大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

奥沢の名刹・浄真寺九品仏(浄土宗)に漂う京の趣き

2012年03月12日 17時00分22秒 | 世田谷区・歴史散策
その寺は閑静な住宅地の中に忽然と現れる、という表現がぴったりの佇まいを見せています。

浄真寺本堂

東急横浜線の自由が丘駅で大井町線に乗り換え一つ目の「九品仏駅」は世田谷のど真ん中とは思えないほどの素朴な雰囲気を漂わす小さな駅でした。

参道入口

一つしかない小さな改札を抜け、踏み切りを渡ると目指す浄真寺の参道入口が現れます。まるで浄真寺のために造られた駅のようです。とはいえ駅から参道入口まではほんのわずかな距離しかないため、どこぞの寺のように土産屋が軒を連ねているという訳ではありません。

参道入口には浄真寺参道を刻まれた大きな石柱が立ち、長い参道が総門へ一直線にのびています。松の並木が植え込まれた参道を進みながら、徐々に近づいてくる総門と総門の向こうに居並ぶ伽藍に期待が膨らんできます。

総門へつづく参道
総門

総門をくぐるとすぐ右手に「閻魔堂(えんまどう)」が置かれています。せっかくなので閻魔様にお参りをすませ境内へと進んでいきます。

閻魔堂
閻魔様

予想にたがわず境内の広さには圧倒されます。おそらく都内でもいちにを争うほどの境内の広さを誇っていると思います。総門から入域すると正面に開山堂が構え、その開山堂を見ながら左に折れると18世紀末に建立され見事な建築美を誇る「仁王門」が現れます。

仁王門

仁王門のすぐ側には鐘楼堂が置かれています。梵鐘は江戸時代の作と伝えられています。仁王門をくぐり境内の庭園を見ながら進むと、右手に立派なご本堂が現れます。「竜護殿」と呼ばれるご本堂の脇に都指定の天然記念物「九品仏のイチョウ」が太い立派な幹を見せています。木の高さは約20m、幹囲は4.2mもあるそうです。

鐘楼堂
ご本堂「竜護殿」
大イチョウとご本堂

このご本堂に対峙するように広い庭を隔てて江戸時代の初期に建立された「三仏堂」が配置されています。実はご本堂は現世の此岸(しがん)を現すために西向きに建てられ、一方、三仏堂は東向きで浄土の彼岸を現しているといいます。現世の此岸、浄土の彼岸の考え方についてはとんと詳しく判りませんので説明は割愛させていただきます。

三仏堂遠景

三仏堂ということなので、大きなお堂が整然とした趣で3つ東向きに並んでいます。説明書きによると中央に「上品堂」、右手に「中品堂」、左に「下品堂」が配置されています。つい、「じょうひん」とか「げひん」と読んでしまいがちなのですが、正式には「じょうぼんどう」、「ちゅうぼんどう」、「げぼんどう」と読むようです。

中品堂
上品堂
中品堂全景
手前から中、上、下の各品堂

この三仏堂のそれぞれに三躰の阿弥陀如来像が安置され、合計九躰が鎮座することで「九品仏(くほんぶつ)」と呼ばれているのです。

境内俯瞰
境内俯瞰
境内俯瞰

実はこの仏様が開眼したのは江戸初期の1670年のこと。しかもその場所はここ奥沢の地ではなく、なんとお江戸深川の古刹「霊巌寺」だったそうです。当時、霊巌寺にはこれらの仏を祀るお堂があったのですが、洪水によってお堂が壊されたため、1678年に新たに場所を移したのがここ奥沢の浄真寺だったということのようです。

白梅と仁王門
紅梅と仁王門

静かな境内を一巡していると、紅白の梅の花が寒風の中で揺れているのを見つけました。




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世田谷にもある小京都・烏山の寺町散策(その三)~絵の中にいるような寺院~

2011年10月10日 15時06分26秒 | 世田谷区・歴史散策
寺巡りの順番が前後してしまいますが、ご案内する妙寿寺(地図上の17番)はここ寺町の寺院の中では最も日本的な香りと日本の建築美を境内全体に醸し出している寺の一つではないかと感じました。

通りに面して構える山門の重厚さから山門を抜けてご本堂へとつづく参道の落ち着いた雰囲気はまるで京都の古刹に迷い込んだような趣を感じます。

妙寿寺山門

そして何にもまして、当寺の境内の景色に極めて日本的な風情を加えているのが客殿なのですが、この建物は旧鍋島侯爵邸を移築したものです。この建物を見る限りでは、境内の木々の緑と客殿の色合いが美しく調和し、まるで一枚の絵画を見ているような錯覚を覚えます。

絵葉書のような客殿の姿
客殿
石灯篭と客殿

本堂へつづく参道脇に鐘楼と間違えてしまうように梵鐘が吊るされているのではなく、置かれています。実はこの梵鐘は享保4年江戸時代中期(1719)に鋳造されたもので、大正12年の関東大震災の時、隣接するガス会社より流出したコールタール等により猛火につつまれ破損してしまいました。梵鐘を見ると、大きく口を開けた割れ目が梵鐘の上部に残っています。このことから「妙寿寺の割れ鐘」と呼ばれています。

