鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

被爆建物の現状 広島市を訪ねて

2017-07-16 15:01:57 | デジカメ散歩
広島を代表する風景と言えば前回に紹介した
厳島神社と原爆ドームと言えまっしゃろな?

でも広島市内には当時の被爆を語る建物や
被爆樹木などが、多く存在してますんや。

今回は鉄ちゃん爺やが訪ねた被爆の痕跡を
デジカメで写して来ましたので紹介しまひょ。

まずは原爆ドームからスタートでんな。

(世界遺産 原爆ドーム)


(慰霊碑から 原爆ドームを望む)


オバマ前大統領がここで哀悼の意を示されてから
もうすぐ1年が経とうとしてますかな。

いつ来ても、献花の絶えない被爆地なんですよ。

(原爆の子の像) (平和公園内)


(原爆の子の像を 内側から撮影)


(各地から送られた 折鶴の画像)


それでは隠れた被爆地を順番に訪ねて見まひょ。

原爆ドームから一筋だけ裏手に入って行きまっせ。

(原爆の爆心地) (現在は島外科内科病院)


ここの上空約600mで1945年8月6日に
原子爆弾が投下され、炸裂したんだそうです。

当時も島外科病院で職員や患者80余名が
一瞬にして全員が即死されたんだそうですわ。

島院長は世羅町へ往診中で奇跡的に被爆を免れ
翌日から、救護の活動をされたそうでっせ。

3年後の1948年に病院は再建されたとのこと。

(爆心地から 北側を撮影)(当時を撮影したパネル)


画像の奥に破壊された石の鳥居が見えてまっしゃろ。

当時の廣島護国神社で現在は基礎石だけが残ってまぁ。

(元護国神社 被爆した石鳥居の台座)(2014年撮影)




次は爆心地に近い袋町小学校の被爆校舎でっせ。

爆心地から約400mぐらい東になりまっかな。

(原爆で被爆した 袋町小学校校舎)




当時は袋町国民小学校と呼ばれ、大半の生徒は疎開して
難を逃れましたが、残っていた教員と生徒は一瞬にして
全員が即死したと記録が残されてますんや。

鉄筋コンクリートだった西校舎のみ外壁だけを残し
小学校の校舎は全て焼失してしまったんだって。

鉄筋コンクリートの校舎は被爆当時は数少ない施設で
被爆した市民が多く収容されて治療が施されたが
多くの方が、被爆後に亡くなったとも言われてますんや。

翌日8月7日から市民の救護所として使われたそうで
広島市内で救護活動の中心となった施設だったとも。

先程の島外科病院の島院長と看護婦さん1名も
世羅町から戻った後に、救護活動をここでされたと
広島市の記録にも残ってるそうですわ。

(現在の 袋町小学校平和資料館)


(袋町小学校平和資料館 パンフレット)


1999年に児童館として利用していた黒板を撤去したら
下から、被爆当時の伝言板が出現したそうですわ。

広島市は貴重な被爆資料として保存することに成り
現在の平和資料館として改装がされたんだって。

(袋町小学校の壁面に 被爆当時の伝言板)


(袋町小学校 被爆した扉と窓)


(被爆した扉と窓の 説明書き)


(同じく被爆で 炭化した「もくれんがの壁」)


(被爆し炭化した 「もくれんがの壁」説明書き)


係りの方から近くの旧日本銀行・広島支店で特別展示が
されてますので、そちらもご覧に成ってくださいとのこと。

約100mぐらい表通りに出た処なので2014年に
見学したんだけど、もう一度だけ立ち寄ってみまひょ。

(旧日本銀行・広島支店 案内掲示板)




現在は日本銀行から広島市に貸与され内部も改装して
貴重な被爆建物として一般に公開されてまんねんで。

(旧日本銀行広島支店 被爆直後のパネル)


(現在の 旧日本銀行広島支店)(爆心地から約350m)


1945年8月6日の原爆投下で被爆した建物の中でも
頑丈に出来ていたので、地下金庫室などが被爆を免れ
支店長室など貴重な痕跡なども一般公開されてますんや。

(被爆を免れた 地下金庫)(2014年に撮影)


(被爆を免れた 地下金庫室の入口)(2014年に撮影)


(旧日本銀行広島支店 地下金庫室)(2014年に撮影)


今回はこの地下金庫室で平和記念資料館から被爆の資料を
借り受けて展示し、一般公開をしているようでんな。

刺激の強い画像もおますんで、見たくない方は
スルーされるようにお願いしておきます。

(人影の石) (紙屋町の銀行前にて)


住友銀行の営業開始を石段に座り待っていた方が原爆投下で
一瞬にして溶けて消滅し、人影だけが残った写真です。

原爆の無残な痕跡として世に知られるようになった画像かも。

この画像は約40年ぐらい前に平和記念資料館で拝見して
当時も凄くショッキングだった記憶が残ってますんや。

(人影の石 説明書き)


(被爆した 少年の服)




この衣服を着ていた少年はおそらく被爆後に
幼くして亡くなられたんでしょうな。

生きてたら、鉄ちゃん爺やとほぼ同年代の少年。

(被爆で破損した 地下金庫室の金具)




現在は開閉が出来ないような状態で使用中か?

丁番が破損したにも関わらず地下金庫室は頑丈で
被爆から守ったとは、凄い技術だったんですな。

(同じく 原爆で溶けた ガラス瓶)


(同じく 原爆で溶けた レンガの塊)


(原爆ドーム&日本銀行広島支店 被爆直後の画像)


頑丈な建物だったので、内部は焼失したものの
奇跡的に倒壊を免れて、外観は当時のままの
重厚な姿を今に伝える、原爆の被爆建物だっせ。

旧日本銀行・広島支店は原爆投下の3日後には
地下金庫が残ったので、地元の銀行11行が集まり
復興のシンボルとなる活動を開始したそうですわ。

屋根が破損していたので銀行員の方は雨の日には
傘を差しながらでも、営業は止めなかったとのこと。

旧日本銀行・広島支店では8月6日原爆投下により
被爆した方は18名で内8名の方が亡くなったそうです。

(旧日本銀行・広島支店 支店長室)




(支店長室  被爆の痕跡)




(支店長室の 被爆の痕跡 説明書き)


支店長室だけは奇跡的に家具や調度品までも焼失せず
傷跡を見れば、原爆の痕跡とは考えられないようなキズ。

強化ガラスだったので原爆の光線が遮断されたのかも?

(2階通路より 1階のフロアを撮影)(2014年撮影)


3階まで吹き抜けの立派な構造になってますんや。

1階を眺めるとこんな感じで、日本銀行から無償で
現在は広島市に貸与されているんだそうです。

国の重要文化財に指定された時には広島市に土地・建物共に
無償で譲渡されることに成っているんだって。

(旧日本銀行・広島支店 1階フロア)(今回の撮影)




(広島市中区 袋町5 住居表示)


何となく黄色く焼けたように見えるのは日本銀行広島支店の
被爆した外壁の部分なんですが、被爆して変色したのかしら?

旧日本銀行・広島支店の住居表示なんですけど。

それでは元安川の方へ歩いて行きまひょかな。

(夕暮れの 元安川遊歩道から撮影)


対岸は平和記念公園で平和記念資料館の屋根だけが
林の向こう側に屋根だけが写ってるようですわ。

この元安川も現在は穏やかに流れてますが、原爆投下の日には
水を求めて多くの市民が川に入り亡くなられたんだそうです。

(元安川から 遠くに原爆ドームを望む)


(被爆直後の 元安川と原爆ドームのパネル)


(元安川の畔の 慰霊塔)






(中曽根元首相 揮毫入りの慰霊塔)




撮影してから中曽根元首相が献納した慰霊碑なんだと
気が付いた次第、何と書いてあるのか確認が出来ず。

平和公園内ばかりじゃなく、元安川の遊歩道にも
数多くの慰霊碑が並んでいるのが特徴的な風景でした。

(被爆した 元安橋の柱が展示)




(現在の 元安橋の欄干)


原爆ドームで記念撮影してから、元安橋を渡り
平和記念公園へ向かう時に渡る橋でっせ。

原爆ドームを訪れた方なら一度は渡られたかも?

(元陸軍 広島幼年学校の被爆した門柱)




陸軍のエリートを育てる幼年学校でここを卒業し
東京の陸軍士官学校へ入学する憧れの学校でした。

親が陸軍の高官だった少年が優先で入学できたとか?

(被爆樹木 クスノキ)






幼年学校の校門付近に植えられていたようでんな。

クスノキの支柱の向こう側に広島城が見えてまっせ。

勿論、原爆で倒壊し戦後に再建された天守閣でっけど。

(広島城の天守閣)


(鯉を描いた 埋め込み式のパネル)


広島市では爆心地から5km以内の被爆建物や樹木を
保存して、後世に伝える事業を続けているんだって。

ここ広島城付近で爆心地から約1kmぐらいでっかな。

広島城は昔から「鯉城」と呼ばれてましたんですわ。

(広島市内 不動院の本堂)(国宝に指定)




ここが爆心地から約4.6kmで原爆で屋根が破損したが
広島市内では唯一で残る国宝の建造物なんだって。

その他は全て原爆により焼失や倒壊してしまったそうで
現在の広島市では、貴重な文化財なんだそうですわ。

(広島市内を流れる 太田川の本流)


画像の左側で二つに分流し、右側が太田川の放水路で
左側が約2kmぐらい先で再び元安川と京橋川に別れ
広島市内を流れ下り、広島湾に注いでますんや。


今回はこれでお仕舞にさせてもらいまひょ。

次回は日本一短い国道と県道のお話をしまひょ。

日本一短い国道は神戸市で、同じく日本一短い
県道は広島県は呉市におますんや。

ほんなら~ これで、さいなら~🎵









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安芸の宮島から 広島市内へ

2017-07-08 19:54:44 | 旅行
(JR宮島口桟橋の マンホールの蓋)


このデザインはマニアさん達が公開しているブログでは
見当たらない、ノーマークで珍しい画像のようでっせ。

宮島港や厳島神社のある宮島町はいずれも廿日市市で
旧町のデザインでもなくJRが自前で作成した物かも?

廿日市市で標準の物は下記のような無難な柄ですわ。

(廿日市市の マンホールの蓋)(厳島神社の参道で撮影)


昼食も終わり歩き出したら雄鹿が付いてきますんや。

俺に ついてこいよ~ 

そんな感じで、鉄ちゃん爺やを誘導しまんねん。

気が付いたら「みやじマリン」という水族館前でした。

(鉄ちゃん爺やを 先導する雄鹿)


(市立 宮島水族館 みやじマリン)




水族館ちゅうのは、どこも入場料金が高いんですわ。

ここも大人=1400円  

スナメリの親子が可愛いとのキャッチフレーズでっせ。

騙されても仕方がないか、入場することにしまひょ。

(広島名物 牡蠣の養殖)




牡蠣イカダの下はこんな状態で育てられているんだって。

テレビでは観たことはあるけど、実物はこれが初めて。

(宮島水族館 大きな水槽の中)




鉄ちゃん爺やのコンデジでは、巧く写りまへんけど。

それではスナメリの親子にご対面しまひょ。

(スナメリの子供 チハルちゃん)








泳ぎ続けるので、カメラで追いかけるのが精一杯ですわ。

一眼レフカメラじゃないので、これぐらいにてご勘弁を。

(フンボルトペンギン)




記念に出口でコンパニヨンさんにお願いし写して貰いました。

昔は宮島町立の水族館だったのが2005年(平成17年)に
廿日市市に合併となり市立の水族館になったんだとか。

(宮島水族館前にて 撮影)


ここが歩いて訪れる一番西の端になるようですわ。

それでは元来た道を戻ることにしまひょかな。

(帰りは 鹿の親子がお見送り)


ここも「神鹿」として保護されてるけど、餌やり禁止!

