楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

翁塚と「夜明け前」の嵩左坊について(旧中山道を歩いて気づいた事 24)

2013年03月30日 08時45分41秒 | つれづれなるままに考えること
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(是より北 木曽路の碑)

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(翁塚と嵩左坊)
「夜明け前」は主人公青山半蔵
(藤村の実父がモデルで馬籠宿本陣の主人)の半生を通じて、
幕末から明治維新に至る、時代の夜明けを描いた歴史小説である。

その小説の中に、次のような一節がある。

{「親父(おやじ)も俳諧は好きでした。
自分の生きているうちに翁塚の一つも建てて置きたいと、
口癖のようにそう言っていました。
まあ、あの親父の供養(くよう)にと思って、
わたしもこんなことを思い立ちましたよ。」
 そう言って見せる金兵衛の案内で、
吉左衛門も工作された石のそばに寄って見た。
碑の表面には左の文字が読まれた。

  送られつ 送りつ果(はて)は 木曾の龝(あき)   芭蕉翁
0082
(翁塚)

「これは達者(たっしゃ)に書いてある。」
「でも、この秋という字がわたしはすこし気に入らん。
禾(のぎ)へんがくずして書いてあって、
それにつくりが龜(かめ)でしょう。」
「こういう書き方もありますサ。」
「どうもこれでは木曾の蠅(はえ)としか読めない。」
 こんな話の出たのも、一昔前(ひとむかしまえ)だ。}

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(「木曽の」が「木曽の」に読める句碑。写真上でクリックしてご覧ください。)

この文章にある「木曽の穐」の「穐」の字が「蝿」と読めると議論している。
勿論、芭蕉の俳句は「木曽の秋」が正しいのであるが、
俳句好きな父親の翁塚を建てるという生前の願いを、
実現させる金兵衛が塚を建てるのであるから、
まさか「木曽の蝿」と石に刻ませるはずはない。

しかし、石碑に彫られた文字は「木曽の穐」で、
これをくずし字で書くと「蝿」に見えるというのである。
確かに「禾(のぎ)」へんは、石碑を見る限り「虫」へんに見える。

この翁塚を建設供養に当って、お祝いに駆けつけた人たちについて、
「夜明け前」では次のように記している。

(翁塚の供養はその年の四月のはじめに行なわれた。
あいにくと曇った日で、八(や)つ半時(はんどき)より雨も降り出した。
招きを受けた客は、おもに美濃の連中で、
手土産(てみやげ)も田舎(いなか)らしく、扇子に羊羹(ようかん)を添えて来るもの、
生椎茸(なまじいたけ)をさげて来るもの、
先代の好きな菓子を仏前へと言ってわざわざ玉あられ一箱用意して来るもの、
それらの人たちが金兵衛方へ集まって見た時は、
国も二つ、言葉の訛(なま)りもまた二つに入れまじった。
その中には、峠一つ降りたところに住む隣宿落合(おちあい)の宗匠、
崇佐坊(すさぼう)も招かれて来た。)

この文の中に見られるように、
「夜明け前」の中では、崇佐坊(すさぼう)の名で出てくる美濃の宗匠とは、
嵩左坊を指している。

この翁塚を境にして、木曽(長野)と美濃(岐阜)の境であったから、
美濃の宗匠が居てもおかしくは無い。
もともと岐阜県在住の俳諧を趣味にする人は多く、
芭蕉門下で美濃派といわれるくらいである。
ボクの父は美濃の出身で、俳句をよくしたが、
俳句が盛んな地域であったのかもしれない。
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(新茶屋の一里塚、手前の石碑が、信濃と美濃の境界の杭)

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(美濃と信濃の国境とある)
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話が飛ぶが、
「木曽路文献の旅」(北小路健著)のなかでは、
{翁塚建立の時集まった嵩左坊を含む俳句好きが巻いた歌仙の中で、
次のような句があるから、「穐」の字は「蝿」が正しいという意見を述べている。

{その句とは、
蝿を追う迄を手向けや供養の日  峨 裳
憎まれず塚の供物に寄る蝿は   聴 古
蝿塚や木曽を忘れぬ枝折にも   霞外坊
蝿送り送り守らん恩の塚      逓 雄

