楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生  ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」 山本有三

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     ・おくのほそ道を歩く

千住の森鴎外とほんちょう商店街(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 16)

2013年07月15日 17時35分34秒 | ひとり歩き旅
ほんちょう通り商店街のアーケードとトポスのスーパー)

(足立都税事務所)

(森鴎外旧居橘井堂跡(もりおうがいきゅうきょきっせいどうあと)


(千住宿2)
千住宿に入ってスーパー(トポス)の先を右折すると、
右側に足立都税事務所があり、事務所の回りに植え込みがあるが、
その植え込みに「森鴎外旧居橘井堂跡(もりおうがいきゅうきょきっせいどうあと)」の碑がある。
同じならびに、「千住の鴎外碑」が建っている。

この碑には鴎外作短編「カズイスチカ」(オランダ語で診療記録を言う)
の一節を刻んでいる。
(翁は病人を見ている間は、全幅の精神を以って病人を見ている。(中略)
花房はそれを見て、父の平生(へいぜい)を考えて見ると、
自分が遠い向うに或物を望んで、
目前の事を好い加減に済ませて行くのに反して、父はつまらない日常の事にも全幅の精神を傾注しているということに気が附いた。宿場の医者たるに安んじている父の レジニアション(resignation=諦観)の態度が、
有道者の面目に近いということが、朧気(おぼろげ)ながら見えて来た。
そしてその時から遽(にわか)に父を尊敬する念を生じた。)とある。
(千住の鴎外碑)

そのほかに、足立区教育委員会による
の説明板があるので、少し長いが近代文学の父について、
書かれており記憶に残しておきたいと思い、紹介しておきたい。

(森鴎外旧居 橘井堂森医院跡
森鴎外の父静男は、元津和野藩亀井家の典医であったが、
、明治維新後上京し明治十一年(1878)南足立郡設置と共に、
東京府から郡医を委嘱されて千住に住んだ。
明治4年郡医を辞し、橘井堂医院をこの地に開業した。
鴎外は19歳で東京大学医学部を卒業後、
陸軍軍医副に任官し、千住の家から人力車で陸軍病院に通った。
こうして明治17年ドイツ留学までの四年間を千住で過ごした。
その後父静男は、明治25年本郷団子坂に居を移した。

千住で始まった文筆活動(明治14年)
千住に居住している頃、明治14年9月17日付「読売新聞」に、
「千住 森 林太郎」の本名で投稿欄に一文を寄せ、
当時の一流文筆人を堂々と批判する文章を発表するなど、
文筆活動を始めていた。
明治23年には「舞姫」を「森鴎外」の名前で発表した。
また、千住仲町に隠棲していた元幕府医学館教授 
佐藤應渠(おうきょ)のもとに通い漢詩の手ほどきを受けていた。
漢詩作品も数多く、発表された作品の中には
「訪應渠先生千住居」「呈應渠先生」「訪應渠先生居偶作」などがある。
これら漢詩は、佐藤應渠をたたえると共に、應渠が医療活動をしていたことや、
詩作に精通していたことを伝える内容ともなっている。
これらの作品は明治24年頃に精力的に発表されているが、
この年、鴎外は29歳、医学博士となっている。

千住から医師開業免許状申請書を出す
明治24年10月23日付で、南足立郡千住1丁目19番地から、
医師開業免許状を申請した。

「千住の鴎外碑」の碑文
(鴎外は、明治42年、47歳の時に文学博士となった。
「カズイスチカ」は、鴎外が自省を込めて書いた作品という。
かって千住宿の町医者であった父静男が、
毀誉褒貶(きよほうへん)に無頓着で、
貧富の差無く真摯に患者に接していた姿を思い起こし、
改めてその生き方に感銘し敬愛の念を深めていった
自分自身のことを題材にした作品である。)(足立区教育委員会)とある。

さて、旧日光街道に戻って、少し進むと左に折れる道があり、
のぞくと、突き当たりに赤い門が見える。
(奥に見える赤門寺)