賛否の両論があるようだけど、仕方がないんだろうな。

通行人の土産物など狙う獰猛なやつもいるんだって。

頭数を増やさないためにも必要なんだろうね。

奈良公園では殺傷することも一部だけど許可したとの話。

(観光用 案内標識)


(厳島神社 反橋を裏通りから撮影)(重要文化財に指定)


裏側じゃなくて勅使などが入場する表側になるんだよね。

当然ながら普段は通れないように柵で囲われてますわ。

(厳島神社 本殿を裏側から撮影)


(厳島神社 本殿越しに五重塔を撮影)


今回で5回目の参拝でしたが、あの五重塔には一度も行ってない。

これが最後の訪問になるかもしれないので、訪ねてみよう。

(石段の下から 五重塔を撮影)(重要文化財に指定)


(五重塔の 説明板)




室町時代に創建された貴重な五重塔なんだね。

ここで毛利氏と陶氏が有名な「厳島合戦」をしたんだけど
幸いにも兵火による焼失を免れたんだって。

両軍ともに厳島神社や大願寺などに兵火が及ばないように
離れた場所で決戦をした結果だとのこと。

(宮島の千畳閣) (現在は豊国神社)








戦国の戦乱で亡くなった将兵をお祀りするために
豊臣秀吉が毛利輝元に命じて造らせたお寺だって。

現在は豊臣秀吉と加藤清正をご祭神にしているとか。

豊臣秀吉の死亡で未完成な状態で残ったようですわ。

当時は神仏習合の時代だから厳島神社の別当寺として
厳島神社も合わせて管理し運営をしてたんだね。

明治になり仏像や仏具は隣の「大願寺」に移し替えて
「豊国神社」に変更されたんだと記されてますな。

現在は厳島神社の摂社の一つに成っているんだって。

でも元は寺院だったから、仏教形式の建物なんだ。

(厳島の最高峰 弥山 標高535m)


ここは「塔の岡」と呼ばれ少し高くなってますんや。

厳島の最高峰である弥山がはっきりと見渡せまっせ。

あの頂上に登れば瀬戸内海の美しい島並が見えるとか。

日本三景に安芸の宮島が選ばれた元来の姿なんだって。

明治の元勲である伊藤博文公が日本三景の中でも一番の
景色だと絶賛した言葉として今に伝わってますんや。

(新緑の樹木を通して 五重塔が)


(塔の岡 説明板)


有名な「厳島合戦」で大内方の陶晴賢(すえはるかた)が
此処に本陣を置いて毛利方を攻めるつもりだった。

毛利元就は夜半の風雨を付いて厳島に上陸し夜襲をかけ
陶晴賢はここから西へ逃れるも、味方の水軍がおらず
山中で自刃してしまったんだそうですわ。

これにより毛利氏は安芸の小領主から安芸・備後・周防
それに長門までの戦国大名に飛躍したそうでっせ。

なぜに陶晴賢は大軍を率いて山口からやってきて
こんな島に上陸したんでっしゃろか?

鉄ちゃん爺やのような素人でも首を傾げまんねん。

対岸で本陣を置いて部下を派遣すればいいのにね。

いくら謀略に載せられたにしてはお粗末な結末でんな。

それでは岡を降りながら宮島桟橋へ向かいまひょ。

石段を下ってたらこんな松がおましたで。

(塔の岡 龍髭の松)




京都の郊外に「善峯寺」というお寺がおますんやけど
ここにも、同じような松が植わってましたな。

どちらの松の方が長く伸びているんでしょうかな。

鉄ちゃん爺やは「善峯寺」の方が大きいと思いますんや。

後ろを振り返ったら五重塔が見えてまっせ。

これで見納めになるのかしら?

(宮島の 五重塔)


参道まで降りて厳島神社の大鳥居をもう一度見ましたで。

引き潮で大鳥居の側まで人が歩いて近づいてまんな。



スニーカーが汚れるのでデジカメで写すだけにしまひょ。

2時間ぐらいで海水が引いて歩けるようになりまんねんな。

(平清盛公 生誕九百年の幟)


(宮島桟橋の フェリー乗り場)


(宮島桟橋の フェリー待合室)




4年前にはもつと古い建物だったような記憶がしまぁ。

桟橋の部分などは10年前と変わってまへんけど。

何せ広島県では原爆ドームと、ここ厳島神社が観光の
双璧で外人さんの訪れも増えているようでっせ。

再びフェリーに乗船して宮島口桟橋までは約10分。

広島電鉄系の宮島松大汽船と料金も同じ180円。

(宮島口桟橋へ接岸)




行きはJRで来ましたが帰りはのんびりと広島電鉄の
路面電車で広島市内の紙屋町へ向かいまっさ。

(広島電鉄 広電・宮島口駅舎)


(広島電鉄・宮島線の 路面電車)


広島市内へはJRの方が早いんですが、観光などで
原爆ドームや平和公園へ行く場合は、広島電鉄ならば
原爆ドーム前という駅に直接行けまんねんで。

急ぐ旅じゃないので帰りは広島電鉄にしましたんや。

(原爆ドームを背景に 自撮り)


(広島市の中心街 紙屋町交差点)


(広島電鉄の 新型路面電車)


(広島電鉄 元の京都市電?)


広島電鉄の路面電車は黒字だそうですわ。

昭和時代から平成まで古い電車や新型車両まで
鉄道マニアには写真を撮る最高の場所でおます。

大阪の元市電や京都の元市電が昔のままの配色で
現在も走っているのには、ご立派の一言ですわ。

(広島市内 観光用道路標識)


(広島市 カープ坊やの マンホールの蓋)


このマンホールの蓋が有ることは知っていたんですが
今回は初めてJR広島駅の南口で見つけました。

今日はこれでお仕舞にしまひょ。

次回は原爆の被災を逃れた袋町小学校や元日銀広島支店など
隠れた原爆の被爆地などを紹介させて貰いまひょ。

ほんなら~ 今日はこれで、さいなら~🎵



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世界文化遺産 厳島神社を訪ねて

2017-07-01 19:15:09 | 国宝 & 重要文化財
鉄ちゃん爺やが厳島神社を訪れるのは
3年ぶの、都合5回目になりますんや。

昨年から全国の一之宮を詣でる事で検索したら
安芸の国は「厳島神社」が一之宮でおます。

4回も参詣してたのに、ご朱印を貰ってまへん。

広島に滞在中に参拝することにしましたんや。

(厳島神社の 大鳥居)(重要文化財に指定)


資料によれば明治8年(1875年)7月に再建
平安時代から数えて8代目になるんだって。

鉄ちゃん爺が高校の修学旅行にSLで九州へ向かう
列車から初めて見たのが、これだった訳ですわ。

夕日を受けて何故か大きく見えた印象でんな。

現在はJRから眺めても、見落とすぐらい遠くて
小さいんでっけど、はっきりと瞼に残ってますんや。

視力が2.0だったから、そんな訳はないよね!

(日本三景 宮島の 石碑)


この日は平日でしたが、中学校らしき学童の遠足で
午前中から門前町は賑わってましたで。

娘の話では6月は地元や他府県の遠足が多いんだとか。

(厳島神社の門前町)




(広島名物 焼き牡蠣)


(大鳥居を背景に 自撮り)


門前町を抜けて参道にかかると遠くに見えてきました。

朱塗りの見事な本殿と回廊は国宝に指定されてますんや。

(厳島神社の 遠景)


(厳島神社 参拝入口)


(厳島神社 拝観券)


それでは拝観料300円を納めて入場させて貰いまひょ。

一方通行でっけど、逆走しても係りの方が見当たらない
出口から、タダで侵入する不届き者が居ないのかしら?

そんな事を考える無礼者は出てこないんでしょうな。

(厳島神社の回廊) (国宝に指定)




(厳島神社の回廊で 自撮り)


(奉納された 日本酒)


(奉納された 醤油)


厳島神社のご祭神は国家鎮護と海上の守護神で有ると共に
お酒の神様でもあるんだと聞きましたで。

(厳島神社 回廊から 大鳥居を望む)






これまで5回も訪れているんですが、平舞台や本殿が
海水に浮かび上がった姿を一度も見てませんのや。

今回も引き潮で平舞台は海水が去った直後の感じ
大鳥居は海上に浮かんでますが、残念でした。

(厳島神社 本殿) (国宝に指定)






(厳島神社 本殿を背景に自撮り)


正式には御本社(ごほんしゃ)と呼ぶんだそうでっせ。

最上部の真の棟と、両側の母屋が棟の様に見える所から
「三棟造=みつむねづくり」又は「三棟拝殿」とも
呼ばれる、独特の建築様式になっているんだって。

ご祭神は女神さまで、参考のために列記

湍津姫命  たぎつひめのみこと

市杵島姫命 いちきしまひめのみこと

田心姫命  たごりひめのみこと

天照大神と素戔嗚尊が高天原で剣玉の御誓をされた時に
ご出現された神々とされてますんや。

難しい話はここまでにして先へ進めまひょ。

(厳島神社 ご朱印)


(厳島神社 本殿&高舞台) (国宝に指定)




黒漆(くろうるし)塗りの基壇に、
朱漆(しゅうるし)塗りの高欄があり
前後には白木の階段がある。

平清盛公が舞楽を当社に伝え、それが現在も
神事の際に、この舞台で舞われているんだって。

(厳島神社 平舞台)(国の重要文化財に指定)








本殿から海上に突き出た板張りの部分を平舞台と呼び
高波が来ても平舞台が、破損しないように少しだけ
隙間をつくり全体を保つ仕組みになっているんだとか。

10年ぐらい前の台風で破損したが大きな被害も出ず
現在は少しづつ、修復が続けられているようですわ。

(厳島神社 火焼前=ひたきまえ を撮影)


海に突き出た、ここが一番大鳥居に近い場所になりまぁ。

観光客が写真撮影の為に入れ替わり立ち代わりで
火焼前(ひたきまえ)だけを写せまへんがな。

絵葉書などで良くみられる風景かもしれまへんな。

それでは西側へ回って行きまっせ。

(厳島神社 回廊の西側から 大鳥居を望む)


(厳島神社 回廊から 遠くに五重塔が)




(厳島神社の 反橋=そりはし) (重要文化財に指定)








(厳島神社 能舞台) (重要文化財に指定)




こちらは本殿の西側にある能舞台のようでんな。

笛柱が独立している特徴的な建物なんだって。

延宝8年(1680年)に広島藩主・浅野綱長により
再建されたと記されてました。

(厳島神社 回廊の終着点)


(清盛神社への 案内板)


今までは出口から宮島桟橋へ戻ったんでっけど
今回は、もっと先まで散策してみまひょ。

西の松原を歩いてみましたんや。

(西の松原を撮影)






ここ西側から眺める大鳥居も始めて見る風景ですわ。

観光客も西の松原を歩いてる間は2~3人とすれ違っただけ。

(西の松原から 大鳥居を撮影)


(西の松原から 宮島桟橋方向を撮影)


厳島神社の繁栄を作った平清盛公をお祀りした
神社があるんだと知り訪ねてみました。

(清盛神社)






厳島神社の繁栄を招いた最高の人物なのに意外な光景。

村の鎮守さんよりも粗末な神社には驚きましたで。

そういえばNHKの大河ドラマでも平清盛公は何故か
人気が低かったように思いまんねんわ。

日本人には好まれない人物なんでしょうかね。

(宮島の歴史的建造物群 保存地区)




この辺りまで足を延ばせば観光客もほとんど見られまへん。

ここで昼食をすることとしまひょ。

一寸だけお値段は高めでしたが、奮発して
広島産の「あなご」を味わうことにしましたんや。

(宮島名物 あなご料理の店)


(宮島名物 あなご料理)


(あなご料理で お昼ご飯)


背景のタンスはこの辺りでは有名な宮島箪笥だそうです。

触らないでくださいと、書いてあるので貴重品なんでしょうね。

長くなりますので、今日はこれでお仕舞にしまひょ。

次回は宮島のパート2から広島市内を紹介させてもらいまぁ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵








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廃止のJR路線が復活! 広島市の可部線

2017-06-25 19:51:52 | 鉄道
国鉄時代から赤字路線の廃止が続いてまっしゃろ。

JRの路線がいったん廃止されたのに
再びJRの路線でよみがえった珍しいことが
今年の3月にJR西日本で起きましたんや。

広島市内のJR可部線という路線でおます。

(JR可部線 可部駅の駅舎)


(JR可部線 可部駅のホーム)(昨年2月撮影)


左手に見える105系は、ほとんどが引退し
現在は2編成だけしか残ってないとのことですわ。

おそらく来年にも、見れなくなるんでっしゃろな。

(JR可部線 可部駅の駅名標) (昨年2月撮影)


昨年に撮影した時は、ここが終点でしたんや。

今回は、次の駅名が加えられてまっしゃろ。

(JR可部線 可部駅の駅名標) (今年6月撮影)


