楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

近代日本文化発祥の地(忠臣蔵を歩く5)

2013年12月29日 09時00分08秒 | ひとり歩き旅

(近代日本文化発祥の地にある、「慶応義塾発祥の地」と「蘭学の泉はここに」の碑)


(近代日本文化発祥の地)
鍛冶橋通りを「高橋」から二つ目の信号を左折する。
静かな落ち着いた銀杏並木の通りになる。
しばらくすると左手に、
カトリック築地教会がある。

中央区教育委員会によれば、
(カトリック築地教会は、
明治四年(1672)にパリ外国宣教会のマラン神父が、
鉄砲洲の稲荷橋付近の商家を借りて開いた「稲荷橋教会」その全身とされます。
明治七年(1874)、神父は宣教会の名義で築地居留地(現在地)を借り受け、
ここに司祭館と聖堂を立てました。――中略
現在の聖堂は昭和二年に再建され、石造りに見えますが、
実は木造建築で、壁面をモルタル塗りとしています。――後略)とある。
教会内にある鐘はフランス製で「江戸のジャンヌ・ルイーズ」と
名づけられたもので現在も保管されているとのこと。

(カトリック築地教会)


このカトリック築地教会の門の前に、
「暁星(ぎょうせい)学園発祥の地」の石碑がある。
カトリック築地教会の説明で触れられていたが、
この当り一体は外人居留地区で、聖路加病院を始め、
蘭学事始の翻訳場所であったり、立教学院や立教女子学院、
シーボルト、アメリカ公使館跡など紹介すべきものが多い。

さて、「暁星(ぎょうせい)学園発祥の地」の石碑の上には、
本を開いて置かれており、
「あなたがたは 地の塩
       世の光である」と
聖書マタイによる福音書からの一説が載せられている。
上を見上げると、聖路加病院の十字架を乗せたビルが見える。

(「あなたがたは地の塩、世の光である」の碑)

(暁星学園発祥の地の石碑)

(聖路加病院の十字架)


聖路加病院の院長は、ご存知102歳の日野原重明さんで、
今なお新聞に毎週日曜日に連載を書かれている。
聖路加病院は有名であるが、St.Lukeの英文字がある所を見ると、
新約聖書のルカ福音書があるように、本来ルカが正しいように思う。
通りの名は「聖ルカ通り」となっているからこれが正解であろう。
もっとも聖路加病院は(せいルカびょういん)と読むのかもしれない。

少し行くと、「立教学院発祥の地」の碑がある。
その横に立教女学院校舎跡と記念碑があり、ここには、
(立教女学院 St.Margaret’s College and School
築地居留地校舎跡(1882~1923)記念碑)とある。

(立教学院発祥の地の碑)

(立教女学院校舎跡の碑)


その先交差点右角に、近代文化事始の地として、
(慶応義塾発祥の地)の碑と
(蘭学の泉はここに)と題した碑が建っている。

慶応義塾発祥の碑の側面には、
(安政五年福沢諭吉この地に学塾を開く。
創立百年を記念して昭和33年慶応義塾これを建つ)とあり、
上部には、福沢諭吉が書いた書物「学問のすすめ」があり、
その一節が刻まれている。
(天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず)とある。

(慶応義塾発祥の碑)


「蘭学の泉はここに」の、本を見開いた形の碑の左側面には、
(1771年・明和8年3月5日に杉田玄白と中川淳庵とが
前野良沢の宅にあつまった。
良沢の宅はこの近くの鉄砲州の豊前中津藩主奥平の屋敷内にあった。
3人はきのう千住骨が原で解体を見たとき、
オランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアの図とひきくらべて
その正確なのにおどろき、
発憤してさっそくきょうからこの本を訳しはじめようと決心したのである。
ところがそのつもりになってターヘル・アナトミアを見ると、
オランダ語をすこしは知っている良沢にも、
どう訳していいのかまったく見当がつかない。
それで身体の各部分についている名をてらしあわせて
訳語を見つけることからはじめて、いろいろ苦心のすえ、
ついに1774年・安永3年8月に解体新書5巻をつくりあげた。
これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめて、
これから蘭学がさかんになった。
このように蘭学の泉はここにわき出て、
日本の近代文化の流れにかぎりない生気をそそぎつづけた。)とある。
また、右側面には人体が描かれ、それぞれの部位に数字が書き込まれている。

(「蘭学の泉はここに」の碑)

