ひつじ草の挑戦状

色んな思いを綴ってます。

夫の病と、女医の妻

2012-01-04 | 義経絵巻-芭蕉夢の跡-
兼雅「ふ…」ワインが顔に近づいた。ワインのルビー色のせいか?その顔が陰って見えた。
池田「…まさか、体調が思わしくないのでは?」
兼雅「寝不足な、だけだ」
池田「そう…ですか?」不安が過ぎった。
この不安は的中し、兼雅様の体調は次第に悪化した。
これは、彼らが宮中に戻ってからの話だが、
兼雅様は姫の開発した六神丸を飲み続けていた。しかし、快方に向かわず…。俺たちは薬を届けやすいようにと薬の研究所を故郷 吉備から京と堺に隣接した摂津の北に移した。
ここは匠の父 忌部成明さん越前問屋にもほど近く、反物と薬を運びやすかった。当時、俺の代わりに民の暮らしぶりを調査して報告する諜報部伝令隊に属していた匠が、笈(おい)に薬を入れ、手には反物風呂敷、文を携え、宮中、そこから北上して越前 斯波邸からの三国港から船に乗り、越中、越後の側室と酒田と北陸から東北を回った。
渦中の人 母 呉葉は、俺の娘 泉(せん)の面倒を見ながら、成明さんの呉服屋を支え、表向き若い娘たちに着付け教室を開き、その裏で売薬業を手伝っていた。美しく着付けられた娘たちから、ここを、母の名 呉葉にちなみ、呉服(くれは)の郷と名づけられ、その後、大阪府池田市呉服町(大阪国際空港・伊丹空港近く、宝塚の隣駅)となる。
ここは薬作りには欠かせない水が豊富で、近く五月山の箕面(みのお)の伏流水を利用した呉春といった酒造りが盛んに行われた。堺 港町の物流拠点、産業発展の基盤となった町である。
さて、華やかに行われた花山院 藤原 兼雅様と冷泉院 冷香様の御成婚から11年目のある日、
匠「三条様から文だよ」三条通の新居を構えられ、三条様と呼ばれていた冷香様から、
池田「俺に?」その文の内容は、
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皆々、息災ですか?泉は、もう十になりますね。
瑠璃に似て、おませさんに成長している事でしょう。
先日、夫の一周忌を執り行いました。この一年は長く、過ぎてしまえば早いものでした。
子たちが成長させるに、ちょうど良い期間だったと思います。
来年春、十になる長男が元服したいと申しました。喪明けの皐月に元服の儀を行う事に致しましたので、儀礼服と下の子たちにも心晴れやかなる着物を繕ってやって下さいませ。
六人分の反物、何卒よろしくお願い致します。
思えば、この十年、夫は多くのものを私に授けてくれました。


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