2003年(平成15年)12月に可部駅から先の
三段峡駅まで約46kmが赤字で廃止となりましたんや。

今年3月に一部でっけど可部駅~あき亀山駅(1.6km)が
地元の応援とJRの協力が功を奏して、復活したんですわ。

各地で赤字路線が廃止される中での復活は、大きな話題で
そんなことが出来る訳がないとの、説がおましたんですわ。

日本で初めてのケースなので、その路線に乗ってきましたで。

(JRあき亀山駅前で 自撮り)


(JRあき亀山駅 駅舎)




この駅からJR広島駅までは約38分で着くんだとか。

広島市ではベッドタウンとして発展している地区で
これからも人口が増え続けるだろうとのこと。

廃止された線路や路盤を地元民が補修などもしながら
復活運動を起こしたのが、大きな力となったようでっせ。

(あき亀山駅 構内と 227系新型電車)


(JRあき亀山駅 駅名標)


(JRあき亀山駅 時刻表)


2014年8月の広島豪雨で大きな被害を出した可部線も
現在は沿線でも外見では、立ち直ってきたような感じ。

(JR可部線 先頭車から撮影)






(国道54号線を アンダーパスで通過)


(JR可部駅構内のカーブ)


(JR可部線の車中から 太田川を撮影)


このまま安芸の宮島へ向かうことにしましたんや。

太田川は広島平野を作った大河でJR可部線は
この川沿いにJR広島駅へ向かいますんや。

単線でっけど乗客はこの辺で立っている方も。

平日ながら、これなら黒字になってるのかもね。

(JR可部線の車中から 山肌を撮影)


この辺りが2014年8月豪雨で大きな被害を出した
中村地区で、山肌に傷跡が一か所だけ見えてますな。

3年が経って復興も急ピッチで進んでるようですわ。

(JR広島駅 駅名標)


広島駅からこんどは山陽本線に乗り換えて宮島口駅へ。

(JR宮島口駅 駅舎)




考えたら安芸の国での一之宮は厳島神社でんがな。

広島へ来たついでに、ご朱印を貰いに出かけましたんや。

(宮島口港 JRフェリー乗り場)


(JRのフェリー  みやじま丸)


JRのフェリーは厳島神社の大鳥居の前まで進んで
左へ大きく曲がって宮島桟橋へ接岸しますんや。

(みやじま丸から 厳島神社の大鳥居を撮影)


(みやじま丸 船内で自撮り)


3年ぶりに宮島へ渡ったんでっけど、港の建物も
新しく建て替えられたような感じですわ。

(宮島桟橋玄関前の 歓迎用石柱) 




(世界遺産 厳島神社 由来書き)


(厳島神社 大鳥居)


海水に浸かった大鳥居を撮影できたのは今回が初!

今回はここまでにしまひょ、次回は厳島神社を
画像も載せまして、詳しく案内しまっさ。

ほな、これで、さいなら~🎵









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トワイライトエクスプレス「瑞風」とご対面~🎵

2017-06-18 12:51:00 | 鉄道
6月17日に豪華寝台列車の「瑞風」(みずかぜ)が
デビューすることは、先月から知ってましたんや。

でもブログ仲間の方と同行中なので写真を写すのは
控えて、快速電車でJR京都駅へ向かってましたんや。

なんと、長岡京辺りで左側を通過して行きまんがな。

こりゃ~京都駅で、ご対面が出来そうだ!

京都駅で下車したら反対側のホームに停車中ですわ。

(京都駅に停車中の 「瑞風」先頭車)


(京都駅に停車中の 「瑞風」10号車までの遠景)


(京都駅に停車中の 「瑞風」4号車)


鉄ちゃん爺やの本能が燃えてきましたがな。

やはりデビューの姿は写したかったんですわ。

大阪駅から下関へ向かうはずなので、大阪駅で
写せなかったのを、残念に思ってましたんや。

どうやら山陰線経由で日本海側を走るようでんな。

マニアの皆さんは、よく情報をご存じのことで。

(京都駅を発車する 「瑞風」の展望車)




ホームを埋め尽くしたマニアに見送られて発車!

6月17日午後に山口県の下関駅に到着するんだって。

日本海沿いの美しい景色を眺めながら、フレンチの料理!

1泊2日で1人=27万円~75万円なり、羨ましい限り。

鉄ちゃん爺やには、縁もゆかりも、おまへんな。

本日は31名のセレブナな乗客を乗せての出発でした。

予約はなんでも29倍の倍率だったそうでっせ。

9月までの指定券は数秒で完売になったんだとか。

京都駅へ向かう電車の窓から見えてましたんやけど
沿線各地でカメラを構えたマニアが押し掛けてましたで。

(JR京都駅 駅名標)


(JR京都駅 中央改札口) (本年4月に撮影)


ブログのお友達と駅前の京都タワーへ向いましたんや。

鉄ちゃん爺やが登るのは、40年ぶりでしたかな?

(京都タワーを 京都駅前から撮影) (本年4月撮影)


(京都タワーと 自撮り)(6月17日撮影)


(京都タワー 入場券)


それじゃ~ 展望台からの風景を紹介しておきまひょ。

京都市内は環境保護とかで、この京都タワー(131m)が
一番高い建物で、建設当時の京都市の人口であった
131万人から、高さが131mに設定されたんだって。

京都市内を360度で観れる最適な場所でっしゃろな。

(烏丸通りを 北の方へ撮影)


すこしカメラを左へ振ると大きなお寺が見えてまぁ。

真宗大谷派「東本願寺」の本堂のようでんな。

(東本願寺の 本堂と御影堂)


今度はカメラを上の方へ動かしてみまひょ。

東西に緑の森が広がって見えてまっしゃろ。

京都御苑と京都御所でっせ、確か聞いた話では
今年から京都御所は通年での拝観が可能になったとか。

(京都御苑を 遠くに望む)


カメラアングルを山の上へ向けて見まっせ。

京都市の北東側に高い山がおますんや。

延暦寺で有名な比叡山(ひえいざん)でっせ。

(比叡山の方向を撮影)


比叡山とは通称名で実際は比叡山という山はおまへん。

大比叡(848m)と四明岳(838m)の二峰を
合わせて、比叡山と呼ぶようになったんだとか。

山の向こうは、滋賀県の大津市になりまんねんで。

今度はカメラを右の方へ大きく振って見まひょ。

(東山連峰と 八坂の塔)


山裾の真ん中ぐらいに、黒く見えるのが八坂の塔でっけど
ポケデジでは、確認が難しい画像になりましたな。

「清水寺」がその左手におますんやけど、建物の陰なのか
木立に邪魔されてるのか、望遠鏡でも見えまへんでした。

山裾の左手に白く見える大きな屋根は「知恩院」だそうな。

ご存じの通り、浄土宗の総本山でおます。

京都では大きなお寺しか目標がおまへん、ご免やすでっせ。

少しだけ右手にカメラを振って見まひょ。

(東山七条辺り 三十三間堂の方向)


白い大きな屋根は真言宗・智山派の総本山である
「智積院」でっしゃろな、大きな境内を誇ってますんや。

手前が三十三間堂で、その左手に京都国立博物館も見えてまぁ。

手前にカメラを引くとJR京都駅の東側が見えてまっせ。

伸びている線路は東山トンネルを越えて東京方向になりまぁ。

(JR東海道本線・東海道新幹線)


今度はカメラを足元の方向に引いて見るとこんな感じ。

JR京都駅前とバスターミナルが見えてまんな。

(JR京都駅前と バスターミナル)




少しだけ右へカメラを振ると京都では有名な東寺さん。

新幹線からもよく見える東寺の五重塔が見えてまっせ。

(東寺の五重塔を望む)


正式には教王護国寺と呼ぶそうですが、京都市民は
「東寺さん」と、親しみを込めて呼ぶそうだっせ。

(嵐山方向を撮影)


遠くに愛宕山が見えてまっけど、嵐山は写ってまへん。

京都市内の西に聳える一番高い山で標高924mだとか。

手前の白い大きな屋根は「西本願寺」のようでっけど。

我が家の宗旨である浄土真宗・本願寺派の総本山でおます。

最後はカメラを左へ少しだけ動かしまひょ。

(京都駅の西側を撮影)


中央やや右側に林が写っているのが梅小路公園。

上から眺めると意外にも大きな公園のようでんな。

その左奥に有名な京都鉄道博物館がおますんや。

左手に線路が見えているのが東海道本線で左手に
カーブしながら大阪の方向に向かってるんですわ。

遠くに見える山並みは京都の西山で老ノ坂を越えて
山の向こう側は京都府の亀岡市になりますんや。

(京都鉄道博物館 正面入り口)


京都鉄道博物館はいずれ機会を改めて紹介しまひょ。

次回は広島に出かけてましたんで3~4回にわたり
広島県の隠れた名所などを載せる予定でおます。

それじゃ、今日はこれで、さいなら~🎵

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祝!日本遺産に認定 竹内街道 大阪府で初めて

2017-06-04 19:35:14 | デジカメ散歩
なぬ! 日本遺産認定だって。

世界遺産ならご存じでも、日本遺産の方は
あまり知られてないんと違いまっしゃろか?

平成27年4月に 18件

平成28年4月に 19件

平成29年4月に 17件

文化庁から今日現在で54件が認定されてまぁ。

その内の一つが我が町も関係する竹内街道でおます。

「竹内街道」と書いて「たけのうちかいどう」と呼びまぁ。

平成29年4月28日に新しく認定されましたんや。

(日本遺産認定 竹内街道の幟)


当初は世界文化遺産に不記載となった鎌倉市の救済を
考慮してスタートしたとか、言われてましたかな。

最近は、そうでもなさそうには聞いてまんねんけど。

文化庁の「日本遺産」の定義は下記のようになってまぁ。

世界遺産や文化財指定は、いずれも登録や指定を受けた
文化財に価値付けを行い、保護を担保する事を目的とする。

一方で日本遺産は、既存の文化財の価値付けや保全の為の
新たな規制を図ることを目的としたものでなく
地域に点在する遺産を「面」として活用し発信する事で
地域活性化を図る事を目的としている点に違いがある。

(竹内街道=たけのうちかいどう)


推古天皇21年(西暦613年)に難波の宮から南下し
東西に大和の都(現在の奈良県)まで幅20mを越える
官道(国道)を造ったと日本書紀に記されてまんな。

この日本最古の国道が我が町を東西に貫いてんますんや。

我が町では「歴史の道」として約30年ぐらい前から
モニュメントなどをも設置してPRをしてたんですわ。

まだ~ 我が町でも認定から1か月チョイなんで
市民にも、知られてないように思いまんねん。

(世界文化遺産を大阪に 幟)


百舌鳥古墳群・古市古墳群を世界遺産に!

国内で暫定登録と決まり2019年度に申請だとか?

