楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

世界文化遺産の毛越寺(もうつうじ)と観自在王院跡(芭蕉の道を歩く 62)

2015年01月29日 09時23分08秒 | 芭蕉の旅
(平泉7)
中尊寺の金色堂・旧覆堂・経蔵をみて、芭蕉像も見て、
月見坂を下り、中尊寺の信号をわたり、
金鶏山の麓を廻って、一関学院の生徒の案内で、
平泉文化遺産センターに到着する。
平泉の文化遺産にまつわる資料の展示がしてある。

女性は十二単衣を試着し、展示してある牛車に乗ることが出来る。
男性も往時の衣装を着用できるが、見学者で試着する人はいなかった。
ずいぶん重そうな衣装に見えた。

見学を終えて外に出ると雨がぱらついており、
文化センターに置いてある傘を生徒が借りてきて、
必要な人に配っていた。
ボクは、天気予報によると「平泉地方は、晴であるが午後3時ごろ、
弱い雨がある」とのことだったので、傘を用意していたが、
時間までぴったり合っている天気予報の正確さに驚いた。

傘を差してしばらく歩くと、アスファルトの道路に水たまりができ、
天気予報の弱い雨の程度を推し量ることが出来た。
そう思った頃に、雨は小降りになり、止んでしまった。

すると、「間もなく毛越寺です。元気を出してください。」
一関学院の生徒さんが勇気づける。
雨は降るし、通算8kmになることは解っていたが、
文化センターでの休憩が疲れを増幅したようだ。

重い足を引きづって松林が見えてきた。
目的地である。

毛越寺を(もうつうじ)とはなかなか読めない。
初めて毛越寺を知ったとき、ボクは(もうえつじ)と読んで居た。
ある時、カナをつけたガイドブックを見て初めて(もうつうじ)と読むのを知った。

中尊寺方面からくると「観自在王院跡」に先に到着する。
しかも入口はないから裏側から入って行く感じだ。
「観自在王院」は二代基衡の妻が建立したと伝えられる寺院でその跡地。
ほぼ完全に残っている浄土庭園の遺構は、
平安時代に書かれた日本最古の庭園書、
「作庭記」の作法どうりで、
極楽浄土を表現した庭園と考えられている。」(岩手県教育委員会)

(観自在王院史跡公園の案内)
(雨上がりで雲の厚い観自在王院庭園)
(観自在王院跡と毛越寺の間にある車宿であった所、牛車が並んだ)

「観自在王院」は、藤原二代基衡の妻が作ったものであるが、
「毛越寺」は、
「二代基衡が造営に着手、三代秀衡の代になって完成した。
往時には堂塔40、禅房500の規模を誇り、
金堂円隆寺は「吾朝無双」と評された。
池は大泉ヶ池と呼ばれ、平安時代の優美な作庭造園の形を
今にとどめています。」(岩手県教育委員会)

すべての建物は焼失したが、浄土庭園と南大門などの伽藍遺構はほぼ残されている。

(毛越寺入口)
(毛越寺の本堂)
(毛越寺の大泉ヶ池、奥に見える白い棒杭が塔堂のあった場所)
(毛越寺の大泉ヶ池2)
(南大門から見た池)
(塔堂の跡)
(塔堂の跡2)

大泉ヶ池に流れ込む「鑓水(やりみず)」の遺構は、往時のまま発掘された。
「鑓水」については説明板をご覧ください。

(鑓水の説明板)
(鑓水)

説明板によると、「鑓水」は「曲水の宴」(*)の舞台になるとあるが、
清らかな水の流れを利用し、流れてくる盃で酒を飲み、
流れてくるまでの間に一首歌を詠み、盃を流す遊びの場となった。

(「曲水の宴の図」ネットより)

(*)「曲水の宴」(きょくすいのうたげ(えん)、ごくすいのうたげ(えん))とは、
水の流れのある庭園などでその流れのふちに出席者が座り、
流れてくる盃が自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を読み、盃の酒を飲んで次へ流し、
別堂でその詩歌を披講するという行事である。(Wikipediaより)

