大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

木曽路十五宿街道めぐり(其の一) 塩尻~洗馬

2015年08月10日 09時01分15秒 | 木曽路十五宿街道めぐり
2015年8月現在、お江戸の歴史散策と併せて「東海道五十三次街道めぐり」も本年三月には第一期が無事京都三条大橋に到着しました。そして新たに第二期が現時点で新居宿に、そして第三期が保土ヶ谷に到着と私自身にとっても3回目の東海道を歩いています。

そんな最中、中山道も歩こうというかなり無謀な計画を企てたのですが、東海道五十三次が進行中に中山道六十九宿の完全踏破は物理的にも、肉体的にもかなり負担があるということで、中山道といっても最も美味しい区間だけをとりあげることにしました。

それが御存じ「木曽路」です。私自身、これまで木曽路を訪れたことはあったのですが、徒歩によるものではなく、交通機関を利用して点々と移動しただけのもので、木曽路の代名詞である「木曽谷」に沿っての旅は未体験ゾーンでした。

今回の旅は某旅行会社が主催する「木曽路十五宿街道めぐり」のルートに沿って、徒然なるままに書き連ねてみました。
尚、当該ブログに使用する画像は下見を敢行した春先のもので、降雪、積雪の季節外れのものになっています。

さて、一般的に言われる「木曽路」は中山道33番目の贄川宿(にえかわ)から43番目の馬籠宿までの11宿を指します。
私たちはこの11宿に塩尻、洗馬(せば)、本山、落合の4宿を加えた15宿を辿ることにしました。

その出立の地、塩尻へは新宿から特急「あずさ」に乗って向かいます。塩尻は松本盆地の南端、すなわち長野県のほぼ中央に位置しています。

地名の由来は海なし県である信州は、「塩」を生産することができなかったため、その昔には日本海から行商によってもたらされる塩を購入していました。
その行商たちは、ちょうどここ塩尻あたりで品切れになることから、「塩尻」と呼ばれるようになったと言われています。
現在の塩尻市は人口66839人で、県内随一の交通の要衝となっています。

そんな塩尻ですが、駅前はおせいじにも発展しているとは思えないほど閑散としています。
概して、地方都市にありがちな風景が広がっています。

駅前のロータリーに面して塩尻市の産品を扱う観光案内所が置かれています。その案内所に木曽路を歩く上で非常に役立つイラストマップを無料で配布しています。
幾つかのバージョンがありますが、塩尻から中津川に至る木曽路を歩くのであれば、下記の2種類をゲットしてください。





さあ!JR塩尻駅から専用バスで第1日目の起点である「道の駅・小坂田公園」へ向かうことにしましょう。駅からの所要時間はおよそ15分です。

かつての塩尻宿は現在の塩尻駅からは少し離れた場所にあります。私たちはここ小坂田公園からそれほど離れていない旧中山道筋へとまず向かうことにします。



小坂田公園はかなり広い公園です。道の駅を出立して、国道20号線の下をくぐるトンネルを抜け、緩やかな坂道を下っていくと右手には公園の敷地が広がります。そして最初の四つ角を左へ折れ、直進していきます。
前方になにやら大きな池が現れてきます。池の名前は「小坂田池」です。
この池を回り込むように道筋がつづいているので、道なりに進んでいくと、これまでの道幅と比べると、かなり広い道筋に出てきます。

この道筋を進み、四沢川を渡ると「下柿沢」の交差点にさしかかります。この交差点で旧中山道筋に合流します。
さあ!いよいよ中山道の旅が始まります。
そしてお江戸から数えて30番目の宿場町である「塩尻宿」へと進んでいきましょう。



下柿沢の交差点を右折します。道筋はすぐに二差路になりますが、私たちは右手へ進む旧街道筋へと入っていきましょう。
右手には田園風景が広がり、信州を歩いているんだな、と感じる瞬間です。そして先ほど渡った四沢川の流れが再び現れます。
そんな川筋の向こうにこんもりと繁った林が目に入ってきます。この林の中に堂宇を構えるのが「永福寺」です。



