楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

白旗塚史跡公園(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 20)

2013年09月29日 09時58分05秒 | ひとり歩き旅
(竹ノ塚駅西口)


(草加宿)
炎天寺をあとに、竹ノ塚駅に向う。
駅の反対側にまわり、線路沿いに北に向う。
線路沿いと書いたが、正確には線路に沿って道路があるわけでないから、
線路が見える程度で、つかず離れず北へ向うと、
右側に白旗塚古墳公園が見える。
夏の日差しを避けて、木陰で休んで居眠りの方もいらっしゃる。
お手洗いもあり、木陰で一休みも楽しそうだ。

(白旗塚史跡公園)

東京都教育委員会の説明では、
(白旗塚古墳は直径12m、高さ2,5mの円墳ですが、
未調査のため主体部の構造や古墳の年代はわかっていない。)と、
何も解からないが、古墳であることは確かだという、
平成23年3月の新しい説明板が建っている。
(古墳 白旗塚)

(白旗塚古墳)

公園の中央に、お濠に遮られた円形の古墳があり、
中央にお稲荷さんか、源氏の義家と頼義か、何か祀られている。
(あとで知ったことだがもともと祠があったらしい、
発掘未調査のため、詳しくは不明)
その向こうに古墳らしく、船、家、兵士、
とぼけた馬など、埴輪が置かれている。
また自然石に化粧盤を埋め込み、
新編武蔵風土記稿の一部抜粋を載せているので、紹介したい。

(古墳を思わせる埴輪1)

(古墳を思わせる埴輪2)


(「足立編抜粋」白旗塚は
伊興村東の方にあり。この塚あるをもって、
白旗耕地と字(あざな)せり。塚の除地22歩。
百姓持なり。上代八幡太郎義家 奥州征伐の時、
此所に旗をなびかし、軍勝利ありとて、此名を伝へし由。
元来社地にして祠もありしなれど、此塚に近寄るは咎ありとて、
村民畏れて近づかざるによりて、祠は廃絶に及べリ。
また塚の上に古松ありしが、後年立ち枯れて大風に吹き倒され、
根元より兵器共数多出たり。
時に村民来り見て、件の兵器の中より、
未だ鐡性を失わざる太刀を持ち帰りて、
家に蔵せしが、彼の祟りにやありけん。家挙りて大病をなやめり。
恐れて元の如く地下に埋め、しるしの松を植え継ぎし由。
今 塚上の両株是なりと云う。
今 土人この松を二本松と号す。太さ一囲い半許。)
とある。

(新編武蔵風土記稿の石碑)

白旗塚公園を出て、東武線のガードをくぐり、
旧日光街道へ向う。
信号をいくつか越えて左手に動物病院が見えたら、
その信号を左折すると、旧日光街道である。
道なりに進むと、左手に竹ノ塚小学校が見え、
その先で右にカーブする所にある案内標識どおりに進むと、
国道四号線との交叉点にでるが、ここを突き切ってその先で左折。
まもなく「けなが川」にさしかかる。
これが東京都と埼玉県の境で、ここから草加市になる。
橋を渡った先に埼玉県の案内表示板が出ている。
この当りから商店が活発であるように見える。
レストランがあり酒の安売り店があり、車も多くなりにぎやかだ。
草加に近づいたことが解かるせんべい屋さんの看板があちこちに見える。

(旧日光街道、左の動物病院が見える)

(標識どうり直進)

(標識どうり直進)

(道路を直進)

(4号線直進の案内)

(国道4号線交差点を直進)

(けなが川)

(川が境で向こうは埼玉県)

やがて右手に富士浅間神社が見えてくる。
ここが谷塚駅(やつかえき)入り口でさらに進むと、
Y字路になり真ん中に、
「今様 草加宿」の赤い石碑が見える。
ここを左折すると直ぐ信号角に阿弥陀堂が見え、草加市役所がある。
少し先に進むと、左手に草加駅のロータリーが見えてくる。
(富士浅間神社)

(Y字路を左へ)

(Y字路の真ん中に立っている案内標識)

(見えてきた阿弥陀堂?)

