久しぶりに東大キャンパス内の散策と根津そして谷中へと足をのばしてみた。日曜日ということで日本のカルチェラタン本郷界隈は東大の学生も少なく静かな佇まいを見せている。地下鉄本郷三丁目駅から歩を進め、本郷通りと春日通りが交わる比較的大きな本郷三丁目交差点角まではわずかな距離である。
さて今日のお題「お江戸ご府内(江戸の町)の範囲はどこまでだったの?」にまつわる場所がこの交差点の角。
お江戸の範囲は開幕以来、参勤交代による江戸勤番武士や上方や地方から流入する多数の商人や庶民が増えていく中で、都市開発が猛スピードで進み、ご府内の範囲が長い間明確に決まっていなかったのです。
この長い間とは、いつ頃までだったのか?というと、明和2年ですから1765年頃まで江戸とその周辺の境界が定められていなかったと書き付けに記録が残っています。
このように江戸の範囲が明確に定めれていなかった頃に、こんな川柳が詠まれていたのです。
「本郷もかねやすまでは江戸のうち」
この川柳の中に現われる「かねやす」ですが、実は江戸時代の享保年間に創業した薬屋で、乳香散と呼ばれる歯磨粉の販売で一躍人気店になったことで知られているのです。
この「かねやす」が現在でもこの本郷通りと春日通りの交差点角に現存しているのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/c0/cddffb8b9021910f68e4ea392536adc3.jpg)
現在は大きなビルに変わっていますが、現在は薬屋ではなく洋品雑貨のお店になっています。
そのビルの壁面に例の「本郷もかねやすまでは江戸のうち」の川柳の銘版と由緒書きが嵌め込まれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/4c/69978b61803d2092fe3a77a76013137f.jpg)
それでは当時ご府内の範囲が明確に定められていなかったにもかかわらず、「本郷かねやす」までが江戸の範囲と言われた理由を紐解いていきましょう。
享保15年大火があり、 当時の町奉行大岡越前守は三丁目から江戸城にかけての家は、塗屋(外壁を土や漆喰で塗り、柱を塗り込む)・土蔵造りを奨励し、 屋根は茅葺きを禁じ、瓦で葺くことを許したと言われています。これにより江戸の町並みは本郷まで瓦葺が続き、ここから先の中仙道筋の町並は板や茅葺の家が続いていました。ちょうどその境目で商売をしていた「かねやす」の大きな土蔵はきっと目だっていたので、このような川柳ができたのではないでしょうか。
尚、この本郷三丁目交差点をわたりわずかな距離に東京大学が右手にみえてくるのですが、この東京大学の敷地はお江戸の時代には加賀百万石・前田家の拝領屋敷が広がっていたのです。そうなるとあの加賀前田家のお屋敷は不思議な事に江戸の範囲の外にあった時代が長くつづいていたことになるのです。
ついでに春日通りを渡ってすぐの歩道脇に「見送り坂・見返り坂」の標識が立っている。実は江戸の範囲がちょうど「かねやす」までと言われていた時代にこの場所には小さな川が流れ、橋が架けられていたという。江戸を追放された者がこの橋で放たれ、南側の坂(本郷3丁目寄)で、親類縁者が涙で見送ったから見送り坂。追放された人がふりかえりながら去ったから見返り坂といわれた。そしていつしかこの橋が「別れの橋」と呼ばれるようになったとさ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/3f/2f31b9b3fe71cf36ab8e9f4e9b5d3622.jpg)
そんな場所を過ぎると、細い道筋が左へつづいています。その先に「お堂」がひとつ建っています。
本郷薬師
面白い場所にお堂が置かれています。実はここには真光寺というお寺がありました。現在、真光寺この場所になく、世田谷の烏山に移転してます。江戸時代の寛文10年(1670)にこの真光寺の境内に薬師堂が建立されました。
その当時、たびたび起こる流行り病で多くの人たちが病に倒れたのですが、この薬師様に祈願すると病が治ったと噂が広がり、多くの人たちに深く信仰れてきました。そんなことで古くから「薬師の縁日は本郷の花なり」と縁日には多くの夜店で賑わったといいます。
前述のように、かつてこの場所に堂宇を構えていた真光寺はいまはないのですが、なぜか当寺に鎮座していた「十一面観音菩薩」が薬師堂から30mほど奥まった場所に残されています。真光寺が世田谷に移転するさいに、置いていってしまったのでしょうか?