(聖ルカ通り)


この「近代文化事始の地」の前の通りを「聖ルカ通り」と名づけられている。
この「聖ルカ通り」を左折すると、
左が聖路加病院で、直進すると突き当たりに聖路加ガーデンがある。
ここにアメリカ公使館跡の説明板があるが、
案内にある記念碑は見当たらない。

聖路加ガーデンの警備員にお訪ねすると、
記念碑は、聖路加ガーデンに入り、エスカレーターに乗って二階へ行き、
再び外に出ると、庭に記念碑がありますとのこと。

聖路加ガーデンの中に入り、エスカレーターを上って、
外に出るとアメリカ公使館跡の記念碑の石標があった。
説明によると、
(この記念碑は全部で8個あったとされるが、
二個はここにあり、三個は聖路加の旧病院前にあり、
残り三個は日米友好のシンボルとして、
現在のアメリカ大使館に寄贈された)とある。

(聖路加ガーデン)

(聖路加ガーデンのアメリカの石標二個)


石標は3種類の彫刻が施され、白頭鷲、星条旗、星であるが、
白頭鷲はアメリカの国鳥であり、星条旗に彫られた13個の星は
同国初期の13州を表している。
(従って現在の星条旗には50州を表して、50個の星が描かれている。
なお、stripesの13本の赤白の線は13本あり、
アメリカ当初の13州を現しているとのこと。)

(聖路加の旧病院前のアメリカの石造三個)


(白頭鷲)

(当時の13州の国旗)

(現在のアメリカ国旗)


「近代文化事始の地」まで戻って、西へ折れると、
左手に中央区あかつき公園があり、
沢山の子供たちがお母さんと戯れている。
入り口に公園の案内看板が建っており、
公園の奥のほうにシーボルトの胸像があると記されている。

(あかつき公園の案内看板)


公園の噴水などを避けて、奥へすすむとその胸像はあった。
中央区教育委員会の説明によると、
(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、
オランダ商館医員として文政六年(1823)七月、
長崎に到着し、診療の傍ら長崎の鳴滝に塾を開くなど活躍した。

文政九年正月、商館長と共に江戸へ向い、
日本橋の長崎屋に止宿し、四月十二日出発するまでの間、
江戸の蘭学者に面接指導し大きな影響を与えた。

同十一年シーボルト事件が発生し、十二月に日本から追放された。
後に安政六年((1859)幕府顧問として再来日したが、
まもなく帰国しミュンヘンで没した。

彼の江戸における指導は、
江戸蘭学発展のために貢献する所が大きかった。
この地が江戸蘭学発祥の地であり、
且つ彼が長崎でもうけた娘(いね)が築地に産院を開業したこともあり、
また明治初期から中期にかけて、
この一帯に外国人居留地が設けられていたことから、
ここに彼の胸像を建て、
日本への理解と日蘭の橋渡し役としての功績に報いるものである。)
(中央区教育委員会)とある。

(シーボルトの胸像)

あかつき公園を後にして、「聖ルカ通り」を築地駅方向へ進む。
赤穂浪士が凱旋した道だ。
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霊岸島(忠臣蔵を歩く 4)

2013年12月25日 09時06分24秒 | ひとり歩き旅
(霊岸橋)


(霊岸橋~高橋)
新川一丁目の信号角、歩道上に「川村瑞賢屋敷跡」の説明板がある。
建物らしきものは何も無いが、
江戸時代、この地域には幕府の御用商人として活躍した、
川村瑞賢の屋敷があったという。

説明板によると、
(瑞賢は、伊勢の国の農家に生まれ、江戸で材木商を営んでいたが、
明暦三年(1657)の江戸の大火の際、木曾の材木を買占めて財を成し、
その後も幕府や諸大名の土木建築を請負莫大な資産を築きました。
その財力を基に海運や治水など多くの事業を行った。
瑞賢の業績の中で、奥州や出羽の幕領米を江戸へ回漕する廻米航路を開拓して、
輸送経費・期間の削減に成功したことや、
淀川を初めとする緒川を修治して畿内の治水に尽力したことが上げられる。
――以下省略)(中央区教育委員会)とあり、
住まいは霊岸島の半分を閉めるほどの大きなお屋敷であったらしい。

(川村瑞賢屋敷跡「新川一丁目」信号手前歩道上)