(阿弥陀堂の後ろが草加市役所)

(草加駅の案内)

(にぎやかな草加駅)


日光・奥州道中は、ひとまずこれで終り、
草加(芭蕉の道を歩く 9)につながる。
コメント (7)
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やせ蛙の小林一茶と炎天寺(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 19)

2013年09月25日 09時36分15秒 | ひとり歩き旅
(島根二丁目のバス停)
(草加宿へ)
国土安穏寺を出て旧日光街道を行く。
バス停(島根二丁目)があり、
先を見ると「島根 鷲神社」左矢印の大きな看板が目に付く。
もっと先の信号は良く見ると島根鷲神社前と書いてある。
看板を見て左折しようとしたら、左折道路入り口の右側に
大きく「鷲神社参道」の石柱が立っている。

(島根鷲神社左の看板)

(鷲神社参道の石柱)

(石の玉垣に囲まれた鷲神社と鳥居)

左折道路を行くと石の玉垣に囲まれた立派な神社が右手にあった。
入り口には石の鳥居が置かれている。
明神型石造りの鳥居には、享和二年(1802)の銘があるという。
(足立区教育委員会)
また足立区の案内板によれば、
(鷲神社の南に古代の海岸線と言われる所があり、
島の根のような微高地は一度も洪水に遭わず、
周囲が田畑の時代は、水面に森が映り、浮島明神の森と言われました。
神宿るこの木々は、祖先から子孫へ大切に受け継がれた宝です。)とある。
これで地名の「島根」が生まれた事がわかる。
(神社本殿と後ろの森)


旧日光街道に戻って進むと(六月二丁目)の信号に出る。
六月とは面白い町名と思いながらさらに進んで、
竹ノ塚三丁目の信号に出たら鋭角に左折し進むと、
広い通りの交叉点に出るが、
直進するとY字路に出るので右方向に行き、
最初の露地を左折すると、
梅島の交番のお巡りさんが教えてくれた俳句寺、
正式名称 炎天寺が小公園の向こう側に見える。
炎天寺の右となりに八幡神社の登り旗も見える。
(炎天寺)

(八幡神社)

なるほどお巡りさんが教えたように、門前に俳句碑が建っている。

・日洩れては急ぐ落葉や炎天寺
誰の句かボクには作者名が読めないが立派な句碑である。

(句碑)
門をくぐると。右手に小さな池があり、
池の中央には蓮の葉を模した島の上に、
太った蛙と痩せ蛙が相撲をとっている彫像がある。
すぐ上にある句碑が、日本人なら誰もが知っている俳句、

・やせ蛙 まけるな一茶 是にあり  一茶
が刻まれている。

(小さな池)

(やせ蛙とデブ蛙の相撲の図)
(やせ蛙の句碑)


この右側の池のほとりに、

・蝉鳴くや 六月村の 炎天寺  一茶
の句碑が、その右横に庚申塔や灯籠もある。
参道に沿って、小林一茶の銅像があり、
奥に本堂が見える。

(蝉鳴くやの句碑と庚申塔)

(小林一茶像)

(本堂)
(本堂全景)

本堂の前には、やせ蛙ではなく、
でっぷり太った蛙が背中に子蛙を乗せて、
聖徳太子像の横に鎮座している。
その脇に炎天寺の歴史として案内板があるので紹介しておきたい。
(当山は平安期の末に創建されたもので、
天喜四年(1058)炎天続きの旧暦六月、
奥州の安倍一族の反乱を鎮圧に赴く
源頼義・八幡太郎義家父子の率いる軍勢が野武士と激しく戦い、
極めて苦戦となったが、京の石清水の八幡宮に祈念し、
ようやく勝利を得ることが出来た。
そこで寺の隣に八幡宮を建立、地名を六月村と改め、
寺の名を、源氏の白旗(幡)が勝ったので幡勝山、
戦勝祈念が成就したので成就院、
気候が炎天続きであったので炎天寺と改められた、
と伝えられる源氏ゆかりの寺で、
江戸後期の俳人 小林一茶がいくつかの名句を残している。
・ やせ蛙  負けるな 一茶是にあり(文化13年四月)
・ 蝉鳴くや 六月村の 炎天寺      (同年九月))
とある。

(やせ蛙でなくでっぷり太った蛙)
(子蛙も背中に)

(隣の八幡宮の鳥居と社殿)


地名やお寺の名前の由来は、あまりにも とって付けたようで、
信じがたいが、一茶も俳句を詠んでいることだし、
お隣に八幡宮もあることだし、信じることにしよう。
炎天寺を出て、気になる隣の八幡神宮をのぞくと、
立派な社殿が、三つの鳥居の向こうに鎮座している。
神社の入り口には、松の枝が見事に伸びている。
いわゆる「見越しの松」である。

門に枝を伸ばしている松は、大昔に流行った演歌の「お富さん」に、
♪粋な黒塀 見越しの松に・・・・♪とあるように、
「見越しの松」といって、松が入口にある家は、
かなりな旧家か、お大尽の家だと母に教わったことがある。

