妻籠峠を越えるとほんの僅かな距離でお江戸から42番目の宿場町である妻籠に到着します。
妻籠宿
木曽路十一宿の中でも最も古い町並みが保存され、街道時代の宿場町の雰囲気を色濃く残している宿場といっていいでしょう。
私たちは昨日、妻籠の入口をほんの少し入った所から第1駐車場へと向かいました。
さあ!第3日目の旅が始まります。
旅の出立地点は第1駐車場です。ここを本日の0㎞といたします。
旅の始まりに際して今回の旅の一大ハイライトでもある妻籠宿の散策をお楽しみいただき、その後、木曽路の山間を抜け、ちょっとキツイ馬籠峠を越えて、43番目の宿場町である馬籠宿の入り口までの7.4キロを踏破します。
朝早い時間であれば、観光客も少なく、私たちだけで妻籠宿を独り占めできかもしれません。
それでは駐車場から宿内へと進んでいきましょう。
妻籠宿は昭和51年(1976)重要伝統的建造物群保存地区の第1号に指定され、木曽路と言えば「妻籠宿」というくらいに木曽路を代表する観光地になっています。
最近では日本人以外にもたくさんの外国人が訪れる日本屈指の観光地になっています。
昨日までは木曽川の流れを友に旅を続けてきましたが、南木曽から妻籠へと辿る道筋に入ると、木曽川の流れは街道から遠く離れてしまいます。妻籠宿はその木曽川に流れ込む支流である「蘭川(あららぎがわ)」の東岸に細長くつづいています。
天保14年(1843)の記録によると、宿内の距離は二町三十間(約273m)で、宿内には人口418人、本陣1、脇本陣1、旅籠31軒の規模であったと記されています。
妻籠宿
宿内に入ると、電信柱、派手な看板もないすっきりとした舗装道路道がまっすぐにつづいています。路肩の側溝には清らかな水が流れているようです。奈良井の宿でも感じたことですが、長い街道の旅の途中に現れる整然とした宿場に辿りついた旅人はなんとも心安らかな気持ちになったのではないでしょうか。暮六つともなると日は西へ落ち、旅人たちは旅籠の常夜燈をたよりにそそくさと宿へ向かい、夕げのもてなしに安堵したはずです。
そして夜の帳が宿を包む頃、宿場全体が木曽の山間の深閑とした空気の中に沈んでいく、なんて光景が目に浮かんでくるような家並みが目の前に現れます。
それではまず妻籠宿の脇本陣奥谷(南木曽町博物館)まで進んでいくことにしましょう。
宿内に入ってそれほど歩かない場所に位置する脇本陣奥谷では入館して見学をいたします。
見学後、集合場所と集合時間を決めて、妻籠宿内の散策をお楽しみいただきます。
妻籠宿脇本陣と問屋を務めた林家は「奥谷」の屋号で酒造業を家業とし、昭和8年(1933)まで「鷺娘」という酒を醸造していました。現在の建物は明治10年(1877)の建築でさすが木曽だけに総檜造りです。
脇本陣奥谷
館内ではガイドの説明を聞きながら屋敷内を見学できます。脇本陣の建物の裏手には歴史資料館が併設されており、木曽谷や宿場に関する歴史資料や模型が展示されています。
脇本陣奥谷
脇本陣と問屋を務めた林家は広大な山林と豊かな財力を誇った家で、藤村の詩「初恋」にうたわれた大黒屋のおゆふさまの嫁ぎ先でもあります。「夜明け前 」では扇谷得右衛門 として登場します。
江戸時代は身分制度のもとで商人などには制約があって、お金持ちであっても、木曽の美林に囲まれていながらも、自由に木を伐採できなかった町人たちが、明治維新を迎え、その開放感から財力の限りをつくして造ったのがこの脇本陣の建物です。木曽の檜をおしげもなく使用した建物には細部にわたり趣向を凝らした贅沢な造りです。
明治天皇が行幸されたおりに宿泊し、そのために用意した風呂や厠がそのまま残っています。また隠し部屋などもあり一見の価値はあります。そして建物の2階からは妻籠城があった城山を遠望することができます。
平成13年に国の重要文化財に指定され、現在は南木曾町博物館となっています。
奥谷脇本陣からほんの少し進むと、左手に冠木門が現れます。ここが妻籠宿の本陣です。
妻籠宿の本陣
妻籠本陣は慶長6年(1601)の中山道整備開始とともに、妻籠村代官である島崎監物重綱の二男に命じて本陣経営が始まり、その後代々受け継がれていきました。
幕末の動乱期に本陣を務めた島崎与次衛門重佶(しげたか)は藤村の小説「夜明け前」に登場する半蔵の従兄弟である「青山寿平治」の名前で登場しています。また藤村の母「ぬい」の実家でもあります。
最後の当主は藤村の次兄「広助」で養子縁組して跡を継ぎました。
当本陣は明治32年に時の政府に買い上げられ、建物は破却されてしまいました。平成7年に復元されて公開されています。
本陣跡を過ぎると、その先は「桝形跡」があり、本来の道筋は右へ直角に折れて階段状になって、その先につづいています。現在は街道がまっすぐに行けるように整備されています。