この新川一丁目の信号先に、霊岸橋がある。
亀島川にかかる霊岸橋を渡らずに川沿いに左折して、
忠臣蔵の四十七士は泉岳寺へ向ったようだ。

左折するとすぐ新亀島橋に出る。
次いで亀島橋、そして高橋という名の橋に出る。
渡る橋の下は亀島川で、東側は日本橋川、
南に隅田川が流れて、この三つの川に囲まれた部分が旧霊岸島である。

(霊岸橋)

(新亀島橋)

(亀島橋)

(霊岸島の記念碑)


(その昔、寛永元年(1624)下総の国生実の浄土宗 善昌寺の僧、
霊岸 雄誉上人が埋め立てて築造し、霊岸寺を建立したことから、
その名が起こった。)(霊がん島の由来より)(中央区)

「高橋」の橋の袂に垢抜けた交番があり、
その横に住居表示の案内看板があります。
近くの小学校の横にある越前掘り児童公園に霊岸島の碑がある。
百聞は一見に如かずといいます、下の図をご覧ください。

(霊岸島の地図)


亀島橋を渡ったところに、
赤穂浪士の一人、高田馬場で大活躍した堀部安兵衛武庸の碑があり、
高田馬場で活躍した頃は、ここ八丁堀の長屋に住んでいたことがあるらしい。

道路を挟んだ反対側に、芭蕉句碑と銀座の柳四世がある。
芭蕉句碑には、
「八町堀にて
・菊の花 咲くや石屋の 石の間(あい)   芭蕉」とある。
亀島橋の上から下流には高橋、その先に南高橋が見える。

(赤穂浪士の一人堀部安兵衛の碑)

(堀部安兵衛の碑)

(芭蕉句碑)

(銀座の柳四世)

(亀島橋から見た高橋)


亀島橋を戻って、高橋へ抜ける鍛冶橋通りを左へ、
一ブロック行った所を右折すると於岩稲荷田宮神社がある。
中央区教育委員会によると、
(於岩稲荷田宮神社は、四代目鶴屋南北の戯曲で、
文政八年(1825)に初演された「東海道四谷怪談」の主人公、
お岩の伝承を持つ神社です。
社地は歌舞伎俳優の初代市川佐団次の所有地であったと伝えられ、
花柳界や歌舞伎関係などの人々の参詣で賑合いました。
境内の石鳥居は明治三十年(1897)一月に造立されました。
花崗岩製のこの鳥居は、中央区に現存する中では、
二番目に古いものです。――中略
鳥居の奥にある百度石は民間信仰である「お百度参り」のための石で、
中央区で最古のものです。中央区の有形文化財である。――以下省略)とある。

(於岩稲荷田宮神社)

(石の鳥居)

(お百度石)


元の道へ戻って、鍛冶橋通りを左折すると、
高橋の手前に三階建て三角屋根のおしゃれな交番がある。
その先の高橋を渡ると「JR八丁堀駅」の入り口がある。

ここにある信号を入れて、二つ目の信号を赤穂浪士四十七士は、
雪の中を左折して行った、と言う。

(高橋)

(三角屋根のしゃれた交番)

(JR八丁堀駅の看板)


しかし「八丁堀駅」の字を見たときに、
昔の同心・与力が住んでいた八丁堀とは何処だろう、
家並みは無くとも、与力・同心の住まい跡がどこかに残っているに違いないと、
探すために、信号を左折せずに直進する。

地下鉄「八丁堀駅」の交差点を過ぎて、未だかまだかと進むうちに、
「鈴らん通り」との交差する場所に、
「八丁堀の与力・同心 組屋敷跡」の説明板があったので紹介する。

(鈴らん通りの「八丁堀の与力・同心組屋敷跡」)

(江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、初めは寺町でした。
寛永十二年(1635)に江戸城下の拡張計画が行われ、
玉円寺だけをて残し多くの寺は郊外に移転し、
そこに与力・同心組屋敷の町が成立しました。
その範囲は茅場町から八丁堀の一帯に集中しています。
八丁堀といえば、捕り物帖で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた、
江戸町奉行所の配下の与力・同心でした。
与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆です。
着流しに羽織姿で懐手、帯にさした十手朱房も粋な、
庶民の味方として人々の信頼を得ていました。――以下省略)
(中央区教育委員会)とある。

銭形平次や半七捕り物帖の半七は、同心の手下の岡っ引で、
多いときでも与力50人、同心280人というから、
これでお江戸八百八丁の治安を維持することが難しく、
同心の下に岡っ引、さらに手下の下っ引、
合わせて3000人はいたという。

