楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

吉原遊里の跡(吉原大門と見返り柳)(旧日光・奥州街道の番外記 2)

2013年05月29日 09時12分55秒 | ひとり歩き旅

(言問西交差、靴屋さんの左が日光街道)



(浅草新吉原)
さて、(言問橋西)の信号は五差路になっているが、
直進と左折の間にある左斜めの道が日光道中である。
今は寄り道をして、信号を左折して、
江戸時代から遊離の里として有名な吉原を見物しようと思っている。

以前にも触れたが、台東、江東、墨田、江戸川区方面にはとんと疎く、
吉原や本所、向島だの、小説には記されていても、
それが一体何処なのか判らなかった。

樋口一葉の「たけくらべ」の吉原は何所にある?
みかえり柳や吉原大門はまだ残っているのか?
池波正太郎の「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵が、
若い時代に「本所の銕(てつ)」と呼ばれたときの本所とは何所だ?
柳の木の向こうからぬっと出てくる辻斬りがいたという吉原の土手は何処?
漫画「あしたのジョー」に出てくる泪橋は何処に?
こんな事さえわからない。
興味津々で出かけてきたこの町は見るもの聞くもの目新しい。

(言問い通りの天麩羅や)


(言問橋西)の信号を左に折れ、言問通りを進む。
信号をいくつか過ぎて、(西浅草三)の信号を右折、
次の信号(千束五差路)を斜め右へ入っていくと、
右手にお稲荷さんの赤い旗がひらめいていて、
石灯籠と石垣で囲った神社らしきものが見える。
これは吉原弁財天である。

(千束五差路)


(吉原弁財天)


(吉原弁財天2)


何も知らずに入ってきたが、実は吉原遊郭があった当時は、
吉原大門からこの吉原弁財天まで、花魁道中が行われた場所であった。
つまり吉原の出口に来てしまったのである。

吉原弁財天には毎日掃除をしにくる有志の方が居られて、
聞くところによると、
この弁財天の通りが、吉原の目抜き通りであったそうである。

「もともと吉原は江戸時代(元和三年(1617)、幕府は日本橋葺屋(ふきや)町、
(現日本橋人形町二丁目付近)に、江戸では唯一の遊廓開設を許可した。
遊廓は翌年、営業を開始したが、葦(よし)の茂る所を埋め立てて造ったところから、
初めの頃は葭原(よしわら)と呼ばれた。
その後縁起の良い文字にかえて、吉原となった。
明暦二年になると町奉行から、
吉原を浅草日本堤へ移転するよう命じられ、
翌三年この地に移転して、浅草新吉原と呼ばれるようになった。
新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、
華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが昭和33年
「売春禁止法」の成立によって廃止された。」(台東区教育委員会)

そして今ボクは、その浅草新吉原の弁財天のある吉原弁財天に来ている。
(弁財天のお地蔵様)


この吉原弁財天については、「新吉原花園池(弁天池)跡」として、
台東区教育委員会の説明板が掲示してあったので、
内容を記しておきたい。
(江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、
明暦三年(1657)の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋め立て、
日本橋の吉原遊廓が移された。
昭和33年までの300年間に及ぶ遊廓街新吉原の歴史が始まり、
特に江戸時代には、さまざまな風俗・文化の源泉となった。
遊廓造成の際、池の一部は残り、いつしか池町に弁天祠が祀られ、
遊廓楼主たちの信仰を集めたが、現在は浅草七福神の一社として、
毎年正月には多くの参拝者が訪れる。
池は花園池・弁天池の名で呼ばれたが、
大正二年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、
490人が溺死したと言う悲劇が起こった。
弁財祠付近の築山に建つ大きな観音像は、溺死した人々の供養のため、
大正15年に造られたもの。――後略)(台東区教育委員会)とある。
(観音像)


読んでくるとこの付近一帯は湿地帯で、
埋め立てて造成した場所であったので、
池が出来たのであろう。
その場所には弁財天が祀られ、石垣で囲ってあるが、
その石垣を奉納した人の名を見ると、
「〇〇楼」「×××楼」など、
当時の(今でも残っているかも)遊廓の楼主の名が刻んである。

(楼主の名がある石垣)

(楼主の名がある石垣2)


