ」。鸚鵡返しに和一は「ただ一つ目がほしゅうございます」と。
そこで綱吉は機知に富んだ、洒落っ気のある答えをだします。「それでは本所にある一つ目に宅地をあたえようではないか」と。

綱吉がこの土地を和一に下賜した理由には、もう一つあるようです。高齢の和一が江戸から江ノ島弁財天まで月参りをしていることを不憫に思い、元禄6年(1693)に本所一つ目に3000坪余りの土地を与え、そこに江ノ島弁財天を分社して祀らせたと伝えられている。

境内には社殿と社殿の右奥には江ノ島弁天の岩屋を模して造られた洞窟があるんですね。狭く細い洞窟の奥には杉山和一の坐像と宗像三神・宇賀神(人頭蛇尾)が祀られています。





尚、和一の墓が同じ墨田区内の立川にある弥勒寺に置かれています。弥勒寺と言えば鬼平犯科帳にしばしば登場するお寺で、五間掘跡にほど近い場所に位置しています。

弥勒寺

真中の宝塔が杉山和一の墓





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今日のスカイツリーはどんな顔? なんと470mだってさ。

2010年09月29日 17時40分26秒 | 墨田区・歴史散策
日ごとに高さを増している下町のランドマーク「スカイツリー」を違ったアングルから眺めてみたい欲求にかられ、亀戸側からアプローチを敢行。
明治通りを北上し、JR亀戸駅のガードをくぐり賑やかな商店街を抜けると蔵前通りに達する。
蔵前通りを左へ折れ、しばらく行くと右側に見えてくるのが、道真公を祀る亀戸天神社。鳥居をくぐり境内へと進み、藤棚に囲まれた太鼓橋の上からスカイツリーの姿がハッキリと浮かび上がる。
ちょっと前まではこんな光景を見ることさえ想像もしなかったのだが…。
壮麗な社殿の前に来てふと上を見上げると、屋根に突き刺さったようにスカイツリーが聳えているではないか。



実はこんなアングルでスカイツリーを見たかったのであるが、期待以上の成果である。道真公もきっと驚いているのではと一人ほくそ笑えんだ次第。
江東区からみるスカイツリー百景の一つに加えてみたいものです。

亀戸天神社をあとに、裏手の路地をくねくねと進んで行くとスカイツリーの直下を流れる十間川の流れに突き当たる。この辺りにくるとスカイツリーのはぼ全景が目の前に飛び込んでくる。
スカイツリーを見上げながら十間川に沿って進むと、十間橋という小さな橋がある。この橋はスカイツリー狂いにとっては一つのメッカになっている。実はこの橋の上から川面に映る「逆さツリー」を鑑賞できる人気のスポットとなっている。スカイツリーの建設が始まる前は、取るに足らない橋だったのが、今では人気のスポットとしてたくさんの人が集まってくる。十間橋もきっと「橋冥利に尽きる」と感じているはず。



そしていよいよスカイツリー直下の押上駅前に到着。さてさて今日の高さは…。なんと470m。今日もたくさんのスカイツリー詣での見物人でいっぱい。

2010/09/29撮影

これだけの人が集まる場所だけに、この周辺の店はにわか景気に沸き立っている。まさしく棚ぼたならぬ、「タワーぼた」。
今日はちょっと面白いものを発見。浅草通りに面したクリーニング屋さんの軒先に大きなステンレス板が。何かと思い近づいてみるとスカイツリーを映す鏡じゃないですか。結構綺麗にスカイツリーが映るんですが、自分の姿を一緒に入れて試しに一枚。だけど、カメラを目の前に構えているので鏡に映る自分の顔が映らない。当然と言えば当然の結果。一つ利口になりました。






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芭蕉所縁の観月の名所「五本松」ってご存知ですか?【お江戸深川・小名木川】