話が横にそれてしまったので戻す。
亀島川の高橋から、二つ目の信号を左折して、
義士の四十七人は、粛々と泉岳寺方面に向った。

(高橋)

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万年橋~永代橋(忠臣蔵を歩く 3)

2013年12月19日 09時04分55秒 | ひとり歩き旅
(万年橋)


(江島杉山神社~永代橋~霊岸橋まで)
江島杉山神社を出て、道路を進むと(新大橋二丁目)の信号に出る。
道路の右を見ると、隅田川に架かる新大橋が見える。
(新大橋二丁目信号)

(新大橋が見える)


この信号を突ききって進むと道路に「万年橋通り」右矢印がある案内がある。
先に進むと万年橋を渡るのだろうと推測しながら歩く。
その横に
・ 旧芭蕉庵跡
・ 芭蕉庵史跡展望庭園
・ 芭蕉記念館分館
・ 芭蕉記念館
の案内があり、この万年橋通りに芭蕉関係の史跡が並んでいる。
(万年橋通りの看板)

(万年橋通り)

(芭蕉記念館など案内看板)

すこしすると右手に、
「江東区芭蕉記念館」の大きな案内看板があり、
その横に桧皮葺の屋根を持つ、記念館入口がある。
以前一度来たことがある記念館、
新しいものが展示されているかもしれないと入場する。
記念館の中に入ると、すぐ右手に
・ 草の戸も 住み替わる代ぞ ひなの家
の有名な芭蕉句碑がある。

(江東区芭蕉記念館)

(芭蕉記念館)

(桧皮葺の芭蕉記念館入り口)

(入り口にかかる記念館の文字)

(草の戸も・・・の句碑)

入館料を払って中に入り、二階に上がると、
以前と同じような展示物で、
芭蕉の真蹟になる、俳句などが展示してある。
前回見落としたものに、福井県の色の浜で、
芭蕉が拾ってみたかった「ますほの小貝」が展示されていた。
小粒の白い巻貝を確認できたのは収穫であった。
(館内撮影禁止で芭蕉真蹟や「ますほの小貝」の写真は撮れなかった)

記念館を出て、その先左手奥に、
お稲荷さんの赤いのぼり旗がひらめいている所が、
芭蕉稲荷神社兼芭蕉庵史跡である。
芭蕉庵は洪水で流された後、この場所で石造りの蛙が見つかって、
今は芭蕉記念館に展示してある。

(芭蕉稲荷の芭蕉庵史跡)

(石造りの蛙)

その先にこの通りの名前の万年橋が小名木川をまたいでいる。
橋を渡る前に右手の川べりを階段で少し上ると、
先ほど案内にあった「芭蕉庵史跡庭園」がある。
小名木川が隅田川に流れ込む角にこの史跡庭園はあり、
どこを見ているのか、正座している芭蕉像があり、
その先に清洲橋が架かっているのが見える。
芭蕉像の後には、翁の名前になった芭蕉の木が葉を繁らせている。
(芭蕉庵史跡へ上る階段)

(芭蕉庵史跡庭園の芭蕉像)

(芭蕉の名がついた芭蕉の植木)

万年橋を渡り、清洲橋通りまで進む。
信号で清洲橋通りを右折するが、
目の前の清洲橋は渡らずに隅田川沿いに左へ行く。
しばらくはてくてく歩くが、途中左手に、
「平賀源内電気実験の地」という石柱が見える。
やがて首都高速道路の下をくぐり、永代橋たもとに出るが、
道路の向こう側に行きたくて横断歩道がないかと、
眺め渡すも見当たらず、悩んでいると、
橋の下から人が上がってきた。

(清洲橋通りを右折)

(清洲橋たもとを左折)

(平賀源内実験跡の碑)


橋の上で横断することばかり考えていたが、
橋の下をくぐることを考えれば良かったのだ。
隅田川の両側にテラスが設けてあって、散歩できるというか、
以前はホームレスがブルーシートで住まいを作っていた所を、
歩いて橋の下を歩けばよいことが解かった。
(永代橋)

(永代橋の案内)

(隅田川沿いのテラスで永代橋の下をくぐる)


難なく橋の下を横断して、向こう側に出る。
永代橋の中ほどの左側に、背の高いビルが林立している。
果たして何処だろうと家に帰って調べたら、
昔、佃煮を作って有名な佃島であることが解かった。
(林立したビルがある佃島)