山門に「三宮神山」とあり、
左手には「浄土宗 勝専寺」と書かれた石碑がある。
足立区教育委員会の説明板によれば、
(三宮神山大鷲院勝専寺は、「赤門寺」と通称で親しまれた浄土宗寺院で、
京都知恩院を本山とする。
寺伝では文応元年(1260)勝蓮社 専阿上人を開山、
新井政勝を開基とし草創されたという。
江戸時代に日光道中が整備されると、ここに徳川家の御殿が造営され、
徳川秀忠・家光・家綱らの利用があった。
また日光門主等の本陣御用を務めた記録も見られ、
千住宿の拠点の一つであったことが知られる。
加えて当寺は、千住の歴史や文化に深くかかわる
多くの登録文化財を今に伝えている。
木造千手観音立像は千住の地名起源の一つとされ、
開基新井政勝の父正次が、荒川から引き上げたという伝承を持つ。
――後略)とある。

(三宮神山の扁額がある勝専寺)

(その本堂、千住の地名由来の千手観音立像がある)


この説明の中に、木造閻魔大王があることや、
山門の扁額の「三宮神山」の文字は、
巻菱潭(かんりょうたん=明治の著名書家)の揮毫であり、
足立区の文化財であることも記されている。

旧日光街道を進むと、左手に100円ショップがあるが、
その店先に「千住宿本陣跡」の碑があり、
碑のある左手に狭い道路に本陣と「見番横丁」の説明板がある。
見番とは、芸者が所属し、客席への取次ぎや精算を行う場所で、
芸者などを手配する場所があった横丁であったようです。

どの街道にも日本橋から第一の宿場には、遊女も芸者も沢山いたようで、
江戸を離れる旅人は、第一の宿場に親せき縁者が集まって、
旅の安全を祈って送り出したからで、
送別会を行う場所が第一の宿場だったからです。
(「千住宿本陣跡」の碑)

(見番横丁の説明板)


その先の右側に「北千住宿場町通り 千住 街の駅」がある。
ここは千住の観光センターのような所。
千住の歴史など教えてくださるから一度お立ち寄りください。
千住宿の案内地図などが常備されている。
ここで本陣跡が解からずお訪ねしました。
本陣跡の碑は100円ショップの前で、
ショップを訪ねる自転車がずらりと並んで、
その蔭にかくれていました。
(街の駅 千住宿)

その先同じく右側に、千住ほんちょう公園があり、
この公園の入り口に、高札場があった場所のようです。
この高札場は次の宿場 草加宿側の高札場になります。
ここでは子供たちが大声で遊びに興じていました。
(高札場跡のほんちょう公園)

この先、左手に千住絵馬屋 吉田屋があります。
この絵馬屋 吉田屋は江戸時代より絵馬を作り続けて、
八代目として現在に至っております。
手書きで書く絵馬屋は、現代では殆んど見かけなくなり、
貴重な存在になっています。
その向かい側に千住宿の名残として「横山家住宅」が、
古い建造物として一種独特の風格を残しています。
明治になる前に、敗退する彰義隊が切りつけた玄関の柱の傷あとや、
戦時中、焼夷弾が屋根を貫けた風雪の百数十年を物語る旧家です。
(絵馬の吉田屋)

(絵馬の吉田屋2)

(絵馬の吉田屋3)

(横山家住宅)


千住宿はこの先で終り、次の信号の右角に、
道標があり、「東へ 旧水戸佐倉道」「北へ 旧日光道中」と刻まれています。
さらに直進すると荒川の土手になりますが、
手前の左側に道標があり、
「西へ 日光道中」「北へ 旧下妻道」とあり、
ここを左折すると荒川の土手にぶつかる。
その上を千住新橋で荒川を渡る。
(信号、右角に旧水戸佐倉道の道標)

(東へ 旧水戸佐倉道の道標)

(日光道中は直進する)

(手前左奥に安養院が見える)

(安養院山門)

江戸時代には、ここに川は無く、勿論橋も無かったので、
道路を直進して日光街道に進んだ。

川が曲がりくねって氾濫が多い荒川を直線に直し、
洪水を避ける治水工事をしたのが、明治になってからで、
これを荒川放水路と呼んでいたが、
いつの間にか、北区の岩淵水門から下流の旧荒川を隅田川と呼び、
荒川放水路を荒川と呼ぶようになった。

旧日光街道は荒川をまたぐ千住新橋を進む。

(旧日光道中はここで左折、千住新橋へ)