梵鐘
割れ鐘
宮沢賢治の詩碑

境内の参道にそって日本的な風情を醸し出す美しい「竹林」がさらに当寺の絵画的な風景をさらに趣深くしています。

風情を感じる竹林

参道を進むと右手に大きなご本堂があるのですが、残念なことに木製ではなくコンクリート製の建造物であるがゆえに、若干ながら興ざめしてしまいます。が幸運にも木々の緑が多い季節には、その木々の葉がこのコンクリート製の建物を上手にカモフラージュしてくれています。

ご本堂

そして今回の烏山の寺町巡りで最も思い出深いお寺で、私が小学生の頃、写生会で訪れ境内の美しい景色を水彩画で書いた覚えがある寺へ歩を進めました。その当時の季節は定かではありませんが、おぼろげながら境内には色とりどりの花が咲き誇っていたように記憶しています。

高源院山門

そんな記憶を辿りながらやってきたのが臨済宗大徳寺派の禅宗寺院「高源院」なのです。広い間口の山門の向こうにわずかながら方丈の建物が見えます。山門を抜けると参道が手入れの行き届いた庭につづき、山門からわずかに見えた方丈の正面に導いてくれます。方丈の白い障子が周囲の緑に美しく映え、禅寺らしい素朴さを醸し出しています。

山門から境内の庭を俯瞰
方丈全景
梢越しに見る方丈

その方丈の左手に広がるのが当寺を有名にしている「鴨池」です。正式には弁天池と呼ばれているようですが、池の中に浮かぶように御堂が置かれています。池には睡蓮の葉が繁茂し、水を求めて野鳥がたくさん飛び交い、さえずっています。鴨池を中心とする景観 は烏山を代表するものとして区の特別保護地区に指定されています。

鴨池
鴨池
鴨池に浮かぶ御堂

都会の喧騒から隔絶された静寂の世界が目の前に広がっています。私以外に訪れる人がいない境内とこの鴨池を独り占めにして、しばし夢想の世界へと入り込んだ次第です。

あの小学生の頃、境内のどこに腰をかけて絵を描いたのかはまったく覚えていませんが、ただ鴨池に浮かぶ御堂を描いたことは確かに覚えています。そして描いた絵は学年の絵画コンクールで賞をいただき、校長室にしばらく飾られていたことまでは境内にたたずみながら思い出しました。

今回の烏山寺町の寺巡りでは26寺のうち16寺を足早に詣でることができました。次から次に現れるお寺の多さに改めて驚くと同時に、町全体がお寺といってもいい場所が東京に残っていることに感動したひとときでした。

世田谷にもある小京都・烏山の寺町散策(その一)~通りを挟んで山門と甍が続く景色~
世田谷にもある小京都・烏山の寺町散策(その二)~江戸の文化人が眠る寺院~




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世田谷にもある小京都・烏山の寺町散策(その二)~江戸の文化人が眠る寺院~

2011年10月10日 14時36分41秒 | 世田谷区・歴史散策
徳川将軍家縁の幸龍寺の隣に山門を構える浄土宗派の一心山稱往院極楽寺(地図上の9番)の山門前になにやら古めかしい石柱がたっています。この石柱が当寺を有名にしているあの「蕎麦禁断の碑」なのです。

蕎麦禁断の碑

なぜ「蕎麦禁断」なのか? それにはこんな逸話が残っています。
誰もが知っているように蕎麦屋さんの屋号によく使われている「庵」ですが、本来の意味としては小さな住居なのですが、そのほか隠遁者や僧侶、尼僧などの住む家や、僧房の名として使われてきました。ということは蕎麦屋さんが使う「庵」は寺社と少なからず関わりがあるんです。

実はご紹介する稱往院極楽寺は明暦の大火以降、浅草の西に堂宇を構えていた古刹です。寺町の(その一)で取り上げた幸龍寺も浅草西にあったのですが、なんと極楽寺は幸龍寺に隣接して山門を構えていたお隣同士のお寺だったのです。

そしてその稱往院内にさらに道光庵という支院が置かれていたのですが、享保年間(1716~1735)ころ、この道光庵の庵主は信州松本出身で、蕎麦打ちが大変上手であったので、檀家の人々向けに自ら蕎麦を打って振る舞ったということです。最初は檀家の方々だけのサービスだったのですが、その美味しさの噂はたちまち江戸市中に広まり、信心にかこつけて檀家以外の町民が蕎麦目当てに連日長蛇の列をつくる有様でした。この様子をみた市中の蕎麦屋さんは「蕎麦切り寺の道光庵」の名声にあやかろうと、競って屋号に「庵」をつけるようになったということなのです。

その後、寺なのか蕎麦屋なのかわからなくなってしまった様子に見かねた稱往院極楽寺の和尚さんは天明6年(1786)に門前に「蕎麦禁断」の石碑を建て、道光庵の蕎麦作りを禁じてしまったということです。

