hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

斎藤美奈子『戦下のレシピ』を読む

2015年10月03日 | 読書2

 

斎藤美奈子著『戦下のレシピ -太平洋戦争下の食を知る』(岩波現代文庫/社会291、2015年7月16日岩波書店発行)を読んだ。

 

裏表紙にはこうある。

十五年戦争下の婦人雑誌の料理記事は、銃後の暮らしをリアルに伝える。配給食材の工夫レシピから、節米料理の数々、さまざまな代用食や防空壕での携帯食まで、人々が極限状況でも手放さなかった食生活の知恵から見えてくるものとは? 再現料理もカラーで紹介。「食」を通して「戦争」を考えるための「読めて使える」ガイドブック!文庫版では敗戦後(占領期)の食糧事情を付記した。

 

 

敗戦の年まで生き残った数少ない婦人雑誌『婦人之友』『主婦之友』『婦人倶楽部』は、空襲が激しくなる中にあっても、料理や食の工夫についての記事を載せ続けた。この記事を各ページの下段に紹介している。巻頭には16ページのカラー写真があり、再現料理、戦下の野菜(雑草)図鑑や、空き瓶の精米機などのグッズ、そしてなつかしの米穀手帳が紹介されており、巻末には「戦時食生活略年表」などがある。

 

 

婦人雑誌が広めた概念は二つ。

ひとつは食についての科学的な知識である。簡単に言えば栄養やカロリーの問題だ。・・・

・・・二つめの概念、それは、・・・「手作りの料理は母の愛情のあかしである」という考え方のこと。

 

1940(昭和15)年には、ぜいたく品の製造や販売を制限する法律(七・七禁令)ができ、「国民精神総動員運動」が盛んになった。こうして「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」の時代がやってきたのである。そして、食生活では米をできるだけ節約して使おうとい「節米運動」がはじまった。

混ぜご飯、炊き込みご飯、おかゆ、雑炊といった増量法や、パン、めん、すいとん、だんごといった代用食などだ。

 

実は、戦前から日本は米不足だった。すでに明治30年代からインドやタイから外米(南京米)を輸入していた。1939(昭和14)年には国内消費量の約20%が台湾と朝鮮からの移入米(植民地からは移入という)だった。当時、一人一日約三合、都市では三合半(茶碗9~10杯)食べていた。

(確かに、子供の頃、当然、もちろん(強調)、戦後なのだが、ご飯はおかわりして3杯くらい食べるのが普通だった。だって、おかずはほどんどないんだもの)

 

(戦前には)米もまともに食べられない農村と、多彩な食品が手に入る都会。戦争になってしばらくたつと形勢逆転。都会からは食物が消え、自給自足の農村には食物が残っている、という皮肉な事態になるのだが、・・・

 

1941(昭和16)年には米の配給通帳制度が六大都市で始まった。やがて全国展開された米穀通帳、といっても若い方は、いや中年の方も、ご存じないだろうが、これがなければ米の配給がうけられないという大切なもので、身分証の代わりに使われたのだぞ! 1969年に自主流通米制度ができて、米余りの時代となり米穀通帳は有名無実なものとなった。

 

「国策焚く(こくさくだき)」とは米1升に熱湯2升の割合で焚く。ご飯が3割増えると政府が普及に乗り出したが、もちろん見た目のかさが増えるだけで、カロリーなどは変わらない。

やがて、何でもかんでも粉にして水を足して、かさを増やす、そして何でも食べるから、もしかしたら食べられそうなものも食べてみるに追い詰められ、読むのも恐ろしいレシピになっていった。

 

食料増産が叫ばれ、国会議事堂前を畑にしている写真が載っている。

 

 

敗戦後の食糧難は、一千万人餓死説もでるほど深刻だった。1945年の秋、政府はGHQに食料援助を要請するが、米国政府は拒否。GHQは独自判断でフィリピンに備蓄していた小麦粉1000トンを提供した。

(私は、このときマッカーサーが米国政府に「食料を送れ、さもなければ武器を」と、暴動寸前だと伝えたと何かで読んだ覚えがある。伝説だろうが)

1945年11月1日、日比谷公園では「餓死対策国民大会」が開かれた。

1946年9月号の婦人雑誌には、えびがに、蜂の子、糸を取った後のさなぎ、こおろぎ、げんごろう、かたつむり、かえる、へびの利用法が載った。

 

 

斎藤美奈子(さいとう・みなこ)

1956年新潟市生まれ。文芸評論家

成城大学経済学部卒業。児童書等の編集者を経て、94年近代文学評論『妊娠小説』でデビュー。

以後,各紙誌で文芸評論や書評を執筆。

2002年『文章読本さん江』で小林秀雄賞受賞

著書『趣味は読書。』『モダンガール論』『文壇アイドル論』他多数

 

 

私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)

 

良く調べていて、食材が無くなる中で、さまざまな工夫がなされていたことが、よく解る。戦争の実状の記録のように、銃後のこのような実状も是非若者、中年に知ってもらいたいし、贅沢なれした老人にも思い出した欲しい。

 

しかし残念ながら、とてもおいしそうには見えない料理のレシピ、代用食の数々を知りたいと思う人がどのくらいいるのだろうか? 私は戦後の腹ペコだったときの料理を知りたくて読んだのだが、戦争中の料理がメインなので、すいとん、グリンピース、給食の脱脂粉乳などはあまり出てこなかった。

 

 

以下、メモ。

 

一升瓶に棒を差し込んだだけの簡易精米機の写真が懐かしい。1943(昭和18)年から配給米が玄米になった。大人が2時間ついて、ようやった七分づきになったという。

 

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