楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

天翁院(旧日光街道・奥州街道を歩く 51)

2016年06月30日 05時01分37秒 | ひとり歩き旅
旧日光街道上に「天翁院」の看板はあるが参道先にお寺が見えない。

(「祇園山 天翁院」の参道)


参道を進むと、国道四号線の向こう側に「曹洞宗 天翁院」の門柱が見える。
門柱の反対側に禅宗らしく「不許葷酒入山門」(葷酒山門に入るを許さず)の石柱がある。
「不浄なものや心をみだす者は寺門内に入ることを許さない(広辞苑)」という意味。

(国道四号線上の曹洞宗天翁院の門柱)

(不許葷酒入山門の石柱)


門を入ると、右手に古い本堂らしき建物があり、
中央の扁額があった部分の扁額が取り外されている。

その先に「天翁院のコウヤマキ」(天然記念物)についての説明板が建っている
小山市教育委員会の説明をかいつまんで記すと、
(コウヤマキは古来、防火樹として社寺に多く植えられてきた。
 天翁院の本堂も、文化五年(1808)野火により類焼し、
その後、現在地に建てられた。
このコウヤマキは類焼した本堂と現在の本堂の間にあり、
防火樹として植えられたものと考えられる。
樹齢400年以上と考えられる。)とある。

(樹齢400年のコウヤマキ)

(類焼後建てられた古い本堂?)

(奥へ続く参道にはみ出すコウヤマキ)


しかし、この本堂を右に見て、さらに奥の正面に真新しい本堂がみえる。
この新しさはいつ出来上がったのだろうか・・・・

(奥に見える真新しい本堂)

(本堂)

(本堂)

(文字が見えない本堂の扁額)


扁額の文字が消えていて見えない。古い本堂にかかっていたものらしい。

天翁院を出て、四号線を越え、県道265号線の旧日光街道に戻り、
旧日光街道をおよそ2km進む。
この先の喜沢の追分に建っていたと言われる、古い道標を兼ねた地蔵尊。
天翁院寮跡地蔵尊がこのあたりの左手にある筈なのが、見当たらない。
キョロキョロしていると、
路地から年頃60歳くらいのオジサンが出てきたので、
資料をお見せしながらお訊ねする。

「このあたりに天翁院の道標を兼ねたお地蔵さんをご存じありませんか?」
しばらく地図を見ていて、
「この先にお墓がありましたでしょう、多分其処です。」と、
言いながら歩き出した。
「この先です、ほらあそこにお堂が見えるでしょ、あれです。」
そう言ったかと思うと、資料を返してくれて、さっさと引き返していった。
「ありがとうございます、お出かけ先とは反対のほうまで案内いただきまして」
とお礼を述べて、内心は、資料ではお堂の中にあるように書かれていないので、
違っていそうと思いながら、それでも念のため、
道路より奥まったところにあるお堂のあるほうに向かった。
資料が出来た後に、お堂が建立され中に安置されると云うこともあろうかと・・・

(奥まったところにあるお堂)


中を覗いたがそれらしいお地蔵さんは居ない。
資料の中の写真では、畑の真っただ中に建っている様に見える立像である。

資料の説明によると、
(かって喜沢の追分にあったと言われる享保3年(1718)の地蔵尊(道標)です。
「右へ奥州海道、左へ日光海道」とあり、
正徳6年(1716)「海道」の文字使用を禁止した幕府の触れが、
徹底していないことが解る貴重なもの)とある。

正徳6年(1716)4月のお触書とは、
東海道は海の端を歩くから東海道で、中山道は山の中を
歩くから中山道とし、中仙道としない。

同じ御触書に、奥州・日光・甲州道中ついて、
「これは海端を通り不申候間 海道とは申し間敷候」とあり、
(これは海の端を通り申さず候あいだ、海道とは申しまじく候)と読み、
(これは海の端を通らないから、海道とは申しません)の意。

とあり、奥州・日光・甲州海道でなく、奥州・日光・甲州道中
と呼ぶのが正しいことがわかります。

脱線したが、この堂の周りを改めて眺めてみると、
資料に出ているお地蔵さんに似たお地蔵さんが、
沢山の石造群の中にあるではないか。

近づいて製作年を調べると、確かに(享保3年)と見え、
正面の文字を見ると(中央に念仏供養、左右に、右へ奥州海道、左へ日光海道)と刻んである。
やっと見つけたので胸をなで下ろし、
先ほどのオジサンを少しでも疑ったことが恥ずかしくなった。

