日本橋を起点とする五街道(東海道、中山道、
奥州街道、日光街道、甲州街道)が、
江戸時代初期に出来た。
その五街道の一つ中山道の第一の宿場町が、
現在の板橋です。
板橋の名称は、
板橋宿内にある川(現石神井川)にかかる
板の橋に由来します。
その昔、旧中山道を探しながら歩いた時、
旧街道筋の旧跡を見て回りました。
そのお陰で、早飛脚なら15日、
皇女和宮の行列でも25日で、
旧中山道を歩き終えるのに、
ボクは49日かかりました。
東海道53次、
中山道69次として知られる
各宿場に到着して、宿場の観光ボランティアに、
「板橋から来ました、旧中山道を歩いています。」
と言うと、
尋ねられることは、一様に、
「板橋宿には、板の橋はありますか?
縁切り榎は残っていますか?」の
二点でした。
各宿場では、中山道について勉強されるとき、
板橋については、その橋と縁切り榎が、
印象に残ると思われます。
板の橋については、
源頼朝が安房に追われて後、再起を図った折、
この板橋で集合したと「義経記」にあり、
縁切り榎については、奇妙なエノキがあるものと、
記憶されたと思われます。
皇女和宮の行列も、この榎を避けて通行しました。
板の橋は「現在は板の橋に似せたコンクリートの橋」で、
縁切り榎については、
三代目の榎が健在ですと答えてきた。
司馬遼太郎の小説のようですね。
前置きが長く、
やっと本題の「縁切り榎」が出てきました。
(縁切り榎について)
(ゆきのや おけら歌)
「榎(エノキ)は縁の木(エンノキ)なれば
あながちに縁を断つこと
のみならず
善縁をむすび
悪縁をたつことこそ
神の御心なれ
縁のいとのむすふも
とくも
人こころ
誠しあらは神そ守らん
雪廼舎 朮 歌 」
縁切り榎は、縁を切るだけでなく、
悪縁を切り善縁を結ぶことにあると言っています。
板橋宿は、平尾宿、仲宿、上宿と三宿に分かれていました。
板の橋も、縁切り榎も、その仲宿にあります。
縁切り榎
「縁切り榎」の右側の旗の後ろが、
当の「縁切り榎」の木である。
幹が竹矢来で囲われていますが、
未だに木の幹を削って持って行く人がいるから、
榎の幹が削られないようにしてあるのです。
それでも竹矢来の上部の
ケヤキの幹は削られています。
榎の木を削るということは、
この木を煎じて飲ませると縁が切れると、
信じられているのです。
ところが、煎じて飲ませても、
縁が切れないことに業を煮やし、
区役所にクレームの電話を掛ける人がいるそうです。
区役所も心得たもので、
「一回ではだめですよ。」と答えるそうです。(噂話では)
神社の手前には、沢山の絵馬が、
願いを込めて掛けられています。
以前は願い事が赤裸々に描かれていました。
およそ女性からのほうが多かった記憶です。
「どうぞ○○男と縁が切れますように!」
のような絵馬が多かったですね。
ところが最近は、
記入したところを目隠ししてあるのです。
個人情報が漏れるのを防ぐためです。