弁財天前を進むと道路はS字になる途中に信号がある。
信号を過ぎて吉原の中を進むと、左手に「吉原神社」があり、
これまた石垣に囲まれている。
手を合わせて過ぎると、(よし原安全安心な街)の杭が建っている。
周りは元遊廓の名残か、遊廓の雰囲気(*)を感じさせる建物が並んでおり、
建物の前には、黒装束のお吾兄さんがたむろして、
客引きなどをするのであろうか。
新宿の歌舞伎町に良く似た雰囲気である。

(*)遊廓の雰囲気とはどんな雰囲気か、
遊廓街に足を踏み入れたことが無い人には分かりにくいに違いない。
ボクは大学卒業まで、名古屋の中村に住んでいて、
家庭教師のアルバイトで、江戸を真似して創ったと言われる遊廓、
名楽園の中を通り抜けていたのでよく解かるが、
その雰囲気と同じで、建物がケバケバしく、
一見して風俗営業のお店と解かる。
写真を載せればお解り戴けるであろうが、
はばかられて載せることが出来ない。

(S字の道路)

(吉原神社)

(よし原安全安心な街の柱)


そのうち吉原交番が左手にあったので、
「吉原大門と見返り柳は何処にあるのでしょうか」と訊ねる。
「吉原大門はすぐそこに、見返り柳は、
道路を道なりに曲がった所のガソリンスタンドにあります。」という。
吉原大門は、お巡りさんが指差した先に見える。
ボクが予想した冠木門でなく、道の左右に一本の柱が建っていて、
その柱に(吉原大門)と書いてあるだけ。

(よし原大門の柱)


(見返り柳)については、道路を進むと広い通りに出て、
なるほど右手にガソリンスタンドがあるが、
目当ての(見返り柳)が見えない。
通り過ぎてしまったのかと、後ろへ戻るがありそうな気配も無い。
そこへ脇道から屈強の若者が出てきたので、
「見返り柳は何処でしょうか?」と訊くと、
お巡りさんと同じ答が帰ってきた。
「ガソリンスタンドの脇ですよ。」と。
ガソリンスタンドを覗き込んでも見当たらないので、
不振そうな顔つきで若者を見ると、
「スタンドの蔭で見えませんから、先へ進んでから見てください。」と言う。
屈強そうなお兄さんにしては、ずいぶん親切に教えてくれた。
それでやっと見つけることができた(見返り柳)。

(やっと見つけた見返り柳)

樋口一葉が書いた(見返り柳)は大きな柳の木で、
吉原で楽しい楽しい時間を過ごして、
帰宅するに及んで、もう一度遊びに来たいと、
期待を込めて振り返る、
顧客の気持ち表した大きな柳の木のはずと、
ボクのイメージの中にある。

しかし期待は裏切られて、数代目とは言うものの、
とても貧弱な柳の木ではあった。
もともと山谷掘りの土手にあったものを、
「吉原大門」のあった場所に移したものという。

(見返り柳の碑)


江戸川柳に、
・ きぬぎぬの うしろ髪引く 柳かな
           見返れば意見か やなぎ顔を打ち

とあり、遊んでいないでしっかり仕事をしなさいと、
風に揺れる柳の枝が、
ぴしりと頬を打つ状景を良く詠っている。

しかし今は、時期が早くて、柳の芽はまだ出ていなくて、
頬を打つ状況には無かった。(2013.3.17.)

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言問橋と長命寺の桜餅(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 12)

2013年05月25日 09時47分52秒 | ひとり歩き旅
(言問橋先の東京スカイツリー)

(言問橋)
(言問橋西)の信号を右折すると、言問橋に出る。
言問橋も先は押上駅に行くが、そこには全国的に超有名な建造物、
「東京スカイマークツリー」がある。

言問橋名前の由来は、いろいろ説はあるが、
(伊勢物語の在原業平が詠んだ歌、
・ 名にしおはば いざ言問(ことと)わむ 都鳥 
          我が思ふ人は ありやなしやと 
                  在原業平
の古歌に由来していると言うのが、もっとも納得のいく説)
(墨田区観光協会両国案内所)と言う。

(名にしおはば・・・の歌が入っている言問団子の看板)


