●9月5日(土)
<福島・仙台視察 3日目 相馬市にて>
福島に来て3日目。朝、連合京都のメンバーと貸し切りバスに乗って、2時間ほど。阿武隈山系を越えて浜通りは相馬市に。津波で甚大な被害があったところ。相馬観光復興案内所から担当の方がバスの乗り込んでいただいて、相馬市の状況を説明。相馬市は、「相馬野馬追」で有名。車中、復興にかける思いとともに、ぜひ馬追を見に来てくださいと熱いメッセージ。
そしてバスで海岸に向かう。そこには、「伝承鎮魂祈念館」が開館していて、3・11の時の新聞などが展示され、大津波に襲われる映像が映る。あのとき、テレビでみていた光景。言葉が出ない。親指ぐらいの小さな地蔵さんが並び「458」の数字が浮かび出る。津波で亡くなった人たち。
そして松の木が一本ある小さな丘には亡くなった方々の墓碑銘が刻み込まれている。その地で、当時消防団分団長だった方が語り部として、津波が襲ってきたときの様子や避難のことなど淡々と説明された。
忘れてはならない記憶。港は復興作業が進み、漁師さんたちの物置になる和風の倉庫群が立ち並び始め、海岸沿いには7メートルの防潮堤の建設が進む。少し行った松川浦は、潟湖になっていて津波の影響は少なかった。天橋立のように遠景が美しい。 民宿のようなところで昼食。海水浴客や釣り人で大いににぎわっていたことだろう。
旅館も再開されて、観光客も来るようになってきたのかな。
その後、バスの車内から相馬井戸端長屋(災害公営住宅)を見学。
被災した高齢者等に対し生活支援を行うための住宅で、高齢者の孤独状態を防止やバリアフリーの配慮がなされているという説明。ゆっくり見学したかった時間がなくて残念。
<荒浜地区に>
それから、常磐高速道で名取に行き、そこから沿岸部の道路に出る。
4年前、この沿岸部を走った時は衝撃だった。今は、瓦礫もなくて所々には稲穂が広がっていた。道路は、次々とダンプカーが走る。復興の証か。そして、仙台は荒浜地区に。あれから4年。荒浜小学校がそのまま残っていた。4年前は確かコンビニやガソリンスタンドの残骸が残っていたが、それも無くなっていた。
そして海岸沿いには、東日本大震災慰霊の塔として観音像が建立されていたので、黙祷。そして黄色のハンカチを繋いだのもあり、野外に色あせていたが「荒浜の再生を心から願う」という看板とともに写真のパネル展も。かつては多くの住宅地があった。今ではもちろん近くには家が一軒も立っていないし、建物の基礎がそのまま草に覆われて残っているところも。しばしたたずみながら、亡くなった方々のご冥福を祈り復興に取り組む人たちに思いを馳せる。
そして、この夏、オープンした仙台復興のシンボル「うみの杜水族館」も見学。子供たちで大賑わい。松島水族館から来たアシカと横浜シーパラダイスから来たイルカのショーが大人気!梅小路の京都水族館のオープニングで見て以来。三井物産など企業が開発会社を作って建設したみたい。オッサンばっかりでは、それほど見ても面白くないので、ショーを見て早々に退館。
一行は明日石巻市の視察をするのだが、仙台空港にてぼくと田中府議、山本市議と労組役員一人の4人が下車。出発までちょっと時間があったので牛タンを肴にビールを飲み、午後7時の飛行機で一路伊丹へ。8時過ぎに無事に着陸。家に着いたのは午後11時前でした。
あれから4年。復興は進んでいる。それでも「忘れてはならない記憶」として改めて心に刻んだ3日間でした。
●9月4日(金)
<福島視察 2日目 飯館村に>
朝、駅前でレンタカーをなんとか借りることができたので、まずは、市内を回る。美術館前から信夫山へ狭い道をドライブ。山頂付近の展望台からは福島市内が一望できる。ただそこには、放射線を図るモニタリング計があり現在の放射線量は「0.29シーベルト」の数値。数値は問題ないが、原発に近いことを思い知る。
そこから三春町を抜けて、田村から山道を地図を頼りに一路、飯館に向かう。およそ2時間、京都北山をドライブしている気分。高原にたどり着いたらそこが飯館村。所々に黒い袋が積まれ、除染活動中の旗がなびく。
4年前、安彦さんらと飯館に行った時は線量計を持ってのドライブ。そしてちょうどオーストラリアから肉牛協会の人が激励に来ていたとき。
