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観心寺へ

2019-04-20 | 日記
ニョキニョキ伸びてきた庭の草木の手入れをしていると、トキワアケビの花を見た。毎年チョキチョキ切られて大きな木に成れない我が家のアケビ。
それでも健気に咲いた小さな花、せめて今日の日記にその姿を残しておこうね。
願わくば実をつけてくれたら嬉しいんだけど。ムリかな?

先日、室生寺国宝の本堂(灌頂堂 かんじょうどう)で拝顔したご本尊、6本の手がある如意輪観音菩薩像はじめ「日本三如意輪観音」に心惹かれ、河内長野の観心寺と西宮市甲山の神呪寺(かんのうじ)の仏様にも会いたくなった。
一昨日4月18日早速観心寺へ行ってきた。何と幸いかな、この日は藤井寺市にある葛井寺の秘仏・千手千眼観音菩薩(毎月18日)、それに道明寺の秘仏・十一面観世音菩薩(毎月18日、25日)もご開帳で、いそいそと出かけた。

  4月18日(木)
  葛井寺
葛井寺は西国33ケ所観音霊場 第5番でもあり、10年前には御朱印を頂く為に足を運んだお参りだった。本来のお参りとはちょっと違う不謹慎かもと思いながら今回は仏様の御手を観たかった。
当日お寺のビデオやお坊様のお話で見聞きした事を整理しておこう。勿論撮影は禁止、2008年「日本の仏像」週刊誌のお写真からもらう。

奈良時代に開創されたという葛井寺は百済王族の流れを汲む渡来系氏族・葛井(藤井)氏の氏寺だったとか。
そしてご本尊の十一面千手千眼観世音菩薩坐像は春日仏師親子の作で、725年に聖武天皇の臨席のもと、行基が開眼したそうである。

脱活乾漆造り(だっかつかんしつつくり)という技法で私には難しいが、脱活というのは中が空洞、乾漆というのは漆を乾かせ硬くなるような化学変化を起こさせて造ってあるそうだ。
千手の千は極多を表す聖数で必ずしも具体的な数ではなく、一般的には(20+20)が普通だそうだが、こちらの仏様のは1001本(左501本、右500本)の小手と38本の大手と2本の合掌手、計1041本あるとか。千手千眼の千眼をお尋ねすると、お坊様は大きな写真の手の部分を指して「ココに有るのが目です。ほとんどが消えて見えなくなっているのですが。」と、教えて下さった。へぇ~・・・感動した。
それに1039本の手は背後の台座に立てた2本の支柱に取り付けているそうだが、正面からはゆめゆめ想像できない素晴らしい手法であるなぁ~。

そして気になる持ち物は錫杖・宝戟(ほうげき)・輪宝(りんぽう)・宝鐸・宝鉢・羂索(けんさく)・胡瓶(こへい)・三鈷杵・紅蓮華(ぐれんげ)・白蓮華(びゃくれんげ)・青蓮華(しょうれんげ)・金蓮華etc.

お姿をじっと見つめていると、合掌手の中指の先が今にも触れる瞬間で、体中の全神経がソコに集中する瞬間でもあり、何を表現しているのだろうと考えてしまう。
わずかに見開いた眼差しで美しい優しいお顔を脳裏に焼き付け、内陣への入り口で「赤にしましょうね。」と言って笑顔で渡して下さった紅白のお餅1つを大事にお寺を後にした。


  道明寺
さて、次に向かったのは真言宗の尼寺・道明寺、このお寺は古墳造営に携わる土師氏(はじし)の氏寺として7世紀代に建てられ、土師氏の子孫であった菅原道真が十一面観世音菩薩を刻み、本尊とし、土師寺を道明寺と呼び改めたそうだ。
十一面観世音菩薩は檜の一木造りの檀像彫刻(だんぞうちょうこく)として国宝。素地仕上げ(そじしあげ)と言われる原材料の生地をそのまま活かし、彩色されていない。香木の香りを生かす為、目・唇・髪などの他は彩色しないらしい
高さ99.4cmの像は高い所に置かれているので膝下部分の美しい木目を天衣を透かして感じることが出来た。どちらかと言えば色彩に眼の向く私だが、近くで心静かに落ち着いて拝観させていただけた。
ちなみに頭上の頂上仏面が顔だけではなく上半身まで造られているのは平安時代初期の特徴だそうである。

境内に「木槵樹」と書いた木札が吊り下げられた樹が有って、尼僧様に読み方を尋ねると「もくげんじゅ」と教えて下さった。頂いた栞をしっかり読むと説明が有った。道真公が四十歳の時に道明寺で大乗経典のお経を写経し、それを納めたところから生えた木だと言い伝えられているそうで、お釈迦様由来の菩提樹と同じような霊木の様だ。


  観心寺
河内長野の駅に着いた。バス乗り場を探してウロウロしていると、一台出ていくのを見送ってしまい、次では4時までの時間に間に合いそうになく、慌ててタクシーを探した。
本堂となる金堂(国宝)へ直行、こちらの如意輪観音様はお顔もはっきり見えて嬉しかった。
ちなみに須弥壇に向かって、右に不動明王(重文)、左に愛染明王(重文)が祀られ、密教の経典通りに祀られているそうだ。
頂いた栞の一部をココに転記させていただこう。

       観心寺如意輪観世音菩薩(国宝)
  【 平安初期、弘法大師の御作。 榧の一木造り、像高108.8cm、台座106.6cmの彩色像
   「右の第一の手は思惟せり、第二の手には如意宝珠を持し、第三の手には念珠を持す。左の第一の手は山を按す、第二の手には蓮華を持し、第三の手
    には輪を持す。六臂広博(ろっぴこうばく)の身体にして能く六道に遊び大悲方便を以って諸の有情の苦を断じ玉へり」とある。
                ご真言「オンバラダ ハンドメイウン」 】

金堂を出て、ボランティアさんに案内をお願いして先ほどお坊様のお話で聞いた星塚(ほしづか)を廻りたかった。
せっかくご開帳の日(毎年4月17日、18日のみ)に来たのだから平素は観れない仏様を是非と言われ、その気になってゆっくり拝観していると、PM5時閉門のタイムアウトとなり、後の5つを残してしまった。
でも案内していただいたお陰でいろいろ学べた。

南北朝時代(1336年~1392年)観心寺塔頭の中院は、楠木の菩提寺であったそうな。誰もが知る楠木正成(まさしげ)はここで8~12歳まで仏道修行について学び、後醍醐天皇に呼応して挙兵し、鎌倉幕府を倒す1333年(建武新政)。そして後醍醐天皇から命を受けて金堂を建てたそうだ。

檜皮葺の大変美しい素敵な一層の塔・建掛塔(たてかけの塔、重文)は、三重塔を計画したが、1336年港川(兵庫県)で戦死したため初層のまま、建掛けの塔として伝わっているのだそうだ。

開山堂には空海の一番弟子・実恵(じちえ)が祀られている。
観心寺は701年飛鳥時代に役行者によって開かれ、雲心寺と名付けられていたそうだが、平安時代、空海が815年に来山し如意輪観世音を刻み本尊とし観心寺と改称。お寺の造営工事を実恵に託し、空海は816年高野山開創に向かわれたそうである。827年、実恵とその弟子真紹によって観心寺伽藍造営の工事が始まったらしい。


如意輪観音を中心に7つの星塚を配置した北斗七星如意輪曼荼羅の星塚というのはコレである。
このお2人は一巡して一年の厄除けをしておられるのかな。

道を尋ねながら強行軍の一日ではあったが、皆さんのご親切に感謝、頑張った甲斐あり良き思い出の日であった。
















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