鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

日本一長い 天神橋筋商店街を デジカメ散歩

2017-03-18 16:56:58 | 大阪
この日は飲み友達が心不全とやらで入院。

彼のお見舞いにが外出の本当の理由でしたんや。

(大阪市営地下鉄 66系電車)


66系電車のトップナンバーが入線してきたので
急いでデジカメを取り出して撮影したんですわ。

阪急電車に相互乗り入れする大阪市営地下鉄の電車。

(阪急電鉄千里線 柴島駅名標)




柴島(くにじま)と読める方は大阪人だけかな?

大阪市内へ送水する大きな浄水場がここにおます。

現在でも大阪市内へ送水する上水道の約40%を
ここ柴島浄水場から供給してるんだって。

鉄ちゃん爺やも学生時代には、ここの水を飲んで
カルキの嫌な臭いの記憶が残ってますんや。

でも最近は随分と改良されてミネラルウオーター並み
500mlサイズで大阪の水として売られているとか。

そんな訳で、大阪人には知られている地名なんでっせ。

(大阪キリスト教病院)


病院内にキリスト教の教会が在る珍しい病院でっせ。

4~5年前に新しく建て替えられような感じがしまぁ。

昔は左手の阪急電車の京都線側に在ったような記憶が。

再び柴島駅(くにじまえき)から阪急電車に乗って
三つ目の地下鉄の南森町駅で下車しまっせ。

(国道1号線 南森町交差点の標識)


東京日本橋から約630km続く国道1号線。

左手の阪神高速道路を潜って約500mぐらいで
梅田新道交差点が終点となりますんや。

そこから先、今度は国道2号線となって九州の入口
北九州市は門司区まで繋がってまんねんで。

それでは天神橋筋商店街を画像などで案内しまひょ。

(天神橋筋商店街 2丁目付近)




1本で繋がった商店街としては日本一なんだとか。

天神橋筋1丁目~天神橋筋7丁目(約2.6km)

その内1丁目~6丁目まではアーケードになってまぁ。

四国の高松市に東西南北に交差してる商店街が有り
アーケード商店街が合わせて約2.7kmあるとのこと。

以前にも紹介しましたが、大阪市内では南北の道を
「筋」と呼び、東西の道を「通り」と呼びまんねんで。

だから天神橋筋商店街は南北に連なっている訳でんな。

日本で一番短い商店街も大阪市内に有るんだって。

肥後橋商店街(約79m)だと言われてるそうですわ。

(天神橋筋2丁目 入口のお迎え人形)




天神橋筋2丁目は大阪天満宮への参道の入口に当たりまぁ。

だから天神祭り船渡御の、お迎え人形が飾られてますんや。

他府県からこられた方は不思議な人形で意味が分からないはず。

(天神橋筋3丁目 アーケードの鳥居)




真朱(まそほ)・桔梗(ききょう)・浅葱(あさぎ)・
萌黄(もえぎ) 日本古来の四色の鳥居が見下ろしてまぁ。

現代人には読めないし、どんな色か知らないかもね。

どんな色かも含めてご覧くださいよ。

桔梗(ききょう)は写ってませんが花の名前や色を
ご存じのはずなので省略させてもらいましたけど。



(こんな 忍者もどきの人形も)


大阪人は昔から住所を省略して呼ぶことが多いんですわ。

天神橋筋6丁目=天六  上本町6丁目=上六

日本橋1丁目=日本一  谷町9丁目=谷九

これも他府県の方が聞いたら、しどろもどろするかも?

大阪人なら、これで十分に通じる訳なんでっせ。

蛇足ながら東京は日本橋(にほんばし)と読みますが
大阪は日本橋(にっぽんばし)と読みまんねんで。

(天神橋筋3丁目 入口の飾り)




(天神橋筋4丁目 入口の飾り)


この飾りの意味が解読できたら、立派な大阪通!

テントウ虫に丸が四つ、天四=天神橋筋4丁目でっせ。

大阪人らしい語呂合わせじゃなと、笑われるかも

(天神橋筋4丁目 付近)




この辺りで行列のできる店を幾つか紹介しまひょ。

私が昼食を食べたかったが諦めた洋食屋でおます。

(天神橋筋商店街 ランプ亭)


これぐらい派手な看板でないと大阪人には目立ちまへん。

大阪のおばちゃんの派手なヒョウ柄の衣装と同じ感覚かな。

(大阪とんかつ 派手な看板)


(大阪で有名な 激安スーパー玉出)


大阪府内に54店舗と兵庫県の尼崎市内に1店舗。

なにせ、目玉商品に1円とか10円とかの売り物!

でも、従業員から裁判も起こされているとかの噂。

今流行りのブラック企業なんて有り難くない名前も。

でも~ お客は激安で大いに喜んではいるんだけど。

(ここも行列で 昼食はお預け!)


お昼を外して午後2時になってもこんな行列でした。

中国や韓国の方が天神橋筋商店街にまで押し掛けているのか?

そんな訳で、鉄ちゃん爺やは、立ち食いの蕎麦屋で昼食に。

(天神橋筋5丁目 埋め込みの銘板)


(元阪神タイガース K氏の垂れ幕)


(天神橋筋5丁目 付近)


約2.6kmもの長い天神橋筋商店街なんですが
人出の一番多いのは5丁目~6丁目でっしゃろな。

芸能人まで買いに来るコロッケの有名店もこの界隈。

(天神橋筋6丁目 附近)


(106 埋め込まれた銘板)


10で=天 6=6丁目 天神橋筋6丁目ですわ。

ここまで来たら大阪人のジヨークかダジャレでんがな。

(天神橋筋7丁目 方向を撮影)


天神橋筋商店街の長いアーケードもここでお仕舞い。

でも天神橋筋7丁目まで商店街は続いてまんねんで。

(天神橋筋6丁目 付近)




(大阪市立 大阪くらしの今昔館入口)




(大阪くらしの今昔館 入場券)


常設館は大人600円なんですがお雛さんの特別展示も
200円の追加で、合わせての入場料が800円でした。

今回はこれで、お仕舞としまっさ。

次回はこの大阪・くらしの今昔館と
天六ゴーストップ事件を合わせて
紹介することにしまひょ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵

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第11回 じないまち雛めぐり 富田林市

2017-03-12 14:43:24 | 大阪
予告の天神橋筋商店街は一週間遅らせます。

鉄ちゃん爺やの隣町になる富田林市で
毎年開催される雛めぐりを紹介しまひょ。

(第11回じないまち雛めぐり ポスター)


(富田林市 マンホールの蓋)


マンホールの蓋には寺内町の古い家屋と金剛・葛城の
山々を描き、市の花であるツツジが添えられてまんな。

近鉄の富田林駅を下車したら駅前のロータリーに
さっそくながら「お雛さま」が飾られてまっせ。

(富田林駅前ローターリに お雛さま飾り)


(近畿日本鉄道 富田林駅舎)


(富田林市 寺内町の見取り図)


戦国時代の永楽年間(1558年~1570年)

一向宗の証秀上人によって興正寺(こうしょうじ)が
建てられ、お寺を囲むような感じで出来たのが
富田林の寺内町で、約450年間もの長きにも関わらず
大きな火災がなくて、江戸時代から明治ごろまでの
古い家屋や街並みが約40軒ぐらい残ってますんや。

それでは大阪府に唯一残る寺内町を、ご案内しまひょ。

重要伝統的建造物保存地区に指定されまして、最近は
観光客にも知られ、大阪府の隠れた名所になつてまぁ。

(江戸時代の古い民家)






(虫篭窓=むしかごまど ズームアップ)


江戸時代の民家には軒高の低い中二階が多く見られますんや。

表側に採光と通風の為に虫篭窓(むしかごまど)を造るという
良く見られる風景だなと、この後も良くご覧くださいね。

(イベント案内所・休憩所)


まずは地元の幼稚園や保育園の園児の作品から紹介しまひょ。

こんな、可愛い作品もイベントを盛り上げてまんねんで。

(保育園・幼稚園 園児の作った お雛さま)




それでは町の中心になった興正寺(こうしょうじ)を
先に紹介することにしまっさ。

浄土真宗のお寺なんですが、本願寺さんや真宗大谷さんの
宗派とは異なった、興正寺派に属するそうですわ。

(興正寺・別院 山門)(国の重要文化財に指定)


元は伏見城の城門だったそうで、京都の興正寺の北門に移され
その後、安政年間に再び富田林・御坊へ再移設されたんだって。

馬に乗ったまま通過できる立派な山門で、田舎のお寺にしては
別格の山門で、古文書から最近に判明した史実のようですわ。

(興正寺・別院 鼓楼と呼ぶ建物)(国の重要文化財に指定)


江戸時代後半の建物で最近になって塗り替えられた感じ。

虫篭窓(むしかごまど)がユニークな形をしてまっしゃろ。

(興正寺・別院 山門と鼓楼を東側から撮影)

(富田林 御坊の 表札)


(興正寺・別院の 由緒説明板)




(江戸時代の 興正寺御堂 絵図)


このお寺が造られた頃には、織田信長と石山本願寺の
お互いが苦しく長い攻防戦をやっていたそうですわ。

同じ一向宗なのに、興正寺・富田林御坊は意外にも
織田信長と妥協し、滅亡を逃れているのには驚きでんな。

織田信長に兵糧米を供出した一向宗の寺院があったとは?

一向宗の全てが織田信長を敵とした訳じゃなかったんだね。

(興正寺・別院前の 通りと紅梅)




(興正寺 脇門の前に お雛さま飾り)


(ズームしてみまひょ)


やはり総本山が京都でっしゃろ、古い京雛の形をしてまぁ。

男雛が向かって右側で、女雛が向かって左に置かれてますわ。

それでは、ここ寺内町で一番古い民家を訪ねてみまひょ。

(旧杉山家の住宅) (国の重要文化財に指定)


現在は富田林市が旧杉山家の管理をやっているとか。

寺内町の通りや筋は中世のまま残っているんだって。

中世の宗教自治都市として貴重な史蹟なんだろうね。

(旧杉山家の住宅 説明書き)


(旧杉山家出身 明治中期の歌人)


与謝野晶子などと並び女流歌人としては著名だとも。

旧杉山家の住宅は富田林・寺内町で現存する民家では
一番古く、江戸時代の前半の町家として貴重な建物。

西暦1600年代後半の建築で、旧杉山家はここの
富田林寺内町の創業期に協力をした家系なんだって。

江戸時代には造り酒屋としても栄えたようでっせ。

富田林・寺内町では興正寺を除くと民間の住宅では
唯一、国の重要文化財に指定されてますんや。

(旧杉山家 住宅)








重要文化財なので、ここは入場料が大人400円ですわ。

あまり気が進まなかったので入口から撮影して退散しまひょ。

(旧杉山家住宅 屋内の土間の附近)


それでは入場料の要らない古い町家へ向かいまっせ。

田守家の方へ歩いて行くことにしましたんや。

旧杉山家に次ぐ、寺内町で二番目に古い町家ですよ。

18世紀前半の江戸時代は中期の建築だそうですわ。

(田守家住宅の 説明書き)


(田守家住宅 全景)


(田守家の家紋)


(田守家 玄関から撮影)




後ろ姿が写っておられる男性の方が
現在の田守家の、ご当主さんのようでした。

中へ入らせてもらつて、お雛さまを拝見させて貰いまぁ。

(田守家の お雛さま飾り)


カメラぶれしてお雛さま、ぼやけてますご免なさい。

それでは、色んなお雛さま飾りを紹介しまひょ。

民家の玄関先や表に自慢のお雛さまを飾ってはりまぁ。

4~5年ぶりに、お邪魔したんやけど一眼レフのカメラを
持った男女の方が、凄く増えたのにはびっくりでしたわ。

特殊な物の他はコメントを入れませんのでご覧くださいね。

(うさぎの お雛さま飾り)


(ねずみの お雛さま飾りかしら?)


(町家の玄関先に 飾られたお雛さま)


(ズームインしまひょ)


(店舗の奥に お雛さま飾り)


(ズームインしたら)


我が家のお雛さまも、これとよく似ていたな!

我が家のは男雛が向かって右側でしたけど。

京都の方が作られたお雛さまで「京雛」と聞いてまぁ。



(寺内町の 観光用道標)


(観光用 道標にも お雛さま)


(ズームインしたら)




(十二支の お雛さま飾り)






(立派な七段飾りの お雛さま)




お店の入口に、どうぞご覧くださいとの置き方。

カメラマンには有り難いような配慮でっかな。

(民家の前にも 小ぶりなお雛さまが)


(ズームイン したら)


(寺内町の ふれあいセンター)


(板塀の犬走りにも お雛さま飾り)


(格子戸の内側に お雛さま飾り)


(格子戸から カメラを覗かせて撮影)


(民家の玄関にも お雛さま飾り)


(ズームインしたら)






(宮殿造り 立派な七段飾りの お雛さま)


(ズームインしたら)






(奥谷家 本家の母屋)


(奥谷家の玄関 立派な暖簾)






(ちゃっかり 商売をしている店も)




お土産に買って帰る観光客もちらほらと居ましたで。





博多人形じゃないよね、鉄ちゃん爺やには知識もなし。

デジカメでなんとなく、写すだけにしましたけど。





(東高野街道の 道標)


(江戸時代の 道標の説明書き)


京都から生駒山の山麓を通り東高野街道がここで
富田林・寺内町を通過してましたんや。

終着点は高野山で真言宗の総本山ですな。

宝暦元年(1751年)の年号が読み取れまぁ。

火の用心なんどの注意書きが記されているんだって。

(富田林駅前 大楠公の石柱とお雛さま飾り)


それじゃ、今回はこれでお仕舞にしまっさ。

次回は予告してました天神橋商店街を紹介しまひょ。

ほんなら~ これでさいなら~🎵








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天満の天神さん デジカメ散歩

2017-03-04 14:50:12 | 大阪
先週の日曜日に天満の天神さんへ行ってきましたで。

梅が見頃かなと思いましたんやけど、期待外れ!