この石碑は震災後、烏山に移転する際に、3つに折れた状態で土中から発見され現在の門前に修復され立っているのです。

こんな謂れのあるお寺にはもう一つ、江戸の文化に深く関わった人物のお墓があるんですね。それは俳聖芭蕉の第一の門弟と言われる宝井其角のお墓が置かれていることです。墓域を巡ってみると、一番奥に「宝井家」の墓が集中している場所がありました。どれが其角の墓なのか判別できませんでした。尚、其角の草庵は現在の茅場町永代通り沿いににあったのですが、その場所には小さな石碑が一つ置かれています。

由緒ありげな宝井家の墓標
宝井家の墓域

そして江戸の文化人の代表格の一人である浮世絵師「喜多川歌麿」が眠る浄土宗派のお寺・専光寺(地図上の18番)をご紹介しましょう。

専光寺山門

寺町どおりもまもなく終わるあたりにあるのが専光寺です。お寺の規模はそれほど大きくはないのですが、山門脇に歌麿の墓を示す石標が立っています。

歌麿の墓の石柱
専光寺ご本堂

境内はそれほど広くないのですが、ご本堂の前に喜多川歌麿「秋圓了教信士」と刻まれた墓石が置かれています。

歌麿の墓

歌麿といえば江戸時代の宝暦の頃、鈴木晴信、鳥居清長と並ぶ美人画の大家としてあまりにも有名なのですが、この三人の中でも歌麿が描く美人画はナイスバディの女性で、晴信の描くほっそりタイプ、清長の八頭身美人と一線を画した筆タッチは現代のグラビアの先駆者といってもいいのではないでしょうか。

次に寺町の寺院の中でも、その規模と境内の美しさに定評がある2つのお寺を(その三)でご紹介いたします。

世田谷にもある小京都・烏山の寺町散策(その一)~通りを挟んで山門と甍が続く景色~
世田谷にもある小京都・烏山の寺町散策(その三)~絵の中にいるような寺院~




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世田谷にもある小京都・烏山の寺町散策(その一)~通りを挟んで山門と甍が続く景色~

2011年10月10日 13時49分51秒 | 世田谷区・歴史散策
私ごとですが結婚するまでは世田谷の上北沢にある実家に暮らしていました。小学、中学は世田谷にある公立学校に通っていました。そんなことで甲州街道沿いに点在する八幡山、芦花公園、千歳烏山あたりまでは小中学時代を通じて自分の庭のような場所だったのです。

小学校の課外授業では烏山の寺町の遠足や写生の授業で訪れた記憶が残っています。あれから時が過ぎて早五十年余り、当時の様子をおぼろげながら辿り、京王線の千歳烏山駅に降り立ちました。駅周辺の地図を見ると寺町へと通じる道にはなんと三本の通りが横切っていました。記憶によると千歳烏山駅から寺町までには旧甲州街道と呼ばれる道幅の狭い道しかなかったはずなのですが、地図上には新しいバイパスと中央高速の高架下を走る計三本の道が走っていました。

黄色の部分が各寺の寺領

高度経済成長の時代を経て、昭和のバブル時代そして平成と時が流れる過程で、街の様子が変貌するのは当たり前なのですが、かつて寺町に至る道沿いに広がっていた田んぼや畑は戸建ての住宅が密集するごく普通の街並みとなっていました。

それでも中央高速の高架をくぐると、その光景は一変します。目の前に現れるのは寺町を貫く一本の細い道と、その両側は高層ビルに邪魔されない空の下に広がる緑の木々と寺院の甍が続いているのです。

ここ烏山の寺町は関東大震災の時に、浅草・本所・荒川・築地・麻布・新宿・渋谷など東京市内(当時)にあった寺が震災によって鳥有と化し、復興のために区画整理がなされここ烏山に移転し造られた現代版寺社地となったのです。この地に移転が始まったのは大正末年から昭和初期の頃で、その当時は田畑が一面に広がる寂しい場所だったのです。それからおよそ85年を経た現在、それぞれの寺院の堂宇は時の流れにその趣を深くし、境内の木々は大きく育ち、しっとりとした佇まいの中に平成の古刹として静かな雰囲気を漂わせています。

烏山の寺町には烏山仏教会に所属している寺院が全部で26寺あります。これら26寺が隣り合うように甍を連ねているのです。今回の散策ではすべての寺院を巡ることは諦め、歴史的に価値がある建造物や歴史上の人物の墓などを寺域に持つ寺院に絞って取材を試みました。

それではまず寺町の寺院の配置を地図でご覧いただきましょう。



千歳烏山駅から一番近いお寺は1番の「妙高寺」です。それではこの妙高寺から寺町のお寺巡りを始めることにいたしましょう。

妙高寺山門
妙高寺ご本堂
水野家の墓

妙高寺は江戸時代の寛永二年(1625)に水野家の帰依を受けて浅草今戸に再建された由緒あるお寺です。実はこの水野家こそ天保の改革を断行した老中水野越前守忠邦を輩出した家系なのです。
寺内の墓地には水野家代々の墓とそれに隣接して忠邦の子「忠精」と孫の「忠弘」の墓が置かれています。尚、忠邦の墓は茨城県結城市に置かれているそうです。