毛越寺を出る前に、毛越寺の紹介でよく見る写真「大泉ヶ池の立石」をご覧ください。


おわりに、熱心に観光して、沢山質問をしたせいか、岩手TVのインタービュー受けたが、
実際に放映されたかどうかは解らない。

最後に、
一関学院高校郷土史文化研究会の顧問の先生から挨拶があり、
修了式があった。
お礼代わりに、
「学生生活はこれだけじゃあないから、しっかり勉強もしなさいよ」
と言って別れてきました。


とても楽しい一日が終わった。


(挨拶をする、クラブ顧問)
(生徒達1)
(生徒達2)

・気高さに 心洗われ モズが鳴き    hide-san

コメント (9)
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世界遺産:中尊寺と金色堂(奥の細道を歩く 61)

2015年01月24日 09時01分18秒 | 芭蕉の旅
(杉木立の月見坂)

(平泉 6)
月見坂をさらに進むと右手の石段の上に中尊寺の山門がある。

平泉には二度目の訪問であるが、前回は観光バスでやってきて、
記憶に残るのは金色堂だけである。
平泉に来たのに中尊寺そのものが全く記憶にない。
まして本堂がどんな形であったのか、仏像はどんなだったかも覚えていない。

前回訪ねた時には、中尊寺そのものが無かったのではないだろうか、と思えるほどだ。

(中尊寺山門)
(中尊寺本堂)
(本堂入口の参拝客)
(本堂の金色の仏像)

本堂に上がって仏像を眺める。金ぴかの坐像である。
仏像がどんな印を結ぶのか、その印がどんな意味を持つかよく知らないが、
確かに見たことのない印の形をしている。
仏像の右手は手の平を前に向けて胸の高さに有り、
左手は甲を前に向けて、二本の指(親指と人差し指)を上に向けている。

中尊寺は、最澄を祖とする天台宗と言うから、密教で、
寺格は別格大寺、天台宗大本山である。

仏経なのになぜ密教と言うのか、以前 疑問を持ったことがある。
お釈迦様が涅槃に入り、真理の中で楽しんだ時の教えだから、
つまり死後の世界を漂うなかでの教えと言うから、
誰にも分らない秘密の教えー密教と言う仏教らしい。

物語で言えば「西遊記」であるが、玄奘三蔵法師がインドから中国に帰国後、
翻訳した聖典ーお経は極楽浄土へ行く方法を記したものーで、
実に八万五千通りあると言う。

韓国を旅行した時「海印寺」で、八万大蔵経の版木が八万枚残されていた。
しかもこの経典が戦火で無くなっても、つまり浄土への道のりの教えが無くても、
極楽往生できるのが禅宗で、努力に努力を重ね修行に修業を重ね、
自らその道を会得する教義を持つ教えをお釈迦様は残された。
それが禅宗で、これが武士の世界に共感を呼び広まったらしい。

話がそれてしまったから、戻そう。
平泉は、奥州藤原氏が密教の教えに従って想い画いた、
仏国土(極楽浄土)を現わす建造物と庭園群により、世界遺産に登録されることになった。

中尊寺の仏像は、その浄土を説き指し示しているのではないだろうか。
金色堂が示すように、
この世にない黄金の輝きの中に浄土を探し求めたように思える。

さらに進むと、金色堂、経蔵、旧覆堂に着く。

芭蕉は、
兼ねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、
光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、
珠の扉風に破れ、金(こがね)の柱霜雪に朽ちて、
すでに頽廃空虚の叢(くさむら)と成るべきを、四面新に囲みて、
甍を覆ひて風雨を凌ぐ。
暫時(しばらく)千載の記念(かたみ)とはなれり。