(大阪地下鉄 堺筋線 66系電車)(阪急電鉄乗り入れ用)


大阪市営地下鉄の堺筋線で南森町駅を下車したらすぐ。

堺筋線は阪急電鉄と相互乗り入れをしてますんで
大阪地下鉄と阪急電鉄の両方の電車が走ってまっせ。

(大阪天満宮 参詣道の提灯)


(大阪天満宮 南門)


(大阪天満宮 南門の干支図)


大阪天満宮は何度も火災にあって、現在の本殿は江戸時代後期
大塩平八郎の乱で焼失したのを1843年(天保14年)に
再建されたものと記されてますんや。

(大阪天満宮 本殿)


(大阪天満宮 権現造りの屋根)




(大阪天満宮を背景に 自分撮り)


1945年(昭和20年)大阪大空襲に際してのお話。

我が家が焼けてるのにも関わらず、天神さんを守ろうと
多くの人々が境内で消火に務め本殿を守り通したんだって。

焼夷弾の直撃も無かったのが幸いしたんでしょうかな。

「天満の天神さん」への篤い信仰を語る美談として
今日まで、大阪人が誇りにしてきたお話だそうですわ。

(大阪天満宮 ご朱印)


(大阪天満宮の 梅の花)










梅の名所なんだけど、大阪城公園に比べると見劣りますな。

鉄ちゃん爺やの隣町にある道明寺天満宮の方が立派ですわ。

梅の木が全般的に若くて、古木が無い感じがしまんな。

(黄色のは セキセイインコかしら?)




デジカメで梅の木を写してたら、鳥が飛んできましたんや。

鉄ちゃん爺やと同じ歳ぐらいの、老人の帽子から梅の木へ
行くよ! と声が掛ったら老人の帽子へ飛び移りましたで。

姿から見て、セキセイインコかもしれないと、思ったけど。

でも~ セキセイインコが、こんな芸などするのかしら?

小鳥などの知識に疎いので分かりまへんけど。

(大阪天満宮 今年の絵馬)


(大阪天満宮の 渡り廊下)


大阪天満宮は毎年7月24日~7月25日の「天神祭り」

日本三大祭りであると共に、大阪三大祭りの一つでっせ。

愛染祭りに始まり、天神祭りときて、住吉さんで終わる。

(大阪天満宮 南門から南側を望む)


「天神祭り」では船渡御の神輿などがこの道を進みます。

突き当りが堂島川でそこから船渡御が始まりますんや。

一昨年の「天神祭り」をテレビの画像から紹介しまひょ。

(2015年の 天神祭り)(テレビ画像より)










境内に人の輪が出来てるので覗いてみましたんや。

猿回しの芸が参拝客に披露されているようですわ。

(大阪天満宮境内で 猿回しの芸)








(大阪天満宮 登龍門)


(登龍門の 説明書き)


本殿の東側と西側に在る唐門で、難関を突破して
立身出世するとの諺から、登龍門と呼ばれますんや。

本来は中国の古い諺でっけど、日本でも同じように
平安時代ぐらいから使われるようになったとか。

初天神(1月25日)の日だけは扉が開かれて一般の
参拝者でも東門から西門へ通り抜けができまんねんで。

大学受験を目指す人などで大いに賑わうんだそうですわ。

さすがは学問の神様で、天神さんも商売がお上手でんな。

(大阪天満宮 奉集殿)


(大阪天満宮 北門)


北門から出た処に、新しく話題になっている小屋がおます。

大阪では唯一の落語を専門に見れる寄席になってますんや。

(天満 繁昌亭)






落語の寄席は東京だったら、珍しくもおまへんけど
大阪は漫才が主でっから、上方落語は従になりまぁ。

それを挽回しようと出来たのが、天満の繁昌亭でっせ。

若手の落語家が芸の腕を磨く、これも登龍門でっかな。

本日はこれにて終了とさせてもらいまぁ。

次回は日本一長い「天神橋筋 商店街」を紹介しまっさ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵




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鉄ちゃん爺や 大阪をデジカメ散歩

2017-02-19 17:06:02 | デジカメ散歩
先週の17日(金)は生憎の雨でしたんや。

やっぱり雨でしたかと、言われそうでっけど。

鉄ちゃん爺やが呑み会に出かけると不思議に
雨が多いんですわ、雨男かも知れまへんな。

そんな訳で屋内や地下街の画像でやりまひょ。

(大阪市営・地下鉄 梅田駅名標)


JR大阪駅と阪神百貨店を挟んで地下通路に
各県の名産品を売る店舗がおましたんや。

地元では「アリバイ横丁」とか呼んでましたな。

浮気旅行を隠すために、出張してましたでと
この「アリバイ横丁」でお土産を買って帰る。

逆に土産を買い忘れた時に、ここでという
便利な使い方もおましたんや。

今は宅配便の時代なんで必要がおまへんけど。

一昨年からその地下通路が改修されてますんや。

地下街のルーツとして戦前にできたとの噂。

でも現在の地下街のイメージとは違ってまっけど。

(懐かしい! 立ち飲み「松葉」さん)(平成26年撮影)


この串カツと居酒屋で有名だった「松葉」さんは
鉄ちゃん爺やが高校生の頃には、ここにおました。

「アリバイ横丁」が全て撤去された後も最後まで
頑張っていた当時の懐かしい写真でおます。

この「松葉」さんの先の階段を登って行くと
JR大阪駅の東口やバスターミナルに出ますんや。

大阪に住む飲んべ~さんなら一度は訪れたかも?

(JR大阪駅 駅名パネル)




(JR大阪駅 時空の広場 金の時計)


JR大阪駅が新しく改装された際に橋上駅の連絡通路に
「時空の広場=ときのひろば」と名付けて北側に
「金の時計」を南側に「銀の時計」を設置して
待ち合わせや、大阪駅のシンボルゾーンにしたんですわ。

オープンカフェもあって人通りも多くJR大阪駅の
新しい名所として、常に賑わってまんねんで。

(JR大阪駅 ノースゲートビル)


(JR大阪駅 サウスゲートビル)


北側のノースゲートビルと南側のサウスゲートビルを
ビルの5階に相当する連絡通路で結んでますんや。

天井は大きなドーム式で駅全体を囲っている感じでんな。

(JR大阪駅 時空の広場 銀の時計)


「銀の時計」は雨が降る夕方なので写りが悪いでっけど。

この広場からは大阪駅を発着する電車が見えますんや。

電車好きの子供さんやマニアには格好の広場でっしゃろな。

(黄昏のJR大阪駅を 時空の広場から撮影)


左側のオレンジ色の電車はJR大阪環状線の外回りで
201系のこれらの車両は2年後にはすべて引退予定。

昨年末から323系の新しい通勤型電車が走り始め
2019年度末までに全てが切り替わるそうですわ。

JR大阪駅で国鉄時代の電車が見られるのも後少し。

103系や201系の引退に、そろそろ鉄道マニアが
想い出の写真を撮ろうと押し掛けるかもしれまへんで。

(同じく 黄昏のJR大阪駅のホーム)


右の気動車は特急「スーパーはくと」で京都駅から
鳥取県の倉吉駅までを最短で結ぶ列車でっせ。

この時期は「松葉かに」を求めて関西から鳥取県へ
「かに喰いツアー」なんてのが人気なんですわ。

(JR大阪駅北側 梅田貨物駅の懐かしい風景)


鉄ちゃん爺やが社会に出た頃はまだトラック輸送が
発達してなくて、国鉄の貨車が物流の中心でしたんや。

この画像は廃止が決まり最後の頃を迎えた際に撮影。

平成24年頃に大阪駅の5階から写した物だったかな?

(グランフロント大阪 JR大阪駅方向から撮影)


(元梅田貨物駅跡 懐かしい画像)


こちらはグランフロント大阪が完成して廃止となった
梅田貨物駅のドーム式のホームを撮影したものです。

おそらく平成27年頃の撮影だったと記憶してまぁ。

現在はドーム式の貨物ホームも取り壊されてしまい
JR大阪北駅地下ホームを造る工事が始まってますんや。

完成は平成30年頃とか言われてまして、この広場は
大阪市内に残る最後の一等地なんだそうですわ。

(元大阪中央郵便局 懐かしい画像)


これもJR大阪駅西口の先におましたけど、数年前に
取り壊されて、新しく高層ビルを建てるとの噂でんな。

それでは大阪駅の地下街へ入って行きまひょ。

(梅田の 地下街)




大阪の地下街は「大阪地下街(株)」という大阪市が株式の
約54%を保有する関連会社が経営してまんねんで。

名古屋や東京は民間企業が共同して経営体を作っているとか。

毎年約6億円ぐらいの利益を出しているのはご立派。

(大阪市 本庁舎)


大阪には別に「クリスタ長堀」と称する単体の面積では
日本一の地下街がおますんやけど、これも大阪市が99%
株式を保有する関連団体だそうですわ。

「クリスタ長堀」は一度経営危機に見舞われたけど
最近は立ち直って毎年の利益を計上するようになったとか。

(クリスタ長堀の 地上は心斎橋筋)


ここは昔の長堀川を埋め立てた後に、B2~B4の部分に
約1030台を収容できる長堀駐車場とB1の部分に
「クリスタ長堀」という地下街になってますんや。

駐車場が半分を占めているので地下街としての面積は
店舗だけなら全国で12番目に当たるそうでっけど。

大阪で一番古い地下街を紹介しまひょかな。

(NAMBAなんなんタウン)




鉄ちゃん爺やがまだ高校生だった1957年(昭和32年)
大阪で一番古い地下街としてスタートしましたんや。

先程紹介した「大阪地下街(株)」が手掛けた最初の物で
その後、ウメダ地下街・アベノ地下街・ミナミ地下街など
現在では6つの地下街を経営する企業に成ってまっせ。

(元の新歌舞伎座 & なんばマルイ)


右側が現在の「なんばマルイ」ですが鉄ちゃん爺やが若い頃
この敷地には当時の大阪で一番大きな「南街劇場」という
映画館がおましたんや、確か座席が1488席だったはず。

(南海ビル & 難波高島屋)




(登録文化財の銘板)


この大阪で一番古い地下街は南海電鉄の終点である
南海ビルと高島屋や地下鉄の御堂筋線の難波駅と
大阪一の映画館だつた南街会館を結んだ物で
完成した当時は珍しさもあって大いに賑わいました。

地下道の暗いイメージを一新して、華やかな店舗と
流行の先端を行く地下街のスタートでしたかな。

地下街の大きさは延べ面積で比較する場合と、店舗の
数と面積で比較することがおますんや。

店舗の面積で比較すると首位は東京の八重洲地下街
第二位がNAMBAなんなんタウンを含めての
なんばウオークがほぼ同じ面積になるんだとか。

名古屋駅地下や栄駅地下は通路が広いので延べ面積では
八重洲地下街や大阪のなんばウオークを上回るそうで
どこが日本一だとか、ネットでは賑わってまっけど。

延べ面積では大阪の「クリスタ長堀」が一番なんでっせ。

それでは、本日はこれにて終了としまっさ。

ほな~ さいなら~🎵





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奈良公園を デジカメ散歩

2017-02-11 19:38:28 | 京都・奈良
春日大社は有名なんで皆さんも訪れたことが~

有名な和歌の碑をみながら春日大社を後にしまひょ。

(安倍仲麻呂の 有名な和歌)




今回はあまり知られてない奈良公園の名所を
三つばかり選んで紹介してみまひょ。

(春日大社の神苑 万葉植物園)


ここは藤の花が咲く頃が見事でっけど今の時期は
冬枯れの万葉植物だけなんでパスしまっせ。

春日大社の「神紋」は藤の花なんですけどね。

まずは春日大社の境内を南の方へ外れまひょ。

樹木が途切れて「飛火野=とびひの」と呼ばれる
見通しのいい場所に出てきましたで。

(飛火野=とびひの & 御蓋山=みかさやま)




元々は御蓋山(みかさやま)を仰ぐ古代祭祀の地で
「春日野=かすがの」と呼ばれてたそうですわ。

奈良時代の貴族が蹴鞠(けまり)や花摘みなどで
楽しんだ場所だとも記されてますかな。

現在は芝が植えられて大きな広場になってますわ。

(飛火野=とびひの & 高円山=たかまどやま)




(鹿寄せの 看板)


冬の大和路の風物詩なんですよ、朝の10時ごろに
ホルンで「田園」の曲を奏でたら約100頭もの
鹿が林から飛び出して、ここに集まってくるんだって。

観光客に人気の写真スポットとして話題になってまぁ。

2月9日 ~ 3月12日 期間限定の催し!