忠精と忠弘の墓

更に江戸時代における尊皇の先駆者として知られる「藤井右門」の墓も置かれています。右門はあの幕末の尊皇運動が始まるずっと以前の宝暦年間に尊皇思想を展開した先駆者なのです。しかし右門は明和事件に連座し、48歳で処刑されてしまいます。この事件は幕末の尊皇運動が始まる百年前のことです。

藤井右門の墓

最初に訪れた「妙高寺」で江戸時代に活躍した人物に関わるお墓に詣でることが出来た感動を胸に、次に家康公と深く関わりをもつ「幸龍寺」へと歩を進めます。

幸龍寺山門から参道を見る

寺町通りに面して立派な山門を構えるのが日蓮宗の幸龍寺(地図上の7番)です。
当寺の由緒は徳川家康公がいまだ浜松城主で在った天正七年(1579)四月にw後の二代将軍秀忠公が誕生した。この時、乳母大姥ノ局(正心院殿日幸尼)は秀忠公の為に一宇の建立を請願、家康公は奨めを入れ城外に伽藍を調え、聖人を開山に招き、徳川家祈願寺に定めたのが当寺の開基です。その後、家康公は駿府、江戸と本拠地を変えるたびに当寺を伴い移転しています。江戸府内においては家康公の入府の折にはは神田湯島に寺領を与えられていました。その後寛永年間に浅草の浅草寺の西(現在の浅草ビューホテルが立っている場所)に広大な寺領を与えられ、将軍家の深い帰依を受けていました。二代将軍秀忠公は継嗣出生安産祈願を当寺に命じ、無事に後の三代将軍家光公の誕生を見ると仏舎利を奉遷の上、鬼子母神十羅刹女を造像奉納したと伝えられています。

清正公堂門柱

山門を入るとすぐ右手に古めかしいご本堂が現れます。このご本堂は清正公堂と呼ばれるもので天保年間建立の歴史的建造物です。震災後浅草から移転の際に移築されたものです。山門に記された「清正公大神」「柏原大明神」は共に江戸時代には寺内の神社であったものが、明治初期に神仏分離令が発令された際「南無」を付けて仏様として引き継がれたものです。

清正公大神」「柏原大明神」
浄行菩薩像
清正公堂

ご本堂の入り口の両脇の壁に嵌め込まれた透かし彫りの見事さは当寺の価値を更に高めています。広い境内の半分を墓地が占め、墓域との境に存在感を示すように鐘楼が置かれています。

透かし彫り
透かし彫り
鐘楼
境内のさざれ石

まるで京都の寺社巡りをしているかのような錯覚に陥るような烏山の寺町散策ですが、更に感動的な古刹が次から次へと現れてきます。

世田谷にもある小京都・烏山の寺町散策(その二)~江戸の文化人が眠る寺院~
世田谷にもある小京都・烏山の寺町散策(その三)~絵の中にいるような寺院~




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お江戸府内の結界の一つ・目青不動を訪ねて~竹園山最勝寺教学院~

2011年10月06日 10時14分29秒 | 世田谷区・歴史散策
当ブログの中ではこれまでお江戸の結界を結ぶ「お江戸五色不動」のうち、目黒と目赤の2ヶ所を取り上げました。この五色不動はお江戸の府内を取り囲むように配置されたため、一日ですべての不動様を巡るのは物理的に無理なのです。いずれはすべての不動様に詣でようと考えていたところ、世田谷の豪徳寺や松陰神社に訪問後、世田谷線で三軒茶屋へ向かう車窓から線路脇に目青不動を祀る「教学院」の門柱が目に入ったのです。これは是非お参りせねばと三軒茶屋駅からほんのわずかな距離を足早に向かった次第です。

目青不動の門柱

お江戸の五色不動は寛永年間の頃、三代将軍家光公があの寛永時造営を行った天界僧正からの具申を受けて、江戸の鎮護と天下泰平を祈願するため、江戸市中を囲む5つの方角に不動尊を配置したことに始まります。この五色は密教の陰陽五行説に由来しており、それぞれに青、白、赤、黒、黄を割り振り、併せて東、西、南、北、中央を表しています。更にはこの方角には風水学による青龍、白虎、朱雀、玄武を当てはめていることはよく知られていることです。我が国の相撲の土俵の上から垂れ下がる4つの房も青、白、赤、黒の4色であることはご存知でしたか? 尚、相撲の場合は黄色は中央を表すということで、土俵上を意味しています。

世田谷線の三軒茶屋駅から直線で僅か100mほどの線路脇に目青不動の山門が構えています。ところでこの目青不動の正式名は「竹園山最勝寺教学院」で通称「教学院」と呼ばれています。
実は最勝寺という寺名はお江戸の五色不動の中の目黄不動尊を祀っている江戸川区内平井にある最勝寺と同名です。

線路脇の寺名石柱

さてこの教学院ですが、開基は鎌倉時代に遡りますが、実際のところは異説があり江戸時代の慶長9年(1604)とも言われています。慶長の頃から江戸時代を通じて青山に土地を与えられていたのですが、明治末期に現在地に移転しています。

ご本尊の不動明王像(秘仏)とお前立の不動明王像はもともとこの教学院にあったものではなく、明治15年に麻布にあった観行寺が廃寺になったことで教学院に移されたものです。

