楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

千住大橋と矢立初めの地(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 14)

2013年06月26日 17時26分13秒 | ひとり歩き旅

(千住大橋)
JR南千住駅を出て、左突き当りが、小塚原回向院でその前の道路が、
旧日光街道である。
道路を進むと、突き当たりになり、二階を高速道路が走っている。
今や国道4号線日光街道である。
正面は交番で、その背後に神社らしき木が生えており、
回りは石垣で囲まれている。
(JR南千住駅)

(旧日光街道の現在)

(4号線に面した交番)


石垣に沿って右に進むと提灯が見え、
「素盞雄(すさのお)神社」と書かれている。
(この神社は、荒川区内で最も広い氏子域を持つ鎮守です。
――中略――
千住は、松尾芭蕉が「奥の細道」旅立ちの地として有名ですが、
芭蕉が矢立初めとして詠んだ
「ゆく春や鳥鳴き魚の目は泪」の句を刻んだ句碑があります。
江戸時代に、南北の千住宿の文人たちによって建てられたものです。)
(荒川区産業経済部 観光振興課、足立区産業経済部 観光交流課)
とあります。

どうして荒川区と足立区が共同で出しているかと言うと、
千住大橋を挟んで、芭蕉の奥の細道 矢立はじめの地が、
双方にあるからです。

荒川区は「素盞雄(すさのお)神社」を矢立はじめの地としているし、
足立区は千住大橋を渡った左側の大橋公園を、
矢立はじめの地としているからです。

芭蕉は深川から小名木川を船に乗って、千住まで来た。
上陸したのは、千住大橋の荒川区側だったのか、
あるいは足立区側であったのか何処にも記録はない。
それで荒川区は荒川区側に上陸したとし、
足立区では足立区側に上陸したとしている。

ボクが考えるに、もともと前途三千里の奥州街道を行くことになるのだから、
千住宿のある足立区側に降り立ったものと思われる。
わざわざ荒川区側に降りて、千住大橋を渡って千住宿に入るとは、
到底考えられないからだ。
しかし、「素盞雄(すさのお)神社」にある芭蕉句碑
「ゆく春や 鳥啼き魚の目に泪」の句碑は、
江戸時代に建てられた事からすると、
荒川区側に上陸したのかもしれない。
どうも解からない。

(すさのお神社の鳥居と提灯)


鳥居をくぐって「素盞雄(すさのお)神社」へ入ると、
赤い日傘が目に入る。
手前に千住大橋の杭があり、その先に小さな流れがあって、
千住大橋で隅田川を渡るかたちで、その奥に芭蕉句碑がある。

・行く春や 鳥啼き魚の目に泪   はせお翁

そしてこの句碑の外側に、
(「おくの細道」の「千住といふ所より」から
「行く春や」の句までを刻し、亡友単兆子、翁の小影をうつし、
また我をして、その句を記さしむ。鵬斉老人書)の芭蕉の碑文があるが、
碑陰には、文政三年とあるから1820年に建てられたものである。
(すさのを神社内の芭蕉句碑)

(荒川区が芭蕉のの矢立始めの地となる証拠の句碑)


(芭蕉の碑文)


さて、一方で千住大橋を渡った左手にある大橋公園に、
「奥の細道 矢立初めの地」の石碑があり、
ここは足立区橋戸町です。

千住大橋を挟んで南北のどちらも「矢立初めの地」を譲らぬ構えです。
荒川区、足立区共に「芭蕉 矢立はじめの地」は、
我が方が正しいと言っているのです。
しかし、小冊子は仲良く荒川区、足立区共同で作成していますのも、
このような事情があるからなのでしょう。
隅田川の南側(荒川区)に上陸したのか、
隅田川の北側(足立区)に上陸したのか、
今となっては誰にも判らないようです。

千住大橋を渡ると、橋戸公園が左手にあり、
「奥の細道 矢立初めの地」の大きな石碑があります。
少し奥に目をやると、
「史跡 奥の細道 矢立初めの碑」として
(千住と言う所にて舟を上がれば)から始まり
(後かげのみゆる迄はと見送るなるべし)までの
おくの細道の一節が刻まれている石碑がある。
(千住大橋を渡ると足立区)