(「西へ旧日光道中、北へ旧下妻道」の道標)
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天望デッキ(350m)、天望回廊(450m)からの眺め

2013年07月10日 09時01分46秒 | ひとり歩き旅
(桜橋から見た東京スカイツリー)


高所恐怖症のため、へっぴり腰で撮った天望回廊から撮った桜橋。



中央の白い建物の左手の縦にのびる緑地帯が山谷掘り公園である。


(地上の山谷掘り公園、お堀はコンクリートで埋めて暗渠になっている)


(若洲臨海公園沖の東京ゲートブリッジが見える東京湾)


(その手前の街並み)

(さらに手前のビル群と隅田川)


(千住方面を見る。右に横たわる荒川、手前に流れる隅田川)


以上で東京スカイツリー見聞録を終わります。
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高所恐怖症、450m天望回廊へ

2013年07月09日 00時05分36秒 | ひとり歩き旅
(天望回廊は下から二番目の展望台)


(下の天望デッキから100m上の回廊までエレベーターに乗る)


450mの天望回廊に行くには、

先ず350mの天望デッキに行かなければならない。

そこからさらに100m上まで、正確には95mエレべ-ターで昇り、

残り5mは自分の足で歩く。

しかし高所恐怖症と閉所恐怖症についてはすっかり忘れていたボクは、

エレベーターの狭い場所に閉じ込められる恐怖、

高い床の上に立つ恐怖をイヤと言うほど味わった今日である。



閉所恐怖症について、

話せば長くなるが、子供の時太平洋戦争で、

空襲警報のサイレンが鳴り、警戒警報が鳴ると、

防空壕に入らなければならない。

防空壕は、庭の地面に家族が入れるほどの穴が掘ってあって、

天井に板か何か知らないが、敷いてその上に土をかぶせた簡単なものだ。

雨が降った翌日などは防空壕の中は水浸しになる。

警戒警報で家族がみんなで、バシャバシャっと水が溜まった防空壕に、

身をかがめて入る。

暗くて狭い中に肩寄せあって逃れたものだ。

爆弾が落ちてきたら一たまりもなく、崩れて生き埋めになってしまう。

生きている間にお墓に入っていると思えば間違いが無い。

近所に落ちた焼夷弾で、友達一家が亡くなった。

少し西に落ちてきたら、ボク達一家は同じ運命に遭ったはずだ。

こんなことで狭い中に閉じ込められることに恐怖を覚える。

レストランで角のテーブルに着くとき、隅に座ることが出来ない。

何時でも直ぐに逃げられる出口に一番近い席に座ることにしている。

三人掛けの長椅子に真ん中には座れない。

直ぐ逃げ出せないからだ。

だから天望デッキまでのエレベーターの中は、

手に汗握る思いであったが、幸いにして僅か20~30秒の短い時間で助かった。

それでも、勿論エレベーターには一番最後に乗り、

降りるときは一番最初に降りることが出来る位置、

つまり「い」の一番に逃げ出せる場所に乗っていたことは言うまでも無い。


高所恐怖症について、
(天望回廊は床がガラス張りになっている所あり)