(奈良公園の 案内標識)


(奈良公園 鷺池 & 浮見堂)




水面に写った六角形の東屋、ここも写真スポットでっせ。

建物の内部は休憩所になってますんや。

(浮見堂への 渡り橋)


(浮見堂の 内部)




カルガモかな? 見事な編隊で泳いでましたで。

この鷺池は春日山から湧き出た水が溜まったようで
周りには川らしきものが見当たりまへんな。

(カルガモ 編隊での遊泳)


(浮見堂を背景に 自撮り)


それでは再び春日大社の境内へ戻りまひょ。

途中でこんな土塀の遺跡を見つけましたで。

(奈良公園内の 古い土塀の跡)


やはり奈良には古い歴史を醸し出す雰囲気がおますな。

奈良公園ではあちこちで鹿に出会いますんや。

(奈良公園の鹿)


(生まれて間もない 小鹿が母鹿と散歩)


(奈良公園にて 東大寺の甍を眺める)


今回は奈良の大仏さま申し訳ないが他へ回りまっせ。

奈良市と言えば一番が東大寺の大仏さまだそうで
二番目は奈良公園の鹿と春日大社なんだって。

次は何十回も奈良市内を訪れたことが有るのに
鉄ちゃん爺やが初めて知った旧跡の地を紹介しまひょ。

(菩提院大御堂前の 説明板)


(伝説 三作石子詰之旧跡)


恥ずかしながら鉄ちゃん爺やの知らない伝説なので
戻ってからネットで色々と調べてみましたんや。

時は江戸時代のお話? ここ菩提院大御堂で興福寺の
子供僧侶が習字を習っていたそうですわ。

三作(みのさく)という子供僧侶が席を外した際に
鹿がやってきて習字の紙を食べてしまったんだって。

怒った三作(みのさく)が文鎮を鹿に投げつけた処
急所に当たって鹿が倒死してしまったんだとか。

当時は春日大社の鹿は神様の使いで殺傷したならば
石子詰めの刑で、死刑になるのが決まりだったそうな。

実際の記録では寛永5年(1628年)に春日社の
狛犬を盗んだ山伏が石子詰めの刑に処されたの記録。

(菩提院大御堂 外側から撮影)


まだ13歳の子供であっても法の裁きは死刑だとのこと。

ここ菩提院大御堂の境内で穴を掘って三作(みのさく)を
埋めてその上から、小石を詰めて死刑にしたんだって。

このお寺では明け七つと暮れ六つに「十三の鐘」を突き
市民に時を告げていたようですわ。

この鐘を撞く時刻に死刑が執行されたそうで、母親は
嘆き悲しんだとのことで、この伝説を浄瑠璃にして
近松門左衛門が「十三鐘」というのを創作したんだって。

画像の奥に見えるのが鐘楼で「十三鐘」が見えるとか
現在は興福寺管長の自宅だとのことで非公開なんだって。

伝説との話もありますが、奈良市内では江戸時代まで
鹿が自宅の前で死んだ時は死刑になることもあったとか。

此処を少しだけ下ると有名な「猿沢の池」に出ますんや。

(猿沢の池と 興福寺の五重塔)


この風景は奈良市を訪れた方なら、一度は見覚えがある
絵葉書にも登場する有名な観光スポットですかな。

でも池の南側にある率川(いさがわ)にある地蔵尊は
鉄ちゃん爺やも初めて気が付いた珍しいものですわ。

(率川=いさがわ地蔵尊)




川の中州を舟形に囲い約40体の地蔵さんが安置!
しかもすべての地蔵尊の、首がおまへんがな。

明治初めの廃仏毀釈に際して壊された地蔵尊だとか。

幕末に川を改修した際に出土した地蔵尊だとの説も。

現在は奈良町の皆さんが大事に保存維持しているそうで
夏の盂蘭盆には精霊流しの真似事もやるそうですわ。

(奈良町の 古い民家)








それでは、夕方も近づきましたんで帰ることにしまひょ。

大通りへ出た処で、こんな看板を発見しましたで。

(興福寺 中金堂再建完成図)


一昨年から工事が続けられてますけど完成は
平成30年(2018年)までかかるんでんな。

来年なら鉄ちゃん爺やもなんとか生きていて
完成した中金堂を拝観させてもらえるかも。

(奈良県庁前を 通過)


(近鉄奈良駅方向を撮影)


それでは甘党の内の奥さんに奈良の和菓子を
買って帰ることにしまひょかな。

(和菓子 萬勝堂)






関西では「三笠饅頭」と言いますんや、関東だったら
「ドラ焼き」とでもいうんでしたかしら?

(奈良市 マンホールの蓋)


(近鉄電車 通勤電車の塗装)


近鉄奈良駅からは2回乗り換えで自宅まで約1時間。

電車賃は片道で750円、近鉄は距離の割に高いでんな。

競争相手がJRだけなんで、相手にならないようですわ。

奈良県は近鉄電車の王国で鼻息が荒いんでっせ。

それじゃ、今日はこれでお仕舞い、さいなら~🎵
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春日大社を デジカメ散歩

2017-02-05 17:03:41 | 京都・奈良
(近鉄電車 & 阪神電車の並列)(近鉄奈良線・西大寺駅にて)


(近鉄・奈良線 西大寺駅名標)


この日は近鉄電車で奈良の春日大社へデジカメ散歩でおます。

西大寺駅は近鉄電車が奈良線と京都線がクロスする駅で
阪神電車も神戸の三ノ宮から相互乗り入れしてますんや。

(関西で 大評判・駅のベンチ)


線路とベンチを90度向きを変えたら転落事故が減少!

この向きを変えたベンチでの転落事故は聞いてまへんで!

酔っぱらい客の多い駅から優先してるんだって!

そんな訳で関西ではJRも近鉄さんも急ピッチで改良中!

(近鉄 奈良駅前)




(行基菩薩像) (近鉄奈良駅前)


(春日大社 祝・正遷宮の提灯)


伊勢神宮では式年遷宮(せんぐう)と言いまっけど
春日大社では式年造替(ぞうたい)と呼びますんや。

でも~ 横幕には祝・正遷宮と書かれてまんな?

細かいことなど、どっちでもよろしおますけど。

2015年~2016年秋に完了したそうですわ。

前回に訪れた際には工事中でしたので、今回は
本殿まで入場して、デジカメ散歩をと考えましたんや。

(春日大社 一の鳥居)






(国道169号線 道路標識)


一の鳥居の前は国道169号線で左手の県庁前から
吉野・熊野を経由し和歌山県新宮市まで続いてまぁ。

一の鳥居を潜ると春日大社の参道が約1.5kmぐらい
両側の広大な森は全て春日大社の敷地なんだって。

奥の方では春日山原始林となる貴重な森になってまぁ。

(節分の万燈籠 が残ってまぁ)






(節分 万燈籠の 飾り門)




奥へ歩くうちに、やっぱり観光客が増えてきましたで。

中国語や英語が飛び交って外人さんが多いようでっせ。

関西は2016年だけで観光客が1000万人を超えて
今年も大阪・京都・奈良では減る気配もないそうですわ。

(春日大社 参道の灯篭)


(春日大社 神鹿の群れ)




奈良市では「鹿」は昔から春日大社の「神鹿」と呼ばれ
国の天然記念物になっているんだって。

奈良公園や東大寺や春日大社の境内では「鹿」が優先で
車は青信号でも停車しないといけませんのや。

のんびりと道路を横切る姿を見てると微笑ましいでっせ。

総数で「鹿」が何頭いるのか詳しいことは不明かも?

(春日大社 二の鳥居)


(奉納された 日本酒のこもかぶり)


(春日大社 伏鹿の手水場)


手水場も春日大社では「鹿」さんがお迎えでっせ。

二の鳥居から奥が正式には表参道と呼ぶそうですわ。

(春日大社 南門)


この南門を潜ると参拝所が目の前に現れますんや。

本殿には四神がお祀りされているそうですわ。

(春日大社の 四神の説明書き)


12月に大阪の枚岡神社で紹介しましたが鹿島の神
香取の神に、枚岡神社から天児子屋根の命(男神)と
そのお后である比売神(ひめがみ)を合わせて
「春日四所明神」として四神さまが祀られてますんや。

元々は平城京を鎮護する「藤原氏」の氏神様だったのが
国家や国民を守る平和の神さまになられたようでんな。

(春日大社の 参拝所)




普段はここで参拝して引き返すんでっけど、久しぶりに
新しい丹塗も鮮やかな本殿へお詣りすることにしまひょ。

(本殿 特別参拝 入口)




ここで500円を支払って入場しないと、春日大社の
本殿が正面から写せない構造になってますんや。

参拝所からでは少しだけ本殿が覗いているだけですわ。

春日大社さん良いアイデアを考え出したもんでんな。

(参拝記念の栞)


20年に一度の式年造替(しきねんぞうたい)に際して
舞われる舞楽で「太平楽」と呼ばれるんだって。

昨年が平安時代から続く第60次・式年造替だったとか。

本殿は国宝に指定されている貴重な建物でっせ。

各地に見られますが「春日造り」と呼ばれるんだって。

(春日大社 本殿を正面から撮影)


(春日大社 本殿前で撮影)


遠方から来られた同じぐらいの年齢の老夫婦さんと交代で
交互にデジカメ撮影をお願いしたのがこの画像でおます。

それでは本殿の各所をデジカメで写すことにしまひょ。

(本殿の説明書き)


(春日大社 本殿で結婚式のお二人)


本殿内部は写真撮影が禁止と大きな文字で書いてまっけど
中国人のようなふりして、失礼をばさせて頂きました。

観光中の中国人がデジカメを盛んに写してましたんや。

普通なら遠慮するところですが、ご免なさいね~

(本殿に奉納された 燈籠)




鉄ちゃん爺やが本殿にお詣りしたのは40年ぶりかも。

昨年の式年造替(しきねんぞうたい)で丹塗りが鮮やかで
国宝なのに新しい建物と間違えそうなイメージ。


(本殿 裏側から撮影)


四つの本殿が一列に並んでいるんでっけど、三つしか
鉄ちゃん爺やのデジカメでは写せまへんでしたわ。

(第5代将軍 徳川綱吉公 奉納の燈籠)


春日大社に約2000基の石灯籠や鐘燈籠がおます。

2月3日の節分と8月14~15日のお盆には
全ての燈籠に浄火を献じて、諸願成就や祖先の冥福など
「万燈籠」の行事が毎年続けられているそうです。

関西では有名な春日大社の神事なんですよ。

(直江兼続 奉納の燈籠)


慶長五年と銘が刻まれてますので西暦1600年でんな。

関ヶ原の戦いの後に、上杉家の安寧を祈願して直江兼続と
記載せずに、単に山城守とのみ書かれいるそうですが
春日大社の奉納記録には直江兼続と記されているとのこと。

(宇喜多秀家公 奉納の燈籠)


鉄ちゃん爺やの実家のご先祖に当たる方との伝説がおます。

半分は作り話だと考えてますが、江戸時代には徳川幕府を
憚って「浮田」と苗字を変更していたと言われてますんや。

幕末に菩提寺が水害で流失してますんで証拠は不明ですけど。

宇喜多秀家の叔父に当たる方が直系のご先祖だったとか?