2010年09月29日 09時54分05秒 | 江東区・歴史散策
江東区内を東から西へと真っ直ぐに貫く堀割(運河)が造られたのははるか江戸時代の初期の頃。その掘割は中川(現在の荒川)と隅田川を結ぶ水運の要として、様々な物資を積んだ沢山の船が行き交い、活況を呈していたようです。その掘割は小名木川と呼ばれ、その河岸には新たに開発された新田や小さな村々、そして鎮守様が点在していました。

風光明媚な光景が広がる小名木川の河畔の様子は広重の版画や江戸名所図会のなかに、舟遊びを楽しむ庶民の姿が活き活きと描かれています。
そんな絵の中に必ず描かれているのが枝ぶりが見事な大きな松の木。日本の風景には妙に松の木が似合うのですが、おそらく江戸時代の深川に広がる田園地帯にはいたるところに松並木や松林が点在していたのでしょう。

そこで本日のお題である「五本松」のお話になるのですが、江戸時代の頃、小名木河畔に見事な枝ぶりの5本の老松があったそうな。その老松は周囲の景色の中に際立って葉を繁らせていたのではないでしょうか。
そしていつの頃からかこの五本松の辺りは名月を鑑賞する絶景ポイントとして、江戸の庶民の行楽地として人気が高まったといいます。
江戸名所図会の中には遥か東の空に浮かぶ満月のもとで、小名木川に船を浮かべ、川面にまで枝をのばす松の下でお月見を楽しむ庶民の姿が描かれています。





そしてやはりあの人もこの五本松に来ていたのです。深川に庵をむすんでいた芭蕉翁なのですが、おそらく萬年橋袂から舟をだしてお月見にやってきたのでしょう。このとき詠った句が残されているんですね。
川上と この川下や 月の友(元禄6年/1693)」
満月の宵に川上で観月をしている友達と同じように、私(芭蕉)も川下で同じ月を眺めているのです。という気持ちを詠ったものですが、ここで言う友達は山口素堂ではないかと言われています。


五本松脇に置かれた「川上と この川下や 月の友」の句碑

現在の「五本松」は深川四ツ目通りが小名木川を跨ぐ、小名木川橋の袂にありますが、どういうわけか3本しかないのです。ただ四ツ目通りを挟んだ向こう側の橋の袂に2本の松が植えられているので、都合5本と考えれば辻褄があうのかなと一人勝手に解釈した自分に拍手。





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さらにもう一つの芭蕉所縁の古刹「臨川寺」の佇まい【お江戸深川】

2010年09月28日 20時54分08秒 | 江東区・歴史散策

江戸に下った芭蕉が日本橋から小名木川が隅田川に注ぎ込む萬年橋袂の深川、河岸に新たな庵を結んだのが延宝8年(1680年)の頃。そして元禄2年に奥の細道の旅に出立するまで深川の隅田河岸での生活がつづいたのです。
その間、弟子たちと一緒に小名木川での船の遊覧や河岸の散策、そして推察するに、甍を連ねる深川の寺町の門前を通り永代寺境内や深川の総鎮守である「富岡八幡宮」あたりまで足を伸ばしていたのではないでしょうか。

暮れなずむ萬年橋

そんな生活の中で、度々参禅に通った寺があるのです。萬年橋からは少し距離があるのですが、現在の清澄白河駅のすぐそば、清洲橋通りに面して建つ古刹「臨川寺」です。
山門を入ってすぐ左手に設けられた庭(といっても猫の額程度の庭)に芭蕉が参禅したことを記した「芭蕉由緒の碑」が立っています。

 



芭蕉由緒の碑には下記の事柄が刻まれているらしい。(碑面はかなり黒ずみ、文字がうっすらと浮かび、判読するには難儀する。)
臨川寺は、むかし仏頂禅師が構えた寺で、そのころ芭蕉が朝夕赴いた参禅道場である。禅師が芭蕉の位牌をかいた因縁から、美濃派の俳人で小石川白山門前に住む神谷玄武が、各務支考(芭蕉門人)により京都双林寺に建てられた芭蕉墨直の墨跡を写して臨川寺に石碑を建て、毎年3月に墨直会を催した。また支考の碑も建てた。と書かれている。

