奈良井宿は下町・中町・上町の3地域からなっています。私たちは昨日、下町、中町そして鉤の手から上町を歩き、ほぼ宿内を踏破しています。
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私たちの本日の出発地点は奈良井川畔の権兵衛駐車場です。そして期待と不安を胸に「鳥居峠」を越えて、藪原宿の道の駅「木曽川源流の里きそむら」までの6.2キロへ、いよいよ出立です。
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権兵衛駐車場辺りの標高は942mですが、ここから徐々に勾配を上げていきます。
それでは中山道筋へ戻ることにしましょう。宿場然とした家並みが途切れる辺りに置かれているのが「高札場」です。この高札場には江戸時代から明治初期まで掟・条目・禁制等を周知する目的で使われていました。当時の絵図をもとに昭和48年(1973)に復元されたものです。
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高札場の隣には水場・宮の沢が置かれています。水場とは生活用水や火事の消火のために近郊の沢水や湧き水を引いて設けられたもので、現在、奈良井宿には6箇所の水場があります。
高札場と水場を過ぎると、奈良井宿の上町のはずれに達します。このはずれの森の中に社殿を構えるのが「鎮神社」です。
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疫病の流行を鎮めるため、元和4年(1618)に下総国(現千葉県)の香取神社から御神体を勧請したことに名の由来があります。この場所からは鎮神社の常夜燈越しに奈良井宿の上町の家並みと遥か彼方の山並みを眺めることができます。
鎮神社が奈良井宿のはずれとなり、私たちはいよいよ「鳥居峠」への入口へ向かいます。
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楢川民族資料館を右に見ながら、緩やかな坂道を進んで行きましょう。ほんの僅かな距離で、右手の林の中へ斜めに延びる石段が現れます。その石段の下に自然石の道標が置かれています。
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石碑の表面には「中山道 右上鳥居峠 左下奈良井宿」と刻まれています。
奈良井の宿場からさほど離れていないこの場所からいよいよ鳥居峠への峠道の前哨戦が始まります。峠の頂の標高が1197mなので、頂までの約2キロで標高差250mを克服しなければなりません。
標高1197mに位置する鳥居峠。古くは県坂(あがたさか)と呼ばれ、中山道の前身である岐蘇路(きそじ)という古道が通っていました。鳥居峠と名付けられるのは明応年間(1492~1500)に木曽の領主だった木曽義元の故事に因んでいます。その義元が小笠原氏との戦に向かう最中、峠から御嶽山を拝遥し戦勝祈願したところ、見事勝利をおさめたので鳥居を奉納したとの由来が伝わっています。
そんな鳥居峠ですが、中山道を辿って京へのぼる旅人、そして江戸へと向かう旅人は木曽の深い谷間を縫うように歩いてくるのですが、ここにきて突然現れる峠越えの急坂にどんな思いをしたのでしょうか。
石段をのぼると、道筋は左右を杉並木に覆われた土道のスロープに変ります。
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このスロープの坂道は最初の頃はそれほどきつくないのですが、登るにつれて勾配がきつくなります。300mほど登ると、いったん舗装道路に合流します。そこには「鳥居峠へ2.16 k」の道標が無造作に置かれています。
装道路はこの先で大きく左へカーブを切って「自然探勝園の案内板」前にさしかかります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/2a/fdfb344f890b7963fa20bcc93e13adf5.jpg)
この「自然探勝園の案内板」の先で、本格的な旧中山道のラフロードが始まります。
その道筋の入口は先ほどと同じような石段で、その先には石畳がつづいています。
登り口の脇にはまた自然石の道標が置かれています。道標には「上る 鳥居峠 下る 奈良井宿」と刻まれています。
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さあ!いよいよここから標高1,197mの鳥居峠の最高地点を目指す旅が始まります。
勾配のある石段をのぼると、石畳の道筋が始まりますが、石畳の道筋はそれほど長くありません。石畳の道筋が途切れるあたりで、道筋は峠越えとは思えないほど平坦に近い状態になります。