(桂昌院 奉納の燈籠)




徳川綱吉公のご生母で京都や奈良の寺社に造詣が深く
この燈籠にも、葵の紋と本庄家の丸九ケ紋が燈籠の
頭の部分に描かれているのが写ってまつしゃろ。

(御蓋山 遥拝所)




現在は「三笠山と呼ぶことが多いようですが正式には
御蓋山(みかさやま)と書くのが正しいんだって。

ここから山上にある本宮を遥拝するそうですが、現在も
ここから先は立ち入りが禁止されているそうですわ。

伝説で鹿島の神様が白い鹿に乗ってこの山に下りられた
それが春日大社のルーツとされているようでんな。

(春日の大杉 樹齢約1000年) (高さ約23m)




(春日大社の 巫女さん)


頭の上に「藤の花」の飾りを付けておられるようでっせ。

確かに春には見事な「藤の花」が観られますけどね。

藤原氏の「藤」と兼ね合わせているんでしょうな。

(春日大社の ご朱印)


(春日大社の回廊にて 自分撮り)




(竈殿=へついどの) (国の重要文化財)




(酒殿=さかどの) (国の重要文化財)




この二つは式年造替(ぞうたい)に際しても建て替えは
されなかったので古風な感じが良く出ていますかな。

鉄ちゃん爺やとしては歴史の古い建物はこんな感じで
素朴な感じを残して欲しい気もしますんやけど。

酒殿(さかどの)では現在も春日の四神に捧げる為の
「濁り酒」がここで醸造されているようだっせ。



長くなりますので今日はこれでお仕舞にしまっさ。

次回は奈良公園の「浮見堂」や「飛火野」を紹介しまひょ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵

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江戸時代にも 皇室の危機がおました

2017-01-29 16:25:54 | 京都・奈良
今上陛下の生前退位とやらの報道から
世の中は議論が騒がしいようでんな。

鉄ちゃん爺やごときが、どうのこうのと
書き込むなど、恐れ多いんでっけど。

238年前に起こった話を紹介しまひょ。

それでは~ 京都御苑の方へ向かいまっせ。

(旧3000系 京阪特急 テレビカー)




5年前に引退するとの報道でデジカメ撮影をした
今では見れない、懐かしい特急電車でおます。

2013年に引退し富山地方鉄道と大井川鐡道に
譲渡されて、現在も運行がされているとの話も。

以下の画像は全て2012年7月のものなので
古いですがご容赦のほど、お願いしますね。

(旧 閑院宮邸の正門)




時は江戸時代で10代将軍・徳川家治公の晩年で
田沼意次さんが権力を握っていた頃のお話。

第118代・後桃園天皇が生まれたばかりの皇女
欣子(よしこ)内親王を残しただけで崩御されます。

男系の皇族が一人も存在しなくなったんでっせ。

(旧 閑院宮邸の 車寄せ)




伏見宮家や桂宮家に有栖川宮家など室町時代から
江戸時代初期に、天皇の皇子から成立した三つの
世襲親王家は、やはり血統が遠かったようですわ。

新井白石の建白で東山天皇の第2皇子である
直仁(なおひと)親王を新しい世襲親王家として
閑院宮家(かんいんのみやけ)を創設したとか。

この時代には東山天皇の皇子から閑院宮家が生まれて
第2代閑院宮典仁(すけひと)親王が当主でおます。

長男の美仁(はるひと)親王は21歳の成人ながら
先帝の忘れ形見である、欣子(よしこ)内親王が
1歳になるかならぬかでは釣り合いがとれまへん。

変わって第6皇子の師仁(もろひと)親王は8歳
欣子(よしこ)内親王を中宮(皇后)に迎えて
第119代天皇に推挙するのが最適と考えました。

先帝の内親王に合わせて新しい天皇を選ぶとは
江戸幕府も朝廷も苦渋の判断をした訳ですわな。

(旧 閑院宮邸の内部)








現在の閑院宮邸は明治初期に新築された建物だとの話。

旧閑院宮邸は現在も無料で一般公開がされてまっせ。

1779年(安永8年)旧暦11月15日ご即位。

光格天皇(こうかくてんのう)と称されますよ。

(第119代 光格天皇)


この方のご生母は「大江磐代=おおえのいわしろ」で
父親は浪人で町医者である岩城宗賢の娘だったとか。

閑院宮典仁親王の正妻として中御門天皇の第5皇女である
成子(ふさこ)内親王が、お輿入れの際に入内したとの説。

成子(ふさこ)内親王の侍女だったようですね。

だから民間人で、お目見えすらできない女性なんですわ。

でも男子が誕生すれば、立派な親王さまなんですから。

ご本人も聖護院のお寺に門跡として入られる予定が
天皇陛下に祭り上げられるとは、驚きだったでしょうな。

師仁は(しにん)と読めるとかで縁起が悪いとのことで
兼仁(ともひと)親王と新しく改名までされたんだとか。

時代のいたずらで、わずか8歳の師仁親王が新天皇になり
宮中へ入られることになったんでんな。

第125代・光格天皇とお呼びするお方です
今上陛下には直系のご先祖様になりまぁ。

「光格天皇」は明治天皇の曽祖父になるお方ですよ。

(京都御所 土塀)




即位の当時は幼帝だったので後桜町上皇などの庇護を得て
時代は、松平定信「寛政の改革」の頃を迎えますんや。

光格天皇は父親である閑院宮典仁親王が関白や大臣よりも
位が低いのはおかしい「太上天皇=だじょうてんのう」の
尊号を与えたいと幕府に要望するも、二度拒絶だったとか。

11代将軍・徳川家斉の父親である一橋治斉にも同じように
「大御所」の尊号を送ることに成るのを嫌ったとの説も。

当時の徳川幕府には天皇陛下の願いも拒絶できましたんや。

(京都御所 建礼門)


後桜町上皇や光格天皇の叔父などが幕府との和解に務め
光格天皇は先例があるにも関わらず断念されたとの話。

これを「尊号一件」とか「尊号事件」と呼びますんや。

時は流れて明治維新を迎えてからの話になりまっけど。

明治天皇は閑院宮典仁親王が高祖父に当たるお方だとして
「慶光天皇=きょうこうてんのう」の尊号を授与されます。

「太上天皇」としての尊号で歴代の天皇には入りませんよ。

(蘆山寺=ろさんじ  慶光天皇蘆山寺陵)


(慶光天皇 お墓)








光格天皇の皇女や関連する皇族方が多くお祀りされてまぁ。

でも~ 光格天皇のご生母さまは離れた別の共同墓地に
お祀りされているとは、厳しい身分制度の時代ですかな。

鉄ちゃん爺やが共同墓地を探しましたが不明でしたわ。

HPでは蘆山寺に葬られているのは確かのようですけど。

(蘆山寺 山門)


(蘆山寺 本堂)


(蘆山寺 仏殿内部)




現在の皇室は神道でお祀りされてますので、江戸時代の
天皇や皇族方の位牌はここ蘆山寺や泉涌寺などに置かれ
現在も「御寺=みでら」の格式が伝わってますかな。

光格天皇は1817年(文化14年)旧暦3月22日に
仁孝天皇(にんこうてんのう)に譲位をされますんや。

1840年(天保11年)旧暦11月18日に崩御まで
日本歴史上では最後の上皇さまであり太上天皇でおます。

(蘆山寺 紫式部の庭)






(蘆山寺の 由来書き)


現在の蘆山寺は豊臣秀吉により船岡山付近からこの地に
移転を命じられたそうで、平安時代には源氏物語で有名な
紫式部が育った邸宅が在ったとの説が有力でおます。

そんな訳で7月中旬から9月頃まで桔梗の花を咲かせて
観光客を迎え入れているようですわ。

(京都御苑 清和門)


光格天皇が崩御された後は中宮(皇后)であった
欣子(よしこ)内親王さまは剃髪して新清和門院の称号を
得られましたが、この清和門は京都御所から東へ下り
寺町通りの蘆山寺の近くに位置してますんや。

残念ながら欣子内親王は二人の皇子さまを、お産みに
なりましたが夭折されて、血統は絶えておられますね。

(京都御所 建春門)


処で、日本歴史で天皇陛下の名前を調べましたら不思議な
ことに気が付きましたんや、「光」の名前が送られた天皇。

光仁天皇  天武天皇系から 天智天皇系への復活

光孝天皇  陽成天皇を廃し 新しい天皇を即位へ

光明天皇  南朝に変わり  足利尊氏が北朝を成立

後光明天皇 徳川系の明正天皇が 弟皇子へ譲位

光格天皇  現在の今上陛下の  直系のご先祖様


偶然なのかも知れませんが、新しい時代を意味する
そんな意味から、「光」を贈位したのかもしれませんね。

それでは、今日はこれでお仕舞い、さいなら~🎵














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錦織神社をデジカメ散歩

2017-01-21 18:49:06 | 神社
南河内の山々から水を合わせ大きな川となる。

大和川水系の一番大きな支流を「石川」と
呼びますんや、我が町の東側を流れてお隣の
藤井寺市と柏原市で大和川に合流しますんや。

(羽曳野大橋から 石川の上流を撮影)


遠くに見える山並みは向かって右側が「金剛山」
左側が「葛城山」山の向こうは奈良県になりまぁ。

手前に見える丘陵が「源頼朝」のご先祖になる
「河内源氏」発祥の地で、当時は石川郡壷井郷。

現在も「河内源氏三代」の墓が残されてまっせ。

反対の下流側を撮影したらこんな感じですわ。

(羽曳野大橋から 石川の下流を撮影)


ここから約3kmぐらいで大和川に合流しますんや。

現在の大和川は西へ流れて大阪湾へ注いでまっけど
江戸時代の元禄時代までは、北西に流れ下り三つに
別れて大きな湿地帯と沼か池を造っていたそうですわ。

最後は淀川と合流しながら大坂城を巻くようにして
中之島から大阪湾へと流れてたそうですわ。

(石川を背景にして 自分撮り)


中世には「石川」も水量が豊富だったので当時は
京都から船で淀川と大和川を遡り1~2日ぐらいで
ここ、石川郡の壷井郷まで来れる感じになるんだとか。

騎馬で走れば一日で京都の地に辿りつくことも可能。

だから「河内源氏」の源頼義や源義家はこの地で
京都の情勢を把握できる、安全地帯でもあったとか。

それじゃ、ここから4kmほど石川を遡上しまひょ。

(南阪奈の 高速道路を通過)


ここを通過したら我が町から、次は富田林市でっせ。

この街も中世の末から栄えた寺内町が残ってますんや。

底の浅い船なら昔は富田林まで遡上できたとのこと。

(富田林市の マンホールの蓋)


最初の画像で紹介した金剛山と葛城山を背景にして
富田林の寺内町が描かれているようでんな。

ツツジが描かれているのは町の花を意味するのかな。

それでは「石川」を離れて「錦織神社」へ行きまひょ。

(郷社 錦織神社の石碑)


(錦織神社 石の鳥居)


毎年ながら2月に確定申告の為に、この前を通過して
近くに有るスバルホールの会場へ行くんですわ。

往復の電車賃が460円、昔は税務署だったから
自転車で行けたのに、ここまでは片道約6kmかな。

郷社と記されているから、村の鎮守さんかな?

たいした神社でもないだろうと、勝手な判断を。

そんな訳で拝殿まで行ったことが無かったんですわ。

(錦織神社の 由来書き)


テニスの錦織圭選手が有名になり、名前が同じ神社。

話の種になるかなと、初めて参詣することにしました。

錦織神社のHPでも錦織圭選手を応援してます~🎵

こんなのも最近でっけど、見つけましたんや。

(錦織神社の参道)


約150mぐらい続く立派な参道でっしゃろ。

処で「錦織神社」にフリガナを付けまへんでした。

実は「錦織」の読み方が4~5種類もおますんや。

富田林市の地名では「錦織=にしきおり」ですわ。

内の奥さんに聞けば昔から地元では「にしこおり」と
呼んででいたよと、話を聞いたこともある。

HPで調べたら「にしこり」「にしごり」とか
地元でも、呼び方がバラバラなのには驚き!

テニスの錦織圭(にしこりけい)さんだったよね。

オペラ歌手は錦織健(にしきおりけん)さんのはず。

(錦織神社の 境内図)




高級な綾織りや錦織りを得意とした「錦織氏」が
滋賀県と共にここ南河内にも住み着いたとの説。

「錦織氏」の氏神さんだったのかもしれまへんな。

我が町も「西文氏=かわちのふみし」が渡来して
文字を日本に伝えたとの説があるんでっせ。

西暦の5世紀~7世紀に掛けて朝鮮や中国から
多くの渡来人がここ南河内に移り住んだそうですわ。

(錦織神社の神門 & 狛犬)


Wikipediaでは「錦織神社=にしきおりじんじゃ」

大阪神社庁のHP「錦織神社=にしこおりじんじゃ」

文化庁のデーター「錦織神社=にしごおりじんじゃ」

富田林市のHPではご丁寧にもカナがふってまへんわ。

どれが本当なのか、誰も断定が出来ないという事か?

(国の重要文化財 表示板)


(錦織神社 本殿)




郷社の神社とは思えない、これは立派なお社でっせ。

再建が南北朝時代の西暦1363年(正平18年)
約650年も昔に造られた本殿だったとは驚き!

河内の国は南北朝から戦国時代まで戦乱に明け暮れ
南北朝時代の建物が残っていたとは半信半疑でした。

HPで確認しても、南北朝時代の建築でしたわ。

平安時代中期の瓦が出土もしているんだって。

正面から見たら唐破風(からはふう)の上に
三角形の千鳥破風(ちどりはふう)の屋根を
重ねた入母屋造り(いりもやつくり)の構造に
なっているのが分かりまっしゃろか。

江戸時代には良く見られるが南北朝時代には
珍しい「錦織造り」と呼ばれているんだって。

日光の東照宮に影響を与えたとの説がおます。

そんな立派な神社だったのかと反省した次第。

(参道に 天誅組河内勢 顕彰碑)


明治天皇の叔父に当たる中山忠光を盟主に仰ぎ。

明治維新の直前に決起したれども、紀州藩や
津藩との戦闘に敗れて悲運の死を遂げた60名。

河内勢で60名の名前が刻まれていますんや。

決起するのが数年早かったという結果でしたな。

戻ってからHPを見たら毎月の1日と15日に
拝殿の扉が開かれて、本殿の側まで入場できると。

次回は、見事な彫刻や朱塗りの本殿をデジカメで
撮影に来ようかなと考えたんですわ。

今回は垣根の外からの撮影でお仕舞でしたわ。

ちなみに関東では小田原市の錦織神社が、最近は
錦織圭選手を応援する神社として人気だとの話。

他には長野県の松本市や岡山県の久米郡などにも
同じ名前の「錦織神社」が存在するようでっせ。

でも、富田林市の「錦織神社」が全国では一番
立派な神社だと考えて良いんじゃないのかしら。

錦織圭選手がここを訪れたとは聞いてまへんけど。

ほんなら、今日はこれで、さいなら~🎵

































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天王寺七坂を デジカメ散歩 (後編)

2017-01-14 16:31:41 | デジカメ散歩
天王寺七坂の五つ目を「口縄坂=くちなわざか」と言いまぁ。

「口縄=くちなわ」とは蛇のことを言うんだそうですわ。

坂の下から眺めたら蛇のように、くねくね曲がっていた
だけど現在の「口縄坂=くちなわざか」はほぼ直線でっけど?