細い道筋がつづき、道の片側(右側)に古い家並みが連なっています。妻籠宿の家並の光景の中で、最も趣のある場所ではないでしょうか。この古い家並みが残っている地域を寺下と呼んでいます。
寺下の地域名は先ほどの桝形を曲がる手前の左側奥に堂宇を構える「光徳寺」があるからです。
当寺は明応9年(1500)に創建という古刹です。桝形から左手のちょっとした高台にまるで城壁のような石垣を築き、白壁の塀で囲われています。ご本堂は江戸時代の享保10年(1725)に建立されたものです。
当寺には脇本陣を経営した林家の墓や藤村の初恋の人である「おゆふさん」の墓があります。
桝形で分岐した道筋はこの先で左手からくる新しい道筋と合流します。妻籠宿の中でも、最も街道の宿場町らしい雰囲気を漂わせるのが「寺下」の家並だと思います。街道の左右に連なる家並みを眺めながら進んでください。
間もなくすると妻籠宿の家並が途切れるあたり、尾又のはずれにさしかかります。
妻籠の南木戸がどこに置かれていたのかは定かではありませんが、尾又あたりからは街道沿いにそれまでの家並はありません。
おそらく尾又あたりが本来の宿場のはずれではなかったのでは……。
道筋はいくらか上り坂に変じながら、木々に覆われた場所を進んで行きます。
道筋はすぐに256号線と合流します。
現在は256号線によっていったん遮断されていますが、街道時代はそのまま直進していました。
256号線を渡った反対側に「妻籠宿」と書かれた大きな標が置かれています。
さあ!妻籠宿をここで出ることにしましょう。
旧街道は256号線ではなく、ちょうどこの大きな標のすぐ裏側から始まるのが道筋です。
確かに妻籠宿を貫く街道は256号線を越えて、細い道筋へと繋がっているように見えます。
それでは次の宿場町である「馬籠宿」を目指すことにしましょう。この地点からおよそ6.4キロの距離です。
馬籠宿の大きな標の裏から始まる道筋は草道、土道といったもので、和たちたちのような木曽路を辿る人以外は通る人も少ないのではないでしょうか?
そんな道筋を進んで行くと小さな集落が現れます。橋場集落と言います。この橋場集落がある辺りはその昔には中山道と飯田街道の分岐点であったため「追分」と呼ばれていました。そして草道は集落が途切れたあたりで舗装道路に合流します。
蘭川(あららぎがわ)に架かる「大妻橋」の袂には「飯田道・中仙道」と刻まれた石柱が置かれています。
妻籠宿を出たからほんの僅かな距離しか歩いていないのですが、周囲には山並みが迫ってきます。大妻橋を渡り舗装道路をほんの僅か進むと、街道から分岐するように右手の山へと分け入るような細い道筋が現れます。道筋の入口は階段が付けられて、いよいよ木曽路の山間へと入って行くのか、という気持ちが高ぶってきます。この階段が付けられている坂道を「神明坂」と呼んでいます。
木々に覆われた坂道を進むと、途中で清らかな水が流れる小さな沢に架けられた橋を渡り、くねくねとした趣ある道を上っていきます。
そして坂上に小さな集落があります。この集落は神明集落です。家並みの中に街道の旅籠のような古そうな家が静かに佇んでいます。
あっという間に通り過ぎてしまうほど小さな神明集落を過ぎると、道筋は今度は下りへと変ります。緩やかな坂を下りきると蘭川の支流である「男垂川(おたれがわ)」に架かる神明橋にさしかかります。
この神明橋付近が本日の行程の中で最も標高が低い場所で、この後、馬籠峠まで木曽の山間の中を辿る長~い、長~い登り坂の行程が待っています。
そんな木曽谷の底を流れるのが「男垂川」です。
神明橋を渡ると、まもなく「大妻籠」の集落です。
大妻籠
道筋は緩やかな上り坂となり、古い佇まいを残す大妻籠の集落へと入って行きます。
大妻籠集落の真ん中あたりで、歩き始めて2キロ地点です。
妻籠本宿の南木戸からは僅か1キロしか離れていない場所にある集落です。妻籠ほど規模は大きくないのですが、この集落には立派な本卯建(ほんうだつ)に出桁造りの立派な家が街道に面して建っています。これらの家はかつては旅籠を営んでいたのかもしれません。現在は民宿となっています。
大妻籠家並み
大妻籠家並み
大妻籠家並み
大妻籠家並み
しかし、ここを訪れる人も少ないようで、観光客はほとんどいません。おそらく妻籠本宿を見て満足してここまで足をのばさないのでしょう。17世紀頃には大妻籠集落は成立していたといいます。
大妻簿集落を抜けて、再び男垂川を渡ると旧街道は7号線にいったん合流します。
ほんの僅かな距離ですが7号線に沿って進むと、やおら現れるのが旧街道の上り坂で、なんと綺麗な石畳の道が鬱蒼とした高野槙の林の中へ延びています。
さあ!ここからが本格的な馬籠峠へのキツイ上り坂の始まりなのか、と思いつつ、石畳の道へ足を踏み込みます。
比較的新しく整備された石畳の道ですが、石段や階段状の上り坂より、はるかに体に楽です。