(足立区の大橋公園にある「矢立初め地」の石碑)

(公園内にある矢立初めの碑)


公園の奥に入り、隅田川の川べりに出ると、
護岸工事の壁に、
芭蕉と曾良の旅姿と
「奥の細道 旅立ちの地」として、
「千住と云所にて、舟をあがれば、前途三千里のおもい・・・」
が記されている。
(隅田川護岸壁の芭蕉旅立ちの地)


橋戸公園を出て、千住大橋を下れば、最初の信号に出る。
広い信号で、国道4号線は直進、
旧日光街道は右側の一方通行出口の標識のある所、
今丁度トラックが出てくるところを入っていきます。
入り口右手に「千住宿 奥の細道」の大看板があり、
手前に芭蕉翁の旅姿像があります。
芭蕉像の前には「日光道中 千住宿」の石碑が建っています。
左へ行けば「草加」と刻んであります。
昔から「そうか(草加)こしがや(越谷)千住の先」と言う言葉があるから、
どうせなら「草加越谷この先」とでも入れておけば、
面白い道標になったように思う。

(千住大橋を渡った最初の信号、旧日光街道は右側のトラックのいる所を入って行く)

(「千住宿 奥の細道」の大看板)

(芭蕉像と道標千住宿)


日光・奥州街道の第一の宿場 千住宿に入って行く。
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南千住、小塚原刑場と小塚原回向院(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 13)

2013年06月16日 09時38分12秒 | ひとり歩き旅
(言問橋西の信号、靴屋のビルの左へ行くのが吉野通り)


(南千住の小塚原刑場と小塚原回向院)
(言問橋西)の信号を斜め左に入っていくのが旧日光街道である。
今は吉野通りといっている。
以前は山谷通りと言ったらしいが、
「山谷」=「ドヤ街」のイメージを払拭したかったのか、
吉野通りに変った。
吉野通りを進むと浅草高校前の信号に出て、
その両脇が山谷掘公園の吉野橋になっていることは、
(旧日光・奥州道中番外記 5)に書いた。
(吉野橋の跡)

(旧日光街道にある浅草高校前の信号)

この通り(吉野通り)は、その昔山谷通りといってドヤ街以外に、
旧日光街道として目に付くものは無い。

次の信号は(東浅草交番前)で、信号角に交番がある。
台東区のお巡りさんがいる。
お巡りさんに「泪橋(なみだばし)」はまだ先ですか」と訪ねる。
「まだ大分ありますよ」とご親切。
「ところでどうして泪橋というのでしょうね。」というと、
「明治通りは以前、川だったのですよ」との答え。
何年も東京に住んでいるのに、東京について殆んど知らないボクは、
明治通りが元は川であったというのを初めて聞いた。
明治通りはかっては思川という小さな川があり、
泪橋はそこに架かっていたという。
小塚原刑場に引かれる罪人とここでお別れした家族は、
この橋で涙したらしい。いや、家族でなく罪人の方かも知れない。
それで泪橋という。

(東浅草交番前の信号)

泪橋はまた別の意味で有名である。
漫画「あしたのジョー」で、ボクサーのジョーが
この泪橋からドヤ街のどん底を抜け出すという設定である。
ボクシングで世界一になる、サクセスストーリーに、
ファンは夢中になった。そしてアニメ映画にもなった。
その「泪橋」である。

次に東浅草二丁目の信号を過ぎ、
表通りは、何の変哲も無い通りであるが、
左右に一本はいると、
いわゆるドヤ街の象徴の簡易宿泊所があるはず。
あるはずと書いたのは、元ドヤ街を東京の名所?
いえいえ地元の人は恥部と思っているはずだからだ。
最近、表通りにコンクリートつくりのビルが出来るようになって来た。
それらは外国人のバックパッカーが宿泊する超格安宿泊所になっている。

歩いていると、歩道上のガードレールにもたれかかった、
数人の外国人女性が、ボクに言わせればフランス人形のような恰好をした、
女性がたむろしている。

(東浅草二丁目の信号)


