楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生  ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」 山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

常念寺・明王寺・玉藻稲荷神社(芭蕉の道を歩く 27)

2012年11月28日 09時58分45秒 | ひとり歩き旅
(常念寺)


(那須・黒羽3)
那須神社より国道461号線を東へ約4km、
国道294号線との交差点を左折。
左側に常念寺がある。

この参道左手に芭蕉句碑があり、

・野を横に馬牽きむけよほととぎす  はせを

が刻まれている。

この句は芭蕉が黒羽から殺生石に向かうとき、
馬子から「短冊得させよ」と乞われて、作った句である。
まさか馬子から、俳句の短冊が欲しいなど乞われるはずも無いと、
思いがけない頼みに感じ入って作った句である。
馬子の教養がしのばれる。

(参道左の芭蕉句碑)


(「野を横に」の句碑)


常念寺を出て道を左へとると、ややあって右側に明王寺があり、
手前左手に明王寺の駐車場がある。
この境内の右手手水鉢の奥に、芭蕉句碑がある。

句碑横の説明によれば、

芭蕉が黒羽に滞在中歌仙の興行があった。
その36句の中から明王寺に相応しい句として、

・今日もまた朝日を拝む石の上   歌仙・芭蕉

をとり、句碑とした、とある。

(門前の小僧、習はぬ経は読まぬ)


(明王寺山門)


(本堂)


(手水鉢横に句碑が見える)


(「今日もまた・・・」の句碑)


明王寺を出て、国道294号線に沿って、
くらしの館・ふるさと物産センターが左にある交差点を左折。
いくつか信号を越え、左右に道が別れ、
判りにくいが大田原市役所方面へ向うと、
道路左手に「玉藻稲荷神社」右の案内があるところを右折すると、
玉藻稲荷神社に到着する。
このあたりが那須の篠原という。

(玉藻稲荷神社の案内)


(稲荷神社の赤い鳥居)


お稲荷さんの赤い鳥居をくぐると、先に石の鳥居が見え、
左手に石碑が見えるが、これは歌碑で鎌倉第三代征夷大将軍の
源実朝の歌、

・ もののふの 矢並つくろふ 小手の上に
            霰たばしる 那須の篠原


が刻んである。
これは歌枕「那須の篠原」を詠んだ歌である。

(実朝の歌碑)


この那須の篠原は、九尾の狐―玉藻の前―が、狐である事が露見して、
逃げ込んだ場所である。
この石の鳥居には左右に「玉藻の狐塚が出来た謂れ」が、
漢文で刻んであり、読み方も意味も不明の文字があって、
調べるのに時間が掛かった。
(読もうとしなければ良かった。時間の無駄でした。)

縁起の概要は、

(この玉藻大明神は、三国(インド⇒中国⇒日本へ)から伝わる狐である。
その昔、人皇76代近衛院(近衛天皇)の時代、
九尾の狐が美女に化けて名を玉藻といった。
大変博識で艶かしく絶世の美女であった玉藻は帝(みかど)に仕え、
帝も玉藻を深く寵愛された。
ある時、天子は病床につかれたが、医薬の効き目なく、
陰陽師の安部泰成を殿中に召して、祈祷させた所、
玉藻の前は九尾の白狐に変身し、那須の篠原に逃げた。

ここに久寿二年(1155)三浦介平義継、上総介平広常の両人は、
勅命によりこれを狩り、この地に埋めた。

後に、建久四年(1193)源頼朝公、狩をして、
この那須野に至り、この話を聞かれた。
そしてここに祠を建て、玉藻稲荷神社と名づけた。

ここに大豆田村住人 磯忠陸が、
大清浄の願をたて(観世音菩薩のように苦しみの一切を引き受ける願い)、
一基の鳥居を造り、永く神前にお供えする。

銘にいわく、玉藻狐、身は天竺にいたるも、霊魂はここにとどまり、
稲荷神社になると。

成就院即成山光明険寺 十一世権律師 法橋源珍 謹んでこれを記す。
華表(鳥居)寄進 大豆田村    磯又右衛門忠陸
石工       田町 伊藤新五郎 藤原鈴雄)


とある。

鳥居の右側に芭蕉句碑、

・秣負ふ 人を枝折の 夏野哉  芭蕉 

がある。

(芭蕉句碑)


(「秣負ふ・・・」の句碑)


さらに、右のほうを見ると池があり、これが「鏡が池」で、
三浦介義継が玉藻狐を篠原に追い込んで見失ったところ、
この池の面近くに伸びた桜の枝に蝉に化けた狐の正体が、
池に映っているのを見つけ、難なく九尾の狐を狩ったので、
この池を「鏡が池」というようになった。

その桜の切り株(?)が池の端に残っている。
また、池の横に小さな鳥居があるが、その奥が小高くなっており、
「狐塚」と呼んでいる。
なお、写真では木の蔭になって見えないが祠もある。

(鏡が池とその右にある鳥居の奥が「狐塚」になっている)


(池の向こう側にある切り株が桜の木?)


