楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

澤蔵司(たくぞうす)という狐の物語と幸田露伴旧宅

2012年03月24日 11時25分23秒 | つれづれなるままに考えること
伝通院を出て、左へ道なりに進むと、
道路は善光寺坂といって下り坂になるが、
坂の途中、道路中央にはみ出している老木がある。
その脇にある建物が、幸田露伴の住居跡で、
次女の文(あや)さんが住んでいた。

(ムクノキ)

(白壁の家が幸田露伴の住居跡らしい)

この老木はムクノ木であるが、
向こう隣んの坂を下る途中左手に、
沢蔵司稲荷(たくぞうすいなり)がある。

(沢蔵司の変額がある慈眼院)

沢蔵司(たくぞうす)について、
(伝通院の学寮(修行所のこと)に沢蔵司という修行僧がいた。
僅か三年で浄土宗の奥義を極め
元和六年(1620)5月7日の夜、学寮長極山和尚の夢枕に立った。
「そもそも余は千代田城内の稲荷大明神である。
かねて浄土宗の勉強をしたいと思っていたが、
多年の希望をここに達した。
今より神にかえるが、永年当山を守護して、
恩に報いよう」と告げて、暁の雲にかくれた。
そこで伝通院の住職、廓山上人は、
沢蔵司稲荷を境内に祭り、慈眼院を別当寺とした。
善光寺坂のムクノキは沢蔵司が宿るという。)(文京区教育委員会)とあり、
このムクノキには沢蔵司の魂が宿るといわれ、
老木といえども伐採することが出来ずにいる。

(「霊窟(おあな)」)

(霊窟(おあな)入り口」

(沢蔵司稲荷のくぼ地)

余談であるが話が面白いので、
(沢蔵司は蕎麦が好きだったと見え、伝通院の門前の蕎麦屋に、
沢蔵司はよく行った。
蕎麦屋の主人は稲荷大明神であったかと驚き、毎朝 ”お初”のそばを、
霊窟(おあな)と呼ばれるくぼ地の稲荷に供え、今も続いている。

・沢蔵司てんぷらそばがお気に入り
という江戸の古川柳が残っている。)(文京教育委員会)


(善光寺の分院)

この坂の中腹に長野の善光寺の分院がある。
この善光寺から坂の名がついた。

善光寺前の説明版に芭蕉の句碑、

・ 一(ひと)しぐれ 礫(つぶて)や降りて 小石川 (はせお=芭蕉)
が慈眼院にあるという説明があったので、
もう一度沢蔵司稲荷がある慈眼院へ戻った。

(沢蔵司稲荷の慈眼院)


(芭蕉句碑)
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千姫と伝通院

2012年03月21日 10時21分35秒 | つれづれなるままに考えること
徳川家の菩提寺というと、芝の増上寺を思い浮かべるが、
文京区にも菩提寺がある。
浄土宗 無量山伝通院壽経寺。通称 「伝通院」である。

(伝通院の三門)

家康の生母 於大の方のお墓が伝通院にある。
伝通院の山門は、先の世界第二次世界大戦の東京大空襲で焼失した。
それ以来67年ぶりに山門が再建され、
2012年2月に盛大に落慶法要が営まれた。

(落慶法要、東京新聞の記事)

山門手前右手には、
「指圧の心は母心」で有名な指圧師の治療院がある。
また、山門直前左手には、
「不許葷酒入門内(くんしゅもんないにいるをゆるさず)」の石柱がある。

(処静院にあった石柱)

文京区の案内板に
「浪士隊結成の処静院(しょじょういん)跡の石柱」とあり、
次のように説明がある。
(この石柱は、伝通院の塔頭(たっちゅう)の一つで、
伝通院前の福聚院(ふくじゅういん)北側にあった処静院の前に
建っていたものである。
石柱の文字は修業と戒律の厳しさを伝えている。
処静院はその後廃寺となった。
文久三年(1863)、幕末の治安維持を目的とした組織、
「浪士隊」の結成大会が処静院で行われた。
山岡鉄舟、清河八郎などを中心に総勢250名。その後、
浪士隊を離れて、新撰組として名をはせた近藤勇、土方歳三、
沖田総司などが平隊員として加わっていた。
一行は文久三年、京都へ発った。
年号が明治と改まる五年前のことであった。)(文京区教育委員会)とある。

「不許葷酒入門内」の石柱。裏面に処静院とあるらしいが、
石柱の後ろは生垣で、写真を撮ることが出来ない。

(指塚)

立派な山門をくぐると、左手に「物故指聖供養塔」があり、
指塚になっている。
門前の「指圧の心は母心」の偉大な治療師の供養塔であろう。


(本堂)

(三つ葉葵の幔幕と無量山の扁額)
正面には本堂があり、三つ葉葵の幔幕がかかっている。
本堂左手に広く墓地があるが、
本堂すぐ左手に観音堂があり、その奥左手に一段大きなお墓、
家康の生母「於大の方」のお墓がある。
案内があって分かりやすい。