尚、お寺の本堂には木製の芭蕉像が安置されているのですが、先日臨川寺に伺ったことろ、その日は檀家のご法事と重なり本堂内に入る事ができず芭蕉像を拝見することができませんでした。その代わりに臨川寺が発行しているパンフレットを頂いて退出いたしました。



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あのお大尽の墓とは思えないお江戸の政商・紀伊国屋文左衛門の墓を見~つけた!~【お江戸深川・成等院】

2010年09月28日 18時43分25秒 | 江東区・歴史散策
前にも記述したように、お江戸深川には歴史の舞台で活躍した著名人の墓が目白押しです。生前の業績やその地位によってお墓の姿は千差万別。寺町の風情を残す深川界隈を歩いていると、なにげなく見る寺に少なからず歴史に名を残す人物と関係がありそうな佇まいを感じるのですが…。

今日のお題は江戸の元禄時代に一世を風靡した稀代の豪商「紀伊国屋文左衛門」です。なんと文左衛門の墓が深川にあるんですね。門前仲町から清澄通りを北へ進み、芭蕉の「採茶庵跡」のある海辺橋を渡り清澄庭園にほど近い深川江戸資料館通り3本目の路地を右へ折れ、最初の角を左へ曲がってすぐの左側奥に置かれた大きな碑が「紀伊国屋文左衛門の碑」なんです。

狭い通りには面しているのですが、石碑は通りから少し奥まって置かれているので、気が付かないで通り過ぎてしまうこともあるかもしれません。さらに石碑が置かれている敷地への入口の鉄柵が常に閉まっているので、入っていいものか一瞬躊躇してしまいます。
私はためらいもなく錠前をずらし、鉄柵を開けて入ってしまいますが…。これまで誰からも咎められたことはありませんでした。
さて、敷地に入るとさらにもう一つ柵がありますが、この柵の中に入らずとも石碑を至近距離で十分に眺めることができます。そして驚いた事に大きな石碑の左脇に、「これがあの豪商紀伊国屋文左衛門の墓なの」と思えるほど小さな墓石が寄り添うように置かれているんです。

文左衛門の碑

紀文と言えば、誰もが想起する紀州(和歌山県)から蜜柑船を江戸へ回漕し巨萬の利益を得た事や、上野寛永寺根本中堂の造営にあたって用材調達を一手に請け負い、これまた財をなしたと言われるほどの方なのです。
そして浅草田圃の桃源郷「吉原」でのお大尽遊びで知られ、豪遊伝説などを残したことであまりにも有名な方なのですが、この墓を見る限り「どうして?」と思われる方は多いのではないでしょうか。

ちなみに紀文が政商となっていった後ろ盾に、5代将軍綱吉の側近であった老中柳沢吉保の存在を忘れてはなりません。しかし我が世の春は長続きしなかったのです。綱吉の死去に伴い、老中を辞した吉保の跡、正徳の治を展開した新井白石の登場で商売はうまく行かなくなり、材木商を廃業し晩年は深川で隠棲せざるを得ないほど落ちぶれてしまった由。そんなことで立派なお墓もつくれなかったのではないかと推察されるのです。

尚、文左衛門の羽振りが良かった頃、彼の次男は保土ヶ谷宿の本陣を経営していた軽部家(苅部)に養子として入っています。軽部家は小田原北条氏の家臣のお家柄で本陣を経営するほどの名家だったのですが、本陣とはいえ経営状態は常に困っていました。
というのも本陣は当時の特権階級である大名の藩主、朝廷からの勅使、さらには幕府の重臣など限られた人間しか宿泊することができなかったのです。また、当時の保土ヶ谷宿は場所柄、多くの大名が宿泊する場所ではなく、参勤交代の行列も休憩する程度で素通りしてしまうことが多かったといいます。
そんなことで保土ヶ谷宿の軽部本陣の経営は苦しかったといいます。そこで大金持ちの紀伊国屋文左衛門の次男との養子縁組が整い、嘘か誠かは定かではありませんが、多額の持参金を持ってきてもらったとも伝わっています。