鬱蒼とした高野槙の林の中を石畳がつづきます。そして上って行くとヘアピンカーブのように大きく曲がる箇所にさしかかります。
ふと後ろを振り返ると、今辿ってきた石畳の道がまるで蛇のようにくねらせている様子を見ることができます。
確かに木曽の山中を辿っているという雰囲気を十分に味わうことができます。
結構キツイな、と思いながら石畳の道を上って行くと、突然石畳の道が途切れ、いったん下り坂となります、その下り坂の先にあるのが「下り谷集落」です。下り坂集落を抜けると道筋はほぼ平坦になります。
すこし息を整えながら進んで行くと、街道の左側の少し高い位置に小さな祠が置かれています。倉科祖霊社というようです。
倉科祖霊社
松本城主小笠原貞慶の重臣「倉科朝軌」の霊が祀られているといいます。天正14年(1586)に倉科朝軌は大阪の豊臣秀吉のもとへ使いに行き、その帰りに馬籠峠で土豪に襲われて、ここ下り谷の地で非業の死を遂げたと伝えられています。そんな倉科朝軌を祀る小さな祠が街道脇にぽつねんと置かれています。
中山道・木曽路はこの先で二股に分かれます。左へ進む道も中山道、右へ進む道も中山道なのですが、私たちはこの先にある「男滝」と「女滝」を見るため右手につづく道へと進んで行きます。
あくまでも勝手な想像なのですが、大名行列や牛馬を曳く牛方は勾配の緩やかな滝上の道(左手の道)を通り、身軽な旅人は滝見物がてら滝下の道(右手の道)を辿ったのでは……。いずれにしてもどちらの道を行っても、この先で合流します。
二股に分岐した道筋は緩やかな下り坂となり、やがて男垂川に架かる橋にさしかかります。橋を渡ると街道から逸れるように男滝へと通じる細い道筋の入口が現れます。
男滝
女滝
吉川英治の「宮本武蔵」に武蔵とお通のロマンスの一場面として登場する滝です。
また「滝壺に金の鶏が舞い込んだ」という倉科伝説が伝わっています。
男滝から女滝へ遊歩道を辿りながら見物を終えると、最後は7号線へ戻るために梯子段のような石段を上ります。
7号線に沿ってしばらく進んでいきましょう。
途中で、二又に分かれたもう一方の道筋が左手から下りてきます。
そして、この先で7号線から右手へ分岐する道筋に架かる木橋が現れます。
木橋を渡ると、再び木曽路らしい鬱蒼とした木立の中の道筋に変ります。しかもラフロードで旧街道を歩いているといった雰囲気を十分に感じることができます。馬籠峠への道筋は結構変化に富んで、楽しいものです。
男垂川の心地よい水の流れが耳に入ってきます。鬱蒼とした木々の間を辿って行く道筋ですが、木漏れ日が射し込む土道は街道時代に多くの旅人が踏みしめたと思うと感慨深いものがあります。
道筋は緩やかな上り坂でそれほど体に負担がありません。まもなくすると道筋は7号線に合流しますが、旧街道は7号線を渡った向こう側へと更にのびています。
7号線を渡ると、その先は趣ある石畳の道が林の中へつづいています。その入口の右側に「中山道・一石栃口」と刻まれた大きな石の標が置かれています。
さあ!ここから林の中を500m強進むと「一石栃の白木改番所跡」に到着します。
鬱蒼とした木々に囲まれた街道を進むと、天狗の腰掛けと呼ばれている「サワラの大樹」に出会えます。昔から山の神や天狗が腰を掛けて休む場所と信じられてきました。
旧街道は馬籠峠の頂に向かって山の中を緩やかに上っていきます。鬱蒼とした木々が突然開けると一石栃(いちこくとち)の白木改番所(しらきあらためばんしょ)跡が現れます。
この番所は尾張藩が設置したもので、木曽五木をはじめとする森林資源を管理する目的で、小枝1本に至るまで厳重に調べられたといいます。この場所にはトイレと江戸時代後期に建てられた牧野家住宅の無料休憩所が置かれています。
無料休憩所
一石栃白木改番所跡で小休した後、いよいよ馬籠峠の頂へと進んでいきます。
馬籠峠への道筋は予想していたよりも比較的緩やかなのですが、やはり一部にはキツイ個所もあります。
馬籠峠は標高801mですが、ここに至るまでにすでに標高をかなり上げているので、感覚的に801mの高さにいるようにおもえません。木曽路を歩いていると、ほぼ700m~800mを越えた場所を常に歩いているわけですから。
そんな馬籠峠に到着するちょっと手前から再び石畳の上り坂となり、石畳が途切れたところで7号線に合流するのですが、ここが馬籠峠の頂です。
7号線との合流地点には「峠の茶屋」が1軒あるのですが、季節によっては営業していないようです。
峠を越えると、私たちは岐阜県に入ります。そして道筋は下り坂へと変じます。
7号線にそって少し下っていきましょう。
そしてほんの僅かな距離を進むと、7号線から右手に分岐する道筋の入口が見えてきます。
もちろんこの道筋も下り坂です。峠までの上り坂で体力を消耗した者にとって、下り坂はほんとうにありがたく感じます。
坂を下り始めたあたりで、本日の歩行距離は5.5キロに達します。馬籠の到着地点まで、残すところ2キロに迫ってきました。