ボクの記憶では、
浪曲師の三門博氏の十八番「唄入り観音経」の出だし、
♪遠くチラチラ灯りが見える あれは言問、
こちらを見れば 誰を待乳(まっち)のもやい舟。
月に一声雁が鳴く 秋の夜更けの吾妻橋・・・・♪
は、テレビが無い時代に、ラジオにかじりついていた親父さん達の、
大層人気があった一節である。

子供の頃、両親が真剣にラジオに聞き入っていた姿は忘れることが出来ない。
優に半世紀を越す今も、瞼に焼き付いて離れない。

もう一つ忘れられないのが「言問い団子」で、
これはうわさに聞いていた団子屋さん。
団子屋さんが有るか無いかも、実は知らない。
この言問橋に行ったら、団子屋さんが在るか無いかを確かめて、
在れば是が非でも自分では食べて、
カミサンのお土産に一折買って帰ろうと、決めていた。
桜橋の先左側にある団子屋で売っているらしい。
美味しい団子ではあるが沢山は食べられないと言う。

言問い団子と書くと、「い」の字が余分のように思えるが、
「い」が無いと、団子を売っているお店の名前―固有名詞―になってしまう。
このお店のほかに桜餅で有名なお店にも是非寄ってみたいと思っていた。
(言問団子)

言問橋を渡ると右手に牛島神社の屋根が見える。
この神社は、小説家 堀辰雄が、
「メランコリック(*)な眼差しをした牛」と、
表現した「撫で牛」がいることで知られている。

(*)外国語を使うのが好きでないボクには、
「メランコリック」と言う言葉が、どうも解かり難い。
実際に「撫で牛」を見ると解かるが、
非常に物憂い眼差しをした牛である。

神社脇は、水戸徳川家下屋敷の庭園になっており、
美しく手入れされた池のある庭園を、
ご近所のお年寄りが散歩を楽しんでいた。
(牛嶋神社)

(撫で牛)

(水戸徳川藩の下屋敷庭園)


目指す言問い団子は、言問橋を渡って信号を左折、
(見番通り)を行くと電柱に「言問だんご この先」の案内看板が目に付く。
この看板に沿って進めば良いに違いない。
この通りには料亭が多く看板が沢山見られる。

(見番通りの案内)

(言問だんごの案内看板)

(料亭の看板)

少し進むと左手に「すみだ郷土文化資料館」があり、
今、(描かれた戦争孤児―孤児たちの心と表現)と題する、
テレビでも紹介された企画展が催されている。

(すみだ文化郷土資料館にある佐多稲子の旧居跡)

(展示された戦災孤児の絵)

(展示された戦災孤児の絵2)


(見番通り)はまだ続く。
先へ進むと左手に、「三囲(みめぐり)神社」がある。
(「三囲(みめぐり)」の由来は、土中から発見された老翁像の周りを、
白狐が三度回って消えたと言う縁起に由来する。)(墨田観光協会)
この神社は句碑や歌碑が残っているが、
どちらかと言うと、三井家の繁栄祈願の神社と言う感じがする。

(三囲(みめぐり)神社横にある古い鳥居)


(三囲神社正面の鳥居)


さらに、左手に弘福寺があり、(勝海舟が参禅をし、
森鴎外がこの寺にお墓をと願ったという黄檗宗の寺院である。)
(墨田観光協会)

(弘福寺本堂)


さらに、江戸時代から続くさくら餅屋―長命寺の桜餅の山本や―の長命寺は、
今や、長命寺幼稚園かお寺かどちらが本業と思われるお寺になっているが、
(三大将軍家光が鷹狩の途中、急な腹痛に見舞われ、
ここの井戸の水で薬を服用した所、
治まったことが長命寺の寺名の由来となった。)(墨田観光協会)

(長命寺)

(長命水の井戸)


この長命寺の門前を過ぎると、
「言問だんご、この先」の案内が消えて、T字路に突き当たり、
(見番通り)もここで終わる。
そう言えば、(見番通り)を来る途中、
「向島墨堤組合 見番(けんばん)」の立派な建物があった。
この辺りにある料亭に芸者衆を送り込む手配を、
今でもここでしているに違いない。

(墨田墨堤組合 見番)