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私たちが歩く道筋の左側は谷が深くえぐられ、ところどころに大雨で崩落したような爪痕が残されています。右の写真は崩落で道筋が失われ、仮の桟橋が架けられています。そして山肌には倒木した木々が無残な姿をみせています。
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古くは信濃と美濃の国境だった鳥居峠。そんな地理的要因からしばしば合戦の場となったのが鳥居峠です。戦国時代末期には武田家を見限った木曽義昌の軍勢と、没落の道を辿りつつあった武田勝頼の軍勢がここで刃を交えました。
山道を辿っていく途中、葬沢(ほうむりさわ)と呼ばれる場所があります。案内板によると、この場所は天正10年(1582)2月、木曽義昌が武田勝頼の2000余兵を迎撃し、大勝利を収めた鳥居峠の古戦場です。この時、武田方の戦死者500余名でこの谷が埋もれたといわれ、戦死者を葬った場として、葬沢と呼ばれています。
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葬沢(ほうむりさわ)を越えると、細い道筋の傍らに「掘っ建て小屋」が現れます。
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「中の茶屋」があった場所に建てられた休憩小屋です。あばら家といった感じでトイレの設備はありません。
小屋の壁には菊池寛の「恩讐の彼方へ」の舞台となった鳥居峠についての説明が掲げられています。
中の茶屋を過ぎると、道筋は急斜面を上るつづら折りへ変ります。ここまではそれほどキツイ上りではなかったのですが、いよいよ峠の頂への胸突き八丁かなと思わせるような坂道です。
つづら折りの坂道が終わると、こんどはダラダラとつづくスロープ状の上り坂が始まります。この坂も結構きつく感じます。
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長い坂道が終わると旧中山道は、やがて明治時代に開かれた旧国道に合流します。国道といっても馬車の往来のために造られた道なので、道幅は狭く砂利道です。この旧道と旧国道の合流地点に「峰の茶屋」という休憩小屋があります。
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小屋の前には水場があり、山中から引いてきた清水がこんこんと流れ落ちています。峰の茶屋とありますが、実際の峠の頂はもう少し先です。
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峰の茶屋からはほぼ平坦な歩きやすい道筋に変ります。
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しばらく歩くと三叉路にさしかかります。そんな三叉路の角に置かれているのが、「クマ除けの鐘」です。1000mを越える鳥居峠周辺には野生の熊が生息しているんですね。開発が進んだ鳥居峠なのですが、山深いこの辺りに野生の熊がいてもおかしくはないのです。
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遠く過ぎ去った時代に、この道筋を辿った旅人たちは野生の熊の出現におびえながら峠超えをしたのではないでしょうか。
道筋の左側は山が迫り、右側は深い谷にえぐられ、落ちてしまったら、とつい頭によぎります。それほど起伏のない道筋は「トチの巨木」が群生する場所にさしかかります。
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道筋の崖側に幹部分に大きな穴があいた「子産の栃(こうみのとち)」と呼ばれるトチの木が1本立っています。
昔、この穴の中に捨て子があり、子宝に恵まれない村人が、育てて幸福になったことから、このトチの実を煎じて飲めば、子宝に恵まれると言い伝えられています。
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ここからほんの僅かな距離で、鳥居が建つ場所にでてきます。ここが「御嶽遥拝所」です。御嶽山は古来から信仰の山として知られています。江戸の方向から来た信者にとって鳥居峠を越えたこのあたりで、御嶽を望むことができるため遥拝所は設けられたといいます。そしてこの場所こそ峠の最高地点です。また、この「鳥居」が鳥居峠の名のいわれとなったものです。
「御嶽遥拝所」からさほど離れていない場所に、「義仲硯水」と書かれた石碑が置かれています。
木曾義仲が平家討伐の旗揚げをした時、御嶽山へ奉納する願書を書くのに使ったと伝えられているものです。石碑の上の小高いところに、古い井桁状に囲まれたものがあるのですが、それが義仲硯水のようです。
