ほんちょう通り商店街のアーケードとトポスのスーパー)
(足立都税事務所)
(森鴎外旧居橘井堂跡(もりおうがいきゅうきょきっせいどうあと)
(千住宿2)
千住宿に入ってスーパー(トポス)の先を右折すると、
右側に足立都税事務所があり、事務所の回りに植え込みがあるが、
その植え込みに「森鴎外旧居橘井堂跡(もりおうがいきゅうきょきっせいどうあと)」の碑がある。
同じならびに、「千住の鴎外碑」が建っている。
この碑には鴎外作短編「カズイスチカ」(オランダ語で診療記録を言う)
の一節を刻んでいる。
(翁は病人を見ている間は、全幅の精神を以って病人を見ている。(中略)
花房はそれを見て、父の平生(へいぜい)を考えて見ると、
自分が遠い向うに或物を望んで、
目前の事を好い加減に済ませて行くのに反して、父はつまらない日常の事にも全幅の精神を傾注しているということに気が附いた。宿場の医者たるに安んじている父の レジニアション(resignation=諦観)の態度が、
有道者の面目に近いということが、朧気(おぼろげ)ながら見えて来た。
そしてその時から遽(にわか)に父を尊敬する念を生じた。)とある。
(千住の鴎外碑)
そのほかに、足立区教育委員会による
の説明板があるので、少し長いが近代文学の父について、
書かれており記憶に残しておきたいと思い、紹介しておきたい。
(森鴎外旧居 橘井堂森医院跡
森鴎外の父静男は、元津和野藩亀井家の典医であったが、
、明治維新後上京し明治十一年(1878)南足立郡設置と共に、
東京府から郡医を委嘱されて千住に住んだ。
明治4年郡医を辞し、橘井堂医院をこの地に開業した。
鴎外は19歳で東京大学医学部を卒業後、
陸軍軍医副に任官し、千住の家から人力車で陸軍病院に通った。
こうして明治17年ドイツ留学までの四年間を千住で過ごした。
その後父静男は、明治25年本郷団子坂に居を移した。
千住で始まった文筆活動(明治14年)
千住に居住している頃、明治14年9月17日付「読売新聞」に、
「千住 森 林太郎」の本名で投稿欄に一文を寄せ、
当時の一流文筆人を堂々と批判する文章を発表するなど、
文筆活動を始めていた。
明治23年には「舞姫」を「森鴎外」の名前で発表した。
また、千住仲町に隠棲していた元幕府医学館教授
佐藤應渠(おうきょ)のもとに通い漢詩の手ほどきを受けていた。
漢詩作品も数多く、発表された作品の中には
「訪應渠先生千住居」「呈應渠先生」「訪應渠先生居偶作」などがある。
これら漢詩は、佐藤應渠をたたえると共に、應渠が医療活動をしていたことや、
詩作に精通していたことを伝える内容ともなっている。
これらの作品は明治24年頃に精力的に発表されているが、
この年、鴎外は29歳、医学博士となっている。
千住から医師開業免許状申請書を出す
明治24年10月23日付で、南足立郡千住1丁目19番地から、
医師開業免許状を申請した。
「千住の鴎外碑」の碑文
(鴎外は、明治42年、47歳の時に文学博士となった。
「カズイスチカ」は、鴎外が自省を込めて書いた作品という。
かって千住宿の町医者であった父静男が、
毀誉褒貶(きよほうへん)に無頓着で、
貧富の差無く真摯に患者に接していた姿を思い起こし、
改めてその生き方に感銘し敬愛の念を深めていった
自分自身のことを題材にした作品である。)(足立区教育委員会)とある。
さて、旧日光街道に戻って、少し進むと左に折れる道があり、
のぞくと、突き当たりに赤い門が見える。
(奥に見える赤門寺)
山門に「三宮神山」とあり、
左手には「浄土宗 勝専寺」と書かれた石碑がある。
足立区教育委員会の説明板によれば、
(三宮神山大鷲院勝専寺は、「赤門寺」と通称で親しまれた浄土宗寺院で、
京都知恩院を本山とする。
寺伝では文応元年(1260)勝蓮社 専阿上人を開山、