「言問い団子」の場所がわからないので、通りがかりの人にお訊ねすると、
(T字路を左折し、坂を登った突き当たりにあります。)の返事。
T字路を教えられたとおり左折すると、なるほど上り坂になって、
すぐ又T字路になり信号がある。
信号の向こうに、少年野球場と看板があるが、
うしろは木の葉に覆われて「言問団子」屋らしき建物は見えない。
左手に野球場の更衣室かと思われる建物が見えるので進むと、
どうやらこれが「言問団子」屋らしい。
建物はシャッターが下ろされているが、
ショウウインドウらしきものが見える。
近づくと、言問い団子のショーウインドウである。
本日休業の紙がぶら下がっている。

(休業の言問団子屋)


仕方なく今日は長命寺の桜餅でも食べて帰ろうと、
来た道を戻り今度は、隅田川土手沿いの道を行く。
長命寺の裏手ではあるが、土手沿いのこのお店は営業していて、
お客様も沢山入っている。
お店に入って桜餅を一つ注文、同時にカミサンへのお土産も求める。
桜餅は、三枚の桜の葉で、あんこの入った餅を包んであるが、
普通、桜餅は包んだ葉ごと全部食べるが、
出てきた桜餅の桜の葉は、かなり大きくてどうやって食べようか、
思案しながら、出てきた桜餅をカメラにおさめていると、
隣の席の人が桜の葉ごとパクリと食べたのを見て、
一番上の桜を剥いで、桜餅を葉ごと喰らい付いた。
塩味のついた桜餅と餡子の甘い味が程よくかみ合わさって、
美味しく頂戴して帰路に着いた。
(長命寺桜餅の山本や)

(出てきた桜餅とお茶)

(桜の葉は一枚剥いで食べた)


桜餅の山本やには、その昔二階に、
歌人の正岡子規が大学予備門の頃、三ヶ月ほど下宿をしていた。
向島周辺の墨堤や自然を好んだらしく、

・向じま 花咲くころに 来る人の
       ひまなく物を 思ひける哉
・花の香を 若葉にこめて かぐはしき
         桜の餅 家つとにせよ
・から山の 風すさふなり 古さとの
         隅田の桜 今かちるらん

と墨堤の桜を偲んだ和歌を詠んでいる。

話は戻って、
家に帰って得意げにカミサンにお土産とばかり、
桜餅の包みを開いてだす。
包みを開くと、
(この桜餅の桜の葉は、乾燥を防ぐためのもので、
桜の葉を剥いでお召し上がりください)、
と注意書きがあった。

しかし、お店では桜の葉ごと食べたので、
カミサンには、桜で包んである餅を、
三枚の葉ごと食べて見せた。
勿論注意書きは、カミサンの見える場所においておいたが・・・。(2013.4.17.)

(長命寺の桜餅の山本やの菓子箱)
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三社祭のはっぴ姿(日光・奥州道中の番外記 1)

2013年05月22日 10時22分27秒 | ひとり歩き旅

(三社祭)
一生に一度は見てみたいものは数々あるが、
神田祭や三社祭もそのうちの一つ。

平成25年5月19日(日)浅草の三社祭に出かけた。
浅草寺本堂右手にある浅草神社のお祭りである。

(浅草神社の鳥居)


浅草神社は、浅草寺のご本尊観世音菩薩像を、
その昔、三人が隅田川から拾い上げた。
その三人を祭ったのが浅草神社で、この三人が三社様で、
そのお祭りが三社祭なのだ。

ボクに言わせると有難味も何も無くなってしまうが、
担ぐ神輿の上に乗ったことが、
神を恐れぬ不徳の行為とされ、
一年間神輿のお練りを中止したほど、信仰厚いものである。
その次の年は、さすが神輿に乗る不敬のやからはいなかったが、
盛り上がりに欠けて、静かなものであった。
今年は円安の勢いもあって、外国人の観光客が多く盛り上がりを見せた。

(おみこし)

(おみこしと担ぐ人の法被)

(おみこしと担ぐ人の法被2)


浅草寺を囲む道路は、歩行者天国になり、
歩くことが出来ないほどの、人、人、人の波であった。

各町から繰り出された御輿は同じようなものばかりだが、
その御輿をかつぐ人たちの背中はそれぞれ異なっている。
背中といっても半裸のいれずみ姿ではなく、
背中にはおったはっぴの模様のことだ。