創建は元禄15年(1702)、木曽義仲縁の地である現在地に木曽義仲信仰の馬頭観世音を本尊として朝日観音を建立したのが始まりと伝えられています。



その後、朝日観音は焼失し一時衰退しましたが安政2年(1855)に現在の観音堂が再建されています。棟梁は当時名工として知られた2代目立川和四郎富昌が手懸けたもので、完成直前で死去した事で富昌最後の作となっています(富昌は特に彫刻に優れ、観音堂には12の蟇股に彫刻が予定されていましたが、死去した事で正面だけが完成しています)。正面にある山門(仁王門)は明治29年(1896)に建てられたものです。
観音堂で見るべき彫刻としては、向拝の中備にある竜の彫刻、頭貫の先端の象、つなぎ虹梁の獅子、たばさみのボタンの彫刻等です。
永福寺観音堂と山門は江戸時代後期から明治時代の寺院建築の遺構で名工が手懸けた意匠的に優れていることから昭和45年(1970)に塩尻市指定有形文化財に指定されています。

朝日観音の「朝日」の意味
木曽義仲は平家物語の中で「朝日将軍」と記述されています。京都から見て「朝日の昇る方向」からやってきた将軍、はたまた朝日が昇るような破竹の勢いで平家を都から追い出してくれた将軍という意味でこう呼ばれたのです。

永福寺を辞して、再び中山道筋を進んでいきましょう。この先で道筋は少し左手にカーブを切ります。そして153号線と合流するのですが、その合流地点の角に置かれているのが、お江戸から数えて58番目の「柿沢の一里塚跡」です。現在では「塚」はなく、一里塚があったことを示す石柱が置かれているだけです。



153号線はかなり交通量が多い道筋です。かつきちんとした歩道帯がないので、車の往来に十分気を付けて歩行してください。



さあ!いよいよお江戸から数えて30番目の宿場町であった「塩尻宿」の入り口にさしかかります。入口にあたる場所は「塩尻町」という信号交差点です。この辺りが歩き始めてちょうど2キロに達します。



「塩尻町」の交差点の手前の街道右側に2階部分にベンガラで色づけされた、古めかしい佇まいを見せる建築物があります。この建物は国指定重要文化財である「小野家住宅」です。



小野家は中山道塩尻宿の旅籠(屋号:いちょう屋)を代々営み、宿場の中心付近に屋敷を構えた宿場内有力者で農地を積極的に広げるなど豪農としての一面もありました。現在の主屋は文政11年(1828)の火災で焼失した後の天保7年(1835)に再建された木造2階建の建造物です。

【塩尻宿】
宿の長さは慶安4年(1651)の検地帳では5町40間でしたがが、天保14年(1843)の「中山道宿村大概帳」では東に伸びて7町29間となっています。宿は東から上町・中町(室町)・下町(宮本町)に区分され、道の両側を間口3~4間を一軒の規準として街村式に町割しました。
宿の中央部南側には東から問屋・本陣・脇本陣が並び、北側には問屋や大きな旅篭屋などが並び、これらは間口が10~20間にも及びました。(マップ参照のこと)

慶安4年(1651)の塩尻宿書上帳では家数119軒・人数828人で、この内旅篭は45軒ありました。幕末の天保14年(1843)の「中山道宿村大概帳」では家数166軒・人数794人となっています。

本陣は宿創設の際、西条村から川上氏が移住して代々本陣を勤めました。本陣は表門・上段の間を備え建坪は288坪、間口24間もあり、中山道第一の大きさを誇っていましたが、明治15年の大火で焼失しました。

脇本陣は本陣西隣にあり、本陣川上家の分家 川上喜十郎が江戸中期より勤めていましたが、明治の大火で焼失しました。

塩尻宿はこの明治15年の大火で本陣・問屋をはじめ、宿の大部分が焼失してしまったので、宿場時代の建造物は殆ど残っていません。その中で大型旅篭の小野家住宅(国重文)庄屋であった堀内家住宅(国重文)が残っているのみです。
※江戸時代の度量衡
1町:109.09m
1間:1,818m

塩尻宿内の本陣、脇本陣などの施設跡は街道の左側に集中しています。かつての建物は明治15年の大火で焼失しているので、現在はその跡地を示す石柱が立っているだけです。本陣があった場所はちょっとした公園のようになっています。
街道左手に移動するには、塩尻町の信号交差点を利用しますが、私たちはこの先で153号線から右手に分岐しますので、できれば153号線の右側を歩くことを勧めます。



塩尻宿のほぼ中心を進み、ちょうど本陣跡の小公園を過ぎると街道左手に大きな造り酒屋が現れます。門前に杉玉が吊るされています。屋号を「笑亀(しょうき)酒造」といいます。