そして、その先にあるのが丸山公園です。そこにはいくつかの句碑が建っています。松尾芭蕉、法眼獲物などの美濃以哉派のもので、薮原や木曽福島などの町人富裕層を中心とした俳人達が建立したものです。
「木曽の栃 浮世の人の 土産かな 芭蕉」
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さあ!丸山公園が置かれている場所から道筋はいよいよ下り坂へと変ります。峰の茶屋から丸山公園までは、ほとんど起伏がなく、難なく歩いてきてしまいます。あの上り坂の疲れも丸山公園までの道程の間でほとんど消えています。
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中山道(木曽路)の最大の難所の一つとして知られている「鳥居峠」の頂(御嶽遥拝所の辺りが本来の頂)を越えると、道筋は一転して坂道へと変ります。身体にとって下りの坂道はエネルギーの消耗が上りに比べて格段に少ないように思われます。
緑濃い林の中に穿かれたほぼ1本道をひたすら降りていくといった感じです。
下り始めてふと思うことは、江戸方面からの上りより、京方面からの勾配と上りの距離がキツイように思えるのですが……。
途中、つづら折りの道が続く道筋にさしかかります。ほんとうに下り坂は樂です。
つづら折りの道が終わると、前方に道が大きく湾曲するところから真ん中に延びる石畳の道筋が現れます。もちろんこの石畳を下りていくことになるのですが、この石畳は復元されたもののようです。
復元された石畳とは言え、カラマツ林に囲まれた旧街道には石畳がとても似合います。
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石畳の道が途切れる辺りお稲荷さんの小さな祠が置かれています。そしてこの先の案内板が置かれている場所で鳥居峠の峠道は一応終わるのですが、藪原の宿場までは緩やかな坂が続いていきます。
歩き始めて4キロ地点を過ぎると、右手に現れるのが消防署です。そして原町へと入っていきます。
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消防署のある交差点脇に公衆トイレが置かれていますので、ここで小休止です。
尚、トイレ脇に自動販売機が置かれていますが稼働していません。尚、反対側の消防署の敷地にも自動販売機があります。こちらの販売器は稼働しています。
さあ!歩き始めて4キロ地点を通過しました。本日の終着点である道の駅まで残すところ1.5キロに迫ってきました。
緩やかな下り坂の道を下っていきましょう。街道の左側に「天降社・水神」の祠のある辺りから民家が増え、藪原の宿場が近いことを感じさせてくれます。そんな街道脇に「原町清水」と呼ばれる水場が置かれ、清らかな水がとめどなく流れ落ちています。道筋はまだ下っています。
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そして街道からほんの少し右奥に入ったところに置かれているのが「御鷹匠役所跡」です。
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別名お鷹城と呼ばれ、鷹狩りに使う鷹の雛を確保するために設けられた施設です。尾張藩は享保15年(1730)ここに御鷹匠役所を設置し、訓練された鷹は将軍家に献上したり、諸大名への贈り物にしていました。明治4年に役所は廃止されました。
正面に三沢山、眼下には藪原の家並みを望むことができます。
道筋の先にやや視界が広がる辺りに置かれているのが、「飛騨街道分岐点(追分)」です。飛騨街道は境峠、野麦峠を経て高山に至る険阻な道だったそうです。
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藪原宿への最後の急坂を下りていきましょう。道筋はまっすぐ伸びていますが、私たちは街道筋から中央本線の線路際の細い道へ入り、線路を跨ぐ陸橋を渡り藪原宿へ向かうことにします。
【藪原宿概要】
薮原宿は江戸日本橋から35番目の宿場で、天保14年(1843)には人口1493人、家数266軒、本陣1、脇本陣1、旅籠10軒の規模です。
藪原宿は江戸時代からミネバリの木で作られた「お六櫛」の生産で栄えていました。「お六櫛」の名の由来については諸説ありますが、妻籠宿の旅籠屋にいた娘の名からとったという説が有名です。
頭痛の病に悩んでいたお六は御岳山に治癒の願をかけたところ、ミネバリの木で作った櫛で髪を梳かすようお告げを聞き、その通りに櫛を作り毎日朝夕と髪を梳いたところ、みるみるうちに眼病が回復したという話が伝わっています。
宿場内に入るとかつての宿内を貫く街道がまっすぐに延びています。なんとも静かな雰囲気が漂っています。
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江戸寄りのはずれにまず本陣が構えていたのですが、現在全く痕跡を留めていません。ただ1本の木柱に「藪原宿本陣跡」と書かれているだけです。