と四句まで「蝿」を読み込んでおり、最後の句の如きは
「送られつ送りつ果ては木曽の蝿」と読んでこそ、
はじめて首肯できる作となっている。右の霞外坊の句にあるように、
この翁塚を蝿塚と詠んでいることからも「木曽の秋」ではなくて
「木曽の蝿」と素直に詠んだことになる。}と論じている。

しかし「夜明け前」にあるように、
俳諧好きの亡くなった親父のために作った記念碑の芭蕉句を
間違って「木曽の蝿」と刻んだとは思えない。
もし間違っていたら、造り直させたであろう。

翁塚の句会では、建立時の(蝿と読める)二人の会話を参考にして、
面白おかしく、「蝿塚」や「蝿」を入れて作句したに違いない。

また最近、古文書の読み方(初級講座)で学んだ所によれば、
「禾(のぎへん)」を崩して書くと「虫」に良く似ているのは事実である。
だから、やはり「木曽の穐」であって「木曽の蝿」であるはずは無い、
とボクが思うのは間違っているだろうか?

考えてみれば、人生は短いのだから、
こんな他愛の無いことで、

むきになって時間を費やすのはもったいない。
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「是より北 木曽路」の碑と翁塚(旧中山道を歩いて気づいた事 23)

2013年03月27日 08時43分34秒 | つれづれなるままに考えること
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(新茶屋の一里塚、江戸から来て左側の塚)
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(馬籠宿)
宿場を過ぎて、田や畑の道を少し進むと、新茶屋の一里塚に出る。
その先は落合の石畳が連なり、十曲峠が始まる場所である。

「夜明け前」の中では、芭蕉句碑を据え付ける場面で、
その会話が楽しく聞こえてくる。

芭蕉の句は
「送られつ 送りつ果ては 木曽の穐 芭蕉翁」と
石碑に刻まれていることから、翁塚と呼ぶが、
この最後の「穐(あき)」の文字が「蠅」に読めると言う会話である。
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(芭蕉翁の句碑)
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(「蝿」と読める翁塚)

「夜明け前」のその部分を抜粋しよう。
(「親父(おやじ)も俳諧は好きでした。
自分の生きているうちに翁塚の一つも建てて置きたいと、
口癖のようにそう言っていました。
まあ、あの親父の供養(くよう)にと思って、
わたしもこんなことを思い立ちましたよ。」
 そう言って見せる金兵衛の案内で、
吉左衛門も工作された石のそばに寄って見た。
碑の表面には左の文字が読まれた。

  送られつ送りつ果(はて)は木曾の龝(あき)  はせお

「これは達者(たっしゃ)に書いてある。」
「でも、この秋という字がわたしはすこし気に入らん。
禾(のぎ)へんがくずして書いてあって、それにつくりが龜(かめ)でしょう。」
「こういう書き方もありますサ。」
「どうもこれでは木曾の蠅(はえ)としか読めない。」
 こんな話の出たのも、一昔前(ひとむかしまえ)だ。)(夜明け前)より。

のどかな場面であるが、物語はその後、
難しい時代を生き抜いた人たちの苦悩を鮮明に描いていく。

最近になって、古文書を読む講習会に参加した。
確かに「禾」へんは古文書を見ると「虫」のように見える。
藤村は面白いところに気づいて書いたのか、
あるいは事実をかいたのか・・・

(また、芭蕉俳句集に寄れば、

・送られつ 送りつ果ては 木曽の秋

とあるから「穐」は「秋」を指し、決して「蝿」では無い。)などと
ボクみたいに、むきになって反論してくる輩もいることを狙って、
内心面白がって藤村は書いたのかもしれない。

この芭蕉句碑と並ぶようにして、
「是より北 木曽路」の石碑が設置されているが、
藤村自身が揮毫したものと言う。
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(「是より北 木曽路」の碑)
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(贄川宿桜沢にある「是より南 木曽路」の碑)