街道筋から見える古めかしい装いの堂々とした建物は笑亀酒造店舗兼主屋です。明治16年(1883)、初代丸山紋一郎が雄大なアルプスの山々を望む信州塩尻宿の陣屋跡に、酒造業『嘉根満本家(かねまんほんけ)』を創業、銘酒「笑亀正宗」の醸造をはじめました。以来120余年、酒名を「笑亀(しょうき)」と改めながら、塩尻伝統の酒の味を守っています。

この「笑亀酒造」に残る笑亀酒造店舗兼主屋・笑亀酒造造蔵・笑亀酒造穀蔵の3つの建造物はすべて国の登録有形文化財として登録されています。



主屋は木造2階建て、切り妻造り桟瓦ぶきで、明治と昭和始めの意匠を融合した、重厚な外観です。写真右の「穀蔵」は土蔵造り2階建て、切り妻造りで、置屋根式の桟瓦ぶき。1、2階の境の高さまで生子壁の大型土蔵です。

「笑亀酒造」を左手に見ながら、街道を進んでいきましょう。この先で中山道の道筋は153号線と再び分岐して、右手へと入って行きます。その分岐点はかつて「鉤の手」と呼ばれていた場所です。車の往来の多い153線から分岐すると旧中山道は静かな道筋に変ります。

静かな道筋を進むと右手に鎮守の森が現れます。鎮守様の名前は「阿禮神社」です。旧街道に面して大きな鳥居が置かれ、その先に長い参道が延びて、その奥に立派な社殿が構えています。

詳しい創建年代は不明ですが、社伝によると素盞嗚命が出雲国簸川上の大蛇を平らげて後、科野国塩川上の荒彦山に化現し、悪鬼を討ち平らげたといいます。その大稜威を尊び仰ぎ奉ったのが当社の起源です。荒彦山は今の東山にある五百砥山(五百渡山)であるといいます。文徳天皇仁寿二年(852)、現社地に遷座し、大己貴命と誉田別命を合祀しました。
社名の阿禮は、「アレ」であり村落を意味するもので、村の神ということ。とにかく古い言葉のようです。

「阿禮神社」の鳥居が建つあたりで道筋は大きく左へと曲がります。右手に塩尻東小学校を見ながら進んで行きます。この辺りは住宅がつづきます。道筋を進むと、やおら見事な冠木門が街道の右手に突然現れます。



この門の奥に国の重要文化財「堀内家住宅」が構えています。
見事な門構えに入っていいものが迷ってしまうのですが、門の左端にくぐり戸があるのでここから門内へ入って行くことができます。



堀内家は江戸時代堀ノ内村の名主です。この建物は19世紀初期(文化年間)に下西条村から移築したものと伝えられています。建築様式は本棟造で切妻造妻入。板葺で勾配の緩い大屋根と庇棟飾りに特色がある民家形式の一つです。

もとの建物は18世紀後期(宝暦~天明年間)のものらしいのですが、何度か改造されたため、当初の姿が不明なところも多いようです。しかしこの本棟造の外観は2段重ねの破風、棟飾りの「雀おどり」、妻の壁部分の出格子窓等、美観を意図した意匠で高く評価されています。



堀内家住宅を過ぎると、道筋は再び153号線と合流します。その合流地点の角に幾つかの石碑が置かれています。それぞれの石碑には南無妙法蓮華経、道祖神、 秋葉大神、繭玉大神と刻まれています。
私たちは合流点の「大小屋」の信号交差点で153号線を渡り、左側へと移動します。

道筋はこの先で田川に架かる塩尻橋を渡ります。153号線の右側には田畑が広がり、その向こうには山並みが連なっています。



そして道筋はまもなくすると下大門の五差路にさしかかります。歩き始めて3.5キロ地点です。私たちは153線から分かれ左手へと入っていきます。

153号線から分岐して細い道筋へ入ると、それまでの喧騒から隔絶されたように静かな雰囲気が漂います。そんな道筋を進んで行くと前方に樹齢300年の欅の大樹が見えてきます。ここが「大門神社」です。



とはいうものの境内には社殿らしくない本殿が置かれています。
神社の案内板によると、「安曇族に関係あるといわれ、また桔梗が原の合戦に関係がある」とも。耳の形に似た素焼きの皿やおわんに穴をあけて奉納すると、耳の聞こえがよくなると評判になり、伊奈地方などから御参りにきたとあります。

