楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

秋のにおい!!

2023年08月30日 05時16分36秒 | つれづれなるままに考えること
秋の匂いがしてきたと感じるのは、
ボクだけでしょうか。

清楚な百合の花が咲いたり、
コスモスの花が見えたり、
姫リンゴの実が落ちたり、
ご近所の女郎花(おみなえし)の花が咲いている。


(清楚な鉄砲ユリ)


(コスモス)

(変わり品種のコスモス)

(姫リンゴ)



(女郎花)

でも、予報によると、
まだまだ高気温は続くといっている。

コメや野菜は不作だというし、
海の魚も漁獲量の変化、
魚の種類も変わってきていると、
ニュースは伝えている。

第一、避暑には気温の低い北海道で
お盆休みの旅行先になるのに、
今年は避暑どころか、
サッポロも30度を超える暑さ。

秋田 山形 新潟の日本海側は、
冬場は豪雪地帯で寒く、夏は湿度は高いが、
気温が東京より高いことは無かった。
それが今年は逆転している・・・

そんなことを言っている内に、
蝉のツクツクボウシ、
ヒグラシまで鳴いて、

秋がきている?

今年の冬は、夏の暑さの反動で、
飛びっきり寒くなるのだろうか・・・

心配しても、なるようにしかならない。
異常気象ももとはといえば、
人類がまき散らした結果だろうから・・・


心配の種は尽きない。



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反戦の願い(「憧れのハワイ航路」)

2023年08月26日 04時36分48秒 | つれづれなるままに考えること

副題:「どんなことがあっても、戦争は絶対避けなければなりません!」

2005.Jun.17.AM4:00のラジオ放送で、
終戦直前に中学生で戦争に参加し、
沖縄で米軍の捕虜になった、
くによし しんいちさんの講演を聴いて、たいそう感動した。

題して「憧れのハワイ航路」

15歳で日本の軍人になり、周りにいた少年兵はすべて戦死し、
自分だけ米軍の捕虜になった。

その時、裸にされた体の傷口にはウジがいて、
米軍が白い粉をかけると、
ウジがぽろぽろ死んで体から落ちていった、という。

当時 捕虜になるということは、
これ以上の屈辱はないと、されていた。
生きて恥を晒すより、死を選んだ時代。

裸のまま貨物船の船倉に入れられた時、
日本人の捕虜は80人ほどいたという。
幼かったので、まだ陰毛も生えていなかった。
そこで、米兵から本当に軍人かと尋ねられたという。
船倉に入って、船が動き出して二日目、食料が与えられた。
高さ14,5mも上から箱が降ろされて来た。
箱の中には銀飯とハムが入っていた。

上層のほうで米兵の何人かが見ている。
捕虜になった日本人は殆どが飢えていたので目を見張った。

すると屈強の男たち5,6人が手づかみで、
全員のものであるはずの食料を全部食べてしまった。
屈強の男たちは、やくざのようであったという。
翌日も同じように食料が与えられ、
例によって屈強の男たちが独占しようとした。

すると、いずれも裸の中から一人の男が立って、

「それでも君たちは日本人か、
捕虜になると日本人としての誇りもなくなるのか」

と威厳のある言葉遣いで言った。

裸であるから判らないが、将校であったに違いない。
男たちは恥じて何も反論できなかった。

将校と思われるその人は、人に命じて、食料を握り飯にし、
ハムをつけてみんなに配らせた。

腕をなくした人、病に侵されている人たちや、
子供である私に最初に分け与えた。
そして自分は余ったものを口にしたという。

生きておられれば、もう90歳になられるであろうが、
この方にもう一度お会いして、お礼を言いたいと、
くによしさんは語る。

船は動いていくが、明日はどうなるか誰も知らない。
生きて恥をかくよりはと、腕や足をなくした人、
病の重い人が船から身を投げて自殺していった。
ハワイに行くことが先に判っていれば、
こんな自殺もなかったであろう、
と回想される。

行き先で処刑が待っていると、誰もが思っていたらしい。
ハワイに着くと、港に沈没しかかった軍艦が何艘もある。
パール・ハーバーだ。
戦争の残骸を片付けないで置いておくのは、
この悲惨な光景を忘れないためである、
と米兵は語ったと言う。

過酷な訓練を受けた日本軍人にとっては、
その後の生活は、極楽のようなものだった。
毎日、ワイキキの町の掃除に明け暮れた。
バスケット・ボールも出来れば、野球も出来た。


しばらくすると、日本が戦争に負けたというニュースが入ってきた。
日本人の捕虜達は半信半疑であった。

やがて、米兵が戦地から続々帰ってくる。
故郷へ帰る前にハワイで数日休暇を貰って、
羽根を広げて帰るのだ。
米兵の慰安でフラダンスショーがあって、
その後片付けをすることで、
呑み残しのコカコーラを知り、
食べ残しで、サンドウイッチを知った。