町役場には、「いっとき帰宅バス」が止まっていて、役場の中には数人の職員。役場前のモニタリングポストの数値は「0.40」の数値。高原の飯館村は肉牛の産地として有名であった。
そしていたるところに除染された土を入れた黒い袋が野積みされている。3年前に来たときは、畑が草ぼうぼうになっていたが、作物が植えられているわけではないが、除染された土地が明らかに整地されているのがわかる。
国道には乗用車やダンプカーなどが普通に通り、この7月にはコンビニも再開されて、日常が戻ってきていて、除染活動に従事する人々で活気が出てきたのかな。作業員の人が弁当を多く買うらしい。
帰途、川俣町でシャモの親子丼に舌づつみ。そして福島市は飯野出張所に飯館村役場があり、そこに立ち寄って、広報誌などをもらう。
途中の道路沿いでは、除染活動が行われている。あれから4年、今も福島は、原発事故の後遺症とでもいうべき作業が残っているのだ。
<福島除染情報プラザ>
色々な人と話もしたかったが、午後3時過ぎには連合京都の研修団と合流することになっていたので、急いで市内に戻り、福島駅近くにある環境省が開設している除染情報プラザに。「知る、考える、進めるために」としたこのプラザは、除染や放射線に関する最新の情報をお伝えする拠点ということで、放射線に関して、また各市町村の除染活動について、展示。要は、放射線は怖くはなく除染活動の重要性を知ってもらう場所かな。「原発事故のことに全然ふれてませんね」と担当者に話しかけたら、なんとなくバツが悪そうな表情。
<連合福島の人と>
その後、連合京都のメンバーと合流。連合福島会長らから復興の現状と課題についてお聞きし、質疑。
今泉裕連合福島会長から3・11の時のご自身のことから話されて、復興への道や現状の問題などについて話された。福島は、「地震」「津波」、「原発事故」の三つの被害に会い、さらにそれに加えて「風評」被害の4つの被害にあっていること。また今でも12万人の避難者がいること。そして除染活動に従事ている人が、他府県から2万人から3万人流入して作業していること。
そして、時には、地元住民との紛争が生じて問題になっていること。とりわけ、大阪の寝屋川での中学生殺人事件の容疑者が作業員として福島に来ていたことが、報道されて、とあるところでは除染の活動に支障が起きていこと。復興・再生については、着実に進んでいるようだが、女性や子供たちが避難してままで色々な問題が生じていること、2018年には植樹祭が福島で開催されることなども報告。
思うに、今は除染活動に従事する人たちでホテルや旅館も満杯状態で、パチンコ屋も繁盛して街はある意味で活気がある感じがする。色々と考えさせられた研修でした。
夜は、連合福島の役員さんらを交えて懇親会。そして二次会は、福島名物餃子で一献。
●9月3日(木)
<福島へ>
朝、空港バスで伊丹へ。11時のANAの小型ジェット、ボンバルディアかな、曇り空で揺れはちょっとあったが、無事に福島空港に着いたのは12時過ぎ。空港でレンタカーを借りる予定が空車はなし、あきらめて空港バスで40分ほど郡山市に。
駅前で本日限定100円ラーメンで腹ごしらえ。駅周辺のレンタカー屋に片っ端から電話してようやく一台確保。いざ阿武隈高地をひたすら浜通りを目指す。
<大熊町、双葉町に>
山間を抜けて大熊町に入ると「ここは帰還困難区域四輪車のみ通行可」「自動二輪原付通行できません」の看板。設置者は原子力災害現地対策本部」。そこからさらに進むと、「国道288号双葉町内は臨時通行証では通行できません」そして「この先、帰還困難地域につき通行止め」の看板があちこちに見られる。また除染作業中の旗が道路横になびき、そこかしこの畑などには、除染された土を積めた黒い袋の山が見受けられる。3.11東日本大震災からまる4年余。
常磐高速道路と国道6号線は開通したものの、福島原発近くの大熊町、双葉町、浪江町は、除染された黒い袋の山と、国道に立ち並んだガソリンスタンドやレストランやコンビニがそのまま放置されていて草がぼうぼう。国道沿いから見える双葉町の入り口は、金網で閉鎖されている。「原子力明るい未来のエネルギー」の看板が残されたまま。そしてどういうわけか信号はついているのだが、もちろん人も歩いていないし車も走っていない。3・11から4年余。あれから時間が止まったまま。呆然自失。
