楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

抗がん剤 (生きる 6)

2004年03月24日 08時04分00秒 | つれづれなるままに考えること
(抗がん剤)
良い薬は、使い方を誤ると劇薬になるものが多いという。
例えば、睡眠薬、乗り物酔い止めの薬。
一度に沢山服用すると、命を落とすことになる。

抗がん剤も同じだ。
抗がん剤はがん細胞を壊滅させる能力を持っている。
血管に注入するのであるが、うまく注入されず、
血管から溢れたとすると、周りの細胞が死滅して、
やけどの跡と同じように、ケロイド状態になるという。

ガン細胞は、人間が持つ細胞より早く、
細胞分裂を起こし増殖する。
その一瞬早く分裂するところを狙って、
抗がん剤が入り込みがん細胞を死滅させる。

ところが人間の細胞には、がん細胞と同じスピードで
分裂を起こす細胞があって、
この細胞も死滅させてしまう。
この同じスピードで分裂する細胞は、
口の中、食道、胃壁など内臓の内側、
毛根、白血球などがある。

食道、胃壁がやられるから、吐き気を催し、
食事が出来ない。
直腸がやられるから、下痢または便秘をする。
毛根をいためるので、脱毛する。
白血球がやられて、進入してくるばい菌を
やっつけることが出来ず、風邪を引きやすくなり、
怪我をすると直りにくくなる。

抗がん剤そのものは、非常に強い薬であるから、
細い血管に注入することが出来ず、
心臓に近い、背骨に沿ってある太い静脈―中心静脈―
に流しこむ。
心臓から、全身にはやく抗がん剤を流す。
心臓から血管を通じて、全身に回るスピードはほんの数秒。

血液のガンであるから、全身に抗がん剤が行き渡らなければ、
何の意味も無い。

抗がん剤の注入には、約30分掛かるが、
その間は主治医が着きっきりである。
薬が他に漏れる、他に思わぬ副作用で、
別の影響を与える、
患者が計算外の異常を訴える、などを監視するためだ。

抗がん剤の副作用(胃壁をいためるため気分が悪くなる)を
抑えるため、副作用を抑える薬を投与する。
その副作用を抑える薬に副作用があり、血糖値が上がる。
血糖値が上がるー糖尿病になるーを抑えるために、
インスリンを投与する。
白血球が死滅するため、白血球を増殖する薬を投与する。
色んな細胞が死滅するので、
体内の細胞を増殖させる薬を注射する。
下痢のひどい人は、下痢止めを...。

吐き気を催すので食べられない。
その上、下痢するのであっという間にやせ細ってくる。
食べ物の匂い、花のにおい、あらゆる臭いに反応して、
吐き気を催す。

こうした副作用で命を落とす人もいるようであるが、
それにしても最近の医学は素晴らしい。

治療しても「三年間生存率 30%」の告知を受けたとき、
三年後の医学の進歩にかけて、治療することにした。

抗がん剤投与が六回必要な中、
三回で骨髄の中にがん細胞が無くなっていたことが解かった。
この知らせを聞いたときの気持ちは、
誰にも想像することは出来ない。

サッカーのオリンピック出場選考試合の最終戦で、
日本が待望の先制点を入れたような快挙であった。
三年後の医学の進歩に賭けて、始めた治療も、
実は医学の長足の進歩の後だったことを知った。

きっと三年後に治療することも無く、
平穏無事に過ぎるに違いないと、この時感じた。

しかし、骨髄にがん細胞が無くなったからと言って、
この三ヶ月で治療が終わることなく、
当初の予定通り通算六ヶ月の治療は必要だ。
残る三ヶ月間の厳しい闘病生活は続いた。

副作用は一ヶ月目より、二ヶ月目。
二ヶ月目より三ヶ月目と厳しくなり、
月を追い回数を追うごとに、副作用を押さえる薬量も
増量せざるを得ず、苦しみも増加していった。

終戦時の天皇の玉音放送ではないが、副作用の我慢は、

「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」

残りの三ヶ月であった。

当初、治療の説明を受け、
治療することを選んだのはボク自身。
苦しみも耐え、将来へ希望を繋ぐのもボク。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