(口縄坂=くちなわざか 上町台地から見下ろす)


(坂の頂上にある 織田作之助の文学碑)


「口縄坂は寒々と木が枯れて 白い風が走っていた~」

昭和19年3月に「新潮」に発表された「木の都」の
最初の部分で、古き大阪のノスタルジーを感じさせる
大阪の庶民風景を描いた作家でしたかな。

関西では「夫婦善哉」などで有名でっけど、東京の
文壇からは批判されて、孤独な死を遂げた大阪の作家。

鉄ちゃん爺やが若い頃に一度だけ読んだこともあるが
「口縄坂」を訪れたのは今回が初めてですわ。

(口縄坂=くちなわざか 途中から見上げると)


(口縄坂=くちなわざか 中腹)


(大阪市天王寺区 地図)


天王寺七坂の辺りは大阪の「寺町」と言われてまぁ。

江戸時代初期に大阪城の南側を防御するために市内の
お寺をこの辺り一帯に集めたのが、現在もそのままに
天王寺区だけで約150ケ寺も残ってますんや。

大阪は八百八橋 京都は八百八寺とか言いまっしゃろ。

南北約1.5km 東西約800m ぐらいでっかな。

京都市内でもこんなにお寺が密集してる場所はおまへん。

(口縄坂の 坂下で自分撮り)


江戸幕府が決めた事なのか、「口縄坂」の高台には禅宗系
曹洞宗や臨済宗のお寺が約15ケ寺もかたまってますんや。

今度は「口縄坂」を下りて松屋町筋に出てくると浄土宗の
色んな宗派が約25ケ寺ほど南北に並んでますんや。

日蓮宗系はここから約1kmほど北東へ行った上町筋に
浄土宗系のお寺も並び、住み分けてかたまってますな。

真言宗系は生魂神社の北側に約10ケ寺が集められ
天台宗系は唯一1ケ寺だけが高台にぽっつりと。

(天王寺七坂 口縄坂=くちなわざか 説明板)


浄土真宗系のお寺は引っ越しを求められなかったそうで
この「寺町」には1軒もないことが分かりましたで。

これは当時は浄土真宗は「道場」と呼ばれお寺じゃなく
火葬などをやらないので元の場所に留め置かれたとか。

浄土真宗以外の宗旨は街中で「遺体」を火葬するので
上町台地の周辺に強制的に移転させられたそうですわ。

同時に当時の大坂市内の三郷と呼ばれる町人層は
浄土真宗が大半で、石山合戦のトラウマもあって
江戸幕府と雖も強制的な移転がさせられなかったとも。

(松屋町筋の 下寺町界隈)




上の画像では右手に下の画像では左手にお寺の土塀が
写ってまっしゃろ、こちらが上町台地を下ってきて
松屋町筋に面した、浄土宗関係のお寺になりまんねんで。

処で全国にお寺って何ケ寺ぐらいあるか調べました。

正確には判定できないものの、約7万7千ケ寺だとのこと。

全国では愛知県が一番多くて約4600ケ寺
二番目が大阪府で約3400ケ寺となるそうですわ。

京都府は五番目で約3000ケ寺だとは意外な結果でした。

(学園坂=がくえんざか)


(大阪・夕陽丘学園 校門の銘板)


天王寺七坂は車両が通行できまへん、昭和になってから
車が通れる道を新しく施設したのがこの「学園坂」で
坂の途中に夕陽丘学園が在るのでそこから付いたとか。

最近はこの「学園坂」を含めて天王寺八坂と呼ぶことも
あるそうですが、江戸時代からの天王寺七坂の方が
鉄ちゃん爺やには、昔の風情があってよろしおますけど。

(学園坂=がくえんざか)


天王寺七坂と学園坂を登ったり下ったりと良い運動でっせ。

再び松屋町筋に面したお寺で意外な石碑を発見しましたで。

(万福寺 山門前の石碑)


(浄土宗 万福寺の山門)


幕末に新選組が京都から大阪へ出張してきた際には
この「万福寺」が定宿として使われたようですわ。

多くの勤王志士が捕らわれて本堂の裏手に在った
獄舎で拷問を受けて、亡くなった方も居たとか。

大阪の大空襲で当時の建物は焼失したようでんな。

(万福寺の本堂)


暫く松屋町筋を北へ歩くと六つ目の天王寺七坂に出ました。

松屋町筋の角に源聖寺(げんしょうじ)というお寺がおます。

だからこの坂は「源聖寺坂=げんしょうじざか」という
名前が付けられてますんや。

(天王寺七坂 源聖寺坂=げんしようじざか)




(源聖寺坂の 説明板)


(浄土宗 源聖寺の山門)


再び歩き出しましたけど、この辺りで一番大きなお寺。

約800坪ぐらいあるとか聞きましたけど室町時代の
足利将軍家の大坂祈祷所だった「大蓮寺=だいれんじ」
山門が開かれてましたので境内へ失礼しまっせ。

天王寺七坂のお寺は、観光客に向けて山門を開放し
境内に入れるようにしているお寺が多いんですわ。

(浄土宗 大蓮寺=だいれんじ 境内)


天王寺高校は大阪でも北野高校と並んで最優秀高校で
鉄ちゃん爺やは校区が異なるので入学は出来まへんが
中学時代には憧れの公立高校でしたんや。

境内を歩いていたら珍しい供養塔を発見しましたで。

(吉本芸人の塚  大蓮寺境内)


帰ってからHPで調べたら、吉本興業の創業者の方が
芸人が卑下されて、供養の墓もないと嘆かれたそうな。

実の娘さんが1993年(平成5年)に供養塔を設置
名も知られずに亡くなった吉本芸人さんを弔ったとか。

中央のは高座の座布団をかたどっているようでんな。

(下寺町1丁目1番地 住居表示)


(生國魂神社=いくたまじんじゃの 鳥居)


大阪人は親しみを込め「いくたまさん」と呼びまんねん。

この参道が天王寺七坂の最後の坂と勘違いしてましたわ。

この坂道には名前は付けられてないような感じ。

それもそのはず江戸時代には存在しなかった参道だとか。

(生國魂神社 参道の坂)


(生玉町11番地 住居表示)


(天王寺七坂 真言坂=しんごんざか 説明板)


天王寺七坂の七つ目を無事に発見しましたで。

この坂だけは「生國魂神社」の北門から南北へ延びる
方向が他の六つと異なるようになってますんや。

江戸時代には神宮寺として「生國魂神社」の北側に
真言宗のお寺が10ケ寺あったので名付けられた
そのように説明板には記載されてまんな。

(現在の 真言坂=しんごんざか)


天王寺七坂はこれで完全踏破でっけど、やっぱり
ここまで来たら「生國魂神社」へお詣りして行きまひょ。

(官幣大社 生國魂神社)


生國魂神社=いくたまじんじゃ 戦後に官幣大社の
文字はセメントなどで塗リ潰した神社が多いんでっけど。

生國魂神社さんは堂々として戦前のままになってまっせ。

(生國魂神社 北の参道)


(生國魂神社 東側の正門 大鳥居)


(生國魂神社 拝殿)


何年ぶりかしら? 40年ぐらいは訪れてない記憶。

今日はご朱印を頂戴すろことにしまひょ。

(生國魂神社 ご朱印)


(生國魂神社 酉年の絵馬)


日本全国ではお寺と神社ではどちらの方が多いのか
インタネットで検索して見ましたんや。

どちらも正確には数えきれないそうですが答えは

神社が 約8万8千社  お寺が 約7万7千寺

神社の方が多いそうですが神職の居られる神社が
約2万社だそうで、村の鎮守さんなども総数に
入っているんでしような。

新潟県に約4700社で首位に、二番目が兵庫県
約3800社も在るそうで、三番目は福岡県の
約3400社となり、京都府はベスト5にも入らず。

お寺も神社も最下位の47位は沖縄県ですな。

やはり沖縄県は戦災で焼失してしまったのかも
それとも本土と違った宗教が存在するのかは不明。

本日はこれにてお仕舞にしまっさ。

ほんなら~ これでさいなら~🎵



 



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天王寺七坂を デジカメ散歩 (前編)

2017-01-07 19:42:20 | デジカメ散歩
大阪市の中央を南北に延びる丘がおますんや。

上町台地と呼び活断層で出来た崖が西側にあり
東側はほとんど段差を感じないような台地ですわ。

活断層と言っても約8000年ぐらい動いてなくて
もしも動いたら阪神淡路大震災級の地震になるとか。

この上町台地は大阪城付近が一番高くて天守閣付近で
標高が約38mぐらいと言われてますんや。

(大阪城 天守閣)




昨年の大河ドラマで有名になった真田丸付近を通り
茶臼山の古戦場の辺りまでが標高が約20m前後。

南へ延びる上町台地が攻防の戦場に成った訳でんな。

阿部野ハルカス付近を通過し路面電車の上町線と
並行しながら、住吉大社付近で標高約10mと下り
住吉区の清水丘辺りで一旦は消滅しますんや。

大和川を越えると再び浅香山台地となりまっけど
今回のお話とは関連がおまへんので省略しまひょ。

今回は、この上町台地の天王寺地区のお話でっせ。

「天王寺七坂」と呼ばれる七つの坂が在るんですわ。

それでは南の方から順に紹介して行きまひょ。

(四天王寺 石の鳥居)(重要文化財)


聖徳太子が造られた日本最古のお寺が四天王寺ですわ。

何度も火災や台風に遭い、現在の建物は昭和30年代で
歴史的な建物は殆ど残ってまへんけど。

お寺に鳥居とは似合わないと言われそうでっけど
中世の神仏習合時代の名残だと考えてくださいね。

この石の鳥居は鎌倉時代の永仁2年(1294年)に
朱塗りの鳥居から建て替えられたそうですわ。

扁額には嘉歴元年(1326年)の銘が刻まれ
この門から西側は極楽浄土だと書かれいるんだとか。

(大坂夏の陣 合戦絵図)


絵図の右側中央に鳥居が描かれてるのが四天王寺の鳥居で
その右側が真田幸村が徳川家康の本陣へ迫る姿ですかな。

(四天王寺 石の鳥居から 西側を望む)


中世には夕日が沈んでいく姿が良く見えたそうで
和歌や物語にもしばしば登場する名所だったんだとか。

現在も夕陽丘という地名や駅名が残ってまんねんで。

この鳥居の前から西側へ下っていく坂道が「逢坂」で
現在は国道25号線で大阪市から奈良への国道ですわ。

天王寺七坂の一番南になるんでっけど、現代的な国道で
これからお話する、天王寺七坂の情緒には欠けまっけど。

(逢坂の 坂道の途中に建つ 一心寺)


ブログで何度か紹介した「お骨仏」で有名なお寺でっせ。

後白河法皇がここで法然上人と夕日を眺めながら法話を
聞き、極楽往生を願ったとの逸話が残ってまっしゃろ。

大坂冬の陣では徳川家康の本陣として使われたそうで
この画像の左手を300mぐらい行くと茶臼山ですわ。

(大坂冬の陣の 絵地図)


絵地図の向かって左下に徳川家康の本陣が描かれてまっせ。

この位置が茶臼山と一心寺だとされてるようですわ。

大坂夏の陣では逆に大坂方の真田幸村がここに本陣を構え
現在の阿倍野方面に居る徳川家康の本陣に攻め込んだとか。

それでは「天王寺七坂」の話を続けることにしまひょ。

(天王寺七坂 逢坂の道標)


(天王寺七坂 逢坂の説明板)


(逢坂の坂下 明治30年の道標)


ここで逢坂を横断して少しだけ坂を登りまっせ。

一心寺の反対側には安居神社がおますんや。

(安居神社 門前)


元々は菅原道真公をお祀りする天満宮なんでっけど
真田幸村公が戦死した場所として有名になってまぁ。

(真田幸村公の 銅像)


(真田幸村公 陣没の説明板)


ここで私の首を討てと松平忠直の武将に命じて
いさぎよく戦死をしたと伝えられてますんや。

真田丸の人気でっしゃろな参拝客が5~6名。

一昨年までは訪れる人もない静かな神社でしたんや。

(安居神社の本殿)


「天王寺七坂」のお話がメインでっから境内を横切り
北側へ通り抜けさせてもらいまっせ。

(安居神社境内から 上町台地の崖を撮影)


上町台地の西側はこんな感じの崖になってますんや。

高低差は約10m~15mぐらいでっしゃろか。

安居神社の境内を北側へ抜けると「天王寺七坂」の
二つ目に当たる「天神坂」へ出てきましたで。

(天王寺七坂 天神坂の道標)


(天王寺七坂 天神坂の説明板)