見越しの松)


そんな松が、八幡宮の入口にある。
神社の中へ足を踏み入れると、松の由来について説明がある、
要約すると、
(奥州征伐のみぎり、この地で賊と戦う。
時に陰暦六月(今の八月)炎天下で悪戦苦闘する。
源義家 神の助けを祈り、旗のぼりを建て、士気を鼓舞し軍を整え、
勇戦して賊を壊滅した。よって旗を立てたところに壇を設け、
応仁天皇を祀り凱歌を唱えた。
その旗のぼりを立てた場所がこの松という。
以後この松を「旗掛けの松」と伝承され、
時は変れど代々村人に受け継がれてきた)という。
これで町名の「六月」の由来が解けた。

(旗掛けの松=見越しの松)
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千住新橋から国土安穏寺へ(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 18)

2013年09月21日 09時10分01秒 | ひとり歩き旅
(千住新橋南口)

(千住新橋の歩道)

(千住新橋の北詰、交通案内板)

(草加宿へ)
千住新橋を渡り終えると、「直進 草加 春日部」「斜め左西新井 西加平」の
案内看板がある。国道4号線で行けば直進して草加へ行くが、
旧街道をたどるには、橋の北詰めを左折して土手の上を行くことになる。
右側に高速道路が走っているが、その道路の高架が土手と水平になるあたり、
河川敷から上がってくる左側の階段が土手の上にやってきて、
そのまま土手を横切って右へ降りていく、
そんな場所に下りの階段がある。
(千住新橋の北詰を左折した所を土手の上から)

(荒川土手を行く)

(右手の高速道路と土手が平行になるところ)

(土手の左の階段)

(右手の階段を降りて旧日光街道へ)

階段をおりきると、信号のある交叉点になっていて、
道路向こう角に、お寺―善立寺がある。
振り返ると、今降りてきた土手の階段がよく解かる。
(階段下の交差点、右手に見えるお寺)

(お寺は善立寺という)

(振り返って見える階段)

先に進むと、信号があり道路は旧日光街道らしく、穏やかで静かな感じがする。
しばらくすると、左手に阿弥陀堂のような建物があるのに気づく。
お堂の横には赤い帽子を戴いた地蔵尊が白い衣を着込んでこちらを向いている。
お堂は、東を向いて建っており、石不動尊とあり、
右手にお地蔵さん、左側に石柱がある。
石柱には、「八彦尊道 是より二丁」とある。

(穏やかな旧日光街道)

(赤い帽子の地蔵さんと阿弥陀堂?)

(「八彦尊道 是より二丁」の石柱)

「八彦尊道」って何だろうと疑問に思いながら先に進む。
交差点があり、逆Y字路になっていて、「Y」の間に標柱が建っている。
今来た道が旧日光街道を指している。
向こう側の道路はというと「左東武鉄道旧線路跡」とある。
旧日光街道を直進すると、東武「梅島駅」のガードを潜り抜けるが、
東武鉄道の線路が以前ここを通っていた跡らしい。
(旧日光道中の石柱)

(反対側に「左東武鉄道旧線路跡」とある)

(東武梅島駅ガード)

右角に交番があり、年配のお巡りさんが居たので、
先ほどの「八彦尊道」についてお訊ねしたが、
場所を聞いたと勘違いされて、
地図を持ち出して先ほどのお堂の場所を教えてくださった。
そうではなくて「八彦尊道 是より二丁」の
「八彦尊道」はどの道を指すのかを知りたいと聞くと、
「多分、お堂を左へ行く道と思います。」の回答であった。
お礼を言って、しばらく世間話をしたら、
手帳のようなものを持ち出して、
「この先国土安穏寺があり、三代将軍徳川家光が鷹狩や日光参詣の折、
立ち寄ったお寺であり、御成門やお手植の松などがあるし、
その先に俳句寺と地元の人が呼んでいるお寺もありますよ。」と教えてくれた。
お礼を言って、旧街道を進む。

梅島駅を過ぎて1kmほど歩くと、
歩道の左側に石碑があり、左折する道路がある。
左折する道路の入り口両側に石碑があり、
左側には、「国土安穏寺」の文字が見える。
右側の石碑は「南無妙法蓮華経」とある。
その手前に足立区教育委員会が建てた黒い標柱に、
「将軍家 御成橋 御成り道松並木跡」と書いてある。

(左折する道路の両側にある石柱)

(左の石柱に国土安穏寺と刻まれている)