・狐化け 姿を映す 池に月    hide-san

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那須神社(芭蕉の道を歩く 26)

2012年11月23日 09時35分02秒 | ひとり歩き旅
(那須神社の長い参道と一の鳥居)


(那須・黒羽2)
与一伝承館を出て、裏手の森へ行く。
那須神社である。
神社の参道は細長くて、神社入り口から一の鳥居、二の鳥居まで、
かなりの距離があると思ったら、毎年敬老の日の例大祭に催される
流鏑馬(やぶさめ)の馬場になるからであった。

また一の鳥居、二の鳥居に掛かっている注連縄(しめなわ)が、
弛んでいると言うか、垂れているのは何故だろうか、
聞きそびれてしまったが、弓の弦のように思えてならなかった。

(垂れ下がったしめ縄)


(樹齢250年の大きなサワラの木)


参道の途中に「与一の里おおたわらの名木」がある。
樹齢250年の古木で樹高31mあるサワラの木である。
そして二の鳥居脇には、天然記念物の桜の大木があり、
鳥居をくぐった左手には、重要文化財の「手水舟」があり、
その奥に、黒羽藩主大関高増が寛永19年(1642)建立した楼門がある。

(桜の木)


(手水舟)


(楼門)


(楼門2)


楼門をくぐると、本殿前に一対の石灯篭があるが、
(これも黒羽藩主大関高増が奉納したものといわれています。
石材は芦野石と思われ、基礎、中台、大袋、笠、は共に六角形で、
笠の端は大きく渦巻き模様で、円筒形の竿の中間に節があり、
ここに大関土佐守高増の銘文が刻まれている。)(大田原市教育委員会)

このように、那須神社は古色蒼然とした神社であった。
二礼 二拍手 一礼の規則にのった神社の参拝を済ませた。


(本殿前の石灯篭)


(楼門から見た神社本殿)


(本殿)


那須の与一は扇の的を射るとき、この八幡宮にお祈りをすると、
不思議や、今まで波打っていた海がおさまり、
扇を射てくれとばかり静かになった。
与一は矢をつがえ、弦を引いて、ひょうっと放すと、
矢は扇の的に吸い込まれるように当った。

平家の人たちは船べりをたたき、
源氏の兵士は箙(えびら)を叩いて喝采した、と言う。

・的を射る 与一の願い 那須の月   hide-san


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黒羽の那須与一伝承館(芭蕉の道を歩く 25)

2012年11月19日 10時13分55秒 | ひとり歩き旅

(大田原市の案内地図)

(那須・黒羽)
日光山参拝を終えた芭蕉は、翌3日(陽暦5月21日)矢板→大田原と、
那須野を進み黒羽(栃木県大田原市)の郊外余瀬村の翠桃宅に身を寄せた。
と簡単に書いたが、途中雨に降られて、農家に一泊している。

おくのほそ道を要約すると、
(その先、黒羽までは道が縦横に別れていて、
初めての旅人は道を間違えやすい。農夫が言うには、
「馬を一頭貸すから、馬の背に揺られて、
馬が行くところまで行きなさい。
馬が止ったら、返してくだされば結構です。」
馬は道順を覚えているから黒羽まで行ったら、
一人で帰って来ることを農夫は知っていた。

馬の背にまたがった芭蕉のあとを、
二人の子供が追いかけてくる。
一人は女の子で「かさね」と言う。
この田舎に珍しく可愛い名であったので、
曾良が俳句を次のように作った。

かさねとは 八重なでしこの 名なるべし  曾良」)とある。
おくのほそ道では、このくだりがとても優しくて、
ボクは大好きである。

さて、2012年10月24日快晴の中、東北道西那須野塩原ICを下りて、
401号線に沿って大田原市役所に行き、
まず、芭蕉が訪ねた那須神社へ向う地図を手に入れる。

401号線から400号線に入り、
真新しい道路を行くと左側に、道の駅があり、
道路に面して那須与一の騎馬銅像とその奥に与一伝承館が見える。
その建物の奥に、こんもりとした森が見える。
那須神社である。

(那須与一伝承館ののぼり)

(那須与一の騎馬銅像)


(与一伝承館)