大門神社はもともと柴宮八幡宮と呼ばれていたようです。 柴宮は正平10年の桔梗が原の南北朝の戦いで、南朝の指揮所になったところに建立されましたが、街道にあったので旅人の参拝が多かったとあり、昭和27年に上野山の麓にあった若宮八幡宮が合祠されて、現在の大門神社となったそうです。
建物は昭和50年代に建てられたものです。境内から銅鐸が発掘された旨の案内がありましたが、当時から祭祀に係わる場所だったのでしょう。

大門神社を後にして、街道を進んで行きましょう。この先はしばらく淡々として道筋がつづきます。



間もなくすると、前方にJR中央本線のガードが現れます。ガードをくぐると街道の両側は「昭和電工」の工場敷地がつづきます。かなり大きな工場で、私たちは工場を囲む塀に沿って500m以上歩くことになります。

街道の左手には広い田畑が広がってきます。これまでの道程はそれほどの起伏もなく、むしろ平坦な土地を歩いてきました。
つい木曽路と聞くと、山間の起伏ある道筋を辿り続けるイメージを持ちますが、私たちが今歩いている場所は遥か遠くに山並みを眺めながら田園地帯の中を進んでいるといった感じです。



そんな田園地帯を進んでいくと、何も遮るものがない平坦な土地に1本の松の木が前方に現れます。距離的にそろそろ一里塚が現れてもいい頃と思っていたのですが、松の木に近づくにつれてその姿はまさに一里塚そのものといった風体で私たちを迎えてくれます。



お江戸から数えて59番目の「平出の一里塚」です。道の南側にある一里塚の「松」は桔梗ヶ原合戦の時に、武田軍の軍師「山本勘助」が赤子を拾ったという伝説にちなみ「勘助子育の松」と呼ばれています。

また「平出の乳松」ともいい「松葉を煎じて飲むと乳の出が良くなる 」という言い伝えがあります。

一里塚は街道の左側の一つだけと思ったのですが、実はもう一つが右側の民家の中にありました。ほぼ完全な形で左右2基が残っているのは、長野県内ではめずらしいとのこと。



宝暦6年(1756)頃にはこの付近に茶屋が2軒あったそうですが、その当時は平な土地がつづく原野だったのではないでしょうか。そんな人里離れた場所に茶屋が2軒あったなんて、茶屋では旅人に何を供していたのでしょうか?

平出の一里塚を過ぎ、僅かな距離を進むと街道左側に「国史跡・平出遺跡」の看板が現れます。



このあたりは「うばふところ」と呼ばれる丘陵地帯で。古墳時代から平安時代までの古代の平出集落があった場所です。周囲には3つの円墳が残っていて、これらは6世紀中頃から7世紀中頃にかけてこの辺りを支配した権力者たちの墓とのことです。



街道からほんの少し奥まったところに竪穴式住居が再現されています。昭和25年からの発掘調査で、縄文時代中期60軒、後期2軒、古代の古墳時代79軒、平安時代28軒、時期不明30軒の計199軒の住居が発見されました。

この平出遺跡がある辺り一帯は信州のブドウ産地です。遺跡を取り囲むように「ブドウ棚」が広がっています。今でこそ、かつての原野はブドウ畑に開発されていますが、江戸時代、いや昭和の初めころまでは寂しい場所ではなかったのでは。

このあたりは昼と夜の寒暖の差が大きいので、良いぶどう酒がつくれるというので、現在は葡萄を栽培している農家がたいへん多いのです。国道付近は勿論、旧中山道一帯に観光果樹園を営む店がたくさんあります。



平出遺跡を後に、街道をさらに進んでいきましょう。街道の両側はどこまでもつづくぶとう棚が広がっています。
江戸時代にはこの辺りは畑以外何もない原野が広がっていたといいます。このことからこの辺りを「桔梗ヶ原」と呼ばれていました。甲斐の武田信玄が松本を根拠とした小笠原氏と合戦し、これを破った戦が行われた古戦場です。

そんな歴史を思い浮かべながら、街道の両側に広がるぶどう畑を眺めながら進んで行くと、道筋はこの先で国道19号線に合流します。合流する交差点の名前がすでに通り過ぎた中山道一里塚です。

それでは国道19号線に沿ってしばらく歩いていきましょう。私たちの中山道の旅ではこの19号線とはこれから先、随所で合流や分岐を繰り返します。

中山道一里塚交差点にさしかかったところで、本日の歩行距離は6.5キロに達します。ここから1キロ強の距離は国道19号に沿って進んでいきます。19号線に沿って「ぶどう」の直売所が点在しています。