木曽十一宿の南はここから始まり、北は贄川宿の桜沢までで、
桜沢には対照的に「是より南 木曽路」の石碑が建っている。

句碑と木曽路の碑が立っている先に、一里塚がある。
山の中のこともあり、中山道の左右に一里塚は残っていて、

新茶屋の一里塚という。

江戸より83番目の一里塚である。
左右一対の一里塚としては七番目である。

この先に落合の石畳があり、十曲峠に入る。

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(江戸方面から右手に見える「新茶屋の一里塚」)
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(一里塚脇の「信濃・美濃」国境の碑)
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(一里塚先から始まる「落合の石畳」)
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中山道の芭蕉句碑(旧中山道を歩いて気づいた事 22)

2013年03月23日 08時30分41秒 | つれづれなるままに考えること
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(清洲橋を背景にした芭蕉像)
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(芭蕉の句碑)
旧中山道を歩いていると、芭蕉の句碑が目につく。
最初が、上州の新町にある八坂神社であった。

・傘(からかさ)に 押しわけ見たる 柳かな  芭蕉

であった。

八坂神社には大きな柳の木があって、垂れ下がる柳の枝を傘で
押し分けて見たと言うのである。
1431561
(新町の芭蕉句碑)

軽井沢の芭蕉句碑には、

・馬さへ ながむる 雪のあした哉   (芭蕉)

(芭蕉「野ざらし紀行」中の一句。
雪ふりしきる朝方 往来を眺めていると、多くの旅人がさまざま風態をして通っていく。
人ばかりでない駄馬などまで普段と違って面白い格好で通っていくよ。
碑は天保14年(1843)当地の俳人によって建てられた。)(軽井沢町)とある。

P10703271
(軽井沢の芭蕉句碑)

追分宿の芭蕉句碑には

・吹き飛ばす 石も浅間の 野分けかな
とある。

P10704461
(追分宿の芭蕉句碑)

説明によれば、
大自然石に雄渾な文字で、更科紀行中の句が刻まれ、
芭蕉百年忌に当たる寛政5年(1793)佐久の春秋庵の俳人たちが
建立したとものといわれている。(軽井沢町教育委員会)

また、八幡宿には
・ 涼しさや すくに野松の 枝のなり
があった。

普通庭にある松は枝振りなどが、美しく曲げられているが、
(この松は真っ直ぐに伸びた枝が自然でとても良い、
それが涼しげである)という意味であろう。
P10706351
(八幡宿の芭蕉句碑、チャレンジして変体仮名を読んでみてください)

次に洗馬宿のはずれににあった石碑で

・入梅(つゆ)はれの わたくし雨や 雲ちぎれ 芭蕉

とあった。

この意味がわかりにくい。
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(洗馬宿の芭蕉句碑)
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さらに中山道の平沢なるところにある芭蕉句碑には、

・送られつをくりつ 果ては木曽の秋
と読める。

しかし、芭蕉句集には、

・送られつ別れつ 果ては木曽の秋
がある。

どちらかと言うと、(別れつ)の方が意味が解りやすいし、
一つの文章に同じ言葉を二つ入れない方が
ベターという事から考えても、
(別れつ)の句の方が良さそうである。

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(平沢支所広場の芭蕉句碑)

このように、芭蕉は旧中山道上に沢山の句碑を残している。
今歩いている木曽路では、この先、もっと多く芭蕉句碑に出会いそうである。
(調べた範囲では、長野県だけで256個の句碑が存在する。)

芭蕉の句は、ボクが知っている範囲(高校生時代に知った)では、
紀行文の中にある自然を詠んだ句が多く、
とても理解しやすい俳句が多いと思っていた。

たとえば、
・あらとうと 青葉若葉の 日の光
・ 荒海や 佐渡によこたふ 天の河
・ いざ行かむ 雪見に ころぶ所まで

などである。

また同時に、自然が織り成す余韻が心にしみ込むような俳句で、
これまたとても解りやすい。

たとえば、
・ 古池や 蛙とびこむ 水の音
・ しずかさや 岩にしみいる 蝉の声
などである。
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(清澄庭園にある「古池や」の句碑)