結婚40年 (生きる 5)

2004年03月23日 09時06分00秒 | つれづれなるままに考えること
(結婚40年)
自分が選んだ生活環境の中で、結婚の相手を見つけ結婚する。
そして結婚生活が始まる。

結婚前に相手をよく観察していれば、結婚後に
「こんなはずではなかった」と悔やむことは無い。
自分の責任で選んで結婚するから、
すぐ結婚に失敗したと気づいても
離婚というわけには行かない。

まして両親、縁者の反対を押し切っての場合は尚のことである。
我慢できるところまで我慢して、そのうちに子供が出来て、
さらに離婚は難しくなる。

夫婦共に生活力があれば別だが、生活力が無いと
離婚もなかなか単純には、行きそうもない。

最近は夫婦共稼ぎが多くなったので、離婚が多くなったように思う。
総理府統計局によれば、離婚は2分36秒で一組ある。
一方、結婚は40秒に一組というから、
結婚したカップルの25%は離婚するということになろうか。
(単純に離婚数を結婚数で割った場合の数)
四組に一組は離婚していることになる。

自分の責任で選ぶのだから、もっと確り相手を選んで欲しい。
結婚してから、ぐうたら亭主だ、悪妻だ、稼ぎが悪いなど、
互いに愚痴を言う人たちの気が知れない。

もっとも、ボクなんか結婚して25年記念でHawaiiへ
夫婦で初めて海外旅行をして、25年を振り返り、

「何も言うことも無い、幸せな25年だった」と

カミさんに有難うと感謝の気持ちを伝えた。
カミさんからも同じ感想があるものと予想していたのに、
意外にも、

「私は、忍耐の25年でした」と

いわれたのはショックだった。

考えてみれば、夫婦のうちで一方が幸せを感じていれば、
片方はその犠牲になっているかもしれない。
そこに気づかなかった自分が情けない。

以来15年経過して、ボク自身、考えを改めて生活したが、
カミさんはどう感じているのか、

今年の四月、結婚40周年記念日を迎えたら聞いてみようと思う。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人生は選択 (生きる 4)

2004年03月22日 09時54分00秒 | つれづれなるままに考えること
(人生は選択)
人生は、自らの選択で決まっていく。
希望した大学の、希望学科に入ることが出来なかった。
それは、今までの勉強不足によるものである。

勉強不足は、戦争という時代の波の中で、
止むを得ない部分は確かにあるが、
原因が自分自身以外にあると考えるのはおろかなことである。
いくらでも勉強できたのに、やらない選択をしていたのだから、
自業自得というもの。

勉強などというものは、教わるものでなく、
学ぶものであるから、大学が何処であれ、
あまり関係はなさそうである。

全部とは言わないが、大学に入学すると、
普通に授業に出席して、普通に勉強していれば、
卒業できてしまう。
だから、大多数の人は、大学入学後あまり勉強をせず、
良い大学を卒業すれば、良い会社に就職できると思っている。
仮に上手く就職できても、仕事をするに当たって、
行動、判断の基準となる知識が備わっていなければ、
会社で取り残されてしまう。

経済学、法学、文学、社会学、そのほかの学問でも、
キチンと学べば、いやでも、経済学、法学、文学、
時には音楽まで、幅広い知識を吸収することになるから、
行動規範も、判断基準もおのずから出来るものである。

大学で勉強するということは、教わることではなく、
自ら学ぶということだ。

中・高校のように、先生が教えてくれるのを
待っているだけでは、教わるだけの範囲でしか
学ぶことは出来ない。

学んでいる間に、色んな疑問が湧いてきて、
その疑問にたいする回答を探していくと、
前述の通り、法律から経済、物理から化学、
絵画から音楽にいたる、あらゆる知識が備わってくる。