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本陣は木曽家の家臣だった古畑氏が務めていました。間口14間半、奥行き21軒半の広い屋敷は20余室の部屋を持ち、番所や馬屋等も付属し木曽11宿中最大規模の本陣だったと言われています。
本陣跡のすぐ隣には創業1613年の元旅籠の「こめや」が古い佇まいを見せています。
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現在も旅館を営んでいるとのことです。現在の建物は1884年大火後の再建です。ここ藪原宿も前述の大火で、古い家並みがほとんど残っていません。先へつづく道筋を眺めて感じるのは、高層の建物がほとんどないため、空が広く感じるくらいです。
それでは街道筋からちょっと逸れますが、藪原宿を見下ろす高台に社殿を構える「藪原神社」へ伺うことにしましょう。中央本線の線路脇の高台に建つ神社で、天武天皇9年に熊野から勧請したのが始まりといいます。
そのため、熊野社、熊野大権現、熊野大神宮とも呼ばれていたといいます。
参道入口の石段をのぼったところに朱色の一の鳥居が置かれています。
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石段を上がりきると、石造りの明神鳥居が置かれ、鳥居の手前には手水舎、左右に狛犬が守っています。社殿は二つ目の鳥居からさらに石段をのぼったところに建てられています。尚、御祭神は伊弉冉尊・速玉男命・事解男命の三柱です。
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再び宿内の街道筋へ戻りましょう。街道に戻りちょっと進むと、左手に石垣が現れます。
この石垣は元禄8年(1695)の藪原の大火後に築かれた防火高塀で、この石垣を基礎にして上に土塀を設け火事に備えていました。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/b3/17730b3696cfbee83ef8a4ae6a66ca42.png)
さあ!歩き始めて5キロ地点を通過です。そんな場所に店を構えているのが、お六櫛の看板を掲げる宮川漆器店です。
そしてその先にはお六櫛問屋の篠原商店です。ちなみに東海道中の土山宿内にかつてお六櫛を扱う店が何軒もあった、なんて話を思い出しました。その元祖がここ藪原宿の「お六櫛」の元祖である篠原商店なのでしょう。
そして道筋はこの先で二股に分岐します。旧街道は右手に延びる道筋です。そんな分岐点の手前の右側に「藪原宿の高札場跡」が置かれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/a5/6e0c38e10f714e3d4ee9035044757eb4.jpg)
当時は御半形(ごはげ)と呼ばれ、桝形だった場所です。現在は左手へ進むと駅へと直進する道が造られ、当時の街道を思い起こさせるような面影はありません。
旧街道はこの高札場跡から右手に延びる道筋へと進んでいきます。
道筋は細くなり、すぐ右手には墓地が現れます。一見すると、墓石は古いものもありますが、結構新しい墓石が目立ちます。
墓地が途切れる辺りに流れる川を渡ると、道筋は右手へカーブを描き、その先にD51機関車が見えてきます。
このD51の機関車が置かれている角に藪原一里塚跡(66)が置かれています。
道筋はT字路となるので、これを左へ折れ進んで行くとJR中央本線の薮原駅ホーム下のガードへとさしかかります。ガードをくぐり左折しましょう。そうすると左手に薮原駅の駅舎が現れます。
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駅舎を過ぎて、私たちは本日の終着地点の道の駅「木曽川源流の里きそむら」へと通じるちょっと急な坂道を登っていきましょう。お疲れ様でした。奈良井宿から鳥居峠を越えてここ「道の駅」までの6.2キロを完歩いたしました。
木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十三)倉本駅前~須原宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十六)野尻宿~三留野宿~南木曽
木曽路十五宿街道めぐり(其の十七)南木曽~妻籠峠~妻籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十八)妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十九)馬籠宿~落合宿の東木戸
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿
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私たちの本日の出発地点は奈良井川畔の権兵衛駐車場です。そして期待と不安を胸に「鳥居峠」を越えて、藪原宿の道の駅「木曽川源流の里きそむら」までの6.2キロへ、いよいよ出立です。
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権兵衛駐車場辺りの標高は942mですが、ここから徐々に勾配を上げていきます。
それでは中山道筋へ戻ることにしましょう。宿場然とした家並みが途切れる辺りに置かれているのが「高札場」です。この高札場には江戸時代から明治初期まで掟・条目・禁制等を周知する目的で使われていました。当時の絵図をもとに昭和48年(1973)に復元されたものです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/5f/e82d49f56350a493551e565b5dc434bd.jpg)
高札場の隣には水場・宮の沢が置かれています。水場とは生活用水や火事の消火のために近郊の沢水や湧き水を引いて設けられたもので、現在、奈良井宿には6箇所の水場があります。
高札場と水場を過ぎると、奈良井宿の上町のはずれに達します。このはずれの森の中に社殿を構えるのが「鎮神社」です。
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疫病の流行を鎮めるため、元和4年(1618)に下総国(現千葉県)の香取神社から御神体を勧請したことに名の由来があります。この場所からは鎮神社の常夜燈越しに奈良井宿の上町の家並みと遥か彼方の山並みを眺めることができます。
鎮神社が奈良井宿のはずれとなり、私たちはいよいよ「鳥居峠」への入口へ向かいます。
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楢川民族資料館を右に見ながら、緩やかな坂道を進んで行きましょう。ほんの僅かな距離で、右手の林の中へ斜めに延びる石段が現れます。その石段の下に自然石の道標が置かれています。
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石碑の表面には「中山道 右上鳥居峠 左下奈良井宿」と刻まれています。
奈良井の宿場からさほど離れていないこの場所からいよいよ鳥居峠への峠道の前哨戦が始まります。峠の頂の標高が1197mなので、頂までの約2キロで標高差250mを克服しなければなりません。
標高1197mに位置する鳥居峠。古くは県坂(あがたさか)と呼ばれ、中山道の前身である岐蘇路(きそじ)という古道が通っていました。鳥居峠と名付けられるのは明応年間(1492~1500)に木曽の領主だった木曽義元の故事に因んでいます。その義元が小笠原氏との戦に向かう最中、峠から御嶽山を拝遥し戦勝祈願したところ、見事勝利をおさめたので鳥居を奉納したとの由来が伝わっています。
そんな鳥居峠ですが、中山道を辿って京へのぼる旅人、そして江戸へと向かう旅人は木曽の深い谷間を縫うように歩いてくるのですが、ここにきて突然現れる峠越えの急坂にどんな思いをしたのでしょうか。
石段をのぼると、道筋は左右を杉並木に覆われた土道のスロープに変ります。
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このスロープの坂道は最初の頃はそれほどきつくないのですが、登るにつれて勾配がきつくなります。300mほど登ると、いったん舗装道路に合流します。そこには「鳥居峠へ2.16 k」の道標が無造作に置かれています。
装道路はこの先で大きく左へカーブを切って「自然探勝園の案内板」前にさしかかります。
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この「自然探勝園の案内板」の先で、本格的な旧中山道のラフロードが始まります。
その道筋の入口は先ほどと同じような石段で、その先には石畳がつづいています。
登り口の脇にはまた自然石の道標が置かれています。道標には「上る 鳥居峠 下る 奈良井宿」と刻まれています。
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さあ!いよいよここから標高1,197mの鳥居峠の最高地点を目指す旅が始まります。
勾配のある石段をのぼると、石畳の道筋が始まりますが、石畳の道筋はそれほど長くありません。石畳の道筋が途切れるあたりで、道筋は峠越えとは思えないほど平坦に近い状態になります。
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私たちが歩く道筋の左側は谷が深くえぐられ、ところどころに大雨で崩落したような爪痕が残されています。右の写真は崩落で道筋が失われ、仮の桟橋が架けられています。そして山肌には倒木した木々が無残な姿をみせています。
