楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

わが身は誰でも可愛いい

2016年12月30日 13時46分02秒 | つれづれなるままに考えること

次期アメリカ大統領のドナルドトランプ氏が話題になっている。

「アメリカを以前のように偉大な国に!」

が基本だ。


その少し前に、イギリスがユーロ圏から離脱した。

ユーロ圏にいると他国民が豊かな国へ自由自在に移動できる自由さが、
仇となって、中近東の難民がユーロ圏へなだれ込んでいる。
イギリスへなだれ込んだ飢餓に苦しむ難民は、
とにかく毎日が命の危険が無く平和で、
食べるものさえ手に入れば良いと、
給料が安くても、収入が得られて毎日が過ごせれば良いと、
ただそれだけが目標で職に有り付こうとする。

経営者は、給料が安ければ安いほど儲けが出るから、
当然、安い人を雇用する。

一方で英国人は、それなりの生活を維持しようとするから、
出来るだけ給料の高い職業を選ぼうとする。

文字より数字の方がこの際理解しやすい。

例えばの話であるが、
難民は食って生き延びるだけの給料だから、一日千円で足りる。
もともと住んでいる英国民は、家賃、共益費や教養費、
電気水道など光熱費、それなりの交際費も必要になるから、
すくなくとも、一日八千円は必要になる。

当然、英国民の職が難民に脅かされるので、
それではユーロ圏を自由に動けないように、
英国が独立して移民の流入を拒否すればよいと、
国民投票でユーロを離脱してしまった。

自分の生活が脅かされてまで、他人に寄付をする人はいない。

「イギリス人が生活しやすいイギリスを作ろう」が基本だ。

これだけ見れば、至極 当然の成り行きであるが、
イギリスで始まって、アメリカへ飛び火した。
「アメリカのためのアメリカ」だ。
他の国なんてどうでもよろしい、と言う。
自分の国が良くなるのなら、
メキシコ人が入ってこれないように壁を作ってしまう、と言う。

フィリッピンのドゥテルテ大統領も同じように思える。
麻薬の常用者は、全て死刑にしてしまう。
時間をかけて、税金を使って更生させることなんか考えない。
良民の税金が無駄になるからだ。


はたまた、ヨーロッパでは来年次々と大統領選挙がある。
同じ流れの大統領が誕生する可能性があると懸念される。


ここでちょっと考えてもらいたい。
一国の大統領や首相はアメリカのトランプ氏でなくとも、
一国の代表なら、誰でも自分の国を大優先したいと願っている。

例えば東京都の小池知事だ。
都民ファーストと言っているが、言っていることはトランプ氏と同じだ。

ただ声を張り上げて言うのと言わないの差が有るだけのように思える。
誰でも自分が可愛いい。自分の国が可愛いい。
その次に隣の人へと、隣の国へと、手が回って行く。
食べるのに苦労している人たちに手を差し伸べることになるのだ。

何も特別変わったことでは無い。
人が考えて口に出さないことを、口に出してやって居るだけの事である。

現実には、手痛い目にあってから初めて気がつくことが多いに違いない

暮れに来て、一年を振り返り、TVでああだこうだと話しているのを聞いて、
黙って聞いているだけでなく、もう少し先に考えを進めれば、
よく解るような気がする。

この一年退屈なことなど書きましたが、
お付き合いいただきました皆様に感謝いたします。

ありがとうございました。


(夕陽の富士山)
コメント (8)
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色弱

2016年12月28日 07時01分15秒 | つれづれなるままに考えること
色弱について、いずれ感じたことを述べると以前書いたので、
18歳ころ考えたことを述べたい。 


そもそも色盲は、赤色が緑に見え、緑色が赤に見える。

色盲はもちろんのこと、色弱の人も理系の大学には、進めない。
色弱であることが解ったのは、色盲表によって初めて分かった。

精密検査をして分かったことであるが、
色弱は赤と緑が識別しにくい状態をいう。
赤が見難い人、緑が見難い人の二通りがある。
ボクは赤が見難い、これを第二色覚者という。
緑が見難い人は第一色覚者と言う。