坂道はかなりの勾配となり、一気に峠を下っていくといった感じです。
そしてこれまで辿ってきた木曽谷の旅も終わりに近づいてきます。これから進む道筋の前方の山並みは低くなり、視界が広がってきます。そして中仙道はやがて広い濃尾平野へとつながっていきます。
さあ!馬籠宿へ急ぐことにしましょう。
7号線から分岐して、坂道を下ってくると街道左手に熊野神社の社が構えています。
そんな熊野神社を鎮守とする峠の集落が軒を連ねています。この辺りの集落は古くから「牛方」を生業としてきたと言われています。この集落は宝暦12年(1762)の大火後に再建された家並みが残っています。
「牛方」は俗に「岡舟」と呼ばれ、牛を使って荷物を運搬する業者のことをいいます。ここの牛方たちはなんと美濃の今渡から長野の善光寺辺りまで荷物を運んでいたといいます。
江戸時代の幕末の安政3年(1856)に中津川の問屋の不当な扱いに対して、荷役拒否をしたことで知られ、藤村の「夜明け前」にこの様子が描かれています。
峠の集落は街道らしい風情を漂わせています。過ぎ去った時代にはこの街道を荷役を担う多くの牛が闊歩していたのではないでしょうか。峠の集落を抜けると、道筋は緩やかな下り坂となり先へつづいています。
そして集落のはずれに十辺舎一九の大きな石碑が置かれています。
「渋皮の むけし女は見えねども 栗のこわめし ここの名物」
一九の句に現れる「栗のこわめし」は馬籠峠の名物だったようです。一九は江戸時代の文政2年(1819)に木曽路を辿り、この句を詠んだのです。
十辺舎一九の大きな石碑を過ぎても道筋は緩やかに下っています。途中、清水立場跡を過ぎて、石畳の梨乃木坂の下りへと入ってきます。
梨乃木坂を下ると、街道は再び7号線と合流します。その合流地点の右側に架かる岩田橋の向こうに水車小屋があります。
この水車小屋がある場所には「水車塚」が置かれています。
水車塚とは明治37年(1904)7月にこの場所に住んでいた一家4人が山崩れにより家ごと押し流され惨死したといいます。
難を逃れた家族の一人である蜂谷義一が藤村と親交があったことで、供養のため碑文を藤村に依頼して水車塚を建立したといいます。
「山家にありて 水にうもれたる 蜂谷の家族 四人の記念に 島崎藤村しるす」と碑文が刻まれています。
標高801mの馬籠峠から坂を下り、この辺りの標高は645mとかなり下げてきました。
いったん7号線と合流した旧街道はこの先、沢伝いに緩やかに下る細い道筋へと入って行きます。馬籠宿到着の期待を胸に膨らませながら細い道筋を辿ると、再び7号線と合流します。
合流地点から7号線を辿り、本日の到着地点へ向かってもいいのですが、もう一つのルートが7号線から分岐するように眼前の山の中へ道筋がつづいています。
その道筋は入口から階段の上りとなっています。一応、中山道と表示があるので階段を上っていくことにします。本日、最後のキツイ上り坂といってもいいでしょう。この坂を上って行くと馬籠宿の北側のはずれに位置する「馬籠上陣場の展望台」に行き着きます。
陣場とは天正12年(1584)豊臣秀吉と徳川家康が争った小牧長久手の戦いで、豊臣方の島崎重通が篭る馬籠城を攻略すべく、徳川方兵7000の一部がこの地に陣を敷きました。よってこの辺り一帯の地名を陣場と呼ぶようになったそうです。
上陣場の展望台からは真正面に恵那山を望むことができます。そしてこれまで辿ってきた木曽の山々は後方へと遠ざかり、これから先は深い谷もなければ、鬱蒼とした山並みもありません。
やっと木曽路を終えた気分になりますが、実はまだ木曽路は終わっていないのです。
馬籠宿高札場
馬籠宿
展望台で休憩の後、本日の終着地点(7.4キロ)であると同時に第3回目の旅の終着でもある駐車場へ向かうことにいたします。
馬籠宿の入り口のすぐそばにいながら、宿内の見学は次回のお楽しみということで、バスが待つ駐車場へご案内いたします。
木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の七)奈良井~鳥居峠~藪原
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十三)倉本駅前~須原宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十六)野尻宿~三留野宿~南木曽
木曽路十五宿街道めぐり(其の十七)南木曽~妻籠峠~妻籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十九)馬籠宿~落合宿の東木戸
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿
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妻籠宿