学生時代、友人に進められて清掃のアルバイトについた。

公会堂の窓ガラス拭きの仕事。

公会堂の天井は非常に高く造ってある。

音響効果を挙げるためなのかどうかボクは知らない。

しかし高い。

その三階の窓ガラス拭きのしごとである。

三階は普通のビルで言えば、六階程度の高さがある。

通りを歩いて人を見ると、10cmほどにしか見えない高さである。

このときはまだ高所恐怖症ではなかった。

窓拭きに取り掛かる。

窓拭きの仕事は内側だけ拭けば良いというものではない。

外側も拭かねば清掃の意味がない。

ところがガラス窓は高い所にもついている。

窓ガラス自体は、敷居から高さ2mに及ぶ。

敷居の上に立っても、背伸びしたくらいでは、

とても上部の窓ガラス拭きは出来ない。

窓を開け、窓の敷居の上に丸椅子を載せて、

その上に乗って、左手で身体を支え、右手で外側を清掃することになった。

丸椅子は平らな所に乗せれば安定しているが、

椅子をのせる場所が、外側に傾斜していて、

少しでもバランスを崩せば、落下すること間違いない、そんな場所だ。

現代のように、ゴンドラに乗って窓ガラスを拭くのなら、

怖くもなんでも無い。

半世紀も昔、そんな便利なものは無かった。

このアルバイトをしている最中に、

下を通りかかった知り合いに呼びかけられた。

恐る恐る下に目をやった途端にバランスを崩し、

乗っていた丸椅子は下に落下、自分はやっと左手で身体を支えた。

左手で身体を支えられなければ、自分も落下していた。

よく火事場の馬鹿力と言うが、このことをいうのだと後で知った。

以来、高所恐怖症である。

445mの高さでエレベーターを降りると、

窓際で外を見ようと人垣で埋っていたが、

人と人の間からカメラを構え、外の景色を写した。

(東京のビル群、向こう側は東京湾)
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東京スカイツリーの350mの天望デッキ見学

2013年07月07日 01時01分05秒 | ひとり歩き旅
(言問橋から見た東京スカイツリー)



東京スカイツリーは、全長634mの鉄塔で、

天望デッキは350mのところにある。

(デッキは、正確には340m~345m~350mと三階建てである)

天望デッキに行くまでの入場券というか、エレベーター代金が2000円。

これは良いとしても、その切符を買うのに30分費やした。

ずいぶん暇な人が沢山いるものだと感心していたが、

考えてみればボクもそのうちの一人。

入場券の購入、つまりチケット売り場は4階にある。

切符さえ買えば、エレベーターには直ぐ乗ることが出来る。

(日本橋の馬喰横山駅付近から見た東京スカイツリー)


(天望デッキまでの入場券=エレベーター切符)

(340mのデッキの案内)


エレベーターに乗って、はたと気がついた。

ボクは強度の高所恐怖症+閉所恐怖症だからだ。

エレベーターは、何の抵抗も無く350mを20~30秒ほどで、昇っていく。

エレベーターの中で、抱っこされていた二三歳の坊やが、

初めは、大きな目をして上を見ていたが、

やがて可愛い指で耳を押さえる仕草をした。

その時ボクも耳が少し痛くなった時であった。

山道を車で登ると耳に感じる、つんとした痛さだ。

生唾を飲み込めば直ぐ治る。

と思っているうちに天望デッキに着いた。

天望デッキの窓側は、外が見えないほどの人の波で塞がれていた。

昨日の強い雨が晴れ上がって、今日は打って変わって紺碧の青空で、

家にいても、遠くが良く見渡せる。

思いついて、今日のような日に、

東京スカイツリーへ行ったら視界が開けて見事だろう。

思い立って、東京スカイツリーに出かけた。

しかし高所恐怖症と閉所恐怖症についてはすっかり忘れていた。

エレベーターの狭い場所に閉じ込められる恐怖、

高い床の上に立つ恐怖である。

(両国の旧安田庭園から見た東京スカイツリー)

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千住宿(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 15)

2013年07月02日 11時14分16秒 | ひとり歩き旅
(千住宿歴史プチテラス入り口と左手の芭蕉句碑)


(千住宿)
京成線のガードをくぐって、すぐ左手に、
千住宿プチテラスとして無料貸し出しギャラリーとして、
江戸時代の蔵を貸し出している。
訪ねた時は門が閉まっていたが、以前訪ねた時は、
ギャラリーが開いており、展示品の数々を見ることができた。
入り口には、やっちゃば跡地であることが解かる案内板があり、

門の左脇に芭蕉句碑があり、

・鮎の子の白魚送る別哉  芭蕉

と刻まれている。江戸を出るとき、送りの人に 
詠んだ句とされる。

道路の反対側には、やっちゃ場の屋号を示す、

元果物専門問屋 カネカ 水重、
元青物問屋   ㊆   伊勢屋
元果物専門問屋 カネ宗 水宗、

など、往時を物語る屋号が掛かっている。
(屋号 水重の名札)

(屋号 伊勢屋)


その先の交叉点に千住中町商店街のアーケードが見える。
今まで歩いてきた通りが千住中町商店街で,
見えるアーケードは、千住中町商店街ここまでをしるすアーケードである。
(千住仲町商店街のアーケード)