普通、色盲は緑が赤に赤が緑に見える。
全色盲もあって、これはモノクロの世界だそうで、
生きながらえるのが難しいとのこと。

ボクは色弱だからいうが、

そもそも赤色を赤と決めたのは人間である。
大多数の人が赤に見える色を赤と決めたが、
本当は色盲の人が見ている緑の方が正しいのかもしれないのだ。

さらに色盲の人は、
生まれながらにして緑に見えるものを赤と教えられているだけであるから、
日常生活上何も問題は起こらないはずである。
いわゆる色盲が、どうして理系はダメなのかずいぶん考えたことがある。

医学部でも、喉が赤く腫れあがっているのを、
色盲の人には緑色にに腫れ上がっているように見えるだけである。
薬学部では、赤色の薬剤を混ぜるのに、色盲の人が見ている緑色の薬剤は、
本来赤色だから、それを混ぜればよいのであって特に問題は起こらないはずである。
化学だってリトマス試験紙の色が変わるのを、見違えるはずはないはずである。
通常の人が赤に見えるものを緑に見えるだけなのだから、
とそう思っていた。

しかし、ボクは色弱だから問題があることが解る。
秋の終わりか、冬の初めに、椿の木に花が一つだけあるとする。
それが見えない。全部緑一色である。

緑の芝生の向こうの森の緑の中に、
カラスウリが赤く熟れて、一個ぶら下がっていると友人が教えてくれる。
それが見えない。

いずれも近づいて「これだよ」と教えられると解る。
教えられなくても近づけば解る。

  閑話休題

また別に、創業百周年記念で陶磁器会社が造った高価なマグカップ。
今使っているそのカップの一つは赤色で、
もう一つは黒色で、同じ模様が描かれている。

朝、コーヒーを入れるのはボクの役目であるが、
点てたコーヒーをそのマグカップに注いで、
赤色はカミさんが使用し、黒色はボクが使う。
その模様が光線の当たり具合で色が解らない時がある。
赤色も黒色も、双方とも同じ焦げ茶色に見えるのである。

カップの側面の模様をダイレクトに光線にあてると、
色はきちんと見分けることが出来るのである。

余談はこれまで、本題に戻す。


大学受験の事はこの際、理系を諦め、文系にしておけば問題はない。
しかし、わが子孫にはどのように影響するのだろうか、
それが大問題である。

ボクの男兄弟は全員色弱であることが解った。
女兄弟は全員正常である。

原因は母親が色弱であるからだ。
色盲は女性には劣性遺伝であることを知った。
逆に男性には優性遺伝する。

女性には色弱の遺伝子が2個ないと表面に出てこない。
逆に男性には1個でも表面に出てくる。つまり色弱と判定される。

ところが母親が色弱と言うことは、
母親の遺伝子は、色弱の劣性遺伝子が二つあり、
二つ揃って優姓になっている。
(一つだと女性には劣性遺伝であるから、表面に出ないが、
二つあると色弱が表面に出てて、色弱となる。)

子供にはその50%が遺伝し、
男の子には優性に働いて色弱は表面に出て、
色弱と判定される。

父は正常で、二人の間に出来た女子には母親の遺伝子の50%が伝わるが、
女の子には劣性に働いて、伝わることになり、
色弱は表面には現れず、色弱と判定されない。

だから男の子は全員色弱で、
色弱の遺伝子を隠れ持っているけれども、
女の子は全員正常である。

その色弱のボクと、正常なカミさんとの間の子どもには、
色弱は50%の確率で遺伝する。
男の子には色弱の遺伝子が伝わるか、伝わらないかで、
色弱になったり、色弱を免れたりする。

幸い息子には、色弱の遺伝子は遺伝せず正常であるから、
色弱の遺伝子はなく、
今後子孫には、息子の配偶者に色弱の遺伝子がない限り、
色弱は生まれてこない。

さて娘には、劣性遺伝子が50%の確率で伝わるが、
正常な男子と結婚したので、
男の子には半々で色弱に成ったり成らなかったりするが、
その息子は色弱でないから、今後遺伝することはない。
女の子には遺伝子が伝わるか、伝わらないか、
どちらかであるが、劣性遺伝であるので遺伝はしない。