 ・五月雨の 降りのこしてや 光堂
」と述べている。

(金色堂の案内)
(金色堂への道)
(「七宝散りうせて」の七宝を散りばめた柱(東北歴史博物館のレプリカより)
芭蕉が尋ねた時は、すでに四面を囲み覆堂が出来ていた。
現在の覆堂はコンクリート製であるが、旧覆堂も残っている。
芭蕉が言う二堂開帳すの二堂は、覆堂内の金色堂と経蔵のことだ。
光堂には「三代の棺を納め」とあるのは、
初代清衡、二代基衡、三代秀衡の三人の遺体を指しているが、
義経を自害させ、頼朝に討たれた泰衡の首級が納められており、
今では、親子四代のご遺体が納められていることが判っている。

(撮影できない金色堂ネットから)
(撮影できない金色堂内陣ネットから)

芭蕉が言う「経堂は三将の像を残し」と言っているが、これは現在の経蔵のことではないようで、
金鶏山のことを言っているようだ。(奥の細道菅菰抄より)

*「奥の細道菅菰抄」は別名 高橋利一著の解説書で、
芭蕉の100年後に著わされた、第一級の解説書と言われている。

(経蔵)

(芭蕉が見た旧覆堂)
(芭蕉像と「奥の細道」文学碑)

・秋風の 祈りにほほ笑む 仏さま  hide-san


コメント (7)
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光了寺と茶屋松原(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 36)

2015年01月23日 09時18分46秒 | ひとり歩き旅
(中田宿)
栗橋宿から利根川を渡って中田宿に入る。
栗橋関所はもと利根川の中田宿側にあったものを、
利根川を挟んで栗橋側に移した。
利根川には橋が無く、房川渡しを舟で渡り中田宿から栗橋宿に行った。
関所は中田宿にあった時と栗橋宿にあった時があったので、
今では「房川渡し中田・栗橋関所」と呼んでいる。

旧日光街道を進むと浄土真宗大谷派 光了寺がある。
古河市観光協会によれば、

「光了寺は元は久喜市(旧栗橋町)にあり、静を葬ったので、
その遺品が寺宝として保存されています。
その一つが「蛙蟆龍(あまりょう)の舞衣」。
後鳥羽院の寿永2年に大変な日照りに見舞われ、
高僧を招き雨乞いをしても雨が降らないので、
百人の舞姫を集め次々に雨乞いの舞を舞わせ百人目の静が踊ろうとした時、
天皇が静に御衣を与え、その御衣で舞ったところ、
たちまち大雨が降ったという。この衣が「蛙蟆龍の舞衣」で、
今も光了寺に保存されています。」とある。

(光了寺山門)

(山門前の石碑)


栗橋駅近くに、静御前の墓があることは以前書いた。
静御前が、東北に進んだ義経をしたって移動したことは文献にあるらしいが、
どこで、どうなったかは判明して居ないらしい。
しかし栗橋にあった光了寺に残した舞衣(まいごろも)によって、
ここで亡くなったと思われる。
光了寺山門前には、「祖師聖人並び靜女舊(旧)跡」の古い石碑が建っている。
また山門を入ると、右手に親鸞聖人像があり、
その横に「智恩報徳」の額が掛かった宝物殿がある。
ここに「木造聖徳太子立像」と
上記「蛙蟆龍(あまりょう)の舞衣(ぶえ)、義経かたみの懐剣」があると言う。(古河市観光協会)

(山門を入った右側の宝物殿)

(光了寺本堂)


山門から本堂までの参道左手に、芭蕉句碑が建っており、
次ぎの一句が刻まれている。

・いかめしき 音やあられの ひのき笠

(芭蕉句碑)


光了寺を出て、進むと右手に古河市立第四小学校の正門があり、
やがて東北本線の踏切にでる。踏切の向こうの道路左右に、
まだ若い木であるが松並木が見える。

(古河第四小学校)

(東北本線の踏切)


