大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

お江戸府内の結界を守る名刹・目黒不動尊(龍泉寺)

2011年07月27日 11時49分43秒 | 目黒区・歴史散策
お江戸の街づくりには日本人が古来から受け継いできた陰陽道が深く関わってきたと言われています。更には古代中国の時代から世界の四方を守護する聖獣として、東に青龍、西に白虎、北に玄武、南に朱雀を採用し、風水により川、土地、道、山のシンボルとして崇められてきました。

当然、家康公の江戸の街づくりにも深く関わることとなるのですが、前述の聖獣にはそれぞれ「色」が定められています。いわゆる青龍=青、白虎=白、玄武=黒、朱雀=赤となるのですが、この色は大相撲の土俵の真上に具えられている青房、白房、黒房、赤房として聖域である土俵を守っているのです。ですから、聖獣に守られた土俵の上で行われる神事たる相撲で「八百長相撲」などもってのほかと言うことになるわけです。

さてこの4色の他にもう一色「黄色」があるのですが、この黄色に該当する聖獣はおりません。この黄色は宇宙全体を司る神として崇められ、先の相撲の場合は「土俵」そのものを表しています。

そして行きつくところが、目黒の「黒」となるのですが、お江戸には目という漢字に色を加えた地名がもう一つあります。それは「目白」という場所なのですが、実はお江戸の時代にはこの黒と白の他に青、赤、黄が付けられた「目」がご府内に配置されていたのです。それが目黒、目白、目赤、目青、目黄となるのですが、そしてそれぞれの場所に不動尊を祀ることとなったのですが、これを具申したのが黒衣の宰相といわれた天海大僧正だったことは良く知られています。すなわち天海の考えとして江戸の鬼門を守護する寺の配置とその寺がカバーできないエリアをさらに守護するために府内五ヶ所に色を付した不動尊を置き、完全無欠な「結界」を造りあげたと言われています。

この各色を付したお不動様は平成の世にあっていまだ健在なのですが、幾つかの寺は本来あった場所から移転しているため、天海が構築した結界はすでに崩壊してしまっているのではないでしょうか。

お江戸の時代にはここ目黒不動尊は将軍家の庇護の下、大伽藍を有する大寺院だったのですが、将軍家と関わりを持つようになったいきさつは、三代将軍家光公の御代のことです。ある日、家光公が鷹狩でここ目黒周辺にお成りになったとき、可愛がっていた鷹が行方不明になるという事件が起こりました。そこで不動尊の僧に祈らせたところ、鷹が無事に戻ってきたといいます。喜んだ家光公は不動尊を深く尊信し、その後、幕府は堂塔伽藍の建設にに多大なる援助をしたと言われています。

また目黒不動は江戸時代には「江戸三富」と呼ばれ、上野感応寺、湯島天満宮と並んで「富みくじ」が行われた場所で、このため江戸近郊における有数の参詣行楽地となり目黒不動繁栄の一因になったほどです。

こんな歴史をもつ目黒不動ですが、先の大戦で伽藍のほとんどが焼失しわずかなお堂だけが焼け残り、その他の仁王門、本堂、鐘楼、書院などの建造物は新たに建てかえられたものになってしまいました。

参道を進むと堂々とした仁王門が目に飛び込んできます。仁王門をくぐると広い境内が現われるのですが、その境内の背後には小高い山となっており、こんもりとした林が広がっています。

仁王門

その小高い山の麓には清らかな水が沸き出る「独鈷の滝」が緑濃い木々の下に佇んでいます。この独鈷の滝は慈覚大師がこの場所で「独鈷」を投げたところ、たちまち泉が湧き出て滝となったと伝えられています。ということは慈覚大師がこの地に来られたのが西暦800年代(平安時代)のことですから、少なくとも1200年の長きに渡って泉が湧いていることになるのです。現在でも一年中枯れずに湧き出しているとのことです。
※独鈷とは煩悩を打ち砕く仏具

独鈷の滝

独鈷の滝に隣接して建つのが江戸時代中期の仏堂建築として東京都の有形文化財に指定されている前不動堂が置かれています。ご本尊が不動明王立像で庶民信仰の便宜を図って置かれたとか、ご本堂に祈願する前に徳を積む場所として置かれたとか諸説があります。現在でも二条の滝で水垢離(みずごり)を行っているといいます。

前不動堂

この独鈷の滝に添ってご本堂へとつづく石段を登り小高い山の上へと進みます。石段を登りきると正面にご本堂が現われるのですが、一見すると神社のご本殿のような造りなので寺とは思えない佇まいです。