新井政勝を開基とし草創されたという。
江戸時代に日光道中が整備されると、ここに徳川家の御殿が造営され、
徳川秀忠・家光・家綱らの利用があった。
また日光門主等の本陣御用を務めた記録も見られ、
千住宿の拠点の一つであったことが知られる。
加えて当寺は、千住の歴史や文化に深くかかわる
多くの登録文化財を今に伝えている。
木造千手観音立像は千住の地名起源の一つとされ、
開基新井政勝の父正次が、荒川から引き上げたという伝承を持つ。
――後略)とある。
(三宮神山の扁額がある勝専寺)
(その本堂、千住の地名由来の千手観音立像がある)
この説明の中に、木造閻魔大王があることや、
山門の扁額の「三宮神山」の文字は、
巻菱潭(かんりょうたん=明治の著名書家)の揮毫であり、
足立区の文化財であることも記されている。
旧日光街道を進むと、左手に100円ショップがあるが、
その店先に「千住宿本陣跡」の碑があり、
碑のある左手に狭い道路に本陣と「見番横丁」の説明板がある。
見番とは、芸者が所属し、客席への取次ぎや精算を行う場所で、
芸者などを手配する場所があった横丁であったようです。
どの街道にも日本橋から第一の宿場には、遊女も芸者も沢山いたようで、
江戸を離れる旅人は、第一の宿場に親せき縁者が集まって、
旅の安全を祈って送り出したからで、
送別会を行う場所が第一の宿場だったからです。
(「千住宿本陣跡」の碑)
(見番横丁の説明板)
その先の右側に「北千住宿場町通り 千住 街の駅」がある。
ここは千住の観光センターのような所。
千住の歴史など教えてくださるから一度お立ち寄りください。
千住宿の案内地図などが常備されている。
ここで本陣跡が解からずお訪ねしました。
本陣跡の碑は100円ショップの前で、
ショップを訪ねる自転車がずらりと並んで、
その蔭にかくれていました。
(街の駅 千住宿)
その先同じく右側に、千住ほんちょう公園があり、
この公園の入り口に、高札場があった場所のようです。
この高札場は次の宿場 草加宿側の高札場になります。
ここでは子供たちが大声で遊びに興じていました。
(高札場跡のほんちょう公園)
この先、左手に千住絵馬屋 吉田屋があります。
この絵馬屋 吉田屋は江戸時代より絵馬を作り続けて、
八代目として現在に至っております。
手書きで書く絵馬屋は、現代では殆んど見かけなくなり、
貴重な存在になっています。
その向かい側に千住宿の名残として「横山家住宅」が、
古い建造物として一種独特の風格を残しています。
明治になる前に、敗退する彰義隊が切りつけた玄関の柱の傷あとや、
戦時中、焼夷弾が屋根を貫けた風雪の百数十年を物語る旧家です。
(絵馬の吉田屋)
(絵馬の吉田屋2)
(絵馬の吉田屋3)
(横山家住宅)
千住宿はこの先で終り、次の信号の右角に、
道標があり、「東へ 旧水戸佐倉道」「北へ 旧日光道中」と刻まれています。
さらに直進すると荒川の土手になりますが、
手前の左側に道標があり、
「西へ 日光道中」「北へ 旧下妻道」とあり、
ここを左折すると荒川の土手にぶつかる。
その上を千住新橋で荒川を渡る。
(信号、右角に旧水戸佐倉道の道標)
(東へ 旧水戸佐倉道の道標)
(日光道中は直進する)
(手前左奥に安養院が見える)
(安養院山門)
江戸時代には、ここに川は無く、勿論橋も無かったので、
道路を直進して日光街道に進んだ。
川が曲がりくねって氾濫が多い荒川を直線に直し、
洪水を避ける治水工事をしたのが、明治になってからで、
これを荒川放水路と呼んでいたが、
いつの間にか、北区の岩淵水門から下流の旧荒川を隅田川と呼び、
荒川放水路を荒川と呼ぶようになった。
旧日光街道は荒川をまたぐ千住新橋を進む。
(旧日光道中はここで左折、千住新橋へ)
