娘さんが、まんまじゃないと言われたあるお父さんの似顔絵です。
まんまのようなまんまではない。
今日のタイトルは、「まんまとはいかない」です。
この地に来て、まんまの家を借りました。
つまり亡くなられたまんまの家です。
生活していて、ある日急病でそのまま旅立たれたのです。
あたかも、別室から「こんにちは、あなた様は」と声が聞こえてきそうでした。
まんまが解消されて、私たちの臭いがする家になるまで、なんと半年を要しました。
似顔絵を描いていて、
「まんまじゃない」と言われるのが嬉しいような恥ずかしいような。
何が嬉しくて、なにが恥ずかしいのか。
似顔絵ですから、いくぶん似ていなければなりません。
その人そのものが良いのなら、写真で十分です。
そうではない。この人のここが描きたかったが本音です。
私の中のこの人が前面に出てしまい、恥ずかしい気持ちになります。
美しい人を描くときは、怖れるように憧れるように恋をしながら描きます。
恥ずかしいと少年のように顔を赤らめるのです。
ブログを毎日のように書いています。
「まんまとはいかない」のです。
言葉を選びながら、今の感動を表現します。
ちょっとずつ違います。
それが実力とアップする次第です。
話していて、皆さんも感じませんか。
「まんまとはいかない」と。
謝っているつもりが、いつしか自己弁護をしている。
静水のように、清らかな流れとはならない。
どこかに汚泥のような醜い自分がいる。
全体的には、清水のように見えます。
清水にも泥がわずかながら混じっている。
蒸留水は身体によくないが、湧き水は美味しい。
まんとはいかない。
日々、近づこうとしています。
汚いものは汚い、きれいなものはきれい。
それを素直に表現したい。
必然が生み出すユーモアです。
一生懸命を感じないユーモアはつまらない。
共感できる何かがあるから可笑しいのです。
そうだよな。
SNSの「いいね」とは少し違います。
こちらは、「とりあえず」が透けて見えてしまう。
人間関係を良好に営むために、「とりあえず、いいね」とささやきます。
その「とりあえず」が溜まり、部屋の中は収拾がつかない位汚れてしまいます。
まんまとはいかない。
それを感じられる一生懸命が欲しい。
感じることもない人の演説は、反省が無く面白くない。
日々感じて生きたい。
足りませんね。実力不足です。
岩を割り 巨木と言われ 陽が見える
2017年7月1日