ついでながら、文左衛門と同じ時代を生きた深川を代表する材木商がいます。その名は「四代奈良屋茂左衛門(ならやもざえもん)」といいます。通称「奈良茂(ならも)」と呼んでいます。
一説によると、紀伊国屋文左衛門と吉原遊郭で豪遊を競った人物と言われています。
江戸の商人の子として生まれた茂左衛門は、幼いうちから江戸の材木屋で働き、商売を覚え、その後独立して材木商を営むようになりました。彼が豪商になるきっかけは、天和3年(1683)5月に日光一帯を襲った地震で東照宮が倒壊したことで、その修復工事を請け負ったことに始まります。

その工事を請け負う際に、奈良茂は狡猾な手段を使い受注し、巨利を得たといわれています。奈良茂が使った狡猾な手段とは、受注の入札の際に他が絶対にださない極めて安い金額を提示したことです。これによってまんまと受注には成功するのですが、あまりに安い金額を提示したことで、自ら修復用の木材を調達できなくなってしまいます。そこで入札から漏れた材木業者たちに安い金額で木材の購入を持ちかけるのですが、汚い手を使って受注した奈良茂に木材を売る業者は誰もいませんでした。

困った奈良茂は窮地を脱するために、幕府に対しておおそれながらと自らの窮状を訴えでたのです。その訴状内容も狡猾そのもので、こんな風にお上に訴えたそうです。「神君家康公を祀る東照宮の修復に使うための木材を準備したくても、同業材木商は誰も売ってくれません。こんな状況では東照宮の修復もままなりません。」

この訴状を受けた幕府はなんと奈良茂に材木を売らない材木商を捕縛し、店を取り潰してしまったといいます。
そんな悪評が伝わる奈良茂は深川ではそれほど人気がありません。やはり気風の良さと粋、そして通人をその気概とした文左衛門は落ちぶれようとも深川では人気者なんです。





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続…国会前庭の憲政記念館敷地内に何とローマ神殿が!

2010年09月27日 15時41分58秒 | 千代田区・歴史散策
木々が生い茂る国会前庭の一角になんとも奇妙なローマ神殿風建築があるのをご存知ですか? 
それは憲政記念館が置かれる敷地の中の木々に囲まれ、静かに佇んでいます。
背後からみるとなんの変哲もない石造りの小屋にしかみえないので、公衆トイレと間違えてもおかしくない佇まいなのです。これは失敬。

「何だろう?」と思いつつ正面に回りこんで見てください。な、なんとこれはまぎれもなく世界中の古代ローマ遺跡には必ずある神殿のファサードと同じ造りではないだろうか。
どうしてローマ神殿風の建物がこんな場所に?とほとんどの方が疑問に思うこと。



実はこの憲政記念館の敷地は明治維新後、陸軍省の参謀本部があった場所なのです。当時、参謀本部は現在の国土地理院の役割を担っていたようです。というのも国土の詳細な情報(特に標高の測定)は国家の機密事項で、その測定は参謀本部の部局の重要な仕事であったのです。
そして日本の国土の標高を決める「水準原点」を定める必要があり、この場所が水準原点として24.4140mと明治24年(1891)に定められ、現在に至っているのです。
そしてこのローマ神殿風の建物の中には台石に埋め込まれた水晶板が嵌め込まれ、その水晶板には赤い目盛が刻まれています。私は以前に年に一度の測量の日のご開帳で内部に収められた水晶板を見た事があります。