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古くは信濃と美濃の国境だった鳥居峠。そんな地理的要因からしばしば合戦の場となったのが鳥居峠です。戦国時代末期には武田家を見限った木曽義昌の軍勢と、没落の道を辿りつつあった武田勝頼の軍勢がここで刃を交えました。
山道を辿っていく途中、葬沢(ほうむりさわ)と呼ばれる場所があります。案内板によると、この場所は天正10年(1582)2月、木曽義昌が武田勝頼の2000余兵を迎撃し、大勝利を収めた鳥居峠の古戦場です。この時、武田方の戦死者500余名でこの谷が埋もれたといわれ、戦死者を葬った場として、葬沢と呼ばれています。
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葬沢(ほうむりさわ)を越えると、細い道筋の傍らに「掘っ建て小屋」が現れます。
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「中の茶屋」があった場所に建てられた休憩小屋です。あばら家といった感じでトイレの設備はありません。
小屋の壁には菊池寛の「恩讐の彼方へ」の舞台となった鳥居峠についての説明が掲げられています。
中の茶屋を過ぎると、道筋は急斜面を上るつづら折りへ変ります。ここまではそれほどキツイ上りではなかったのですが、いよいよ峠の頂への胸突き八丁かなと思わせるような坂道です。
つづら折りの坂道が終わると、こんどはダラダラとつづくスロープ状の上り坂が始まります。この坂も結構きつく感じます。
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長い坂道が終わると旧中山道は、やがて明治時代に開かれた旧国道に合流します。国道といっても馬車の往来のために造られた道なので、道幅は狭く砂利道です。この旧道と旧国道の合流地点に「峰の茶屋」という休憩小屋があります。
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小屋の前には水場があり、山中から引いてきた清水がこんこんと流れ落ちています。峰の茶屋とありますが、実際の峠の頂はもう少し先です。
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峰の茶屋からはほぼ平坦な歩きやすい道筋に変ります。
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しばらく歩くと三叉路にさしかかります。そんな三叉路の角に置かれているのが、「クマ除けの鐘」です。1000mを越える鳥居峠周辺には野生の熊が生息しているんですね。開発が進んだ鳥居峠なのですが、山深いこの辺りに野生の熊がいてもおかしくはないのです。
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遠く過ぎ去った時代に、この道筋を辿った旅人たちは野生の熊の出現におびえながら峠超えをしたのではないでしょうか。
道筋の左側は山が迫り、右側は深い谷にえぐられ、落ちてしまったら、とつい頭によぎります。それほど起伏のない道筋は「トチの巨木」が群生する場所にさしかかります。
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道筋の崖側に幹部分に大きな穴があいた「子産の栃(こうみのとち)」と呼ばれるトチの木が1本立っています。
昔、この穴の中に捨て子があり、子宝に恵まれない村人が、育てて幸福になったことから、このトチの実を煎じて飲めば、子宝に恵まれると言い伝えられています。
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ここからほんの僅かな距離で、鳥居が建つ場所にでてきます。ここが「御嶽遥拝所」です。御嶽山は古来から信仰の山として知られています。江戸の方向から来た信者にとって鳥居峠を越えたこのあたりで、御嶽を望むことができるため遥拝所は設けられたといいます。そしてこの場所こそ峠の最高地点です。また、この「鳥居」が鳥居峠の名のいわれとなったものです。
「御嶽遥拝所」からさほど離れていない場所に、「義仲硯水」と書かれた石碑が置かれています。
木曾義仲が平家討伐の旗揚げをした時、御嶽山へ奉納する願書を書くのに使ったと伝えられているものです。石碑の上の小高いところに、古い井桁状に囲まれたものがあるのですが、それが義仲硯水のようです。
そして、その先にあるのが丸山公園です。そこにはいくつかの句碑が建っています。松尾芭蕉、法眼獲物などの美濃以哉派のもので、薮原や木曽福島などの町人富裕層を中心とした俳人達が建立したものです。
