楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

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室の八嶋(芭蕉の道を歩く 15)

2010年03月12日 10時31分00秒 | 芭蕉の旅


(室の八嶋3)
芭蕉が千住から草加の松並木を眺め、
下野の一の宮「大神神社」にやってきたのは
「室の八嶋」へ詣でるためである。
「室の八嶋」ってなんだろうと思い巡らしたが、想像もつかない。

芭蕉が来たという「室の八嶋」に来て、やっと解ったのは、
池の中に八つの小島があり、その島に小祠があって神社となっていることだ。
これが「室の八嶋」である。

写真だと八つの神社が重なって解りにくい。
解りやすいのは航空写真が良いが、
杉の木が欝蒼としていて八嶋が見えないに違いない。
この際、一番わかりやすいのが絵で、
たまたま神社に案内説明書があったのでコピーする。

(室の八嶋の全貌) 

芭蕉は「奥の細道」に
(煙を読み習はし侍るもこの謂(いわ)れなり。
将(はた)このしろといふ魚を禁ず。)
と書いている。((芭蕉の道を歩く 13)参照)
この「煙を読み習はし侍る」と「このしろといふ魚を禁ず」とは何だろう?
芭蕉の一句にも「煙」があり、そのほかの歌にも「煙」が入っており、
ボクも「煙」を入れなければならないというので入れた。

室の八嶋の周りの池から水蒸気がのぼり、これを煙とし、
「室の八嶋」の枕詞となった。と言うのだが、どうも解らない。

(富士浅間神社)


(筑波神社)

(二荒山神社)

(熊野神社)


(香取神社)


また、(このしろという魚を禁ず)とあるのは、伝説に次のようにある。
「昔、この地に住んでいた夫婦に美しい娘がいた。
領主の知るところとなり、この娘を召し出すようにとの仰せに、
娘は嫌がって行かず。
父母もただ一人の娘であるだけに領主に差し出したく無かった。
そうこうしているうちに、お召しの使いが頻繁になったが、いっこうに差し出そうとしない。
領主は腹を立てているというので、やむを得ず夫婦は一計を案じ、
娘は死にましたと偽り報告する。
そしてその証拠にこのしろという魚を沢山棺に入れて、焼いた。
このしろという魚は、人を焼くのと同じ臭いがするからである。
それよりのちは、この魚を「このしろ(子の代=子のかわり)」と名づけたという。

十訓抄には、
・あずま路のむろの八嶋にたつけぶりたが子のしろにつなじやくらん」とある。
竹取物語に良く似たような昔話である。

「このしろ」とは「こはだ」のことであるが、
こんな山奥にこんな魚をやすやすと手に入れることが出来たのであろうか?
また、美しい娘がいると自分の性欲を満足させるために、
昔の領主は「提供しろ」と命令できたとは、
男としてはうらやましいといおうか、
はたまた、娘を持つ父親としては「何と不条理で腹立たしい」と言おうか、
娘の親が「このしろ」を焼いた気持がよく解る。

ボクの一句
・欲望を 魚の煙で 追い払い  (hide-san)

(う~ん・・・まだまだ修行が足りない。悟りにはほど遠いですね。)

(水蒸気が立ちそうな水路)


コメント
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