さて本日のお題の「なんでローマ神殿風」なの、という疑問ですが、この建築物が明治時代に造られたものなのですが、まず思いつくのが、水準原点という目盛りを収めるためには建物が外的要因によって揺れたり、変形することは避けなければならないと当時の人は考えてのではないでしょうか。だからといってローマ神殿風にすることはないと思われますが…。素人考えですが、当時のデザイナーが2000年以上も風雨に耐えている本場ローマ遺跡の頑丈な造りを模範として、堅牢な石造り建築であるローマ神殿風デザインを採用したのではないかと推測しています。

いずれにしても明治時代の貴重な建築物にかわりはないのですが、正面ファサードの切妻部分のレリーフや菊のご紋章そして右から左へと読む「大日本帝国」と「水準原点」の文字が遠く過ぎ去った時代を彷彿とさせてくれます。




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外桜田門を望む幕末大老・井伊直弼屋敷跡を探訪~そこは永田町1丁目1番地~

2010年09月27日 14時34分14秒 | 千代田区・歴史散策
国会議事堂をあとに道を隔てて、左右対称に配置されているのが国会前庭と呼ばれている場所があるのをご存知ですか?国会を背にして右側の敷地には日本庭園が設けられているのですが、「すばらしい!」と声を上げるほどのものではないことを一応付け加えておきましょう。
一方、左側の敷地ですが、こんもりとした木々が茂る中に西洋式庭園(噴水と花壇)、時計塔そして明治以降の日本の憲政史をはじめ、国会に関する情報と日本憲政の父と呼ばれる尾崎行雄所縁の品々を展示する「憲政記念館」が配置されているのです。

憲政記念館敷地内

この憲政記念館がある敷地が実は幕末安政時代に大老職を担ったあの「井伊直弼」の拝領屋敷があった場所なのです。維新後に屋敷は取り壊され、新政府の参謀本部の建物が造られ、その後戦災による被害でいっときは荒地と化していたため、江戸時代の井伊様の屋敷のあとを偲ばせるものは何も残って居ないのが実情です。
戦後、昭和35年に前述の尾崎行雄の功績を展示する「尾崎記念館」がこの場所につくられ、その後昭和47年にこの尾崎記念館を吸収する形で、現在の憲政記念館が完成しました。
この憲政記念館がある敷地は衆議院の管轄下に置かれ、記念館のホールや会議室ではしばしば衆議院議員の会合や政権政党の集まりなどが催されています。

さて、井伊直弼と言えば……桜田門でしょう。幕末の万延元年3月3日の雪の降る朝、水戸脱藩浪士と薩摩藩浪士による暗殺事件が起こったのが桜田門外なのですが、この憲政記念館の敷地内にある西洋式庭園から桜田門を遠望できるのです。距離としてわずか600mほどしか離れて居ないこの場所から、降りしきる雪の中を井伊直助の行列がゆっくりと進んで行った光景を思い浮かべてください。
西洋式庭園の皇居桜田濠側に立つと、濠の向こうには吹上の緑濃い木々が目に飛び込んできます。そして濠にそって右奥へ目をやると桜田門の渡櫓の屋根と白壁が見えるはずです。

西洋式庭園から桜田門方面を望む

ご存知のように彦根藩主の井伊家は徳川譜代大名の中では名門中の名門で、徳川四天王の一人として家康の天下取りに貢献し、江戸時代を通じて7人もの老中を輩出したことでも知られています。そんな井伊家の拝領屋敷として幕府から賜ったこの場所は開幕間もない頃は加藤清正公の屋敷がありました。



実はこの加藤清正公の屋敷があった頃に作られた井戸が残っているのです。しかも江戸時代には「江戸の名水」との評判が高く、「桜の井」と呼ばれ安藤広重の絵にも描かれているのです。
現在ではそれほど風情ある姿ではないのですが、憲政記念館から内堀通りへと下りた角に石積の方形の囲いの上に竹で編んだ覆いが掛けられています。尚、この井戸は今はやりの「パワースポット」ではないようです。

 