永代橋を渡って、直進するまもなく霊岸橋があるはずだ。
今歩いて居る左側が、おそらく霊岸島であろう。
この当りの地理を、自慢ではないがボクは全く疎い。
永代橋の中ほどからとった写真を見ると、
川は左右に流れて、中央にビルが建つ島があるように見える。
これだけ見ていると、ニューヨークのビル群に引けをとらない。

なお直進すると新川一丁目の信号を過ぎて、さらに進むと霊岸橋に出る。

(ニューヨークと引けをとらないビル群)

(新川一丁目の信号)

(霊岸橋)
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吉良邸跡から江島杉山神社(忠臣蔵を歩く 2)

2013年12月15日 09時29分16秒 | ひとり歩き旅
(本所松坂町跡の碑)
(本所松坂町の吉良邸跡)

(本所松坂町の吉良邸跡から江島杉山神社)
両国には、「本所松坂町跡」の碑(両国3-19-3京葉道路沿い)がある。
この碑の南側に当る所に「本所松坂町公園」と名づけられて、
吉良上野介の屋敷跡がある。
両国小学校と回向院の間である。
毎年12月14日に行われる義士祭には、ここ吉良邸跡から泉岳寺まで、
赤穂浪士47士が歩いた道のりを歩くイベントがある。
その同じ道のりを歩いてみた。

両国小学校の西側の道路を南へ入ると、
「吉良邸跡右矢印」の案内があるので右へ進む。
目指す吉良邸は、高家の格式を表す白い海鼠塀(なまこべい)で囲まれ、
黒塗りの門を残していいて、
とても解かり易いし、中にも入れる。

(吉良邸跡は右方向の案内看板)
(吉良邸跡入り口)

(吉良邸の中に入ると、元吉良邸にあった、
吉良上野介の「首洗い井戸」や稲荷社があり、
当時を忍ばせている。

壁面には、大石蔵之助以下36名の署名が残されているなど、
赤穂浪士関係の記録が展示されている。
本来の吉良邸は広大で、表門は両国小学校の西側にあり、
東・西・南の三方には長屋があり、
北側には土屋主税、本多孫太郎の屋敷と地続きとなっており、
討ち入りの際はこの両家から高張り提灯が出されたようです。)(墨田区)

(吉良邸内の首洗い井戸)
(大石蔵之助以下36名の署名)
(当時の吉良邸絵図面、北側に土屋主税・本多孫太郎家があった)

吉良邸跡の南面の道路を出て右へ向うのが本来の道筋。
吉良邸と道路の反対側に、飯澄稲荷が赤い鳥居を見せている。
このお稲荷さんと吉良邸前を起点に泉岳寺へ向う。

道路を西に向かうと突き当たり、
左手に吉良邸裏門跡の説明板が立っている。

(飯澄稲荷)
(道路突き当たり)
(吉良邸裏門の看板)

突き当りを左折し、一ブロック進むとお食事どころ「みきや」の看板があり、
ここに「江東義塾跡」の説明板がある。

余談になるが、「江東義塾」の内容を紹介すると、
(文豪 夏目漱石が明治19年(1886)から約一年間教師をしていた
私立学校江東義塾はこの辺りにありました。
当時漱石は、大学予備門(一高)で学んでいましたが、
ここで教師をするようになってから、
さらに学業に励み、殆んどの教科で主席でした。
漱石は「夏目漱石全集」(筑摩書房)の談話の中で、
「その私学は有志が協同で設けたもので・・・・
月に使えるお金は五円で、少額ではあるが、
不足無くやって行けた。
時間も午後二時間だけで、
予備モンから帰ってきて教えることになっていた。
だから夜は落ち着いて自由に自分の勉強をすることが出来た。」
といったことが書かれている。)(墨田区)とある。

(*)ここで言う予備門とは、東京大学の教授は当初外国人であったため、
授業がわかるようになる外国語の予備勉強をしたので予備門という。
予備門は4年、東京大学も四年であった。

(「みきや」の看板と「江東義塾」の案内)

話を元に戻し、
すぐ目の前にある信号を右折すると隅田川にぶつかる。
さらに、ここを左折すると一の橋で、
橋を渡った、その先左手に「江島杉山神社」がある。

(目の前の信号を右折)
(一の橋)

