鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

泉布観 & 旧桜宮公会堂

2017-04-29 19:23:43 | 国宝 & 重要文化財
花粉症でブログを10日ほどお休みしてました。

我が家の「松」に花粉が現れるとダメなんですわ。

「杉」や「ヒノキ」の花粉は良く知られてまっけど
鉄ちゃん爺やの「松の花粉症」は珍しいのかも?

前回は造幣局・桜の通り抜けを紹介しましたな。

今回は造幣局と国道1号線を挟んだ反対側に
隠れた名所がおますんで、それを紹介しまひょ。

(桜宮橋から 大川を撮影)


(桜宮橋でUターンする水上バス)


やや右手に大阪城の天守閣が頭だけ覗かせてまっせ。

昔は全体が良く見えたんでっけど、ビルと樹木が
大きくなって、残念ながら分かりずらいでんな。

(桜宮橋 & 新桜宮橋)




画像の右手が桜宮橋(さくらのみやばし)で
1930年(昭和5年)完成で銀色の塗装でっしゃろ。

通称「銀橋=ぎんばし」と呼ぶことの方が多いでんな。

左側は「新桜宮橋」で206年(平成18年)に完成し
こちらの設計は、安藤忠雄さんなんだって。

旧の桜宮橋の方が西行きの一方通行で、東京の日本橋から
約630kmを経て、国道1号線が大きな川を渡る
ここが最後の橋となってますんや。

撮影しているのは大阪市の北区で、画像の奥へ渡ると
大阪市の都島区となるんだそうですわ。

それでは造幣局前の横断歩道を歩いて向かいまっせ。

(泉布観=せんぷかん) (国の重要文化財に指定)


「泉布=貨幣のこと」 「観=立派な館の意味」

1872年(明治5年)に明治天皇が造幣局に行幸され
「泉布観」と命名されたと言われてますんや。

1871年(明治4年)に完成した大阪市内では
一番古い洋館式の建物で、当時は応接所だったとか。

天皇陛下や皇族方や外国の要人が造幣局に来られたら
この応接所が使われていたんだって。

(造幣局の正門から 泉布観の全体を撮影)


(重要文化財 泉布観の 石碑)


(泉布観を 北側から撮影)




毎年3月中旬に3日間だけ大阪市に申請して抽選で
400名X3日で内部が公開されるそうですわ。

今年も3月11日~13日まで一般公開だったとか。

毎年1月の申し込みで、鉄ちゃん爺やも来年ぐらいは
一度ぐらい申請してみようかなと考えてますんや。

市民の寄付金で補修が完成したという経緯もあるとか?

普段は外部だけが無料で見学できるようになったとか。

貴重な建物なので、保存が第一なんでしょうな。

(泉布観の説明板)


(泉布観を 南東側から撮影)


(泉布観と 自撮り)


造幣局は1869年(明治2年)にイギリスの香港から
解体した建物と機械を組み立ててスタートしたんだって。

今は残ってまへんが、香港に在った造幣局の廃材だったとか。

当時のお金で約97万両もの大きな建築費だったそうでっせ。

ところで、造幣局の本庁が大阪に置かれているのは何故か?

他には東京から移転した埼玉と広島に支局がおますけど。

こんな話が、大阪には残ってますんや。

(旧造幣寮鋳造所 玄関) (国の重要文化財に指定)


現在は造幣局と呼びますが、当時は造幣寮(ぞうへいりょう)で
当時の鋳造所玄関の一部が、隣接地に保存されてますんや。

1868年(明治元年)に計画された頃、東京はまだ討幕の
雰囲気が残り、貨幣を造れるような安全な場所ではなかった。

大坂なら明治新政府に資金面でも協力が得られるとのこと。

それと共に、大坂は江戸時代から経済の中心で、当時は首都も
大坂に置くべきだとの考え方も有ったんだそうですわ。

大坂商人は明治新政府に討幕の軍資金を大量に納めたんだって。

大坂が首都に成るのならと上納した商人も多かったとか。

首都は東京へ軍資金は踏み倒しで、後は知らぬ存ぜぬとの話。

大坂商人は騙されて、倒産した大店も多数あったとか。

現在も東京に遷都されたとの文書はないとも言われてまんな。

天皇陛下は江戸へ行幸され、まだお帰りになってまへん(笑い)

京都御所は今でも皇居でおます、京都市民のダジャレでっせ。

(旧造幣寮鋳造所 玄関)(現在は 旧桜宮公会堂)


玄関部分のみが国の重要文化財に指定されてますんや。

(旧明治天皇記念館の説明板)(現在は 旧桜宮公会堂)


1935年(昭和10年)に造幣寮鋳造所玄関を移設して
明治天皇記念館としてオープンしたと記されてまんな。

戦後は大阪市の桜宮図書館として使用された時代を経て。

現在は「旧桜宮公会堂」という名前で結婚式場だとか
音楽の演奏会場などに使用されていると聞いてますんや。

こちらは内部にも入れるそうですが、この日はクラシック
音楽の会場として使われていたので入場できまへんでした。

高級なレストランも併設されているようでっけど。

それでは戻ることにしまひょうかな。

(OAPタワー & 帝国ホテル)


「泉布観」の裏側には大きなビルが並んでますんや。

中央がOAPタワーで、その右手が帝国ホテルでっせ。

鉄ちゃん爺やが学生時代には、三菱金属の工場でした。

戦前までは造幣局と関連のお仕事が有ったんでしょうな。

現在はOAP(大阪アメニティパーク)という名前で
高層ビルと帝国ホテルなどが集まってますんや。

(大塩平八郎の乱 石碑)


大塩平八郎の乱で、樹齢200年の「えんじゅ」の木が
裂けたまま残っていたそうですが、近年に枯れたとか。

新しい苗木を植えて、保存しようとのことでした。

天保時代に江戸から来た上級武士の腐敗を憤り
大塩平八郎の乱を起こすも鎮圧されたんでしたな。

大阪では今でも人気のある与力さんですかな。

(造幣局工場の一角)




(造幣局の 職員官舎)


大塩平八郎は大坂東町奉行所の与力として現在の造幣局
職員官舎の辺りに住んでいて、大坂城の近くに在った
東町奉行所に出勤していたそうですわ。

現在も周辺に「与力町」「同心町」などの地名が残ってまぁ。

(大川に架かる 川崎橋)




江戸時代には橋は無くて、「川崎の渡し」が在ったそうで
左手に大阪城や奉行所の役人が住んでいたんだって。

「川崎の渡し」が昔の通勤電車だったようでんな。

右手に写ってませんが大坂城が有りますんや。

橋の名前は当時の「川崎の渡し」から採用でっしゃろな。

座間神社の方は機会を改めて紹介させて貰いまひょ。

今日はこれでお仕舞にしまっさ。

ほんなら これで さいなら~🎵
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造幣局・桜の通り抜けを 写してきましたで~🎵

2017-04-17 13:12:28 | 
4月11日~4月17日 造幣局・桜の通り抜けでっせ。

大阪の春を呼ぶ催しでおます、1週間で約70万人が
桜の通り抜けを観るために、押し寄せると言われてますんや。

(2017年度 桜の通り抜け ポスター)


鉄ちゃん爺やも3年ぶりに天満橋から参加しましたで。

まずは、八軒家浜から紹介しまひょかな。

(天満橋駅裏手に在る 八軒家浜の標識)


淀川の本流になりまんねんけど、地元では大川と呼びまぁ。

江戸時代には京都の伏見と八軒家浜とを三十石船が往復し
夜に伏見を出ると、翌朝に八軒家浜に着いたそうですわ。

森の石松の浪曲にでてくる一節はこの三十石船が伏見から
下る淀川での船の中で交わされたお話になってますんや。

現在は観光用の水上バスの発着場に使われてまっせ。

(八軒家浜から 大川の下流を望む)


奥に見える橋梁が「天神橋」でこの手前で大川は二つに別れ
向かって右側が堂島川となり左手が土佐掘川となりまんねん。

堂島川と土佐堀川の間が中之島と呼ばれる処になりますんや。

(八軒家浜の 対岸は桜並木)


明治時代までは天満の青物市場が在ったんだそうです。

ソメイヨシノの桜は満開を過ぎて散り始めてましたで。

この桜並木から右手へ約800mぐらいの処に前々回に
紹介した大阪天満宮がおまして7月25日の天神祭では
この大川で賑やかに「船渡御」が行われるんでっせ。

(八軒家浜から 天満橋を撮影)




造幣局・桜の通り抜けを見物する人が大勢で天満橋を渡ってはりまぁ。

天満橋は二段構造になってまして、車が上段を通過して行きまっけど
下段にも側道が有って天満橋駅とか土佐堀通りなどへ行けますんや。

それじゃ鉄ちゃん爺やも天満橋を渡り造幣局へ向かうことにしまひょ。

(天満橋から 八軒家浜の方向を撮影)


天満橋の上から先程いた八軒家浜の方を振り返って見ましたで。

京阪シテイーモールと地下には京阪電鉄の天満橋駅がおますんや。

昔は松坂屋がおましたけど、現在は京阪モールに変わってまぁ。

(天満橋から 大川の彼方に天神橋を望む)


ここから天神橋までは約1kmぐらいの距離でっしゃろか。

今日は日曜日なので、見物人も一番多いんでしょうな。

(造幣局・桜の通り抜けのルート)




(造幣局の 南門付近)


桜の通り抜けという名称なんで南門から北門へ向けて一方通行!

明治時代から続く大阪のイベントで桜の見物は無料なんでっせ。

最終日の明日は雨だとの予報で、今日は特に人出が多いでんな。

(紅笠=べにかさ)






3年前にはここは「関山」という品種がお出迎えだったはず。

桜守りの方が植え替えたり、手入れをされているようでんな。

(須磨浦普賢象=すまうらふげんぞう)








(高遠小彼岸桜=たかとうこひがんざくら)




葉桜に成っているという事は、散ってしまったのかしら?

山桜系のはずで、こんなに早くお仕舞になるとは不思議。

(八重桜の 名前が不明)






名札を写したつもりなんでっけど、写し忘れのようですわ。

名前をご存じの方が、いらっしゃったらコメントくださいね。

鬱金(うこん)が光線の加減で白っぽいのかもしれまへん。

(関山=かんざん 代表的な八重桜)










造幣局に植えられている八重桜の中では一番数が多いとか。

日当たりの好い場所のは葉桜になりつつおます。

散っているものと、このように咲いてるものが有りましたで。

(今年の桜 鬱金=うこん)


(鬱金=ウコン 今年の桜と自分撮り)








造幣局では毎年ながら一品種を選んで、今年の桜として
見物客に公開をして親しんでもらうんだって。

今年は「鬱金=うこん」と呼ぶ難しい名前の桜が選ばれ
見物客も、写真を写す方が大勢と並んではりまっせ。

(造幣局 通り抜けの人出)




(朱雀=しゅじゃく)








(御衣黄=ぎょいこう)






この御衣黄(ぎょいこう)という八重桜は色が珍しく
デジカメで写真を撮る方が多く見られますんや。

八重桜が多い構内で、桜とは思えない色をしてまっしゃろ。

(春日井=かすがい)






(法明寺=ほうみょうじ)








この二品種は前回に訪れた際には記憶が有りまへん。

なにせ109種類も有りますので写し忘れもおますわな。

次は鉄ちゃん爺やが一番好きな、枝垂れ桜でっせ。

(雨情枝垂=うじょうしだれ)












京都・平安神宮の神苑に、紅雨情枝垂(べにうじょうしだれ)
と呼ばれる有名な枝垂れ桜が在ったはず、それと同じ品種かも。

ここ造幣局の通り抜けでも、ひときは目立つ存在でっしゃろな。

(雨宿=あまやどり)






(松前琴糸桜=まつまえこといとさくら)






(伊豆最福寺枝垂=いずさいふくじしだれ)






(造幣局の工場 一番南の付近)


この辺りが造幣局の通り抜けで中間地点になりまぁ。

今は欄干だけの「めがね橋」でっけど、明治時代には
大川(淀川)から導いた運河のような物だったとか。

(造幣局構内 めがね橋で小休止)






(造幣局 旧正門)








造幣局の工場が改装された際に移設されたんだって。

大正時代までは大阪8連隊の兵隊さんが衛兵として門の横の
詰め所前で厳めしく立って警備していたんだそうな。

国の重要文化財に指定されてもいいような建造物なんですよ。

現在も許可がなければ工場の内部には立ち入りが禁止でっせ。

それでは~ 後半は鉄ちゃん爺やの、書き込みは抜きで
造幣局の八重桜を貼り付けて置きますので、ご覧ください。

(林二号)




(造幣博物館 PR用の銘板)


(造幣博物館前を 通過)


(造幣局 工場見学用入口)


(楊貴妃=ようきひ)




(夕暮=ゆうぐれ)






(白雪=しらゆき)




(養老桜=ようろうさくら)






(小手毬=こてまり)






(八重紅枝垂=やえべにしだれ)






(大島桜=おおしまざくら)






(桜の木に 短歌の短冊)


(紅手毬=べにてまり)








(渦桜=うずさくら)






(南殿=なでん)




(江戸=えど)






(兼六園菊桜=けんろくえんきくざくら)






(祇王寺祇女桜=ぎおうじぎじょざくら)






(林一号)




(帆立=ほたて)






(糸括=いとくくり)






(紅提灯=べにちょうちん)






