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宇陀松山城址&又兵衛桜

2019-04-06 | 日記
土筆と桜とカタクリが気になる今日この頃。
宇陀と聞いて直ぐ思い出すのは室生寺・大野寺・仏隆寺・又兵衛桜・阿紀神社、そして森野旧薬園だが、近頃よく耳にする宇陀松山城跡に行く気になった。山の一人歩きに自信がなかったところ、彼は又兵衛桜を知らないと言うので一緒に行く事になった。
そうそう松源院にも行ったよな。私が訪れた時は外人のご住職だったけれど、今はどうなんだろう。。。。。

   4月5日(金)
さて、宇陀松山城は『続日本100名城』の1つ166番で、ついでながら大和郡山城は165番である。財団法人日本城郭協会が2006年に日本100名城を発表し、2017年に続日本100名城を発表した。そして2018年には後者の公式ガイドブックも出て、沢山のお城ファンがスタンプラリーをしていられるようだ。

近鉄 榛原駅から大宇陀行きバスで終点の道の駅 宇陀路大宇陀で下車。以前彼は1つ手前の大宇陀高校前で降りて西口関門(黒門)から登ったそうだが、今は昨年の台風被害で行けず、松山地区まちづくりセンター「千軒舎」の横を通って広い舗装道路に出た。「千軒舎」には城の鬼瓦や色々な資料が置かれていて、続日本100名城のスタンプもココで押せる。

幅広い舗装道路の登り坂は車向けで、歩きの者にとっては山城に行くイメージが薄くちょっと戸惑ったが、兎に角登り始めた。シダが生い茂る杉の木立で鶯が澄んだ声で盛んに鳴いていて、嬉しくなった。山から下りて来ても、やはりこの辺で聞こえて疲れが吹っ飛んだ。
途中から地道の階段もあり、足に優しい地道を選んだ。まもなく西口関門からの道と合流し、「秋山城跡↑」の道標を見た。

            (画像はクリックすると拡大する)
                                   
宇陀松山城は鎌倉・南北朝から戦国期にかけて国人領主(在地に居住し、惣領を中心に独自の勢力を持つ武士)秋山氏が築いたそうだ。1585年豊臣秀長が大和・紀伊‣和泉100万石の領主として大和郡山城に入部すると秋山氏は追放され、豊臣家配下の大名の居城となり、大改修・整備され、大和郡山城や高取城と並ぶ大和支配の拠点となったらしい。1600年関ヶ原の合戦を経て江戸時代、1615年当時の城主・福島高晴が改易され、城も破却されたのだそうだ。ちなみに秋山城を松山城に改称したのは高晴だったとか。時代背景を知りたい時はややこしいので私は徳川家康が1616年に没を参考にしている。

山肌は緑が芽吹き、あちこちにすみれが咲き早春の雰囲気いっぱいで、とても気持ち良かった。1匹のカエルも居て追っかけて遊んだりして登って行くと石垣跡も見えてきて、南西虎口部(雀門跡)の案内板の前に立っていた。土嚢が積まれていたが幅広の石段だった。隅に石ころが沢山取り残されていた。

         
  
いよいよ本丸に着いた。かなり広い。平成7年から行われた発掘調査で大規模な石垣や本丸御殿跡などいろいろ見つかり、織豊期から江戸時代初期にかけての壮大な城郭の姿が明らかになったそうだ。天守郭上には3重天守に相応する建造物が在ったと考えられているらしい。
周囲を見下ろすと崩れかけた箇所の凄さもあったが、目線を上げると幸いの好天気で、残雪を被る大峰山脈もくっきりと見渡せ、四方の景色は最高だった。心地よい風を楽しみながらお弁当を食べ、柔らかい草の上にごろりとなり、山の英気をもらった。
もし西口関門から大手筋を通り春日門を経て登っていたら体力的に余裕は無く、こんなに楽しんではいられなかっただろう。黒門など歴史的に貴重な史跡を見損ねてはいるものの、天守郭に立ち入れて充分満足だった。(笑)

           

「千軒舎」に戻ってから城下町を散策。
文化財史跡 森野旧薬園を見学した。裏庭の山の斜面には一面にカタクリの花が下を向いた咲いていた。250種もの薬草が植えられているそうだ。
森野薬園こそ「吉野葛」の元祖で、江戸の8代将軍徳川吉宗の時代には国内産の漢方薬を普及させる国策に貢献したとされている。今も変わらず当時の面影を残している薬園として史跡に認定されているらしい。

薬園への登り口でショウジョウバカマを見た。薬草ではない山野草だがちょっと珍しい花だよな。
カタクリの花は山裾から山の上までそれはそれは沢山沢山咲いていた。アミガサユリも同様にたくさん花を咲かせていた。アミガサユリが薬草だとは知らなかったが、生薬名は貝母(バイモ)、薬用部分は鱗茎で、薬効は鎮咳・去痰だそうだ。
それから、我が家の庭にも有って名を知らず気になっていた花を見つけたので、園の方に尋ねるとアマナだと教えて下さった。予期せぬ嬉しい発見だった。下段2段目の3つの画像が我が家のアマナとアミガサユリで、アマナは今、種が出来ている。
  
            
                             
  
城下町には古民家が幾つも在って風情のある町並みだった。長谷寺御用達のお菓子“きみごろも”を作る松月堂さんに立ち寄った。ふわふわの触感と淡い甘さがたまらなく好きでバスに乗ってでも買いに来る人が居るらしい。実はバスの中で偶然にその様な人に会って教えてもらった次第(笑)

その後、又兵衛桜に行きたく、辻を左手にとってR166号に出た。
国道を横切ると又兵衛桜まで1.5kmの表示があり、帰って来る数人の人に出会った。「綺麗でしたよ!」と大満足の笑顔であった。
観光バスがいっぱいの駐車場を越えて更に歩く。人の列は途切れず続く。

桃と菜の花との共演で見事に咲き誇る樹齢300年桜の姿に変わりはなかったが、すっかり整備され観光化した周囲の状況に驚いた。私は20年前、緑一色の田園の細い道を辿って傍に行き、見上げた1本桜をふと忍んでみた。
           
 
後続の2人連れ女性の話「何で又兵衛桜って言うの?」「戦国時代の武将・後藤又兵衛と言う人が居て、この地へ落ちのびて住んでいた屋敷跡に在るからよ。」と聞えてきた。「本郷の滝桜」と言うより親しみ易いネーミングだよな。

こうして今日の予定は無事終了、ご機嫌で家路に向かった。よく歩いて頑張りました。






 
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