我が町でも、こっちの方に関心が強いかも知れまへん。

こちらの方は、宮内庁が立ち入りなど許可しまへんので
世界文化遺産への登録は、難しいかなと考えてまっけど。

発掘は出来ないだろうが、立ち入りや墳丘の調査ぐらいは
宮内庁が認めてくれないと、可能性が薄いでしょうな。

(我が町の ゆるキャラ つぶたんです)


デラウエアの生産が日本で3本の指に入る産地でっせ。

だから、ブドウがゆるキャラに採用されてますんや。

でも「ひこにゃん」や「くまモン」などが有名でっしゃろ
地元の人ぐらいにしか、知られてないかもしれまへん。

(竹内街道=たけのうちかいどう 現在の状況)




(古市蓑の辻) (竹内街道&東高野街道の交差点)


(嘉永元年に設置 竹内街道の道標)


現在の竹内街道(たけのうちかいどう)は我が町では
1車線~2車線ぐらいの生活道路になってますんや。

中世から江戸時代にかけて、人の往来が少なくなって
いつの間にか、狭くて細い道になったんでしょうな。

(日本武尊陵への 参道入口)


(日本武尊 白鳥陵 & 竹内街道)


鉄ちゃん爺やも10年ぐらい前までは、御陵への道なんだと
気にもかけなかったんでっけど、図書館で古い地図を見たら
なんと~ この細い道が、昔の竹内街道でしたんや。

現在は古市駅前でビル群が街道を分断してしまってますわ。

(日本武尊 白鳥陵 説明板)


説明板を読んで頂けば、ヤマトタケルノミコトさんの事は
鉄ちゃん爺やの説明よりも、手っ取り早いでっしゃろな。

古市古墳群で二十数基もある古墳の内で、この白鳥陵が
一番美しい古墳だと、わては考えてまんねん。

(日本武尊 白鳥陵 西北から撮影)


(ドローンで撮影した 日本武尊 白鳥陵)


昔の人もこの白鳥陵を眺めながら、明日香や藤原京へ向かう
途中で一服したくなる、そんな風景だと思いますんや。

この辺りが難波の宮(現 大阪城の南附近)からやってきて
ヤマトの都になる明日香との中間地点ぐらいになりますかな。

やや~ 難波の宮の方が近いかもしれまへんけど。

古代には中国や朝鮮との交流に必要な官道だった訳ですわ。

そんな訳で、我が国「最古の国道」とも呼ばれてまっせ。

(竹内街道の 現在の起点)(大阪府 堺市)




当時はこの附近は海でした、少し離れた三国ヶ丘辺りで
難波の宮から南下してきた道が左折して、そこが本来の
竹内街道のスタート地点だったと考えてますんや。

でも~中世から栄えた堺の街を起点にPRした結果
現在は、大小路と紀州街道の交差点が竹内街道の起点と
そのようにとらえられているようでんな。

(我が町から 二上山を眺める)


双こぶになった山が「二上山」でこの右側の裾を越えて
ヤマトの都へ向かっているのが「竹内街道」なんでっせ。

この峠の名前が「竹内峠=たけのうちとうげ」と呼び
街道の名前は、ここから名付けられたようでんな。

(ヤマトのまほろば 三輪山)


春分の日と秋分の日には、三輪山から太陽が昇り、夕方には
二上山に太陽は沈んでいくんだそうですわ。

だからこの二つの山は、古代人には聖なる山でしたんや。

(ヤマト側から 二上山を撮影)


今回の竹内街道(たけのうちかいどう)のネーミングも

1400年に渡る悠久の歴史を伝える「最古の国道」

竹内街道・横大路 と呼ぶように決まったんだって。

大阪府側が竹内街道で、奈良県側が横大路となってまぁ。

大阪府(5市1町)奈良県(4市1村)に渡る広域の
日本遺産として、今年4月28日に認定されましたんや。

(木曽路はすべて 山の中~) (平成28年 認定の日本遺産)






世界遺産は大半が一つの都道府県内で一部が複数の
都道府県にまたがるのが例外となってますんや。

だけど「日本遺産」は4つ~5つの都道府県にまたがり
同じネーミングで繋がるという特徴もあるんですわ。

これが文化庁が唱える「面」の日本遺産でっしゃろな。

(旧 海軍呉鎮守府第一庁舎) (平成28年 認定の日本遺産)


(旧海軍工廠 呉造船所)(戦艦大和の建造工場)


日本の近代化の躍動というネーミングで平成28年に
日本遺産に認定された旧海軍の施設なんですよ。

神奈川県の横須賀・広島県の呉・長崎県の佐世保
京都府の舞鶴と4府県にまたがっているんですよ。

(出羽三山 国宝 五重塔)(平成28年 認定の日本遺産)


(出羽三山 三神合祭殿)


鉄ちゃん爺やが昨年に訪れた出羽三山も直前に認定だけど
バスガイドさんからの日本遺産の説明はなかったですけど。

今年に認定された日本海側の7府県のまたがる北前船の
寄港地や船主の集落など、北海道から山陰まで広がってまぁ。

(飛騨の匠の技と心) (平成28年 認定の日本遺産)






「飛騨の匠の技と心」このように高山市だけの場合も。

最後に鎌倉が世界遺産に「武家の古都 鎌倉」の名前で
世界遺産には不記載と、拒否されたことがおましたな。

武家屋敷や武家の遺構が曖昧だと、ネーミングに失敗。

現在は「いざ~ 鎌倉」のネーミングに変更したことで
平成28年に日本遺産に認定がされているようですけど。

政府は2020年までに日本遺産を100箇所ぐらいに
そんな思惑もあるようですが、認定後の地域活性化が
成功するのか失敗するのか、疑問もあるようでっせ。

100箇所も認定したら、それはやりすぎでは?

世界遺産に昇格する物から、日本遺産から脱落する
価値観のない遺産が出る可能性もおますわな。

ほんなら~ 今日はこれで、さいなら~🎵


(追伸)

今週の木曜日6月8日から6月12日まで野暮用で
広島まで出かけることになりましたんや。

この期間は、コメント返しなど出来ないと存じます
悪しからず、ご容赦のほどお願い致しておきます。
















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我が家の庭も 初夏の彩りになりましたよ。

2017-05-28 16:56:14 | 
そろそろ梅雨入りも近づきましたな。

我が家の庭も、春の花から夏の花に衣替え。

(ブルーベリーの花)






ブルーベリーの花を、ご存じかしら?

GW頃に咲きましたが、花が散り実が付き始めましたで。

昨年が豊作で約500個ぐらいの実が採れましたが
今年は、実がやや少なめになりそな気がしますんや。

(あやめの花)




これもGW頃に咲いて、現在は散ってしまいましたね。

例年よりも早く咲いて、散るのも早かったかもしれまへん。

(大手毬=おおてまり)




一週間ぐらい前に見頃でしたが、これもお仕舞ですわ。

今日現在に咲いている花を貼りつけて見まひょ。

(姫ヒオウギ)




花ニラかと思ったが、内の奥さんに叱られました。

姫ヒオウギという清楚な花で、手入れもいらないし
いくらでも増えて庭一面に咲き乱れてしまいました。

5年ぐらい前にどこかから、飛んできた種が育って
2~3輪咲かせたのが、こんな状態になりましたんや。

(時計草 別名=パッションフラワー)


雄しべが時計の長針・短針・秒針に似ているとかで
日本では「時計草」と呼ばれてるそうでんな。

西洋ではキリスト受難の花と呼ばれ、十字架上の花で
パッションフラワーと呼ばれるんだと聞いてますんや。

(ホタルブクロ=蛍袋)




桔梗科の花ですが、これも初心者でも育てやすい花。

我が家では白色とピンク色の二種類が咲いてまっせ。

(山アジサイ)




我が家では一種類しか咲いてませんが、品種が多くて
200種類を超える色んな形や色の花が有るんだって。

派手さはないが、日本の庭園に似合う花かもしれまへん。

(柏葉アジサイ)






柏の葉っぱに似ているので名が付けられたんでしょうな。

1~2年で鉢植えにしても、こんなに大きくなりますんや。

(アストロメリア 別名=ユリズイセン)




(名前が 不明の花)




内の奥さんが知人から貰ってきた鉢植えの花です。

日持ちが良い花で、1か月以上も咲き続けてまっせ。

(鉄ちゃん爺やも 衣替え)




書斎に置かれたPCの前で自撮りしましたんや。

先週から、半袖に衣替えをしたんですわ。

今日のブログは、これで、お仕舞にしまっさ。

ほな~ さいなら~🎵

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靭公園のバラ園 & 大阪科学技術館

2017-05-20 18:57:12 | 大阪
大阪市内の靭公園(うつぼこうえん)を紹介しまひょ
こちらも読み方では、難解な方になりまっしゃろか?。

地下鉄・四つ橋線 本町駅で下車しましたで。

(大阪市営地下鉄 ロゴマーク)


大阪市営地下鉄のシンボルカラーを説明しまひょ。

御堂筋は大動脈の意味で「えんじ色」になりまぁ。

対する四つ橋線は大静脈に当たりますんで「青色」

堺筋線は阪急電鉄との相互乗り入れなので「茶色」

因みに谷町線は「紫色」等と区別されてますんや。

(大阪市営地下鉄・御堂筋線 10A系の電車)


そろそろ引退が近い10A系と呼ばれる車両でんな。

そろそろ製造から40年が近づいてきましたんんや。

大阪市営地下鉄は2018年4月1日から民営化!

大阪市議会でこの3月に民営化が可決されたそうですわ。

大阪市が100%の株式を当分は保有するという事で
自民党が歩み寄り、大阪維新の会・公明党の三党で合意。

橋下市長時代からの懸案がやっと解決ということでんな。

大阪高速電気軌道(株)という長い名前になるんだって。

鉄道会社じゃなく、軌道経営者という分類になるようでっせ。

専門的な話になりまっけど、軌道法で出来た地下鉄なんで
鉄道会社とは区別されて、軌道という部類に入りますんや。

詳しいお話は、またの機会に譲ることにしまひょ。

(靭公園=うつぼ公園 東園の絵図)




(靭本町1丁目9の 住居表示板)


東西に約800m 南北は狭くて約150mの公園でっせ。

公園の中央を「なにわ筋」が南北に通り抜けてますんや。

そんな訳で靭公園(うつぼこうえん)は東園と西園に別れ
今回は東園のみを、画像で紹介することにしまひょ。

(靭公園 東園内に 人工で作られた川)




鉄ちゃん爺やが小学生の頃には、ここは進駐軍の飛行場で
日本人が近づけない区域とされてましたんや。

アメリカ軍から返還されて大阪市の公園になりました。

現在はビジネス街のど真ん中で、若い方にはここが昔は
小型飛行機の常設飛行場跡とは考えられないでしょうな。

鉄ちゃん爺やが独身の頃には、夕方ともなれば男女の
格好のデート場所として大阪でも有名な公園でしたで。

平成16年(2004年)にリニューアルされましたが
当時はバラ園といえば靭公園といわれる名所でしたな。

おそらく大阪市内のバラ園では、一番歴史のある場所かも?

それでは、現在の靭公園のバラ園を画像で紹介しまひょ。

(靭公園の バラ園)






(靭公園 バラ園で自撮り)








170種で約3400株のバラが植えられているとか。

5月18日でしたので、春のバラは見頃だったのかも。

バラの他にこんな花も咲いてましたで。

(花の名前が 小さくて読めまへん!)


接写で写すべきでしたな、失敗作でおます。

こんなボランティアさんの花壇もありまっせ。

(ボランティアさんの花壇)




(靭公園の オブジェ)




(靭公園の 日時計)


バラ園だけじゃなく、ケヤキの森も広がってまっせ。

ビジネス街のど真ん中とは、思えないような環境でんな。

(靭公園 ケヤキの並木道)






こんな記念碑を偶然ながら見つけましたで。

野村証券を創業した野村徳七さんのお孫さんが
大阪市の緑化事業に賛同して寄付された像だとか。

(勇者に栄光あれ の像)




昭和43年に立てられた物だから、当然ながら
鉄ちゃん爺やが、デートで散策した頃にはなかった像。

鉄ちゃん爺やの息子が生まれたのは昭和43年ですから。

(大阪科学技術館を 遠くに眺めて)


この日は座談会に出席の予定、午後の3時でしたんや
もう少し時間が有るんので大阪科学技術館へ行きまひょ。

会場までなら、ここから歩いて5分ぐらいでっから。

(大阪科学技術館 入口)




ここは鉄ちゃん爺やが、訪れるのは初めてなんでっけど。

子供にも大人にも、体験観察的な施設だとのことですわ。

(光ファイバーの 説明会場)








(ネッチャの 会場)




(エコキュートで 電気を発電)


お湯で電気を発電して蓄電する新型の装置だって。

大阪ガスとトヨタさんと京セラさんが共同で製造し
最近は大阪ガスさんが売り込みをしているとか。

(クレートル)






時間も迫ってきたので、今回は軽く見渡したぐらい。

機会を見つけて、もう一度ゆっくり訪れることにしまひょ。

(四ツ橋筋から 江戸堀や肥後橋方向を撮影)




靭公園を離れると、周囲はこんなビジネス街なんですわ。

座談会に出席する時間なので、これで失礼しまっさ。

ほんなら~ これで、さいなら~🎵
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山城の国・一之宮  上賀茂神社に詣でる

2017-05-13 20:06:30 | 神社
京都し北区にある上賀茂神社を紹介しまひょ。

11月に掲載しました下鴨神社と二つ並んで
山城の国(現在の京都府)一之宮と呼ばれてまっせ。

鉄ちゃん爺や京阪電鉄の出町柳駅の終点で下車でおます。

(7200系 京阪電鉄の急行)(出町柳駅にて)


(賀茂川と高野川の合流地点)(賀茂大橋で撮影)


右側が高野川で遡れば八瀬から大原方面になりまんねん。

左側が本流の賀茂川で今回はこちらに沿って遡上しまっせ。

中央に見える森は11月に紹介しました下鴨神社のある
糺の森(ただすのもり)になるようでんな。

合流してここから下流は鴨川と名前が変わりますんや。

(バスから賀茂川の流れを撮影)


左に見える出町大橋を渡ってバスは右折しますんや
上賀茂神社へ向かって北西の方へ走ってるようでんな。

京都駅前からやってきたバスでっけど巧く座れましたわ。

(京都市バス 堀川通を走行中)


京都市内をイメージよりも北西に走ってきた感じでんな。

堀川通りが北部で賀茂川に沿ってるとは知りまへんでした。

(賀茂川に沿って北上中)


路線バスなので上賀茂地区をぐるぐる回りながら約30分
やっと終点の上賀茂神社前に到着しましたで。

京都駅前から乗っても、途中からでも230円均一でした。

JR京都駅前からだったら1時間はかかりまっしゃろか?