なんて事を、大学受験前に調べて、
本当は医学部へ行きたかったのに諦めた。

そして今がある。
人は与えられた環境の中で、ベストを尽くすのが最も大切なことである。


なんて事を、大学の英作文の時間(120分)に英文で書いて出した。
添削する先生は、日本語が解らないシスターであったが、
ボクの作文がよほど気に入ったのか、

採点は Excellent!

(優)であった。


人は褒められると、調子に乗る。
ボクはその後、英作文が好きになって、その一年間シスターを楽しませるために、
(本当の所は、自分の成績が良くなるように)ない頭をひねって作文を書いた。
お陰で通信簿は(優)であった。


子供でもそうだ。勉強好きの子供にしたいと思ったら、
子供が納得するほめ方をすることだ。

そうするとムキになって勉強して、黙っていても良い成績を取るようになる。
それでまた褒めるともっと勉強する。

コメント (6)
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旧朝香宮邸(室外の庭園編)―東京都庭園美術館

2016年12月24日 05時45分50秒 | 東京の庭園
(旧朝香宮邸ー東京都庭園美術館)

(東京都庭園美術館)

(東京都庭園美術館入り口)

(建物入り口までの通路1)

(建物入り口までの通路2)

(旧朝香宮邸)


旧朝香宮(あさかのみや)邸って、ボクには全然解らない。

今回、旧朝香宮邸を訪ねることによって分ったのは、

もともと久邇宮家(くにのみやけ)の第八王子として生まれた鳩彦(やすひこ)が、

父が伊勢神宮の祭主を務めていたことから、

伊勢の国朝香山から採った宮号・朝香宮を明治天皇から賜り、

後に明治天皇のご息女・允子(のぶこ)内親王と結婚する。

その後陸軍大学を卒業後、フランスに留学中に自動車事故に遭い、

長くフランスにて療養生活を余儀なくされる。

その間、妻允子の看病もあり、夫婦でフランスの文化に傾倒して行く。

フランスで行われたパリ万博(アール・デコ博)観覧し、

アール・デコ様式(*)に強い関心と理解を寄せるようになった。

(*)アール・デコ=Arts Décoratifの略で現代装飾美術・産業美術の事。

(アールデコ・博覧会のポスター(1925))


つまり、早い話が明治天皇の娘婿(義理の息子)だと言うこと。
自動車事故の療養でフランス滞在が長くなり、
奥様の允子妃殿下と共に、当時開かれたパリ万博のアール・デコに興味を持たれた。

どうしてここにアール・デコが出てくるかと言うと、
旧朝香宮邸には、このアール・デコ様式が、
至る所にちりばめられているからです。

アール・デコを念頭に
これから紹介する旧朝香宮邸をご覧いただきたいと思います。

主な部屋の内装設計には、フランス人装飾美術家アンリ・ラパンが起用されている。
また、昭和22年から29年までは吉田茂外相・首相公邸として使用され、
昭和30年から49年まで赤坂の迎賓館改装されるまで、
国賓・公賓のための迎賓館としての役目を果たした。

(旧朝香邸の外観・ベランダ側)

(旧朝香邸の正面玄関)


正面玄関の奥にガラスのレリーフがある。このレリーフは圧巻だ、胸を打つ。

このガラスのレリーフは、
フランス人ジュエリーデザイナー、ガラス工芸家ルネ・ラリックのデザインによる。

(正面入り口のガラスのレリーフ1)

(正面入り口のガラスのレリーフ2)

(正面入り口のガラスのレリーフ3)


ここでは室内に入らず、まず庭園を見ることにする。
まず目に入るのが左手に伸びる芝生の広場である。
入り口正面に置かれた彫刻ー男女が絡み合ったーが出迎えてくれる。
左手奥に伸びる芝生は春から夏にかけて緑に広がり、
その周りを深い木々が都会の喧騒を遮っている。
都営地下鉄 白金台駅から3分程度、JR目黒駅からも3分程度にある場所。