木曽路十一宿の中でも最も古い町並みが保存され、街道時代の宿場町の雰囲気を色濃く残している宿場といっていいでしょう。
私たちは昨日、妻籠の入口をほんの少し入った所から第1駐車場へと向かいました。
さあ!第3日目の旅が始まります。
旅の出立地点は第1駐車場です。ここを本日の0㎞といたします。
旅の始まりに際して今回の旅の一大ハイライトでもある妻籠宿の散策をお楽しみいただき、その後、木曽路の山間を抜け、ちょっとキツイ馬籠峠を越えて、43番目の宿場町である馬籠宿の入り口までの7.4キロを踏破します。
朝早い時間であれば、観光客も少なく、私たちだけで妻籠宿を独り占めできかもしれません。
それでは駐車場から宿内へと進んでいきましょう。
妻籠宿は昭和51年(1976)重要伝統的建造物群保存地区の第1号に指定され、木曽路と言えば「妻籠宿」というくらいに木曽路を代表する観光地になっています。
最近では日本人以外にもたくさんの外国人が訪れる日本屈指の観光地になっています。
昨日までは木曽川の流れを友に旅を続けてきましたが、南木曽から妻籠へと辿る道筋に入ると、木曽川の流れは街道から遠く離れてしまいます。妻籠宿はその木曽川に流れ込む支流である「蘭川(あららぎがわ)」の東岸に細長くつづいています。
天保14年(1843)の記録によると、宿内の距離は二町三十間(約273m)で、宿内には人口418人、本陣1、脇本陣1、旅籠31軒の規模であったと記されています。
妻籠宿
宿内に入ると、電信柱、派手な看板もないすっきりとした舗装道路道がまっすぐにつづいています。路肩の側溝には清らかな水が流れているようです。奈良井の宿でも感じたことですが、長い街道の旅の途中に現れる整然とした宿場に辿りついた旅人はなんとも心安らかな気持ちになったのではないでしょうか。暮六つともなると日は西へ落ち、旅人たちは旅籠の常夜燈をたよりにそそくさと宿へ向かい、夕げのもてなしに安堵したはずです。
そして夜の帳が宿を包む頃、宿場全体が木曽の山間の深閑とした空気の中に沈んでいく、なんて光景が目に浮かんでくるような家並みが目の前に現れます。
それではまず妻籠宿の脇本陣奥谷(南木曽町博物館)まで進んでいくことにしましょう。
宿内に入ってそれほど歩かない場所に位置する脇本陣奥谷では入館して見学をいたします。
見学後、集合場所と集合時間を決めて、妻籠宿内の散策をお楽しみいただきます。
妻籠宿脇本陣と問屋を務めた林家は「奥谷」の屋号で酒造業を家業とし、昭和8年(1933)まで「鷺娘」という酒を醸造していました。現在の建物は明治10年(1877)の建築でさすが木曽だけに総檜造りです。
脇本陣奥谷
館内ではガイドの説明を聞きながら屋敷内を見学できます。脇本陣の建物の裏手には歴史資料館が併設されており、木曽谷や宿場に関する歴史資料や模型が展示されています。
脇本陣奥谷
脇本陣と問屋を務めた林家は広大な山林と豊かな財力を誇った家で、藤村の詩「初恋」にうたわれた大黒屋のおゆふさまの嫁ぎ先でもあります。「夜明け前 」では扇谷得右衛門 として登場します。
江戸時代は身分制度のもとで商人などには制約があって、お金持ちであっても、木曽の美林に囲まれていながらも、自由に木を伐採できなかった町人たちが、明治維新を迎え、その開放感から財力の限りをつくして造ったのがこの脇本陣の建物です。木曽の檜をおしげもなく使用した建物には細部にわたり趣向を凝らした贅沢な造りです。
明治天皇が行幸されたおりに宿泊し、そのために用意した風呂や厠がそのまま残っています。また隠し部屋などもあり一見の価値はあります。そして建物の2階からは妻籠城があった城山を遠望することができます。
平成13年に国の重要文化財に指定され、現在は南木曾町博物館となっています。
奥谷脇本陣からほんの少し進むと、左手に冠木門が現れます。ここが妻籠宿の本陣です。
妻籠宿の本陣
妻籠本陣は慶長6年(1601)の中山道整備開始とともに、妻籠村代官である島崎監物重綱の二男に命じて本陣経営が始まり、その後代々受け継がれていきました。
幕末の動乱期に本陣を務めた島崎与次衛門重佶(しげたか)は藤村の小説「夜明け前」に登場する半蔵の従兄弟である「青山寿平治」の名前で登場しています。また藤村の母「ぬい」の実家でもあります。
最後の当主は藤村の次兄「広助」で養子縁組して跡を継ぎました。
当本陣は明治32年に時の政府に買い上げられ、建物は破却されてしまいました。平成7年に復元されて公開されています。
本陣跡を過ぎると、その先は「桝形跡」があり、本来の道筋は右へ直角に折れて階段状になって、その先につづいています。現在は街道がまっすぐに行けるように整備されています。
細い道筋がつづき、道の片側(右側)に古い家並みが連なっています。妻籠宿の家並の光景の中で、最も趣のある場所ではないでしょうか。この古い家並みが残っている地域を寺下と呼んでいます。