説明するまでもなく安居神社へ通じる坂道ですわな。

「天王寺七坂」は最初の「逢坂」以外は車両通行止め。

石段や石畳で江戸時代からの風景を残す工夫がされてまぁ。

ここから再び「天神坂」を横切って北へ進みまっせ。

三つ目の「天王寺七坂」は「清水坂」と呼びまんねん。

(天王寺七坂 清水坂の道標)


(天王寺七坂 清水坂の説明板)


清水寺の北側を通る坂なので「清水坂」と呼びますんや。

京都の清水寺を模して造られたお寺なので地元では
「新清水さん」とか呼ぶことも有るそうですわ。

音羽の滝を模した「玉出の滝」が有り、清水寺の
舞台を小さくしたような舞台が高台の縁におまっせ。

山門の扉が閉まっているので写真は撮れまへんでした。

(清水寺の 側壁)


四つ目の坂道に向かって歩きまっさ。

次の「愛染坂」が一番有名かもしれまへんな。

「愛染坂」(あいぜんざか)と読みまんねんで。

(天王寺七坂 愛染坂の道標)


(天王寺七坂 愛染坂の説明板)


(愛染坂の 登り道)


(愛染坂の途中から 下りを撮影)


今度は「愛染坂」を登って上町台地の頂上へ行きまひょ。

この「愛染坂」の南側に「星光学園」という学校がおます。

江戸時代には料亭の「浮瀬亭」が在った場所なんだって。

松尾芭蕉が死の直前に訪れて、こんな句を詠まれたとか。

「松風の 軒をめぐりて 秋くれぬ  松尾芭蕉」

この句碑が構内に在るそうですが許可がないと入れまへん。

(星光学園の裏門)


(料亭 浮瀬亭跡の説明板)


江戸時代になっても、ここ「浮瀬亭」から大阪湾が見えて
淡路島や六甲山に沈んでいく夕日は有名だったんだね。

当時は大坂でも有名な料亭だったと記録には残ってますんや。

松尾芭蕉は此処で句会を開いた数日後に病の床についたとか。

元禄7年(1694年)9月26日のことだったそうな。

翌月の10月12日に大坂の地で亡くなっておられますよ。

登り切ると有名なお寺の門前に出てきますんや。

四天王寺の支院で勝鬘院(しょうまんいん)というお寺で
愛染堂(あいぜんどう)が在るので坂の名前にも成ってまぁ。

(勝鬘院 愛染堂の 薬医門)




大阪の夏祭りは、ここ「愛染さん」から始まりますんや。

確か6月30日から7月2日までだったと記憶しまぁ。

「愛染さん」「天神さん」「住吉さん」と続きまっせ。

大阪三大夏祭りで「愛染さん」は女性のお祭りだとか?

女性が浴衣姿で参加する祭りとして華やかなんでっせ。

一昔前までは北新地や今里新地の芸者さんが宝永かごで
練り歩く、お寺のお祭りとは思えない光景でしたかな。

(勝鬘院 愛染堂の本堂)


お祭りの際には四天王寺から役僧が来られるんだそうですわ。

四天王寺は戦後から「和宗」と呼ぶ宗派に属さないお寺でっせ。

江戸時代には天台宗のお寺だったと記録されてまつけど。

徳川時代の再建だそうですが空襲で焼けたのどうかは不明。

(勝鬘院 愛染堂の 多宝塔)(重要文化財)




大阪では一番古い多宝塔で豊臣秀吉が再建した堂塔だって。

付近は大阪の大空襲で焼けてしまったんでっけど、幸いにも
この多宝塔だけは焼失を免れたという貴重な建物でっせ。

戦前は国宝だったが、別に格下げになった訳ではおまへん。

現在は国の重要文化財に指定されているようでんな。

(勝鬘院 愛染堂の 多宝塔)(重要文化財)


多宝塔が御開帳されるのは夏の「愛染祭り」の3日間だけ。

大日大勝金剛尊という仏様が拝めるんだって。

ここは聖徳太子が造られた「施薬院=せやくいん」が
平安時代まで在った場所とされてますかな。

(愛染かつらの木)


かつらの木にノウゼン鬘が巻き付いている姿が
男女の愛欲を示しているとの説がおますんや。

男女二人で訪れると恋愛が成就するとの噂でっせ。

此処の木は大阪大空襲で傷みましたが、何とか
今日まで生き残ったと言われてるそうですわ。

「愛染かつら」の映画は戦前から戦後にかけて
三度ばかり上演されて話題になりましたかな。

鉄ちゃん爺やの時代は岡田茉莉子さんと山田輝雄さん
戦前なら田中絹代さんと上原謙さんが主役でんな。

戦後は京マチ子さんと鶴田浩二さんもおましたで。

主題歌「旅の夜風」なら若い方でもご存じかしら?

「花も嵐も踏み越えて~🎵 行くが男の生きる道~🎵」

霧島昇とミス・コロンビヤさんのデュエットソング。

当時100万枚近く売れたヒット曲だったとの話。

(愛染堂境内 愛染かつらの木)


小説に書かれた「愛染かつら」は長野県は別所温泉にある
北向き観音に在る「愛染かつら」だとの説が多いでっかな。

他には東京の谷中の自性院だともの説も焼失して現在は
「愛染かつら」があったのかどうかも不明。

こちら勝鬘院の愛染堂は昭和の初期に作家・川口松太郎が
近くに住んでいたとの説があるようですな。

「愛染かつら」で戦後の映画に出演した田中輝雄さんが
大阪大空襲で弱った「愛染かつら」の側に新しい苗木を
植えられ、桂の木が横で育っているという処でおます。

全国各地に同じような伝説が残されていますけど
小説の世界だから、何処が本当なのかは不明ですかな。

それでは坂を登りきつて谷町筋まで出てみまっせ。

(大阪府道 谷町筋)


片側四車線の立派な道路でっけど国道ではおまへん。

大阪府道で中世の熊野街道に沿って出来た新しい幹線道路。

(谷町筋の 道路標示板)


(大阪市営地下鉄 夕陽丘・四天王寺駅)


この付近が昔の名勝だった「夕陽丘」から採用でんな。

谷町線という大阪市で一番走行距離の長い地下鉄ですわ。

此処から次の五つ目の天王寺七坂へ向かいまっせ。

次は「口縄坂=くちなわざか」と言いますんやけど
長くなりますので、今回はここで中断させて貰いまひょ。

次回は「口縄坂」から後編を紹介させてもらいまっさ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵






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謹賀新年 今年も宜しく~🎵

2017-01-01 08:10:05 | 日記




関西は穏やかな新年を迎えたようですが
皆さまの地方は如何でございましょうか。?

本年も宜しくお願い申し上げます。



大阪市 元日

日の出  7:05

日の入 16:58
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船場から御堂筋を デジカメ散歩

2016-12-24 10:06:33 | デジカメ散歩
大阪の船場・本町界隈を歩いて来ましたんや。

鉄ちゃん爺やが1960年代~1970年代まで
色んな体験をした、懐かしい街なんですわ。

(船場センタービル 3号館附近)


外壁が改装されて少しだけイメージが変わった感じ。

数年前に訪れた際には、昔のままの外壁だったはず。

取り壊しとの噂もあったはず、補修に変更したのかしら?

(船場センタービル 旧の外壁)




船場センタービルの2号館に鉄ちゃん爺やが室長をしてた
コンピューター室がおましたんや。

大阪万博の直前に出来たのがこの船場センタービルでおます。

当時としては珍しい、地下2階・地上3階の問屋街や飲食店が
1号館~10号館まで東西に約1kmぐらい繋がってますんや。

その屋上を阪神高速道路と中央大通りが通ってまんねんで。

立ち退き問題で揉めたのを、こんな企画で解決したとの話。

現在も大阪市開発公社が大半を、そして元からの商店などが
ここの1階や地下に移転したケースも存在しているようだね。

2階~3階はテナント賃貸だけど、空き室が多いとの噂でんな。

(TEIJINビル)


社名のロゴが当時は帝人でしたが、現在はTEIJINでんな。

正面玄関の銘板は、当時の帝人ビルディングのままですわ。

完成した頃の社長さんは、あの大屋晋三さんでしたね。

奥さんの大屋政子さんの方が、晩年は有名だったかも。

(帝人ビルディング 正面玄関)


ここの1階には多目的ホールのテイジンホールがおますんや。

鉄ちゃん爺やが船場センタービルのコンピューター室から
兼務しているオフイスへは帝人さんの地下連絡通路を利用。

このビルが完成したのが昭和49年で第一次オイルショックの
少し後でしたが、船場がまだ元気な時代でもおましたんや。

実はこのTEIJINビルをJR九州さんに売却なんだって。

おそらく取り壊して高層マンションにでもされる予定かな?

敷地は確か4000㎡ぐらいの正方形だったはず。

(TEIJINビルを 南側から撮影)


ここにはテイジン(旧 帝人)の本社と子会社が入居してまぁ。

2017年5月に中之島へ引っ越すとのHPでは開示。

登記上でテイジンさんは、現在もここが本店なんでっせ。

船場から又もや有名な繊維関係の会社が一つ無くなりまんな。

(TEIJINビル 1階側面)


ここから約70~80mでもう一つの鉄ちゃん爺やが
管理監督する倉庫と事務所がおましたんや。

この帝人ビル周辺の風景は、懐かしく昔のままですわ。

でも昔の事務所の界隈はすっかり変わってしまいました。

飲食店などが無差別に並んでいてイメージダウンですわ。

デジカメで撮るような雰囲気になりまへんでしたわ。

(本町橋の 橋名板)


(本町橋の上から 東北に向けて撮影)


1913年(大正2年)完成の大阪市内では現役最古参の橋で
この「本町橋」と書かれた橋名板は当時のままなんだって。

この橋の下を流れる川は東横堀川で豊臣秀吉が大坂城を守る
外濠として掘らせた運河だと記録には残ってますんや。

(本町橋から 下流を撮影)


(阪神高速道路の 橋脚)


この橋脚が私の管理していた倉庫の南側の柱を削りましたんや。

現在は倉庫も取り壊されてオフィイスビルになってまっけど。

その際に約2mぐらい川岸から離してビルを建設したはず。

(本町橋の西側 喫茶店 ゼー六)


ここのアイスクリームはゼラチンを使用した船場でも有名なお店。

店舗は鉄ちゃん爺やが勤務してた当時とまったく変わりが無し。

お店のご主人は、流石に40年も経過だから、お孫さんかな?

(大阪産業創造館)


鉄ちゃん爺やが居た頃にはここは東区役所でしたな。

現在は南区と東区が統合されて中央区に成りましたんや。

中小企業や大阪で創業する会社を支援する機関のようで
大阪市の公益財団法人の一つのようですわ。

それでは本町通りを西へ向かいまっせ。

(本町通の 表示板)


江戸時代にはこの本町通りを挟んで船場は北町と南町に別れ
大店の旦那衆が地方自治を任されていたんだって。

江戸時代の大坂・船場は「武士が少なく」町人の街でしたんや。

だから橋の補修や道路や街の整備は町人負担になってました。。

だから公儀橋は「高麗橋」の他は2~3つ、しかおまへんで。

(本町通の 自転車専用エリア)


大阪市内の幹線道路で唯一の自転車専用通路なんだって。

本町通の両側に設けられたように聞いてまぁ。

試験的に実施中で、今後はもっと増やしていきたいとの事。

次の大きな南北の通りを「堺筋」と言いまんねんで。

大阪市内では南北を「筋」そして東西を「通り」と呼びまぁ。

(本町1丁目 交差点)


鉄ちゃん爺やが居た頃は「本町2丁目」と言ってましたで。

御堂筋が出来る昭和初期までは、大阪一のメイン道路でした。

画像の中央は補修されたように見えますが、昔は早稲田屋さん
紳士物の洋装店だったかな、現在は和菓子屋さんのようだね。

(本町1丁目交差点から 北方向を撮影)


中央の白いビルは1951年(昭和26年)に完成したという
トヤマビルの旧館で創業者が富山県人だった由来なんだとか。

命名者は伊藤忠社長の伊藤忠兵衛(2代目)さんらしいね。

(トヤマビル ズームイン)


現在も3代目の方が(株)トヤマビルとして管理しているんだって。

古いビルが取り壊されていくのを惜しんで、今後も出来るだけ
昔のままの姿と内装で、維持していきたいとHPでのコメント。

このビルには鉄ちゃん爺やは、富山漁網さんや業界団体の
紙運会などが有ったので良く出入りしたもんですわ。

外壁は補修されてるけど、見た感じは昔のままでんな。

(元の 本町第一ビル?)


1階が第一勧銀さんの店舗で、2階に鉄ちゃん爺やが通った
歯医者さんがおましたが、取り壊せれてしまいましたな。

新しい高層ビルを建設中で、本町1丁目交差点のイメージが
すっかり変わってしまいそうですわ。

数年前には元の本町第一ビルがまだ残ってましたんやけど。

この本町ビルは1958年(昭和33年)完成だったかな?

(完成予定の 新本町ビル)


この辺りで一番古いビルを発見しましたで。

食品の卸問屋さんだった「明治屋」さんのビルでっせ。

(旧 明治屋南本町ビル)


(新しく 風蘭ビルの銘板)


一寸だけ無断でっけどエレベーターホールまで失礼!