その次の信号で「泪橋」の信号になる。
明治通りが川であったとすると、旧日光街道はここを橋で渡ったことになる。
「泪橋」を渡ると荒川区に入り、台東区とはお別れである。

JR常磐線と地下鉄東京メトロの南千住駅になる。
地下鉄といっても南千住駅は二階にある。
線路を渡るには、自動車は立体交差で地下にもぐっているし、
歩行者はエレベーターに乗って歩道橋で線路を越える。
JR常磐線の線路を越えた所にもう一台のエレベーターがあって、
これで地上に降り立つと、道路の向うの右手にJR南千住駅が見える。
(泪橋の信号)



(泪橋の信号2)



(泪橋の信号3 明治通りでフランス人形のような恰好の外国人が見える)


左手は、小塚原刑場跡の延命院と小塚原回向院が並んで建っている。
最初に、刑場跡の延命寺を訪ねる。
(ここは品川の鈴が森刑場と並ぶ江戸時代の刑場で、
磔(はりつけ)・斬首などが執行されていました。
「小塚原の首切り地蔵」が、江戸時代の刑死者をはじめとする、
無縁の霊を幾つも静かに見守ってきました。)(荒川区観光振興課)とある。
大きな首切り地蔵尊が鎮座している。
先の東北大震災の折には、石で出来た地蔵尊の腕が落ちて、
修復に大層な費用がかかったようだ。

(首きり地蔵がある延命寺)

(小塚原の首切り地蔵)

(震災で落ちた手の修復に寄付を集める看板)

(修復された地蔵尊)

また小塚原回向院は、墨田区の本所回向院の別院として出来たが、
今は回向院として独立している。
(吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎らの幕末の志士の墓や、
ねずみ小僧次郎吉・片岡直次郎・高橋お伝らのお墓があります。
また杉田玄白や前野良沢らが、ここでの刑死者の解剖見学をきっかけに、
「ターヘル・アナトミア」を翻訳して「解体新書」を表したことから、
近代医学発祥の地として「観臓記念碑」建てられている。)(荒川区観光振興課)

ねずみ小僧次郎吉、高橋お伝のお墓は、両国の回向院にもあった。
小塚原の回向院は両国の回向院の別院であったが、
今は独立して小塚原回向院となったようだが、兄弟寺院なのであろう。
(観臓記念碑)


(小塚原回向院)


また、回向院入り口には、吉展(よしのぶ)地蔵尊が安置されている。
吉展の字を見ると、思い出す事件がある。
(時の売れっ子芸人の息子が誘拐された事件で、
誘拐された子供を生きたまま奪取する手法に、
警察の手違いがあり、
子供は殺される、身代金は取られるという、
惨憺たる事件があった。
その時の子供の名が「吉展ちゃん」であった。)
その吉展ちゃんを悼んで建てられた地蔵のように思われる。
今後かかることの無いよう、冥福を祈って手を合わせて通り過ぎた。

旧日光街道が目の前を通っており、
道路標識に日光街道直進の案内がある。
(吉展ちゃん地蔵尊)

(日光街道直進の案内看板)
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勝海舟と三囲(みめぐり)神社(旧日光・奥州街道の番外記 6)

2013年06月13日 10時34分08秒 | ひとり歩き旅
(勝海舟=勝安芳の像)

(勝海舟=勝安芳の像2)

(アサヒビールの雲の形のオブジエ)



(三囲神社)
本所吾妻橋を渡って見上げると、
アサヒビールの雲のオブジェが屋上に見える。
口さがない江戸っ子は朝日に照らされた金色のウン〇と呼んでいる。

その横に墨田区役所はあって、前庭に勝海舟の像が立っている。
勝海舟生誕180周年(2003)に建てられたものだ。
時の墨田区長の建立の記によると、
(勝海舟は通称麟太郎、名前は義邦、のち安房、安芳は、
江戸本所亀沢町(現、両国四丁目)で、父小吉の実家男谷邸に生まれ、
明治32年赤坂氷川邸で逝去された。
勝海舟は幕末と明治の激動期に、
世界のなかの日本の針路を洞察し、
卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、
多くの人材を育成した。
西郷隆盛との会談により、
江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、
今日の東京の発展と
近代日本の平和的軌道を敷設した英雄である。-後略)とある。
(勝海舟生誕地の碑)