(上賀茂神社 一の鳥居)




(世界文化遺産の石碑)


それじゃ本殿に向かいまひょ、参道には白砂が撒かれてまっせ。

下鴨神社は糺の森(ただすのもり)の中なので薄暗い感じ
こちら上賀茂神社の参道は明るくて開放的なイメージでした。

(上賀茂神社の参道 & 二の鳥居)


参道だけは白砂が撒かれてまっけど両側は芝生になってまぁ。

右手には見事な枝垂れ桜が植わってまして、市内では散った
桜の花がここ上賀茂神社では、まだ見頃のまま残ってますわ。

京都市内でも北の外れで、標高も100mを超えてるはず
気温も京都駅前より2~3度ぐらい低いんでしょうな。

(上賀茂神社 参道の枝垂れ桜)


(上賀茂神社の回廊にて 自撮り)




(上賀茂神社の由緒とご祭神 説明書き)


正式には賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)と
称され、神代の時代1400年前に北北西にある
神山(こうやま)に、ご降臨されたそうですわ。

平安京を造営する際に北東の鬼門に当たる事から
皇室の崇敬が篤く、毎年5月15日に行われる
例祭は「葵祭」として京都三大祭りで知られてまぁ。

現在も勅使が派遣される勅祭社で伊勢神宮の
例祭に次ぐ、格式の高い神社だそうですわ。

平安時代には未婚の皇女が御杖代として「斎王」の
名前で天皇の代わりに、神にお使えしたんだとか。

だから伊勢神宮と並んで上賀茂神社と下鴨神社は
皇室には非常に大事な神様だという訳でおます。

有名な楼門があるんですが式年遷宮で工事中でした。

これは鉄ちゃん爺や、予備知識の欠如でしたな。

(上賀茂神社の楼門 パネルを撮影)




この楼門をデジカメで写したかったが残念でおます。

第42回式年遷宮の工事中だとは知りまへんでした。

それでは拝殿から、お詣りをさせて頂きまひょ。

(上賀茂神社の 拝殿)




神紋は「二葉葵」で徳川家はこの葵を頂戴してアレンジ
「三つ葉葵」の家紋を考え出したとの説がおますんや。

失礼ながら拝殿から本殿を写させて貰いましたで。

本当は写真撮影などは、禁止だと思いますんやけど。

本殿の内部には特別な神職しか入れないんだって。

(上賀茂神社の 本殿) (国宝に指定)


(上賀茂神社の ご朱印)


(下鴨神社の ご朱印)(昨年11月)


これで山城の国・一之宮は二つ共に参拝完了でんな。

それでは上賀茂神社の境内を散策さてもらいまひょ。

(上賀茂神社 細殿=ほそどの)(国の重要文化財)






結婚式がこの中で行われてましたので、常設の神殿として
重要な場所なんだろうな、と想像した次第。

ネットで見れば普段は吹き抜けに成っているらしいが
結婚式なので神殿が囲われているんだと思いますんや。

細殿(ほそどの)の前には有名な「立砂=たてすな」が

詳しいことは、立て札をお読みくださいね。

(上賀茂神社の 立砂=たてすな)




(立砂=たてすな 説明書き)


細殿(ほそどの)の横には小川を、またいで神殿がおます。

この小川は神山(こうやま)から湧き出て、上賀茂神社の
境内を通り抜けて、明神川に流れ込んでいるとのこと。

(上賀茂神社 舞殿  橋殿とも呼ばれる)(国の重要文化財)




(中央が舞殿 左側が細殿 右側に土舎)




画像の中央が舞殿で、左側の細殿とは方向が逆になってまぁ。

右側には高床式でもう一つの土舎と呼ぶ神殿が並んでまっせ。

(上賀茂神社の 土舎)


(上賀茂神社 境内の絵図)


一番奥が上賀茂神社の本殿で、中央辺りに細殿(ほそどの)
舞殿や土舎などが並んでいるのが、お分かり頂けるかしら?

ネットでは三つとも奥の方へ吹き抜けで見通せる構造になり
上賀茂神社の特徴を示しているような感じもしますんや。

それでは、ご神体の神山(こうやま)から湧き出て
上賀茂神社の境内を流れる御手洗川(みたらいがわ)へ
戻ることにしまひょ。

(御手洗川=みたらいがわ)




御手洗川(みたらいがわ)を拝殿から橋で渡りますんや。

この小川も、神聖なる神事によく利用されるんだって。

(岩上=がんじょう  説明板)




「葵祭」に際し宮司が岩上(がんじょう)に蹲踞(そんきょ)

勅使と対面し、賀茂別雷神(かみわけいかづちのかみ)に
天皇のお言葉を言上した後、神のお告げを返し祝詞(のりと)
する上賀茂神社に於いて、最も神聖なる場所なんだって。

最近の言葉では、パワースポットと言いますんでっしゃろか。

(御手洗川の流れ)






(曲水の宴が 行われる場所)


「葵祭」の女性代表である「斎王代」は下鴨神社の小川と
ここ上賀茂神社の御手洗川(みたらいがわ)で隔年ごとに
禊(みそぎ)の神事が行われるのがテレビで紹介されまっせ。

今年は下鴨神社の御手洗川(みたらいがわ)で厳粛に
5月2日に実施されたと、テレビで放映してましたな。

(上賀茂神社の境内 願い石)






(上賀茂神社境内にある 睦の木)






結婚式を終えた新郎新婦が神職に連れられてこの場所に。

夫婦円満の堅い誓いを告げるんでしょうかな?

(上賀茂神社 神馬舎)


土日だけ白馬に会えるんだけど、神様の馬なので
馬には語りかけないようにとの貼り紙が。

(京都では 和服の女性がお似合い)




(二の鳥居前で 自撮り)




(上賀茂神社の 馬場)


ここはゴール地点になりますんや、約200mおますな。

一の鳥居の横がスタート地点で、二の鳥居の横がゴール。

(賀茂競馬会神事=かもくらべうまえしんじ)






毎年5月5日「葵祭」の直前に、20頭の神馬が左右に別れて
競う神事で、平安時代から続く伝統の行事なんでっせ。

この日は、足汰(あしそろえ)と呼ぶ調教が行わてれましたで。

(馬だしの桜)


ここから二頭の馬がゴールに向けて走り出す場所なんだって。

騎手は左右に分かれて、10組が勝ち負けを争う神事のようでんな。

(むち打ちの桜)


ここで両馬に、むちが入りクライマックスになるんだとか。

左が勝てば太鼓が打たれ、右が勝てば鉦が鳴らされるんだって。

(勝負の楓=かえで ゴール地点です) 


平安時代から続く神事で、6曲屏風にも描かれ当時の
貴族や庶民が、埒外(らちがい)で大勢が見物したとか。

現在の競馬でも埒(らち)という言葉が使われてまっせ。

(足汰=あしぞろえ 調教中の神馬)










長くなりましたので今日はこれぐらいで置きますかな。

(蛇足ながら)

現在の京都御所は、上賀茂神社の南に当たりますが
平安時代の京都御所は二条城の北辺りに存在しました。

だから平安京の北東の鬼門に上賀茂神社がおますんや。

月曜日の5月15日は「葵祭」の本番になりますな。

夏の祇園祭・秋の時代祭と並び、京都の三大祭でっせ。

京都市の観光協会のURLを貼り付けて置きますので
優美な平安絵巻を、是非とも一度ご覧ください。


(京都市観光協会 葵祭URL)
https://www.kyokanko.or.jp/aoi/

それじゃ、これで、さいなら~🎵

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デジカメ散歩 坐摩神社(いかすりじんじゃ) 

2017-05-06 19:18:13 | 神社
4月16日に造幣局・桜の通り抜けの日に
お詣りした摂津の国・一之宮でおます。

坐摩神社(いかすりじんじゃ)(正式名称)

通称は、ざまじんじゃ、又は、ざまさん。

大阪の船場に鎮座する立派な神社でつせ。

(23系 大阪市営地下鉄 四つ橋線)


(大阪市営地下鉄 本町駅名標)


(坐摩神社 一の鳥居)


左右に潜り戸が設けられた三組みの鳥居でっせ。

見たことは有りまっけど、珍しい鳥居ではおます。

それではお詣りさせてもらいまひょ。

(座摩神社=いかすりじんじゃ 本殿)






坐摩神社(いかすりじんじゃ)とは読めまへんわな。

鉄ちゃん爺やも、正式名称を知ったのはこの日が初めて。

親しみを込めて、坐摩(ざま)さんと呼んでましたんや。

坐摩神社「ざまじんじゃ」が名称と思ってましたがな。

(坐摩神社 御由緒略記)




(坐摩神=いかすりのかみ 説明書き)


坐摩(いかすり)の語源は諸説ありますが、土地又は
居住地を、守り給う意味の、居所知(いかしり)が
転じた名称だといわれてるそうでっせ。

五柱の御祭神が記されてますが、あまり知らない神様。

(座摩神社=いかすりじんじゃ ご朱印)


摂津の国 一之宮 住吉神社 坐摩神社

河内の国 一之宮 枚岡神社

和泉の国 一之宮 大鳥大社

これで大阪府の四つの神社は全てお詣りを終えましたで。

(坐摩神社の 回廊)


(坐摩神社境内 末社・五つのお社)


鉄ちゃん爺やが20代から40代まで、船場に長く
勤務していた頃は、毎年7月22日が坐摩さんの夏祭り。

繊維会社は、この日がお休みになってましたんや。

坐摩さんは、繊維の神様だと先輩に教えられてましたな。

(座摩神社境内 末社になる 繊維神社)


本当は坐摩神社の末社の一つが「繊維の神様」だったとは。

恥ずかしながら約50年間も、誤った知識を信じていた訳。

会社の名代で2~3回「夏季大祭」に代参をしてたのにね。

(坐摩神社境内 末社になる 大江神社)


繊維神社・大江神社・天満宮・大国主神社・相殿神社 と

回廊の向こう側に小さなお社が五つ並んでますんや。

(座摩神社の 御神紋)




元々の坐摩神社は淀川南岸に当たる大江の岸に鎮座されていたが
豊臣秀吉の大坂城築城に際して、現在地に移設さされたとの話。

現在も天満橋の西側になる石町に行宮が置かれているそうですわ。

ここは渡辺の地とも呼ばれ、歴史にも登場する渡辺党の本拠地。

現在の座摩神社の住所も明治時代まで大阪市東区渡辺だったとか。

全国の渡辺さんにとっては、苗字のルーツでもおまっせ。

(鷺草の苗を 育成中)






「白鷺」が坐摩神社の御神紋でっさかいに、「鷺草の花」は
7月22日の「夏季大祭」には重要なお使いなんでしょうな。

本殿を囲むようにして、「鷺草の苗」が育成されてまっせ。

(鷺草を描いた 姫路市のマンホールの蓋)


7月22日の「夏季大祭」の頃にはこんな花が咲くのかな?

明治元年に明治天皇が行幸されたという事でっから
当時は大坂でも、有名な神社でしたんでしょうな。

(明治天皇 行幸の記念碑)


実はこの日に、もう一つの新しい発見がおましたや。

これは途中で見つけた案内板でっけど。

(陶器神社への 案内板)


(せともの町 の歴史 説明板)


鉄ちゃん爺やが幼少の頃に、両親に連れられて「せともの市」に
それから「陶器神社」にもお詣りした記憶が残ってますわ。

その「陶器神社」も坐摩神社の末社の一つだったとは驚き!