これで造幣局・桜の通り抜けはお仕舞ですよ。

出口は二か所でっけど、国道1号線の方へ出まひょ。

(造幣局 通り抜け 大川沿いへの出口)


(造幣局 通り抜け 北門の出口)




(造幣局 街路灯にも さくら)


(造幣局 正門前で 自分撮り)




長くなりましたので、本日はこれにて終了としまっせ。

次回は泉布館から座摩神社を紹介しまひょ。

ほな~ さいなら~🎵



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和泉の国一之宮 大鳥大社を 再び訪れて

2017-04-08 19:39:31 | 神社
(225系 JR西日本 郊外型電車)


(JR阪和線 鳳駅名標)


大鳥大社までここから徒歩で約15分ぐらい。

昨年の4月に訪れた際は神職さん不在でしたんや。

ご朱印を頂けなかったので再度の参拝ですわ。

(大鳥大社 一の鳥居)


(大鳥大社の 由緒書き)




前回は平日でもあり、別に気にもしまへんでした。

ここはご朱印が貰えないんだ、ぐらいで済ませた感じ。

その直後に47都道府県を山形県にて完全踏破してみると
次は何を目標にして、日本各地を訪ねるか考えましたんや。

(河内の国 一之宮 枚岡神社)


昔の日本国には六十六州が在り、その各地に平安時代から
最も崇拝されていた「一之宮」「一宮」と呼ばれる
神社が、現在も存在する事に気が付きましたんや。

もうこの歳だから六十六州の全ては回り切れないが
半分ぐらいでも、訪れて観ることにしますかな。

やはり地元の大阪府からスタートするのが基本でっしゃろ。

我が町を含む「河内の国」の一之宮は枚岡神社ですわ。

恥ずかしながら、我が街の一之宮にあたる枚岡神社に
昨年11月に初めて参拝したような鉄ちゃん爺やですけど。

(河内の国 枚岡神社=ひらおかじんじゃ ご朱印)


そして摂津の国では「住吉大社」さんになりまんねん。

ここも昨年の9月に、ご朱印を貰ってますんや。

(摂津の国 住吉大社 ご朱印)


現在の大阪府は昔の国で云えば「摂津」の東半分「河内」
そして「和泉」の三か国から出来ましたんですわ。

「摂河泉=せっかせん」三つ合わせて、こう呼ぶ事も。

そんな訳で三つ目の「大鳥大社」へ出かけましたんや。

(和泉の国 一之宮 大鳥神社 ご朱印)


これで「摂津」「河内」「和泉」の全てが完了!

と思ったら、摂津には「坐摩神社=ざまじんじゃ」が
他にもう一つ、在ることが分かりましたがな。

ここは大阪の船場におます、今月中にも行けまっしゃろ?

(大鳥大社の ご神域)




大鳥大社は周囲が約4kmぐらいの深い森になってまぁ。

ここは日本武尊(ヤマトタケルノミコト)をご祭神に
大鳥連祖神(オオトリノムラジオヤガミ)さまなども
合わせてお祀りされてますんや。

大鳥連(おおとりのむらじ)が本来の氏神さんで
ヤマトタケルノミコトを後からお祀りしたんだろうな。

日本武尊(ヤマトタケルノミコト)のお墓は我が家から
北西に約500mぐらいの処に大きな古墳が在るんですわ。

そんな訳で我が街とも深い、ご縁が有るお方なんでっせ。

(日本武尊=ヤマトタケルノミコトの銅像)


日本書紀を紐解けば、景行天皇の皇子で東国へ征伐に向かい
現在の静岡県や千葉県で豪族を服従させ、ヤマトへの帰路
伊吹山での戦いで大きな傷を負い現在の三重県亀山市で死亡。

日本武尊(ヤマトタケルノミコト)のご遺体は白鳥となり
ヤマトの御所市を経由して河内の国は古市に降りた後に
最後はここ大鳥の森に留まわれたと記されてますんや。

我が街にも「白鳥神社」が在り、お祀りをされてまっけど。

(大鳥大社の ご神紋)


ヤマトタケルノミコさまの象徴は「白鳥」ですわ。

その「白鳥」をご神紋にされているようでんな。

(大鳥大社 二の鳥居)


前回に訪れた際には、この鳥居は丸い柱で出来ている
普通に考えて写真も撮らなかったような記憶ですわ。

だけどネットで検索したら柱は八角で造られていると判明。

(大鳥大社 八角の柱で造られた 二の鳥居)


八角の柱で出来た珍しい鳥居だと、今回は確認しましたで。

鉄ちゃん爺やも、こんな鳥居を見た記憶がおまへんわ。

(大鳥大社 拝殿)






(立派な 桧皮葺の屋根)


大鳥大社は出雲大社に次ぐ古い建築の様式だと云われ
この建て方を「大鳥造り」と呼ぶんだって。

拝殿の裏手に本殿が見えてますが中には入れまへんで。

(大鳥大社の 本殿)




ネットで調べると一之宮は一つだけじゃ無いんだとか。

神社同士の争いもあって複数の一之宮が存在するそうで
五畿内を外れると三つも四つも有っても不思議じゃない。

でも伊勢神宮の様に別格で一之宮に含めない神社も
全国には多くあるようにも聞いてますんや。

出雲大社だとか熊野那智大社に熱田神宮などの皇室に
関連するような神社は、確かに選ばれてまへんな。

だから当時の朝廷の支配下に無かった東北北部や
北海道には一之宮など本来は存在しまへんのや。

基本的には西暦927年(延喜5年)に完成した
延喜式の第9巻~10巻に記載されている神社から
式内社(しきないしゃ)と呼ぶんだけどね。

選ばれたそうで当時の国司が赴任すると真っ先に
参拝したのが一之宮と呼ばれる神社なんだって。

一之宮から三之宮までが普通は選ばれたようだけど
上野の国では一之宮から九之宮まで有るのには驚き!

これから全国の一之宮を訪れながら、色んなお話を
順番に紹介しようと考えてますんや。

明治以降になってから「一之宮」を名乗るようになった
北海道神宮などは「新一之宮」と呼ぶことも有るとか。

それじゃ今日はこれでお仕舞にしまひょ。

ほんなら~ これで、さいなら~🎵



























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大阪くらしの今昔館を訪ねて

2017-04-01 17:02:31 | 大阪
大阪も3月31日に桜が開花しましたで。

例年よりも2日遅れでの開花だそうですわ。

(小鳥が啄んで落とした 桜の小枝です)


少し前に予告してました「大阪くらしの今昔館」を
今回は写真を交えながら、紹介しまひょ。

1か月前の画像になりますが、ご容赦くださね。

(天神橋6丁目 大阪くらしの今昔館)






2001年(平成13年)4月に大阪市が建設した
住宅の情報や相談を受け付けるビルとしてスタート。

1階~2階  三井住友銀行

3階~7階  住まい情報センター

8階~10階 大阪くらしの今昔館

(大阪くらしの今昔館 パンフレット)


(大阪くらしの今昔館 入場券)(600円+200円)


(特別展示 浪花の豪商の 雛道具展)


常設展示会場は600円なんでっけど、特別展示の
200円を合わせて、合計800円の入場料金でした。

(特別展示会場 入場者のシール)


こんなシールを胸のあたりに貼り付けてから入場。

土曜日だったので思ったより入場者が多いようでんな。

(大集合の お雛さま)






S大学の方が並べられたとかで、見事なお雛さま。

50組以上はあるようだが並べるだけでも大変でっせ。

(男雛と女雛の配置 説明書き)


江戸時代から明治にかけてのお雛さまは、撮影が禁止!

フラッシュなしで写させてくれればいいのに~

200円もの特別料金を払わせて、文句も言いたいね!

常設展示会場の方へ行くことにしまひょ。

(大阪くらしの今昔館 常設会場入り口)


(8階から エスカレーターで10階へ)


(エスカレターの側壁に 絵図)


10階に登ると江戸時代の天保年間の大坂の町家が
一望できるような仕組みに成ってますんや。

数年前に亡くなられた人間国宝・桂米朝さんの音声が
流れてくるので、大阪人としては懐かしいでんな。

(江戸時代 天保年間 大坂の町家)




入場者が10階から見下ろされている訳でんな。

9階に下りると、江戸時代の雰囲気を味わえる町家が
再現されているので、一見の価値はおますけど。

(江戸時代の再現された町家と 自分撮り)


(再現された町家の内部 江戸時代のお雛さま?)




続いて8階へ降りることにしまひょ。

こちらは明治から昭和の時代の大阪を展示してますんや。

フロアーに明治時代の大阪市内の絵地図が描かれてまっせ。

(大阪市東区 本町橋付近)


東横堀川がここだけ曲がってまして「本町の曲り」と呼び
その左手、川を背にして大きな倉庫が描かれてますんや。

大阪の大空襲で倉庫は焼失しましたが、戦後に建て替えられ
鉄ちゃん爺やが、昭和の40年代~昭和55年まで管理を
任されていた場所になりますんや。

(大阪8連隊 & 大阪37連隊)


画像に東と書かれた上が37連隊の兵舎で、上町筋を挟んで
右側に8連隊の兵舎が描かれていますんや。

現在この辺りは「難波の宮跡」の保存公園になってまっせ。

画像の上部が大阪城・大手前広場に成り、写りませんでしたが
その上の方角に大阪城の天守閣がおますんや。

(大阪市西区 西道頓堀付近)


画像の右端が国鉄の湊町駅で現在はJR難波駅になりまぁ。

中央やや上に川が描かれているのが道頓堀川でっせ。

有名なグリコの看板より西へ約500mぐらいでっしゃろか。

住吉橋と書かれた上部に、カメラの光が見える辺りが
戦前は民家が並んでましたが、大阪大空襲で焼失し
戦後に、鉄ちゃん爺やが勤めた会社が建てられたとか。

現在は病院と進学塾に変わってしまいましたけど。

鉄ちゃん爺やが入社した頃には千坪ぐらいの倉庫と
2階建ての事務所になってましたんや。

(昭和時代の ミシン)


我が家にも昭和の30年代には1台おましたで。

電動式じゃなくて、足踏み式ですがな、懐かしい代物でんな。

(昭和20年代の ラジオ)


(都市ガス用の ガスコンロ)


我が家も昭和の30年代にはこれでご飯を炊いていたね。

確か器具は鋳物製で、表面だけ塗装がされていたのかな。

(白黒時代の テレビ)


これも昭和30年前後には定番の白黒テレビだったかな。

鉄ちゃん爺やも料金10円ぐらい払ってNHKが実況した
大相撲の栃錦・若乃花の対戦に手に汗握った記憶がおます。

当時は庶民の家庭ではテレビが買えなくて、我が家でも
テレビを買ったのは昭和32年になってからだと記憶する。

昭和30年前後には10円払って駄菓子を買ってから
店の奥にある自宅でテレビを見せてもらった時代でしたな。

(東芝製 4枚羽の扇風機)


当時は東芝ってモーターでは日本でも1~2位のメーカー。

現在はアメリカでのWH社の1兆円を超える赤字で青息吐息。

現在の扇風機って3枚羽が普通になっているよね。

(こちらは戦前の 新世界と通天閣の模型)


(大正時代に写された 新世界と通天閣)


戦争中に金属の供出で取り壊され、現在のは二代目で
鉄ちゃん爺やが中学生時代の昭和31年完成だったはず。

(昭和30年代~40年代 小学校の机と椅子)








形は似ているけど、鉄ちゃん爺やが小学生の頃のは
もっと表面も傷んで、黒く汚れた机と椅子だった記憶。

なにせ戦前の国民学校時代から使われていた代物のはず。

所々に松か杉か忘れたか、節が抜けて穴も開いていたかな。

(大阪くらしの今昔館 案内板と自分撮り)


最後は我が家の庭に咲いている花を貼り付けて置きまひょ。

やっと、大阪にも春の花が咲きそろった感じでがしまぁ。

(レンギョウの花)


(桜草の花)


(雪柳の花)


(クリスマスローズの花)








(ヒャシンスの花)




これにて、本日はお仕舞にさせてもらいまひょ。

ほな~ これで、さいなら~🎵
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鉄ちゃん爺や 天六ゴーストップ事件を語る

2017-03-26 13:02:15 | 大阪
鉄ちゃん爺やが生まれる前の、お話でっけど。

1933年(昭和8年)6月17日のこと。

大阪市大淀区(現在は北区)天神橋筋6丁目の
交差点で起きた、小さな出来事でしたんや。

(天神橋筋6丁目 駅名標)


大阪8連隊の中村一等兵(22)が赤信号を無視し
京阪電鉄の天神橋駅前から大阪市電の停留所に向けて
渡ろうとしたのを曽根崎警察所の戸田巡査(25)が
発見し派出所に連行した際に事件が発生しましたんや。

中村一等兵は休暇で実家の東淀川区から京阪電車で
天神橋駅まできて、大阪市電で映画を見るために
新世界辺りへ向かう途中だったとのこと。

(新京阪 天神橋駅舎) (事件当時は京阪電鉄)