ご本堂
ご本堂

ご本堂に向かって右手には立派な鐘楼が置かれています。丘の上の境内は比較的広いのですが、ご本堂と鐘楼以外にはこれといった建物はありません。ご本堂の裏手に回ると林の中に一体の仏像が鎮座しています。江戸時代の初期に開眼したというこの像は「大日如来坐像」と呼ばれ、目黒区の指定有形文化財に指定されています。

鐘楼

帰路は不動尊の裏手の細い路地を抜けて、目黒不動尊の墓地の脇を歩いて行くと、江戸時代の蘭学者として有名な「青木昆陽(あおきこんよう)」の墓がふいに現われます。昆陽は八代将軍吉宗公の御代に断行された「享保の改革」の折に「藩諸考」を著し、長崎から伝わった甘藷(さつまいも)を九十九里と現在の千葉の幕張ではじめて試作に成功し、救荒作物の開発をした功労者です。このことから甘藷先生と呼ばれています。

甘藷先生墓
甘藷先生墓

墓はそれほど立派なものではありませんが、それこそ道端にさりげなく建てられたような墓で、道標がなければ通り過ぎてしまいそうな佇まいです。墓石には「甘藷先生墓」と刻まれています。

何かを語りかけているような大勢の羅漢様が居並ぶ目黒五百羅漢寺
目黒の黄檗宗古刹「海福寺」にはなんと隅田川の永代橋落橋供養塔が……!





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何かを語りかけているような大勢の羅漢様が居並ぶ目黒五百羅漢寺

2011年07月14日 16時21分13秒 | 目黒区・歴史散策
目黒五百羅漢寺山門

目黒に行ったら不動尊だけでなく、是非訪れていただきたい古刹・名刹があります。古刹といっても元々この場所にあったのではなく、お江戸の時代には実は本所深川の五つ目に壮大な伽藍を構えていた寺なのです。

江戸名所図会

本所五つ目は現在の西大島駅前に当たる場所で、この場所にはどういうわけか羅漢寺があるのですが、今日のお題の目黒五百羅漢寺は明治41年に現在の場所に移転してきたといいます。
開基は元禄8年(1695)、松雲元慶で黄檗宗鉄元の弟子です。元慶は羅漢像彫刻の大願を起こし、元禄年間に10年の歳月をかけて536体を独力で彫り上げ、五代将軍綱吉の生母桂昌院の力添えで当時の諸大名こぞって献金し大寺院となったほどの寺なのです。

御本堂

江戸名所図会を見ると、本所時代の羅漢寺の伽藍はたいそうなもので、惣門、漢門をくぐり大きく左へ折れると天王殿そしてここから真っ直ぐに延びる参道を突き当たると大きな本殿が控えているという壮大な造りだったことがわかります。この本殿から左右に腕のように伸びる建物が西羅漢堂と東羅漢藍堂、東羅漢堂の裏手には禅堂、境内の右手には鐘楼と庫裏が配置されています。そして総門を入り左手、天王殿の奥にある建物が「三�爾堂(さんいどう)」というもので、当寺は「さざゑ堂」と呼ばれていたようです。三層で上層は西国、中層は坂東、下層は秩父計百番の札所、観音の霊蹟を摸して百体の観音様を祀っていたようです。最上階からは周囲を見渡せる江戸の名所だったのです。

現在の五百羅漢寺の堂宇は昭和56年(1981)に新たに建てられたもので、非常に近代的な趣向なため古さを感じることはできません。ただ江戸時代に彫られ現存するだけで305体もの羅漢様と間近に接する事ができることを考えれば、建物の新しさはさほど気にするものではありません。

羅漢様はご本尊の釈迦如来が鎮座する本堂と羅漢堂に表情豊かなお顔で鎮座しています。一人づつのお顔は精巧且つ親しみ深い表情でまるで何かを語りかけているような雰囲気を漂わせています。静かな羅漢堂内に置かれているベンチに座り、しばし羅漢様と沈黙の中の会話を楽しんできました。

 

 

 



また境内の一角に「将軍御腰掛け石」がど~んと置かれています。この腰掛け石は享保の時代に八代将軍吉宗公が遊猟の際に羅漢寺を御膳所として使われた時に御本堂のそばに置かれていたものだそうです。

将軍腰掛け石

ところで羅漢様は仏ではありません。そもそも羅漢様はお釈迦様のお弟子さんであった方々のことを言います。ですから生身の人間であったところに意味があるようです。だから親しみのある、そして温かみのあるお姿やお顔に人間臭さを感じるのでしょう。

※拝観料:個人の場合は300円

お江戸府内の結界を守る名刹・目黒不動尊(龍泉寺)
目黒の黄檗宗古刹「海福寺」にはなんと隅田川の永代橋落橋供養塔が……!