因みに勝海舟の生誕地は、同じ墨田区の墨田警察署近く、
両国公園の一角に生誕地跡の碑はある。

勝海舟の(銅像には安芳とある)銅像のある場所は、
水戸徳川家下屋敷の敷地であった。
水戸徳川家の下屋敷は隅田川に沿って北東に広がる庭園が続いており、
途中(言問通り)でさえぎられるが、
その言問通り手前に牛嶋神社がある。

広大な水戸徳川家下屋敷庭園の中ごろ東側に、
小説家 堀辰雄の旧居跡(向島1-7)があって、
この牛嶋神社に詣でて、
「ここにはメランコリックな眼をした牛がいる」といった撫で牛がいる。
なるほど、うっとりした様な眼差しの牛の、
自分の弱い部分を撫でると効験あらたかであるらしく、
ツルツルに光っている。

もともと牛嶋神社は、隅田川沿い弘福寺あたりの裏手にあったのを、
関東大震災で焼失し、現在地に建てられた本所の総鎮守である。
牛嶋神社を出て言問い通りに出る。
(弘福寺あたりの裏手の牛嶋神社の碑)

(水戸徳川家下屋敷庭園の天皇行在所)

(下屋敷庭園東にある堀辰雄居所のあったところ)

(牛嶋神社)

(堀辰雄がメランコリックな眼差しといった撫で牛)

(水戸徳川家庭園)

信号を渡って水戸徳川家下屋敷庭園沿いの、見番通りを進むと、
三囲(みめぐり)神社がある。
(三囲神社は、弘法大使が祀った田中稲荷が始まりで、
当時は現在地より北の田圃の中にあった。
文和年間(1352~56)に近江の三井寺の源慶が社を改築した際、
土中から白狐にまたがる老翁の像を発見。
その像の周りを白狐が三度回って消えたという縁起から、
三囲(みめぐり)の名がついた。
三井家は江戸進出の際に、その名にあやかって守護神とし、
平成21年(2009)に旧三越池袋店から、
シンボルの青銅製のライオン像が境内に移された。
(見番通りの案内)

(三囲神社)

(三越のシンボルライオン像)

(越の字に〇の台座)
日照りが続いた元禄6年(1693)、
俳人宝井其角が能因法師や小野小町の故事に従い、
「ゆたか」を題字に詠みこんだ
「()うだちや 田()を見めぐりの 神(み」ならば」の句を献じた所、
翌日には雨が降り評判になったという話が伝わっている。)(墨田観光協会)
ゆたかの文字を読み込んだ句碑)

(雨乞いの碑)

この解説通り、三井家が奉納した狛犬ならぬ一対の神狐は、
目尻が下がった様子から「三囲のおこんこんさま」と親しまれている。
また、宝井其角の雨乞いの句
「ゆふだちや・・・」の句碑と雨乞いの碑も境内にある。
そして三井家のライオン像と三越との関係を物語る越の字に〇の台石もある。
さらに三囲(みめぐり)神社の神殿前には、
神狐が一対あり、その狐の表情たるや、
三越の店員の心がけの模範となる、
目じりの下がった笑顔がほのぼのとして微笑ましい。
(おこんさま)

(神狐の三越社員の表情の模範となった顔)


他に、宝井其角 惜春の句碑

・山吹も 柳の糸の はらミかな   晋其角

もある。
(宝井其角 惜春の句碑)

コメント (3)
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今戸神社(旧日光・奥州街道の番外記 5)

2013年06月10日 09時44分57秒 | ひとり歩き旅
(山谷掘公園)

(聖天橋)