(お地蔵様のいる石造群、右手が該当のお地蔵さま)

(お地蔵様の台石「享保三戊戊三月吉日」の文字が読める)

(正面の「右へ奥州海道、左へ日光海道」の文字)


古い道標を兼ねた地蔵尊を後にして、旧日光道中を進むと、
左に「村社 日枝神社」の石柱が見える。
天翁院と同じように、旧日光街道(親しみやすい街道の名で書くことにする)から、
国道四号線まで参道は続いている。
参道には古木のケヤキが植えられているが、樹齢400年はくだらないと、
小山市教育委員会が伝えている。

(村社 日枝神社の石柱)

(参道と古木のケヤキ)


およそ200mの参道の先に国道四号線があり、
その先に鳥居があり、神殿がある。

(日枝神社の鳥居と神殿)

(日枝神社の神殿)


(江戸時代には山王と言われ、参道には小山市指定文化財のケヤキがあり、
神社を中心とした付近は、中世の小山城(祇園城)の北の守りとしての
支城の役割を果たしていた。
社殿裏には土塁が築かれている。)(小山市教育委員会)

社殿横の土塁の上には明治45年(1912)まで追分にあった、
道標を兼ねた「男体山」碑がある。
道標として「男體山」の文字の下に(右奥州、左日光)が読める。

(土塁の上の男體山碑)

(道標としての男體山碑)


この道標について、「男体山碑由来」の興味深い説明板が、
地元の有志により建てられているので紹介したい。

(男体山碑由来の説明文)


原文のまま、
(男体山碑由来 天保六歳三月
東都角觗年寄柏戸宗五郎門人下野国
鹿沼傍玉田村産歌ヶ浜斧吉力士
二荒山神大願成就 日光壬生喜沢有志補助
喜沢分岐点碑建立したる
ここより日光行を恐れた人達によって
倒されては建て倒されこと七十年
村人深く憂いて明治44年当神社境内移転したるなり)とある。

(男体山由来碑 天保六年三月
東京の相撲の年寄り柏戸宗五郎の門人で、
下野の国鹿沼近くの玉田村出身力士 歌ヶ浜斧吉は、
二荒山神社に願を掛け、大願成就したので、
日光壬生喜沢の有志の補助を得て、
喜沢分岐点に道標となる「男體山」碑を建立した。
これにより日光行を恐れた人達によって倒されては建て、
倒されては建てして、
倒されること70年村人はこれを深く憂いて、
明治44年当神社境内に移転したものである。)
筆者の勝手な解釈です。

ここで理解しにくいのは、
壬生方面からの日光行きを誘導する碑は不適切と、
土地の人たちは考えていた、だからこの方面からの日光行を恐れた、
と言うことになるのだが・・・・
よく解らない、詳しい方教えてください。

元の旧日光街道に戻り、進むと喜沢の追分交差点に出る。
左は鹿沼、直進は宇都宮と案内看板が見える。

(喜沢追分の交差点)



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倶利伽羅不動(旧日光街道・奥州街道を歩く 50)

2016年06月25日 05時04分31秒 | ひとり歩き旅
今日は6月2日、快晴、気温24℃の予想。

この日光街道を歩くに当たって参考にしているのは、
国土交通省 関東地方整備局 宇都宮事務所が提供している
「日光街道御徒マップ」を利用している。
これから旧日光街道を歩くことをお考えの方はぜひ参考にされますよう、
お勧めします。

JR小山駅から西へ、およそ200mで旧日光街道に交差する。
ここで右折し少し歩くと左手に鳥居があり、「元須賀神社」の標柱が見える。
神殿は鳥居をくぐり、参道の先に見える。
元須賀神社は、宮本町にある須賀神社の元の位置との説がある。
江戸時代には牛頭天王社、元祇園社、本祇園社と呼ばれていたらしい。

(元須賀神社)

(元須賀神社の神殿)


元須賀神社の鳥居の前の道路は、旧日光街道らしく「日光街道小山宿」の旗がなびいている。
この道路を挟んで右側、少し奥まったところに「光照寺」がある。


(街路灯にある小山宿の旗)

(光照寺入口)