「木曽の栃 浮世の人の 土産かな 芭蕉」
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さあ!丸山公園が置かれている場所から道筋はいよいよ下り坂へと変ります。峰の茶屋から丸山公園までは、ほとんど起伏がなく、難なく歩いてきてしまいます。あの上り坂の疲れも丸山公園までの道程の間でほとんど消えています。
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中山道(木曽路)の最大の難所の一つとして知られている「鳥居峠」の頂(御嶽遥拝所の辺りが本来の頂)を越えると、道筋は一転して坂道へと変ります。身体にとって下りの坂道はエネルギーの消耗が上りに比べて格段に少ないように思われます。
緑濃い林の中に穿かれたほぼ1本道をひたすら降りていくといった感じです。
下り始めてふと思うことは、江戸方面からの上りより、京方面からの勾配と上りの距離がキツイように思えるのですが……。
途中、つづら折りの道が続く道筋にさしかかります。ほんとうに下り坂は樂です。
つづら折りの道が終わると、前方に道が大きく湾曲するところから真ん中に延びる石畳の道筋が現れます。もちろんこの石畳を下りていくことになるのですが、この石畳は復元されたもののようです。
復元された石畳とは言え、カラマツ林に囲まれた旧街道には石畳がとても似合います。
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石畳の道が途切れる辺りお稲荷さんの小さな祠が置かれています。そしてこの先の案内板が置かれている場所で鳥居峠の峠道は一応終わるのですが、藪原の宿場までは緩やかな坂が続いていきます。
歩き始めて4キロ地点を過ぎると、右手に現れるのが消防署です。そして原町へと入っていきます。
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消防署のある交差点脇に公衆トイレが置かれていますので、ここで小休止です。
尚、トイレ脇に自動販売機が置かれていますが稼働していません。尚、反対側の消防署の敷地にも自動販売機があります。こちらの販売器は稼働しています。
さあ!歩き始めて4キロ地点を通過しました。本日の終着点である道の駅まで残すところ1.5キロに迫ってきました。
緩やかな下り坂の道を下っていきましょう。街道の左側に「天降社・水神」の祠のある辺りから民家が増え、藪原の宿場が近いことを感じさせてくれます。そんな街道脇に「原町清水」と呼ばれる水場が置かれ、清らかな水がとめどなく流れ落ちています。道筋はまだ下っています。
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そして街道からほんの少し右奥に入ったところに置かれているのが「御鷹匠役所跡」です。
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別名お鷹城と呼ばれ、鷹狩りに使う鷹の雛を確保するために設けられた施設です。尾張藩は享保15年(1730)ここに御鷹匠役所を設置し、訓練された鷹は将軍家に献上したり、諸大名への贈り物にしていました。明治4年に役所は廃止されました。
正面に三沢山、眼下には藪原の家並みを望むことができます。
道筋の先にやや視界が広がる辺りに置かれているのが、「飛騨街道分岐点(追分)」です。飛騨街道は境峠、野麦峠を経て高山に至る険阻な道だったそうです。
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藪原宿への最後の急坂を下りていきましょう。道筋はまっすぐ伸びていますが、私たちは街道筋から中央本線の線路際の細い道へ入り、線路を跨ぐ陸橋を渡り藪原宿へ向かうことにします。
【藪原宿概要】
薮原宿は江戸日本橋から35番目の宿場で、天保14年(1843)には人口1493人、家数266軒、本陣1、脇本陣1、旅籠10軒の規模です。
藪原宿は江戸時代からミネバリの木で作られた「お六櫛」の生産で栄えていました。「お六櫛」の名の由来については諸説ありますが、妻籠宿の旅籠屋にいた娘の名からとったという説が有名です。
頭痛の病に悩んでいたお六は御岳山に治癒の願をかけたところ、ミネバリの木で作った櫛で髪を梳かすようお告げを聞き、その通りに櫛を作り毎日朝夕と髪を梳いたところ、みるみるうちに眼病が回復したという話が伝わっています。
宿場内に入るとかつての宿内を貫く街道がまっすぐに延びています。なんとも静かな雰囲気が漂っています。
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江戸寄りのはずれにまず本陣が構えていたのですが、現在全く痕跡を留めていません。ただ1本の木柱に「藪原宿本陣跡」と書かれているだけです。