住宅街の一画にぽつねんと置かれています。
十一面観音菩薩像
薬師堂への路地の入口から本郷通りに沿ってほんの僅かな距離を進むと、本郷通りから斜め左へとのびる道が現れます。この道筋が有名な「菊坂通り」です。なぜ有名な道筋かというと、この道が明治の文豪、小説家をはじめとする多くの文筆家と深いかかわりがあるからなのです。この菊坂を歩くと、街灯の柱に誰もが知る明治の文豪たちの名前と説明板が張り付けられています。
というのも、この菊坂界隈には宮沢賢治が下宿し、坪内逍遥や樋口一葉が住み暮らし、石川啄木、若山牧水もこの道を歩き、漱石の場合は一高へ通う通勤コースになっていたといいます。
また菊坂から少し奥まった場所に、多くの文豪たちが利用した「菊富士ホテル」があったといいます。特にあの竹久夢二が最愛の女性である「笠井彦乃」と逢瀬を重ねたのが菊富士ホテルです。
多くの文豪たちが愛した菊坂通りは、当寺の面影はまったくなく、ビルが立ち並ぶ普通の道筋になっています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/ad/e684f0f4619ea5407c52c65d4f5c0c14.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/e3/cf23692bdc07c2291b2b6eb316d45c80.jpg)
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さて今日のお題「お江戸ご府内(江戸の町)の範囲はどこまでだったの?」にまつわる場所がこの交差点の角。
お江戸の範囲は開幕以来、参勤交代による江戸勤番武士や上方や地方から流入する多数の商人や庶民が増えていく中で、都市開発が猛スピードで進み、ご府内の範囲が長い間明確に決まっていなかったのです。
この長い間とは、いつ頃までだったのか?というと、明和2年ですから1765年頃まで江戸とその周辺の境界が定められていなかったと書き付けに記録が残っています。
このように江戸の範囲が明確に定めれていなかった頃に、こんな川柳が詠まれていたのです。
「本郷もかねやすまでは江戸のうち」
この川柳の中に現われる「かねやす」ですが、実は江戸時代の享保年間に創業した薬屋で、乳香散と呼ばれる歯磨粉の販売で一躍人気店になったことで知られているのです。
この「かねやす」が現在でもこの本郷通りと春日通りの交差点角に現存しているのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/c0/cddffb8b9021910f68e4ea392536adc3.jpg)
現在は大きなビルに変わっていますが、現在は薬屋ではなく洋品雑貨のお店になっています。
そのビルの壁面に例の「本郷もかねやすまでは江戸のうち」の川柳の銘版と由緒書きが嵌め込まれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/4c/69978b61803d2092fe3a77a76013137f.jpg)
それでは当時ご府内の範囲が明確に定められていなかったにもかかわらず、「本郷かねやす」までが江戸の範囲と言われた理由を紐解いていきましょう。
享保15年大火があり、 当時の町奉行大岡越前守は三丁目から江戸城にかけての家は、塗屋(外壁を土や漆喰で塗り、柱を塗り込む)・土蔵造りを奨励し、 屋根は茅葺きを禁じ、瓦で葺くことを許したと言われています。これにより江戸の町並みは本郷まで瓦葺が続き、ここから先の中仙道筋の町並は板や茅葺の家が続いていました。ちょうどその境目で商売をしていた「かねやす」の大きな土蔵はきっと目だっていたので、このような川柳ができたのではないでしょうか。
尚、この本郷三丁目交差点をわたりわずかな距離に東京大学が右手にみえてくるのですが、この東京大学の敷地はお江戸の時代には加賀百万石・前田家の拝領屋敷が広がっていたのです。そうなるとあの加賀前田家のお屋敷は不思議な事に江戸の範囲の外にあった時代が長くつづいていたことになるのです。
ついでに春日通りを渡ってすぐの歩道脇に「見送り坂・見返り坂」の標識が立っている。実は江戸の範囲がちょうど「かねやす」までと言われていた時代にこの場所には小さな川が流れ、橋が架けられていたという。江戸を追放された者がこの橋で放たれ、南側の坂(本郷3丁目寄)で、親類縁者が涙で見送ったから見送り坂。追放された人がふりかえりながら去ったから見返り坂といわれた。そしていつしかこの橋が「別れの橋」と呼ばれるようになったとさ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/3f/2f31b9b3fe71cf36ab8e9f4e9b5d3622.jpg)
そんな場所を過ぎると、細い道筋が左へつづいています。その先に「お堂」がひとつ建っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/ad/2699870520a1a14c7a0b2207fbc96407.jpg)
面白い場所にお堂が置かれています。実はここには真光寺というお寺がありました。現在、真光寺この場所になく、世田谷の烏山に移転してます。江戸時代の寛文10年(1670)にこの真光寺の境内に薬師堂が建立されました。
その当時、たびたび起こる流行り病で多くの人たちが病に倒れたのですが、この薬師様に祈願すると病が治ったと噂が広がり、多くの人たちに深く信仰れてきました。そんなことで古くから「薬師の縁日は本郷の花なり」と縁日には多くの夜店で賑わったといいます。
前述のように、かつてこの場所に堂宇を構えていた真光寺はいまはないのですが、なぜか当寺に鎮座していた「十一面観音菩薩」が薬師堂から30mほど奥まった場所に残されています。真光寺が世田谷に移転するさいに、置いていってしまったのでしょうか?
住宅街の一画にぽつねんと置かれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/fa/11d0fe2351ce64786c65379030825e10.jpg)
薬師堂への路地の入口から本郷通りに沿ってほんの僅かな距離を進むと、本郷通りから斜め左へとのびる道が現れます。この道筋が有名な「菊坂通り」です。なぜ有名な道筋かというと、この道が明治の文豪、小説家をはじめとする多くの文筆家と深いかかわりがあるからなのです。この菊坂を歩くと、街灯の柱に誰もが知る明治の文豪たちの名前と説明板が張り付けられています。
というのも、この菊坂界隈には宮沢賢治が下宿し、坪内逍遥や樋口一葉が住み暮らし、石川啄木、若山牧水もこの道を歩き、漱石の場合は一高へ通う通勤コースになっていたといいます。
また菊坂から少し奥まった場所に、多くの文豪たちが利用した「菊富士ホテル」があったといいます。特にあの竹久夢二が最愛の女性である「笠井彦乃」と逢瀬を重ねたのが菊富士ホテルです。
多くの文豪たちが愛した菊坂通りは、当寺の面影はまったくなく、ビルが立ち並ぶ普通の道筋になっています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/ad/e684f0f4619ea5407c52c65d4f5c0c14.jpg)
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案外と狭い領域を江戸としていたのですね。