昔と変わらない懐かしいレトロな内装で残ってまぁ。

(旧 明治屋南本町ビル 1階部分)




確か完成は1924年(大正13年)だったはず。

全体としては昔の姿を残していると思いまんねんで。

それでは御堂筋の方へ足を延ばしまひょ。

(元は 五味産業ビル)


ここも鉄ちゃん爺やが出入りしたビルでしたな。

名古屋の近藤紡績や豊島に対して大阪の丸紅が対抗した
先物業者で、五味紡績を傘下に持っていたんだったかな。

商品先物市場で派手な相場を演じたのが売りの近藤紡
買いが丸紅や伊藤忠で相場が大きく上下しましたんや。

もはや、そんな仕手戦も昔話として忘れられたようでんな。

(大阪の 丼池商店街=どぶいけしょうてんがい)
 

大阪では繊維関係の問屋さんの街として有名だったけど
寂れてしまって、昔の面影は見られないのが残念ですわ。

大阪から西の繊維関係の小売店はここへ仕入れにやってきて
商品を注文したり、持ち帰ったりして繁盛してたんでっせ。

(心斎橋筋商店街)


心斎橋筋商店街もここまで来たら繊維関係の店が大半で、戎橋や
大丸周辺の心斎橋筋商店街とは少しイメージが異なりますかな。

ここを通過したら、大阪市内のメイン道路になる御堂筋でっせ。

(御堂筋に 名残の銀杏並木)


(散り果てた 銀杏の葉っぱ)


(本町3丁目 交差点を通過)


(旧 イトマン跡の外資系ホテル)


ここには世間を騒がせた中堅商社のイトマンがおましたけど
現在は外資系の大きなホテルが建ってますわ。

ここも当時は本町4丁目と言いましたが、現在は本町3丁目。

それでは淀屋橋の方まで、イルミネーションの点灯を見ながら
ゆっくりと歩くことにしまひょ。

(光のルネサンス2016 スポンサーの幟)


今年で14年目を迎える光のルネサンス2016でっけど
スポンサーの減少から、新しい試みがあまり見られまへんな。

そろそろ大阪の市民に飽きられてきたのかも知れまへんで。

(黄昏の 御堂筋)




イルミネーションが点灯されたようでっせ。

でも~ 周囲がまだ明るいので画像では今一でっかな。

(大阪ガス 本社ビル)


南側が空き地になったので全体が写しやすくなりましたで。

この大阪ガスさんの本社ビルも古くて貴重な建物でっかな。

1933年(昭和8年)完成のユニークなビルでっしゃろ。

この空き地には鉄ちゃん爺やが勤務した会社の親会社がおました。

(御堂筋の 古いビル群)




御堂筋の両側はビルの高さ制限が有りましたんで、昔は
ビルの高さが並んで、見事な風景が見られましたんや。

でも~ 現在は高さ制限が緩和されて、逆にビルの高さが
バラバラで鉄ちゃん爺やには、昔の方が懐かしいでっけど。

(最近の 御堂筋のビル群)




(淀屋橋 & 大阪市役所)


中之島地区のイルミネーション点灯は17時の予定だとか。

反対側は大阪の肥後橋方面の画像でっせ。

(淀屋橋から 肥後橋方面を撮影)


中央の高いビルが3つ並んでまっしゃろ、その一番奥
先程のテイジンさんが2017年に引っ越されるビル。

元は大阪の朝日新聞社が在った処に建設中のビルでんな。

それでは、光のルネサンス2016のイルミネーションを
貼り付けますので、ご覧になってくださいね。

(光のルネサンス2016 イルミネーション)








(大阪市役所 正面玄関のイルミ)


(日本銀行 大阪支店のライトアップ)


やはりプロジェクションマッピングが一番の人気かな。

登録文化財の中之島公会堂に幻想的な風景が醸し出されますので。

(中之島中央公会堂)












(中之島 遊歩道のイルミ)










最後はもう一度だけ、御堂筋のイルミに戻りまひょ。

一部は昨年の画像も含んでますのでご容赦のほど。

(御堂筋の イルミ)






それじゃ今回はこれでお仕舞にしまひょ。

次回は天王寺七坂をデシカメで紹介させてもらいまっさ。

ほな~ これで、さいなら~🎵
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C型肝炎 最新の治療薬を 服用して~

2016-12-11 19:29:09 | モニター
日本人の100人に1~2人がC型肝炎の
キャリア(持続感染者)なんだそうですよ。

だから約100万人~200万人の患者さんが!

だけど気が付いてない方も多いと言われてまぁ。

慢性肝炎から肝硬変になり肝がんに至るんだとか。

毎年ながら数十万人の方が亡くなっているんですね。

内の奥さんも平成8年頃にインターフェロンの
治療を受けたが、ウイルスが消えませんでした。

昨年から錠剤を飲むだけでC型肝炎が完治する
新薬ハーボニーが健康保険で適用を開始。

しかも月間1万円~2万円の個人負担でOK

そんな訳で大阪府へ申請し認可を得られました。

慢性肝炎か肝硬変の初期、代償性肝硬変までの
患者にのみ適用される新しい制度だそうですわ。

非代償性肝硬変まで進行したら適用外なんだって。

(高額医療分 大阪府が負担の 認可証)


鉄ちゃん爺やは年金だけが収入でっから個人負担は
毎月1万円のみで、治療が受けられるんだって。

現役並みの所得が有る方なら毎月2万円の負担だとか。

12週間の服用なので我が家では総額3万円の個人負担。

(C型肝炎 新薬の ハーボニー錠)(28錠入り)


2016年4月1日から薬価が大幅に下げられました。

1錠が  80,000円 ⇒ 54,796円

それでも、吃驚!するほど高額な薬でっしゃろ。

これを12週間(84日間)服用するんですわ。

もしも健康保険が使えなかったら約460万円でっせ。

今年3月までなら、約672万円も払うことになり
庶民には、とてもじゃないが手が出まへんわな。

(C型肝炎 新薬・ハーボニー錠 製造メーカー)


ギリアド・サイエンシズという会社でっせ。

米国カリフォルニア州に本社が在る、バイオファーマで
それの東京に在る日本企業が提供しているようでんな。

錠剤の表裏を写しましたので貼り付けておきまひょ。

(C型肝炎の新薬 ハーボニーの画像)




副作用も少なくて、治験では99.5%の方が完治したとか。

この新薬が出るまではC型肝炎でも1型bの完治は難しく
肝硬変や肝がんで、苦しむ人が多かったと聞いてますんや。

この1型bは内の奥さんも該当し、インターフェロンでは
40%~70%の方しか完治しないとのことでした。

C型肝炎ウイルスの方がインターフェロンよりも強力で、
血液の中での戦闘に勝てなかったという事になりまぁ。

だから今までは、肝硬変や肝がんになるのを恐れながら
ウルソウなどの薬を飲むしか方法が無かったんですね。

(ハーボニー配合錠 説明事項)


(ハーボニー配合錠 服用の注意)


飲み忘れるとウイルスが盛り返して治らないとのこと。

ハーボニー錠を飲んで抗ウイルスの個体を増やして
C型肝炎ウイルスに戦いを挑むんだとの話。

だから~ 高価な薬なので飲み忘れが特に心配だとか?

(服用の シール)


(服用シールを貼る 絵地図)


こうして子供のように、毎日シールを貼りながら
忘れずに朝一番、ハーボニー錠を一つだけ飲みますんや。

今日現在のシールの残数はこんな感じ。

(服用の シール)


(半分を通過した 絵地図)


副作用がないとの、ふれ込みでっけど、そこは薬でっから
大きな障害にはならないような副作用はおますな。

飲んでから午前中は動く気がしないようで、口内炎やら。

鬱病(うつびょう)までは行かないけど情緒不安定ですわ。

こうして2週間に一度は必ず病院へ行きますんや。

(大阪府へ提出用の 記録簿)


毎回ながら必ず血液検査と心電図を撮られるそうですわ。

このハーボニー錠で不整脈が出たケースが有るんだって。

それと血液検査の結果を、詳しく調べるんだとも。

主治医の話では順調にウイルスが減っているとの判定。

(HCV-RNA ウイルス検査)


このHCV-RNA検査値でハーボニー錠を服用する前の
7月末の時点から12月9日現在の推移はこんな感じ。

7月 6.8 10月  6.3  11月 1.8

12月9日  1.2未満で検出できず!

ウイルスは存在するが1.2以下になると数字的には
検査値としては表示が不可能になるんだって。

血小板値 PLTの推移はこんな感じ。

7月 8.4万  10月  9.1万 11月 9.8万

12月9日  10.8万

血小板が10万を超えたのは5年ぶりかも。

血小板は13万ぐらいまで戻れば良いんだけどね。

日本ではA型~E型までの肝炎と非A型~E型を
含めて7種類の肝炎のウイルスが存在するんだって。

A型肝炎ウイルスが一番多いそうですが、このA型ウイルスは
慢性肝炎や肝がんにならないので、あまり問題にされないとか。

B型肝炎とC型肝炎が世間では問題に成っているのかな?

特にこの二つは昔に注射器の回し打ちが行われた関係で
50歳代より上の方に多いように聞いてますんや。

内の奥さんも歯医者さんか予防注射か断定が出来ず
何時のまにかC型肝炎になったようですわ。

最後に2016年9月からハーボニー錠よりも新しい
同じくアメリカの「ヴィキラクス」という新薬が販売され
健康保険適用も新しく始まったとか聞いてますんや。

この新薬はハーボニーがC形肝炎ウイルスの1型にしか
使用できないのに、この新薬は1型と2型の両方に有効で
おそらく、来年以降に大きく伸びるとの情報ですね。

完治しないと言われてきたC型肝炎が新薬の開発により
多くの命が救われるのは、大きな成果だと思いますけど。

國も肝硬変や肝がんまで進行するC型肝炎の患者を
救うために軽減措置を実行したことに感謝したいですね。

今週17日は最後の飲み会に出かける予定です~🎵

何処かでデジカメ散歩をしてきましょうかな。

それじゃ、これで、さいなら~🎵





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京都 北野天満宮を訪ねて~🎵

2016-12-04 13:34:40 | 神社
下鴨神社を出て次は何処へいこうかな?

やってきたバスに乗ってから考えましたんや。

北大路通を西へ走り、西大路通を南下するらしい。

それじゃ、北野天満宮へ行くことにしまひょ。

北野白梅町のバス停で下車となりますんや。

反対側には京福電鉄の駅舎が見えてまっせ。

(京福電鉄 北野白梅町駅)


最近は「嵐電」の愛称で呼ばれる方が多いかも?

現在は京福電鉄の北野線はここが終点だっせ。

鉄ちゃん爺やが高校生だった昭和33年頃までは
北野天満宮の前に、終点の北野駅がおましたんや。

だから現在は何で? ここが終点になってるの?

(京福電鉄 モボ2001形)(旧塗装の車両)


元は北野天満宮へお詣りする方の為の路線でした。

それが今出川通りの道路拡張と京都市電延長の為に
現在の西大路通りで終点となったんですわ。

その市電も廃止になり、今はバス利用が中心かな?

それじゃ~ 10分ほど歩くことにしまひょ。

今出川通りを東へ向かい、小さな川を渡ると左手に
大きな鳥居が見えてきましたで。

(北野天満宮 一の鳥居)




戦前までは「宮」を名乗れるのは、ご祭神が天皇か
皇祖にあたる神社しか許可されない時代がおました。

現在でも「神宮」と呼ばれる神社の大半がその主旨を
守ってますが、天神さまは戦後になってから「宮」に
復帰でんな、普通なら「大社」と名乗るべきかも。

民間人をお祀りする神社として、天満宮は例外で
その理由などは、後で書き込ませてもらいまひょ。

(北野天満宮の 参道)




(神の使い なで牛)




ご祭神の「菅原道真公」は「丑歳」のお生まれだった。

亡くなられたのも「丑年」の「丑の日」だったとか。

亡くなられた、ご遺体を牛に乗せて運ぼうとしたら
牛が座り込んで、動かなくなったとの伝説も。

そんな訳で各地の天神さまには牛が神の使いとして
境内に「なで牛」として置かれてまっしゃろ。

鉄ちゃん爺やも腰痛だから「なで牛」の腰の辺りを
なでてお願いして行きまひょ。

(北野天満宮の 楼門)




(菅原道真公の 御歌)


これは、小倉百人一首に登場する和歌でんな。

手向山とは、奈良公園の手向山八幡宮にお詣りした
その際のことを詠んだものだとされてますかな。

(北野天満宮の 神紋が描かれた提灯)




「星梅鉢の神紋」は良く知られているようで、各地の
天神さまでも、共通の神紋として見かけまっしゃろ。

でも~ 「三階松の神紋」は此処だけの物かしら?

