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楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

日本橋 2 (旧中山道を歩く 3)

2004年03月31日 09時47分00秒 | つれづれなるままに考えること
日本橋 2
道路を渡って反対側、橋の南たもと、
道路の東側は、昔は罪人を三日間さらしものにした、
「さらし場跡」
主人殺し、女犯僧、心中者が主で、朝八時から
夕方16時まで、三日間晒され、その後とされた。

の歴史は古く、一部終戦の昭和20年まで続いていた。
ボクが子供の頃まで差別はあって、その子供と
遊んではならないと叱られたものだ。
は、寺社掃除、などに従事したのこと。

戦後新憲法の下、当たり前のことだが、
人はすべて平等となり、差別は無くなった。
歴史の上では、まだ新しい事実である。

話を戻すと、その「さらし場跡」は、
現在は交番があり、その前には
しだれ桜が見事に咲いていた。
観光客はお巡さんに路を訊いたり、
お巡りさんと記念写真を撮ったりしていた。
お巡りさんと一緒に記念写真を撮るなど、
一昔前では考えられないことであった。
今は平和!
警察官も気持ちよく応じているが、
さすが、俳優ではない。
やや緊張気味なのが、また楽しい。

橋を渡って、橋の北、道路の東側に移ると、
竜宮城の乙姫をかたどった石像があり、その前に
「日本橋魚河岸記念碑」がある。

今は築地に移転し、築地の魚河岸として、
首都圏に大量の魚を供給しているが、
元は将軍に収めた魚の余りを、
ここで一般庶民に売りさばいた場所だそうだ。






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日本橋 (旧中山道を歩く 2)

2004年03月30日 09時53分00秒 | つれづれなるままに考えること
(日本橋)
日本橋を後に京を目指すことにした。
途中、界隈に残る文明開化の足跡を訪ね、
往時の偉人を偲びながら、可能な限り史跡も訪ね、
写真もふんだんに撮りながら、できるだけ当時の様子を
伝えようと、盛り沢山に欲張って歩こうと思っている。

「写真で綴る中山道」と題した方が似合うかも。

なお、歩くに当たっては、
学研文庫「中山道を歩く」横山正治/安斉達雄著を
参考にしました。

何時、京都へ着くか分からないが、
暇を見つけて、少しづつ歩いてみようと思う。

2004年3月21日(日)晴れ
日本橋界隈は、史跡が豊富にある。

出発点の日本橋。
そこはミニ博物館のようだ。

現在の日本橋は、明治44年(1911)に創設された
ルネッサンス様式のアーチ型石橋。

その日本橋のたもと。

品川方面から来て、橋を渡って左側に、
(橋の北、道路の東側)
「東京市道路元標」と、
「日本国道路元標」のレプリカがある。
真鍮で造られた本物は橋の中央、道路の真ん中にある。
危険であるから、写真を撮るのは レプリカで我慢しよう。
「日本国道路元標」の脇に日本橋を起点とする、
各地への距離が刻まれた石碑がある。

「日本国道路元標」を中心に左側(西側)に、

横浜市    29km
甲府市   131km
名古屋市  370km
京都市   503km
大阪市   550km
下関市  1076km
鹿児島市 1469km

「日本国道路元標」の右側(東側)に、

千葉市     37km
宇都宮市   107km
水戸市    118km
新潟市    344km
仙台市    350km
青森市    736km
札幌市   1156km  

二つの里程標がある。

この二つの里程標を見て、不思議に思うのは、
東方面は、本州を離れて海の向こうの札幌市までの
里程標はあるのに、
西方面については、海の向こうの那覇市までの
里程標が無いことである。
また、九州、北海道までの里程はあるのに、
四国の松山が無いのはどうしてだろうか?

この里程標が沖縄返還前に造られたから、
那覇市までの里程が刻まれていないのだろうか?
あるいは、JR(Japan Railway Company)の
線路がつながっている街までの、
距離だけを表示したのだろうか?

そんな疑問が湧いた。

橋を品川方向にもどって、
そのたもとにあるのは、
(橋の南、同じく道路の西側に)
「昔の高札場」
今は高札の形を残しているが、書かれた内容は、
日本橋の由来の碑になっている。

高札場が出来た頃は、道徳的な
「君に忠に、親に孝に...」
などの教訓が書かれていたそうであるが、
評判が良くないので取りやめになったという。
道路の反対側は晒し場になっていたというから、
不釣合いで、当然のことと言えるかもしれない。






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旧中山道を歩く

2004年03月29日 09時11分00秒 | つれづれなるままに考えること
旧中山道

400年前に、徳川幕府が日本橋を起点に、
五街道を設置した。以下の通りである。
・東海道
・中山道
・日光街道
・奥州街道
・甲州街道

東海道と中山道はスタートが同じなら、
終着点も同じ京都、五条大橋である。

2004年1月に京都の浄瑠璃寺を訪ねた帰り、
知恩院から清水寺、焼き物通りをたどって、
五条大橋に着いた。

弁慶と牛若丸の故事は、事実かどうか知らないが、
今の五条大橋の巾は、物語にあるように、
牛若丸が弁慶の攻撃を避けて、欄干から欄干へ
体をかわす事が出来るほど狭くなかった。
国道一号線(東海道)、十七号線(中仙道)の終着点は、
片道二車線の大通りであった。

そんな五条大橋を眺めて、徒歩で江戸から京へ上った
昔を思い出し、一度は歩いてみたいと思った。

中山道は東海道より長く、道中、山が険しいのに、
女性は中山道を往来したと聞いている。
徳川将軍家茂(いえもち)に皇女和宮(かずのみや)の降嫁は有名な話である。
それ以前にも、十代将軍家治(いえはる)に降嫁した五十宮(いそのみや)、
12代将軍家慶(いえよし)に降嫁した楽宮(ささのみや)があるが、
いずれの場合も東海道を下らずに、
中山道を下った。

なぜだろう?