緑色の藻が浮かぶような古い池の傍を通りかかると、
岸にいた蛙が逃げるようにして、「トポン」と池にとびこんだ。
とても解りやすい。
また「蝉の声」は山形の立石寺で詠んだといわれるが、
高いところにある山寺の閑(しず)けさが伝わってくる。

記憶に残っており、すぐ出てくるだけでもこれだけある。
例を引けばもっとあるに違いない。

しかし前述、洗馬宿の
・ 入梅(つゆ)はれの わたくし雨や 雲ちぎれ
の句は、「わたくし雨や」がどうも意味がわからない。
2008年10月に、この石碑を見てから、考え続けてきた。

仕方なく、芭蕉の句の解説書に手を出して読んでみたが、
残念ながらこの句の解説を、見つけることが出来ず今日に至っている。

とうとう、芭蕉の恋句(岩波新書)、芭蕉俳句集(岩波文庫)を手にして、勉強に励んでいる。

どなたか正解を教えていただければありがたいのですが・・・
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(後ろに見える芭蕉の木)

追伸:後日このブログの読者から、コメントをいただき、
「わたくし雨や」はにわか雨の事と教えていただいた。有難うございました。
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民宿「つたむらや」(旧中山道を歩いて気づいた事 21)

2013年03月20日 10時00分35秒 | つれづれなるままに考えること

(妻籠宿)
お宿「つたむらや」について、最初にお話をしておきたい。
このお宿の「おもてなしの心」は、ボクの経験で過去に泊まった
国内外の全てのお宿の中で一番優れたものであった事を
お伝えしておきたい。
民宿をプロの旅館と比較することも憚られるが、
そんな旅館と比較しても、
負けることのない「おもてなし」であった。

「おもてなし」って何?
辞書によると、
(①とりなし、待遇  
②振る舞い、態度
③取り計らい、処置 
④御馳走、接待)とある。

良いおもてなしとは、この全てを兼ね備えるということであろう。
民宿「つたむらや」では、待遇も態度もご馳走も取り計らいも適当(*)で、
大変満足して帰ってきた。
但し、これはボクにとっては100点ということで、
誰か別の方が感じる「おもてなしの心」は「0点」であるかも知れない。
「おもてなし」とはそういうものか?

(*)適当=いい加減という意味でなく、ふさわしい、目的・要求にあっているの意味)

土日祝日以外の普段の日の宿泊客は、一組か二組であるとの事。
宿泊可能人数は最大26名。
後で知ったことであるが、頂いた名刺を見ると、
昭和63年に秋篠宮文仁親王と川島紀子様が
お泊りになった宿と書いてあった。
秋篠宮様がご結婚される前の学生時代に、
大勢の学友と一緒に宿泊された宿である。
滞在中、こんなことは一言も触れられなかった。


(つたむらや)


(三軒の民宿が並んでいる、一番手前が「つたむらや」)

宿の女将さん(その宿の主婦兼女将)に聞いた話であるが、
ここに並ぶ三軒の民宿は全部親戚で、
「つたむらや」の建物はおよそ120坪あり、別途、養魚場を経営している。
信州サーモン・ヤマメ・岩魚・紅鱒を養殖し、
妻籠・大妻籠の宿から、これら魚を注文に応じて出荷しているそうな。
一泊二食7500円。(H10年5月)

くぐり戸の、「民宿つたむらや」と墨書した障子戸を開けて中に入る。
「ごめんください」と、やや大声で案内を請うもしばらく返事がない。
しかし、耳を澄ますと、奥の部屋でなにやら人の動く気配がする。
そこでもう一度、大音声で
「ごめんください!!」と呼ぶと言うより、怒鳴ると言う感じで案内を請うと、
やっと奥の障子が開いて、
田舎の「かあちゃん」と言う、いでたちのの女将さんが出てきた。
「いらっしゃいませ!そこへかけください!」
「昨日予約しましたhide-sanです。」
「まあまあ、良くいらっしゃいました。そこにお休みください」と言う。
言われたとおりに腰を下ろすと、民宿の名刺と妻籠宿の案内地図、
それに宿帳を出し、暇な時に書いて置いてください、と言う。
お出でになったお客様には全て同じようにするのであろう、
妻籠宿の宣伝を込めて、宿場の案内が細かく説明した地図を貰った。
今日見学してきた後であり、もう必要ないものであるが、
家に帰って確認のためと地図も名刺もバッグの中に押し込んだ。

