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炸裂・島津得意の”釣り野伏” (沖田畷合戦5)

2011年01月09日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は九州の覇者決定戦というべき合戦の一つ、「沖田畷合戦(おきたなわて・かっせん)」についてです。

天正十二年(1584) 三月
天下人への道を進んでいた「織田信長」の死から二年後。
九州では、九州戦国史のクライマックスというべき、島津・龍造寺という両雄の激突・覇権争いが行われていました。
肥前島原「有馬晴信(ありま・はるのぶ)」ほか離反する島原半島の諸豪族を押さえるべく、六万とも五万ともいう大軍をもって進軍する「龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)」
これに対し、当主「島津義久」に命じられた弟「島津家久」は、わずか三千程度の軍勢で出陣。
龍造寺氏の大軍を打ち破るべく、低湿地の”沖田畷”を決戦場と定めるのでした。


「有馬晴信」の籠もる森岳城に迫る龍造寺勢。
後方には警戒部隊を置き、さらに進軍しています。
この時、「龍造寺隆信」は突如陣変えを行い、”自らの本隊を中央に据えた”と伝わっています。
圧倒的な兵力を有する龍造寺勢は、序盤から力押しに押していました。
対峙した島津・有馬勢でしたが、これに大した抵抗もせず、いかにも崩れたように撤退。
そう、これこそが家久の仕掛けた島津得意の”釣り野伏”だったのです。

計略であると知らない龍造寺勢は、ここぞとばかりに追撃を開始。
先鋒部隊が沖田畷に設けられていた大木戸の付近まで達した頃には、ちょうど軍勢が縦に細長く伸びていたのです。
全体ではともかく、こうなると局地での兵力差は大したものでありません。
ちょうど、桶狭間にて信長が「今川義元」の大軍を破ったのと同じような状態になっていたでしょう。

うっかり誘い出された龍造寺勢。
その側面に、家久の采配によって累壁の左右から鉄砲隊、弓矢隊が攻撃。
細道を進んできて無防備だった龍造寺勢は次々に討ち取られ、また後続部隊も沼地がために思ったように動けず、同様に鉄砲らの餌食となっていくのです。
なお、なかなか軍が進まないことにイラ立った隆信は、
無二無三にかかれ!
そう命令したことで、より軍勢は混乱したといいます。

この機会に、島津勢は反撃を開始。
先陣が突き崩されると、その影響は後続にも伝わり、まるで将棋倒しのように全軍が崩れていきました。
続いて森岳城から出陣した晴信ほか有馬勢も攻勢に加わって、龍造寺勢の左翼を押し返します。
また、眉山方面でも山裾を迂回した島津勢によって、右翼が敗走させられています。

こうして、龍造寺勢は総崩れとなってしまうのでした。

⇒ つづく。
 ※次回は「壮絶・龍造寺四天王」(6/6)



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