(本堂)


門を入ってすぐ右手に地蔵堂があるが、信者の皆さんが、
いついつまでにと日限(にちげん)を切ってお願い事をすると成就するいう、
日限(ひぎり)地蔵である。

(日限地蔵尊)


写真のように紅白の布を頭からすっぽり被せてある。
日限を切ったお願いの作法のようだ。
同じような日限地蔵が中山道上(下諏訪宿)にもあった。
(参照:http://blog.goo.ne.jp/wxm68971-1936/e/eabef64d58aff969ad8aa7a94c541dac)
女工哀史で名高い「ああ!野麦峠」の女工さんたちが、
お願いに上がったお地蔵さまだ。

本堂の前面、日限地蔵の左手に千手観音坐像が慈悲深いお姿でいらっしゃったのが印象的であった。

(千手観音坐像)


旧日光街道に戻って進み最初の信号を左折、
国道四号線に出たら右折し、小山氏城に向かう。
国道四号線の交差点(本郷)を左折すると、
前方にうっそうとした森が見えてくる。
やがて左手に祇園城跡の駐車場があり、
祇園城(=小山氏城)跡はこの先、橋を渡ったところ。
橋は川をまたいでいる訳でなく、お城を囲む深い空濠の上にある。

(本郷の信号)

(祇園城跡ののぼり旗)

(空濠)


空堀の先に広場があって、ここにお城があったのであろう、
周りに土塁がめぐらされている。
土塁の向こう側は、深い空堀となっている。

(土塁)


ここが下野最大の武士団小山氏の本拠地であった。
近世になり、慶長13年(1608)ころから元和3年(1619)までは小山藩主 
本多正純によって支配され、城の大改造や城下町の整備がなされた。
この時、小山市街の基礎が造られ日光街道宿場町も形成され、
庚申塔にあったように佐野・栃木道や結城道の分岐点としても、
大いに栄えたと言うことです。
宿内の大きさは、天保14年の資料では、南北に12町3間(約1.4km)で、
人口1392人
本陣1脇本陣2軒
旅籠74軒
あったという。

小山氏城跡の見学を終わり、元に戻り(本郷)の信号を越えると、
左手に真言宗 寶性院がある。
創建された宝永年間(1704~11)には、日光街道沿いにあったと言う。
門柱 左側には「稲場山 不動尊」とあり、
その左横に倶利伽羅不動尊がある。

(寶性院、左手に稲葉山 不動尊とある)

(倶利伽羅不動尊)


この倶利伽羅不動尊を見たときは、恥ずかしながらギョッとしました。
棒に巻き付いた黒い龍のギラリと光る白い眼が写真を撮るボクをにらみ付けていたからです。
よく出来た彫刻です。

彫刻では、左甚五郎の龍が空に駆け昇ると伝えられますが、
この龍の彫刻に、にらみ付けられるとゾッとします。
後で調たのですが、これは小山市乙女の石工の作品として貴重なものだそうです。

寶性院を出て左手に、地図の上では興法寺が有る筈と歩くと、
立派な山門が見える。
庭の植木など手入れされ見事な門構えで、
これぞ興法寺と思ってカメラに収めたところ、
この門の横に小さい石碑で「興法寺入口」とあるではないか。
奥を覗くと、確かにお寺らしく、細い長い道が続いている。

予備知識として、小山藩主だった本多正純から九石の寺領を、
三代将軍 徳川家光からも同じように寺領を与えられていたお寺、
つまり、かなりの格式あるお寺と想像していました。
また、戊辰戦争に受けた弾痕のある地蔵尊もあると、
立派なお寺を想像していたのに・・・・

(お寺の門と間違えた民家の門)

(興法寺の入り口のちいさな石碑)

(石碑脇のお寺に通じる細い道)


入口がこれでは、その後凋落したのだろうかと考えながら進みました。
小さな門をくぐると、お寺の墓地になっており、
墓地の間を抜けると右側に赤い涎掛け(?)を着けたお地蔵さんが、
立派な覆い屋に収まっているのが見える。
さてはこれが戊辰戦争で銃の弾痕が出来たお地蔵さんと思い、
左脇を覗き見ると、豈(あに)はからんや(弟計るや(古いダジャレ/笑)、
銃弾の跡があるではないか。

(小さな門をくぐる)

(覆い屋に入っている地蔵様)