この辺り茶屋新田と言い、松並木があったところ。
夏は旅路に緑の蔭を、冬は風をさえぎり旅に風情を添えた。
幕末の志士 清河八郎は、
「ここから古河までは一里半の道のりで、
仙台道中最もきれいな松並木である。(中略)
その並木の松の間から古河の天守閣が眺められ、
時には富士山も雲の上に姿を顕し景色が大そうよい。」と、
旅行記に書いている。
昭和十三年には道路拡張のため根元は掘り上げられ、
松根油の製造に使われた。」と言う。

(往時の美しさが偲ばれる松並木の街道)


美しい松並木は古河宿まで続いたという。
徳川二代将軍秀忠が日光社参で御茶屋を設けたので、
この辺りは茶屋新田と言われるが、
松並木の中間地点に茶屋を設けた場所、
茶屋松原が残っている。

(茶屋松原)

(茶屋松原2)

日本橋から十七里、日光まで二十里の場所である。
この後方に茶屋新田の鎮守、香取神宮があり、
「宝永元年」(1704)に建立された旧神社は老朽化して、
平成二年香取神社氏子一同の手により再建された。

(再建された香取神社)


しばらく進むと左館林に抜ける354線との交差点があり、
これを越して直進すると、
道路脇に長く白い柵で囲まれた林が見えてくる。

(館林へ抜ける354線と交差する信号)

(柵に囲まれた林)


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武蔵坊弁慶(奥の細道を歩く 60)

2015年01月21日 08時57分49秒 | 芭蕉の旅
(関山中尊寺入口)

(平泉 5)
(中尊寺)信号を渡った右手は「関山中尊寺」の石柱がみえ、
月見坂が奥に続いている。

(中尊寺)の信号左手に、古い松の生えた一画があり、ここが弁慶の墓である。
弁慶の墓には立派な墓碑があり、墓は竹垣に囲まれ一段高くなっている。
そこに松が植えられ、五輪の塔と句碑が建っている。

義経の居城高館が焼打ちされるや、弁慶は寄せ来る敵の前に立ち、
(この先に進むことならず)と長刀を立てて立ちふさがった。
最後まで主君を守り、ついに衣川の古戦場で立往生したと言う。
遺骸をこの地に葬り五輪の塔を建て、
後世、中尊寺の僧 素鳥の詠んだ句碑が建てられた。

句碑に

・色かえぬ 松のあるじや 武蔵坊

とある。

(弁慶の墓の案内)
(武蔵坊弁慶の墓の碑)
(松の木と五輪の塔と句碑)
(武蔵坊の「武」がかろうじて読める句碑)

ボクより若いハイキング参加者は、月見坂をどんどん先へ行く。
一番最後を遅れながら、喘ぎ喘ぎ月見坂を登って振り返って見ると、
月見坂は大杉に囲まれた美しい坂道であった。

(古杉に囲まれた美しい月見坂)

左手に弁慶堂がある。右手を「東物見台」と言い、
眼下に衣川があり北上川に合流している。
ここが衣川の古戦場であり、弁慶立往生の地とも言われる。
しかし伝説では義経とともに大陸に渡り、暴れまわっていたとも言う。
「東物見台」左手に西行法師の歌碑がある。

・ききもせず 束稲やまのさくら花
          よし野のほかの かかるべしとは
とあるようだ。(読めなかったので)

(衣川の古戦場。右手に見える橋の下を流れる衣川、手前の陸橋は東北新幹線)
(右手に束稲山が見える古戦場)
(西行法師の歌碑)
(弁慶堂)
(立ち往生した弁慶を演じる一関学院の高校生)

その弁慶堂の先の右手に地蔵堂が見える。
地蔵堂に入る手前の右手に、臼田亜浪の句碑、

・夢の世の 春は寒かり 啼け閑古  亜浪

とあり、その先に、もう一つの西行法師の歌碑がある。
始めに説明文があり、続いて和歌がある。

「みちのくにに 平泉にむかひて 束稲と申す山の
はべるに はなの咲きたるを 見てよめる。

・ききもせず 束稲やまの さくら花
    よし野のほかに かかるべしとは」

とある。

奥州藤原氏が栄えた時代には、この束稲山には一万本の桜が植えられていたという。
平安時代の歌人西行法師が平泉を訪れた際にその桜を見て、
詠んだ歌碑が建てられている。