新京阪の呼び方は鉄ちゃん爺やが学生時代まで
使われてまして、阪急電鉄では他所者扱いの感じ。

戦後に京阪神急行から京都線と千里線は、何故か
現在の阪急電鉄に移行されてますんで念のため。

現在は単なる阪急電鉄と大阪市営地下鉄の連絡駅で
1969年(昭和44年)に地下駅舎に成ってまぁ。

でも~ 当時は京阪電鉄の天神橋駅という始発駅で
淀川右岸から京都市内への重要な駅だったそうです。

超特急の京阪電車が大山崎付近で当時は国鉄だった
「特急はと」を追い抜いたとの話題が残ってますんや。

この天神橋駅舎の裏手に天六の派出所が在ったとか。

(現在の 天六交差点 ビル8階より撮影)


(現在の 天六交差点を 平地から撮影)


現在も天六交差点は五差路になってますが、画像の
右奥へ行くと大阪市の中津を経由して野田方面へ。

左奥へ行くと国鉄の大阪駅になり当時は大阪市電が
画像の左右に当たる天神橋筋で交差をしてましたんや。

(右側が 当時は京阪電鉄 天神橋駅舎)


この画像の左下になる道路で事件は起こったようでんな。

「帝国軍人が巡査ごときに逮捕される、いわれがない!」

「軍人であろうが、赤信号の無視は交通違反だ!」と争論に。

「ちょっとこい!」 と天六の派出所に連行したらしい。

「軍人は憲兵以外には、逮捕される訳がない!」

挙句の果てに殴り合いの喧嘩となり双方が負傷したとも。

「兵隊さん巡査にいじめられてる」と野次馬が電話で
憲兵隊に通報したので、憲兵が飛んできたんだって。

双方が先に手を出したと、譲らなかったんだとか。

憲兵が中村上一等兵を無理やりに8連隊へ連れ戻り
事件を完全に無視しようとしたんだとの事。

(大阪 曽根崎警察署) (画像右側の建物)


曽根崎警察署の高柳署長と、8連隊の和田連隊長が共に
公用でこの日は外出していたので、事件は上層部に波及。

「陛下の赤子(せきし)を殴って怪我をさせるとは
  けしからん、大阪府警本部に詫びを入れさせろ!」

8連隊の上層部である第4師団の寺内寿一師団長が激怒。

(第4師団司令部)(今も大阪城内に現存)


この第4師団司令部は大阪城の天守閣と同時に、大阪市民の
寄付金150万円の内80万円で完成したのが前年の11月。

大阪城の天守閣の方は約47万円で完成したそうですわ。

この寺内寿一師団長は後の太平洋戦争では南方総軍の元締め
総司令官として君臨した、後の東条英機首相より先輩でおます。

これに対して大阪府警本部長の粟屋仙吉が反論を開始した。

「兵卒が陛下の赤子ならば、巡査も陛下の警察官である!」

「公用外出でなければ、民間人として逮捕するのは当然だ!」

「まして兵隊は武官ではない 文官であるはずだ!」

よって中村一等兵を曽根崎警察署に速やかに引き渡せと通告。

この粟屋仙吉という堅物の方は昭和20年に広島市長に就任し
8月6日の原爆投下により市長公舎で被爆され即死されてまぁ。

(当時の 巡査の夏服) (昭和15年頃の画像)


はでな服やパーマネントをしている女性を注意している画像。

天六ゴーストップ事件より少し後ですが感覚は同じでっかな。

話はこじれて、陸軍大臣荒木貞夫までが乗り出してきたとか。

この方も「瞬間湯沸かし器」と呼ばれた熱血漢の軍人ですわ。

後に東京極東裁判でA級戦犯となるも11人の判事さんの内
5名が絞首刑に賛成で1名足らずで終身刑になったとも。

戦後にも影響力を残して活動をされ奈良県の十津川で急病死。

片や戦前には全国の警察署は内務省の管轄にあったそうでんな。

当時の内務大臣山本達雄が一歩も引くなと訓令をだす始末。

必要ならば中村一等兵に私服の刑事を尾行させよとも発言。

大阪の裁判所も大阪府警側を支持し民間人を応援したとも。

第4師団も和田巡査を8連隊に召集させろといやがらせを。

兵隊と巡査の小さな争いが陸軍と内務省の大きな争いに発展。

メンツをかけた争いが、どんな結末を迎えるのか市民も注目。

曽根崎警察の高柳署長が7月に心労から病気で急死する事態に。

目撃者が大阪府警と憲兵隊の両方から事情聴取され、この方も
国鉄の吹田操車場で貨物列車に飛び込み自殺をされますんや。

世間はこの出来事を「天六ゴーストップ事件」と呼んだらしい。

(昭和天皇の 大阪第4師団 視察)(昭和7年の画像)


先頭を歩かれる昭和天皇が民間から寄贈された防空用の
聴音機を大阪城の大手前広場で視察された写真だそうです。

今から考えたら役に立たない防空用機械で笑い話でっけど。

6月に発生した事件が9月には双方が相手方を告訴するに発展。

泥沼のような争いは、大阪の新聞を大いに賑わしたんだって。

大阪の寄席では漫才のネタにも取り入れられたそうでっせ。

大阪市民も当初は陸軍側を良しとしたが、あまりにも陸軍側の
横暴に警察や内務省を支持するように変わってきたんだとか。

何処から聞かれたのかは不明だが、昭和天皇のお耳に届いたらしい。

「ゴーストップ事件と云うのが有るそうだが、どうなったのか?」

12月に福井県まで昭和天皇が来られる予定も迫っていたらしい。

この一言に、荒木陸軍大臣は大いに恐懼して友人の兵庫県知事に
斡旋を求め、大阪府知事の調停もあって一件落着にしたんだって。

5か月間も解決しなかった天六ゴーストップ事件が天皇陛下の
一言で、一転して解決したのには大阪市民も驚いたようですわ。

(昭和15年に完成の 国鉄大阪駅舎)(三代目)


11月18日に中村一等兵と戸田巡査が、お互いに詫びて
検察庁の官舎に出向いて握手をしたんだって。

8連隊の和田連隊長と曽根崎警察署の増田新署長が8連隊の本部で
11月20日に和解の握手をし、最終的に解決とされてますんや。

詳しい和解の条件は発表されてませんが、当時の陸軍の横車で
大阪府警や曽根崎警察署が譲歩し、折れたとも言われてますな。

でも当時は信号機はまだ珍しいらしく、中村一等兵も信号機に
気が付かなかったようなことが原因だったとの説も。

法律的には赤信号で渡れば交通違反と決まったのは戦後の
昭和22年の道路交通法からだとの説もあるんだとか。

でも、この一件が有った後には、帝国軍人は違反をしても
憲兵しか、取り締まれなくなったろの法律が出来たらしい。

軍人が政治や民間に優先する風潮が強まったのも事実。

大阪人はこんな冗談を当時ですが流行らせたんだって。

「赤信号 兵隊さんと渡れば 怖くない」

(大阪の春木海岸で 高射砲の実弾訓練)(第4師団も参加)


(現在の ジオタワー天六 低層部)


新京阪駅舎は1969年(昭和44年)に地下に新駅が完成後
天六阪急ビルと変わり、平成22年まで存在していたそうです。

貴重な建物で保存したいとの声も出たらしいが、所詮は阪急さん
京阪電鉄さんが建てたビルなので関心すらなかったとの話が。

現在は取り壊されて、高層ビルに成り、大通り側の低層部のみ
天六阪急ビル当時の外壁の色で生まれ変わっているようでんな。

蛇足ながら「また負けたか 8連隊」こんな歌がおますけど。

大阪の市民から招集された兵隊さんなので弱いとされた?

でも日露戦争では南山の戦いで1日で4千人を超える死傷者を
出しながら、一番乗りを果たしたのは大阪の8連隊でした。

太平洋戦争でもフイリピンで苦戦するバターン半島の戦いで
応援に駆け付けて8連隊が攻略し、コレヒドール島も占領。

決して大阪の8連隊が弱かったとは言えないんですよ。

天六ゴーストップ事件の書き込みが長くなりましたので
「大阪くらしの今昔館」は次回に回させて貰いまっさ。

最後に関西で春の風物詩と言われる「いかなごの釘煮」を
画像で貼り付けて置きまひょ。

(いかなごの釘煮)


ほんなら~ これで、さいなら~🎵

戦前の古い画像は我が町の図書館の写真集より拝借しました。











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日本一長い 天神橋筋商店街を デジカメ散歩

2017-03-18 16:56:58 | 大阪
この日は飲み友達が心不全とやらで入院。

彼のお見舞いにが外出の本当の理由でしたんや。

(大阪市営地下鉄 66系電車)


66系電車のトップナンバーが入線してきたので
急いでデジカメを取り出して撮影したんですわ。

阪急電車に相互乗り入れする大阪市営地下鉄の電車。

(阪急電鉄千里線 柴島駅名標)




柴島(くにじま)と読める方は大阪人だけかな?

大阪市内へ送水する大きな浄水場がここにおます。

現在でも大阪市内へ送水する上水道の約40%を
ここ柴島浄水場から供給してるんだって。

鉄ちゃん爺やも学生時代には、ここの水を飲んで
カルキの嫌な臭いの記憶が残ってますんや。

でも最近は随分と改良されてミネラルウオーター並み
500mlサイズで大阪の水として売られているとか。

そんな訳で、大阪人には知られている地名なんでっせ。

(大阪キリスト教病院)


病院内にキリスト教の教会が在る珍しい病院でっせ。

4~5年前に新しく建て替えられような感じがしまぁ。

昔は左手の阪急電車の京都線側に在ったような記憶が。

再び柴島駅(くにじまえき)から阪急電車に乗って
三つ目の地下鉄の南森町駅で下車しまっせ。

(国道1号線 南森町交差点の標識)


東京日本橋から約630km続く国道1号線。

左手の阪神高速道路を潜って約500mぐらいで
梅田新道交差点が終点となりますんや。

そこから先、今度は国道2号線となって九州の入口
北九州市は門司区まで繋がってまんねんで。

それでは天神橋筋商店街を画像などで案内しまひょ。

(天神橋筋商店街 2丁目付近)




1本で繋がった商店街としては日本一なんだとか。

天神橋筋1丁目~天神橋筋7丁目(約2.6km)

その内1丁目~6丁目まではアーケードになってまぁ。

四国の高松市に東西南北に交差してる商店街が有り
アーケード商店街が合わせて約2.7kmあるとのこと。

以前にも紹介しましたが、大阪市内では南北の道を
「筋」と呼び、東西の道を「通り」と呼びまんねんで。

だから天神橋筋商店街は南北に連なっている訳でんな。

日本で一番短い商店街も大阪市内に有るんだって。

肥後橋商店街(約79m)だと言われてるそうですわ。

(天神橋筋2丁目 入口のお迎え人形)




天神橋筋2丁目は大阪天満宮への参道の入口に当たりまぁ。

だから天神祭り船渡御の、お迎え人形が飾られてますんや。

他府県からこられた方は不思議な人形で意味が分からないはず。

(天神橋筋3丁目 アーケードの鳥居)




真朱(まそほ)・桔梗(ききょう)・浅葱(あさぎ)・
萌黄(もえぎ) 日本古来の四色の鳥居が見下ろしてまぁ。

現代人には読めないし、どんな色か知らないかもね。

どんな色かも含めてご覧くださいよ。

桔梗(ききょう)は写ってませんが花の名前や色を
ご存じのはずなので省略させてもらいましたけど。



(こんな 忍者もどきの人形も)


大阪人は昔から住所を省略して呼ぶことが多いんですわ。

天神橋筋6丁目=天六  上本町6丁目=上六

日本橋1丁目=日本一  谷町9丁目=谷九

これも他府県の方が聞いたら、しどろもどろするかも?

大阪人なら、これで十分に通じる訳なんでっせ。

蛇足ながら東京は日本橋(にほんばし)と読みますが
大阪は日本橋(にっぽんばし)と読みまんねんで。

(天神橋筋3丁目 入口の飾り)




(天神橋筋4丁目 入口の飾り)


この飾りの意味が解読できたら、立派な大阪通!

テントウ虫に丸が四つ、天四=天神橋筋4丁目でっせ。

大阪人らしい語呂合わせじゃなと、笑われるかも

(天神橋筋4丁目 付近)




この辺りで行列のできる店を幾つか紹介しまひょ。

私が昼食を食べたかったが諦めた洋食屋でおます。

(天神橋筋商店街 ランプ亭)


これぐらい派手な看板でないと大阪人には目立ちまへん。

大阪のおばちゃんの派手なヒョウ柄の衣装と同じ感覚かな。

(大阪とんかつ 派手な看板)


(大阪で有名な 激安スーパー玉出)


大阪府内に54店舗と兵庫県の尼崎市内に1店舗。

なにせ、目玉商品に1円とか10円とかの売り物!

でも、従業員から裁判も起こされているとかの噂。

今流行りのブラック企業なんて有り難くない名前も。

でも~ お客は激安で大いに喜んではいるんだけど。

(ここも行列で 昼食はお預け!)


お昼を外して午後2時になってもこんな行列でした。

中国や韓国の方が天神橋筋商店街にまで押し掛けているのか?

