大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

江戸の面影が残る半田運河と蔵の町~黒塀囲いの醸造蔵から漂う甘酸っぱい酢の香り~(愛知県半田市)

2011年05月10日 18時16分52秒 | 地方の歴史散策・愛知県半田
私にとって愛知県半田市はそれほどメジャーな感慨をもって興味の対象としていたわけではないのですが、せっかく名古屋にいるのだから貪欲に探訪してみようと考えた結果得られた選択肢だったのです。

事前にインターネットで調べると知多半島に位置する「蔵の町」であること。そして江戸時代には「下りもの」と称した酒や酢の名産地であったことなど、江戸時代を勉強する私にとっては誠に興味をそそられる場所だったのです。

名古屋からJR若しくは名鉄で30分前後でアクセスできるとのことで、早速行って見る事にしました。半田市にはJRと名鉄の駅がそれぞれ異なる場所に位置している。地図を見るとさほど離れてはいないようなので、往路は名鉄線の急行を利用することにしました。

知多半島の付け根に位置する半田市はほんとうに静かな空気に包まれていました。名鉄の知多半田駅前は再開発のためかお洒落な感じにまとまっていました。駅前の観光案内所に駆込み、観光ルートについて教えてもらい、いざ半田市内へと向います。

半田の見どころが集中しているのはJRの線路を越え運河が流れる辺りとのこと。名鉄の知多半田駅から徒歩で5~6分の所にあるのがJR半田駅です。この駅舎の造りがなんともレトロ感を醸し出しているではないですか?

JR半田駅舎。これってすごくないですか?
跨線橋と油倉庫

実はJR半田駅の跨線橋は日本最古のものであることがこのとき初めて知りました。明治43年11月に設置されたもので、駅舎の脇に残る煉瓦造りの油倉庫も同時に設置され、夜間信号機の火に使う灯油が保管されていたとのことです。昭和の時代の白黒映画に出てきそうな代物で、着物姿の女性と山高帽をかぶった紳士が似合いそうな駅舎です。

それにしても駅前は閑散として、ほんとうに人が住んでいるのかと疑いたくなるような雰囲気が漂っています。
JR半田駅からまっすぐに伸びる道を進むにつれて、かすかな酢の香りが漂ってきます。やはり半田は酢の町であることが実感できる瞬間です。半田市イコール酢の町、酢の町イコール「ミツカン酢」の町といったところです。豊田市がトヨタの城下町であるのと同じように、半田市はミツカン酢の城下町なのです。

そして半田市の歴史地区といっても過言ではないミツカン酢の醸造蔵が姿を現します。建物全体が黒く塗られ、初めて見る者にとってはある種の不気味さを感じるのが第一印象です。半田運河を挟んで対岸に黒塗りの醸造蔵が他を圧するように連なり、その黒塀に描かれたあのミツカン酢のトレードマークが白く浮き上がっています。

酢の博物館
半田運河とミツカン酢醸造蔵
酢醸造蔵入口
半田運河とミツカン酢醸造蔵
半田運河とミツカン酢醸造蔵

ちょうど干潮時であったことから川底が見えるほど運河の水は少なくなっていました。この運河は江戸時代の元禄以前に開削されたと言われています。江戸時代にはここから五百石船に酒や酢が積まれ、江戸へと運ばれていったのでしょう。
ちょうど端午の節句の前であったので、運河沿いに200匹の鯉のぼりが泳いでいました。

運河沿いの鯉のぼり

半田運河に沿ってそぞろ歩きを愉しみながら、運河を渡り対岸に建つ歴史を感じさせる建物を見学し、細い路地を進んで行くと懐かしい時代にタイムスリップしてしまったかのような風景がそこそこに現れるのが半田の旧市街です。

郵便ポスト
路地に面する黒塀
運河沿いの醤油醸造所
小栗家旧居
酒の醸造所

酒の醸造所の外灯

今ではあまりお目にかかれない郵便ポスト、板塀に掛けられた前世紀の遺物のような外灯など、胸が締め付けられるような懐かしさを感じる瞬間でした。




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江戸の街道の風情を残す「御油の松並木」~旧東海道の宿場町・御油宿(愛知県)~

2011年05月10日 15時54分38秒 | 地方の歴史散策・愛知県御油
名古屋滞留中に伊良子の海岸へ足をのばす途中に、思わず東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さん所縁の御油宿が頭によぎりました。江戸検定の受験勉強で東海道五十三次についてかなり詳しく調べている中で、御油宿はかなり印象が残っている場所だったのです。