那須神社は、源氏の那須与一が屋島の合戦で、扇の的を射抜いたとき、
「何とぞ、あの扇の的を射落とさせてください」と祈った八幡宮である。

すくなくも芭蕉はそう考えて、この八幡宮を訪ねている。
しかし本当の八幡宮は那須温泉の殺生石の近くにある、
「温泉(ゆせん)神社」である。

往時、芭蕉の時代はこの那須神社が、
与一が願いを込めた八幡宮であると伝えられていた。
芭蕉が間違っていたわけではない。

「おくのほそ道」(原文)に、

「それより八幡宮に詣(もうず)。与一扇の的を射し時、
別しては我が国氏神正八まんとちかひしも、
此神社にて侍ると聞けば、感応殊(ことに)しきりに覚えらる。」

とある。
(那須神社の鳥居)


芭蕉は、与一が祈願した八幡宮だと思えば、
心打たれる想いであった、と記している。
相当感じ入っていたように思われる。

「道の駅」の駐車場に車を止めて、先ずは腹ごしらえの食堂、
田舎ではレストランと言うが、鴨そばを戴く。
那須の新そばは、香りもよく美味しくいただく。

その日は、デイサービスのお年寄りが30人ほど、
新そばを食べる会らしく、6人ほどの付き添いと一緒に、
テーブルに陣取って、美味しそうに天ぷらそばを食べていた。
いずれ我が身と、注意していると、ある「ばあちゃん」が、
「お代はいくらですか?」と大きな声で聞いている。
付き添いの人が、
「お代はお嫁さんから頂いているので、必要ありませんよ。」と、
答えているのに、しばらくすると又同じ事を聞いている。
ある人は、目の前の天ぷらを手で掴んで、口に運んでいる。
後から、天つゆを配っている人がいるし、
天ぷらを一口で食べられるよう、
ハサミでチョキチョキ細かく切っている人がいる。
レストランはテンヤワンヤの大騒ぎ。
その中をボクとカミサンは、早く食べて皆さんの邪魔にならぬよう、
レストランを出る。

レストランのならびにある、与一伝承館に入る。
秀吉により、那須与一郎に与えられた所領の朱印状、
戦国時代に送られた上杉謙信の書状などの展示。
屋島合戦絵図、那須与一が扇の的を射たとき、
身につけていたとされる「太刀銘成高(しげたか)」、
ならびに「綾包太刀拵(あやづつみたちこしらえ)」、
源氏の白旗、甲冑などが展示してある。

(源氏の白旗、甲冑、弓など)


ボクがイメージする白旗は、いつも敵に破れて降参する時の白旗であるが、
源氏の白旗は、すそ長く尾を引くような長い白旗である。
その他、「扇の的」のシーンをカラクリ人形風のロボットと
ワイドスクリーンによる映画が見られるのですが、
残念ながら時間に迫られていて、次の機会にと先を急いだ。

入場料は300円でした。

・那須の原 弓引く先に すすき揺れ  hide-san

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芭蕉句碑と石の唐門(芭蕉の道を歩く 24)

2012年11月14日 10時14分44秒 | ひとり歩き旅

(宝物館の鳥居)


(日光 最終章)
日光の二社一寺を巡って、駐車場に戻る道の中ほどに、
東照宮宝物館がある。

その宝物館の左方に鳥居があり、脇に句碑がある。
その句碑には、

「・あらたふと 青葉わか葉の 日の光
芭蕉翁おくの細みち日光山吟」


と彫ってあるらしいが、句碑が古く読み取れない。

(芭蕉句碑)


(芭蕉句碑2-字が読み取れない)


石の鳥居の後ろに、葵のご紋がついたいかめしい扉があるが、
これについて説明板があるので、記載して置きたい。

「重要文化財 石唐門 石鳥居
これは寛永十八年(1641)東照宮奥社に建てられたが、
天和三年(1683)震災により破損したので、
奥社裏山深く埋められて二百数十年に及んだが、
当宮三百五十年祭記念として、ここに移し建てた。
幕府の作業方 大棟梁 平内氏の設計により巨石から切り出されたもので、
江戸時代における代表的石造り美術である。」とある。(東照宮社務所)


(石唐門)


つまり、東照宮350年祭記念して、
震災で破損し山深く埋もれていた石造りの唐門を、
ここ日光東照宮宝物館の庭に移築した。
この石の唐門は、一つの巨石からできており、
製作者は幕府の作業方の大棟梁 平内氏の設計によるもので、
江戸時代の石造美術である。

芭蕉句碑を見に行って、
なんか、とてつもなく貴重な「石の唐門」を見たような気がした。
大収穫であった。

(石唐門の徳川家葵のご紋)


