hiyamizu's blog

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呉座勇一『応仁の乱』を読む

2020年08月11日 | 読書2

呉座勇一著『応仁の乱』(中公新書2401、2016年10月25日中央公論新社発行)を読んだ。(表紙のタイトルは、「応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱」)

 

表紙裏にはこうある。

室町後期、諸大名が東西両軍に分かれ、京都市街を主戦場として戦った応仁の乱(1467~77)。細川勝元、山名宗全という時の実力者の対立に、将軍後継問題や管領家畠山・斯波両氏の家督争いが絡んで起きたとされる。戦国乱世の序曲とも評されるが、高い知名度とは対照的に、実態は十分知られていない。いかなる原因で勃発し、どう終結に至ったか。なぜあれほど長期化したのか―――。日本史上屈指の大乱を読み解く意欲作。


応仁の乱の概説

応仁元年(1467)から文明9年(1477)の日本最大の内乱。

嘉吉(かきつ)元年(1441)6代将軍足利義教(よしのり)が暗殺された「嘉吉の変」が起こり、以後20年余り幕府政治の混迷が続く。

室町幕府8代将軍義政には息子がいなかったので、弟・義視を後継者とした。妻・日野富子が男子(のちの義尚(よしひさ))を出産し、覇権勢力の細川勝元に新興勢力の山名宗全が挑戦し、お家騒動に介入し、やがて細川方東軍と山名方西軍が戦う地方も含む大乱となった。
大名たちが何のために戦ったのかはっきりしないし、劇的で華々しいところがまるでなく、不毛で不条理な大乱だった。しかし、乱後、幕府の権威は失墜し、後世に与えた影響は大きい。

さらに、明応2年(1493)細川政元がクーデターを起こし2人将軍となった明応の政変により幕府が崩壊し、戦国時代へ移行していく。


しかし、発端の当事者(細川勝元と山名宗全)たちも、短期に決着と考えていたのに、両氏が多数の大名を引きこんだために、諸大名の目的が錯綜、もはや将軍も大将もコントロール不能となり、地方でも戦闘がくり返され、結局終結まで11年もかかってしまった。しかも、戦後処理も判然とせず、結局のところ応仁の乱はよくわからないことになっている。

本書は、同時代の興福寺の2人の高僧(経覚と尋尊)が遺した日記と、最新の研究成果により、日本最大の内乱を実証的に検証し、戦乱に巻きこまれた人々の生態を描く。


私の評価としては、★★★★☆(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)

応仁の乱の大きな流れ、始まり・戦乱の拡大・曖昧な終息、は掴めるように記述されている。しかし、細かい中味は複雑怪奇だ。なにしろ裏切り、変身、合体など混乱が激しく、登場人物の名前まで途中で変わり、とても詳細は追いきれない。

限られた文献から人物の性格まで読み取って、物語としての応仁の乱を興味あるものに描いている。

 

 

呉座勇一(ござ・ゆういち)
1980年(昭和55年)、東京都生れ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。専攻は日本中世史。

現在、国際日本文化研究センター助教。『戦争の日本中世史』で角川財団学芸賞受賞

著書は、『一揆の原理』(ちくま学芸文庫)、『戦争の日本中世史』(新潮選書)、『日本中世の領主一揆』(思文閣出版)、『陰謀の日本中世史』(角川新書)

 

 

以下メモ。

 

一乗院と大乗院

興福寺には100を超す院家(いんけ)や坊舎があった。天皇や摂関家の子弟が院主となる院家を特に「門跡」と呼ぶが、一乗院と大乗院が「門跡」であり、「両門跡(両門)」と称した。ほとんどの院坊はいずれかの門跡の傘下に入り、門跡を頂点とする組織が形成され、学会ではこれを「両門体制」と呼ぶ。
観応2年(1351)の「両門跡確執」により一乗院と大乗院は30年以上争った。

経覚(けいかく)
応永2年(1395)関白左大臣九条経教(つねのり)の子として生まれた。応永17年(1410)大乗院門跡を継ぎ、応永33年(1426)32歳で興福寺別当となった。

6代将軍・足利義教
一乗院と大乗院など大和での争い仲裁に失敗することを恐れ当初は放任したが、関与し始めると命令に逆らう者を許せなくなり、口先介入に留めるべきとの周囲の反対を押し切って武力介入に踏み切った。
後花園天皇供応のため一乗院・教玄と大乗院・経覚に銭を出すように命じたが、経覚は応ぜず罷免された。後任は一条家の尋尊(じんそん)となった。

足利義政
1449年14歳で元服し征夷大将軍となった。

文正の政変
1464年、男子のいない足利義政は弟を還俗させて足利義視(よしみ)を後継者とした。直後に実子(後の義尚(よしひさ))が誕生した。

第一の勢力:義政の側近の伊勢貞親は義政→義尚を押し、日野富子は義政→義視→義尚と考えていた。
第二の勢力:山名宗全は義政を引退させて義視が将軍と目論んだ。

第三の勢力:細川勝元は義政→義視→義尚と考えていた。
結果として、勝元が勝って、義視が事実上の将軍となり、義政も復権し、伊勢は失脚した。


応仁の乱勃発
応仁元年(1467)細川勝元が図り、武田信賢・細川成之が、山名方の一色義直邸を襲い、京都各所に火が上がった。
管領職を巡り、畠山政長の後ろ盾は細川勝元で、畠山義就(よしひろ)は山名宗全だった。1466年畠山義就は山名・斯波義簾の助けを得て京へ上った。。
東軍:細川勝元・畠山政長・斯波義敏・京極持清・赤松政則・武田信賢・・足利義政・成身院光宣・筒井順永

西軍:山名宗全・畠山義就・斯波義簾・一色義直・土岐成頼・大内政弘・・足利義視↓・朝倉孝景↑

大乱終結
山名家臣団は宗全を引退させ(主君押込)、孫の政豊が当主になった。細川勝元・勝之親子は引退し、勝元息子(後の政元)で宗全の外孫が細川当主となった。両軍の将は諸将を説得することなく、文明6(1474)年、単独講和した。西軍の大内政弘・畠山義就などは戦闘態勢を継続した。



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