(右手の石柱「南無妙法蓮華経」と「将軍家 御成橋 御成り道松並木跡」の標柱)

標柱のお隣りで、年配のご主人が庭木の手入れをなさっていたので、
「この当りに松並木があったのでしょうか?」とお訊ねすると、
「良く知りませんが、私のお婆ちゃんの時代には、
近辺は一面の田んぼで、田に水を引く川がこの道路にあったのだそうです。
その道路脇に松並木があったのではないかと・・・」という話。
旧日光街道沿いに小川が、今は地下を流れているようで、
松並木があったのかもしれない。

左折して「国土安穏寺」へ向う。
かなり歩いてもお寺が見えないので、
丁度庭先の枯葉を掃除している年配のご婦人に聞くと、
「国土安穏寺は、もっとさきでしょうか?」
「安穏寺さんは、この先の石の垣根のあるところです」と答えられた。
お礼を言いながら、オヤッと驚いた。
最近聞きなれない言葉「安穏寺さん」と「さん」付けされたことにである。

少し東京を離れると、お寺は偉大な場所であるに違いない。
町で名士は、町長さん、お寺さん、学校の先生、駐在のお巡りさんなどが、
お祭りや、運動会の役員席に今でも収まる。
尊敬の意味を込めて「さん」付けで呼ばれるのであろう。

国土安穏寺は直ぐ先の右手にあった。
手前に通用門があり、その先に立派な仁王門が見える。
門扉には徳川家の葵の紋がついていて、扁額には「天下長久山」とある。
お寺の正式名称は「天下長久山国土安穏寺」という。
日蓮宗の寺院である。
足立区観光交流協会によると、
(応永17年(1410年)に日蓮ゆかりの日通聖人が開いたと伝える古刹です。
開基は室町時代後半に、
足立の領主の一人であった千葉氏一族の千葉満胤と伝えられています。
葵の寺紋を許され、朱印を賜るなど、
徳川将軍家から厚く信任されていた寺で、
旧日光街道に近く、歴代将軍が位牌所や御膳所として立ち寄りました。)とある。

(安穏寺の通用門)

(安穏寺の仁王門)

(葵のご紋)

(仁王門裏の大わらじ)

通用門から入り、仁王門の裏側へ出ると大きな草鞋がかかっており、
朱塗りの門には葵の紋が入っている。
通用門の正面は方丈で、柳の木が枝をたれている。
その柳の木の根元には、今時珍しい二宮金次郎像があり、
例の薪を背負って本を読む姿で、
戦前の小学校には必ず勤勉な金次郎の銅像が在ったものだ。
中学に入って国語の時間に読んだ、
二宮尊徳の訓え「それ実地実行を尊ぶ」の考えを、
今でも忘れていない。
その左横に、「徽軫灯篭(ことじとうろう)」がある。

(*)徽軫灯篭=形が楽器の琴の糸を支え、音を調整する琴柱(ことじ)に似ているため、その名が付いたと言われています。)

これを見ると金沢の兼六園の灯籠が有名で、思い出す。

(方丈とその前にある柳の木)

(柳の根方の二宮金次郎像)

(「徽軫灯篭(ことじとうろう)」)

さらに進むと、右手に本堂があり、
本堂手前に家光お手植えの立派な手入れの行き届いた松がある。
その左側に鐘楼があり、観音さま、旧本堂の巨大な鬼瓦が置かれている。
さらに進むと、墓地に進入するが、
目に付くのは掃除小僧と居眠り小僧の石像。
いかにも愛くるしい、それでいて穏やかな表情をしている。

なになに「小僧」と言うと直ぐ思い出すのがベルギーの小便小僧。
「小便小僧」があるのは誰でも知っているが、
その一つ手前に「小便少女」があるのを知っている人は少ない。
少女がスカートをはいて、しゃがんで小便をしている図の彫刻だ。
日本でもJR山手線の「浜松町」駅のホームに小僧の像はある。

話は戻って「居眠り小僧」、
この小僧の像の左に古い建物があり、近づくと祖師堂とある。
この堂の後ろにある朱塗りの門が御成門であったらしい。
おもてから見ると葵の紋付きの扉があるようであるが、見損なった。
堂の右に高村光雲作の祖師像が置かれている。
(本堂)

(徳川家光お手植えの立派な松)

(鐘楼)

(旧本堂の鬼瓦と観音像)

(掃除小僧)

(居眠り小僧)

(祖師堂)

(高村光雲作の祖師像)