同時に私たちが進む方向には、これから足を踏み込む木曽路の山並みが徐々に近づいてきます。中山道一里塚交差点から1キロ強で次の信号交差点「平出歴史公園」にさしかかります。この交差点を渡り、19号線から分岐する304号線へと進んでいきましょう。



この辺りに来ると、これまでの街道の風景は一変します。ブドウ棚の景色はなくなり、街道からは低い山並みの姿を見ることができます。さあ!まもなくするとお江戸から31番目の宿場町である「洗馬(せば)」宿」に到着です。



304号線に入り、本日の歩行距離8キロ地点を過ぎると、街道の左側に「ひょろっと」した松の木が1本立っています。その傍らに簡単な説明板が置かれています。松の名前は「肱掛松(ひじかけまつ)」と呼ばれているものです。



実は二代将軍秀忠公が場上洛の際、ここに立っていた松に肱をかけて休んだと言われているものです。この松は「洗馬の肱松、日出塩の青木、お江戸屏風の絵にござる」と歌われた赤松の銘木です。
そして、細川幽斎は「肱掛けて しばし憩える 松陰に、たもと涼しく 通う河風」と歌を詠んでいます。

肘掛松を過ぎると、すぐ右手に下る細い道があります。ほんの僅かな距離ですが、この細い道を下りていきましょう。この細道を下りる途中に、もともとの肘掛松があった場所があり、簡単な表示が置かれています。そして細道を下りきったところに1基の常夜灯が置かれています。



この細い道筋が終わる場所が「善光寺道の起点」です。すなわち、江戸時代の中山道新道(右側)と善光寺街道の「旧分去れ」になる場所です。右へ進むと松本を経て長野の善光寺に行ける道で、善光寺西街道ともいわれました。

そして旧分去れから50mほど進むと再び304号線と合流します。この合流地点に新分去れの道標が置かれています。ここにある道標は中山道新道が開設した際、旧道から移されたもので「左北国往還、善光寺道」「右中山道」と刻まれています。

さあ!この「分去れ」の道標から洗馬宿に入ります。304号に合流するとすぐに街道の右に「あふたの清水」標識が現れます。
塩尻市ふるさと名水20選の一つである「邂逅の清水」が湧き出ています。「邂逅の清水」のいわれは治承4年(1179)、平氏追討の令旨を受けて木曽義仲が旗揚げし、小県の依田城を目指す途中で家臣の今井四朗兼平がこの地で義仲と合流したのが「あふた」(会うた)の由来です。

この時、義仲の愛馬は強行軍で疲れ果てていた為、兼平がこの清水で足を洗うと、忽ち元気を取り戻したと云われ、この地の名前である「洗馬」の由来になりました。

【洗馬宿】
お江戸から数えて31番目の洗馬宿は本陣1軒・脇本陣1軒・旅籠29軒・家数163軒・人口661人
宿内の長さは五町五十間ということなので、700mほどでしょう。宿南北の出入り口は鉤型、宿内は湾曲して作られ、屋敷間口は3間を基本とし細長い屋敷割にされています。

享保10年(1725)松本藩から幕府直轄領となりました。昭和7年(1932)の洗馬大火で宿並は殆ど焼失し、歴史を感じるような建造物はほとんどありません。

脇本陣の隣に貫目改所跡を示す木杭が立っています。江戸時代に置かれた荷物貫目改所とは、街道を通過する公用荷駄の重さを調べる検問所のことで、中山道では板橋宿と追分宿とここの三ヶ所に設けられました。
規定を超えた荷物には割増金を課しました。ようするに伝馬役に加重な負担がかからないようにするためです。

洗馬宿は江戸時代から明治にかけ、何度も火災にあっていますが、昭和7年(1932)の火災で本陣や脇本陣を含めて200軒以上の家が焼失してしまったことと関係があると思われます。本陣であった百瀬家の跡地には家が建っていて、その前にそれを示す木杭が立っています。往時、本陣の庭園は「善光寺名所図会」に「中山道に稀な庭園」と紹介されています。

脇本陣であった志村家の建物は今はなく、明治天皇が休憩をとられたことを示す記念碑が置かれており、その反対側に脇本陣を示す木杭が立っているだけです。

木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の七)奈良井~鳥居峠~藪原
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十三)倉本駅前~須原宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十六)野尻宿~三留野宿~南木曽
木曽路十五宿街道めぐり(其の十七)南木曽~妻籠峠~妻籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十八)妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十九)馬籠宿~落合宿の東木戸
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿



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