女将さんが「そこへ休んでください」と言った割には、
すぐお部屋に案内しますと急かす。
こちらは今日、22kmも歩いてきたので、
一度座ったらすぐに立ち上がれない。
疲れた足から、やっとの思いで靴を脱ぎ板の間へ上がったら、
囲炉裏のある部屋の反対側、
つまり囲炉裏の部屋が右側とすると、左側に客室があるらしい。


(軒卯建の白壁の手前の部屋に泊った。軒下にぶら下がっているのは消防用の手押しポンプ「龍吐水」)

「お部屋を案内します」と言うので、ついていこうとしたら、
上がった廊下のすぐ左の障子を開けて、
「ここです。」という。
見渡すと6畳間に座卓が一つ、両側に座布団、
部屋の隅に時代物の衣桁(子供の頃見た衣文掛けのことで、
結婚式場などで見る内掛けなど着物を掛けておくものの事)
反対側に床の間と押入れ、床の間にはコインTVが置いてある。

部屋の隅に、二組の布団(敷布団と掛け布団、枕にシーツ)と
石油ストーブが置いてある。
窓はなく明かり障子で、開けてみると部屋は中山道に面している。
寝る時はどうするのかと思ったが、右手に戸袋があったので覗くと
雨戸が二枚格納されていた。

「寒い時はストーブを付けてください。
ついでですからお手洗いとお風呂を案内します。」と言う。
案内にしたがって後ろについていくと、高さ150cmの低い鴨居があって、
頭に注意と注意書きがぶら下がっている。
「ここは卯建(うだつ)の出入り口です。頭に注意してください。
最もぶつけても頭に怪我がないように
緩衝材で巻いてありますから心配ありませんが」と言う。
軒卯建(のきうだつ)を外から見たことはあるが、
内側がどのようになっているのか、見たのはこれが初めのことであった。

「うだつ」とは、防火壁でのことで、隣家との境に造ったが、
相当な費用が掛かるので、懐が裕福でないと造ることが出来なかった。
そのため商売が繁盛しているか、出世してお金持ちにならないと、
卯建を揚げることが出来なかった。
愚鈍なことをしていると、「そんなことでは、卯建が揚がらんぞ!」と、
子供の頃良く叱られたものである。
防火壁の厚さは20cmもあろうか、これなら隣家に燃え移らないだろうと思った。

防火壁の向こう側は、家主の生活棟であるとのこと。
その先はまだ新しい木の香が漂うような部屋があり、
その先に洗面所とトイレ、お風呂があった。


(軒卯建の手前が宿の方の生活棟)
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「お風呂は沸いておりますから何時でもどうぞ!
夜中でも、朝でも良いですよ」とのこと。
「トイレは洋式ですか?」とボク。
実はネットで洋式であることは調査済みであったが、念のため訊いた。
「今風です」と答えが返ってきた。
「夕食は 18時から。朝食は7時からですが、よろしいですか?」
言うことなしである。
「ハイ!結構です」と大きな声で答えた。

本日泊る部屋まで戻って、
「今夜はこの囲炉裏の横で食事にしましょうね。
本当はこの部屋の向こう側に食事をする部屋があるのですが、
今夜はあなた方だけですから」と。
結構なことこの上ない。
二つ返事で了解した。
ボク達は部屋に入り、女将さんは食事の用意か奥に入ってしまった。

夕食は囲炉裏の部屋でとは言ったが、部屋にもストーブがあり、
夜は相当冷えるのかもしれない。
5月13日で今日一日、汗をビッショリかいて歩いてきたのに・・・

さて、夕食の時間が来て、囲炉裏の部屋を覗くと、
いつ済ましたのか夕食の用意は出来ていた。
囲炉裏には薪がくべられており、ぱちぱち音を立てて燃えていた。
陽が落ちてから少し寒くなっていたので、この火がとても懐かしく、
暖かく、疎開していた子供の頃を思い出した。