弥次さん喜多さんの御油の狐事件とは…
『 はや日傾き暮れに近ければ、いざや急がんとて喜多八 「夕べの泊まりは中くらいな宿だった。今夜は赤坂までわしが先に行っていい宿をとりやしょう」 と先に行く。弥次郎兵衛あとに行くに、ほどなく御油の宿に至るころ、はや夜になり。
宿場の女に留められ「この先の松並木には悪いキツネが化かすからここに泊まれ」とおどされる。』 
喜多八を追って街道を行くと前方の松の根元に喜多八がいました。暗さに怖くなって弥次さんを待っていたのだが、弥次さんはキツネが喜多八に化けていると思い、喜多八を取り押さえ手拭いでしばり赤坂の宿までつれていきました、と、さ…

江戸幕府は交通の整備のため主要街道である五街道を定め、街道沿いに宿駅(しゅくえき)の制度を設けました。御油宿(ごゆしゅく)は東海道に置かれた53の宿場のうち35番目の宿場で東三河には東から二川・吉田・御油・赤坂の4宿が置かれていました。吉田から御油宿までは2里22町(約10km)、御油から次の赤坂宿までは16町(約1.7km)で御油・赤坂間は東海道で最も短い区間です。幕府による宿場の許可証である伝馬朱印状(てんましゅいんじょう)も御油と赤坂だけは1枚にまとめられていたことを思えば納得のいく距離です。。この御油・赤坂間の旧東海道沿いに天然記念物に指定されている松並木があります。松並木は街道を行く人々を夏の暑さや、冬の強風から守るため幕命により植えられたもので1604年(慶長9)から11年かけて約160本が植えられました。



現在の松並木は旧街道に沿って約600mに渡って300本の松の木が彩りを添えています。国道一号線からは若干それて走る旧街道は道幅が狭く、今でこそ民家が建ち並んでいますが、かつては追いはぎがでてもおかしくないような場所なのです。

 

 

 

 



せっかくなので名鉄御油駅側の松並木入口で車を降りて、600mを徒歩で歩くことにしました。松並木が残る旧街道に沿ってはそれほど民家もなく、往時の面影を感じながら美しい松の枝ぶりを眺めながら散策を愉しむことができました。以前に歩いた箱根旧街道の昼尚暗き杉並木とはまったく趣が異なり、松の枝がまるでトンネルのように街道を覆う姿は時代劇の一場面を彷彿とさせてくれました。

東海道五十三次街道めぐり 第27回 第3 日目 莵足神社から御油そして赤坂へ



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木曽川ほとりの山城「国宝・犬山城と城下町探訪」~風薫る新緑に映える名城~

2011年05月10日 14時59分05秒 | 国宝指定の城めぐり~姫路城・彦根城・犬山城・松本城~
東北大震災の被害の様子が連日報道されている4月中旬、訳あって愛知県の名古屋へ10日間ほど滞留していました。桜の花はとうに散り、木々の枝の若葉は初夏の陽射しにキラキラと輝く素晴らしい季節を迎えていました。

かねてから一度は訪れて見たいと思っていた犬山城へ名古屋市内から電車を乗り継ぎながら日帰りの旅を愉しみました。地下鉄東山線の伏見駅で地下鉄鶴舞線に乗り換え上小田井へ。そこから名鉄線の急行でわずか23分と思っていたほど近い距離に犬山市は静かに佇んでいました。

名鉄犬山駅前に降りたち駅前のロータリーから真っ直ぐにのびるメインストリートを眺めると、なんとも閑散とした風景が目に飛び込んできました。早速、観光地図を手に入れ歴史溢れる街並み散策を期待しながらメインストリートを思われる通りに沿ってゆっくりと歩を進めることにしました。

ほんとうに静かなメインストリートで地方都市特有のシャッターが閉じた店舗がつづき、華やかさはまったく感じられませんでした。このメインストリートを300m程歩くと町を南北に貫く本町通りと交差する4つ角に至ります。この四つ角を右へ折れると、これまでの寂しいメインストリートとはまったく趣の異なる「通り」が現れたのです。

本町通りの街並み

本町通りは電線が地中に埋設され、道路も美装化された美しい通りで、この通りに沿って昔日を思い起こさせるような町屋造りの家並がつづいています。町屋造り風に新たに作られた家もちらほらと見うけられますが、その中でかなり趣のある古い町屋が一軒現れてきます。一見して古い建物だと判るのですが、旧磯部邸の木の看板が軒先にかかっています。なんと無料で内部を見学できるとのこと。

旧磯部邸

この旧磯部邸は江戸期の建築様式を今に伝える木造家屋で主屋は幕末に建てられたといわれています。緩やかなふくらみのある「起り屋根(むくりやね)」は犬山市内の町家で唯一現存しているもので、正面は2階建て、裏は平屋の「バンコ二階」と呼ばれる造りになっています。国宝犬山城大手門から延びる本町筋にあり、磯部家は江戸期からお城へ品物を納品する呉服商を営んでいたようです。

磯部家中庭
磯部家土蔵

敷地は間口が狭く、奥行きが広い「ウナギの寝床」のようで、中庭、裏座敷、土蔵などが静かな空気の中に佇んでいました。表通りから入るとすぐ左手の広間に端午の節句の武者人形が飾られていました。この武者人形は町内の有志の方がこの場所を借りて飾ってあるとのことです。