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本陣は木曽家の家臣だった古畑氏が務めていました。間口14間半、奥行き21軒半の広い屋敷は20余室の部屋を持ち、番所や馬屋等も付属し木曽11宿中最大規模の本陣だったと言われています。
本陣跡のすぐ隣には創業1613年の元旅籠の「こめや」が古い佇まいを見せています。
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現在も旅館を営んでいるとのことです。現在の建物は1884年大火後の再建です。ここ藪原宿も前述の大火で、古い家並みがほとんど残っていません。先へつづく道筋を眺めて感じるのは、高層の建物がほとんどないため、空が広く感じるくらいです。
それでは街道筋からちょっと逸れますが、藪原宿を見下ろす高台に社殿を構える「藪原神社」へ伺うことにしましょう。中央本線の線路脇の高台に建つ神社で、天武天皇9年に熊野から勧請したのが始まりといいます。
そのため、熊野社、熊野大権現、熊野大神宮とも呼ばれていたといいます。
参道入口の石段をのぼったところに朱色の一の鳥居が置かれています。
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石段を上がりきると、石造りの明神鳥居が置かれ、鳥居の手前には手水舎、左右に狛犬が守っています。社殿は二つ目の鳥居からさらに石段をのぼったところに建てられています。尚、御祭神は伊弉冉尊・速玉男命・事解男命の三柱です。
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再び宿内の街道筋へ戻りましょう。街道に戻りちょっと進むと、左手に石垣が現れます。
この石垣は元禄8年(1695)の藪原の大火後に築かれた防火高塀で、この石垣を基礎にして上に土塀を設け火事に備えていました。
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さあ!歩き始めて5キロ地点を通過です。そんな場所に店を構えているのが、お六櫛の看板を掲げる宮川漆器店です。
そしてその先にはお六櫛問屋の篠原商店です。ちなみに東海道中の土山宿内にかつてお六櫛を扱う店が何軒もあった、なんて話を思い出しました。その元祖がここ藪原宿の「お六櫛」の元祖である篠原商店なのでしょう。
そして道筋はこの先で二股に分岐します。旧街道は右手に延びる道筋です。そんな分岐点の手前の右側に「藪原宿の高札場跡」が置かれています。
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当時は御半形(ごはげ)と呼ばれ、桝形だった場所です。現在は左手へ進むと駅へと直進する道が造られ、当時の街道を思い起こさせるような面影はありません。
旧街道はこの高札場跡から右手に延びる道筋へと進んでいきます。
道筋は細くなり、すぐ右手には墓地が現れます。一見すると、墓石は古いものもありますが、結構新しい墓石が目立ちます。
墓地が途切れる辺りに流れる川を渡ると、道筋は右手へカーブを描き、その先にD51機関車が見えてきます。
このD51の機関車が置かれている角に藪原一里塚跡(66)が置かれています。
道筋はT字路となるので、これを左へ折れ進んで行くとJR中央本線の薮原駅ホーム下のガードへとさしかかります。ガードをくぐり左折しましょう。そうすると左手に薮原駅の駅舎が現れます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/75/bee42b80082c31140ccad3dcbec454d7.jpg)
駅舎を過ぎて、私たちは本日の終着地点の道の駅「木曽川源流の里きそむら」へと通じるちょっと急な坂道を登っていきましょう。お疲れ様でした。奈良井宿から鳥居峠を越えてここ「道の駅」までの6.2キロを完歩いたしました。
木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十三)倉本駅前~須原宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十六)野尻宿~三留野宿~南木曽
木曽路十五宿街道めぐり(其の十七)南木曽~妻籠峠~妻籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十八)妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十九)馬籠宿~落合宿の東木戸
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿
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