ひつじ草の挑戦状

色んな思いを綴ってます。

池田氏

2010-08-06 | 義経絵巻-芭蕉夢の跡-
池田氏が大量の荷物を小分けして袋に包んで運んでいるのを見て、何だか不憫に思ったのだ。
義経「ムヒのお礼に…」と自慢の短刀[薄緑(うすべり)]を使って、ギーギギギ…と弁慶の笈に傷を付けて[サイン]を入れた。後々、出世するかなって思って練習しておいたサインだ。
しかし、出世せず。今こうして逃亡中に付き持ち合わせがない。薬代が出ない…。
模範生 池田「うぁ、ありがとう!助かるよ。ちょうどいいやぁ」と使い古した笈に喜び、試作品のムヒやらその他 家庭常備試薬品をキレイに整頓して入れていた。どうやら、各家庭を回り、薬を売りさばいているようだった。当時、薬は大変高価なもので一般庶民の安月給では手が届かない。さらに安く販売してくれるドラックストアのチェーン店も普及していない時代で、喉から手が出る程欲しい薬は、舌を「んべっ」と出されてお仕舞いだ。その深刻なお金の悩みを解消するために”使った薬分の御代のみ頂戴する”という、いざ!という時にあり難く、全く健康な一家は薬を使わなければいいだけの料金システムを取っている。その「売薬システム」を考案した池田氏は”いずれ誰にも負けない比べるものが無いほどの効き目がある軟膏を作って、他の軟膏を圧倒してやる!”と意気込みを語り、サイン入りの笈を背負って、とある民家に消えていった。
この売薬が全国に普及するのは江戸時代に入ってからである。富山二代目藩主 前田 正甫(まえだ まさとし)が江戸城で腹痛を起こした大名に常備していた池田氏特製 漢方胃腸薬を自慢した事が始まりだ。「売薬師の池田はおまけをくれる」という触れ込みで口コミは広がった。
そんな池田氏との出会いは、後にある人物の運命を変えることになる。それは後からの話なので、風呂場に話を戻そう。
「九字の印」と「菊花のお印」がどれだけ大切か子供らに詳しく説明するのが面倒だった、
義経「使う時と場を弁えろっ!」と印の重要性を割愛し、子どもらを叱った。
子どもらは風呂からつまみ出され、タオルで前を隠し「正座!!」をさせられていた。
義経「誰に教わった九字の印だ?」
義隆「海尊!」を名指し、
海尊「弁慶!」を爆音騒動、水飛沫噴射を聞きつけ駆けつけ、ひょっこり顔を出した弁慶を人差し指でビシュッと指差した。
弁慶「俺…」目を点にして(・・)人差し指を己に向けてすっ呆けた。
義経「お前かっ!弁慶!!代わりに正座だ!いいなっ」と正座命令。
弁慶「おいおい待てよ。確かに九字の印を教えたのは俺だが、TPO(時・場・機)を弁えず使ったのは、こいつらだ!」