・苔むして 石の唐門 虫の声   hide-san

うーむ、芭蕉の境地には、程遠いですね。
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憾満(かんまん)ヶ淵(芭蕉の道を歩く 23)

2012年11月10日 09時27分36秒 | ひとり歩き旅
(憾満ヶ淵)


(日光8)

裏見の滝から戻り120号線を日光東照宮方面に進むと、
右手に「日光 田茂澤御用邸記念公園」があるので、
御用邸公園を過ぎた所の信号を右折する。
(旧田茂沢御用邸記念公園の門)


御用邸記念公園については、
(この御用邸は大正天皇のご静養のため明治32年(1899)に造営された。
その後大正天皇のご即位に伴い、大正7年から9年にかけて、
大規模な増改築がなされ現在の姿となりました。
また、昭和19年には、現在の平成天皇が疎開のため、
約一年間滞在されている。
栃木県では、平成10年から修復整備して、
広く県民が利用できる公園として公開された。)
要約すると以上のように、
旧田茂沢御用邸の概略が記されている。

(田茂沢公園)

話がそれてしまったが、
旧田茂沢御用邸記念公園の信号を右折したら、
突き当りを左折して、出た十字路を右折する。
十字路の右手向こう側に庚申塚の石碑が三基あります。
その十字路を右折してT字路に出たら、
さらに右折するとお寺があり門前に石碑があるので、
ここを左折すると、大谷川に架かる橋があるので渡る。
橋を渡り終えた左に駐車場があるが、
この駐車場を左に見て道なりに右へ行くと、
突き当たりに公園風の駐車場があり、
右手にお手洗いがあり、
左手は少し高い所に飲食店がある。
(公園風の憾満ヶ淵の駐車場この右手にお手洗いがある)


(右手の建物がお手洗い)


(左手の高台にある飲食店)


駐車場と左の飲食店との間に通路があり、
「憾満ヶ淵」直進の矢印の看板が見える。
直線の道路の奥に山門が見え、
左右は樹木が栽培されているような、
石を配置した公園になっている。

(通路と憾満ヶ淵の案内看板)



(憾満ヶ淵の案内)


(石を配置した公園)


(奥に見える山門)


進むと右手に大正天皇の歌碑があり、

(水辺夏月
・ 衣手もしぶきにぬれて大谷川
         月夜涼しく岸つたいせり)


と彫られている。

その先の慈雲寺の扁額のある山門をくぐると、
右手は大谷川が音を立てて流れており、
すぐ左手に慈雲寺の説明板があって、
白壁のお堂が建っている。
説明板には、
(承応3年(1654)に、憾満ヶ淵を開いた晃海大僧正が創建し、
阿弥陀如来と師の慈眼大師天海の像を祀った。
当時の建物は明治35年(1903)9月の洪水で流失し、
現在の本堂は昭和48年になって復元された。以下省略)とある。


(慈雲寺の扁額)


(白壁のお堂が見える、復元された本堂)


このお堂の先に、地蔵様が何基あるのか、山際にずらりと並んでいる。
誰が数えたのかわからないが、全部で84基あるそうであるが、
行きに数えた地蔵様と、帰り際に数えた地蔵様の数が合わず、
お化け地蔵の異名を貰っている。

並ぶ地蔵様に沿って進むと、
右手大谷川の流れが激しく渦巻いて進んでいるのがわかり、
崖っぷちに「霊屁閣(れいひかく)」と名づけられた、護摩壇がある。

(地蔵様が川に向って並ぶ様は壮観)


(護摩壇の川向こうに見える大岩に「憾満」の梵字があると言う)

この護摩壇の対岸の岩に、
晃海大僧正が筆を投げたところ「憾満」の梵字が現れたと言う。
この霊屁閣の対岸までの大谷川を、「憾満ヶ淵」という。

憾満ヶ淵について、
(男体山から噴出した溶岩によって造られた奇勝で、
古くから不動明王が現れる霊地と言われる。
川の流れが不動明王の真言を唱えるように響くので、
晃海大僧正が真言の最後の句の「かんまん」を取り、
憾満ヶ淵と名づけたと言う。-後略)とある。(日光市)
(憾満ヶ淵の流れ)


(憾満ヶ淵2)

この辺りまで川に向って、石の地蔵が並んでいるが、
憾満ヶ淵の辺りは恰好の散歩道で、
外国人の方もよくお出でになり、
閑静な境地である。
(ずらりと並ぶお地蔵様)

(お地蔵様)


・かんまんの 淵青みたり 蝉しぐれ   hide-san

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