その後、病人やけが人を第一陣として、
第二、第三と日本へ送還されていった。
少年兵であった くによしさんは、
一番元気だったので、最後に送還された。

故郷に帰ってみると、他の人は出迎えがあるのに、
自分には誰も出迎えがない。
親戚家族は戦争で死んでしまったのだろうかと、
思ったそうです。
しかし、地図上では、家族のいた地域は空襲にも遭っていない。
人に聞くと親戚兄弟を見たという。
帰ってみると確かに家はあり、兄弟父親はいたが、
一番遭いたかった母親は死んでいた。
昭和22年のことです。

近所のお母さんから、
同期の何某はハワイにいたか?
と訊かれた。
その人は自分が捕虜になったとき、
自分の隣で死んでいったのを知っていたが、
先発でハワイから帰った人たちに、
ハワイで見かけた、ときかされていたので、
生きていることを信じている。

くによしさんは、さすがに戦死しましたとは言えず、
返事をしなかった。
家に帰って父に話すと、
真実を告げたほうが良いということになって、
母親でなく、父親に告げることにした。

しばらくして、母親から、
死んだ場所へ連れて行って欲しいと言われ、
4~5mもある地底の防空壕に下りていって、
ここだと場所を教えた。
回りは戦死した白骨が沢山あって、
どれが本人のものか見分けが付かない。

すると、母親が頭骸骨を一つ一つ持ち上げて、
歯形を調べだした。
母親は我が子の、歯形を何時までも覚えているのですね。
これが息子の頭蓋骨と判別して、
抱いて泣き崩れ立ち上がらず、
自分もここで死ぬと言い出した。

自分の子供を失うという悲しみは、
味わった人でないとわからないといいます。
何とかなだめて地上に出しました。

(話は違いますが、ボクの友人も息子をなくしています。
性格というか生活態度が以前と、
まるで変わってしまいました。
厭世観が漂って、
なんともいえぬ嫌な奴になり下がってしまいました。)

話を戻します。

そんな経験をして三年後の、昭和25年、
岡晴夫さんの「あこがれのハワイ航路」がヒットしましたが、
くによしさんにとっては、非常に複雑な気持ちで、
この歌を聴きましたという。

憧れのハワイ航路 唄 岡 晴夫

最後に、くによしさんは、

「どんなことがあっても、戦争は避けなければいけません!」

そう締めくくって、講演を終わりました。

皆さん! 沢山の、いろいろな感想をお持ちと思います!



そして終戦を9歳で迎えたボクは、
たった6歳違いでこんな経験をされた
くによしさんに今後も、お元気で、
何時までも、反戦の思いを、
後世に伝えて欲しいと思います。


毎年 8/15、敗戦記念日を迎えます。

長崎の原爆被災者で医師であった永井隆博士が言ったように、

 (たとい最後の一人となっても、

どんなののしりや暴力を受けても、

きっぱりと「戦争絶対反対」を叫び続け、叫び通したいし、

「戦争絶対反対」と叫び続け、叫び通して欲しい!

たとい卑怯者とさげすまされ、

 裏切者とたたかれても

「戦争絶対反対」の叫びを守って欲しい。)


長々とご覧いただき有難うございました。

どんなことがあっても、
戦争絶対反対を叫び続けて頂きますよう!!



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渇しても盗泉の水は飲まず(かっしてもとうせんのみずをのまず)

2023年08月24日 05時19分58秒 | つれづれなるままに考えること
どんなに口が乾いても、盗んでまで水は飲まない。
「中国の孔子が喉がカラカラになって、
ちょうど清らかな湖を通りかかったが、
湖の名前が「盗泉」というので、
その名前のゆえに決して飲まなかった。」と言う。
名前が「盗泉」だっただけです。

言い換えれば、
どんなに貧乏しても、盗んでまでお金を欲しいとは思わない。
ということです。

なのに、最近のニュースでは、
四万円のために、コンビニへ押し込んでみたり、

ちょっと高額なバイトというだけで、
スマホで応募して、スマホで指図を受け、
強盗に入り平気で人を殺す。

どう言う教育を、どう言う躾を、
受けてきたのでしょうね。
今日の昼飯も無く、今夜も食べる宛てがない、
そんな人達がやったのでしょうか?

ボクは学校で先生に説明を求められて、
例えば1+1=3です、と答えたとすると、
「あなたが馬鹿だと、親が馬鹿だということですよ。」
そういって叱られた。

子供は親が卑しめられると、奮起するのでしょうか?