そんな訳で、鉄ちゃん爺やは、立ち食いの蕎麦屋で昼食に。

(天神橋筋5丁目 埋め込みの銘板)


(元阪神タイガース K氏の垂れ幕)


(天神橋筋5丁目 付近)


約2.6kmもの長い天神橋筋商店街なんですが
人出の一番多いのは5丁目~6丁目でっしゃろな。

芸能人まで買いに来るコロッケの有名店もこの界隈。

(天神橋筋6丁目 附近)


(106 埋め込まれた銘板)


10で=天 6=6丁目 天神橋筋6丁目ですわ。

ここまで来たら大阪人のジヨークかダジャレでんがな。

(天神橋筋7丁目 方向を撮影)


天神橋筋商店街の長いアーケードもここでお仕舞い。

でも天神橋筋7丁目まで商店街は続いてまんねんで。

(天神橋筋6丁目 付近)




(大阪市立 大阪くらしの今昔館入口)




(大阪くらしの今昔館 入場券)


常設館は大人600円なんですがお雛さんの特別展示も
200円の追加で、合わせての入場料が800円でした。

今回はこれで、お仕舞としまっさ。

次回はこの大阪・くらしの今昔館と
天六ゴーストップ事件を合わせて
紹介することにしまひょ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵

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第11回 じないまち雛めぐり 富田林市

2017-03-12 14:43:24 | 大阪
予告の天神橋筋商店街は一週間遅らせます。

鉄ちゃん爺やの隣町になる富田林市で
毎年開催される雛めぐりを紹介しまひょ。

(第11回じないまち雛めぐり ポスター)


(富田林市 マンホールの蓋)


マンホールの蓋には寺内町の古い家屋と金剛・葛城の
山々を描き、市の花であるツツジが添えられてまんな。

近鉄の富田林駅を下車したら駅前のロータリーに
さっそくながら「お雛さま」が飾られてまっせ。

(富田林駅前ローターリに お雛さま飾り)


(近畿日本鉄道 富田林駅舎)


(富田林市 寺内町の見取り図)


戦国時代の永楽年間(1558年~1570年)

一向宗の証秀上人によって興正寺(こうしょうじ)が
建てられ、お寺を囲むような感じで出来たのが
富田林の寺内町で、約450年間もの長きにも関わらず
大きな火災がなくて、江戸時代から明治ごろまでの
古い家屋や街並みが約40軒ぐらい残ってますんや。

それでは大阪府に唯一残る寺内町を、ご案内しまひょ。

重要伝統的建造物保存地区に指定されまして、最近は
観光客にも知られ、大阪府の隠れた名所になつてまぁ。

(江戸時代の古い民家)






(虫篭窓=むしかごまど ズームアップ)


江戸時代の民家には軒高の低い中二階が多く見られますんや。

表側に採光と通風の為に虫篭窓(むしかごまど)を造るという
良く見られる風景だなと、この後も良くご覧くださいね。

(イベント案内所・休憩所)


まずは地元の幼稚園や保育園の園児の作品から紹介しまひょ。

こんな、可愛い作品もイベントを盛り上げてまんねんで。

(保育園・幼稚園 園児の作った お雛さま)




それでは町の中心になった興正寺(こうしょうじ)を
先に紹介することにしまっさ。

浄土真宗のお寺なんですが、本願寺さんや真宗大谷さんの
宗派とは異なった、興正寺派に属するそうですわ。

(興正寺・別院 山門)(国の重要文化財に指定)


元は伏見城の城門だったそうで、京都の興正寺の北門に移され
その後、安政年間に再び富田林・御坊へ再移設されたんだって。

馬に乗ったまま通過できる立派な山門で、田舎のお寺にしては
別格の山門で、古文書から最近に判明した史実のようですわ。

(興正寺・別院 鼓楼と呼ぶ建物)(国の重要文化財に指定)


江戸時代後半の建物で最近になって塗り替えられた感じ。

虫篭窓(むしかごまど)がユニークな形をしてまっしゃろ。

(興正寺・別院 山門と鼓楼を東側から撮影)

(富田林 御坊の 表札)


(興正寺・別院の 由緒説明板)




(江戸時代の 興正寺御堂 絵図)


このお寺が造られた頃には、織田信長と石山本願寺の
お互いが苦しく長い攻防戦をやっていたそうですわ。

同じ一向宗なのに、興正寺・富田林御坊は意外にも
織田信長と妥協し、滅亡を逃れているのには驚きでんな。

織田信長に兵糧米を供出した一向宗の寺院があったとは?

一向宗の全てが織田信長を敵とした訳じゃなかったんだね。

(興正寺・別院前の 通りと紅梅)




(興正寺 脇門の前に お雛さま飾り)


(ズームしてみまひょ)


やはり総本山が京都でっしゃろ、古い京雛の形をしてまぁ。

男雛が向かって右側で、女雛が向かって左に置かれてますわ。

それでは、ここ寺内町で一番古い民家を訪ねてみまひょ。

(旧杉山家の住宅) (国の重要文化財に指定)


現在は富田林市が旧杉山家の管理をやっているとか。

寺内町の通りや筋は中世のまま残っているんだって。

中世の宗教自治都市として貴重な史蹟なんだろうね。

(旧杉山家の住宅 説明書き)


(旧杉山家出身 明治中期の歌人)


与謝野晶子などと並び女流歌人としては著名だとも。

旧杉山家の住宅は富田林・寺内町で現存する民家では
一番古く、江戸時代の前半の町家として貴重な建物。

西暦1600年代後半の建築で、旧杉山家はここの
富田林寺内町の創業期に協力をした家系なんだって。

江戸時代には造り酒屋としても栄えたようでっせ。

富田林・寺内町では興正寺を除くと民間の住宅では
唯一、国の重要文化財に指定されてますんや。

(旧杉山家 住宅)








重要文化財なので、ここは入場料が大人400円ですわ。

あまり気が進まなかったので入口から撮影して退散しまひょ。

(旧杉山家住宅 屋内の土間の附近)


それでは入場料の要らない古い町家へ向かいまっせ。

田守家の方へ歩いて行くことにしましたんや。

旧杉山家に次ぐ、寺内町で二番目に古い町家ですよ。

18世紀前半の江戸時代は中期の建築だそうですわ。

(田守家住宅の 説明書き)


(田守家住宅 全景)


(田守家の家紋)


(田守家 玄関から撮影)




後ろ姿が写っておられる男性の方が
現在の田守家の、ご当主さんのようでした。

中へ入らせてもらつて、お雛さまを拝見させて貰いまぁ。

(田守家の お雛さま飾り)


カメラぶれしてお雛さま、ぼやけてますご免なさい。

それでは、色んなお雛さま飾りを紹介しまひょ。

民家の玄関先や表に自慢のお雛さまを飾ってはりまぁ。

4~5年ぶりに、お邪魔したんやけど一眼レフのカメラを
持った男女の方が、凄く増えたのにはびっくりでしたわ。

特殊な物の他はコメントを入れませんのでご覧くださいね。

(うさぎの お雛さま飾り)


(ねずみの お雛さま飾りかしら?)


(町家の玄関先に 飾られたお雛さま)


(ズームインしまひょ)


(店舗の奥に お雛さま飾り)


(ズームインしたら)


我が家のお雛さまも、これとよく似ていたな!

我が家のは男雛が向かって右側でしたけど。

京都の方が作られたお雛さまで「京雛」と聞いてまぁ。



(寺内町の 観光用道標)


(観光用 道標にも お雛さま)


(ズームインしたら)




(十二支の お雛さま飾り)






(立派な七段飾りの お雛さま)




お店の入口に、どうぞご覧くださいとの置き方。

カメラマンには有り難いような配慮でっかな。

(民家の前にも 小ぶりなお雛さまが)


(ズームイン したら)


(寺内町の ふれあいセンター)


(板塀の犬走りにも お雛さま飾り)


(格子戸の内側に お雛さま飾り)


(格子戸から カメラを覗かせて撮影)


(民家の玄関にも お雛さま飾り)


(ズームインしたら)






(宮殿造り 立派な七段飾りの お雛さま)


(ズームインしたら)






(奥谷家 本家の母屋)


(奥谷家の玄関 立派な暖簾)






(ちゃっかり 商売をしている店も)




お土産に買って帰る観光客もちらほらと居ましたで。





博多人形じゃないよね、鉄ちゃん爺やには知識もなし。

デジカメでなんとなく、写すだけにしましたけど。





(東高野街道の 道標)


(江戸時代の 道標の説明書き)


京都から生駒山の山麓を通り東高野街道がここで
富田林・寺内町を通過してましたんや。

終着点は高野山で真言宗の総本山ですな。

宝暦元年(1751年)の年号が読み取れまぁ。

火の用心なんどの注意書きが記されているんだって。

(富田林駅前 大楠公の石柱とお雛さま飾り)


それじゃ、今回はこれでお仕舞にしまっさ。

次回は予告してました天神橋商店街を紹介しまひょ。

ほんなら~ これでさいなら~🎵








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天満の天神さん デジカメ散歩

2017-03-04 14:50:12 | 大阪
先週の日曜日に天満の天神さんへ行ってきましたで。

梅が見頃かなと思いましたんやけど、期待外れ!

(大阪地下鉄 堺筋線 66系電車)(阪急電鉄乗り入れ用)


大阪市営地下鉄の堺筋線で南森町駅を下車したらすぐ。

堺筋線は阪急電鉄と相互乗り入れをしてますんで
大阪地下鉄と阪急電鉄の両方の電車が走ってまっせ。

(大阪天満宮 参詣道の提灯)


(大阪天満宮 南門)


(大阪天満宮 南門の干支図)


大阪天満宮は何度も火災にあって、現在の本殿は江戸時代後期
大塩平八郎の乱で焼失したのを1843年(天保14年)に
再建されたものと記されてますんや。

(大阪天満宮 本殿)


(大阪天満宮 権現造りの屋根)




(大阪天満宮を背景に 自分撮り)


1945年(昭和20年)大阪大空襲に際してのお話。

我が家が焼けてるのにも関わらず、天神さんを守ろうと
多くの人々が境内で消火に務め本殿を守り通したんだって。

焼夷弾の直撃も無かったのが幸いしたんでしょうかな。

「天満の天神さん」への篤い信仰を語る美談として
今日まで、大阪人が誇りにしてきたお話だそうですわ。

(大阪天満宮 ご朱印)


(大阪天満宮の 梅の花)










梅の名所なんだけど、大阪城公園に比べると見劣りますな。

鉄ちゃん爺やの隣町にある道明寺天満宮の方が立派ですわ。

梅の木が全般的に若くて、古木が無い感じがしまんな。

(黄色のは セキセイインコかしら?)




デジカメで梅の木を写してたら、鳥が飛んできましたんや。

鉄ちゃん爺やと同じ歳ぐらいの、老人の帽子から梅の木へ
行くよ! と声が掛ったら老人の帽子へ飛び移りましたで。

姿から見て、セキセイインコかもしれないと、思ったけど。

でも~ セキセイインコが、こんな芸などするのかしら?

小鳥などの知識に疎いので分かりまへんけど。

(大阪天満宮 今年の絵馬)


(大阪天満宮の 渡り廊下)


大阪天満宮は毎年7月24日~7月25日の「天神祭り」

日本三大祭りであると共に、大阪三大祭りの一つでっせ。

愛染祭りに始まり、天神祭りときて、住吉さんで終わる。

(大阪天満宮 南門から南側を望む)


「天神祭り」では船渡御の神輿などがこの道を進みます。

突き当りが堂島川でそこから船渡御が始まりますんや。

一昨年の「天神祭り」をテレビの画像から紹介しまひょ。

(2015年の 天神祭り)(テレビ画像より)










境内に人の輪が出来てるので覗いてみましたんや。

猿回しの芸が参拝客に披露されているようですわ。

(大阪天満宮境内で 猿回しの芸)








(大阪天満宮 登龍門)


(登龍門の 説明書き)


本殿の東側と西側に在る唐門で、難関を突破して
立身出世するとの諺から、登龍門と呼ばれますんや。

本来は中国の古い諺でっけど、日本でも同じように
平安時代ぐらいから使われるようになったとか。

初天神(1月25日)の日だけは扉が開かれて一般の
参拝者でも東門から西門へ通り抜けができまんねんで。

大学受験を目指す人などで大いに賑わうんだそうですわ。

さすがは学問の神様で、天神さんも商売がお上手でんな。

(大阪天満宮 奉集殿)


(大阪天満宮 北門)


北門から出た処に、新しく話題になっている小屋がおます。

大阪では唯一の落語を専門に見れる寄席になってますんや。

(天満 繁昌亭)






落語の寄席は東京だったら、珍しくもおまへんけど
大阪は漫才が主でっから、上方落語は従になりまぁ。

それを挽回しようと出来たのが、天満の繁昌亭でっせ。

若手の落語家が芸の腕を磨く、これも登龍門でっかな。

本日はこれにて終了とさせてもらいまぁ。

次回は日本一長い「天神橋筋 商店街」を紹介しまっさ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵




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鉄ちゃん爺や 大阪をデジカメ散歩

2017-02-19 17:06:02 | デジカメ散歩
先週の17日(金)は生憎の雨でしたんや。

やっぱり雨でしたかと、言われそうでっけど。

鉄ちゃん爺やが呑み会に出かけると不思議に
雨が多いんですわ、雨男かも知れまへんな。

そんな訳で屋内や地下街の画像でやりまひょ。

(大阪市営・地下鉄 梅田駅名標)


JR大阪駅と阪神百貨店を挟んで地下通路に
各県の名産品を売る店舗がおましたんや。

地元では「アリバイ横丁」とか呼んでましたな。

浮気旅行を隠すために、出張してましたでと
この「アリバイ横丁」でお土産を買って帰る。

逆に土産を買い忘れた時に、ここでという
便利な使い方もおましたんや。

今は宅配便の時代なんで必要がおまへんけど。

一昨年からその地下通路が改修されてますんや。

地下街のルーツとして戦前にできたとの噂。

でも現在の地下街のイメージとは違ってまっけど。

(懐かしい! 立ち飲み「松葉」さん)(平成26年撮影)


この串カツと居酒屋で有名だった「松葉」さんは
鉄ちゃん爺やが高校生の頃には、ここにおました。

「アリバイ横丁」が全て撤去された後も最後まで
頑張っていた当時の懐かしい写真でおます。

この「松葉」さんの先の階段を登って行くと
JR大阪駅の東口やバスターミナルに出ますんや。

大阪に住む飲んべ~さんなら一度は訪れたかも?