もっと時間があれば、そこかしこを見て回りたかったが、この夏に開通した常磐道を少し走って浪江から阿武隈山系の八木峠を越えて飯館、川俣経由、福島駅に着いたのは午後7時。ガソリンを満タンにしてレンタカーを返してホテルに投宿。
<安彦雅裕さんと再会>
4年前の秋に出会った安彦雅裕さんが出迎えてくれました。安彦さんは、有限会社安彦染工場の社長。4年前に一緒に飯館村にご一緒してもらった人。なんとこの染工場の設備は、ぼくの後援会の会長の柿阪さんが経営している染織の設備を作る京阪工業と取引があるのです。御縁ですね。
安彦さんが住んでいる亘理地区は、当時放射能汚染が心配された地域。家の除染も進み今ではもちろん日常が戻っている。連れだってきてくれたのが、若き石原洋三郎市議。政治家一族に生まれて、元々は福島市議。民主党で国政選挙に立候補して衆議院議員に。落選後、またこの7月の市議選で復活。お見事。「五鉄の軍鶏鍋」をつつきながら近況をお聞きする。美味しかった!安彦さん、ありがとうございました。
●9月2日(水)
朝、銀閣寺前の参道でお土産物店をしている友人宅に。7月の台風で家の中に水が噴き出て被害をこうむっているので罹災証明の手続きをしようということで相談ごと。また事務所には、家の風呂の改修のことで矢沢永吉こと馬場水道の馬場さんに来てもらって見積もりの話。
午後は、京都障害者ワークフェア。京都市会の教育福祉委員と京都府議がよばれました。事業所や永年勤続のみなさんの表彰式です。福祉施設で作られた商品も販売。障害のある人の雇用を進めるべく法定雇用率のアップが図られているが、まだまだ課題はある。
夕方は、相談ごと一件。夜は、明日から連合京都の議員フォーラムの研修旅行で福島と仙台に行くのでアタフタと雑務をこなす。
●9月1日(火)
<岡崎公園、再整備竣工式>
今日から9月!蒸し暑い!朝9時から岡崎は平安神宮前の神宮道と岡崎公園再整備完成記念式典。タクシー業界や一部の人が反対していたが、平安神宮の前が広々としてええ感じになりました。13日(日)は、ロームシアター京都の竣工式。岡崎が大きく変わりますよ!
そして、河原町今出川下がるの「京都画廊」にも。金愛子さんの個展。大原や修学院の風景がぼくは大好きです。大原は友人の工務店の倉庫の絵もいいなあ!
<人権擁護委員、研修会>
午後は人権擁護委員の研修会。弁護士の小田宏之さんが、「障害者差別解消法の施行にあたって」と題して講演。来年の4月に施行されるこの法律は、共生社会の実現のために、社会的障壁を取り除き、行政機関などに差別の具体的な対応要領た対応指針を作成することになっている。「合理的配慮」なる言葉があり、意味がようわからんところもある。この4月からは京都府の「京都府障害のある人もない人も共に安心していきいき暮らしやすい社会づくり条例」施行されているが、この法の趣旨を広げるには、まだまだ時間がかかりそう。
<未来の京都 公共政策・社会問題研究会>
解散後、ゲリラ豪雨の中、車で山科に走る。同志社の総合政策科学研究科の同窓の真下宅に。
懸案の研究会の立ち上げについて詰める。名称を「未来の京都 公共政策・社会問題研究会」として、真下仁志氏が代表の株式会社住菱総合政策研究所に業務を委託して進めることに。
設立趣旨は、「京都のもつ色々な課題、また今年は戦後70年にあたり、日本社会も大きな岐路に立っている。そこで、平成の時代の京都市政を検証しながら、京都の未来をどうするのか、どう作るのか。また同時に日本の社会を点検しながら、どのような日本社会を築くのか、様々な視点で、討論、研究するサークルとして「未来の京都 公共政策・社会問題研究会」を立ち上げる。まずは、その第一期として、大学生が今何を考え、政策意識を持っているかの討論会等を通じて、公共政策のあるべき姿などを提言してもらい、京都の未来のあり方について、今後の市政の発展に寄与するための研究会を目指したいと考える。」
学生のみなさん、ぜひご参加くださいね!