信号を渡ると、(HONCHO CENTER)のアーケードがあり、
信号手前の左右に一里塚があったところであるが、
今は右手の植え込みに一里塚跡の碑があり、
左手には高札場があったところで、
これまた高札場跡の碑がひっそりと建っているだけだ。

(Honcho Centerのアーケードと一里塚跡(右下)の碑)

(一里塚跡の碑)

(千住高札場跡の碑)


しかも旧日光街道沿いにあるのではなく、交差する左右の道に建てられている。
この一里塚は日本橋から二番目の一里塚である。
徳川幕府は、五街道を設置した時、一里ごとに塚を築かせ、
塚には榎を植えさせ、旅人に旅程を知らせると共に、
日陰を作って休憩場所とした。

高札場は、宿場の入り口に建てられていて、
お上(徳川幕府)からのお達しや宿場の決まり事などが書かれており、
旅人は笠を取り、必ずこれを読んで通った。
この高札場は千住宿の江戸側に建てられたものであろう。

信号を渡ると、ここから本来の千住宿へ入っていく。
信号を渡って左手に立派な構えの源長寺がある。
その先、同じく左手に、千住宿の問屋場跡、貫目改め所跡があって、
広場になっている。
旅をする大名の荷物は、問屋を通じて宿場から宿場へと受け継がれていくが、
荷物を運ぶ人足や馬に運ばせる重量を、人足、馬ごとに定められており、
料金も、人足一人いくら、馬一匹いくらと決められていた。
大名の参勤交代には、諸藩にとってかなりな経費が係り、
家来はやりくりに手を焼いていた事情があり、
荷駄の定量を無理矢理増やす輩がいたので、
これを食い止めるために、重量を改める場所があった。
それを貫目改め所といった。
(千住宿問屋場跡と貫目改め所後の碑)


千住宿問屋場跡と貫目改め所跡の碑のうしろは、広場になっており、
右手に問屋場の建物、正面に貫目改め所の建物があったようで、
その建物跡が地面に記されている。
広場中央は荷捌き所であったらしい。
(問屋場跡)

(貫目改め所跡)

(荷捌き所跡)


そもそも参勤交代は、
各藩の財政がぎりぎり賄える程度に消費させるよう、
徳川幕府が考えたものであった。
参勤交代でお金を使い果たさせて、余分な金銭を蓄えさせない仕組みであった。
余計なお金が出来ると、藩の戦力増強につながり、
徳川家に謀反を計画する余裕を持ってしまうからである。

この貫目改め所は、街道の分岐になる宿場に設けられていた。
千住宿では、日光街道と水戸街道の別れ道があった。
また宇都宮宿にも貫目改め所があったが、
ここは奥州街道との分岐である。
中山道では、板橋宿に貫目改め所はあり、ここからは川越街道が分岐している。
中山道の洗馬宿にも貫目改め所があったが、
この宿場では「北国往還、善光寺道」に分岐している。
と言うように貫目改め所は設置されていた。

北千住と言う町は、もと千住宿があった所為かどうか解からないが、
大変繁華で人通りも多く、商店も盛んで活気付いている。
旧日光街道千住宿を進むと、
道路をまたいで、(千住ほんちょう商店街)の、
大きなアーケードが目に入る。
その右手にブルーの建物に白地で大きく(TOPOSトポス)と書いた、
スーパーマーケットがある。

(本町商店街のアーケードとトポスのスーパー)


このアーケードとスーパーの角を右折すると足立都税事務所があり、
都税事務所の植え込みに、「森鴎外旧居橘井堂(きっせいどう)跡」の碑がある。
森鴎外の父親が医者をしていた場所で、
鴎外が東京帝国大学卒業後19歳で医師として医療活動をしていた場所である。
19歳は今では大学二年生の年齢である。
この年令で東京大学医学部を卒業し、医師であったと言うから、
余程優秀な人であったと思われる。

ちなみに現在の医師は6年かけて大学医学部卒業後、
国家試験合格から2年研修医(実務経験を積んで)をして一人前の医師になる。
従って、順調に行っても26歳で一人前の医師になれる。

(足立都税事務所)

(森鴎外旧居橘井堂跡の碑)

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