その祭りのはっぴ姿をご覧ください。
(三社の法被)


(法被姿の笑顔が美しい)

(法被姿が美しい2)


(らかんの法被)

(京祭会の法被)


(龍?の法被)

(あかぎ?の法被)
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二天門・姥(うば)が池跡・花川戸(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 11)

2013年05月19日 09時03分22秒 | ひとり歩き旅
(重要文化財二天門)


(二天門の扁額)


(二天門には提灯は架かっていなかった。二天門から見た浅草寺の本堂)


(知らなかった事)
東京に55年も住んでいるのに、
足を踏み入れる事が少なかった台東区、墨田区、江戸川区について、
小説や浪曲、講談などで知っている事はあるが、
実際に訪れて知るのは初めての体験であるから、
見るもの聞くものが(知らなかった事)の連続である。

教育とは、「知らなかった事さえ知らなかった」ことを教える事であると、
後輩で有名な経済学者ロバート・A・フェルドマン氏の弁であるが、
逆に勉強すると言う事は、
「知らなかった事さえ知らなかった事」を知る事である。
このことから言えば、ボクは台東区の事柄については、
全てが勉強で、目を見張るようなものばかりである。

浅草神社の鳥居を右に行くと、「二天門」があり、潜り抜けると、
人力車に乗った観光客が、
ハッピをまとった車夫に案内されて出かけていくところであった。
人力車はタクシーが右往左往する東京では、
観光地でごく稀に見かけるものであるが、
ここ浅草界隈では、似合いの乗り物と感じられる。
人力車への乗り降りには、赤い絨毯が敷かれて、
これだけは洋風で(最高のおもてなし)を意味している。
(観光人力車)


二天門を潜り抜けると、町の名が花川戸で、
ここは講談や浪曲に出てきそうな、
いなせな火消しの新門辰五郎や、
こわもてのお兄さん幡随院長兵衛(ばんずいいんのちょうべい)が
出てきそうな土地の名前である。
講談や浪曲によるとこの二人は花川戸に関係がある。
若い頃はこの二人の出しものを胸躍らせて聞いたものであるが、
今はそんなこともなく、娘さんたちも大手を振って歩ける場所である。
(花川戸の住居表示)


すぐ右手に(花川戸公園)があり、道路には観光バスが所狭しと並んでいる。
整理係りの人たちが話すの小耳に挟んだ所では、
「この〇〇旅行社の人たちは時間に戻ってくるかどうかあやしいよ」
など話している。
浅草寺見物に時間通りに帰ってきてくれないと、
並んでいるバスが滞ってしまうからだ。

花川戸公園の奥に大きな石があり、
その石に無数の鳩が止まっているように見える。
よく見ると鳩では無さそうで、
なにか彫刻が施してあるようだ。
近づくと、猫、ねずみ、ライオンなどの動物の顔を、
粘土細工したものが無数に並べてある。
(花川戸公園にある鳩に見える石)

(実は猫、ねずみ、ライオンなど子供が作った彫刻)

道路の向かい側、二天門を出て左手にも小公園があり、
「姥が池旧跡」の碑がある。

東京都教育委員会の説明によれば、
(姥が池は、昔、隅田川に通じていた大池で、
明治24年埋め立てられた。
浅草寺の子院 妙音院所蔵の石枕にまつわる伝説に次のようにある。
昔、浅茅が原の一軒家で、娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、
ある晩、娘が旅人の身代わりになって、
天井からつるした大石の下敷きになって死ぬ。
それを悲しんで悪行を悔やみ、
老婆は池に身を投げて果てたので、
里人はこれを姥が池と呼んだ。)とある。

(姥が池跡の碑)


その右横に、「助六歌碑」があって、歌は文字が風化して読めないが、
台東区教育委員会の説明によると、
(碑面には、
・ 助六にゆかりの雲の紫を
    弥陀の利剣で鬼は外なり  団洲
と刻まれている。
九世市川団十郎が自作の歌を揮毫したもので「団洲」とは団十郎の雅号である。
―中略―
日本橋の須永彦兵衛と言う人を顕彰して仰願寺に建立した。
関東大震災で埋没したが、後に顕われこの地に再建した。
台石に花川戸鳶 平治郎とある。
歌舞伎十八番の一つ「助六」は、二代目市川団十郎が初演して以来、
代々の団十郎が伝え、今日上演されている。――後略。)とある。
(助六の歌碑)