(JR大阪駅 駅名パネル)




(JR大阪駅 時空の広場 金の時計)


JR大阪駅が新しく改装された際に橋上駅の連絡通路に
「時空の広場=ときのひろば」と名付けて北側に
「金の時計」を南側に「銀の時計」を設置して
待ち合わせや、大阪駅のシンボルゾーンにしたんですわ。

オープンカフェもあって人通りも多くJR大阪駅の
新しい名所として、常に賑わってまんねんで。

(JR大阪駅 ノースゲートビル)


(JR大阪駅 サウスゲートビル)


北側のノースゲートビルと南側のサウスゲートビルを
ビルの5階に相当する連絡通路で結んでますんや。

天井は大きなドーム式で駅全体を囲っている感じでんな。

(JR大阪駅 時空の広場 銀の時計)


「銀の時計」は雨が降る夕方なので写りが悪いでっけど。

この広場からは大阪駅を発着する電車が見えますんや。

電車好きの子供さんやマニアには格好の広場でっしゃろな。

(黄昏のJR大阪駅を 時空の広場から撮影)


左側のオレンジ色の電車はJR大阪環状線の外回りで
201系のこれらの車両は2年後にはすべて引退予定。

昨年末から323系の新しい通勤型電車が走り始め
2019年度末までに全てが切り替わるそうですわ。

JR大阪駅で国鉄時代の電車が見られるのも後少し。

103系や201系の引退に、そろそろ鉄道マニアが
想い出の写真を撮ろうと押し掛けるかもしれまへんで。

(同じく 黄昏のJR大阪駅のホーム)


右の気動車は特急「スーパーはくと」で京都駅から
鳥取県の倉吉駅までを最短で結ぶ列車でっせ。

この時期は「松葉かに」を求めて関西から鳥取県へ
「かに喰いツアー」なんてのが人気なんですわ。

(JR大阪駅北側 梅田貨物駅の懐かしい風景)


鉄ちゃん爺やが社会に出た頃はまだトラック輸送が
発達してなくて、国鉄の貨車が物流の中心でしたんや。

この画像は廃止が決まり最後の頃を迎えた際に撮影。

平成24年頃に大阪駅の5階から写した物だったかな?

(グランフロント大阪 JR大阪駅方向から撮影)


(元梅田貨物駅跡 懐かしい画像)


こちらはグランフロント大阪が完成して廃止となった
梅田貨物駅のドーム式のホームを撮影したものです。

おそらく平成27年頃の撮影だったと記憶してまぁ。

現在はドーム式の貨物ホームも取り壊されてしまい
JR大阪北駅地下ホームを造る工事が始まってますんや。

完成は平成30年頃とか言われてまして、この広場は
大阪市内に残る最後の一等地なんだそうですわ。

(元大阪中央郵便局 懐かしい画像)


これもJR大阪駅西口の先におましたけど、数年前に
取り壊されて、新しく高層ビルを建てるとの噂でんな。

それでは大阪駅の地下街へ入って行きまひょ。

(梅田の 地下街)




大阪の地下街は「大阪地下街(株)」という大阪市が株式の
約54%を保有する関連会社が経営してまんねんで。

名古屋や東京は民間企業が共同して経営体を作っているとか。

毎年約6億円ぐらいの利益を出しているのはご立派。

(大阪市 本庁舎)


大阪には別に「クリスタ長堀」と称する単体の面積では
日本一の地下街がおますんやけど、これも大阪市が99%
株式を保有する関連団体だそうですわ。

「クリスタ長堀」は一度経営危機に見舞われたけど
最近は立ち直って毎年の利益を計上するようになったとか。

(クリスタ長堀の 地上は心斎橋筋)


ここは昔の長堀川を埋め立てた後に、B2~B4の部分に
約1030台を収容できる長堀駐車場とB1の部分に
「クリスタ長堀」という地下街になってますんや。

駐車場が半分を占めているので地下街としての面積は
店舗だけなら全国で12番目に当たるそうでっけど。

大阪で一番古い地下街を紹介しまひょかな。

(NAMBAなんなんタウン)




鉄ちゃん爺やがまだ高校生だった1957年(昭和32年)
大阪で一番古い地下街としてスタートしましたんや。

先程紹介した「大阪地下街(株)」が手掛けた最初の物で
その後、ウメダ地下街・アベノ地下街・ミナミ地下街など
現在では6つの地下街を経営する企業に成ってまっせ。

(元の新歌舞伎座 & なんばマルイ)


右側が現在の「なんばマルイ」ですが鉄ちゃん爺やが若い頃
この敷地には当時の大阪で一番大きな「南街劇場」という
映画館がおましたんや、確か座席が1488席だったはず。

(南海ビル & 難波高島屋)




(登録文化財の銘板)


この大阪で一番古い地下街は南海電鉄の終点である
南海ビルと高島屋や地下鉄の御堂筋線の難波駅と
大阪一の映画館だつた南街会館を結んだ物で
完成した当時は珍しさもあって大いに賑わいました。

地下道の暗いイメージを一新して、華やかな店舗と
流行の先端を行く地下街のスタートでしたかな。

地下街の大きさは延べ面積で比較する場合と、店舗の
数と面積で比較することがおますんや。

店舗の面積で比較すると首位は東京の八重洲地下街
第二位がNAMBAなんなんタウンを含めての
なんばウオークがほぼ同じ面積になるんだとか。

名古屋駅地下や栄駅地下は通路が広いので延べ面積では
八重洲地下街や大阪のなんばウオークを上回るそうで
どこが日本一だとか、ネットでは賑わってまっけど。

延べ面積では大阪の「クリスタ長堀」が一番なんでっせ。

それでは、本日はこれにて終了としまっさ。

ほな~ さいなら~🎵





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奈良公園を デジカメ散歩

2017-02-11 19:38:28 | 京都・奈良
春日大社は有名なんで皆さんも訪れたことが~

有名な和歌の碑をみながら春日大社を後にしまひょ。

(安倍仲麻呂の 有名な和歌)




今回はあまり知られてない奈良公園の名所を
三つばかり選んで紹介してみまひょ。

(春日大社の神苑 万葉植物園)


ここは藤の花が咲く頃が見事でっけど今の時期は
冬枯れの万葉植物だけなんでパスしまっせ。

春日大社の「神紋」は藤の花なんですけどね。

まずは春日大社の境内を南の方へ外れまひょ。

樹木が途切れて「飛火野=とびひの」と呼ばれる
見通しのいい場所に出てきましたで。

(飛火野=とびひの & 御蓋山=みかさやま)




元々は御蓋山(みかさやま)を仰ぐ古代祭祀の地で
「春日野=かすがの」と呼ばれてたそうですわ。

奈良時代の貴族が蹴鞠(けまり)や花摘みなどで
楽しんだ場所だとも記されてますかな。

現在は芝が植えられて大きな広場になってますわ。

(飛火野=とびひの & 高円山=たかまどやま)




(鹿寄せの 看板)


冬の大和路の風物詩なんですよ、朝の10時ごろに
ホルンで「田園」の曲を奏でたら約100頭もの
鹿が林から飛び出して、ここに集まってくるんだって。

観光客に人気の写真スポットとして話題になってまぁ。

2月9日 ~ 3月12日 期間限定の催し!

(奈良公園の 案内標識)


(奈良公園 鷺池 & 浮見堂)




水面に写った六角形の東屋、ここも写真スポットでっせ。

建物の内部は休憩所になってますんや。

(浮見堂への 渡り橋)


(浮見堂の 内部)




カルガモかな? 見事な編隊で泳いでましたで。

この鷺池は春日山から湧き出た水が溜まったようで
周りには川らしきものが見当たりまへんな。

(カルガモ 編隊での遊泳)


(浮見堂を背景に 自撮り)


それでは再び春日大社の境内へ戻りまひょ。

途中でこんな土塀の遺跡を見つけましたで。

(奈良公園内の 古い土塀の跡)


やはり奈良には古い歴史を醸し出す雰囲気がおますな。

奈良公園ではあちこちで鹿に出会いますんや。

(奈良公園の鹿)


(生まれて間もない 小鹿が母鹿と散歩)


(奈良公園にて 東大寺の甍を眺める)


今回は奈良の大仏さま申し訳ないが他へ回りまっせ。

奈良市と言えば一番が東大寺の大仏さまだそうで
二番目は奈良公園の鹿と春日大社なんだって。

次は何十回も奈良市内を訪れたことが有るのに
鉄ちゃん爺やが初めて知った旧跡の地を紹介しまひょ。

(菩提院大御堂前の 説明板)


(伝説 三作石子詰之旧跡)


恥ずかしながら鉄ちゃん爺やの知らない伝説なので
戻ってからネットで色々と調べてみましたんや。

時は江戸時代のお話? ここ菩提院大御堂で興福寺の
子供僧侶が習字を習っていたそうですわ。

三作(みのさく)という子供僧侶が席を外した際に
鹿がやってきて習字の紙を食べてしまったんだって。

怒った三作(みのさく)が文鎮を鹿に投げつけた処
急所に当たって鹿が倒死してしまったんだとか。

当時は春日大社の鹿は神様の使いで殺傷したならば
石子詰めの刑で、死刑になるのが決まりだったそうな。

実際の記録では寛永5年(1628年)に春日社の
狛犬を盗んだ山伏が石子詰めの刑に処されたの記録。

(菩提院大御堂 外側から撮影)


まだ13歳の子供であっても法の裁きは死刑だとのこと。

ここ菩提院大御堂の境内で穴を掘って三作(みのさく)を
埋めてその上から、小石を詰めて死刑にしたんだって。

このお寺では明け七つと暮れ六つに「十三の鐘」を突き
市民に時を告げていたようですわ。

この鐘を撞く時刻に死刑が執行されたそうで、母親は
嘆き悲しんだとのことで、この伝説を浄瑠璃にして
近松門左衛門が「十三鐘」というのを創作したんだって。

画像の奥に見えるのが鐘楼で「十三鐘」が見えるとか
現在は興福寺管長の自宅だとのことで非公開なんだって。

伝説との話もありますが、奈良市内では江戸時代まで
鹿が自宅の前で死んだ時は死刑になることもあったとか。

此処を少しだけ下ると有名な「猿沢の池」に出ますんや。

(猿沢の池と 興福寺の五重塔)


この風景は奈良市を訪れた方なら、一度は見覚えがある
絵葉書にも登場する有名な観光スポットですかな。

でも池の南側にある率川(いさがわ)にある地蔵尊は
鉄ちゃん爺やも初めて気が付いた珍しいものですわ。

(率川=いさがわ地蔵尊)




川の中州を舟形に囲い約40体の地蔵さんが安置!
しかもすべての地蔵尊の、首がおまへんがな。

明治初めの廃仏毀釈に際して壊された地蔵尊だとか。

幕末に川を改修した際に出土した地蔵尊だとの説も。

現在は奈良町の皆さんが大事に保存維持しているそうで
夏の盂蘭盆には精霊流しの真似事もやるそうですわ。

(奈良町の 古い民家)








それでは、夕方も近づきましたんで帰ることにしまひょ。

大通りへ出た処で、こんな看板を発見しましたで。

(興福寺 中金堂再建完成図)


一昨年から工事が続けられてますけど完成は
平成30年(2018年)までかかるんでんな。

来年なら鉄ちゃん爺やもなんとか生きていて
完成した中金堂を拝観させてもらえるかも。

(奈良県庁前を 通過)


(近鉄奈良駅方向を撮影)


それでは甘党の内の奥さんに奈良の和菓子を
買って帰ることにしまひょかな。

(和菓子 萬勝堂)






関西では「三笠饅頭」と言いますんや、関東だったら
「ドラ焼き」とでもいうんでしたかしら?

(奈良市 マンホールの蓋)


(近鉄電車 通勤電車の塗装)


近鉄奈良駅からは2回乗り換えで自宅まで約1時間。

電車賃は片道で750円、近鉄は距離の割に高いでんな。

競争相手がJRだけなんで、相手にならないようですわ。

奈良県は近鉄電車の王国で鼻息が荒いんでっせ。

それじゃ、今日はこれでお仕舞い、さいなら~🎵
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春日大社を デジカメ散歩

2017-02-05 17:03:41 | 京都・奈良
(近鉄電車 & 阪神電車の並列)(近鉄奈良線・西大寺駅にて)


(近鉄・奈良線 西大寺駅名標)


この日は近鉄電車で奈良の春日大社へデジカメ散歩でおます。

西大寺駅は近鉄電車が奈良線と京都線がクロスする駅で
阪神電車も神戸の三ノ宮から相互乗り入れしてますんや。

(関西で 大評判・駅のベンチ)


線路とベンチを90度向きを変えたら転落事故が減少!