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台風のあと

2013年09月17日 19時20分07秒 | ひとり歩き旅
猛威を振るった台風も去り、からりと澄み渡った過ごしやすい一日であった。

・澄み渡る 陽射しを泳ぐ 赤とんぼ  (hide-san)



その夜、21時頃、今年二度目の月下美人が咲いた。

24時を過ぎても、直径20cmもの大輪は、

部屋一杯に芳香を放ちながら、華やかで、凛とした姿を見せている。

(直径20cmもある月下美人)



数時間の命を懸命に咲いている月下美人も、

翌朝には、なんともいえぬ侘しい姿を見せる。

月下美人の花を楽しむ人は、その姿を公開することを拒む。

生々流転を表している様に見える。

(何時閉じたか解からない月下美人)
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安養院とかんかん地蔵(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 17)

2013年09月13日 09時30分00秒 | ひとり歩き旅
(安養院)


(千住宿3)
千住新橋へ出る手前に安養院がある。
赤い山門はいつも閉まっているが、右手前に安養院の石塔があり、
左手には三体の地蔵尊が立っている。
中央は地蔵さんであるが、
手前の二体は庚申塔で青面金剛(しょうめんこんごう)に、
足元には三猿が彫刻されている。

(門前の三体の地蔵尊)

庚申塔は、60日に一回巡ってくる庚申の日の夜、
人の胎内にいるといわれる三咫(さんし)の虫が、
人が眠ると胎内から抜け出て、
天帝に犯した悪事を告げに行くと言う教え(*)から、
この庚申の日の夜を眠らないで明かす行事が催された記念碑という。

(*)この教えは道教の中にあるといいます。
当初、貴族の中で流行したものが、庶民にまで浸透しました。
貴族は詩歌管弦で徹夜をしたが、庶民にはこのような嗜みが無かったので、
勢い飲み食いを持ち寄ってのドンちゃん騒ぎで徹夜した、と言われます。
お寺では、庚申塔に青面金剛が、神社では猿田彦神が彫刻されているようです。
ここで言う悪事とは、アジやサンマの命を食べたとか、
キュウリやネギの植物の命を奪ったとか、
蚊や蝿を殺したとかもは入っていて、
その悪事が300を越すと天帝が命が奪うという。

安養院の山門をくぐると解かり易いが、門は閉まっているので、
左手の通路から入ると、正面に庫裏がありその手前に芭蕉の句碑がある。

・ゆくはるや 鳥啼きうをの 目に泪  芭蕉翁  
とある。
(芭蕉句碑)

その右手、山門を入ってくれば正面に本堂がある。
また、左手に延びる南門に通ずる道があるので南門に向うと、
右側に三体の地蔵尊が建っている。
(本堂)

(三体の地蔵尊、右手奥に見えるのが山門)

右の二体は、「仲直し地蔵(なかよしじぞう)」と、
可愛らしい名前のついたお地蔵さんで、
製作年代も古く、左が寛文4年(1664)、右側が寛文10年(1670)とあります。
足元にあるのは道祖神で、夫婦がに並んでいるようにみえます。

(なかよし地蔵)

左の一体は「かんかん地蔵」といいます。
名前も奇妙であるが、地蔵本体も頭から胸にかけて、
剥ぎ取られているという奇妙な地蔵です。
石で叩くとかんかんと音がして、叩いた石で地蔵のかけらが落ちると、
それを財布に入れて置くと願い事がかなうそうです。
叩いてみたくなりますが、まだ叩いていません。

安養院を後にして、荒川土手に向います。
旧日光道中の道標に書いてあるように、左に向うと荒川の土手にぶつかる。
芭蕉が歩いた時代には、荒川もこの土手も無かった。
洪水が多い荒川の河川工事で放水路が作られ、今の荒川になっており、
荒川はこのまま河口まで流れて海にそそぐ。
本来の荒川は、隅田川と名を変えて海にそそいでいる。
後で出来た荒川放水路がなかった頃は、
まっすぐ道路が繋がっていただろうと推測される。

(日光街道はこの道を左折)

(右カドに道標「西へ旧日光道中」)

(荒川土手)

街道は土手に沿って進むと国道4号線のガードをくぐって、
出たところにある螺旋階段を登り、土手の上に出る。
見晴らしがきく河川敷では、元気に野球をやる子供の姿が見える。
目の前に立派な千住新橋があり、その橋の歩道を渡り、
対岸の土手の上を左折するのが旧日光街道である。

(国道4号線のガードをくぐる)

(螺旋階段を登って出た荒川土手)

(河川敷の野球)

(千住新橋)

(千住新橋の歩道)

(千住新橋)
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