(囲炉裏の横碁盤の前にボクが大福帳の前にカミサンが座って夕食を食べた。)

お膳を見渡すと、山家のことで、ありきたりの山菜に香の物、
酢味噌にウド、山菜のてんぷら、川魚の塩焼きに、
何か刺身が一品付いている。
山の中でマグロの刺身が出てくると、冷凍のコチコチで味も悪く、
興醒めであるが、ここの魚の刺身はどう見ても川魚。
川魚は鯉しか思い浮かばないが、鯉にしては小さい。
また刺身の量が3切れほどで少ない。
その他に、茶碗大の入れ物に茶碗蒸しのような、
中身が卵を蒸したようなものが入っている器が一つある。
(茶碗蒸しかなあ)と思って眺めている所へ、女将さんがやって来た。

最初に、その茶碗蒸しのような器の説明で、
これはご主人の趣味で造っているお酒であるという。
つまり「どぶろく」で、まだ原料のお米が入っている状態の日本酒である。
日本酒は米が原料であるが、米を発酵させてお酒にする。
米の澱粉が分解され糖分になり、その糖分がアルコールへと変化する。
その分解された米汁を絞って、
不純物を沈殿させたものの上澄みが清酒である。

ためしに飲んでみると、口当たりはすごくよろしい。
甘酒から甘味を抜いて、アルコールを加えたような感じで、
すこぶる口当たりが良い辛口の酒である。
私たち夫婦は、大の酒好きで、酒の味はよく解る。

しかし、病気持ちのボクは、
今は沢山飲めないのが残念である。
せいぜい一合程度が限度。
しかし底の浅い茶碗の一杯は、どう見ても100~120CC。
お酒が飲めない人もあるから、量は少なくしてあるのであろう。
最初の一杯はサービス、つまり無料。
しかし好きな人には、後を引く一杯であった。

次の一杯を依頼すると、次の一杯は400円也であった。
今度の一杯は、気のせいか茶碗が大きい。
前の一杯と合せて400円なら安いお酒である。
さらに追加の一杯が欲しい所であるが、
その先を我慢できるのがボクの長所。
自分で勝手に意志が強いと思っている。


(入口の大戸に張ってあった「どぶろく」マップ)

ところで、アルコールには酒税法があって、
他人に提供する酒造は罰せられる。
酒造者が自ら楽しむ程度なら
罰せられることがないことをボクは知っている。

しかし、こうしてお客様に提供するとなると、
きちんと届出しなくてはならない。
訊くと、きちんと届出はしてあり、酒の名は「男滝」と言うらしい。

この先中山道を進むと見ることができる滝の名前である。
小説の「宮本武蔵」が「おつうさん」を押し倒し、
思いを遂げようとすると、おつうさんの抵抗を受け、
欲望を沈めるため滝に打たれるシーンがあるが、
その滝の名が「男滝」である。その先には「女滝」もある。

今年、ご主人は杜氏としての国家試験を受けて、
本格的な酒造業に手を染めるとの事であった。

お酒はこれくらいにして、その他の料理であるが、全て自家製。
つまり、その家で栽培あるいは養殖された品物ばかりであった。
デザートにキューイフルーツが出てきたが、
これも自宅で栽培し収穫したものを、
冷凍保存し今日、解凍して提供したとのことに驚いたが、
さすが冷凍キューイはお世辞にも美味しいとは言えなかった。

その夜は疲れもあり、おかわりした「どぶろく」の所為もあり、
お風呂に入ってすぐに眠ってしまった。
夜中に肩が寒く目が覚めたが、
ストーブに火を入れて部屋を暖めなおし、
深い眠りに付いた。


(最高26名宿泊しても大丈夫な食堂、十、八、六畳とつながっている)


(写真奥の「つたむらや」の屋根)
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大奥お年寄り「瀧山」(旧中山道を歩いて気づいた事 20)

2013年03月16日 09時37分02秒 | つれづれなるままに考えること
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(珠玉の輿)