(陶器神社の拝殿)




当時はもっと、こじんまりしたお社だった記憶がしますんや。

坐摩神社の本殿は大阪大空襲で焼失して当時はまだ再建されず?

だから座摩神社の本殿が再建された1959年(昭和34年)より
昔の話だから、座摩神社など知る由もなかったという訳でっかな。

(陶器神社で 陶器の燈籠)






陶器の神様だけに、燈籠もせともので作られてますんや。

座摩神社側の狛犬までが、せとものとは恐れ入りました。

(狛犬も陶器でっせ~)




散策中に、境内でこんな記念碑も発見しましたで。

ここには江戸時代には上方落語の寄席が在ったんだそうな。

(上方落語寄席 発祥の地 顕彰碑)


上方落語では桂米朝さんが、伝統を引き継いではりましたが
数年前に、惜しまれながら亡くなられてしまいました。

江戸時代に三代目の桂文治が江戸へ出て「桂」を名乗り
江戸と、大坂に「桂」を名乗る落語家が出来たんですわ。

江戸で「桂」を名乗る落語家も元祖は上方でしたか。

それでは船場を歩いて地下鉄の本町駅へ向かいまひょ。

(ツインビルの 元祖?)


(御堂筋 久太郎3丁目 道路標識)


鉄ちゃん爺やが船場に勤務中の頃のお話でっけど。

ここには船場から発展した総合商社の「伊藤忠」の本社が在り
同じく船場出身の「丸紅」さんとが、激しく争ってましたで。

現在は両方共に東京都に本社が変更されて、関西の営業本部も
一昨年には船場を離れて、大阪駅の方へ移転されましたんや。

船場から総合商社が全て撤退したと、話題になりましたかな。

(大阪センタービル 案内表示板)






(大阪センタービル テナントの銘板)


このビルに現在は「ユニチカ」さんが本社で残ってますんや。

船場地区に残る数少ない上場企業としての本社になりまっかな。

(船場センタービル 手前は御堂筋)


(船場センタービル 9号館~8号館)


ここから地下へ潜り込むと地下鉄の本町駅になりまぁ。

本日はこれにてお仕舞とさせて貰いまっさ。

次回は京都の上賀茂神社を紹介しまひょかな。

ほんなら、これで、さいなら~🎵

 






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泉布観 & 旧桜宮公会堂

2017-04-29 19:23:43 | 国宝 & 重要文化財
花粉症でブログを10日ほどお休みしてました。

我が家の「松」に花粉が現れるとダメなんですわ。

「杉」や「ヒノキ」の花粉は良く知られてまっけど
鉄ちゃん爺やの「松の花粉症」は珍しいのかも?

前回は造幣局・桜の通り抜けを紹介しましたな。

今回は造幣局と国道1号線を挟んだ反対側に
隠れた名所がおますんで、それを紹介しまひょ。

(桜宮橋から 大川を撮影)


(桜宮橋でUターンする水上バス)


やや右手に大阪城の天守閣が頭だけ覗かせてまっせ。

昔は全体が良く見えたんでっけど、ビルと樹木が
大きくなって、残念ながら分かりずらいでんな。

(桜宮橋 & 新桜宮橋)




画像の右手が桜宮橋(さくらのみやばし)で
1930年(昭和5年)完成で銀色の塗装でっしゃろ。

通称「銀橋=ぎんばし」と呼ぶことの方が多いでんな。

左側は「新桜宮橋」で206年(平成18年)に完成し
こちらの設計は、安藤忠雄さんなんだって。

旧の桜宮橋の方が西行きの一方通行で、東京の日本橋から
約630kmを経て、国道1号線が大きな川を渡る
ここが最後の橋となってますんや。

撮影しているのは大阪市の北区で、画像の奥へ渡ると
大阪市の都島区となるんだそうですわ。

それでは造幣局前の横断歩道を歩いて向かいまっせ。

(泉布観=せんぷかん) (国の重要文化財に指定)


「泉布=貨幣のこと」 「観=立派な館の意味」

1872年(明治5年)に明治天皇が造幣局に行幸され
「泉布観」と命名されたと言われてますんや。

1871年(明治4年)に完成した大阪市内では
一番古い洋館式の建物で、当時は応接所だったとか。

天皇陛下や皇族方や外国の要人が造幣局に来られたら
この応接所が使われていたんだって。

(造幣局の正門から 泉布観の全体を撮影)


(重要文化財 泉布観の 石碑)


(泉布観を 北側から撮影)




毎年3月中旬に3日間だけ大阪市に申請して抽選で
400名X3日で内部が公開されるそうですわ。

今年も3月11日~13日まで一般公開だったとか。

毎年1月の申し込みで、鉄ちゃん爺やも来年ぐらいは
一度ぐらい申請してみようかなと考えてますんや。

市民の寄付金で補修が完成したという経緯もあるとか?

普段は外部だけが無料で見学できるようになったとか。

貴重な建物なので、保存が第一なんでしょうな。

(泉布観の説明板)


(泉布観を 南東側から撮影)


(泉布観と 自撮り)


造幣局は1869年(明治2年)にイギリスの香港から
解体した建物と機械を組み立ててスタートしたんだって。

今は残ってまへんが、香港に在った造幣局の廃材だったとか。

当時のお金で約97万両もの大きな建築費だったそうでっせ。

ところで、造幣局の本庁が大阪に置かれているのは何故か?

他には東京から移転した埼玉と広島に支局がおますけど。

こんな話が、大阪には残ってますんや。

(旧造幣寮鋳造所 玄関) (国の重要文化財に指定)


現在は造幣局と呼びますが、当時は造幣寮(ぞうへいりょう)で
当時の鋳造所玄関の一部が、隣接地に保存されてますんや。

1868年(明治元年)に計画された頃、東京はまだ討幕の
雰囲気が残り、貨幣を造れるような安全な場所ではなかった。

大坂なら明治新政府に資金面でも協力が得られるとのこと。

それと共に、大坂は江戸時代から経済の中心で、当時は首都も
大坂に置くべきだとの考え方も有ったんだそうですわ。

大坂商人は明治新政府に討幕の軍資金を大量に納めたんだって。

大坂が首都に成るのならと上納した商人も多かったとか。

首都は東京へ軍資金は踏み倒しで、後は知らぬ存ぜぬとの話。

大坂商人は騙されて、倒産した大店も多数あったとか。

現在も東京に遷都されたとの文書はないとも言われてまんな。

天皇陛下は江戸へ行幸され、まだお帰りになってまへん(笑い)

京都御所は今でも皇居でおます、京都市民のダジャレでっせ。

(旧造幣寮鋳造所 玄関)(現在は 旧桜宮公会堂)


玄関部分のみが国の重要文化財に指定されてますんや。

(旧明治天皇記念館の説明板)(現在は 旧桜宮公会堂)


1935年(昭和10年)に造幣寮鋳造所玄関を移設して
明治天皇記念館としてオープンしたと記されてまんな。

戦後は大阪市の桜宮図書館として使用された時代を経て。

現在は「旧桜宮公会堂」という名前で結婚式場だとか
音楽の演奏会場などに使用されていると聞いてますんや。

こちらは内部にも入れるそうですが、この日はクラシック
音楽の会場として使われていたので入場できまへんでした。

高級なレストランも併設されているようでっけど。

それでは戻ることにしまひょうかな。

(OAPタワー & 帝国ホテル)


「泉布観」の裏側には大きなビルが並んでますんや。

中央がOAPタワーで、その右手が帝国ホテルでっせ。

鉄ちゃん爺やが学生時代には、三菱金属の工場でした。

戦前までは造幣局と関連のお仕事が有ったんでしょうな。

現在はOAP(大阪アメニティパーク)という名前で
高層ビルと帝国ホテルなどが集まってますんや。

(大塩平八郎の乱 石碑)


大塩平八郎の乱で、樹齢200年の「えんじゅ」の木が
裂けたまま残っていたそうですが、近年に枯れたとか。

新しい苗木を植えて、保存しようとのことでした。

天保時代に江戸から来た上級武士の腐敗を憤り
大塩平八郎の乱を起こすも鎮圧されたんでしたな。

大阪では今でも人気のある与力さんですかな。

(造幣局工場の一角)




(造幣局の 職員官舎)


大塩平八郎は大坂東町奉行所の与力として現在の造幣局
職員官舎の辺りに住んでいて、大坂城の近くに在った
東町奉行所に出勤していたそうですわ。

現在も周辺に「与力町」「同心町」などの地名が残ってまぁ。

(大川に架かる 川崎橋)




江戸時代には橋は無くて、「川崎の渡し」が在ったそうで
左手に大阪城や奉行所の役人が住んでいたんだって。

「川崎の渡し」が昔の通勤電車だったようでんな。

右手に写ってませんが大坂城が有りますんや。

橋の名前は当時の「川崎の渡し」から採用でっしゃろな。

座間神社の方は機会を改めて紹介させて貰いまひょ。

今日はこれでお仕舞にしまっさ。

ほんなら これで さいなら~🎵
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造幣局・桜の通り抜けを 写してきましたで~🎵

2017-04-17 13:12:28 | 
4月11日~4月17日 造幣局・桜の通り抜けでっせ。

大阪の春を呼ぶ催しでおます、1週間で約70万人が
桜の通り抜けを観るために、押し寄せると言われてますんや。

(2017年度 桜の通り抜け ポスター)


鉄ちゃん爺やも3年ぶりに天満橋から参加しましたで。

まずは、八軒家浜から紹介しまひょかな。

(天満橋駅裏手に在る 八軒家浜の標識)


淀川の本流になりまんねんけど、地元では大川と呼びまぁ。

江戸時代には京都の伏見と八軒家浜とを三十石船が往復し
夜に伏見を出ると、翌朝に八軒家浜に着いたそうですわ。

森の石松の浪曲にでてくる一節はこの三十石船が伏見から
下る淀川での船の中で交わされたお話になってますんや。

現在は観光用の水上バスの発着場に使われてまっせ。

(八軒家浜から 大川の下流を望む)


奥に見える橋梁が「天神橋」でこの手前で大川は二つに別れ
向かって右側が堂島川となり左手が土佐掘川となりまんねん。

堂島川と土佐堀川の間が中之島と呼ばれる処になりますんや。

(八軒家浜の 対岸は桜並木)


明治時代までは天満の青物市場が在ったんだそうです。

ソメイヨシノの桜は満開を過ぎて散り始めてましたで。

この桜並木から右手へ約800mぐらいの処に前々回に
紹介した大阪天満宮がおまして7月25日の天神祭では
この大川で賑やかに「船渡御」が行われるんでっせ。

(八軒家浜から 天満橋を撮影)




造幣局・桜の通り抜けを見物する人が大勢で天満橋を渡ってはりまぁ。

天満橋は二段構造になってまして、車が上段を通過して行きまっけど
下段にも側道が有って天満橋駅とか土佐堀通りなどへ行けますんや。

それじゃ鉄ちゃん爺やも天満橋を渡り造幣局へ向かうことにしまひょ。

(天満橋から 八軒家浜の方向を撮影)


天満橋の上から先程いた八軒家浜の方を振り返って見ましたで。

京阪シテイーモールと地下には京阪電鉄の天満橋駅がおますんや。

昔は松坂屋がおましたけど、現在は京阪モールに変わってまぁ。

(天満橋から 大川の彼方に天神橋を望む)


ここから天神橋までは約1kmぐらいの距離でっしゃろか。

今日は日曜日なので、見物人も一番多いんでしょうな。

(造幣局・桜の通り抜けのルート)




(造幣局の 南門付近)


桜の通り抜けという名称なんで南門から北門へ向けて一方通行!

明治時代から続く大阪のイベントで桜の見物は無料なんでっせ。

最終日の明日は雨だとの予報で、今日は特に人出が多いでんな。

(紅笠=べにかさ)






3年前にはここは「関山」という品種がお出迎えだったはず。

桜守りの方が植え替えたり、手入れをされているようでんな。

(須磨浦普賢象=すまうらふげんぞう)








(高遠小彼岸桜=たかとうこひがんざくら)




葉桜に成っているという事は、散ってしまったのかしら?