(男女の像)

(芝生の広場)


右手に向かうと茶室(光華)の案内がある。
そこには和風の茶室が並び夏でも涼しげなたたずまいだ。
案内に沿って進むと、ひなびた茶室の門があり入り口につながる。
茶室の正面はすり鉢状になって底の部分に池がある。
池の周りにはもみじの古木があり、
初夏には緑が、晩秋には紅葉が水面に映し出され美しいことが、
容易に想像される。
名残のもみじの落葉が回遊式泉水の周りに敷き詰められている。

(茶室/光華の案内)

(ひなびた茶室)

(茶室への入り口の門)

(池に降りる道)

(池の周りの道を散策する観光客)

(池と周りの古木のもみじと石灯篭)

(もみじの落ち葉と笹の葉)


池をめぐって歩き対岸へ出る。
ここから眺める景観も風情がある。
さらに進むと池にそそぐ滝に出会い、水は池に流れ落ちて行く。

(茶室の対岸から見た池1)

(茶室の対岸から見た池2)

(池にそそぐ滝)

(流れ落ちる水)


これで建物の外側は見学できた。
この後は建物の中を見学したい。

入る時は気がつかなかったクリスマスツリーが点灯されていた。
(クリスマスツリー)


(つづく)



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栄えゆく道―お金

2016年12月21日 05時38分37秒 | つれづれなるままに考えること
今、手元に、昭和七年七月発行の本「栄えゆく道」と言う。

ボクが持っている一番古い本があります。

当然旧仮名遣いで、すべての漢字に振り仮名がしてある本です。

学校を卒業するまでの間に、母から教えられた事柄が載っている本です。


これを東京に出てくる時、母からプレゼントされました。
著者は「野間清治」戦前に発行された本ですから、
刊行した会社は「大日本雄弁會講談社」となっております。
裏表紙には「¥50」と印刷されております。

父は安月給の公務員でした、戦前の給料は、
一番上の姉がS銀行に勤めた時の初月給と
同じだったと母が嘆いておりました。
姉の給料が良かったのか父の給料が少なかったのか、
よく解りませんが、それで一家(子供6人と夫婦)が暮らしていました。

やがて戦争が終わると猛烈なインフレがやって来て、
父が貰って来たボーナスの中に1円札があって、
寝ていたボクを起こして、1円札を見せられた記憶があります。
その頃1円札はなかなか見ることが出来なかったのでしょうね。
寝ぼけ眼で見た1円札は灰色で、誰か偉い人が馬に乗っている、
絵か写真が載っていた記憶です。


そんな時代に買った本の¥50は父の給料の3倍だったと、
この本をボクにくれるときに母は語っておりました。

最近になって本箱を整理していてこの古い本を見つけました。

内容のその一。

「お金と言うものは、借りたら必ず期日までに返さなければならない。
返した後で、すぐまたお金を借りることがあっても、
一旦は返さなくてはならない。」と書かれている。

返すことで信用が得られ、また貸してもらえるからだと言う。


同じようなことを母から教えられていました。
借りるときは、必ず返す当てがある時に借りなさい。
返す当てがないときには借りない、を守りなさい、だった。

独身で下宿しているとき、冬のボーナス前で、
前夜、飲みすぎて帰りの電車賃だけ残して帰った。
翌日の日曜日、朝食、夜飯付きの下宿でだったから良かったが、
昼飯に困った、一銭もないからである。

同宿の顔見知りに、無心したが断られ、
やむなく下宿のおばあちゃんに頼んだ。

「いくら要るの?」とおばあちゃん。
恐る恐る
「千円」と話したら、二千円貸してくれると言う。
「一週間後の〇日に返します」と言って千円だけ借りた。
その時すでにボクの信用を計ったと思われる。