山門から参道が延び、その正面に不動明王を祭る不動堂が構えています。秘仏である不動明王像は公開されていませんが、お前立像は堂内に鎮座しています。

教学院山門
不動堂
不動堂

お前立不動明王像

不動堂から左手奥には教学院のご本堂が木々に囲まれるように静かに佇んでいます。それほど広い境内ではないのですが、ほんの僅かな距離に高層ビルが建つ三軒茶屋の喧騒とは隔絶されたように静かな雰囲気を漂わせています。

教学院ご本堂
教学院ご本堂

境内の隅に一つの石碑が置かれています。近づいて見ると石面には「夜叉塚」と刻まれています。私にとって初めてみる石碑です。夜叉塚を調べてみると、この世で悪鬼、夜叉となって死んだ人々を慰めるために建てられたものだそうです。夜叉は仏教では天界にいて仏界の守護を司る八部衆の一つです。インド神話の悪鬼は大日如来によって、夜叉、天、龍、阿修羅、乾闥婆、緊那羅、迦楼羅、摩�路羅伽の八部衆に分けられ、仏の道へと導かれたと伝えられます。

教学院境内の夜叉塚

お江戸を鎮護するために配置された五色不動ですが、時代の変遷の中でもともと鎮座した寺が廃寺になったり、寺が移動したりと、そもそもの結界をなした場所が変わってしまっています。天界僧正が力を込めて構築したお江戸の結界はすでに崩れ去ってしまった現代の世、首都東京を守る絶対的な力を持つ守護神はいったいどこにいるのでしょうか?

もう一つの目黄不動~江戸川・平井「最勝寺」~
お江戸府内の結界を守る名刹・目黒不動尊(龍泉寺)
お江戸の鎮護不動尊「府内五色不動」の一つ「目赤不動」の佇まい【本郷本駒込】




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天成の鼓吹者・吉田松陰が眠る世田谷の聖地「松陰神社」を訪ねて

2011年10月04日 14時03分12秒 | 世田谷区・歴史散策
昨日のブログ記事で安政の大獄の中心人物である彦根藩主・大老井伊直弼が眠る豪徳寺を取り上げました。実はこの豪徳寺からわずかな距離になんとこの直弼公とま逆な位置に対峙した幕末の思想家として名高いあの吉田松陰先生を御祭神として祀る松陰神社があるのです。

松陰神社の鳥居

歴史の悪戯ともいうのでしょうか、徳富蘇峰が評価した「徳川幕府転覆の卵を孵化した保育場の一」と言わしめたあの「松下村塾」を開いた松陰先生がなんと仇敵とも思える直弼公の眠る豪徳寺のすぐそばに眠っているという不思議な縁(えにし)。

でも、どうして松陰先生の出身地である萩から遠く離れた江戸の、しかも世田谷のど真ん中に松陰先生が眠っているのか? 素朴な疑問が湧いてきます。実はこの松陰神社がある地は江戸時代から長州の毛利藩藩主「毛利大膳大夫」の別邸が置かれていた場所で「大夫山」と呼ばれていました。松陰先生が江戸伝馬町の獄舎で処刑されたのが安政6年10月27日です。その4年後の文久3年に松陰先生の門下生である高杉晋作、伊藤博文らによってここ世田谷の地に改装されたのです。千住の回向院にも松陰先生の墓があるのですが、ここ松陰神社にある松陰先生の墓が正真正銘のものなんですね。そして明治に入り、15年11月21日に先生門下の人々が集まり、墓の脇に先生を御祭神とする社を築いたのです。これが松陰神社の始まりです。

松陰神社の由緒書

それでは松陰先生が処刑されるまでの経緯を知っておきたいと思います。
松陰先生は天保元年(1830)8月4日長州藩(現在の山口県)萩松本村で毛利藩士であった杉百合之助常道の次男として生まれました。松陰というのは号で、名前は矩方、通称寅次郎。幼い頃は虎之助と呼ばれていました。

次男であった寅次郎(松陰先生)は6歳のときに萩で山鹿流兵学師範を務める吉田家を継ぐことになります。吉田家を継いだ寅次郎は叔父である玉木文之進のもとで教育を受け、松陰先生が11歳の時には藩主である毛利慶親公に講義をするまでに成長していました。そして22歳の時(嘉永4年)には山鹿流兵学で最も高い免許である「三重傳」を受けています。

嘉永4年といえば、ちょうどこの頃に中国でアヘン戦争が起こり、日本近海には外国船がたびたびやってきた時代です。この年に松陰先生は藩命により江戸留学が実現し、あの佐久間象山先生に師事することになりました。そして同年12月に外国船調査のため東北へ旅立ちます。東北各地を視察し翌年(嘉永5年)に江戸に戻りますが、国内旅行の許可証の不携帯の罪で身分剥奪の上、浪人の身となってしまうのです。

これを知った時の藩主・敬親公は特別の計らいで諸国遊学10年間の許可を与えたことで、松陰先生は嘉永6年の5月に再び江戸に戻ってきます。この年こそ松陰先生の将来が決定付けられたといっても過言ではありません。この年に起こったのがあの歴史的なペリー黒船艦隊の浦賀入港なのです。