(本堂横の観音堂)

(於大の方のお墓)

法名を読むと
「傳通院殿蓉譽光岳智香大禅定尼(でんつういんでんようよこうがくだいぜんていに)」
とあり、これがお寺の名前、「伝通院」と呼ばれるようになった。
(於大の方は、享禄元年―慶長七年(1528-1602)。
徳川家康の生母。三河の城主・水野忠政の娘。
天文十年(1541)岡崎城主・松平広忠と結婚、翌年離婚後、
阿古埜城主・久松俊勝に再婚するも人質として
織田家・今川家にいる我が子家康を慰め、音信を絶たなかったという。)
(文京区教育委員会)

(台座の「伝通院伝」の法名)

(千姫の墓)

墓地に入っていくと、石垣に囲まれた一際大きく、古いお墓がある。
「千姫」のお墓である。
その奥に誰のものかわからないが江戸時代のお墓の前に、
河津桜がきらびやかに咲いていたので、写真に収める。
その左手に江戸三代将軍 徳川家光の正室「孝子の墓」がある。
その隣には東北大震災で崩れたと思われる、お墓の残骸がおいてある。
いずれ修復するものと思われる。

(徳川家係累の墓と思われる、河津桜が美しい)

(河津桜)

(孝子の墓)

(先の震災で崩れた墓)

お墓の前に三人ほどの人が立ち話をしているのを聞くところによると、
そのうちの一人はこの伝通院のお墓に毎週必ず来て、
研究を重ねているらしい。
二百年も前の歴史を紐解くのは容易なことでは無さそうだ。

墓地を左方へぐるりと一回りすると、
新撰組の時代に活躍した清川八郎の墓、
小説家 佐藤春夫のお墓などが目に付いた。
以前来たときは、「眠狂四郎無頼控」など、
時代劇小説の作家 柴田錬三郎のお墓も案内があったが、
今は余り重要でないらしく、案内も無くなって、
どれが柴田錬三郎のお墓か分からなかった。

(清河八郎の墓、門前の処静院の石柱と繋がる)

(佐藤春夫の墓)

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梅は咲いたが~♪桜はまだかいな~♪ー―浮間公園

2012年03月12日 12時27分42秒 | つれづれなるままに考えること

(浮間公園)

うららかな春の日の陽気に誘われて、
桜見物に出かけました。
先週訊ねた浮間公園です。
浮間公園は池の中心で左右に右北区、左板橋区に分かれている。
春の陽射しの中、沢山の人が出ている。

(人出が多い春の日差し)

公園の管理事務所は一つあるが、北区管理か、板橋区管理か?
あるいは月の半分は板橋区管理、半分は北区管理?
そう考えながら歩くと、何のことはない、
公園の管理は東京都である。
別の入り口の看板を見たら、
「都立浮間公園」となっているではないか。
余計な心配は不要で管理事務所は東京都が行う。

(都立浮間公園)

(先週の河津桜の蕾)

一週間前の河津桜は、蕾がやや膨らんだ程度でしたが、
三日ほど続いた春の陽気で、
やっと二輪ばかり花を咲かせていました。

桜は桜でも、河津桜。

(二輪咲いた河津桜)

(すぐ開きそうな蕾)

他の枝は何時咲いても可笑しくない蕾の膨らみようだ。
次の日曜日には満開で、大勢のカメラマンが、
押しかけるに違いない。

(次の日曜日には満開になる)

秋に咲く十月桜は秋から咲いて、
3月になってもまだ咲いている。
これが春4月にも咲き誇るので別名二度咲桜とも言う。
ソメイヨシノはまだ蕾が固い。

(十月桜の花)

(ソメイヨシノの蕾は固い)

一方で椿はもう終わりそう。
梅は7分咲きで、紅梅は満開が少し過ぎたように見える。
春本番はもうすぐそこに来ている。
桜の時期が来ると、新人の入学式が始まる。
孫息子が高校受験で希望の学校に合格した。
来年は孫娘が大学受験だ。

(椿1)

(椿2)

(梅は7分咲き)

(紅梅は終わりそう)

(入学シーズンには満開になりそうな桜並木)

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梅祭り(3/3)

2012年03月05日 12時33分11秒 | つれづれなるままに考えること
3月3日はひな祭りで、別名を桃の節句と言う。
それでも桃ではなく、梅祭りが行われた。

(赤塚城址の碑)
場所は板橋区の赤塚城址公園である。
赤塚城址は小高い丘になっており、
その上に赤塚城がその昔あった。
以前は城址は一面の梅林で、春には梅の花が咲いて美しい。
花の後は梅の実がなって、
近所の小学生に梅の実を採取させる慣わしである。
誰でも城址には、いつでも登れる所から、
子供が梅の採取を楽しみにしているので、
「梅の実を盗らないでください」と立て看板が目に付く、いやな時代になった。