この時は困った時の神頼みと言うが、
本当に神様と思った。

その気持ちを忘れずに、

期日が来て、千円と「瞼の母」の芝居小屋の切符二枚をつけてお返しした。
芝居の切符は利息の様なもの、感謝の気持ちである。

田舎から出てきた素性のよく解らないボクを信用してくれたお礼であった。

「栄えゆく道」の本意は、
お金の事だけでなく、他にもいろいろ人生訓が載っている。

著者の野間清治は、帝大卒の現在の講談社の創業者であった。







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清澄庭園―都立庭園へ行こう(その9)

2016年12月17日 05時13分38秒 | 東京の庭園
都立庭園は九つありますが、本日は 清澄庭園にきました。

一説には、この庭園は豪商 紀伊国屋文左衛門の屋敷跡と伝えられています。

(清住庭園1)

(清住庭園2)

(入場券売り場)


(享保年間には、下総の国関宿の城主・久世大和守の下屋敷となり、
明治十一年、三菱の創業者 岩崎弥太郎がこの邸地を買い取り、
社員の慰安や貴賓を招待する場所として、庭園造成を計画、
明治十三年には「深川親睦園」として開園。
その後も造園は進められ、隅田川の水を引いた大泉水を作り、
周囲には、全国から取り寄せた名石を配して、
明治を代表する「回遊式林泉庭園」として完成した。
大正十二年の関東大震災で大きな被害を受けた後、
現在の庭園部分を岩崎家より東京市が寄付を受け、
これを整備して昭和七年一般公開しました。)とある。(東京都)

(大泉水)


大泉水の向こう側にある、
この庭園で最も高く大きな築山、関東大震災以前は、
この築山の山頂近くには木を植えず、
サツキやその他ツツジ類の灌木を数列横に配して、
これらの花咲く状況が、
富士山にたなびく雲を表現したものと言われている。

(富士山)


富士山の右となりに池につき出る形で造られた数寄屋風の建物を、
涼亭(りょうてい)と言いますが、
この庭園を日本情緒豊かなものにしているのは、この涼亭によります。
この涼亭は、明治42年(1909)、
岩崎家が建てたもので、震災と戦火から免れ、
昭和60年全面改築され東京都選定歴史的建造物に指定されました。

(池に突き出る形の涼亭1)

(池に突き出る形の涼亭2)

(涼亭3)

この涼亭の後ろが春には花見が出来そうな芝生広場があり、
木陰に休息場所が設置されている。
その広場は今は桜の葉も紅葉してもみじ宴が出来そうだ。

この隅に芭蕉句碑があり、

・古池や蛙飛び込む水の音 はせを

と刻まれている。

(芭蕉句碑の広場)

(芭蕉句碑)


ここに芭蕉句碑があるのには、訳があります。
この清澄庭園の北側には小名木川があり、南側には仙台堀川が流れている。
仙台堀川の橋を渡った川べりに、
芭蕉が「奥の細道」に旅立った採荼庵(さいとあん)が有るからです。
今では、採荼庵とは名ばかりの、映画のセットよろしく、
縁側に腰を下ろした出立前の芭蕉翁、
正面から見たら庵の前に座っているように見えるが、
その背中にある障子は描かれた看板と言う方が正しい。
後ろ側には何も無い、草が生える空き地だ。

(映画セットの様な採荼庵)


(採荼庵についてはこちらを参照ください。)

芭蕉はこの採荼庵から清澄庭園の北側にある小名木川で舟に乗り、
隅田川に出て、千住大橋で船を降り、千住宿から奥州街道を進みました。

これで回遊式林泉庭園を一周したことになります。
清澄庭園の大泉水を渡る石組みを渡り、
石で出来た八つ橋を渡って、帰路に就きました。

(大磯渡り)

(石で出来た八つ橋)


この時期、都立庭園を五か所スタンプラリーをすると、
2017年の庭園カレンダーがプレゼントされるので、頂いて帰ってきました。

(2017年庭園カレンダー)


「都立庭園を訪ねる」はこれで全部、九庭園を回ったことになります。
目障りな紹介を飽きずにご覧いただきました皆様に御礼申し上げます。

ありがとうございました。




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