山桜系のはずで、こんなに早くお仕舞になるとは不思議。

(八重桜の 名前が不明)






名札を写したつもりなんでっけど、写し忘れのようですわ。

名前をご存じの方が、いらっしゃったらコメントくださいね。

鬱金(うこん)が光線の加減で白っぽいのかもしれまへん。

(関山=かんざん 代表的な八重桜)










造幣局に植えられている八重桜の中では一番数が多いとか。

日当たりの好い場所のは葉桜になりつつおます。

散っているものと、このように咲いてるものが有りましたで。

(今年の桜 鬱金=うこん)


(鬱金=ウコン 今年の桜と自分撮り)








造幣局では毎年ながら一品種を選んで、今年の桜として
見物客に公開をして親しんでもらうんだって。

今年は「鬱金=うこん」と呼ぶ難しい名前の桜が選ばれ
見物客も、写真を写す方が大勢と並んではりまっせ。

(造幣局 通り抜けの人出)




(朱雀=しゅじゃく)








(御衣黄=ぎょいこう)






この御衣黄(ぎょいこう)という八重桜は色が珍しく
デジカメで写真を撮る方が多く見られますんや。

八重桜が多い構内で、桜とは思えない色をしてまっしゃろ。

(春日井=かすがい)






(法明寺=ほうみょうじ)








この二品種は前回に訪れた際には記憶が有りまへん。

なにせ109種類も有りますので写し忘れもおますわな。

次は鉄ちゃん爺やが一番好きな、枝垂れ桜でっせ。

(雨情枝垂=うじょうしだれ)












京都・平安神宮の神苑に、紅雨情枝垂(べにうじょうしだれ)
と呼ばれる有名な枝垂れ桜が在ったはず、それと同じ品種かも。

ここ造幣局の通り抜けでも、ひときは目立つ存在でっしゃろな。

(雨宿=あまやどり)






(松前琴糸桜=まつまえこといとさくら)






(伊豆最福寺枝垂=いずさいふくじしだれ)






(造幣局の工場 一番南の付近)


この辺りが造幣局の通り抜けで中間地点になりまぁ。

今は欄干だけの「めがね橋」でっけど、明治時代には
大川(淀川)から導いた運河のような物だったとか。

(造幣局構内 めがね橋で小休止)






(造幣局 旧正門)








造幣局の工場が改装された際に移設されたんだって。

大正時代までは大阪8連隊の兵隊さんが衛兵として門の横の
詰め所前で厳めしく立って警備していたんだそうな。

国の重要文化財に指定されてもいいような建造物なんですよ。

現在も許可がなければ工場の内部には立ち入りが禁止でっせ。

それでは~ 後半は鉄ちゃん爺やの、書き込みは抜きで
造幣局の八重桜を貼り付けて置きますので、ご覧ください。

(林二号)




(造幣博物館 PR用の銘板)


(造幣博物館前を 通過)


(造幣局 工場見学用入口)


(楊貴妃=ようきひ)




(夕暮=ゆうぐれ)






(白雪=しらゆき)




(養老桜=ようろうさくら)






(小手毬=こてまり)






(八重紅枝垂=やえべにしだれ)






(大島桜=おおしまざくら)






(桜の木に 短歌の短冊)


(紅手毬=べにてまり)








(渦桜=うずさくら)






(南殿=なでん)




(江戸=えど)






(兼六園菊桜=けんろくえんきくざくら)






(祇王寺祇女桜=ぎおうじぎじょざくら)






(林一号)




(帆立=ほたて)






(糸括=いとくくり)






(紅提灯=べにちょうちん)






これで造幣局・桜の通り抜けはお仕舞ですよ。

出口は二か所でっけど、国道1号線の方へ出まひょ。

(造幣局 通り抜け 大川沿いへの出口)


(造幣局 通り抜け 北門の出口)




(造幣局 街路灯にも さくら)


(造幣局 正門前で 自分撮り)




長くなりましたので、本日はこれにて終了としまっせ。

次回は泉布館から座摩神社を紹介しまひょ。

ほな~ さいなら~🎵



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和泉の国一之宮 大鳥大社を 再び訪れて

2017-04-08 19:39:31 | 神社
(225系 JR西日本 郊外型電車)


(JR阪和線 鳳駅名標)


大鳥大社までここから徒歩で約15分ぐらい。

昨年の4月に訪れた際は神職さん不在でしたんや。

ご朱印を頂けなかったので再度の参拝ですわ。

(大鳥大社 一の鳥居)


(大鳥大社の 由緒書き)




前回は平日でもあり、別に気にもしまへんでした。

ここはご朱印が貰えないんだ、ぐらいで済ませた感じ。

その直後に47都道府県を山形県にて完全踏破してみると
次は何を目標にして、日本各地を訪ねるか考えましたんや。

(河内の国 一之宮 枚岡神社)


昔の日本国には六十六州が在り、その各地に平安時代から
最も崇拝されていた「一之宮」「一宮」と呼ばれる
神社が、現在も存在する事に気が付きましたんや。

もうこの歳だから六十六州の全ては回り切れないが
半分ぐらいでも、訪れて観ることにしますかな。

やはり地元の大阪府からスタートするのが基本でっしゃろ。

我が町を含む「河内の国」の一之宮は枚岡神社ですわ。

恥ずかしながら、我が街の一之宮にあたる枚岡神社に
昨年11月に初めて参拝したような鉄ちゃん爺やですけど。

(河内の国 枚岡神社=ひらおかじんじゃ ご朱印)


そして摂津の国では「住吉大社」さんになりまんねん。

ここも昨年の9月に、ご朱印を貰ってますんや。

(摂津の国 住吉大社 ご朱印)


現在の大阪府は昔の国で云えば「摂津」の東半分「河内」
そして「和泉」の三か国から出来ましたんですわ。

「摂河泉=せっかせん」三つ合わせて、こう呼ぶ事も。

そんな訳で三つ目の「大鳥大社」へ出かけましたんや。

(和泉の国 一之宮 大鳥神社 ご朱印)


これで「摂津」「河内」「和泉」の全てが完了!

と思ったら、摂津には「坐摩神社=ざまじんじゃ」が
他にもう一つ、在ることが分かりましたがな。

ここは大阪の船場におます、今月中にも行けまっしゃろ?

(大鳥大社の ご神域)




大鳥大社は周囲が約4kmぐらいの深い森になってまぁ。

ここは日本武尊(ヤマトタケルノミコト)をご祭神に
大鳥連祖神(オオトリノムラジオヤガミ)さまなども
合わせてお祀りされてますんや。

大鳥連(おおとりのむらじ)が本来の氏神さんで
ヤマトタケルノミコトを後からお祀りしたんだろうな。

日本武尊(ヤマトタケルノミコト)のお墓は我が家から
北西に約500mぐらいの処に大きな古墳が在るんですわ。

そんな訳で我が街とも深い、ご縁が有るお方なんでっせ。

(日本武尊=ヤマトタケルノミコトの銅像)


日本書紀を紐解けば、景行天皇の皇子で東国へ征伐に向かい
現在の静岡県や千葉県で豪族を服従させ、ヤマトへの帰路
伊吹山での戦いで大きな傷を負い現在の三重県亀山市で死亡。

日本武尊(ヤマトタケルノミコト)のご遺体は白鳥となり
ヤマトの御所市を経由して河内の国は古市に降りた後に
最後はここ大鳥の森に留まわれたと記されてますんや。

我が街にも「白鳥神社」が在り、お祀りをされてまっけど。

(大鳥大社の ご神紋)


ヤマトタケルノミコさまの象徴は「白鳥」ですわ。

その「白鳥」をご神紋にされているようでんな。

(大鳥大社 二の鳥居)


前回に訪れた際には、この鳥居は丸い柱で出来ている
普通に考えて写真も撮らなかったような記憶ですわ。

だけどネットで検索したら柱は八角で造られていると判明。

(大鳥大社 八角の柱で造られた 二の鳥居)


八角の柱で出来た珍しい鳥居だと、今回は確認しましたで。

鉄ちゃん爺やも、こんな鳥居を見た記憶がおまへんわ。

(大鳥大社 拝殿)






(立派な 桧皮葺の屋根)


大鳥大社は出雲大社に次ぐ古い建築の様式だと云われ
この建て方を「大鳥造り」と呼ぶんだって。

拝殿の裏手に本殿が見えてますが中には入れまへんで。

(大鳥大社の 本殿)




ネットで調べると一之宮は一つだけじゃ無いんだとか。

神社同士の争いもあって複数の一之宮が存在するそうで
五畿内を外れると三つも四つも有っても不思議じゃない。

でも伊勢神宮の様に別格で一之宮に含めない神社も
全国には多くあるようにも聞いてますんや。

出雲大社だとか熊野那智大社に熱田神宮などの皇室に
関連するような神社は、確かに選ばれてまへんな。

だから当時の朝廷の支配下に無かった東北北部や
北海道には一之宮など本来は存在しまへんのや。

基本的には西暦927年(延喜5年)に完成した
延喜式の第9巻~10巻に記載されている神社から
式内社(しきないしゃ)と呼ぶんだけどね。

選ばれたそうで当時の国司が赴任すると真っ先に
参拝したのが一之宮と呼ばれる神社なんだって。

一之宮から三之宮までが普通は選ばれたようだけど
上野の国では一之宮から九之宮まで有るのには驚き!

これから全国の一之宮を訪れながら、色んなお話を
順番に紹介しようと考えてますんや。

明治以降になってから「一之宮」を名乗るようになった
北海道神宮などは「新一之宮」と呼ぶことも有るとか。

それじゃ今日はこれでお仕舞にしまひょ。

ほんなら~ これで、さいなら~🎵



























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大阪くらしの今昔館を訪ねて

2017-04-01 17:02:31 | 大阪
大阪も3月31日に桜が開花しましたで。

例年よりも2日遅れでの開花だそうですわ。

(小鳥が啄んで落とした 桜の小枝です)


少し前に予告してました「大阪くらしの今昔館」を
今回は写真を交えながら、紹介しまひょ。

1か月前の画像になりますが、ご容赦くださね。

(天神橋6丁目 大阪くらしの今昔館)






2001年(平成13年)4月に大阪市が建設した
住宅の情報や相談を受け付けるビルとしてスタート。

1階~2階  三井住友銀行

3階~7階  住まい情報センター

8階~10階 大阪くらしの今昔館

(大阪くらしの今昔館 パンフレット)


(大阪くらしの今昔館 入場券)(600円+200円)


(特別展示 浪花の豪商の 雛道具展)


常設展示会場は600円なんでっけど、特別展示の
200円を合わせて、合計800円の入場料金でした。

(特別展示会場 入場者のシール)


こんなシールを胸のあたりに貼り付けてから入場。

土曜日だったので思ったより入場者が多いようでんな。

(大集合の お雛さま)






S大学の方が並べられたとかで、見事なお雛さま。

50組以上はあるようだが並べるだけでも大変でっせ。

(男雛と女雛の配置 説明書き)


江戸時代から明治にかけてのお雛さまは、撮影が禁止!

フラッシュなしで写させてくれればいいのに~

200円もの特別料金を払わせて、文句も言いたいね!

常設展示会場の方へ行くことにしまひょ。

(大阪くらしの今昔館 常設会場入り口)


(8階から エスカレーターで10階へ)


(エスカレターの側壁に 絵図)


10階に登ると江戸時代の天保年間の大坂の町家が
一望できるような仕組みに成ってますんや。

数年前に亡くなられた人間国宝・桂米朝さんの音声が
流れてくるので、大阪人としては懐かしいでんな。

(江戸時代 天保年間 大坂の町家)




入場者が10階から見下ろされている訳でんな。

9階に下りると、江戸時代の雰囲気を味わえる町家が
再現されているので、一見の価値はおますけど。

(江戸時代の再現された町家と 自分撮り)


(再現された町家の内部 江戸時代のお雛さま?)