寺下の地域名は先ほどの桝形を曲がる手前の左側奥に堂宇を構える「光徳寺」があるからです。
当寺は明応9年(1500)に創建という古刹です。桝形から左手のちょっとした高台にまるで城壁のような石垣を築き、白壁の塀で囲われています。ご本堂は江戸時代の享保10年(1725)に建立されたものです。
当寺には脇本陣を経営した林家の墓や藤村の初恋の人である「おゆふさん」の墓があります。
桝形で分岐した道筋はこの先で左手からくる新しい道筋と合流します。妻籠宿の中でも、最も街道の宿場町らしい雰囲気を漂わせるのが「寺下」の家並だと思います。街道の左右に連なる家並みを眺めながら進んでください。
間もなくすると妻籠宿の家並が途切れるあたり、尾又のはずれにさしかかります。
妻籠の南木戸がどこに置かれていたのかは定かではありませんが、尾又あたりからは街道沿いにそれまでの家並はありません。
おそらく尾又あたりが本来の宿場のはずれではなかったのでは……。
道筋はいくらか上り坂に変じながら、木々に覆われた場所を進んで行きます。
道筋はすぐに256号線と合流します。
現在は256号線によっていったん遮断されていますが、街道時代はそのまま直進していました。
256号線を渡った反対側に「妻籠宿」と書かれた大きな標が置かれています。
さあ!妻籠宿をここで出ることにしましょう。
旧街道は256号線ではなく、ちょうどこの大きな標のすぐ裏側から始まるのが道筋です。
確かに妻籠宿を貫く街道は256号線を越えて、細い道筋へと繋がっているように見えます。
それでは次の宿場町である「馬籠宿」を目指すことにしましょう。この地点からおよそ6.4キロの距離です。
馬籠宿の大きな標の裏から始まる道筋は草道、土道といったもので、和たちたちのような木曽路を辿る人以外は通る人も少ないのではないでしょうか?
そんな道筋を進んで行くと小さな集落が現れます。橋場集落と言います。この橋場集落がある辺りはその昔には中山道と飯田街道の分岐点であったため「追分」と呼ばれていました。そして草道は集落が途切れたあたりで舗装道路に合流します。
蘭川(あららぎがわ)に架かる「大妻橋」の袂には「飯田道・中仙道」と刻まれた石柱が置かれています。
妻籠宿を出たからほんの僅かな距離しか歩いていないのですが、周囲には山並みが迫ってきます。大妻橋を渡り舗装道路をほんの僅か進むと、街道から分岐するように右手の山へと分け入るような細い道筋が現れます。道筋の入口は階段が付けられて、いよいよ木曽路の山間へと入って行くのか、という気持ちが高ぶってきます。この階段が付けられている坂道を「神明坂」と呼んでいます。
木々に覆われた坂道を進むと、途中で清らかな水が流れる小さな沢に架けられた橋を渡り、くねくねとした趣ある道を上っていきます。
そして坂上に小さな集落があります。この集落は神明集落です。家並みの中に街道の旅籠のような古そうな家が静かに佇んでいます。
あっという間に通り過ぎてしまうほど小さな神明集落を過ぎると、道筋は今度は下りへと変ります。緩やかな坂を下りきると蘭川の支流である「男垂川(おたれがわ)」に架かる神明橋にさしかかります。
この神明橋付近が本日の行程の中で最も標高が低い場所で、この後、馬籠峠まで木曽の山間の中を辿る長~い、長~い登り坂の行程が待っています。
そんな木曽谷の底を流れるのが「男垂川」です。
神明橋を渡ると、まもなく「大妻籠」の集落です。
大妻籠
道筋は緩やかな上り坂となり、古い佇まいを残す大妻籠の集落へと入って行きます。
大妻籠集落の真ん中あたりで、歩き始めて2キロ地点です。
妻籠本宿の南木戸からは僅か1キロしか離れていない場所にある集落です。妻籠ほど規模は大きくないのですが、この集落には立派な本卯建(ほんうだつ)に出桁造りの立派な家が街道に面して建っています。これらの家はかつては旅籠を営んでいたのかもしれません。現在は民宿となっています。
大妻籠家並み
大妻籠家並み
大妻籠家並み
大妻籠家並み
しかし、ここを訪れる人も少ないようで、観光客はほとんどいません。おそらく妻籠本宿を見て満足してここまで足をのばさないのでしょう。17世紀頃には大妻籠集落は成立していたといいます。
大妻簿集落を抜けて、再び男垂川を渡ると旧街道は7号線にいったん合流します。
ほんの僅かな距離ですが7号線に沿って進むと、やおら現れるのが旧街道の上り坂で、なんと綺麗な石畳の道が鬱蒼とした高野槙の林の中へ延びています。
さあ!ここからが本格的な馬籠峠へのキツイ上り坂の始まりなのか、と思いつつ、石畳の道へ足を踏み込みます。
比較的新しく整備された石畳の道ですが、石段や階段状の上り坂より、はるかに体に楽です。
鬱蒼とした高野槙の林の中を石畳がつづきます。そして上って行くとヘアピンカーブのように大きく曲がる箇所にさしかかります。