夜は、吉田神社参集殿で神事世話人会。10月11日に挙行される吉田今宮社の神幸祭の準備の打ち合わせ。もう祭りの準備や。季節は巡るのは早いね。
<福島・仙台視察 3日目 相馬市にて>
福島に来て3日目。朝、連合京都のメンバーと貸し切りバスに乗って、2時間ほど。阿武隈山系を越えて浜通りは相馬市に。津波で甚大な被害があったところ。相馬観光復興案内所から担当の方がバスの乗り込んでいただいて、相馬市の状況を説明。相馬市は、「相馬野馬追」で有名。車中、復興にかける思いとともに、ぜひ馬追を見に来てくださいと熱いメッセージ。
そしてバスで海岸に向かう。そこには、「伝承鎮魂祈念館」が開館していて、3・11の時の新聞などが展示され、大津波に襲われる映像が映る。あのとき、テレビでみていた光景。言葉が出ない。親指ぐらいの小さな地蔵さんが並び「458」の数字が浮かび出る。津波で亡くなった人たち。
そして松の木が一本ある小さな丘には亡くなった方々の墓碑銘が刻み込まれている。その地で、当時消防団分団長だった方が語り部として、津波が襲ってきたときの様子や避難のことなど淡々と説明された。
忘れてはならない記憶。港は復興作業が進み、漁師さんたちの物置になる和風の倉庫群が立ち並び始め、海岸沿いには7メートルの防潮堤の建設が進む。少し行った松川浦は、潟湖になっていて津波の影響は少なかった。天橋立のように遠景が美しい。 民宿のようなところで昼食。海水浴客や釣り人で大いににぎわっていたことだろう。
旅館も再開されて、観光客も来るようになってきたのかな。
その後、バスの車内から相馬井戸端長屋(災害公営住宅)を見学。
被災した高齢者等に対し生活支援を行うための住宅で、高齢者の孤独状態を防止やバリアフリーの配慮がなされているという説明。ゆっくり見学したかった時間がなくて残念。
<荒浜地区に>
それから、常磐高速道で名取に行き、そこから沿岸部の道路に出る。
4年前、この沿岸部を走った時は衝撃だった。今は、瓦礫もなくて所々には稲穂が広がっていた。道路は、次々とダンプカーが走る。復興の証か。そして、仙台は荒浜地区に。あれから4年。荒浜小学校がそのまま残っていた。4年前は確かコンビニやガソリンスタンドの残骸が残っていたが、それも無くなっていた。
そして海岸沿いには、東日本大震災慰霊の塔として観音像が建立されていたので、黙祷。そして黄色のハンカチを繋いだのもあり、野外に色あせていたが「荒浜の再生を心から願う」という看板とともに写真のパネル展も。かつては多くの住宅地があった。今ではもちろん近くには家が一軒も立っていないし、建物の基礎がそのまま草に覆われて残っているところも。しばしたたずみながら、亡くなった方々のご冥福を祈り復興に取り組む人たちに思いを馳せる。
そして、この夏、オープンした仙台復興のシンボル「うみの杜水族館」も見学。子供たちで大賑わい。松島水族館から来たアシカと横浜シーパラダイスから来たイルカのショーが大人気!梅小路の京都水族館のオープニングで見て以来。三井物産など企業が開発会社を作って建設したみたい。オッサンばっかりでは、それほど見ても面白くないので、ショーを見て早々に退館。
一行は明日石巻市の視察をするのだが、仙台空港にてぼくと田中府議、山本市議と労組役員一人の4人が下車。出発までちょっと時間があったので牛タンを肴にビールを飲み、午後7時の飛行機で一路伊丹へ。8時過ぎに無事に着陸。家に着いたのは午後11時前でした。
あれから4年。復興は進んでいる。それでも「忘れてはならない記憶」として改めて心に刻んだ3日間でした。
●9月4日(金)
<福島視察 2日目 飯館村に>
朝、駅前でレンタカーをなんとか借りることができたので、まずは、市内を回る。美術館前から信夫山へ狭い道をドライブ。山頂付近の展望台からは福島市内が一望できる。ただそこには、放射線を図るモニタリング計があり現在の放射線量は「0.29シーベルト」の数値。数値は問題ないが、原発に近いことを思い知る。
そこから三春町を抜けて、田村から山道を地図を頼りに一路、飯館に向かう。およそ2時間、京都北山をドライブしている気分。高原にたどり着いたらそこが飯館村。所々に黒い袋が積まれ、除染活動中の旗がなびく。