なおも進むと、(二天門前)の信号に出る。
左折して進むと(言問橋西)の信号に出る。

(二天門前の信号)

(言問橋西の信号)
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雷門・仲見世・浅草神社(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 10)

2013年05月15日 09時57分17秒 | ひとり歩き旅
(観光客でごった返す雷門)


(浅草寺の雷門)
浅草の雷門は有名であるが、
それは多分に真ん中にある「雷門」と書かれた提灯によるものではないかと、
長いことボクはそのように思っていた。
この山門と提灯、実はパナソニックの初代社長 
松下幸之助の寄付によるものであるとは、知らなかった。
よく見れば提灯の最下部「雷門」の文字の下に(松下電器)と書かれている。
松下幸之助が病平癒のお礼に寄付したものだそうだ。
何度も浅草寺を訪ねているが、こんな事も知らなかったので、
今回は細々と見てまわった。

「雷門」と言うのは、浅草寺の総門のことで、
総門の左右には、「風神」像、「雷神」像があるからなのだそうだ。
写真を撮るのが下手で、一寸見にくいがこの両神を見ていただきたい。
(風神)

(雷神)


仲見世が次の門―宝蔵門―まで続く。
人の波にもまれながら、仲見世に挟まれた参道を通るのが普通であるが、
今日は違った見方をしたいと思う。
(宝蔵門まで続く仲見世)

今まで何回となく浅草寺に来ているが、
仲見世の裏側を見るのは今日が初めて。
表の繁華な佇まいに反して、
裏は殺風景なことは予想していたが、
これほどとは思わなかった。

うらぶれた朱色のお店の裏門、出入りする仲見世の売り子たち。
言葉使いも裏と面では違う。
「お客様」と「客」。
「客が勝手なことを言っているが、
儲けさせてもらうから我慢しないとね」、など話している。
(仲見世の裏側)

(仲見世の裏側2)


そんな裏道が続いて、宝蔵門へ。
これは両側に仁王様がいて、
真ん中に「雷門」ならぬ「小舟町」の提灯がかかっている。
「小舟町」の提灯の両横に、「魚河岸」の提灯のようなものがぶら下がっており、
その外側に仁王様はいる。通常の「仁王門」である。
「小舟町」の提灯は日本橋小舟町より寄付されたもの。
また「魚河岸」の提灯、実は吊り灯篭であるが、
これは「魚河岸」よる奉納だそうだ。
(宝蔵門の提灯とつり灯篭)

(宝蔵門と五重塔)


「宝蔵門」と呼び習わしているのは、上部三層のうち二層に、
近代設備の防火設備を施した収納室があり、
ここに浅草寺の什宝物を収納しているから宝蔵門といっている。

この宝蔵門を潜り抜けると、浅草寺本堂があり左に五重塔が見える。
ここには「志ん橋」の大提灯が架かっているが、東京新橋組合の奉納。

(浅草寺本堂としん橋の提灯)

(浅草神社の鳥居)


本堂に御参りして、右に出ると浅草神社の鳥居があり、奥に本殿がある。
ここを三社権現社とも言って、三社祭のもとになる神社だそうだ。

聞くところによると、
浅草寺の本尊聖観音菩薩を隅田川から拾い上げた三人を祭神とした神社で、
三神を祭ることから三社さまとも呼ばれて、
有名な三社祭とは浅草神社のお祭りで、五月の中旬に三日間行われる祭礼は、
一生に一度は見てみたいものの一つです。

そもそも浅草寺は徳川家の祈祷所でもありました。
今では庶民の願いを祈る所になっていて、毎日訪れる人は多い。
その隣の浅草神社境内では、
「考えるのは誰でも出来る」で有名な猿、太郎次郎が演技をして、
大勢の人を集めている。

(浅草神社=三社さまの本殿)

(反省だけなら誰でも出来るの太郎次郎の猿回し)
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