ふと後ろを振り返ると、今辿ってきた石畳の道がまるで蛇のようにくねらせている様子を見ることができます。
確かに木曽の山中を辿っているという雰囲気を十分に味わうことができます。
結構キツイな、と思いながら石畳の道を上って行くと、突然石畳の道が途切れ、いったん下り坂となります、その下り坂の先にあるのが「下り谷集落」です。下り坂集落を抜けると道筋はほぼ平坦になります。
すこし息を整えながら進んで行くと、街道の左側の少し高い位置に小さな祠が置かれています。倉科祖霊社というようです。
倉科祖霊社
松本城主小笠原貞慶の重臣「倉科朝軌」の霊が祀られているといいます。天正14年(1586)に倉科朝軌は大阪の豊臣秀吉のもとへ使いに行き、その帰りに馬籠峠で土豪に襲われて、ここ下り谷の地で非業の死を遂げたと伝えられています。そんな倉科朝軌を祀る小さな祠が街道脇にぽつねんと置かれています。
中山道・木曽路はこの先で二股に分かれます。左へ進む道も中山道、右へ進む道も中山道なのですが、私たちはこの先にある「男滝」と「女滝」を見るため右手につづく道へと進んで行きます。
あくまでも勝手な想像なのですが、大名行列や牛馬を曳く牛方は勾配の緩やかな滝上の道(左手の道)を通り、身軽な旅人は滝見物がてら滝下の道(右手の道)を辿ったのでは……。いずれにしてもどちらの道を行っても、この先で合流します。
二股に分岐した道筋は緩やかな下り坂となり、やがて男垂川に架かる橋にさしかかります。橋を渡ると街道から逸れるように男滝へと通じる細い道筋の入口が現れます。
男滝
女滝
吉川英治の「宮本武蔵」に武蔵とお通のロマンスの一場面として登場する滝です。
また「滝壺に金の鶏が舞い込んだ」という倉科伝説が伝わっています。
男滝から女滝へ遊歩道を辿りながら見物を終えると、最後は7号線へ戻るために梯子段のような石段を上ります。
7号線に沿ってしばらく進んでいきましょう。
途中で、二又に分かれたもう一方の道筋が左手から下りてきます。
そして、この先で7号線から右手へ分岐する道筋に架かる木橋が現れます。
木橋を渡ると、再び木曽路らしい鬱蒼とした木立の中の道筋に変ります。しかもラフロードで旧街道を歩いているといった雰囲気を十分に感じることができます。馬籠峠への道筋は結構変化に富んで、楽しいものです。
男垂川の心地よい水の流れが耳に入ってきます。鬱蒼とした木々の間を辿って行く道筋ですが、木漏れ日が射し込む土道は街道時代に多くの旅人が踏みしめたと思うと感慨深いものがあります。
道筋は緩やかな上り坂でそれほど体に負担がありません。まもなくすると道筋は7号線に合流しますが、旧街道は7号線を渡った向こう側へと更にのびています。
7号線を渡ると、その先は趣ある石畳の道が林の中へつづいています。その入口の右側に「中山道・一石栃口」と刻まれた大きな石の標が置かれています。
さあ!ここから林の中を500m強進むと「一石栃の白木改番所跡」に到着します。
鬱蒼とした木々に囲まれた街道を進むと、天狗の腰掛けと呼ばれている「サワラの大樹」に出会えます。昔から山の神や天狗が腰を掛けて休む場所と信じられてきました。
旧街道は馬籠峠の頂に向かって山の中を緩やかに上っていきます。鬱蒼とした木々が突然開けると一石栃(いちこくとち)の白木改番所(しらきあらためばんしょ)跡が現れます。
この番所は尾張藩が設置したもので、木曽五木をはじめとする森林資源を管理する目的で、小枝1本に至るまで厳重に調べられたといいます。この場所にはトイレと江戸時代後期に建てられた牧野家住宅の無料休憩所が置かれています。
無料休憩所
一石栃白木改番所跡で小休した後、いよいよ馬籠峠の頂へと進んでいきます。
馬籠峠への道筋は予想していたよりも比較的緩やかなのですが、やはり一部にはキツイ個所もあります。
馬籠峠は標高801mですが、ここに至るまでにすでに標高をかなり上げているので、感覚的に801mの高さにいるようにおもえません。木曽路を歩いていると、ほぼ700m~800mを越えた場所を常に歩いているわけですから。
そんな馬籠峠に到着するちょっと手前から再び石畳の上り坂となり、石畳が途切れたところで7号線に合流するのですが、ここが馬籠峠の頂です。
7号線との合流地点には「峠の茶屋」が1軒あるのですが、季節によっては営業していないようです。
峠を越えると、私たちは岐阜県に入ります。そして道筋は下り坂へと変じます。
7号線にそって少し下っていきましょう。
そしてほんの僅かな距離を進むと、7号線から右手に分岐する道筋の入口が見えてきます。
もちろんこの道筋も下り坂です。峠までの上り坂で体力を消耗した者にとって、下り坂はほんとうにありがたく感じます。
坂を下り始めたあたりで、本日の歩行距離は5.5キロに達します。馬籠の到着地点まで、残すところ2キロに迫ってきました。