この間、松陰先生は家学だけにとどまらず、西洋兵学まで学んでいました。そんなことから鎖国下にもかかわらず外国へ行きたいという奇行に走らせてしまったのが、あの有名な下田沖に停泊中のペリー軍艦への乗船事件です(安政元年/1854)。この件は結局成就ならず、その結果として海外渡航を計画した罪で伝馬町に投獄されてしまうのです。しかし、同年12月に萩に戻され、野山獄に投獄され、1年2ヶ月余り獄中生活を余儀なくされます。そんな獄中生活の中でなんと松陰先生は勉強会を開いていたといいます。

安政2年、松陰先生は実家である杉家に戻され、いよいよ本格的に教鞭生活が始まります。そして開いた塾が「松下村塾」なのです。この塾は僅か2年間余りしか開塾していませんでしたが、明治の元勲として活躍した若き伊藤博文、木戸孝允、山縣有朋などが巣立っていったのです。

そしていよいよ松陰先生の最後の受難の時期を迎えます。安政5年に井伊直弼が大老に就任するや、あの違勅である日米通商条約が調印されます。幕府はこの調印に反対する人々を次から次へと捕縛し投獄していきます。これがあの「安政の大獄」です。松陰先生もこのような時勢に対して藩主や塾生そして同士に意見書を送ったり、直接行動として老中暗殺計画まで練っています。こうした先生の考え方に幕府は危険人物として再び投獄され、翌年安政6年5月に萩から江戸桜田の藩邸に護送されてしまいます。

この時に詠んだ歌が
「かえらじと思い定めし旅なればひとしほぬるる涙松かな」

松陰先生は幕府の厳しい尋問を受けながら、実は楽観していたようです。当時の幕府がなりふりかまわず反幕勢力を押さえ込むと同時に、粛清の嵐を是とする風潮に、松陰先生は尋問中に言わなくてもいいことを言ってしまうのです。それが老中・間部詮且(まなべあきかつ)の暗殺計画です。松陰先生にしてみれば、これはあくまでも計画の段階であり、これをばらしても幕府は自分を死罪にはするまいと思っていたようです。それが甘かった。結局、安政6年10月27日の朝、評定所で罪状の申し渡しがあり、その後伝馬町の獄舎で松陰先生は30歳の若さで処刑されてしまうのです。

幕末好きの私にとって、いつかは松陰先生が活躍した長州の萩には伺い、かの地の松陰神社にも詣でてみたいという強い気持ちがあるのですが、江戸から長州はいくら新幹線や飛行機の時代であっても、「ちょっと行ってくる」と言った距離ではありません。幸いにもお江戸の世田谷に松陰先生が眠る聖地があることで豪徳寺から早速向かうことにしました。

閑静な住宅街を抜けて、世田谷区役所を通りすぎると遠めに黒い鳥居が見えてきます。
ちょうどこの辺りは松陰神社の縁に位置しているのですが、歩道の傍らに「公爵桂太郎の墓」の石柱が目立たない存在で立てられています。

公爵桂太郎墓の石柱
桂太郎の墓
桂家の墓域

この御仁は松陰先生と同郷の萩で生まれ明治から大正にかけて活躍した長州閥の軍人であり、政治家なのです。ご本人の遺言で墓所を松陰神社に隣接して置かれています。

新しく置かれた黒い鳥居の向こうに本殿が構えています。そして神社の入口にあたる石垣に以前あった石造りの鳥居に掲げられていた石製の扁額が置かれています。もっと大切に扱えばいいのにと思われるような置き方にびっくりします。

石造りの扁額

鳥居をくぐり参道を進むと左手に一つの石柱が立っています。なんだろうと近づくと石面に「松陰神社道」の文字が刻まれています。これは現在の三間茶屋を走る国道246号線がかつて大山道(神奈川県にある山で山岳信仰の場として有名。大山講と呼ばれ各地から通じる道を大山道と名付けられています。)と呼ばれていた時代に、松陰神社の方向を示す道標として立てられていたものです。ということは当時からこの松陰神社は街道を旅する人たちの参詣の場として知られていたことを伺わせてくれます。

大山道に置かれた道標

そしてこの道標の脇に、若き頃の松陰先生をあらわした坐像が置かれています。

松陰先生坐像

参道を進むと前方に整然と並ぶ石灯籠が見えてきます。これらの灯篭は松陰先生の門下生である伊藤博文、山縣有朋をはじめ、先生と縁故のある方々が寄進したもので、全部で32基が一直線上に並んでいます。

石灯籠

灯篭の柱に刻まれた名前を見ると、前述の伊藤博文、山縣有朋、井上馨、木戸孝允そして軍神と崇められる乃木希典将軍を読み取ることができます。さすが松陰先生のお力は絶大と思わせる瞬間です。石灯籠の写真の一番手前から伊藤博文、山縣有朋、井上馨、桂の名前が刻まれています。