(今戸神社)
山谷掘公園入り口の今戸橋から二番目の橋、聖天橋を東へ進むと、
左手に浅草高校の建物があり、その右手に神社が見える。
今戸神社である。

浅草高校横の通路からは、
今戸神社の裏側から入ったようなものである。
神社正面入り口は反対側にあって、
今戸神社の大きな石碑があり、石の鳥居もある。
奇妙なことにこの鳥居の前に、沖田総司終焉の地という看板がある。
何故かと言うと、沖田総司の墓所は東京都港区の専称寺と、
ボクの記憶にあるからだ。
(浅草高校脇から見た今戸神社)

(神社正面入り口の鳥居)

(沖田総司終焉の地の看板)

若いお嬢さんたちが、神殿の前に沢山居る。
どうしてこんなに沢山の女性が居るのか、
まさか沖田総司ファンでもあるまい、と不審に思った。
そういえば境内に、養殖のホタテの貝の様のものが沢山くくりつけてある。
近寄ってよくよく見ると、その帆立貝が、一枚一枚絵馬になっている。
(今戸神社の神殿)

(和服姿のお嬢さん)

(帆立貝に見間違う絵馬)

(帆立貝に見間違う絵馬2)

普通、われわれが良く見る絵馬は、家の形をしていて、
板に馬の絵が書いてあり、裏面にお願い事を記入して神に祈るのが普通だ。
ところがここでは、絵馬の形が丸く、
遠くから見ると帆立貝の貝殻のように見える。
一枚づつ見ると、(えんむすび)書いてあり、
白い招き猫が二匹並んで描かれている。
猫の足元に今戸神社と書かれている。
その裏にお願い事を書いて奉納するのである。
(縁結びの招き猫の丸い絵馬)

(願い事のある絵馬)


神前には老いも若きも、神妙な顔つきで良縁を願って、
鰐口をならし賽銭を投げている。
出来れば良縁にありつけることを祈ってやまない。
しかし、手をこまねいていて良縁にありつけるわけでなく、
およそ縁とは自分で見つけるもので、自分で作り出していかねばならない。
倅にしても、娘にしても、どうも最近は女性のほうがしっかりしているのか、
女性がアプローチをして、結婚にまで持ち込んでいる。
子供たちの話を聞いていると、どうもそのようであるらしい。
(賽銭を投げて良縁を求めるお嬢さんたち)


世のお父さんお母さん、お子さんたちの将来を考える前に、
女性が主導権を持っていることを忘れないで、
ご指導されますことを祈っております。

宜しければ、浅草の今戸神社にお出かけになって、
縁結びのお祈りをされますと、
なお宜しいかと・・・・。

(願い事を招きよせる招き猫たち)


境内には沖田総司終焉の地の石碑もある。
隣に説明板があり、
(沖田総司は当地に居住していた松本良順の治療にもかかわらず、
その甲斐も無く当地で没したと伝えられる。)とある。
(沖田総司終焉の地の石柱)


さすがにお墓とは言えず、終焉の地としているが、
昔、名を成した人のお墓はあちこちにあるものである。
ボクの知る限り、吉田松陰は3箇所、近藤勇は5箇所、
木曾義仲は2箇所、松尾芭蕉も2箇所。

それではボクのお墓は何箇所になるだろうか・・・

う~ん0箇所かな・・・。

そうだそうだ、誰も造ってくれないかもと思って、
もうお墓を造ったあったことを忘れていた。
(旧日光街道にある浅草高校前の信号)




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「竹屋の渡し」の常夜灯と山谷掘公園(旧日光・奥州街道の番外記 4)

2013年06月06日 09時49分28秒 | ひとり歩き旅
(常夜灯)


(言問い団子)屋さんを出て、
隅田川の桜橋を渡ろうと、川の南側土手を歩くと、
左手に常夜灯が見える。

常夜灯についての説明板によると、
(かってこの付近には「竹屋の渡し」が設けられていた。
春の花見や夏の花火見物、明治に入ってからは向島花柳界へと、
遊興客を数多く運んできました。
まだ照明が発達していないこの時代には、
この常夜灯明かりが非常に重要な役割を果たしていました。
また、明治の画家たちは墨堤の桜と、
この常夜灯を好んで組み合わせることにより、向島の風情を描きました。
当時の向島の恰好のシンボルとして、
その姿を今に伝えています。)(墨田区教育委員会)とある。
(隅田川の竹屋の渡し、今はX字型の桜橋がある)