坂道はかなりの勾配となり、一気に峠を下っていくといった感じです。
そしてこれまで辿ってきた木曽谷の旅も終わりに近づいてきます。これから進む道筋の前方の山並みは低くなり、視界が広がってきます。そして中仙道はやがて広い濃尾平野へとつながっていきます。
さあ!馬籠宿へ急ぐことにしましょう。
7号線から分岐して、坂道を下ってくると街道左手に熊野神社の社が構えています。
そんな熊野神社を鎮守とする峠の集落が軒を連ねています。この辺りの集落は古くから「牛方」を生業としてきたと言われています。この集落は宝暦12年(1762)の大火後に再建された家並みが残っています。
「牛方」は俗に「岡舟」と呼ばれ、牛を使って荷物を運搬する業者のことをいいます。ここの牛方たちはなんと美濃の今渡から長野の善光寺辺りまで荷物を運んでいたといいます。
江戸時代の幕末の安政3年(1856)に中津川の問屋の不当な扱いに対して、荷役拒否をしたことで知られ、藤村の「夜明け前」にこの様子が描かれています。
峠の集落は街道らしい風情を漂わせています。過ぎ去った時代にはこの街道を荷役を担う多くの牛が闊歩していたのではないでしょうか。峠の集落を抜けると、道筋は緩やかな下り坂となり先へつづいています。
そして集落のはずれに十辺舎一九の大きな石碑が置かれています。
「渋皮の むけし女は見えねども 栗のこわめし ここの名物」
一九の句に現れる「栗のこわめし」は馬籠峠の名物だったようです。一九は江戸時代の文政2年(1819)に木曽路を辿り、この句を詠んだのです。
十辺舎一九の大きな石碑を過ぎても道筋は緩やかに下っています。途中、清水立場跡を過ぎて、石畳の梨乃木坂の下りへと入ってきます。
梨乃木坂を下ると、街道は再び7号線と合流します。その合流地点の右側に架かる岩田橋の向こうに水車小屋があります。
この水車小屋がある場所には「水車塚」が置かれています。
水車塚とは明治37年(1904)7月にこの場所に住んでいた一家4人が山崩れにより家ごと押し流され惨死したといいます。
難を逃れた家族の一人である蜂谷義一が藤村と親交があったことで、供養のため碑文を藤村に依頼して水車塚を建立したといいます。
「山家にありて 水にうもれたる 蜂谷の家族 四人の記念に 島崎藤村しるす」と碑文が刻まれています。
標高801mの馬籠峠から坂を下り、この辺りの標高は645mとかなり下げてきました。
いったん7号線と合流した旧街道はこの先、沢伝いに緩やかに下る細い道筋へと入って行きます。馬籠宿到着の期待を胸に膨らませながら細い道筋を辿ると、再び7号線と合流します。
合流地点から7号線を辿り、本日の到着地点へ向かってもいいのですが、もう一つのルートが7号線から分岐するように眼前の山の中へ道筋がつづいています。
その道筋は入口から階段の上りとなっています。一応、中山道と表示があるので階段を上っていくことにします。本日、最後のキツイ上り坂といってもいいでしょう。この坂を上って行くと馬籠宿の北側のはずれに位置する「馬籠上陣場の展望台」に行き着きます。
陣場とは天正12年(1584)豊臣秀吉と徳川家康が争った小牧長久手の戦いで、豊臣方の島崎重通が篭る馬籠城を攻略すべく、徳川方兵7000の一部がこの地に陣を敷きました。よってこの辺り一帯の地名を陣場と呼ぶようになったそうです。
上陣場の展望台からは真正面に恵那山を望むことができます。そしてこれまで辿ってきた木曽の山々は後方へと遠ざかり、これから先は深い谷もなければ、鬱蒼とした山並みもありません。
やっと木曽路を終えた気分になりますが、実はまだ木曽路は終わっていないのです。
馬籠宿高札場
馬籠宿
展望台で休憩の後、本日の終着地点(7.4キロ)であると同時に第3回目の旅の終着でもある駐車場へ向かうことにいたします。
馬籠宿の入り口のすぐそばにいながら、宿内の見学は次回のお楽しみということで、バスが待つ駐車場へご案内いたします。
木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の七)奈良井~鳥居峠~藪原
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十三)倉本駅前~須原宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十六)野尻宿~三留野宿~南木曽
木曽路十五宿街道めぐり(其の十七)南木曽~妻籠峠~妻籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十九)馬籠宿~落合宿の東木戸
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿
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