一番手前から伊藤博文、山縣有朋、井上馨、桂

松陰先生の墓所は参道から左手に進み、突き当りを右手に広がる敷地の一番奥に置かれています。
その墓所の入口には木戸孝允が寄進した石製の鳥居が構えています。静かな雰囲気に包まれた墓域には松陰先生だけでなく先生と少なからず関わりのある方々の墓が並んでいます。先生の墓所にはまるで先生を守るかのように幕末に活躍した志士の方々が一緒に埋葬されています。

墓地へ通じる最初の鳥居
木戸孝允寄進の鳥居
幕末烈士の墓所
松陰先生の墓

その中でも千住の回向院に墓がある尊王の大儀を唱え安政の大獄で命を落とした「頼三樹三郎」もここに改葬されています。

頼三樹三郎の墓

そして先生の墓所の入口には明治元年の墓所修復の際に徳川氏から謝罪の意味で奉納された石灯籠が置かれいます。灯篭の傘にはかつて徳川家の家紋である葵の紋が刻まれていたといいますが、現在ではほとんど見ることができないほど風化してしまっています。また徳川氏から一緒に奉納された水盤が置かれています。穿った見方をすれば、徳川氏といってもどこの徳川氏からなのかまではわかりませんが、明治元年といえば徳川宗家は田安家の亀之助(家郷公)が継いでいますので…。

徳川氏奉納の石灯篭
徳川氏奉納の水盤

松陰先生の墓を詣でた後、御社殿へと向かいます。神社創建時の社殿は内陣となっており、現在の本殿は昭和2年に造営されたものです。

御社殿
社殿内部

この本殿の右手奥に本家・萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模した建造物が建っています。平日は雨戸が閉じられていますが、土日のみ雨戸が開放されるようです。

模擬松下村塾

ここ松陰神社を訪れながらふと思うことは、平成維新などという流行言葉がまかり通る現代の世で、自らの保身だけで何ら主義主張もない現政権の体たらくとそれに効果的な攻撃を加えられない腰抜け野党の現状に、国家のあり方を真剣に考えた幕末の志士たちの爪の垢を飲ませてやりたいと思うのは私だけでしょうか?

国会議員の先生方の軽~い口癖である「死に物狂いで、一命を賭けて」のような口先だけの言葉は聞き飽きました。幕末の志士は本当に命を賭けて国家のあり方、国家の行く末を憂いながらも、世界に冠たる日本が維新からほんの僅かな時を経て、礎をつくりあげた原動力となったことをすべての国会議員は再認識すべきです。




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大老・井伊直弼が眠る山手の名刹「豪徳寺」を訪ねて~招き猫の云われ~

2011年10月03日 17時20分02秒 | 世田谷区・歴史散策
当ブログで紹介する記事がやたらと地方の歴史散策をとりあげた内容にかたよってしまった感があります。そこでブログタイトル「大江戸散策徒然噺し」に沿って、しばらくぶりにお江戸の風情を感じる場所へご案内したいと思います。

さて、幕末好きの私にとってこの時代はどのエポックを取り上げてものめりこんでしまうのですが、その中でも幕末の端緒を切ったといっても過言ではないあの「黒船来航」から幕府内でのてんやわんやの騒動そして朝廷を差し置いての違勅による通商条約調印から幕末の暗黒時代である「安政の大獄」へと進むなかで起こる幕末最大のテロ事件「桜田門外の変」にいたる時の流れは、時代の変革という大きな歯車が大きく回り始めるプロローグとしては最高の面白さがあります。

そんな時代の中で、ひときわ輝く人物をあげるとしたら、やはり時の大老・井伊直弼ではないでしょうか。これまで当ブログではお江戸に残る井伊直弼縁の場所を取り上げてきましたが、彼が眠る場所については未だ手付かずの状態でした。そこで、当ブログでははじめて取り上げる地域でもある世田谷の大江戸幕末歴史散策を敢行いたしました。

豪徳寺の仏殿

目指すは大老・井伊直弼が眠る豪徳寺です。同時に江戸における彦根藩井伊家の菩提寺なのですが、いつから井伊家の菩提寺になったかというと寛永10年(1633)にここ世田谷が彦根藩の領地となってからと言われています。がこの豪徳寺という寺名は彦根藩二代藩主である井伊直孝の没後、彼の法号「久昌院殿豪徳天英大居士」から豪徳寺と寺号が改められたとのこと。このことから当寺には井伊家二代藩主を筆頭に、六代、九代、十代、十三代、十四代の計六人の藩主の墓が置かれています。因みに直弼は十三代彦根藩主です。

付け加えて、当寺は「招き猫」の寺として有名なのですが、なんで豪徳寺と招き猫が関係するのか? よくよく調べてみると結構話が長く、なにやらとってつけたような話なのです。

寺務所前の招き猫
猫の置物

簡単に言うと、当寺が豪徳寺と名が変わる以前の寺は弘徳院と呼ばれていたのですが、この弘徳院はかなり荒れ果てて貧乏寺になっていたようです。そこで時の住職は可愛がっていた猫に「私の恩がわかるのならば、何か果報をもたらせ。」と言い含めたらしいのです。そしてその年の夏、鷹狩の武士がこの荒寺の前を通ると、なんと山門の前で「おいでおいで」と手招きをする猫がいたのです。そしてこの猫に誘われるように武士たちはこの寺に休息がてら立ち寄ったといいます。するとにわかに空が曇り始めそれはそれは激しい雷雨となります。この状況をみて武士たちは猫が招きいれてくれたお陰で雨宿りができたと喜び、福を呼ぶ「猫」がいる寺として大事にすることを約束したのです。この約束をしたのが彦根藩の二代藩主である直孝公で、これ以後、江戸における井伊家の菩提寺を当寺にしたというお話です。