奥州藤原氏がよし野を偲んで桜を植えたものと思われる。

(地蔵堂)
(地蔵堂へ入るまでの右手に臼田亜浪の句碑)
(「夢の世の・・」の句)
(説明文と並んである西行の歌碑)

・秋空の ガイドに聞き入る 弁慶堂   hide-san



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高館義経堂(奥の細道を歩く 59)

2015年01月19日 08時50分52秒 | 芭蕉の旅
(平泉4)
芭蕉は、各地を歌を詠みながら歩いた西行法師を慕い、
和歌に詠まれた歌枕(名所旧跡)を訪ね、
悲劇の武将 義経を慕って歩いている。
ここ平泉は、壇ノ浦やヒヨドリ越えの戦で名を馳せた義経の最期の場所である。

奥州の藤原秀衡が造った無量光院跡を見学して北上し、
義経終焉の地「高館義経堂」を訪ねている。

芭蕉は「奥の細道」で次のように記している。

「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。
秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山のみ形を残す。
先ず高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河也。
衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。
(中略)
さても義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の叢となる。
「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、
笠打ち敷きて、時のうつるまで泪を落とし侍りぬ。

・夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡

 ・卯の花に 兼房みゆる 白毛(しらが)かな  曽良」

(芭蕉句碑:上部に俳句、下部に「奥の細道」の一節が載る)
(「夏草や・・」の芭蕉句碑)

高舘義経堂横に義経主従の供養塔がある。
兄・頼朝に追われ、少年期を過ごした平泉に再び落ち延びた義経は、
藤原氏三代 秀衡に庇護されていましたが、
文治五年四月三十日、頼朝の圧力に耐えかねた秀衡の子・泰衡の急襲に遭い、
この地で妻子とともに自害したと伝えられている。
天和三年(1683)仙台藩主 伊達綱村が義経を偲んで建てたのが義経堂です。

(高館義経堂入口の階段、この上にもう一つ階段がある)
(義経堂までのもう一つの階段)
(義経堂)

運命に翻弄され、この地で31歳の短い人生を終えた義経と、
その義経を信じて戦い抜いた弁慶、それぞれの生涯に思いを馳せ、
昭和61年建立された義経主従供養塔が義経堂の横にある。

(横にある義経主従供養塔)

(高舘展望の図)
(高舘から見る開けた景色:奥に束稲山が見える)
(高舘から見える北上川)

「吾妻鑑」によれば、
(義経は「衣河舘(ころもがわのたち)」に滞在しているところを襲われたとあるが、
今は「判官の館」と呼ばれるこの地が「衣河舘」であったろうか。)とある。

自害の後、義経の首は塩詰めにして鎌倉に送られたと言われているが、
時は夏、平泉から鎌倉に着くまでに、
顔は崩れて義経かどうか判別出来たかどうか解らない。

そのためか、次のような伝説が残るという。
「義経北行き伝説」
(悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は、
文治五年(1189)四月、
平泉の高舘において31歳を一期として自刃したが、
短くも華麗だったその生涯を想い
”義経はその一年前にひそかに平泉を脱出し北を目指して旅に出た”
と言う伝説を作り上げた。
世に言う「判官びいき」であろう。

その伝説では
”文治五年、この館で自刃したのは、
義経の影武者【杉目太郎行信】であって、
義経はその一年前に弁慶等を伴い館を出て、
束稲山を越え長い北への旅に出たのであろう”
と伝えられている。(佐々木勝三著「義経は生きていた」)
(岩手県観光協会)
そしてモンゴルに渡り「ジンギスカン」として名を馳せた、
と一関学院の生徒さんの解説であった。