(「西へ旧日光道中、北へ旧下妻道」の道標)
(足立都税事務所)
(森鴎外旧居橘井堂跡(もりおうがいきゅうきょきっせいどうあと)
(千住宿2)
千住宿に入ってスーパー(トポス)の先を右折すると、
右側に足立都税事務所があり、事務所の回りに植え込みがあるが、
その植え込みに「森鴎外旧居橘井堂跡(もりおうがいきゅうきょきっせいどうあと)」の碑がある。
同じならびに、「千住の鴎外碑」が建っている。
この碑には鴎外作短編「カズイスチカ」(オランダ語で診療記録を言う)
の一節を刻んでいる。
(翁は病人を見ている間は、全幅の精神を以って病人を見ている。(中略)
花房はそれを見て、父の平生(へいぜい)を考えて見ると、
自分が遠い向うに或物を望んで、
目前の事を好い加減に済ませて行くのに反して、父はつまらない日常の事にも全幅の精神を傾注しているということに気が附いた。宿場の医者たるに安んじている父の レジニアション(resignation=諦観)の態度が、
有道者の面目に近いということが、朧気(おぼろげ)ながら見えて来た。
そしてその時から遽(にわか)に父を尊敬する念を生じた。)とある。
(千住の鴎外碑)
そのほかに、足立区教育委員会による
の説明板があるので、少し長いが近代文学の父について、
書かれており記憶に残しておきたいと思い、紹介しておきたい。
(森鴎外旧居 橘井堂森医院跡
森鴎外の父静男は、元津和野藩亀井家の典医であったが、
、明治維新後上京し明治十一年(1878)南足立郡設置と共に、
東京府から郡医を委嘱されて千住に住んだ。
明治4年郡医を辞し、橘井堂医院をこの地に開業した。
鴎外は19歳で東京大学医学部を卒業後、
陸軍軍医副に任官し、千住の家から人力車で陸軍病院に通った。
こうして明治17年ドイツ留学までの四年間を千住で過ごした。
その後父静男は、明治25年本郷団子坂に居を移した。
千住で始まった文筆活動(明治14年)
千住に居住している頃、明治14年9月17日付「読売新聞」に、
「千住 森 林太郎」の本名で投稿欄に一文を寄せ、
当時の一流文筆人を堂々と批判する文章を発表するなど、
文筆活動を始めていた。
明治23年には「舞姫」を「森鴎外」の名前で発表した。
また、千住仲町に隠棲していた元幕府医学館教授
佐藤應渠(おうきょ)のもとに通い漢詩の手ほどきを受けていた。
漢詩作品も数多く、発表された作品の中には
「訪應渠先生千住居」「呈應渠先生」「訪應渠先生居偶作」などがある。
これら漢詩は、佐藤應渠をたたえると共に、應渠が医療活動をしていたことや、
詩作に精通していたことを伝える内容ともなっている。
これらの作品は明治24年頃に精力的に発表されているが、
この年、鴎外は29歳、医学博士となっている。
千住から医師開業免許状申請書を出す
明治24年10月23日付で、南足立郡千住1丁目19番地から、
医師開業免許状を申請した。
「千住の鴎外碑」の碑文
(鴎外は、明治42年、47歳の時に文学博士となった。
「カズイスチカ」は、鴎外が自省を込めて書いた作品という。
かって千住宿の町医者であった父静男が、
毀誉褒貶(きよほうへん)に無頓着で、
貧富の差無く真摯に患者に接していた姿を思い起こし、
改めてその生き方に感銘し敬愛の念を深めていった
自分自身のことを題材にした作品である。)(足立区教育委員会)とある。
さて、旧日光街道に戻って、少し進むと左に折れる道があり、
のぞくと、突き当たりに赤い門が見える。
(奥に見える赤門寺)
山門に「三宮神山」とあり、
左手には「浄土宗 勝専寺」と書かれた石碑がある。
足立区教育委員会の説明板によれば、
(三宮神山大鷲院勝専寺は、「赤門寺」と通称で親しまれた浄土宗寺院で、
京都知恩院を本山とする。
寺伝では文応元年(1260)勝蓮社 専阿上人を開山、