一つの学問を深く追求していくと、
それを軸に無数に知識の枝葉が広がり、
豊富な知識が備わる。

それを追求するかしないか、それも自らの選択で、
この選択が、人生を変えていく。

勉強したかどうか、その選択で人生の岐路にたつ。
社会人になって、その中の選択でまた変わっていく。

そして人生における、さらに大きな選択は、
結婚だと思われる。

この男を、あの女を選ぶ、
これこそ選択眼があるかないかで、人生は大きく変化していく。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さくら ちる (生きる 3)

2004年03月19日 07時29分00秒 | つれづれなるままに考えること
(さくら ちる)
「生きる」とは、ずいぶん大上段に振りかぶった題であるが、
リラックスしてお読みいただきたい。

まだ、さくらの開花宣言もしていない時期に、
(さくら 散る)の副題は、
桜並木の桜ではない。

大学合格発表を遠距離のため、
見に行くことが出来ない人のために、
在校生がアルバイトで受験者の代わりに、
合否を見て受験者に連絡をする。

その電報が、

さくら さく(合格おめでとうという意味)
さくら ちる(残念でした不合格でしたの意味)

である。

希望する大学の何学部に入りたいのか、
それはどうしてなのか、
普通は、それくらいははっきりして
受験に望むに違いない。

実力不足で、不幸にして希望する大学に入学できず、
他の大学に入ったとしても、なぜその学部を選んだのか、
それくらいははっきりしているのが普通であると思う。

ボクは最初、某国立大学の法学部を受験した。

無念にも(さくら ちる)で終わった。

止む無く、中・高校と六年通った学校が経営する大学に入った。
残念ながら法学部が無く、
文学部英文学科を受験することになった。

初めからこの学校に入ることを意思表示していれば、
推薦で無試験入学ができたものを、
一度別の学校を受験すると、
推薦がもらえないのである。

ボクは、人生は儚いもの、ということを
肝に銘じていたので、浪人生活を送って、
時間を無駄にすることが出来なかった。

つまり、浪人して希望の大学、希望の学部に入学するということは、
信念として出来なかった。
一年を棒に振り、再度チャレンジしたところで、
入学が叶うかどうか判らないことに
チャレンジする気になれなかったのである。

本当は、法学部に入って法律を学び、世の諸悪と対決し、
世の中を浄化したいと思っていた。
父が警察官であったことも手伝って、
そんな正義感に燃えていたのであろう。
世のため人のためにである。
しかし、夢ははかなく崩れ去った。受験に失敗したのだ。

さくら 散る!

そして次に選んだ学部は、最初よりもっと厳しい選択となった。
つまり文学部に入学して、「人生 如何に生きるべきか」を
探求する破目になった。

文学とは、人生如何に生きるべきかを、追求する学問である。
しかも、英文によって、探求する破目となった。
卒業証書は、Bachelor of Philosophyだ。

尤も、15歳の折に、どのような生き方をしようと、
決めてあった。

この学部を選ぶに当たって、その生き方が正しいかどうかを
検証することになった。

そして生涯に渡って、(何事にも全精力を投入する)の
生き方が正しかったかどうか、確かめることになった。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聴診器 (生きる 2)

2004年03月18日 08時32分00秒 | つれづれなるままに考えること
聴診器
 五年生になる医学生O嬢が勉強のため、
二週間だけ、患者としての私の担当になった。

彼女の成すべきことは、この二週間に
患者を診察し、病状を把握し、現在の治療方法、
患者との接し方、患者の心理状況etcをレポートに纏めることである。
一日目は、上位の先生に伴われて、紹介にとどまった。

翌日、聴診器を携え診察させて欲しいという。ベッドに横たわり、
胸を広げると、やおら聴診器を胸に当てた。
手つきがまだ医師らしくなく、恐る恐るという感じであるのが良く分かる。
さて、問題は次の瞬間であった。