(地蔵様の左脇の銃弾の跡)

(地蔵様の左脇の銃弾の跡の拡大)


これを確認したとき、左手に年配の方がカメラ片手に何やら撮っている。
何だろうと、その方向へ進むと、なんと立派な鐘楼と本堂、
通路の石畳、整備された庭木や芝生、実に立派そのもの。
そこで写真を撮っていらっしゃるオジサンに聞くと、
ボクの入ってきた通路は裏口で、正門は右手にあるという。
早速正面入口へ向かうと、それは旧日光街道に面しているではないか。

(オジサンが写真を撮っていた場所)

(興法寺入口)

(山門)

(鐘楼)

(本堂)

(本堂の変額)


興法寺を出て旧日光街道を進むと、右手に愛宕神社がある。
これが本郷町の愛宕神社である。

(愛宕神社の鳥居)

(拝殿)

(拝殿前の狛犬)

(遠山閑翠の碑)


拝殿前の狛犬は、天明五年(1785)の奉納で確認されている小山市内最古の狛犬。
また拝殿北側には、江戸時代この地の領主であった遠山閑翠(三郎右衛門)の碑もあります。
遠山閑翠の碑には、出自から業績などが細々記されている。

旧日光街道を進むと左手に「祇園山 天翁院」木造の古びた看板が目に付く。
天翁院は初代 小山政光が創建したのが始まりで、小山氏の墓があるところだ。

(祇園山 天翁院の看板)

(道路両側にある看板)

(道路両側にある看板)


「祇園山 天翁院」の看板の間にある道路はお寺の参道であるが、
その先に、お寺は見えない。

次回につづく
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お留守の青銅 阿弥陀如来(旧日光街道・奥州街道を歩く 49)

2016年06月18日 05時08分20秒 | ひとり歩き旅
須賀神社を出てすぐ左手に(北隣に)妙建寺がある。
春には境内の枝垂れ桜が開き、地元小山市の百景に選ばれている。

(妙建寺の山門、右手の桜が春は美しい)


(妙建寺の本堂、枝垂れ桜は左上に垂れ下がっている青葉)



日蓮宗 法頂山 妙建寺と言い、山門は明治の建立であるが、
本堂は、享保二年(1717)に再建され、格天井には百人一首が描かれており、
再建以来一度の火災にも見舞われていない。

妙建寺の北側の道路を東に坂を下る途中にある神社が宮本町の愛宕神社。
小山市に愛宕神社は二社あって、もう一つは本郷町の愛宕神社で、後程紹介する。

(坂の途中左へ愛宕神社)

(宮本町の愛宕神社)


宮本町の愛宕神社は、天授5年(康歴元年1379)小山義政が、
領内の五穀豊穣と領民の家内安全を願って、
山城の国愛宕山より勧請したとき、
ご神木として植えたと伝えられるケヤキがあり、
樹齢600年余と推定される。

(ケヤキの大木)


坂を下り切ると小山第一小学校があり、その手前に佐野・栃木道の庚申塔がある。
この庚申塔は寛政12年(1800)に建立されたもので、左佐野道・右栃木道とある。

(庚申塔がある一角)

(庚申塔・左佐野道)

(庚申塔・右栃木道)


この庚申塔のある坂道を上って戻り進むと、
国道四号線を渡り旧日光街道(県道265号線)に出る。
そこに小山宿脇本陣跡の往時を思わせる玄関らしきものがあり、
手前に明治天皇小山行在所跡の自然石に刻まれた碑がある。
さらに進むと突き当りに常光寺がある。

(坂道を今来た道に帰り、坂道を上る)

(小山宿脇本陣跡)

(明治天皇行在所跡の碑)

(常光寺門前に突き当たる)


この常光寺には小山市教育委員会指定文化財になっている阿弥陀如来坐像がある。
常光寺の説明によると、
(この青銅の阿弥陀如来坐像は、寛延元年(1748)の作であるが、
慶応四年の戊辰戦争小山の戦いで、幕府軍の流弾が台座後部に命中し、
今もその傷跡をとどめている歴史資料で、境内にある。)とある。

しかし、その阿弥陀如来坐像は、残念ながら現在はお留守のままになっており、
どこかの博物館か美術館に出張されているらしい。

(常光寺本堂)

(阿弥陀如来坐像の案内説明板)

