両国橋からほど近い場所に竪川に架けられている一つ目橋(現在は一之橋と呼ばれている)がある。橋の袂にはあの元禄14年師走の14日の吉良邸討ち入りを果たした赤穂の浪士たちが隊列を組んで泉岳寺へ向かう道程の途中、最初に渡ったのがこの一つ目橋であったと記されている。
この橋の名前が「一つ目」と名づけられているのは、隅田川(大川)から数えて最初の橋であることから。この竪川には一つ目から始まって五之橋まであるんです。
この一つ目橋をわたってすぐの左手にあるのが江島杉山神社である。この神社に江島がついているのは実は湘南の江ノ島と関係があるというのです。そして杉山は江戸時代の「人」の名前が冠され神社の名前になっているんです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/d3/3be8506535cdcae10bb751ab7fd59fa2.jpg)
そこでこの「杉山」なる御仁はいったいどんな人だったのか興味が深まるのですが…。
時代が遡る事ちょうど400年前の慶長15年(1610)、一人の男が三重県の津で生まれ、その名を杉山和一(すぎやまわいち)と申したそうな。不幸にして幼い頃に失明し、17歳の頃江戸に下り盲人鍼医であった山瀬琢一に入門し修業に励んだが、出来の悪さに破門になってしまうという運の悪さ。
途方にくれる和一は、「ここでくじけたらどうにもならん」との一念から自らが信仰していた江ノ島弁財天の岩屋に篭もり断食修行を行ったそうな。はれて満願の日、江ノ島の岩屋で石につまづき倒れたときに自分の体に刺さった松葉をヒントに管鍼術(くだはりの術)の技術を得たと伝えられている。
そして京都の入江豊明に師事し、その後、再び江戸に戻り鍼の名人として一躍有名になった人なんだそうだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/52/8fd48be088d308df3c0b3ce665e15bc4.jpg)
江戸で名声を博した和一は時の将軍綱吉の持病を治したことで、褒美を取らすことになった。「何か欲しいものがあればなんなりと申してみよ」。鸚鵡返しに和一は「ただ一つ目がほしゅうございます」と。
そこで綱吉は機知に富んだ、洒落っ気のある答えをだします。「それでは本所にある一つ目に宅地をあたえようではないか」と。
綱吉がこの土地を和一に下賜した理由には、もう一つあるようです。高齢の和一が江戸から江ノ島弁財天まで月参りをしていることを不憫に思い、元禄6年(1693)に本所一つ目に3000坪余りの土地を与え、そこに江ノ島弁財天を分社して祀らせたと伝えられている。
境内には社殿と社殿の右奥には江ノ島弁天の岩屋を模して造られた洞窟があるんですね。狭く細い洞窟の奥には杉山和一の坐像と宗像三神・宇賀神(人頭蛇尾)が祀られています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/be/2cb8d1d5571379b77832b660d1247526.jpg)
尚、和一の墓が同じ墨田区内の立川にある弥勒寺に置かれています。弥勒寺と言えば鬼平犯科帳にしばしば登場するお寺で、五間掘跡にほど近い場所に位置しています。
弥勒寺
真中の宝塔が杉山和一の墓
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/ad/e684f0f4619ea5407c52c65d4f5c0c14.jpg)
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この橋の名前が「一つ目」と名づけられているのは、隅田川(大川)から数えて最初の橋であることから。この竪川には一つ目から始まって五之橋まであるんです。
この一つ目橋をわたってすぐの左手にあるのが江島杉山神社である。この神社に江島がついているのは実は湘南の江ノ島と関係があるというのです。そして杉山は江戸時代の「人」の名前が冠され神社の名前になっているんです。
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そこでこの「杉山」なる御仁はいったいどんな人だったのか興味が深まるのですが…。
時代が遡る事ちょうど400年前の慶長15年(1610)、一人の男が三重県の津で生まれ、その名を杉山和一(すぎやまわいち)と申したそうな。不幸にして幼い頃に失明し、17歳の頃江戸に下り盲人鍼医であった山瀬琢一に入門し修業に励んだが、出来の悪さに破門になってしまうという運の悪さ。
途方にくれる和一は、「ここでくじけたらどうにもならん」との一念から自らが信仰していた江ノ島弁財天の岩屋に篭もり断食修行を行ったそうな。はれて満願の日、江ノ島の岩屋で石につまづき倒れたときに自分の体に刺さった松葉をヒントに管鍼術(くだはりの術)の技術を得たと伝えられている。
そして京都の入江豊明に師事し、その後、再び江戸に戻り鍼の名人として一躍有名になった人なんだそうだ。
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江戸で名声を博した和一は時の将軍綱吉の持病を治したことで、褒美を取らすことになった。「何か欲しいものがあればなんなりと申してみよ」。鸚鵡返しに和一は「ただ一つ目がほしゅうございます」と。
そこで綱吉は機知に富んだ、洒落っ気のある答えをだします。「それでは本所にある一つ目に宅地をあたえようではないか」と。
綱吉がこの土地を和一に下賜した理由には、もう一つあるようです。高齢の和一が江戸から江ノ島弁財天まで月参りをしていることを不憫に思い、元禄6年(1693)に本所一つ目に3000坪余りの土地を与え、そこに江ノ島弁財天を分社して祀らせたと伝えられている。
境内には社殿と社殿の右奥には江ノ島弁天の岩屋を模して造られた洞窟があるんですね。狭く細い洞窟の奥には杉山和一の坐像と宗像三神・宇賀神(人頭蛇尾)が祀られています。
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尚、和一の墓が同じ墨田区内の立川にある弥勒寺に置かれています。弥勒寺と言えば鬼平犯科帳にしばしば登場するお寺で、五間掘跡にほど近い場所に位置しています。
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