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目黒の黄檗宗古刹「海福寺」にはなんと隅田川の永代橋落橋供養塔が……!

2011年07月11日 15時42分01秒 | 目黒区・歴史散策


行人坂の大円寺を後にし、急峻な坂を下りきると左手に雅叙園入口の広場が現われます。そして桜並木の緑が美しい目黒川に架かる太鼓橋を渡り、しばらく歩くと山の手通りにさしかかります。

お江戸の時代はこの行人坂を下っていくとあの目黒不動へとつづく参詣路へと繋がっていたのですが、その路は今では山の手通りにいったん分断されてしまい、横断陸橋か信号を渡らなければなりません。

山の手通りを渡りわき道へとそれるとまもなく右手に現われるのが、黄檗宗(おうばくしゅう)の寺「海福寺」です。参道の入口に「黄檗宗・海福寺」の提灯が掲げられているのですぐに判ります。黄檗宗とは臨済(りんざい)宗、曹洞(そうとう)宗と並ぶ日本禅宗三派の一つで中国明代の僧隠元隆�湊(いんげんりゅうき)(1592―1673)を開祖とし、京都府宇治市にある黄檗山万福寺(まんぷくじ)を本山とする宗派です。

海福寺参道入口

とはいえこの海福寺の山門やご本堂の造りは黄檗宗の典型的な明朝様式ではなく、ごく一般的な日本風の建築様式を備えています。

両側を建物で挟まれた参道を進むと、左手になにやら由緒ありげな宝篋印塔2基と石碑1基が置かれています。その傍らにこの宝篋印塔と石碑の由来書が立てられていました。なんとあの有名な話として今に伝わる「永代橋落橋」にまつわる供養塔ではありませんか。

永代橋落橋由緒書
永代橋落橋供養石碑
永代橋落橋供養宝篋印塔

お江戸深川の歴史散策では「永代橋落橋」の噺は避けて通れません。しかしこれまで「海福寺」や海福寺にある永代橋落橋供養塔は私の知識の中になかったため残念な事にお客様にご案内することはありませんでした。

由来書をよくよく読むと、この海福寺は明暦の大火の翌年である万治元年(1658)にそもそも黄檗宗の寺として深川に開基されたのですが、明治の御代の43年にここ目黒の移転してきたのです。もし黄檗宗の寺の建築様式を東京でみるのであれば、向島の弘福寺がお薦めです。

さて永代橋落橋事件は架橋から約100年経った文化4年(1807)の8月15日に予定されていた深川八幡の大祭が雨が順延となり19日に執り行われることになりました。おりしもこの年の大祭は11年ぶりとのことで江戸の庶民が我先にと大挙して永代橋に殺到したのです。そしてその重みに耐えられずに永代橋は永代に引き継がれることなく崩壊してしまったのです。お祭り好きの江戸っ子であるが故の災難だったのですが、この事故でなんと1500人以上の人が亡くなったと言われています。

そんな事故をちゃかす訳ではないのですが、お江戸の狂歌師「蜀山人」はこんな歌を詠んでいます。
「永代のかけたる橋は落ちにけり、きょうは祭礼あすは葬礼」

参道を進むと、石段に上に朱色の御門が恭しく構えています。海福寺の四脚門(よつあしもん) と呼ばれ江戸時代中期の建築様式を今に伝える貴重なものなのです。この門は明治の後期に新宿区の上落合にあった同じ黄檗宗の泰雲寺から移築したものです。尚、泰雲寺は廃寺となって現存していません。

四脚門

境内右手には鐘楼が置かれ、吊るされている梵鐘はなんと天和3年(1683)江戸の藤原正次の作です。梵鐘のデザインは中国の禅刹の鐘に似ていますが、日本の古鐘に似せた江戸時代の梵鐘の中でも類例の少ない名作と言われています。

鐘楼
梵鐘

この鐘楼の脇に立つ「九層の塔」はかつて武田信玄の屋形に置かれてあったと伝えられるものらしいのですが、何故ここにあるのかは判明しません。また甲斐武田家の家紋である「武田菱」は刻まれていません。

甲斐武田家所縁の九層の塔
御本堂
紫陽花と四脚門

それほど広くない境内の奥に御本堂が配置され、静かな佇まいを見せています。境内には遅咲きの紫陽花が可憐な花弁を咲かせ、四脚門の朱色と絶妙なコントラストを醸し出しています。

お江戸府内の結界を守る名刹・目黒不動尊(龍泉寺)
何かを語りかけているような大勢の羅漢様が居並ぶ目黒五百羅漢寺





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