(阿弥陀座像があった場所)


何も写真がないのは寂しいので、ネットから画像を拝借した。

(阿弥陀如来坐像)

(戊辰戦争時に受けた弾痕跡)


間々田宿から小山宿まで直線距離では7.3kmであるが、
いろいろ見て回り、あるいは見落として街道を戻ったりしたため、
本日歩いた距離は、39357歩、距離にして約24kmだった。
久しぶりに、重い足を引きずり東北本線小山駅から帰宅した。

(小山駅)




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家康天下分け目の決断―小山評定(旧日光街道・奥州街道を歩く 48)

2016年06月11日 05時18分57秒 | ひとり歩き旅
しばらく旧日光街道を進むと、左手に持宝寺が見えてくる。
小山市内の中心部に入ってきた。

右手には小山宿の一里塚跡が有る筈であるが、見当たらない。
一里塚らしきこんもりとした木が生えている場所があるが、
ここかどうかは疑わしいが、写真だけ乗せて置く。

(小山の一里塚らしく思える場所)


この先の信号左手に持宝寺が見える。
石柱には「真義真言宗 持宝寺」とあり、門にかかる板には、
「弓削道鏡根本開基寺」とある。

(持宝寺の鐘楼門)

(門前の石柱と門にかかる板)


持宝寺は宝亀3年(772)弓削道鏡による開山とされていますが、
かっては御殿付近(*)にあったのを本多正純の小山城改築により、
現在地に移転された。
享保13年(1728)徳川八代将軍吉宗の日光社参の際は、この寺で休憩しました。
小山市指定文化財で市内唯一の江戸時代の梵鐘が保存されている。

(*)御殿とは、家康亡き後日光社参の際の将軍家の宿泊所となったところ。
   1633年徳川家光が最後で、しばらく中断していた。
   1728年吉宗が日光社参を再開するまでの間に御殿は取り壊されている。
現在は小山市役所になっている。

(持宝寺の美しい本堂)

(江戸時代の梵鐘)


小山市教育委員会の説明によると、
(寛政四年(1792)に佐野の鋳物師が鋳造した梵鐘で、
先の戦争中に金属の供出命令から唯一免れた梵鐘で、
免れた理由は、鐘の銘文中に
「当寺は人皇四十六代孝謙天皇弓削道鏡廟塔」と、
天皇の文字が刻まれていたため。)とある。
道鏡の廟は見当たらない。

日光街道を進むと、左手に「須賀神社会館左折」の看板と
灯篭があり、小山市の案内板も見える。
左折しようと道路を見ると、右手に
「須賀神社」の石柱があり、石の鳥居も見え、
さらに奥に二の鳥居も見える。
道路の両脇には欅の古木が立ち並んでいる。
須賀神社の参道で二の鳥居まで500mあろうか、
長い参道である。

(須賀神社左折の案内)

(須賀神社の石柱と一の鳥居が見える欅の参道)


参道を歩いて、二の鳥居に近づいて驚いた、
国道四号線の向こう側に須賀神社はある。

(ケヤキ並木の美しい参道)

(国道四号線上で見る須賀神社)


鳥居脇に、何やら新しい石碑が建っている。
表題を見ると「徳川家康公小山評定之碑」とある。
中身を読むと、ボクの様な歴史音痴が沢山いると見えて、
(小山評定)って何だと役所に聞きに行く輩が多いらしく、
いちいち答えていると本来の仕事の邪魔になるのか、
ここに碑を建てて勝手に読んでもらう様にしたのであろう。

(家康公小山評定之碑)


ところがボクの様な横着者が出てきて、
今度は神社に、あの碑は何が書いてあるのかと、
聞きに来るものが出るので、神社では、その碑の内容をコピーして
碑の脇に封筒に入れて置くことにしたらしい。

このブログをお読みの方は、歴史にお詳しいのでしょうが、
我慢していただきご覧願いたい。

とりあえず、ボクの歴史知識を確かなものにするため、須賀神社作制の一部を紹介する。

(徳川家康公は慶長五年(1600)、上杉景勝討伐のため江戸から会津に向かう途次、
当地小山において、石田三成が家康公打倒のため挙兵したとの報を受け、
急遽会津への進軍を中止し、
七月二十五日、当地に諸侯を集めて軍議を開いた。
これを後に「小山評定」と言う。
参集した諸侯は、秀忠公はじめ、福島正則、結城秀康、黒田長政、本多忠勝、
井伊直政、山内一豊、浅野幸長、細川忠興、堀尾忠氏、池田輝政、藤堂高虎、
松平忠義、加藤嘉明、寺沢弘忠他である。―以下省略)とある。