子を見れば親がわかる、とはよく言いますが、
親の行動が知らぬ間に、子に乗り移っているのです。
子を持つ親は自分の行動に、言動に、
注意しなければならない。




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ー♪左の頬っぺにゃチューインガム♪ー

2023年08月22日 05時10分43秒 | つれづれなるままに考えること
前回、進駐軍がやってきた話をした。
そのころ表題の美空ひばりが歌う「東京キッド」が流行した。

東京キッド 昭和25年 (唄 美空ひばり)  

日本人は相変わらず食糧難にあえぐ。

駐留軍の兵士たちの駐留生活も大変で、
今のようにテレビはないし、当然ゲームもなかった。
出歩き自由な牢獄に閉じ込められたようなもの。
外に出たところで、日本語が話せる訳でなし、
現在のように物資が豊富な時でもない。

民家にあるのは昔着た高価な振袖衣装などの古着くらいなもの。
食料に困っている人達は食べられない衣装を持っているより、
衣装を食料に変えることの方が先決と、
アメリカの兵隊さんに見せては、
食料と交換していた。

兵隊さんたちは、
毎日の洗濯物の処理に困っていたようだ。
兵士たちは洗濯物を街に持ち出して、
洗濯をしてくれる日本人家庭を探して、
わずかな食料と交換に洗濯をしてもらっていた。

我が家にも、アメリカ兵がやってきて、
ドサッと洗濯物を担いで持ってきて、
日本語がわからないから英語と
手まねで洗濯してくれという。

今から思うと「washing」と何度も言っていたように思う。

ある時、その兵隊さんが来週、
アメリカに帰国することになったという。

それまでに洗濯物を済ませてほしいという。
引き受けた後、父母が相談して、
ささやかなお別れ会をしようという。

母がどこから、どうやって手に入れたのか、
マグロの刺身を数切れ、
日本酒、徳利に盃。
それにボクから見れば三つ年上の姉に、
振袖の着物を着せて、
日本舞踊を披露することになった。

小6の姉には習い始めの日本舞踊であったように思う。
唄は父が歌い、それに合わせて姉が踊った。
アメリカへ帰国する予定の軍人さんは、
箸を使ってぎこちなく刺身を食べ、
盃でお酒を飲んでいたが、
踊りが終わるや「ブラボー」を連発していた。

新舞踊『野崎参り』  

父がお別れに富士山の絵のある扇子を出して、
「ここにお名前をサインして欲しい」と促すと、
サインしたが、後で見ると「Howard 」と書かれてあった。
アメリカでは小学校の先生をされていると、
聞いていた。

穏やかな人であった。







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ー♪右の頬っぺにゃ夢があり♪ー 

2023年08月19日 04時36分48秒 | つれづれなるままに考えること
♪ 右の頬っぺにゃ夢があり、
   左の頬っぺにゃチューインガム♪

ボクと同年代位の少女、美空ひばり、が歌った。
「東京キッド」昭和25年頃・・・。


話が変わる。
昭和22年ころの我が家の北側は一面の田んぼであった。
その田んぼの一部を住宅地にして、進駐軍の宿舎にした。
田んぼの上に家を建てることが出来ない。

先ず、田んぼから宅地に造成しなければならず、
田んぼの一角を深々と穴を掘り、
出てきた土で宿舎となる田んぼを埋めていく。

大きくて深い穴が出来、
そこへ雨水がたまり、田んぼに引いた水が流れ込んで池に、

大きな貯水池が出来上がった。

その池を貯木場として使う人出てきた。
何本もの丸太が池に浮かび、
誰が放流したのかわからないが、
鮒や川海老、メダカ、カエルなどが生息するようになり、
当然のことにアメリカザリガニが繁殖した。

宿舎は十五棟ほどできたと思われる。
道路から入る入り口には検問所こそあったが、

一般道と宿舎の間には生け垣が作られているだけで、
中は丸見え、当然中からも外は丸見え、
中へ入ったり、中から外へ出るには、
生け垣を超えて、
外へ出てくるアメリカ兵が多かった。

中を覗くと、二階建ての宿舎15棟には、
300人ほどの兵士がいたと思われる。
宿舎と宿舎の間にトイレがあった。
太い竹が斜めに地面に差し込んであり、
そこに雨の日も用を足していた、
露天である。

将校はやや広い部屋に住んでいたように思われる。
一部に将校クラブが出来ていて、
バーがあり、ダンスホールがあった。
日本人女性も何人か雇われていたように思う。

こんなクラブで楽団や歌手が招かれたようだ。
こんな時に出てきた歌手はたくさんいたに違いない。

ボクが成人してから、
有名になった歌手もたくさんいたと思うが、
フランク永井、美空ひばりもその中の一人と思われる。

ボクたち庶民は、まだまだ、まともな食事にありつかず、
サツマイモが主食の時代であった。

進駐軍の軍人さんを見れば、
「ギブ ミー チューインガム、チョコレート!」と叫んでいた。

それでも、庶民は「ギブ ミー」なんて,
物乞いを言わないで済む、将来への夢を持ちながら、
彼らに追いつき追い越せと、
毎日の生活、勉強に励んだのです。

こんな時期に、

♪右の頬っぺにゃ夢があり、
 左の頬っぺにゃチューインガム♪

の歌詞が生まれたように思う。

東京キッド 昭和25年 (唄 美空ひばり)

この「東京キッド」の三番の歌詞の中に出てくる
(ジタバーグ)は、(ジルバ)の事だそうです。

ネットによれば次のように説明されている。
「発祥地がアメリカの(ダンスの)「ジルバ」は、
英語の jitterbug、(ジタバーグ)を言う。」

そんな環境で、ボクは小5~6年を過ごした。




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