(伝説の看板)

この伝説はただの伝説ではない。
「奥の細道」の第一級の解説書と言われる「おくのほそ道菅菰抄」は、
次のように注釈(筆者の要約)をつけている。少し長いが紹介しておきたい。

「義経追討の事、ある説に言う。

秀衡 病にて将に死なんとするとき、三人の子供に遺言して言うには、

(鎌倉将軍 頼朝の人となりは信用に足りない。
義経を滅ぼし、その上わが所領をも奪おうとする計画を持っているように思う。
けれども、私が存命であるが故に、未だ手を出すことができないでいる。
私が死んだら、必ず義経を討つだろう。
そうなるとお前たちの身にも危険が迫るだろう。
私の死後には、国衡(錦戸太郎)泰衡(伊達次郎)は、
偽って義経の討手となるよう願い出なさい。
忠衡(和泉三郎)は、義経に従って、仮にも討手を防ぎ、
義経、および義経の近臣を皆蝦夷(エゾ)に逃がすように)

と言いつけて、秀衡は死んでしまった。

父親が言った通り、いくらも経たない内に、
鎌倉より義経追討のニュースが聞こえてきた。

秀衡の子供たちは、父の遺命をよく守り、国衡・泰衡は高館を攻め、
忠衡は義経に代わり自殺して焼死し、誰であるか分からなくしてしまった。
また近臣の亀井、片岡、弁慶をも、各人に変えて別人を戦死させ、
義経をこれら近臣者とともに蝦夷へ送ってしまった。
その後、國衡・泰衡も最後には頼朝のためにほろばされた。

義経は中華にわたり列候となり、義行王といった。
(中略)
当時の中華は韃靼人(モンゴル人)の世で、これを清という。
これは義経を祖とする清和源氏の「清」を採り「清(しん)」としている。
今、清朝王の城下の家々には、義経の画像を門柱に貼るという。」とある。

義経の中国大陸への脱出伝説は、この解説書によるところが大きい。
江戸時代の解説書ですから、現代文にするには少々手間取りました。

*「奥の細道菅菰抄(すがこもしょう)」は「奥の細道」の100年後に、
簑笠庵梨一(さりゅうあんりいち)によって書かれたもの。
すぐれた芭蕉研究家で、芭蕉の足跡をほぼ実地に歩き、
奥の細道の解説書を十年かけて完成させた。
和・漢・仏に渡る123部の引用書目を駆使して、
精細で正確な注釈をした。(岩波文庫「おくのほそ道」より)


高館義経堂の階段を下りて、すぐ右折し線路わきを進むと、
「卯の花清水」の石柱と平泉観光協会の説明碑がある。
曽良の読んだ俳句「卯の花・・」の説明碑は見事で紹介しておきたい。

(文治五年うるう四月、高舘落城のとき、主君義経とその妻子の、
悲しい最後を見届け、死力を尽くして奮闘し、
敵将もろとも燃え盛る火炎の中に飛び込んで消え去った
白髪の老臣、兼房、齢六十六。
元禄二年五月、芭蕉が、門人曽良とこの地を訪れ、
「夏草」と「卯の花」の二句を残した。

白く白く卯の花が咲いている、
ああ、老臣兼房奮戦の面影が、ほうふつと目に浮かぶ。
古来、ここに霊水がこんこんと湧き、里人、
いつしか、「卯の花清水」と名付けて愛用してきた。

行きかう旅人よ、この、妙水をくんで、心身を清め、
渇きをいやし、そこ、「卯の花」の句碑の前にたたずんで、
花に涙をそそぎ、しばし興亡夢の跡をしのぼう。
昭和五十年卯月三十日 平泉町観光協会建之)とある。

(卯の花清水)
(卯の花清水の説明碑)

義経堂を出て、東北本線のレールに沿って進み踏切を渡ると、
(中尊寺)の信号に出る。
その信号脇に「弁慶の墓」がある。

(中尊寺の信号)


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