(梅林)
ボクは城址に良く登るが、毎年梅は着実に実り、
誰も盗って行くような形跡は見られないのに、
いまだにこの看板は取り外されていない。

芭蕉十哲 服部嵐説の俳句、

・梅一輪 一輪ほどの 暖かさ

が思い出されるのにふさわしい、
俳句のように、梅は数えるほどしか咲いていない。
それでも、のんびりした春の陽射しの中で、
皆さん土曜日の午後の散策を楽しんでいた。

(梅一輪、一輪ほどの・・・)

今日は其の城址で梅祭りが行われた。

武者やお姫様に変装した子供たちと、
其の親で楽しそうで大変賑わっていた。
隣には、地元の太鼓同好会、ちびっこの轟太鼓、一人前の鳳太鼓、
少年少女の勇者太鼓の3グループが勇壮な太鼓を披露して、
見物客の喝采を浴びていた。
ボクも太鼓を敲く訓練でもしようか、と言う気にさせる。

(武者にお姫様)

(武者に変装したちびっ子)

(轟太鼓)

(ちびっ子のお揃い)

(鳳太鼓)

(勇者太鼓)
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日本人の宗教知識(3)

2012年03月03日 10時14分46秒 | つれづれなるままに考えること
法然上人は「南無阿弥陀仏」を唱えれば、
 極楽往生を遂げる(天国へ行ける)ことが出来る、
と説いた。

そこへ親鸞上人が現れ、
「南無阿弥陀仏」を唱えなくても、
唱えようという気持ちさえ持てば極楽へ行ける。
 つまり何もしなくても極楽へ行ける、
ということである。

 親鸞が唱えた
(南無阿弥陀仏を唱えようとする気持ちさえ持てば、
 極楽へ行ける)
を聞いた民衆は、なだれをうって浄土真宗に入った。
 
この姪の孫も、今では二児の母となって、
チイママには曾孫であるが、喜んでいるに違いない。


親鸞の説法を収録したと言う「嘆異抄」は、
弟子の蓮如上人が書いたものであるが、
 その「嘆異抄」によれば、

(「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。」
世の人常に問いて曰く、
「悪人なおもて往生を遂ぐ、いわんや善人をや」)とある。

「善人でさえ極楽へ行けるのに、悪人が極楽へいけない事があるものか」
と親鸞上人は説かれた。
 これを聞いた民衆が不思議に思って、
親鸞に質問する。
「悪人でさえ極楽に行けるのに、善人が極楽へ行けない事があるものか」
の間違いではありませんかと。

親鸞は答えて言う。
 (悪人はもともと悪いことをしたのだから、
極楽へはいけないものと思い込んでいる。
だから善人より余計に極楽へ行かせて欲しいと、
阿弥陀様にお願いをする。
阿弥陀様はお慈悲を持って悪人を極楽へいざなう。)

つまり悪人だろうが、善人だろうが、極楽へ行きたいために、
阿弥陀様に「極楽へ行かせて頂戴」とお願いするから、
 誰も彼も極楽浄土へ行けるのです。
と親鸞は説いた。


人間は誰だって極楽往生したい(天国へ行きたい)と思っている。
 「どうぞ極楽へ行かせてください」と
「南無阿弥陀仏」を唱える。
これは阿弥陀様へのお願いである。これは法然上人の説。

 「南無阿弥陀仏を唱えようとする気持ちを持てば極楽へ行ける」
と親鸞は言う。

つまり人間は誰でも極楽へ行きたいと思っている、
 ということは
「南無阿弥陀仏」を唱えようと言う気持ちを持っている。ことになる。

親鸞にとって、いや民衆にとって「南無阿弥陀仏」は
「阿弥陀様、極楽へ行かせて戴けるそうで、有難うございます。」
これは「お礼」であって「お願い」でない。
 これが親鸞の説。

それで民衆はどっと親鸞に帰依した。

人は何もしなくても、誰もが極楽へ行ける。
ーーー日本人は幸せである、誰もが何もしなくても、
何も知らなくても、極楽往生出来る(天国へ行ける)のだから。
そんなことで日本人は自分たちの宗教のことを、
殆んど何も知らない。

甥のお嫁さんが実家の父親を亡くした。
実家に帰って法要を営んだが、
仏教が何宗か知らないので、
 自分の夫の親の宗教ー正確には、
夫の父親が死んだときの宗派(浄土真宗)で、
 法要を済ませたと、
自慢げに話した。
本当は何宗かも知らないと言うことだった。
事ほど左様に、日本人は宗教に疎い。

 さて、後日、忘れた頃に、アメリカの姪の娘から、お礼の手紙が来た。

「hideおじさんに教えてもらったことをレポートにして提出したら、
95点でOK貰いました」と。

 ところで100点には-5点ですが、
どうしてですか?と聞くと、
「英語力」ですと答が返ってきた。
姪の娘のつたない英語力は、
多分ボクのつたない分かり難い説明にあったに違いない。

 (おわり)

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