4年前、安彦さんらと飯館に行った時は線量計を持ってのドライブ。そしてちょうどオーストラリアから肉牛協会の人が激励に来ていたとき。
町役場には、「いっとき帰宅バス」が止まっていて、役場の中には数人の職員。役場前のモニタリングポストの数値は「0.40」の数値。高原の飯館村は肉牛の産地として有名であった。
そしていたるところに除染された土を入れた黒い袋が野積みされている。3年前に来たときは、畑が草ぼうぼうになっていたが、作物が植えられているわけではないが、除染された土地が明らかに整地されているのがわかる。
国道には乗用車やダンプカーなどが普通に通り、この7月にはコンビニも再開されて、日常が戻ってきていて、除染活動に従事する人々で活気が出てきたのかな。作業員の人が弁当を多く買うらしい。
帰途、川俣町でシャモの親子丼に舌づつみ。そして福島市は飯野出張所に飯館村役場があり、そこに立ち寄って、広報誌などをもらう。
途中の道路沿いでは、除染活動が行われている。あれから4年、今も福島は、原発事故の後遺症とでもいうべき作業が残っているのだ。
<福島除染情報プラザ>
色々な人と話もしたかったが、午後3時過ぎには連合京都の研修団と合流することになっていたので、急いで市内に戻り、福島駅近くにある環境省が開設している除染情報プラザに。「知る、考える、進めるために」としたこのプラザは、除染や放射線に関する最新の情報をお伝えする拠点ということで、放射線に関して、また各市町村の除染活動について、展示。要は、放射線は怖くはなく除染活動の重要性を知ってもらう場所かな。「原発事故のことに全然ふれてませんね」と担当者に話しかけたら、なんとなくバツが悪そうな表情。
<連合福島の人と>
その後、連合京都のメンバーと合流。連合福島会長らから復興の現状と課題についてお聞きし、質疑。
今泉裕連合福島会長から3・11の時のご自身のことから話されて、復興への道や現状の問題などについて話された。福島は、「地震」「津波」、「原発事故」の三つの被害に会い、さらにそれに加えて「風評」被害の4つの被害にあっていること。また今でも12万人の避難者がいること。そして除染活動に従事ている人が、他府県から2万人から3万人流入して作業していること。
そして、時には、地元住民との紛争が生じて問題になっていること。とりわけ、大阪の寝屋川での中学生殺人事件の容疑者が作業員として福島に来ていたことが、報道されて、とあるところでは除染の活動に支障が起きていこと。復興・再生については、着実に進んでいるようだが、女性や子供たちが避難してままで色々な問題が生じていること、2018年には植樹祭が福島で開催されることなども報告。
思うに、今は除染活動に従事する人たちでホテルや旅館も満杯状態で、パチンコ屋も繁盛して街はある意味で活気がある感じがする。色々と考えさせられた研修でした。
夜は、連合福島の役員さんらを交えて懇親会。そして二次会は、福島名物餃子で一献。
●9月3日(木)
<福島へ>
朝、空港バスで伊丹へ。11時のANAの小型ジェット、ボンバルディアかな、曇り空で揺れはちょっとあったが、無事に福島空港に着いたのは12時過ぎ。空港でレンタカーを借りる予定が空車はなし、あきらめて空港バスで40分ほど郡山市に。
駅前で本日限定100円ラーメンで腹ごしらえ。駅周辺のレンタカー屋に片っ端から電話してようやく一台確保。いざ阿武隈高地をひたすら浜通りを目指す。
<大熊町、双葉町に>
山間を抜けて大熊町に入ると「ここは帰還困難区域四輪車のみ通行可」「自動二輪原付通行できません」の看板。設置者は原子力災害現地対策本部」。そこからさらに進むと、「国道288号双葉町内は臨時通行証では通行できません」そして「この先、帰還困難地域につき通行止め」の看板があちこちに見られる。また除染作業中の旗が道路横になびき、そこかしこの畑などには、除染された土を積めた黒い袋の山が見受けられる。3.11東日本大震災からまる4年余。
常磐高速道路と国道6号線は開通したものの、福島原発近くの大熊町、双葉町、浪江町は、除染された黒い袋の山と、国道に立ち並んだガソリンスタンドやレストランやコンビニがそのまま放置されていて草がぼうぼう。国道沿いから見える双葉町の入り口は、金網で閉鎖されている。「原子力明るい未来のエネルギー」の看板が残されたまま。そしてどういうわけか信号はついているのだが、もちろん人も歩いていないし車も走っていない。3・11から4年余。あれから時間が止まったまま。呆然自失。