磯部家の武者人形

旧磯部邸を後にさらに本町通りを進んでいくと、通りの両側には次から次へと土産屋やお洒落な飲食店が現れ、この道が犬山市の本来のメインストリートであることが判明しました。通りには趣ある道路標識やかつて置かれていた高札場、問屋場、火の見櫓を示す石碑などが置かれています。

本町通りの道標
本町通の石碑

本町通りの賑わいを愉しみながら500mほど歩くと犬山城前広場が見えてきます。その広場の中央には由緒ありそうな神社が置かれています。赤い鳥居が社殿の脇に連なる三光稲荷神社(宇迦御魂大神)は犬山城の山麓に位置し、犬山城主成瀬家歴代の守護神として天下泰平、五穀豊穣、商売繁盛、交通安全のご利益を賜る歴史ある神社のようです。

三光稲荷神社鳥居
三光稲荷神社殿
三光稲荷の鳥居

この三光稲荷神社の傍らに猿田彦神社(みちひらきの大神 猿田彦大神)の社が置かれているのですが、道案内の神様である猿田彦が祀られているのは、犬山城下へやってくる旅人や犬山から旅立ちする者への安全祈願のためだったのかもしれません。

猿田彦神社
猿田彦神社と藤棚

さあ!いよいよ待望の犬山城へ登城することとしましょう。ここで簡単に犬山城の歴史を紐解いてみましょう。
豊臣秀吉が生まれた天文6年(1537)、織田信長の叔父である織田信康によって創建された、現存する日本最古の木造天守閣です。



尾張(愛知県)と美濃(岐阜県)の国境に位置するため、戦国時代を通じて国盗りの要所となり、城主はめまぐるしく変わりました。小牧・長久手の合戦(1584)では、羽柴秀吉が12万人の大軍を率いてこの城に入城し、小牧山城に陣取る徳川家康と生涯唯一の直接対決をしました。この小さな城に12万人の大群が陣を敷いたことに驚きを隠せません。

江戸時代に入ると、尾張藩付家老の成瀬正成が城主となり、幕末まで続きましたが、明治維新による廃藩置県のため、この城は愛知県所有となりました。しかし、明治24年の濃尾地震で半壊し、その修復を条件に城は再び成瀬家の所有となり、平成16年に財団法人に移管するまで日本で唯一、個人所有の城でした。

山頂へとつづくなだらかな石段をゆっくりと進んでいくと、今ではその姿を消した幾つかの城門の名残を見る事ができます。面白い事にこの犬山城は山麓から最後の城門をくぐるまで、その天守の姿を垣間見ることができないことに気が付きました。

城門へとつづく坂道
城門へとつづく坂道

そして最後の城門をくぐると美しい天守が始めてその全容を見せるという、ドラマチックな演出を体験することができるのです。

城門
城門から見る天守
山桜と天守
間近に見る天守

初めて見る犬山の天守のそれはそれは美しい姿にしばし感嘆の声をあげてしまいました。その昔にはおそらく本丸御殿があったであろう天守の下の広場には山桜が美しい彩りを見せています。
天守の下には神木「大杉様」が太い幹だけを残し立っています。この杉の木は天守をしのぐほどの高さを誇っていたといいます。しかし伊勢湾台風の際に雷にうたれ枯れてしまったとのこと。それ以降、地元の住民は、杉の木が犬山城の身代わりになってくれたとして、しめ縄をして祀っています。

神木「大杉様」

天守下の石垣から天守へ登っていきます。ほぼオリジナルの姿を残す犬山城は多くの城がコンクリート造りであることから、創建当時の木材がそのまま残り、長い歴史を刻んだ木材の温かみを感じさせてくれる最高のお城です。エレベーターもなく、当時のままの木の階段は幅も狭く、その急な角度には二の足を踏んでしまうほどです。

天守内の木製の階段
天守内
天守内

各層の床の木は戦国の時代に兵どもが甲冑をまとい行き来した息遣いすら感じるほどに歴史の輝きを放っていました。いよいよ天守の最上層へ登りつめます。何人もの城主が自らの国を眺めた望楼に到達した感動はこれまでに登った城の中でも極め付けの一語につきます。

天守最上層から城門を見る
木曽川の流れ
木曽川の流れ

天守の真下の広場、遥かに広がる犬山の街並みがまるで絵葉書のように広がっています。望楼を回りこんでみるとそこには感動的な景色が待っていました。悠々と流れる木曽川の水の色、そして背後に連なる美しい山並みはまさに絶景。確かに難攻不落という言葉がそのまま当てはまる名城の風格を感じる瞬間でした。

白鷺の如く美しい姿を見せる「姫路城」
天下の名城・国宝松本城



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