続いて8階へ降りることにしまひょ。

こちらは明治から昭和の時代の大阪を展示してますんや。

フロアーに明治時代の大阪市内の絵地図が描かれてまっせ。

(大阪市東区 本町橋付近)


東横堀川がここだけ曲がってまして「本町の曲り」と呼び
その左手、川を背にして大きな倉庫が描かれてますんや。

大阪の大空襲で倉庫は焼失しましたが、戦後に建て替えられ
鉄ちゃん爺やが、昭和の40年代~昭和55年まで管理を
任されていた場所になりますんや。

(大阪8連隊 & 大阪37連隊)


画像に東と書かれた上が37連隊の兵舎で、上町筋を挟んで
右側に8連隊の兵舎が描かれていますんや。

現在この辺りは「難波の宮跡」の保存公園になってまっせ。

画像の上部が大阪城・大手前広場に成り、写りませんでしたが
その上の方角に大阪城の天守閣がおますんや。

(大阪市西区 西道頓堀付近)


画像の右端が国鉄の湊町駅で現在はJR難波駅になりまぁ。

中央やや上に川が描かれているのが道頓堀川でっせ。

有名なグリコの看板より西へ約500mぐらいでっしゃろか。

住吉橋と書かれた上部に、カメラの光が見える辺りが
戦前は民家が並んでましたが、大阪大空襲で焼失し
戦後に、鉄ちゃん爺やが勤めた会社が建てられたとか。

現在は病院と進学塾に変わってしまいましたけど。

鉄ちゃん爺やが入社した頃には千坪ぐらいの倉庫と
2階建ての事務所になってましたんや。

(昭和時代の ミシン)


我が家にも昭和の30年代には1台おましたで。

電動式じゃなくて、足踏み式ですがな、懐かしい代物でんな。

(昭和20年代の ラジオ)


(都市ガス用の ガスコンロ)


我が家も昭和の30年代にはこれでご飯を炊いていたね。

確か器具は鋳物製で、表面だけ塗装がされていたのかな。

(白黒時代の テレビ)


これも昭和30年前後には定番の白黒テレビだったかな。

鉄ちゃん爺やも料金10円ぐらい払ってNHKが実況した
大相撲の栃錦・若乃花の対戦に手に汗握った記憶がおます。

当時は庶民の家庭ではテレビが買えなくて、我が家でも
テレビを買ったのは昭和32年になってからだと記憶する。

昭和30年前後には10円払って駄菓子を買ってから
店の奥にある自宅でテレビを見せてもらった時代でしたな。

(東芝製 4枚羽の扇風機)


当時は東芝ってモーターでは日本でも1~2位のメーカー。

現在はアメリカでのWH社の1兆円を超える赤字で青息吐息。

現在の扇風機って3枚羽が普通になっているよね。

(こちらは戦前の 新世界と通天閣の模型)


(大正時代に写された 新世界と通天閣)


戦争中に金属の供出で取り壊され、現在のは二代目で
鉄ちゃん爺やが中学生時代の昭和31年完成だったはず。

(昭和30年代~40年代 小学校の机と椅子)








形は似ているけど、鉄ちゃん爺やが小学生の頃のは
もっと表面も傷んで、黒く汚れた机と椅子だった記憶。

なにせ戦前の国民学校時代から使われていた代物のはず。

所々に松か杉か忘れたか、節が抜けて穴も開いていたかな。

(大阪くらしの今昔館 案内板と自分撮り)


最後は我が家の庭に咲いている花を貼り付けて置きまひょ。

やっと、大阪にも春の花が咲きそろった感じでがしまぁ。

(レンギョウの花)


(桜草の花)


(雪柳の花)


(クリスマスローズの花)








(ヒャシンスの花)




これにて、本日はお仕舞にさせてもらいまひょ。

ほな~ これで、さいなら~🎵
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鉄ちゃん爺や 天六ゴーストップ事件を語る

2017-03-26 13:02:15 | 大阪
鉄ちゃん爺やが生まれる前の、お話でっけど。

1933年(昭和8年)6月17日のこと。

大阪市大淀区(現在は北区)天神橋筋6丁目の
交差点で起きた、小さな出来事でしたんや。

(天神橋筋6丁目 駅名標)


大阪8連隊の中村一等兵(22)が赤信号を無視し
京阪電鉄の天神橋駅前から大阪市電の停留所に向けて
渡ろうとしたのを曽根崎警察所の戸田巡査(25)が
発見し派出所に連行した際に事件が発生しましたんや。

中村一等兵は休暇で実家の東淀川区から京阪電車で
天神橋駅まできて、大阪市電で映画を見るために
新世界辺りへ向かう途中だったとのこと。

(新京阪 天神橋駅舎) (事件当時は京阪電鉄)


新京阪の呼び方は鉄ちゃん爺やが学生時代まで
使われてまして、阪急電鉄では他所者扱いの感じ。

戦後に京阪神急行から京都線と千里線は、何故か
現在の阪急電鉄に移行されてますんで念のため。

現在は単なる阪急電鉄と大阪市営地下鉄の連絡駅で
1969年(昭和44年)に地下駅舎に成ってまぁ。

でも~ 当時は京阪電鉄の天神橋駅という始発駅で
淀川右岸から京都市内への重要な駅だったそうです。

超特急の京阪電車が大山崎付近で当時は国鉄だった
「特急はと」を追い抜いたとの話題が残ってますんや。

この天神橋駅舎の裏手に天六の派出所が在ったとか。

(現在の 天六交差点 ビル8階より撮影)


(現在の 天六交差点を 平地から撮影)


現在も天六交差点は五差路になってますが、画像の
右奥へ行くと大阪市の中津を経由して野田方面へ。

左奥へ行くと国鉄の大阪駅になり当時は大阪市電が
画像の左右に当たる天神橋筋で交差をしてましたんや。

(右側が 当時は京阪電鉄 天神橋駅舎)


この画像の左下になる道路で事件は起こったようでんな。

「帝国軍人が巡査ごときに逮捕される、いわれがない!」

「軍人であろうが、赤信号の無視は交通違反だ!」と争論に。

「ちょっとこい!」 と天六の派出所に連行したらしい。

「軍人は憲兵以外には、逮捕される訳がない!」

挙句の果てに殴り合いの喧嘩となり双方が負傷したとも。

「兵隊さん巡査にいじめられてる」と野次馬が電話で
憲兵隊に通報したので、憲兵が飛んできたんだって。

双方が先に手を出したと、譲らなかったんだとか。

憲兵が中村上一等兵を無理やりに8連隊へ連れ戻り
事件を完全に無視しようとしたんだとの事。

(大阪 曽根崎警察署) (画像右側の建物)


曽根崎警察署の高柳署長と、8連隊の和田連隊長が共に
公用でこの日は外出していたので、事件は上層部に波及。

「陛下の赤子(せきし)を殴って怪我をさせるとは
  けしからん、大阪府警本部に詫びを入れさせろ!」

8連隊の上層部である第4師団の寺内寿一師団長が激怒。

(第4師団司令部)(今も大阪城内に現存)


この第4師団司令部は大阪城の天守閣と同時に、大阪市民の
寄付金150万円の内80万円で完成したのが前年の11月。

大阪城の天守閣の方は約47万円で完成したそうですわ。

この寺内寿一師団長は後の太平洋戦争では南方総軍の元締め
総司令官として君臨した、後の東条英機首相より先輩でおます。

これに対して大阪府警本部長の粟屋仙吉が反論を開始した。

「兵卒が陛下の赤子ならば、巡査も陛下の警察官である!」

「公用外出でなければ、民間人として逮捕するのは当然だ!」

「まして兵隊は武官ではない 文官であるはずだ!」

よって中村一等兵を曽根崎警察署に速やかに引き渡せと通告。

この粟屋仙吉という堅物の方は昭和20年に広島市長に就任し
8月6日の原爆投下により市長公舎で被爆され即死されてまぁ。

(当時の 巡査の夏服) (昭和15年頃の画像)


はでな服やパーマネントをしている女性を注意している画像。

天六ゴーストップ事件より少し後ですが感覚は同じでっかな。

話はこじれて、陸軍大臣荒木貞夫までが乗り出してきたとか。

この方も「瞬間湯沸かし器」と呼ばれた熱血漢の軍人ですわ。

後に東京極東裁判でA級戦犯となるも11人の判事さんの内
5名が絞首刑に賛成で1名足らずで終身刑になったとも。

戦後にも影響力を残して活動をされ奈良県の十津川で急病死。

片や戦前には全国の警察署は内務省の管轄にあったそうでんな。

当時の内務大臣山本達雄が一歩も引くなと訓令をだす始末。

必要ならば中村一等兵に私服の刑事を尾行させよとも発言。

大阪の裁判所も大阪府警側を支持し民間人を応援したとも。

第4師団も和田巡査を8連隊に召集させろといやがらせを。

兵隊と巡査の小さな争いが陸軍と内務省の大きな争いに発展。

メンツをかけた争いが、どんな結末を迎えるのか市民も注目。

曽根崎警察の高柳署長が7月に心労から病気で急死する事態に。

目撃者が大阪府警と憲兵隊の両方から事情聴取され、この方も
国鉄の吹田操車場で貨物列車に飛び込み自殺をされますんや。

世間はこの出来事を「天六ゴーストップ事件」と呼んだらしい。

(昭和天皇の 大阪第4師団 視察)(昭和7年の画像)


先頭を歩かれる昭和天皇が民間から寄贈された防空用の
聴音機を大阪城の大手前広場で視察された写真だそうです。

今から考えたら役に立たない防空用機械で笑い話でっけど。

6月に発生した事件が9月には双方が相手方を告訴するに発展。

泥沼のような争いは、大阪の新聞を大いに賑わしたんだって。

大阪の寄席では漫才のネタにも取り入れられたそうでっせ。

大阪市民も当初は陸軍側を良しとしたが、あまりにも陸軍側の
横暴に警察や内務省を支持するように変わってきたんだとか。

何処から聞かれたのかは不明だが、昭和天皇のお耳に届いたらしい。

「ゴーストップ事件と云うのが有るそうだが、どうなったのか?」

12月に福井県まで昭和天皇が来られる予定も迫っていたらしい。

この一言に、荒木陸軍大臣は大いに恐懼して友人の兵庫県知事に
斡旋を求め、大阪府知事の調停もあって一件落着にしたんだって。

5か月間も解決しなかった天六ゴーストップ事件が天皇陛下の
一言で、一転して解決したのには大阪市民も驚いたようですわ。

(昭和15年に完成の 国鉄大阪駅舎)(三代目)


11月18日に中村一等兵と戸田巡査が、お互いに詫びて
検察庁の官舎に出向いて握手をしたんだって。

8連隊の和田連隊長と曽根崎警察署の増田新署長が8連隊の本部で
11月20日に和解の握手をし、最終的に解決とされてますんや。

詳しい和解の条件は発表されてませんが、当時の陸軍の横車で
大阪府警や曽根崎警察署が譲歩し、折れたとも言われてますな。

でも当時は信号機はまだ珍しいらしく、中村一等兵も信号機に
気が付かなかったようなことが原因だったとの説も。

法律的には赤信号で渡れば交通違反と決まったのは戦後の
昭和22年の道路交通法からだとの説もあるんだとか。

でも、この一件が有った後には、帝国軍人は違反をしても
憲兵しか、取り締まれなくなったろの法律が出来たらしい。

軍人が政治や民間に優先する風潮が強まったのも事実。

大阪人はこんな冗談を当時ですが流行らせたんだって。

「赤信号 兵隊さんと渡れば 怖くない」

(大阪の春木海岸で 高射砲の実弾訓練)(第4師団も参加)


(現在の ジオタワー天六 低層部)


新京阪駅舎は1969年(昭和44年)に地下に新駅が完成後
天六阪急ビルと変わり、平成22年まで存在していたそうです。

貴重な建物で保存したいとの声も出たらしいが、所詮は阪急さん
京阪電鉄さんが建てたビルなので関心すらなかったとの話が。

現在は取り壊されて、高層ビルに成り、大通り側の低層部のみ
天六阪急ビル当時の外壁の色で生まれ変わっているようでんな。

蛇足ながら「また負けたか 8連隊」こんな歌がおますけど。

大阪の市民から招集された兵隊さんなので弱いとされた?

でも日露戦争では南山の戦いで1日で4千人を超える死傷者を
出しながら、一番乗りを果たしたのは大阪の8連隊でした。

太平洋戦争でもフイリピンで苦戦するバターン半島の戦いで
応援に駆け付けて8連隊が攻略し、コレヒドール島も占領。

決して大阪の8連隊が弱かったとは言えないんですよ。

天六ゴーストップ事件の書き込みが長くなりましたので
「大阪くらしの今昔館」は次回に回させて貰いまっさ。

最後に関西で春の風物詩と言われる「いかなごの釘煮」を
画像で貼り付けて置きまひょ。

(いかなごの釘煮)


ほんなら~ これで、さいなら~🎵

戦前の古い画像は我が町の図書館の写真集より拝借しました。











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