この向きを変えたベンチでの転落事故は聞いてまへんで!

酔っぱらい客の多い駅から優先してるんだって!

そんな訳で関西ではJRも近鉄さんも急ピッチで改良中!

(近鉄 奈良駅前)




(行基菩薩像) (近鉄奈良駅前)


(春日大社 祝・正遷宮の提灯)


伊勢神宮では式年遷宮(せんぐう)と言いまっけど
春日大社では式年造替(ぞうたい)と呼びますんや。

でも~ 横幕には祝・正遷宮と書かれてまんな?

細かいことなど、どっちでもよろしおますけど。

2015年~2016年秋に完了したそうですわ。

前回に訪れた際には工事中でしたので、今回は
本殿まで入場して、デジカメ散歩をと考えましたんや。

(春日大社 一の鳥居)






(国道169号線 道路標識)


一の鳥居の前は国道169号線で左手の県庁前から
吉野・熊野を経由し和歌山県新宮市まで続いてまぁ。

一の鳥居を潜ると春日大社の参道が約1.5kmぐらい
両側の広大な森は全て春日大社の敷地なんだって。

奥の方では春日山原始林となる貴重な森になってまぁ。

(節分の万燈籠 が残ってまぁ)






(節分 万燈籠の 飾り門)




奥へ歩くうちに、やっぱり観光客が増えてきましたで。

中国語や英語が飛び交って外人さんが多いようでっせ。

関西は2016年だけで観光客が1000万人を超えて
今年も大阪・京都・奈良では減る気配もないそうですわ。

(春日大社 参道の灯篭)


(春日大社 神鹿の群れ)




奈良市では「鹿」は昔から春日大社の「神鹿」と呼ばれ
国の天然記念物になっているんだって。

奈良公園や東大寺や春日大社の境内では「鹿」が優先で
車は青信号でも停車しないといけませんのや。

のんびりと道路を横切る姿を見てると微笑ましいでっせ。

総数で「鹿」が何頭いるのか詳しいことは不明かも?

(春日大社 二の鳥居)


(奉納された 日本酒のこもかぶり)


(春日大社 伏鹿の手水場)


手水場も春日大社では「鹿」さんがお迎えでっせ。

二の鳥居から奥が正式には表参道と呼ぶそうですわ。

(春日大社 南門)


この南門を潜ると参拝所が目の前に現れますんや。

本殿には四神がお祀りされているそうですわ。

(春日大社の 四神の説明書き)


12月に大阪の枚岡神社で紹介しましたが鹿島の神
香取の神に、枚岡神社から天児子屋根の命(男神)と
そのお后である比売神(ひめがみ)を合わせて
「春日四所明神」として四神さまが祀られてますんや。

元々は平城京を鎮護する「藤原氏」の氏神様だったのが
国家や国民を守る平和の神さまになられたようでんな。

(春日大社の 参拝所)




普段はここで参拝して引き返すんでっけど、久しぶりに
新しい丹塗も鮮やかな本殿へお詣りすることにしまひょ。

(本殿 特別参拝 入口)




ここで500円を支払って入場しないと、春日大社の
本殿が正面から写せない構造になってますんや。

参拝所からでは少しだけ本殿が覗いているだけですわ。

春日大社さん良いアイデアを考え出したもんでんな。

(参拝記念の栞)


20年に一度の式年造替(しきねんぞうたい)に際して
舞われる舞楽で「太平楽」と呼ばれるんだって。

昨年が平安時代から続く第60次・式年造替だったとか。

本殿は国宝に指定されている貴重な建物でっせ。

各地に見られますが「春日造り」と呼ばれるんだって。

(春日大社 本殿を正面から撮影)


(春日大社 本殿前で撮影)


遠方から来られた同じぐらいの年齢の老夫婦さんと交代で
交互にデジカメ撮影をお願いしたのがこの画像でおます。

それでは本殿の各所をデジカメで写すことにしまひょ。

(本殿の説明書き)


(春日大社 本殿で結婚式のお二人)


本殿内部は写真撮影が禁止と大きな文字で書いてまっけど
中国人のようなふりして、失礼をばさせて頂きました。

観光中の中国人がデジカメを盛んに写してましたんや。

普通なら遠慮するところですが、ご免なさいね~

(本殿に奉納された 燈籠)




鉄ちゃん爺やが本殿にお詣りしたのは40年ぶりかも。

昨年の式年造替(しきねんぞうたい)で丹塗りが鮮やかで
国宝なのに新しい建物と間違えそうなイメージ。


(本殿 裏側から撮影)


四つの本殿が一列に並んでいるんでっけど、三つしか
鉄ちゃん爺やのデジカメでは写せまへんでしたわ。

(第5代将軍 徳川綱吉公 奉納の燈籠)


春日大社に約2000基の石灯籠や鐘燈籠がおます。

2月3日の節分と8月14~15日のお盆には
全ての燈籠に浄火を献じて、諸願成就や祖先の冥福など
「万燈籠」の行事が毎年続けられているそうです。

関西では有名な春日大社の神事なんですよ。

(直江兼続 奉納の燈籠)


慶長五年と銘が刻まれてますので西暦1600年でんな。

関ヶ原の戦いの後に、上杉家の安寧を祈願して直江兼続と
記載せずに、単に山城守とのみ書かれいるそうですが
春日大社の奉納記録には直江兼続と記されているとのこと。

(宇喜多秀家公 奉納の燈籠)


鉄ちゃん爺やの実家のご先祖に当たる方との伝説がおます。

半分は作り話だと考えてますが、江戸時代には徳川幕府を
憚って「浮田」と苗字を変更していたと言われてますんや。

幕末に菩提寺が水害で流失してますんで証拠は不明ですけど。

宇喜多秀家の叔父に当たる方が直系のご先祖だったとか?

(桂昌院 奉納の燈籠)




徳川綱吉公のご生母で京都や奈良の寺社に造詣が深く
この燈籠にも、葵の紋と本庄家の丸九ケ紋が燈籠の
頭の部分に描かれているのが写ってまつしゃろ。

(御蓋山 遥拝所)




現在は「三笠山と呼ぶことが多いようですが正式には
御蓋山(みかさやま)と書くのが正しいんだって。

ここから山上にある本宮を遥拝するそうですが、現在も
ここから先は立ち入りが禁止されているそうですわ。

伝説で鹿島の神様が白い鹿に乗ってこの山に下りられた
それが春日大社のルーツとされているようでんな。

(春日の大杉 樹齢約1000年) (高さ約23m)




(春日大社の 巫女さん)


頭の上に「藤の花」の飾りを付けておられるようでっせ。

確かに春には見事な「藤の花」が観られますけどね。

藤原氏の「藤」と兼ね合わせているんでしょうな。

(春日大社の ご朱印)


(春日大社の回廊にて 自分撮り)




(竈殿=へついどの) (国の重要文化財)




(酒殿=さかどの) (国の重要文化財)




この二つは式年造替(ぞうたい)に際しても建て替えは
されなかったので古風な感じが良く出ていますかな。

鉄ちゃん爺やとしては歴史の古い建物はこんな感じで
素朴な感じを残して欲しい気もしますんやけど。

酒殿(さかどの)では現在も春日の四神に捧げる為の
「濁り酒」がここで醸造されているようだっせ。



長くなりますので今日はこれでお仕舞にしまっさ。

次回は奈良公園の「浮見堂」や「飛火野」を紹介しまひょ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵

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江戸時代にも 皇室の危機がおました

2017-01-29 16:25:54 | 京都・奈良
今上陛下の生前退位とやらの報道から
世の中は議論が騒がしいようでんな。

鉄ちゃん爺やごときが、どうのこうのと
書き込むなど、恐れ多いんでっけど。

238年前に起こった話を紹介しまひょ。

それでは~ 京都御苑の方へ向かいまっせ。

(旧3000系 京阪特急 テレビカー)




5年前に引退するとの報道でデジカメ撮影をした
今では見れない、懐かしい特急電車でおます。

2013年に引退し富山地方鉄道と大井川鐡道に
譲渡されて、現在も運行がされているとの話も。

以下の画像は全て2012年7月のものなので
古いですがご容赦のほど、お願いしますね。

(旧 閑院宮邸の正門)




時は江戸時代で10代将軍・徳川家治公の晩年で
田沼意次さんが権力を握っていた頃のお話。

第118代・後桃園天皇が生まれたばかりの皇女
欣子(よしこ)内親王を残しただけで崩御されます。

男系の皇族が一人も存在しなくなったんでっせ。

(旧 閑院宮邸の 車寄せ)




伏見宮家や桂宮家に有栖川宮家など室町時代から
江戸時代初期に、天皇の皇子から成立した三つの
世襲親王家は、やはり血統が遠かったようですわ。

新井白石の建白で東山天皇の第2皇子である
直仁(なおひと)親王を新しい世襲親王家として
閑院宮家(かんいんのみやけ)を創設したとか。

この時代には東山天皇の皇子から閑院宮家が生まれて
第2代閑院宮典仁(すけひと)親王が当主でおます。

長男の美仁(はるひと)親王は21歳の成人ながら
先帝の忘れ形見である、欣子(よしこ)内親王が
1歳になるかならぬかでは釣り合いがとれまへん。

変わって第6皇子の師仁(もろひと)親王は8歳
欣子(よしこ)内親王を中宮(皇后)に迎えて
第119代天皇に推挙するのが最適と考えました。

先帝の内親王に合わせて新しい天皇を選ぶとは
江戸幕府も朝廷も苦渋の判断をした訳ですわな。

(旧 閑院宮邸の内部)








現在の閑院宮邸は明治初期に新築された建物だとの話。

旧閑院宮邸は現在も無料で一般公開がされてまっせ。

1779年(安永8年)旧暦11月15日ご即位。

光格天皇(こうかくてんのう)と称されますよ。

(第119代 光格天皇)


この方のご生母は「大江磐代=おおえのいわしろ」で
父親は浪人で町医者である岩城宗賢の娘だったとか。

閑院宮典仁親王の正妻として中御門天皇の第5皇女である
成子(ふさこ)内親王が、お輿入れの際に入内したとの説。

成子(ふさこ)内親王の侍女だったようですね。

だから民間人で、お目見えすらできない女性なんですわ。

でも男子が誕生すれば、立派な親王さまなんですから。

ご本人も聖護院のお寺に門跡として入られる予定が
天皇陛下に祭り上げられるとは、驚きだったでしょうな。

師仁は(しにん)と読めるとかで縁起が悪いとのことで
兼仁(ともひと)親王と新しく改名までされたんだとか。

時代のいたずらで、わずか8歳の師仁親王が新天皇になり
宮中へ入られることになったんでんな。

第125代・光格天皇とお呼びするお方です
今上陛下には直系のご先祖様になりまぁ。

「光格天皇」は明治天皇の曽祖父になるお方ですよ。

(京都御所 土塀)




即位の当時は幼帝だったので後桜町上皇などの庇護を得て
時代は、松平定信「寛政の改革」の頃を迎えますんや。

光格天皇は父親である閑院宮典仁親王が関白や大臣よりも
位が低いのはおかしい「太上天皇=だじょうてんのう」の
尊号を与えたいと幕府に要望するも、二度拒絶だったとか。

11代将軍・徳川家斉の父親である一橋治斉にも同じように
「大御所」の尊号を送ることに成るのを嫌ったとの説も。

当時の徳川幕府には天皇陛下の願いも拒絶できましたんや。

(京都御所 建礼門)


後桜町上皇や光格天皇の叔父などが幕府との和解に務め
光格天皇は先例があるにも関わらず断念されたとの話。

これを「尊号一件」とか「尊号事件」と呼びますんや。

時は流れて明治維新を迎えてからの話になりまっけど。

明治天皇は閑院宮典仁親王が高祖父に当たるお方だとして
「慶光天皇=きょうこうてんのう」の尊号を授与されます。

「太上天皇」としての尊号で歴代の天皇には入りませんよ。

(蘆山寺=ろさんじ  慶光天皇蘆山寺陵)


(慶光天皇 お墓)








光格天皇の皇女や関連する皇族方が多くお祀りされてまぁ。

でも~ 光格天皇のご生母さまは離れた別の共同墓地に
お祀りされているとは、厳しい身分制度の時代ですかな。

鉄ちゃん爺やが共同墓地を探しましたが不明でしたわ。

HPでは蘆山寺に葬られているのは確かのようですけど。

(蘆山寺 山門)


(蘆山寺 本堂)


(蘆山寺 仏殿内部)




現在の皇室は神道でお祀りされてますので、江戸時代の
天皇や皇族方の位牌はここ蘆山寺や泉涌寺などに置かれ
現在も「御寺=みでら」の格式が伝わってますかな。

光格天皇は1817年(文化14年)旧暦3月22日に
仁孝天皇(にんこうてんのう)に譲位をされますんや。

1840年(天保11年)旧暦11月18日に崩御まで
日本歴史上では最後の上皇さまであり太上天皇でおます。

(蘆山寺 紫式部の庭)






(蘆山寺の 由来書き)


現在の蘆山寺は豊臣秀吉により船岡山付近からこの地に
移転を命じられたそうで、平安時代には源氏物語で有名な
紫式部が育った邸宅が在ったとの説が有力でおます。

そんな訳で7月中旬から9月頃まで桔梗の花を咲かせて
観光客を迎え入れているようですわ。

(京都御苑 清和門)