(北野天満宮 世継ぎの梅)




この梅の木は明治天皇の皇后であった正憲皇太后が
ご成婚される際に、京都御所から持ち出されて
お手植えされたけど、近年になり枯れてしまったとか。

それで京都御所から譲り受けた、二代目の梅の木だとの事。

(北野天満宮 本殿への回廊)


北野天満宮は一の鳥居から楼門を潜り抜けて、拝殿へ
真っ直ぐに向かえば本殿があるのが普通でっしゃろ。

北野天満宮は画像で見て頂けば分かると思いまっけど
一旦は左へ曲がって、中門を潜る様式になってますんや。

これは奥に地主神社が昔からあって、それを避ける為に
本殿は中心線から左側に、配置されているんだとか。

(北野天満宮 中門=三光門)


この立派な三光門を潜ると前方に本殿が見えてきまっせ。

この中門と東門は国の重要文化財に指定されてるんだって。

見上げると立派な彫刻が施されてまっせ。

(三光門の 彫刻)






それでは、本殿へお詣りさせてもらいまひょ。

若い頃に来たきりで、50数年ぶりかもしれまへん。

(北野天満宮 本殿)(国宝)






本殿は昭和34年に国宝に指定されたそうですわ。

豊臣秀頼が造営した約400年前の建物なんだって。

天満宮は日本全国に在って、学問の神様として受験生や
親御さんには、篤い信仰が今でも続いてまっしゃろ。

だけど元々は恐ろしい怨念を持つ神として朝廷から
「怨霊=おんりょう」鎮めるためにお祀りされたのが
始まりで、非業な死を遂げた方をお祀りする神社でした。

「御霊信仰=ごりようしんこう」と言いまして平安時代
怨みを持って死んだり非業な死を遂げた人間は
人々を脅かすような天災や疫病を招くと信じられてました。

「菅原道真」は平安時代には最も恐れられた怨霊でしたんや。

(北野天満宮 ご朱印)


醍醐天皇と藤原時平の策謀により大宰府に左遷されて
ご当地で亡くなられたのが903年(延喜3年)2月25日

だから天神さまの縁日は毎月25日となってまっしゃろ。

醍醐天皇の皇太子や藤原時平の自身も急死してしまい
左遷の謀議に参加した右大臣源光も狩りの最中に溺死。

おまけに次の皇太子も幼くして亡くなりますんや。

世の人は菅原道真公の祟りが原因だと考えたんだって。

醍醐天皇は左遷の詔を覆し右大臣と正二位を贈位するも
疫病や水害がその後も続いたようでっせ。

今度は醍醐天皇の住まわれていた御所の清涼殿に落雷。

菅原道真公の左遷に関係した大納言・藤原清貫が即死し
近くにいた宮廷官僚の3人もほどなく死亡。

醍醐天皇も落雷からまもなく病気になり3か月後に崩御。

(国宝 北野天満宮 本殿)


醍醐天皇の皇子である村上天皇が947年(天暦元年)
北野の地に、「菅原道真公」をお祀りしたのが最初で
藤原時平の弟である藤原忠平が協力したとのことですわ。

その後、忠平の長男・藤原師輔が土地を提供して大きく
なったのが現在の北野天満宮の敷地なんだって。

時平の一族が断絶し、忠平の一族はその後に繁栄し
藤原道長で全盛期を迎える事はご存じだと思いまっけど。

(北野天満宮の中門を 本殿の境内から撮影)


「北野天満宮天神」の神号は987年(永延元年)に
一条天皇から与えられたそうですわ。

天皇陛下から命名されたので、現在でも天満宮の
名称を名乗ることが許されているんでしょうな。

日本三大天神と呼ぶことがおますんや。

ここ北野天満宮と亡くなられた大宰府天満宮は当然で
他に大阪天満宮か防府天満宮のどちらかを加えるとか。

四大天神にすれば良いのに、日本人は三大に拘って
人を迷わすような呼び方をするもんですな。

天満宮が学問の神様に変わったのは江戸時代の頃で
寺子屋の教材や、歌舞伎などが影響したんでしょうな。

(北野天満宮 参拝の栞)


(北野天満宮 境内の梅)


  「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花

    あるじなしとて 春なわすれそ  菅原道真公」

ここも梅の名所ですが、この時期は冬枯れでこんな感じ。

紅葉の時期は「もみじ苑」が在るんでっけど大人700円
しかも入場待ちの長い行列なので、諦めましたんや。

又の機会に、訪れることにして退散しまっさ。

(渡辺綱 寄進の石燈籠)




平安時代の源頼光の四天王の一人だった渡辺綱が京都の
一条戻り橋で、夜中に若い女性が家に連れて帰って欲しいと
頼んだので馬に乗せた処、これが女性に化けた鬼だった。

渡辺綱が刀で腕を切り落として、難を逃れた伝説がおます。

北野天満宮のご利益で、命が助かったとのことで渡辺綱が
石燈籠を寄進したと書かれてますな。

(境内に 織部燈籠 )




何でこんな場所に、キリシタン灯篭とも呼ばれ
古田織部が好んだと言われる「織部燈籠」が
置かれているのかは、分かりまへんでしたけど。

マリア様の姿が彫られているんでしたよね。

長くなりますので、本日はこれにてお仕舞い。

ほんなら~ これで さいなら~🎵











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京都 下鴨神社の紅葉を訪ねて~🎵

2016-11-26 19:02:53 | 神社
久しぶりに京都へ出かけまひょ。

紅葉もそろそろ見頃かもしれまへん。

往きは近鉄特急に乗ってみましたんや。

(近鉄特急 22600系 京都行)




乗車した時はほとんどが空席、だけど次の大和八木駅で
お客が乗ってきて、ほとんどの席が埋まりましたわ。

普段は空席も目立つ、京都行き特急なんでっせ。

JR新快速や京阪特急や阪急なら普通料金のみで京都迄。

こちら近鉄は特急料金で900円も取られますんや。

(JR京都駅 改札口前)


この時期の京都は観光客で大賑わいでっせ。

やはり観光客は、溢れんばかりの人出でんな。

本来は東山の清水寺か永観堂もしくは高台寺辺り
でも~ この時期は紅葉見物のお客で大混雑でおます。

写真も撮れない状態なのでパスしまひょかな。

下鴨神社が良いかもと、京都駅前バスターミナルへ。

(市バス・京都バス 一日乗車カード)(500円)


(河原町通りを通過中の 京都市バス)(平成24年撮影)


京都市内のバスは1回乗ると230円なんですわ。

3回乗れば元が取れまっしゃろ。

(賀茂大橋から 平成24年撮影)


画像の左側が賀茂川で右側が高野川と言いまんねんで。

ここで合流してからは鴨川と呼び方が変りますんや。

中央に森が見えるのが「糺の森=ただすのもり」で
下鴨神社の参道にもなる、有名な処でっせ。

それじゃ下鴨神社を画像で紹介しまひょ。

(賀茂御祖神社=かもみおやじんじゃ)


普通は下鴨神社と呼んでまっけど、正式にはこのように
賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)と呼びますんや。

2kmほど先に上賀茂神社がおまして、両方を合わせて
賀茂の大神と呼び、伊勢神宮と並び皇室にとっては
平安京を鎮護する大切な神様とされてきたそうですわ。

今日では5月の「葵祭=あおいまつり」で有名でっかな。

(御手洗・三本杉の説明板)




御手洗と書いて「みたらし」と読んでくださいね。

誰でっか~ 「おてあらい」と読む人は!

「みたらし団子」の語源になったんだとか。

「みたらし団子」は下鴨神社の境内で売られていた物が
全国に広がったようで、京都では5個で1串でんな。

砂糖醤油で包んで3串で1セットになってますんや。

一番上だけが少し大きくて、下4個が小さいんでっせ。

大きいのが頭で、下4個とで人間の姿を現すんだとか?

関東では4本が1串だったような記憶がしまっけど。

(下鴨神社の 鳥居と紅葉)






京都はイロハモミジが有名なんですが、下鴨神社の
紅葉は京都市内でも、少しだけ遅いとか言われてまんな。

1週間ぐらい早かった色付きだったかもしれまへん。

(賀茂斎院=かもさいいん 御所の復元)


弘仁元年(810年)嵯峨天皇の皇女だった有智子内親王を
初代に未婚の内親王か女王(親王の娘)が3年間の禊を経て
斎院(さいいん)と呼ばれる役目に就かれたそうですわ。

約400年間続き、鎌倉時代初期の1212年(建暦2年)の
後鳥羽天皇の皇女だった礼子内親王の退下まで35代に渡り
置かれましたが、皇室の衰微により廃止となったんだって。

この建物は斎院が下鴨神社に参拝に来られる際に使用した
斎院御所を絵図面から復元したものでしょうかな。

日常は紫野と呼ばれる処に斎院御所が置かれて居たそうですわ。

現在の北野天満宮の少し北側になるようでんな。

(賀茂斎院 御所旧跡 説明板)


伊勢神宮にも斎宮(さいくう)と呼ばれる同じような方が
飛鳥時代から鎌倉時代まで居られたそうで、こちらは
内親王の母親か父親の天皇が亡くなられたら京都へ戻り
一般人として、その後の生活を送られたそうです。

賀茂斎院は5代の天皇に渡り勤められた選子内親王の様に
必ずしも天皇や母親が亡くなられても、退下することなく
長く勤められた方が多いと記されてますかな。

特に平安時代には京都に近い事も有り、伊勢神宮の斎宮よりも
京都御所に近い、賀茂斎院の方が上位に在ったとのことで
宮廷サロンと共に平安時代を謳歌する舞台となったようでっせ。

(下鴨神社の境内)










(下鴨神社 拝殿への入口)


下鴨神社の本殿は残念ながら写真では写せないようで
あちこちから眺めましたが、こんな感じしか撮れまへんわ。

(下鴨神社の本殿の一部)




(下鴨神社の本殿)(説明板から転写)


光線が入って写りが悪いのでご免なさいね。

興味の有る方は特別拝観で4万円~5万円を納めれば
予約して毎日80名限定で本殿を拝観できるとか。

HPでも本殿の画像は掲示されていないようですね。

(下鴨神社の ご祭神)


神武天皇のお母さまが東本殿のご祭神のようですね。

西の本殿には上賀茂神社のご祭神である
賀茂別雷命(かもわけいかずちのみこと)のお父様ですな。

元はこの地に住んでいた賀茂氏の氏神さんだったはず。

神武天皇のお母さまを加えて皇室の神様になったのかしら?

(下鴨神社の ご朱印)


なるほど~ 山城の国では、ここが一之宮なんだ!

右上の「二つの葵」が下鴨神社の神紋のようでっせ。

徳川家「三つ葉葵」の家紋はこれをアレンジしたとか?

本殿の手前に、こんなお詣りの説明板が

(鴨の社へ えと詣り)


(巳歳と 未歳の方の 守護社)


鉄ちゃん爺やの干支は「巳」だから、お詣りせねば~

小銭が無くて100円玉をお賽銭に、ご利益が貰えるかな?

(重要文化財 橋殿)




(下鴨神社の 境内図)


(下鴨神社 剣の間)






(重要文化財 下鴨神社の楼門)






「葵祭」で斎王代が手を水に浸して禊(みそぎ)をされる
そんな映像をテレビご覧になったことがおまっしゃろ。

現在は斎院の代わりに斎王代とよばれる方が選ばれて
「葵祭」の主役を務めておられますんや。

(下鴨神社内 御手洗社=みたらししゃ)


(御手洗社前 人工の川)


この日は水が流れてませんが、「葵祭」の日には斎王代が
手で浸せるぐらいに水を流すんでっせ。

大昔は賀茂川で禊(みそぎ)をやったんでしょうな。

(御手洗社の前から 本殿方向を撮影)


上賀茂神社と隔年の交代で、御手洗社(みたらいしゃ)の
川に見立てた処で、禊(みそぎ)をされる場所がここでっせ。

余談になりますが、斎王代は一般公募やオーデションなどでは
選びません、京都の名家から未婚の娘さんが選ばれますんや。

なんでも数千万円の費用を負担することが条件で、よほどの
名家や資産家でないと応募できないとの噂でおますけど。

だから親子三代や姉妹が選ばれるケースが多いのかも?

それでは帰りは「糺の森」を散策して行きまひょかな。

(下鴨神社 一の鳥居)






(糺の森 駐車場)




「糺の森」は大昔の原生林の名残を残す京都では珍しい森で
下鴨神社の参道として、昔から保存されてきたようでんな。

現在の樹木は約200年ぐらいと、さほど古くは無いですが
京都市民には憩いの森として親しまれているそうですわ。

(糺の森の 画像)








この参道を利用して、「葵祭」の際には、流鏑馬の神事が
現在も行われているそうでっせ。













(下鴨神社の 摂社 河合神社)




玉依媛命をお祀りしているので、日本一の美女だとか
そんな訳で、女性の参拝客が押し掛ける神社なんだって?

ここが「糺の森」の入口にもなるんですわ。

(河合神社の拝殿)




ここは「方丈記」を書いた鴨長明が禰宜としてお勤めした
神社で、彼の考案した「方丈の庵」が再現されてまっせ。

(鴨長明 方丈の庵 復元)








それでは「糺の森」に戻ってみまひょ。

ここで黄葉の写真を写してみましたで。

(糺の森 黄葉を撮影)




(史跡 糺の森 石碑)




長くなりましたので、今回はこれでお仕舞にしまひょ。

次回は足を延ばして北野天満宮を紹介しまっさ。

ほんなら~ これで、さいなら~🎵
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