(桜橋のオブジェと東京スカイツリー)
X字型をした桜橋を渡ろうと橋の中ほどまで来ると、
三角錐のオブジェがあり、振り返ると東京スカイツリーと一緒に
良い景観であったので写真におさめた。

常夜灯の説明の中に、「遊興客を数多く運んで・・・」の部分があるが、
何処へどのように舟で運んだのか理解できなかったが、
桜橋を渡って土手を降りると、
「今戸橋(いまどばし)」の橋脚が二つ、土中からにょきっと突き出している。
ここは江東区
道路を挟んで向こう側にも「いまどばし」の橋脚が二つある。
道路向こう側に行くと、橋脚のうしろに「山谷掘公園」の案内板がある。
(いまどばしの橋柱)


(道路向こうの今戸橋の橋柱)

(山谷掘り公園の案内看板)

説明によると、
(山谷掘がいつ頃掘られたかは、はっきりしないが、
江戸の遊里との関係から見て、おそらく江戸初期にできたものであろう。
都下水道局ポンプ場のところから、
隅田川へと注ぐ約七百メートルにおよぶ山谷掘りは、
北区音無し川を源とし、飛鳥山の北側、王子権現の下を経て通じていた。
当時、この堀は吉原への通路の一つであった。
山谷掘りを通るので吉原通いを、別名、山谷通いとも言った。
猪牙舟(ちょきぶね)などを仕立てて、
このコースを使う遊興はぜいたくとされ、
まさにおだいじん遊びだった。

橋の上流の方から、日本堤橋、地方橋、地方新橋、紙洗橋、
山谷掘橋、正法寺橋、吉野橋、聖天橋、今戸橋と
九つの橋が架けられていたが、埋め立てに伴い全て取り除かれており、
橋台のみが昔の面影を残している。
現在は、水と緑の憩いの公園として整備されている。)とある。
(山谷掘り公園)


つまり、「竹屋の渡し」の常夜灯は、
吉原通いのおだいじんの行き来に使われたということだ。
この山谷掘りは当然、吉原大門までつながっている。
説明にあるように、今は堀の上にコンクリートをかぶせ、
当時の土手と思われるところには、緑が植えられ七百メートルに渡って、
山谷掘り公園になっている。

吉原へきて土手は何処にあるのか、ずいぶん気にしてきたが、
小説などに出てくる、
(土手の柳の陰から、懐手をした浪人者が出てきて、
人が通りかかると、刀を抜いて追い剥ぎをしたり、
新しい刀を購入して、その切れ味を試したのは、
この辺りの土手のことを言う)のかと、
ある程度納得できた。
今、吉原大門にある「見返りの柳」も、
この山谷掘りのどこかに生えていたに違いない。
(山谷掘の、昔は土手であったと思われる土手)

もともと山谷は、吉原が盛んであったのちは、
「ドヤ街」と異名をとった場所で安宿が多く点在したと聞いているが、
それも整理され、今は安いこと、加えて宿が日本的な畳と和トイレなど、
日本風なことが受けて、
外国人のバックパックの旅行者に大変歓迎されて居るという。

山谷掘公園の吉野橋は、旧日光街道と交差しており、
都立浅草高校前の信号がある。
この旧日光街道を「吉野通り」と今は呼んでいる。
言問橋西の信号から斜め左に入った道路が、
この浅草高校前の信号に出てくる。
(吉野通りを挟む吉野橋)

(山谷掘り公園の看板)

(道路向こうの山谷掘り公園まだ700m続く)

(道路向こうの吉野橋)


言問橋からずいぶん寄り道をしたが、
分からなかったことが分かるようになったのは、
大変な収穫であった。

知らなかったことさえ知らなかったことを知るのが勉強であるから、
今回は大変な勉強をしたことになる。
(吉野橋の上の浅草高校前の信号)
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