それは、どうやら東海道には「越すに越されぬ大井川」が
あったからだとされる。
大井川には昔は橋が無く、水があふれると
川を渡ることが出来ず、溢れなくても河止めがあり、
旅の予定が定まらなかったこともあるが、
川を渡るのに人足の手を借りなければならず、
挙句の果てに、人足の肩車にまたがる必要が
あったからに違いない。

そもそも往時の女性は、現代と違って、
ふくらはぎが露出することさえはばかられた時代。
とても人足の肩にまたがって、川を渡ることは出来なかった。
やむを得ず旅程は長くなるが、
確実な日程が組める中山道を選んだのであろう。
(ボクの勝手な想像です。)




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出産の計画 (生きる 8)

2004年03月26日 10時09分00秒 | つれづれなるままに考えること
(出産の計画)
結婚して、自分なりに出産計画を立てた。
これも人生のうちで、大切な選択になる。
カミさんと相談した。

まず子供は出来るだけ沢山欲しい。
これは、一人っ子のカミさんも賛成。

条件が一つある。

それは、子供が大学を卒業する年に、ボクが定年になること。
つまりボクが定年になる年に、最後に生まれてくる子供が
22才以下であること。

それも理解してくれた。逆算すると、ボクが33歳の時に、
最後の子供を産み終えるということになる。

カミさんの了解を得られたので、夫婦で協力することになった。
結婚した年齢が28歳であったから、
五年の間に何人子供を産めるかということになる。
早く第一子を産まなければ、続きが大変になる。

ところが、一向にその兆しが無い。
何しろ子供は、神様からの授かり物で、
コウノトリが機嫌を損なうと、なかなか口ばしに、
くわえてきてくれない。

結婚して半年が経過した。依然、兆しが見えない。
そこで産婦人科の門を叩いた。
やはりJ大学病院であった。

22歳のカミさんが、
「子供が欲しいが出来ないので、
どこか体に問題があるのか心配で...」と。

医師は診察の上、婦人体温計で体温を毎日測り記録して、
一ヵ月後に再診察するという。
一ヵ月後に、体温表をみて首をかしげた。

「あと一ヶ月体温の計測を続けて欲しい。」
さらに一ヶ月が過ぎた。

体温表を見て、今度は二週間後に診察をするという。
医師によれば、

普通卵巣の左右から、約60日に一回左右交互に、
排卵があるため、生理が約30日に一回あるはずが、
カミさんの場合、左右いずれかしか排卵が無い。
つまり子供が出来るのが60日に一回しかチャンスが無い。
というのである。

ついでに、カミさんは年齢が若く
体がまだ未成熟だということらしい。

婦人体温計で毎朝体温を測り、グラフにして二週間後
通院した。

10週間の体温表を見て、次の何日から何日の三日間に、
排卵があるはずだから、この間に頑張りなさい。
そんな指示であった。

この三日間は、人様に語ることが憚られる。
通常、精子は女性の体内で三日間は生きているらしいが、
女性の体質で精子が死んでしまうこともある。
だから、三日間精子が生きると思わないで、
出来るだけ精子の注入回数を増やすように、
指示があったというのだ。

朝、起床前に、会社から帰ってすぐに、就寝前に、
一日に都合三回励んだ。

真ん中の一日は会社を休んで、昼夜の区別無く
励んだことを、今も時々笑い話で話すことがある。

これが三日続いた。

その後、医者を訪ねるも、通常の診察があるだけで、
特に何か指示があったわけではない。

そのうちに、カミさんがやたらお腹が空くといって、
パクパク良く食べるようになった。
そんなに食べて大丈夫かと、ボクが止めるほどの
食欲であった。
過食症という病名を知っていれば、きっとこんなに沢山、
病人は食べるに違いない。

気のせいか、顔立ちもふっくらして、太ったかと、
思われる頃、今度は食事をしようとすると、
気持ち悪いと言う。

「食べすぎたから、お腹の具合が悪くなったんじゃないの?
明日医者にでも行って、薬を貰っておいで」と話した。

忠実にボクの意見を守って、
カミさんが医者に行ったその日の午後、

「赤ちゃんが出来たの!!つわりだったんだって!!」と

職場に掛かってきた電話の向こうで、カミさんの弾んだ声がした。







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病院の選択 (生きる 7)

2004年03月25日 09時30分00秒 | つれづれなるままに考えること
(病院の選択)
人生は、自らの選択で決まっていく。
治療に当たってT大学病院に入院することになったのも、
元はといえば、勤務する会社の診療所の先生の紹介によるもの。
その先生の紹介をお願いしたのも、自らの選択による。

この病院のS助教授が、血液学会では日本で指折りの
医師であったことは知らなかった。
しかしこの医師との出会いは、自分の命との係わりで、
大きな部分を占めているように思われる。

自らの生命力によるものか、あるいは医師の治療方法の
選択によるものか、あるいはその両方が作用したのか、
解からないが、今の自分があることだけは確かだ。



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