もっと時間があれば、そこかしこを見て回りたかったが、この夏に開通した常磐道を少し走って浪江から阿武隈山系の八木峠を越えて飯館、川俣経由、福島駅に着いたのは午後7時。ガソリンを満タンにしてレンタカーを返してホテルに投宿。
<安彦雅裕さんと再会>
4年前の秋に出会った安彦雅裕さんが出迎えてくれました。安彦さんは、有限会社安彦染工場の社長。4年前に一緒に飯館村にご一緒してもらった人。なんとこの染工場の設備は、ぼくの後援会の会長の柿阪さんが経営している染織の設備を作る京阪工業と取引があるのです。御縁ですね。
安彦さんが住んでいる亘理地区は、当時放射能汚染が心配された地域。家の除染も進み今ではもちろん日常が戻っている。連れだってきてくれたのが、若き石原洋三郎市議。政治家一族に生まれて、元々は福島市議。民主党で国政選挙に立候補して衆議院議員に。落選後、またこの7月の市議選で復活。お見事。「五鉄の軍鶏鍋」をつつきながら近況をお聞きする。美味しかった!安彦さん、ありがとうございました。
●9月2日(水)
朝、銀閣寺前の参道でお土産物店をしている友人宅に。7月の台風で家の中に水が噴き出て被害をこうむっているので罹災証明の手続きをしようということで相談ごと。また事務所には、家の風呂の改修のことで矢沢永吉こと馬場水道の馬場さんに来てもらって見積もりの話。
午後は、京都障害者ワークフェア。京都市会の教育福祉委員と京都府議がよばれました。事業所や永年勤続のみなさんの表彰式です。福祉施設で作られた商品も販売。障害のある人の雇用を進めるべく法定雇用率のアップが図られているが、まだまだ課題はある。
夕方は、相談ごと一件。夜は、明日から連合京都の議員フォーラムの研修旅行で福島と仙台に行くのでアタフタと雑務をこなす。
●9月1日(火)
<岡崎公園、再整備竣工式>
今日から9月!蒸し暑い!朝9時から岡崎は平安神宮前の神宮道と岡崎公園再整備完成記念式典。タクシー業界や一部の人が反対していたが、平安神宮の前が広々としてええ感じになりました。13日(日)は、ロームシアター京都の竣工式。岡崎が大きく変わりますよ!
そして、河原町今出川下がるの「京都画廊」にも。金愛子さんの個展。大原や修学院の風景がぼくは大好きです。大原は友人の工務店の倉庫の絵もいいなあ!
<人権擁護委員、研修会>
午後は人権擁護委員の研修会。弁護士の小田宏之さんが、「障害者差別解消法の施行にあたって」と題して講演。来年の4月に施行されるこの法律は、共生社会の実現のために、社会的障壁を取り除き、行政機関などに差別の具体的な対応要領た対応指針を作成することになっている。「合理的配慮」なる言葉があり、意味がようわからんところもある。この4月からは京都府の「京都府障害のある人もない人も共に安心していきいき暮らしやすい社会づくり条例」施行されているが、この法の趣旨を広げるには、まだまだ時間がかかりそう。
<未来の京都 公共政策・社会問題研究会>
解散後、ゲリラ豪雨の中、車で山科に走る。同志社の総合政策科学研究科の同窓の真下宅に。
懸案の研究会の立ち上げについて詰める。名称を「未来の京都 公共政策・社会問題研究会」として、真下仁志氏が代表の株式会社住菱総合政策研究所に業務を委託して進めることに。
設立趣旨は、「京都のもつ色々な課題、また今年は戦後70年にあたり、日本社会も大きな岐路に立っている。そこで、平成の時代の京都市政を検証しながら、京都の未来をどうするのか、どう作るのか。また同時に日本の社会を点検しながら、どのような日本社会を築くのか、様々な視点で、討論、研究するサークルとして「未来の京都 公共政策・社会問題研究会」を立ち上げる。まずは、その第一期として、大学生が今何を考え、政策意識を持っているかの討論会等を通じて、公共政策のあるべき姿などを提言してもらい、京都の未来のあり方について、今後の市政の発展に寄与するための研究会を目指したいと考える。」
学生のみなさん、ぜひご参加くださいね!
夜は、吉田神社参集殿で神事世話人会。10月11日に挙行される吉田今宮社の神幸祭の準備の打ち合わせ。もう祭りの準備や。季節は巡るのは早いね。