「あら!聴こえないわ!」
「この聴診器壊れている。」である。

すぐにナース・ステーションに帰って聴診器を取り替えてきたが、
ボクはO嬢に次のように話をした。

 がん治療に際して、全身になるべく早く薬が満遍なく、
全身に回るように、心臓に近く比較的太い静脈に、抗がん剤を注入する。
そのために、胸に点滴用の注射針を差込みます。
その注射針は、直径2ミリ長さ20センチほどの
プラスチックで出来たものですから、
体に差し込む役目を持っていない。
そのため、この針は、ひと回り太く、先端に鋭い切れ込みのある、
刺しこむ役目を持った金属製の針に覆われている。

金属製の針に覆われたプラスチック製の針は、
静脈の中に入ったのを確かめたら、
本来のプラスチック製の針だけを静脈に残し、
金属製の針を抜き出す。抜き出す際に、
プラスチック製の針が一緒に抜けるのを避けるために、
金属製の針を体の中に刺したまま、
割り箸のように二つに割り、静かに一つ一つ抜き出す。
残った針は向こう四日間、抗がん剤を投入するため体に入ったままになる。
寝返りを打ったりして、針が抜けるのを避けるため、
三箇所で肌に縫いとめる。

こうして、抗がん剤が点滴で投与されるのだが、
問題点が一つある。
それは、点滴の液が心臓のほうに流れ込めばよいのであるが、
時に首から脳に流れることがある。
それは、刺しこまれた針の長さに関係し、
微妙な長さの差で、脳に流れたり、心臓に向かって流れたりする。
それを確認するために、胸部のレントゲンを撮る。
レントゲンで心臓に流れているのを確認できれば、
これでOKとなる。

私の場合、毎回(もう三回終わったが三回とも)
点滴の液が、脳の中に流れ込んでおり、
やり直しになった。
 
やり直しは、どうやら血液科の助教授S氏のところまで、
相談が持ち込まれる。

S助教授の指示、
「刺した針を五センチ抜きなさい」や
「四センチ抜けばよい」に従うことになる。
不思議というか、当然というか、指示に従えば、
点滴の液は、レントゲンで確認すると、
心臓のほうへ流れを変えている。

さて、この「五センチ抜く」であるが、
肌に縫いとめた糸を切り、針を五センチ抜き、
もう一度三箇所で肌に縫い留めることになる。
当然痛いから、麻酔もしなければならない。
再々やり直しということもある。

 第一クールのときは、H先生が自ら持っていたスケールを出して、
胸のところに当てて、
「よし!五センチだ!」と確認した。

 第二クールのときは、Y女医さんが抜くことになった。今回は、
「四センチ」の指示だそうだ。

三箇所の糸を切って、針を抜きにかかった。

「これで良いですね?」と
先輩医師に尋ねる。
「OK」と先輩。
スケール無しである。ボクは不安に思って、

「どうして四センチと分かるのですか?」と尋ねた。
「針に目盛りがついているのです。」と

Y女医が答える。

第三クールは、主治医のF医師である。
「今回は五センチ」の指示。
F先生も自らスケールを取り出し、五センチを確認する。
抜き出す針に目盛りがついているにもかかわらず。

 O嬢は黙って聞いている。
「ここで、貴女にお話したいことは、
針には、目盛りがついているのに、
二人の先生は自分が持っているスケールで確認したということ。
(科学者は、いつも何時も、確かであろうか?と確かめることが大切だ。)
ということを知ってもらいたいのです。

貴方は、聴診器を持ってくるときに、
役に立つ聴診器かどうか確かめてこなかった。
看護婦さんに渡されたから大丈夫と思った。
これでは医者である以前に、科学者として0点です。」

(消したつもりでは、火事になってしまい元も子もなくなるのです。
元も子もなくなるということは、医師としての信頼をなくすことです。
ひいてはT大学の医学生はすべてこんな程度かと、
信頼をなくすこと。 
さらに卒業生まで信頼をなくすことになるのですよ。
貴女一人の問題ではなくなるのです。)と
言いたかったが、
医学部の学生だからこれ位は、言わなくても理解してくれた(?)と思うし、
いくらなんでも、もし理解できていないようなら、
医師の国家試験を合格してもらっては困る。
読者の皆さん!いかがでしょうか?
        




 





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Potora!  NTTグループ運営!