先日江戸東京博物館で開催された「珠玉の輿」展覧会では、
篤姫のお駕籠、本寿院のお駕籠が並んで置いてあった。
外側はもちろんの事,駕籠の内部も豪華絢爛とはこれを言うと内心思った。

その時、江戸城明け渡しに先立ち、
お暇を頂戴した篤姫付の大奥老女「瀧山」を思い出した。
「瀧山」は彼女付の侍女の実家に寄宿し、晩年を過ごしたと言う話を娘から聞いた。
どうして娘が知っているのかと不思議に思ったが、
娘の住まいの近くに「瀧山」のお墓があるお寺が在るからだという。

どこかと詳しく問いただすと、何のことはないボク自身も普段良く通る場所にあったのである。
灯台下暗しとはこのこと、早速その寺院に出かけてみた。
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(錫杖寺)
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(立派な本堂、屋根に三つ葉葵の紋章がある)

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寺院の名は「錫杖寺」といい、立派な門構えのお寺で、埼玉新聞社刊「埼玉県宗教名鑑」によれば、
「養老元年(717)に行基が本堂を建立、
自ら地蔵菩薩を刻み本尊とし開基したと伝えられます。
のち、北条時宗の帰依を受けた鎌倉長楽寺開創の願行上人が再興、
寛政元年(1460)には、室町幕府8代将軍足利義政により七堂伽藍が整備され、
中興の祖宥鎮和尚を晋住させました。以降、醍醐三法院直末関東七ヶ寺の一つ、
十一談林所の一つとして末寺53ヶ寺を有する名刹として栄えました。
元和8年(1622)には江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の日光参社の際の休憩所になり、
以降歴代将軍により利用されました。
また3代将軍家光からは金子、材木を拝領し、御成門を建立すると共に、
御朱印20石賜るなど、“川口宿”の中核寺院として繁栄しました。」とある。
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(福禄寿のお堂)
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(鐘楼)

山門をくぐると正面に立派な本堂が見え、葵の紋が屋根に見える。
参道左側に七福神の福禄寿尊のお堂があり、すぐ先に鐘楼がある。
その梵鐘は埼玉県有形文化財に指定されている。
材料は銅で、制作年代は寛永18年(1641)川口宿名主である
宇田川氏が先祖供養の施主として鋳造し奉納したもの。

さらに参道を進み、正面にある本堂の横にある墓地を覗くと、
通路に「大奥御年寄瀧山の墓地」と書いて右へ矢印が書いてある看板が見えた。
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(瀧山墓地の案内)

看板に沿って歩くと、もう一つ案内看板があって、
その案内に導かれて進むと目当ての墓地が遭った。
お参りに来る方があると見えて墓前には、
真新しいお花が綺麗に活けてあった。
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(瀧山のお墓、三つ並ぶ真ん中の墓)

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卒塔婆の裏面には、
(東京府士族 東京南伊賀町住 大岡権左衛門長女 
徳川家大奥老女俗名瀧山の墓)と刻まれている。

正面にある戒名は、
「瀧音院殿響誉松月祐山法尼」  とある。

錫杖寺の由緒に、「末寺53ヶ寺を有する名刹」とあります。
浮間の末寺・観音寺→万蔵院(赤羽北)とつながり、
赤羽の末寺・真頂院→真頂院の僧運珍が小豆沢に隠居寺に建てた
東光院(現龍福寺)があります。」とある。
0001
(龍福寺山門、今は枯れ枝の枝垂れ桜)
0002
(龍福寺本堂)
0004
(六道の地蔵が絵になる)

小豆沢の龍福寺は、
「板橋区でも古い「板碑」があることで有名で、薬王山東光院竜福寺という。
本寺は室町時代末に袋村(現在の北区岩淵町)の真頂院の僧運珍が、
隠居寺として創建したのに始まると言われています。――後略」とある。
(板橋区教育委員会)

「錫杖寺」の由来にもあるように、
「龍福寺」が「錫杖寺」の末寺であったことは確かなようだ。

龍福寺の門前にあるしだれ桜が春になると美しい。
その時期には是非お立ち寄りいただきたい。
09
(鐘楼前の紅梅が美しかった)

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