 
国会議事堂の参観を終え、時間があれば是非憲政記念館の見学(無料)と敷地内の散策を楽しんでみてはいかがですか。





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な、な、なんとお江戸深川にもあった三十三間堂!【お江戸深川】

2010年09月26日 22時42分59秒 | 江東区・歴史散策
深川の総鎮守、富岡八幡宮の境内から東へちょうど2ブロック行った角、歩道にさりげなく置かれた碑の脇に「三十三間堂跡」の石柱が立っている。よほど事前に調べをしなければ、この場所にこんな碑が置かれていることなど知る由もないくらいに、時の流れに埋もれてしまった歴史の事実として静かに佇んでいます。





お江戸の三十三間堂は京都にあった三十三間堂(蓮華王院)を模して三代将軍家光公の時代の寛永19年(1642)に浅草に創建された「東普門院」が最初のものでした。その後、火災により焼失したため、元禄14年(1701)に富岡八幡宮の東側に再建され、武家の弓術の射的場や競技場として使用されていたようです。

ここでは浪人や全国の藩の藩士たちが射手として「通し矢」を行っていました。

三十三軒堂は浅草に創建されて以来、たびたび再建と修復を繰り返していました。その度に多額の資金が必要となり、その維持と管理はたいへんだったようです。深川移転後も明和6年までに造立2回、修復1回を数えています。
本来、三十三軒堂は千手観音を祀る御堂なのですが、ここ深川の三十三間堂は「射場」としても重要な地位を占めていたようです。
建物の造りは東側(現在の木場方面)が御堂で、西側(隅田川側)が射場の役割を果たしていました。


明治5年(1873)に神仏分離で解体され、跡地は大正2年に数矢尋常小学校(現・数矢小学校)がこの地に創立されました。関東大震災で校舎が焼失すると、数矢小は現在地の富岡一丁目に移転しています。この「数矢」の名前は矢数の意味で、江戸時代に三十三間堂で射た矢の数のことです。

この界隈は昭和50年頃まで、木場の材木問屋が軒を連ねる町でしたが、新木場移転に伴い当時の風情はほとんどのこっていません。当碑をご覧になった後は、もう一度八幡様境内へ戻り、賑やかな門前町で名物の「あさり飯」などを食してみてはいかがですか?






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もう一つの芭蕉庵…仙台堀川の海辺橋袂「採茶庵」【お江戸・深川海辺橋】

2010年09月24日 16時09分10秒 | 江東区・歴史散策
門前仲町交差点から北へ延びる清澄通りを歩くこと400m弱で仙台掘川に架かる海辺橋が見えてきます。この海辺橋手前の左側歩道に面して、芭蕉が庵をむすんだ「採茶庵」跡が史蹟として保存されています。
小さなほったて小屋の縁側に腰をおろし、清澄通りの車や人の往来を静かに眺めている芭蕉翁の姿が…。気を付けていないと、つい通り過ぎてしまいそうな佇まいです。

芭蕉が「奥の細道」の出立直前まで暮らしていたのが採荼庵です。
元禄2年(1689年)の2月(旧暦)末、隅田川と小名木川の合流地点の岸辺にあった芭蕉庵を手放し、杉風の別墅採荼庵に移り、翌月27日、ここを立って見送りの門人とともに仙台堀に浮かぶ船に乗り、隅田川をさかのぼり、千住へと向かったのです。
芭蕉の紀行生活の中でも、象徴的なこの場所は奥の細道の出発地点だけではなく、芭蕉がおそらく日常生活の中で永代寺の境内そして富岡八幡宮へ足を伸ばしたり、仙台掘河岸の散策を楽しんだり、舟遊びをしたりした拠点であったのではないかと思うと感慨深いものがあります。



芭蕉翁が腰を掛けている縁側は、いっしょに写真をとるにはうってつけのスペースがあるんですね。訪問記念に貴方も縁側に腰掛けて芭蕉翁との2ショットを撮ってみてはいかがですか?