光格天皇が崩御された後は中宮(皇后)であった
欣子(よしこ)内親王さまは剃髪して新清和門院の称号を
得られましたが、この清和門は京都御所から東へ下り
寺町通りの蘆山寺の近くに位置してますんや。

残念ながら欣子内親王は二人の皇子さまを、お産みに
なりましたが夭折されて、血統は絶えておられますね。

(京都御所 建春門)


処で、日本歴史で天皇陛下の名前を調べましたら不思議な
ことに気が付きましたんや、「光」の名前が送られた天皇。

光仁天皇  天武天皇系から 天智天皇系への復活

光孝天皇  陽成天皇を廃し 新しい天皇を即位へ

光明天皇  南朝に変わり  足利尊氏が北朝を成立

後光明天皇 徳川系の明正天皇が 弟皇子へ譲位

光格天皇  現在の今上陛下の  直系のご先祖様


偶然なのかも知れませんが、新しい時代を意味する
そんな意味から、「光」を贈位したのかもしれませんね。

それでは、今日はこれでお仕舞い、さいなら~🎵














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錦織神社をデジカメ散歩

2017-01-21 18:49:06 | 神社
南河内の山々から水を合わせ大きな川となる。

大和川水系の一番大きな支流を「石川」と
呼びますんや、我が町の東側を流れてお隣の
藤井寺市と柏原市で大和川に合流しますんや。

(羽曳野大橋から 石川の上流を撮影)


遠くに見える山並みは向かって右側が「金剛山」
左側が「葛城山」山の向こうは奈良県になりまぁ。

手前に見える丘陵が「源頼朝」のご先祖になる
「河内源氏」発祥の地で、当時は石川郡壷井郷。

現在も「河内源氏三代」の墓が残されてまっせ。

反対の下流側を撮影したらこんな感じですわ。

(羽曳野大橋から 石川の下流を撮影)


ここから約3kmぐらいで大和川に合流しますんや。

現在の大和川は西へ流れて大阪湾へ注いでまっけど
江戸時代の元禄時代までは、北西に流れ下り三つに
別れて大きな湿地帯と沼か池を造っていたそうですわ。

最後は淀川と合流しながら大坂城を巻くようにして
中之島から大阪湾へと流れてたそうですわ。

(石川を背景にして 自分撮り)


中世には「石川」も水量が豊富だったので当時は
京都から船で淀川と大和川を遡り1~2日ぐらいで
ここ、石川郡の壷井郷まで来れる感じになるんだとか。

騎馬で走れば一日で京都の地に辿りつくことも可能。

だから「河内源氏」の源頼義や源義家はこの地で
京都の情勢を把握できる、安全地帯でもあったとか。

それじゃ、ここから4kmほど石川を遡上しまひょ。

(南阪奈の 高速道路を通過)


ここを通過したら我が町から、次は富田林市でっせ。

この街も中世の末から栄えた寺内町が残ってますんや。

底の浅い船なら昔は富田林まで遡上できたとのこと。

(富田林市の マンホールの蓋)


最初の画像で紹介した金剛山と葛城山を背景にして
富田林の寺内町が描かれているようでんな。

ツツジが描かれているのは町の花を意味するのかな。

それでは「石川」を離れて「錦織神社」へ行きまひょ。

(郷社 錦織神社の石碑)


(錦織神社 石の鳥居)


毎年ながら2月に確定申告の為に、この前を通過して
近くに有るスバルホールの会場へ行くんですわ。

往復の電車賃が460円、昔は税務署だったから
自転車で行けたのに、ここまでは片道約6kmかな。

郷社と記されているから、村の鎮守さんかな?

たいした神社でもないだろうと、勝手な判断を。

そんな訳で拝殿まで行ったことが無かったんですわ。

(錦織神社の 由来書き)


テニスの錦織圭選手が有名になり、名前が同じ神社。

話の種になるかなと、初めて参詣することにしました。

錦織神社のHPでも錦織圭選手を応援してます~🎵

こんなのも最近でっけど、見つけましたんや。

(錦織神社の参道)


約150mぐらい続く立派な参道でっしゃろ。

処で「錦織神社」にフリガナを付けまへんでした。

実は「錦織」の読み方が4~5種類もおますんや。

富田林市の地名では「錦織=にしきおり」ですわ。

内の奥さんに聞けば昔から地元では「にしこおり」と
呼んででいたよと、話を聞いたこともある。

HPで調べたら「にしこり」「にしごり」とか
地元でも、呼び方がバラバラなのには驚き!

テニスの錦織圭(にしこりけい)さんだったよね。

オペラ歌手は錦織健(にしきおりけん)さんのはず。

(錦織神社の 境内図)




高級な綾織りや錦織りを得意とした「錦織氏」が
滋賀県と共にここ南河内にも住み着いたとの説。

「錦織氏」の氏神さんだったのかもしれまへんな。

我が町も「西文氏=かわちのふみし」が渡来して
文字を日本に伝えたとの説があるんでっせ。

西暦の5世紀~7世紀に掛けて朝鮮や中国から
多くの渡来人がここ南河内に移り住んだそうですわ。

(錦織神社の神門 & 狛犬)


Wikipediaでは「錦織神社=にしきおりじんじゃ」

大阪神社庁のHP「錦織神社=にしこおりじんじゃ」

文化庁のデーター「錦織神社=にしごおりじんじゃ」

富田林市のHPではご丁寧にもカナがふってまへんわ。

どれが本当なのか、誰も断定が出来ないという事か?

(国の重要文化財 表示板)


(錦織神社 本殿)




郷社の神社とは思えない、これは立派なお社でっせ。

再建が南北朝時代の西暦1363年(正平18年)
約650年も昔に造られた本殿だったとは驚き!

河内の国は南北朝から戦国時代まで戦乱に明け暮れ
南北朝時代の建物が残っていたとは半信半疑でした。

HPで確認しても、南北朝時代の建築でしたわ。

平安時代中期の瓦が出土もしているんだって。

正面から見たら唐破風(からはふう)の上に
三角形の千鳥破風(ちどりはふう)の屋根を
重ねた入母屋造り(いりもやつくり)の構造に
なっているのが分かりまっしゃろか。

江戸時代には良く見られるが南北朝時代には
珍しい「錦織造り」と呼ばれているんだって。

日光の東照宮に影響を与えたとの説がおます。

そんな立派な神社だったのかと反省した次第。

(参道に 天誅組河内勢 顕彰碑)


明治天皇の叔父に当たる中山忠光を盟主に仰ぎ。

明治維新の直前に決起したれども、紀州藩や
津藩との戦闘に敗れて悲運の死を遂げた60名。

河内勢で60名の名前が刻まれていますんや。

決起するのが数年早かったという結果でしたな。

戻ってからHPを見たら毎月の1日と15日に
拝殿の扉が開かれて、本殿の側まで入場できると。

次回は、見事な彫刻や朱塗りの本殿をデジカメで
撮影に来ようかなと考えたんですわ。

今回は垣根の外からの撮影でお仕舞でしたわ。

ちなみに関東では小田原市の錦織神社が、最近は
錦織圭選手を応援する神社として人気だとの話。

他には長野県の松本市や岡山県の久米郡などにも
同じ名前の「錦織神社」が存在するようでっせ。

でも、富田林市の「錦織神社」が全国では一番
立派な神社だと考えて良いんじゃないのかしら。

錦織圭選手がここを訪れたとは聞いてまへんけど。

ほんなら、今日はこれで、さいなら~🎵

































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天王寺七坂を デジカメ散歩 (後編)

2017-01-14 16:31:41 | デジカメ散歩
天王寺七坂の五つ目を「口縄坂=くちなわざか」と言いまぁ。

「口縄=くちなわ」とは蛇のことを言うんだそうですわ。

坂の下から眺めたら蛇のように、くねくね曲がっていた
だけど現在の「口縄坂=くちなわざか」はほぼ直線でっけど?

(口縄坂=くちなわざか 上町台地から見下ろす)


(坂の頂上にある 織田作之助の文学碑)


「口縄坂は寒々と木が枯れて 白い風が走っていた~」

昭和19年3月に「新潮」に発表された「木の都」の
最初の部分で、古き大阪のノスタルジーを感じさせる
大阪の庶民風景を描いた作家でしたかな。

関西では「夫婦善哉」などで有名でっけど、東京の
文壇からは批判されて、孤独な死を遂げた大阪の作家。

鉄ちゃん爺やが若い頃に一度だけ読んだこともあるが
「口縄坂」を訪れたのは今回が初めてですわ。

(口縄坂=くちなわざか 途中から見上げると)


(口縄坂=くちなわざか 中腹)


(大阪市天王寺区 地図)


天王寺七坂の辺りは大阪の「寺町」と言われてまぁ。

江戸時代初期に大阪城の南側を防御するために市内の
お寺をこの辺り一帯に集めたのが、現在もそのままに
天王寺区だけで約150ケ寺も残ってますんや。

大阪は八百八橋 京都は八百八寺とか言いまっしゃろ。

南北約1.5km 東西約800m ぐらいでっかな。

京都市内でもこんなにお寺が密集してる場所はおまへん。

(口縄坂の 坂下で自分撮り)


江戸幕府が決めた事なのか、「口縄坂」の高台には禅宗系
曹洞宗や臨済宗のお寺が約15ケ寺もかたまってますんや。

今度は「口縄坂」を下りて松屋町筋に出てくると浄土宗の
色んな宗派が約25ケ寺ほど南北に並んでますんや。

日蓮宗系はここから約1kmほど北東へ行った上町筋に
浄土宗系のお寺も並び、住み分けてかたまってますな。

真言宗系は生魂神社の北側に約10ケ寺が集められ
天台宗系は唯一1ケ寺だけが高台にぽっつりと。

(天王寺七坂 口縄坂=くちなわざか 説明板)


浄土真宗系のお寺は引っ越しを求められなかったそうで
この「寺町」には1軒もないことが分かりましたで。

これは当時は浄土真宗は「道場」と呼ばれお寺じゃなく
火葬などをやらないので元の場所に留め置かれたとか。

浄土真宗以外の宗旨は街中で「遺体」を火葬するので
上町台地の周辺に強制的に移転させられたそうですわ。

同時に当時の大坂市内の三郷と呼ばれる町人層は
浄土真宗が大半で、石山合戦のトラウマもあって
江戸幕府と雖も強制的な移転がさせられなかったとも。

(松屋町筋の 下寺町界隈)




上の画像では右手に下の画像では左手にお寺の土塀が
写ってまっしゃろ、こちらが上町台地を下ってきて
松屋町筋に面した、浄土宗関係のお寺になりまんねんで。

処で全国にお寺って何ケ寺ぐらいあるか調べました。

正確には判定できないものの、約7万7千ケ寺だとのこと。

全国では愛知県が一番多くて約4600ケ寺
二番目が大阪府で約3400ケ寺となるそうですわ。

京都府は五番目で約3000ケ寺だとは意外な結果でした。

(学園坂=がくえんざか)


(大阪・夕陽丘学園 校門の銘板)


天王寺七坂は車両が通行できまへん、昭和になってから
車が通れる道を新しく施設したのがこの「学園坂」で
坂の途中に夕陽丘学園が在るのでそこから付いたとか。

最近はこの「学園坂」を含めて天王寺八坂と呼ぶことも
あるそうですが、江戸時代からの天王寺七坂の方が
鉄ちゃん爺やには、昔の風情があってよろしおますけど。

(学園坂=がくえんざか)


天王寺七坂と学園坂を登ったり下ったりと良い運動でっせ。

再び松屋町筋に面したお寺で意外な石碑を発見しましたで。

(万福寺 山門前の石碑)


(浄土宗 万福寺の山門)


幕末に新選組が京都から大阪へ出張してきた際には
この「万福寺」が定宿として使われたようですわ。

多くの勤王志士が捕らわれて本堂の裏手に在った
獄舎で拷問を受けて、亡くなった方も居たとか。

大阪の大空襲で当時の建物は焼失したようでんな。

(万福寺の本堂)


暫く松屋町筋を北へ歩くと六つ目の天王寺七坂に出ました。

松屋町筋の角に源聖寺(げんしょうじ)というお寺がおます。

だからこの坂は「源聖寺坂=げんしょうじざか」という
名前が付けられてますんや。

(天王寺七坂 源聖寺坂=げんしようじざか)




(源聖寺坂の 説明板)


(浄土宗 源聖寺の山門)


再び歩き出しましたけど、この辺りで一番大きなお寺。

約800坪ぐらいあるとか聞きましたけど室町時代の
足利将軍家の大坂祈祷所だった「大蓮寺=だいれんじ」
山門が開かれてましたので境内へ失礼しまっせ。

天王寺七坂のお寺は、観光客に向けて山門を開放し
境内に入れるようにしているお寺が多いんですわ。

(浄土宗 大蓮寺=だいれんじ 境内)


天王寺高校は大阪でも北野高校と並んで最優秀高校で
鉄ちゃん爺やは校区が異なるので入学は出来まへんが
中学時代には憧れの公立高校でしたんや。

境内を歩いていたら珍しい供養塔を発見しましたで。

(吉本芸人の塚  大蓮寺境内)


帰ってからHPで調べたら、吉本興業の創業者の方が
芸人が卑下されて、供養の墓もないと嘆かれたそうな。

実の娘さんが1993年(平成5年)に供養塔を設置
名も知られずに亡くなった吉本芸人さんを弔ったとか。

中央のは高座の座布団をかたどっているようでんな。

(下寺町1丁目1番地 住居表示)