招福堂山門

この招き猫の由緒となる場所が豪徳寺の境内にあるのですが、招福堂という名前がついています。。この祠の中には招福観音が祀られ、「家内安全」「商売繁盛」「心願成就」というご利益があるそうです。祠の入口や祠の前には絵馬ならぬ絵猫がかけられ、多くの人が猫に願掛け参りにきている様子が伺えます。また、寺務所の入口にも招き猫の看板や猫の置物が置かれています。

絵馬ならぬ絵猫

猫つながりで言えば、お江戸には浅草裏手の新撰組の沖田総司と縁のある「今戸神社」が有名ですが、招き猫の元祖はここ豪徳寺だそうです。

それでは豪徳寺境内をご案内いたしましょう。世田谷では一二を争うほどの規模を誇る豪徳寺ですが、さすが井伊家の菩提寺たる風格と申しましょうか、参道の入口にどっしりと構える門柱とそこから山門へと延びる参道の両側には見事な松の大木の並木が整然と並んでいます。

豪徳寺門柱
松並木の参道
山門脇の井伊直弼公の墓標
山門

山門もそれなりの風格を漂わせています。山門をくぐると美しく整備された境内の庭が眼前に現れます。境内の左手には三重塔が立っています。見るからに木の新しさが目立つ塔で、平成18年5月14日に落慶したものです。新しいからといって、境内の雰囲気を壊すものではなく、他の堂宇とほどよく調和し、当寺の風格を更に高めているように思えます。

境内のお庭
三重塔
三重塔

そして境内の右手には鐘楼が置かれています。延宝七年(1679)に製造されてからずっと豪徳寺に伝えられてきた由緒ある鐘で、世田谷区内では一番古い鐘とされています。

鐘楼
梵鐘

山門から正面を見ると大きな香炉とその向こうに歴史に彩られたような古い建物が立っています。
この建物は仏殿と呼ばれ、延宝四年(1676)に二代藩主の直孝公の娘が藩主真澄の菩提を弔うために建てられたものです。仏殿内には三世佛と呼ばれる仏像が納められていますが、この三世とは「前世」「現世」「来世」を具現化したものといわれています。この仏殿の建築様式は中国の禅宗「黄檗派」のそれと同じものでどっしりとした外観が特徴的です。

香炉
仏殿
仏殿内部
仏殿

豪徳寺の堂宇の配置は禅宗の特徴であるように山門から仏殿そして法堂と一直線上に並んでいます。山門と仏殿が木造の古さを湛えている反面、法堂は現代的なコンクリート製です。

灯篭と法堂

この法堂から右へ目を移すと寺務所の建物があるのですが、この建物がわりと立派な造りなのです。特に建物入口の構えが特徴的なのですが、実は千葉の佐倉藩藩主堀田家で使われていた大名屋敷の玄関を移築したものだそうです。どうりで、といった感じです。

寺務所の正面玄関

そしていよいよ本日のメインである井伊家の墓域への参拝です。仏殿から招福堂へと進むと、その前方に2本の石製の門柱が遠目に入ってきます。雰囲気からして井伊家の墓域であることが認識できます。門柱の手前に井伊家代々の方々の墓の見取り図が置かれていますので、各藩主の墓の位置が一目瞭然でわかります。

井伊家の墓域入口
墓域俯瞰
直弼公の墓
直弼公の墓石
直弼公の墓石から井伊家墓域を俯瞰

門柱を抜けると、目の前に広がるのが井伊家の墓域です。第一印象としてずいぶんゆとりのある墓域です。勉強不足で他の大名の墓域と比較することができないのですが、小石川の伝通院にある徳川家の墓がかなりキツキツに配置されているのとむりやり比較しても、ここ井伊家の墓域はぜいたくな敷地の使い方のようです。そしてこれまで私が見た多くの大名の墓が宝塔印塔タイプであったのが、そのほとんどが唐破風笠付位牌型なのです。前述のようにここ豪徳寺に眠っている藩主は2代目直孝、6代目直恒、9代目直�倥、10代目直幸、13代目井伊直弼、14代目直憲(明治35年没)の6人です。その他の藩主の方々は滋賀県彦根市の清涼寺と近江市の永源寺にあるとのこと。尚、豪徳寺の井伊家の墓域には300基にのぼる墓石があるそうです。これは井伊家の方々だけでなく藩士やその家族の方々も含まれているとのことです。直弼公の墓のそばには桜田門外の変でなくなった藩士の碑もたっています。

桜田門外の変烈士碑

直弼公の墓石には彼が亡くなった万延元年 閏三月二十八日の文字が刻まれており、毎年この日に営まれる法事でたむけられたであろう卒塔婆にも三月二十八日の文字が鮮やかに残っていました。




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