採荼庵跡から海辺橋を渡った右手に「伊勢屋」さんという和菓子屋があるんですが、ここの大福はけっこう美味しいとの評判があります。散策の途中にお試しあれ!江戸の戯れ言に「伊勢屋、稲荷に犬の糞」など江戸の町にどこにでもころがっているものの代表を並べたものですが、現代においても「伊勢屋」の号はいたるところで見られますよね。





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こんなメジャーな人物の墓が!寛政の改革の旗手・松平定信公(楽翁)【お江戸深川・霊巌寺】

2010年09月24日 14時58分30秒 | 江東区・歴史散策
江戸の三大改革と言えば…享保、寛政そして天保の改革。日本の歴史の授業で習いましたね。
その寛政の改革を断行したのが、知る人ぞ知る「松平定信公」です。時は11代将軍家斉公の御代、白河藩主となっていた松平定信は天明7年(1787)に老中首座となり、農政改革を基調とする「寛政の改革」に着手します。

定信が改革を始める前は、賄賂政治で我が世の春とばかりに「賂(まいない)」でしこたま儲けた田沼意次全盛の時代でした。
そんな田沼の政策に批判的であった定信は緊縮財政と農業重視策を柱とした改革を断行していったのです。改革の成果はある程度あったようですが、改革そのものは定信が老中を辞した事で道半ばで中断してしまいました。

その後、定信は楽翁と称し、悠悠自適の隠居生活へと入るのですが、特に改革の功績の褒美に将軍家より土地を賜っています。その土地は現在の築地中央卸売市場がある場所で、もともと徳川御三卿の一橋家がもっていた土地だったのです。その土地を譲ってもらい「浴恩苑」と称する浜御殿を造っています。
この浴恩苑の名は、一橋家から土地を譲ってもらったことで「恩」に「浴びた」ことを意味しています。

尚、前述の築地の下屋敷は寛政の改革の労をねぎらうために築地にあった一橋公の浜屋敷を賜ったことから、「その恩に浴する」という意味で「浴恩園」と名付け優雅な生活を送ったと言われています。尚、この浴恩園の跡は現在の築地中央市場(魚がし)となっています。

また定信公と深川とのかかわりは、文化13年(1816)に深川入船町(現在の牡丹3、古石場2・3付近)に自らのお抱え屋敷(別邸)を持ったことです。定信公はこの屋敷を「深川海荘(はまやしき)」と呼び、園内には二つの築山を築き、それぞれに「松月斎」「青圭閣」と名付け、江戸湾を一望できる休息所として楽しんでいたといいます。

定信公が隠居生活を楽しんでいた時代は江戸時代における最後の華やかなりし文化が花開いた「化政時代」の真っただ中です。寛政の改革の主眼とするところは、都市政策と密接に関係する農村政策でした。享保及び天保の改革でみられるような庶民の生活を極端に規制・圧迫するようなものではなかったので、寛政の改革後、見事な化政文化が生まれたのです。

そんな文化の中で定信公も無縁ではありませんでした。彼は前述の浴恩園にサロンを立ち上げ、書画会、歌会、茶会などを頻繁に催しています。なにせそれまで陸奥白河藩主であったことから、定信公の名声は高く、浴恩園に集うメンバーも諸大名からあの書画家として知られている谷文晁まで名を連ねています。

一方、当時の江戸の街では滝沢馬琴、太田南畝などが主宰する書画会などの市民レベルのサロンも活発に活動していました。そんな時代の中で、定信公も文化人として生きた一人だったと思います。

こんな有名人の墓が深川・清澄白河の霊巌寺の境内に、塀に囲まれた一角に静かに佇んでいます。比較的広い境内の左奥に墓があるのですが、通常は墓域内には入る事ができません。鉄製の格子扉から定信公の墓を望むことができます。凛とした空気が漂い、深閑とした時間が流れているような雰囲気を感じます。





ちなみに清澄白河の地名は定信公が福島白河藩主であったことから、この白河の文字をとって清澄白河としています。





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