新井政勝を開基とし草創されたという。
江戸時代に日光道中が整備されると、ここに徳川家の御殿が造営され、
徳川秀忠・家光・家綱らの利用があった。
また日光門主等の本陣御用を務めた記録も見られ、
千住宿の拠点の一つであったことが知られる。
加えて当寺は、千住の歴史や文化に深くかかわる
多くの登録文化財を今に伝えている。
木造千手観音立像は千住の地名起源の一つとされ、
開基新井政勝の父正次が、荒川から引き上げたという伝承を持つ。
――後略)とある。
(三宮神山の扁額がある勝専寺)
(その本堂、千住の地名由来の千手観音立像がある)
この説明の中に、木造閻魔大王があることや、
山門の扁額の「三宮神山」の文字は、
巻菱潭(かんりょうたん=明治の著名書家)の揮毫であり、
足立区の文化財であることも記されている。
旧日光街道を進むと、左手に100円ショップがあるが、
その店先に「千住宿本陣跡」の碑があり、
碑のある左手に狭い道路に本陣と「見番横丁」の説明板がある。
見番とは、芸者が所属し、客席への取次ぎや精算を行う場所で、
芸者などを手配する場所があった横丁であったようです。
どの街道にも日本橋から第一の宿場には、遊女も芸者も沢山いたようで、
江戸を離れる旅人は、第一の宿場に親せき縁者が集まって、
旅の安全を祈って送り出したからで、
送別会を行う場所が第一の宿場だったからです。
(「千住宿本陣跡」の碑)
(見番横丁の説明板)
その先の右側に「北千住宿場町通り 千住 街の駅」がある。
ここは千住の観光センターのような所。
千住の歴史など教えてくださるから一度お立ち寄りください。
千住宿の案内地図などが常備されている。
ここで本陣跡が解からずお訪ねしました。
本陣跡の碑は100円ショップの前で、
ショップを訪ねる自転車がずらりと並んで、
その蔭にかくれていました。
(街の駅 千住宿)
その先同じく右側に、千住ほんちょう公園があり、
この公園の入り口に、高札場があった場所のようです。
この高札場は次の宿場 草加宿側の高札場になります。
ここでは子供たちが大声で遊びに興じていました。
(高札場跡のほんちょう公園)
この先、左手に千住絵馬屋 吉田屋があります。
この絵馬屋 吉田屋は江戸時代より絵馬を作り続けて、
八代目として現在に至っております。
手書きで書く絵馬屋は、現代では殆んど見かけなくなり、
貴重な存在になっています。
その向かい側に千住宿の名残として「横山家住宅」が、
古い建造物として一種独特の風格を残しています。
明治になる前に、敗退する彰義隊が切りつけた玄関の柱の傷あとや、
戦時中、焼夷弾が屋根を貫けた風雪の百数十年を物語る旧家です。
(絵馬の吉田屋)
(絵馬の吉田屋2)
(絵馬の吉田屋3)
(横山家住宅)
千住宿はこの先で終り、次の信号の右角に、
道標があり、「東へ 旧水戸佐倉道」「北へ 旧日光道中」と刻まれています。
さらに直進すると荒川の土手になりますが、
手前の左側に道標があり、
「西へ 日光道中」「北へ 旧下妻道」とあり、
ここを左折すると荒川の土手にぶつかる。
その上を千住新橋で荒川を渡る。
(信号、右角に旧水戸佐倉道の道標)
(東へ 旧水戸佐倉道の道標)
(日光道中は直進する)
(手前左奥に安養院が見える)
(安養院山門)
江戸時代には、ここに川は無く、勿論橋も無かったので、
道路を直進して日光街道に進んだ。
川が曲がりくねって氾濫が多い荒川を直線に直し、
洪水を避ける治水工事をしたのが、明治になってからで、
これを荒川放水路と呼んでいたが、
いつの間にか、北区の岩淵水門から下流の旧荒川を隅田川と呼び、
荒川放水路を荒川と呼ぶようになった。
旧日光街道は荒川をまたぐ千住新橋を進む。
(旧日光道中はここで左折、千住新橋へ)
(「西へ旧日光道中、北へ旧下妻道」の道標)