かいつまんでご紹介すると、

この小山評定は、後の江戸幕府成立の道筋をつけた会議と言える。
「このまま上杉を討つか、反転して石田三成を討つか」を問うたのは、
家康に従う上杉討伐の諸将の殆どは豊臣家譜代の武将で、
大阪に妻子を残してきており、その去就が家康にとっては攻防の境目だった。
このとき、尾張清州(愛知県)城主の福島正則が家康のために命を投げ出すことを誓い、
続いて遠江国掛川(静岡県)城主の山内一豊が、
「家康に城を明け渡してまでもお味方します」と進言。
この一豊らの建議が並み居る諸将の気持ちを動かし、
家康支持に固まり、この時の一豊の建議を
「古来より最大の功名なり」と家康が絶賛したことは有名です。

そこで打倒三成に向かい、
関が原の合戦で大勝利をおさめたのはご存知の通り。
以上が小山評定のあらすじだったのです。

今年のNHK大河ドラマ「真田丸」で小山評定のシーンが出てくるかもしれません。

話が前後しますが、間々田の小山市博物館に入場するや否や、
武将の鎧兜六体がお出迎えして不審に思ったが、
この小山評定を知って、この評定に列席した主な武将の鎧兜だということが解った。

(小山博物館の六体の鎧兜)


脱線してしまいました。
話を須賀神社に戻します。

奥に神社の立派な門があるが、その手前参道中間に古びた鳥居がある。
日光東照宮の鳥居に次いで古いと言われる鳥居である。

また、神社の「神門」の扁額には「神明照覧」とありますが、
神門両側にある隋神像について、
普通、神社の神門におまつりしたご神像の多くの隋神像は、
剣を帯び、背に矢を負い、両手に弓矢を持つ衛門の姿であるが、
須賀神社の神像は平和な世を祈念して祭祀の最高服である束帯を着用し、
両手で正面に笏(しゃく)を持つ白木の座像となっていると言う。

(神門までの参道中間にある古い鳥居)

(立派な神門、扁額に神明照覧」とある)

(神門の剣を持たない隋神像左)

(神門の剣を持たない隋神像右側)


さて、肝心の小山評定が行われたのは、小山城であるが、
現在は小山市役所があり、小山評定の跡地と伝えられる場所が、
市役所の中庭に残っています。

(小山評定跡の碑)






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小山宿へ(旧日光街道・奥州街道を歩く 47)

2016年06月04日 05時38分31秒 | ひとり歩き旅
前回千駄塚古墳上の浅間神社をご紹介したが、このあたりから小山宿に入って行く。

国道4号線を進むと(粟宮南)の信号に出る。
交差する道路は県道33号線で、信号を渡ると左手に立派な酒造会社の前に出る。
醸造するお酒は「若盛」地酒である。

最近酒造業だけでなく、どこもレストランなどを併設して好評を博している。
ついでにお酒の宣伝もできるというものだ。

(雨宮南の信号)

(地酒「若盛(ワカサカリ)」の看板)

(歴史を感じさせる酒造業の建物)


酒造会社を探している訳でなく、
このあたりに有る筈の「大橋訥庵(おおはしとつあん)」の旧居跡を探しているのだが、見当たらない。
資料上には、このあたりと思われるが・・・・

しばらく歩くと表札に「大橋」なるものが出てくるが、
攘夷運動の中心人物の旧居らしくない佇まい。
何よりも旧居跡と言うから標柱だけかもしれない。

そう考え直して後戻りしたが、植木屋さんがいるばかりで、
それらしい標柱は無い。
よくよく目を凝らして歩くと、それらしい看板があった。
植え込みの中に(大橋)の看板が無造作に置いてある。
が、これも歴史を物語るに足りない。どうも違うようだ。
それでも見当たらないからこれと決めて、通り過ぎることにした。

(大橋訥庵の旧居跡か?)