(生國魂神社=いくたまじんじゃの 鳥居)


大阪人は親しみを込め「いくたまさん」と呼びまんねん。

この参道が天王寺七坂の最後の坂と勘違いしてましたわ。

この坂道には名前は付けられてないような感じ。

それもそのはず江戸時代には存在しなかった参道だとか。

(生國魂神社 参道の坂)


(生玉町11番地 住居表示)


(天王寺七坂 真言坂=しんごんざか 説明板)


天王寺七坂の七つ目を無事に発見しましたで。

この坂だけは「生國魂神社」の北門から南北へ延びる
方向が他の六つと異なるようになってますんや。

江戸時代には神宮寺として「生國魂神社」の北側に
真言宗のお寺が10ケ寺あったので名付けられた
そのように説明板には記載されてまんな。

(現在の 真言坂=しんごんざか)


天王寺七坂はこれで完全踏破でっけど、やっぱり
ここまで来たら「生國魂神社」へお詣りして行きまひょ。

(官幣大社 生國魂神社)


生國魂神社=いくたまじんじゃ 戦後に官幣大社の
文字はセメントなどで塗リ潰した神社が多いんでっけど。

生國魂神社さんは堂々として戦前のままになってまっせ。

(生國魂神社 北の参道)


(生國魂神社 東側の正門 大鳥居)


(生國魂神社 拝殿)


何年ぶりかしら? 40年ぐらいは訪れてない記憶。

今日はご朱印を頂戴すろことにしまひょ。

(生國魂神社 ご朱印)


(生國魂神社 酉年の絵馬)


日本全国ではお寺と神社ではどちらの方が多いのか
インタネットで検索して見ましたんや。

どちらも正確には数えきれないそうですが答えは

神社が 約8万8千社  お寺が 約7万7千寺

神社の方が多いそうですが神職の居られる神社が
約2万社だそうで、村の鎮守さんなども総数に
入っているんでしような。

新潟県に約4700社で首位に、二番目が兵庫県
約3800社も在るそうで、三番目は福岡県の
約3400社となり、京都府はベスト5にも入らず。

お寺も神社も最下位の47位は沖縄県ですな。

やはり沖縄県は戦災で焼失してしまったのかも
それとも本土と違った宗教が存在するのかは不明。

本日はこれにてお仕舞にしまっさ。

ほんなら~ これでさいなら~🎵



 



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天王寺七坂を デジカメ散歩 (前編)

2017-01-07 19:42:20 | デジカメ散歩
大阪市の中央を南北に延びる丘がおますんや。

上町台地と呼び活断層で出来た崖が西側にあり
東側はほとんど段差を感じないような台地ですわ。

活断層と言っても約8000年ぐらい動いてなくて
もしも動いたら阪神淡路大震災級の地震になるとか。

この上町台地は大阪城付近が一番高くて天守閣付近で
標高が約38mぐらいと言われてますんや。

(大阪城 天守閣)




昨年の大河ドラマで有名になった真田丸付近を通り
茶臼山の古戦場の辺りまでが標高が約20m前後。

南へ延びる上町台地が攻防の戦場に成った訳でんな。

阿部野ハルカス付近を通過し路面電車の上町線と
並行しながら、住吉大社付近で標高約10mと下り
住吉区の清水丘辺りで一旦は消滅しますんや。

大和川を越えると再び浅香山台地となりまっけど
今回のお話とは関連がおまへんので省略しまひょ。

今回は、この上町台地の天王寺地区のお話でっせ。

「天王寺七坂」と呼ばれる七つの坂が在るんですわ。

それでは南の方から順に紹介して行きまひょ。

(四天王寺 石の鳥居)(重要文化財)


聖徳太子が造られた日本最古のお寺が四天王寺ですわ。

何度も火災や台風に遭い、現在の建物は昭和30年代で
歴史的な建物は殆ど残ってまへんけど。

お寺に鳥居とは似合わないと言われそうでっけど
中世の神仏習合時代の名残だと考えてくださいね。

この石の鳥居は鎌倉時代の永仁2年(1294年)に
朱塗りの鳥居から建て替えられたそうですわ。

扁額には嘉歴元年(1326年)の銘が刻まれ
この門から西側は極楽浄土だと書かれいるんだとか。

(大坂夏の陣 合戦絵図)


絵図の右側中央に鳥居が描かれてるのが四天王寺の鳥居で
その右側が真田幸村が徳川家康の本陣へ迫る姿ですかな。

(四天王寺 石の鳥居から 西側を望む)


中世には夕日が沈んでいく姿が良く見えたそうで
和歌や物語にもしばしば登場する名所だったんだとか。

現在も夕陽丘という地名や駅名が残ってまんねんで。

この鳥居の前から西側へ下っていく坂道が「逢坂」で
現在は国道25号線で大阪市から奈良への国道ですわ。

天王寺七坂の一番南になるんでっけど、現代的な国道で
これからお話する、天王寺七坂の情緒には欠けまっけど。

(逢坂の 坂道の途中に建つ 一心寺)


ブログで何度か紹介した「お骨仏」で有名なお寺でっせ。

後白河法皇がここで法然上人と夕日を眺めながら法話を
聞き、極楽往生を願ったとの逸話が残ってまっしゃろ。

大坂冬の陣では徳川家康の本陣として使われたそうで
この画像の左手を300mぐらい行くと茶臼山ですわ。

(大坂冬の陣の 絵地図)


絵地図の向かって左下に徳川家康の本陣が描かれてまっせ。

この位置が茶臼山と一心寺だとされてるようですわ。

大坂夏の陣では逆に大坂方の真田幸村がここに本陣を構え
現在の阿倍野方面に居る徳川家康の本陣に攻め込んだとか。

それでは「天王寺七坂」の話を続けることにしまひょ。

(天王寺七坂 逢坂の道標)


(天王寺七坂 逢坂の説明板)


(逢坂の坂下 明治30年の道標)


ここで逢坂を横断して少しだけ坂を登りまっせ。

一心寺の反対側には安居神社がおますんや。

(安居神社 門前)


元々は菅原道真公をお祀りする天満宮なんでっけど
真田幸村公が戦死した場所として有名になってまぁ。

(真田幸村公の 銅像)


(真田幸村公 陣没の説明板)


ここで私の首を討てと松平忠直の武将に命じて
いさぎよく戦死をしたと伝えられてますんや。

真田丸の人気でっしゃろな参拝客が5~6名。

一昨年までは訪れる人もない静かな神社でしたんや。

(安居神社の本殿)


「天王寺七坂」のお話がメインでっから境内を横切り
北側へ通り抜けさせてもらいまっせ。

(安居神社境内から 上町台地の崖を撮影)


上町台地の西側はこんな感じの崖になってますんや。

高低差は約10m~15mぐらいでっしゃろか。

安居神社の境内を北側へ抜けると「天王寺七坂」の
二つ目に当たる「天神坂」へ出てきましたで。

(天王寺七坂 天神坂の道標)


(天王寺七坂 天神坂の説明板)


説明するまでもなく安居神社へ通じる坂道ですわな。

「天王寺七坂」は最初の「逢坂」以外は車両通行止め。

石段や石畳で江戸時代からの風景を残す工夫がされてまぁ。

ここから再び「天神坂」を横切って北へ進みまっせ。

三つ目の「天王寺七坂」は「清水坂」と呼びまんねん。

(天王寺七坂 清水坂の道標)


(天王寺七坂 清水坂の説明板)


清水寺の北側を通る坂なので「清水坂」と呼びますんや。

京都の清水寺を模して造られたお寺なので地元では
「新清水さん」とか呼ぶことも有るそうですわ。

音羽の滝を模した「玉出の滝」が有り、清水寺の
舞台を小さくしたような舞台が高台の縁におまっせ。

山門の扉が閉まっているので写真は撮れまへんでした。

(清水寺の 側壁)


四つ目の坂道に向かって歩きまっさ。

次の「愛染坂」が一番有名かもしれまへんな。

「愛染坂」(あいぜんざか)と読みまんねんで。

(天王寺七坂 愛染坂の道標)


(天王寺七坂 愛染坂の説明板)


(愛染坂の 登り道)


(愛染坂の途中から 下りを撮影)


今度は「愛染坂」を登って上町台地の頂上へ行きまひょ。

この「愛染坂」の南側に「星光学園」という学校がおます。

江戸時代には料亭の「浮瀬亭」が在った場所なんだって。

松尾芭蕉が死の直前に訪れて、こんな句を詠まれたとか。

「松風の 軒をめぐりて 秋くれぬ  松尾芭蕉」

この句碑が構内に在るそうですが許可がないと入れまへん。

(星光学園の裏門)


(料亭 浮瀬亭跡の説明板)


江戸時代になっても、ここ「浮瀬亭」から大阪湾が見えて
淡路島や六甲山に沈んでいく夕日は有名だったんだね。

当時は大坂でも有名な料亭だったと記録には残ってますんや。

松尾芭蕉は此処で句会を開いた数日後に病の床についたとか。

元禄7年(1694年)9月26日のことだったそうな。

翌月の10月12日に大坂の地で亡くなっておられますよ。

登り切ると有名なお寺の門前に出てきますんや。

四天王寺の支院で勝鬘院(しょうまんいん)というお寺で
愛染堂(あいぜんどう)が在るので坂の名前にも成ってまぁ。

(勝鬘院 愛染堂の 薬医門)




大阪の夏祭りは、ここ「愛染さん」から始まりますんや。

確か6月30日から7月2日までだったと記憶しまぁ。

「愛染さん」「天神さん」「住吉さん」と続きまっせ。

大阪三大夏祭りで「愛染さん」は女性のお祭りだとか?

女性が浴衣姿で参加する祭りとして華やかなんでっせ。

一昔前までは北新地や今里新地の芸者さんが宝永かごで
練り歩く、お寺のお祭りとは思えない光景でしたかな。

(勝鬘院 愛染堂の本堂)


お祭りの際には四天王寺から役僧が来られるんだそうですわ。

四天王寺は戦後から「和宗」と呼ぶ宗派に属さないお寺でっせ。

江戸時代には天台宗のお寺だったと記録されてまつけど。

徳川時代の再建だそうですが空襲で焼けたのどうかは不明。

(勝鬘院 愛染堂の 多宝塔)(重要文化財)




大阪では一番古い多宝塔で豊臣秀吉が再建した堂塔だって。

付近は大阪の大空襲で焼けてしまったんでっけど、幸いにも
この多宝塔だけは焼失を免れたという貴重な建物でっせ。

戦前は国宝だったが、別に格下げになった訳ではおまへん。

現在は国の重要文化財に指定されているようでんな。

(勝鬘院 愛染堂の 多宝塔)(重要文化財)


多宝塔が御開帳されるのは夏の「愛染祭り」の3日間だけ。

大日大勝金剛尊という仏様が拝めるんだって。

ここは聖徳太子が造られた「施薬院=せやくいん」が
平安時代まで在った場所とされてますかな。

(愛染かつらの木)


かつらの木にノウゼン鬘が巻き付いている姿が
男女の愛欲を示しているとの説がおますんや。

男女二人で訪れると恋愛が成就するとの噂でっせ。

此処の木は大阪大空襲で傷みましたが、何とか
今日まで生き残ったと言われてるそうですわ。

「愛染かつら」の映画は戦前から戦後にかけて
三度ばかり上演されて話題になりましたかな。

鉄ちゃん爺やの時代は岡田茉莉子さんと山田輝雄さん
戦前なら田中絹代さんと上原謙さんが主役でんな。

戦後は京マチ子さんと鶴田浩二さんもおましたで。

主題歌「旅の夜風」なら若い方でもご存じかしら?

「花も嵐も踏み越えて~🎵 行くが男の生きる道~🎵」

霧島昇とミス・コロンビヤさんのデュエットソング。

当時100万枚近く売れたヒット曲だったとの話。

(愛染堂境内 愛染かつらの木)


小説に書かれた「愛染かつら」は長野県は別所温泉にある
北向き観音に在る「愛染かつら」だとの説が多いでっかな。

他には東京の谷中の自性院だともの説も焼失して現在は
「愛染かつら」があったのかどうかも不明。

こちら勝鬘院の愛染堂は昭和の初期に作家・川口松太郎が
近くに住んでいたとの説があるようですな。

「愛染かつら」で戦後の映画に出演した田中輝雄さんが
大阪大空襲で弱った「愛染かつら」の側に新しい苗木を
植えられ、桂の木が横で育っているという処でおます。

全国各地に同じような伝説が残されていますけど
小説の世界だから、何処が本当なのかは不明ですかな。

それでは坂を登りきつて谷町筋まで出てみまっせ。

(大阪府道 谷町筋)


片側四車線の立派な道路でっけど国道ではおまへん。

大阪府道で中世の熊野街道に沿って出来た新しい幹線道路。

(谷町筋の 道路標示板)


(大阪市営地下鉄 夕陽丘・四天王寺駅)


この付近が昔の名勝だった「夕陽丘」から採用でんな。

谷町線という大阪市で一番走行距離の長い地下鉄ですわ。

此処から次の五つ目の天王寺七坂へ向かいまっせ。

次は「口縄坂=くちなわざか」と言いますんやけど
長くなりますので、今回はここで中断させて貰いまひょ。

次回は「口縄坂」から後編を紹介させてもらいまっさ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵






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