江島杉山神社について説明を要約すると、
(江島杉山神社は、鍼灸師の盲人 杉山和一が五代将軍綱吉の治療の功で、
褒美を訊ねられ、和一は目を所望しました。
綱吉は一つ目(本所一の橋際の土地)と関東総禄検校職を与えられた、
と伝えられている。
町四方の土地に総禄屋敷と神社が立てられ、鍼治講習所もあり、
神社の名は、土地の拝領者と江ノ島弁財天を意味している。)
(墨田区教育委員会)とあります。

また鍼灸師 杉山和一について、
(杉山和一は、現在の三重県津市の出身で幼い頃に失明したが、
江戸に出て鍼術を学び、江ノ島の弁天の岩屋にこもって、
鍼術の一つである管鍼術を授かりました。
その後京都でも鍼術を学び、再び江戸に戻って、
鍼の名人として活躍しました。)(墨田区)という。

江島杉山神社は「江ノ島」と読んだほうが良さそう。
赤穂浪人四十七士の一団はこの神社の前の通りを歩いていった。
(tつづく)
(江島杉山神社)
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両国の回向院(忠臣蔵を歩く )

2013年12月11日 09時28分12秒 | ひとり歩き旅
(両国駅)


(回向院)
両国とは、何処とどこの国を指すのだろうかと先ず疑問に思う。
墨田観光協会の受付のお姉さんに聞くと、
武蔵の国と下総の国の両国と言う。
両国橋はこの両国をまたぐ橋だから両国橋ということも聴いて知った。

武蔵の国は、今の神奈川、東京、埼玉にまたがった地域、
下総の国は、東京、埼玉、千葉にまたがっており、
江戸川(利根川)より西、隅田川流域までの地域を言うそうである。

(両国橋)

(両国にある下総の名残の食堂)


両国と聞くと、思い浮かべるのが、回向院、本所松坂町の吉良邸がある忠臣蔵、
もっと近くなって、池波正太郎の小説の世界、両国の国技館と大相撲、
両国の花火と、江戸東京博物館、数えだしたらもっとあるに違いない。

(回向院の門)

(江戸東京博物館)

(両国国技館の呼び出し太鼓の櫓)


まず回向院、普通、寺院には山門がつき物であるが、
東京の都市の中にあって、近代的な門がある。
門前に、「諸宗山 回向院」参道の石碑がある。
あらゆる宗派だけでなく人、動物すべての生あるものを供養するという理念から、
諸宗山無縁寺回向院と言ったらしい。


ここで最初に思い出すのは、大相撲である。
日本の国技である大相撲は、
江戸時代には社会事業の資金集めの勧進相撲興行の形をとっていた。
両国の国技館が出来るまで長い間回向院相撲が行われていた。

この回向院の門をくぐると、左側に大相撲の名残りの「力塚」がある。
これは、相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊の為に建立したものらしいが、
その後は新弟子たちが力を授かるよう祈願する碑として、
現在も相撲と回向院とのつながりを示す象徴になっている。

(回向院門前の石碑)

(力塚)

(名力士双葉山の名がある石垣)


奥へ入っていくと、道は左に折れ、
その先の右手にねずみ小僧次郎吉の墓があります。
時代劇で義賊として活躍するねずみ小僧は、
大名屋敷から千両箱を盗み、闇夜に町人の長屋に、
お金をそっと置いて立ち去ったといわれ、その信仰は昔より盛んで、
今でも、特に合格祈願の受験生たちが後を立たないらしい。
ねずみ小僧次郎吉のお墓の前に、義士墓がある。
これは、回向院の裏門を出て、左へ行ったところが本所松坂町跡で、
ここに吉良上野介のお屋敷があり、ここへ赤穂浪士47人が、
大石蔵之助を頭にして討ち入りを果たし、
回向院で休息することにしていたのが、
寺院側では山門を開けませんでした。
その後の沙汰で全員切腹したのを悼んで立てられたものと思われる。
忠臣蔵赤穂の四十七士の本来のお墓は東京都港区の泉岳寺にある。

(ねずみ小僧次郎吉の墓)

(ねずみ小僧次郎吉の墓2)

(義士墓)

(本所松坂町の吉良邸跡)


そこで、ボクのいつもの好奇心が湧いてきて、忠臣たちが歩いた道のりを
本所松坂町跡から泉岳寺まで歩いてみたいと思った。
(つづく)

(泉岳寺中門)
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