大橋訥庵(おおはしとつあん)は、江戸時代後期の儒学者で、
幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を及ぼした人物だ。

しばらく歩くと、国道四号線は左へ曲がって行き、
県道265号線(旧日光街道)は直進する案内看板が見える。
そして案内にあるように約300mもすると、
その交差点(粟宮/あわみや)に出る筈だ。

しかし、その手前に「安房(あわ)神社参道入り口」の看板があり左折する。

(国道四号線左の案内看板)

(「安房神社参道入り口」の看板)


間々田商工会によると、
(この神社は、平安時代中ごろの「延喜式」に記載されている古い神社で、
崇神天皇の御代に創建されたと伝えられている。
遠い昔、安房(あわ)の国(千葉県館山市)の安房神社を祀る人々が、
よき土地を求めてここに永住し、神を祀り、
粟(あわ)を栽培したと言われている。――後略)とある。

そんな所から地名の粟宮(=安房宮)になったのだろうか?
やや眉唾な説明に思える。

国道四号線を左折して、参道に向かうが、
出たところは安房神社参道の中間地点、
左の「一の鳥居」と右の「二の鳥居」の間であった。

(一の鳥居が見える参道)

(二の鳥居が見える参道)


二の鳥居をくぐるとすぐ三の鳥居と御手洗場があり、
大きな龍が水を吐いている。
三の鳥居の正面が安房神社の神殿。
右側に由緒ありげな神楽殿がある、祭礼などには氏子で埋まりそうである。

(三の鳥居と御手洗場)

(神楽殿)


手と口を漱ぎ、神前で旅の安全を願い、帰りは三の鳥の前を左折すると、
なんのことはない国道四号線に出て、ここにも鳥居がある。
小山駅方面から来た人たちの参道になる。

(小山方面からの参道になる鳥居)


左折すれば、すぐ(粟宮)の交差点である。
国道四号線は左折し、旧日光街道は直進する県道265号線である。

(粟宮の交差点)


265号線を直進する。
かなりの間ご説明するような場所はない。
やがて国道50号線と交差するところまで来る。

(国道50号線との交差点)


この交差点で信号を見て驚いた。
交差点には土地の名前が入っているのだろうが、
なんと「神鳥谷(東)」と書いてある。
土地の方は読めるのだろうが、初めて見るボクには読めない。
「かみとりや(ひがし)」?「しんちょうや(ひがし)」「かみとりたに(ひがし)」?
この時ボクは読み方を考えることをギブアップした。

皆さん読めますでしょうか?

信号機の地名にローマ字の仮名が振ってある。
「Hitotonoya―East]とある。「ひととのや」と読むらしい。
ボクはこのローマ字をみて唖然としました。
何処をどう読めば「ひととのや」と読めるでしょう。

(「神鳥谷(東)」の「Hitotonoya―East」の信号機)

(Hitotonoya―ひととのやの信号機)


この難解な読み方の地名の信号機のある交差点を過ぎると、
左手になんの変哲もないごく普通の「天満宮」がある。
どうしてこんなものが名所なのか?

(天満宮)


この天満宮について、氏子の総代が残した説明を要約すると、
(この天満宮の創建についてはあまりにも古く分かりません。
現在は、天満宮、稲荷神社と雷電神社が合祀されているが、
天満宮より新しく祀られた稲荷神社の棟板(むないた)に、
明和四年(1767)十二月、社殿の落慶式の祭主は、
東醍醐山 持宝寺の住職であった。
もともと天満宮は持宝寺の末寺である、青蓮寺の和尚が祭主を務めており、
こうした落慶式のような大きなお祭りには、本山の住職が導師となっていたからです。

この青蓮寺は今はありませんが、江戸時代末期、
徳川御三家の水戸斉昭公が、大砲製作のため、
領内のお寺に釣鐘を供出させた時、
青蓮寺の和尚さんは、
「人殺しに仏様の釣鐘を使うてゃ何事か」と反対し、
一夜のうちにどこかへ隠してしまった。―後略)とある。

しばらく旧日光街道を進むと、左手に持宝寺が見えてくる。

(持宝寺)


「新義真言宗 持宝寺」と石柱にあり、門柱左には「弓削道鏡根本開基寺」とある。

(*)新義真言宗=空海(弘法大師)を始祖とする真言宗の宗派の一つで、
   高野山内で新たな教義を打ち立てたため「新義」と呼ばれた。



コメント (12)
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