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楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

ハシラノキズ

2025年05月06日 14時17分15秒 | つれづれなるままに考えること
「子供の日」に散歩していて、
国旗を掲揚してある家の前を通ったら、

どうゆう訳か
「背くらべの」♪柱の傷はおととしの・・・♪
が口から出てきた。

それで帰宅後、柱に付けた昔のきずを思い出した。
娘が4才、兄が8才の時のキズだ。

上の方を見たら、ボクの名前が書いてある。
50年も前のキズでした。

その頃はボクもまだ若かったですね。

♪背くらべ - Sei Kurabe|♪はしらのきずは おととしの【日本の歌・唱歌】


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古い記憶を追って

2025年04月30日 04時38分33秒 | つれづれなるままに考えること
89歳の誕生日の2日あとに転んだ。

前方からくる車を避けようと、
右側に出来た歩道に入ろうとして転倒した。

車は止まって、運転手と助手らしき人は降りてきて、
「ダイジョブですか?救急車を呼びましょうか?」
と転んでいるボクを見て言う。
「頭を打撲したのでは?」

やっと一人で起き上がって、
「頭を打っておりません、右頬が痛いです」
「頬から血が出ていますよ」
手をやると血が付いた。
確かに右頬の上が痛いが、大したことは無い。
「有難うございます。大したことは有りませんから」
そうお礼を言って、別れた。
場所は家まで50mほどの所であった。

帰って、頬の傷に薬を付け、
右手を見ると右手甲で体を支えたらしく、
手の甲が右半分黒ずんでいる。
左手を見たら。掌が右半分黒ずんでいる。
右歩道に入るべく足を運んだが、
車道から歩道への段差に足を取られて転倒したようだ。

転倒した際、右手の甲と左手の平で体を支え切れずに
右頬で頭を支えた。
そんな状況であったように思える。

残り幾ばくもない生命と思うと、
(10年も生きられそうもないと言うこと)
如何いうわけか昔のことが思い出される。

色々思い出しながら、
「人生100年」と言われてから、
かなり時間が経つ、自分も、どうも、
この100年の中に入っているかもしれない。
そう思うと気持ちが楽になってきた。

そこで思い出した昔のことを書いて、
ブログのネタにしようと綴ることにした。

まずボクの両親のこと。
明治維新になった時は、
母の両親は蜂須賀村(現在の愛知県あま市)で農業を営んでいた。
明治維新前は蜂須賀家に仕えていたという。
蜂須賀家の殿様は、廃藩置県とともに、
それなりの資産を貰って男爵か子爵か知らないが、
生涯暮らすことに必要な資産を貰って、
殿様の座を降りた。

蜂須賀家に務めていた母親の父も、
それなりの田畑を貰って、
蜂須賀家の家来から身を退き百姓になった。

蜂須賀の殿様は、世間知らずでお金の使い方も知らず、
どんな経緯か解らないが、賭け事に手を出し、
有り金すべてが無くなり、明日をもしのぐことが困難になり、
母の父の所へお金を借りに来た。

その時、母の父は昔の恩人のことであり、
お金が有ることを知れば、また借りに来るに違いないと考え、
自分が持てる、全財産(土地や田畑)をお金に換え、
殿様に渡すことにした。

そして翌日から、生きている間にお金に換えた田畑を、
買い戻そうと死に物狂いで働いた。
生活が苦しく、三人の娘を育てることが叶わず、
二人を養女に出すことにした。

養女を出すにあたって、出来の悪い次女を残し、
一番できの良い長女とついで三女を養子に出した。
その長女がボクの母であった。

祖父は、後に
「お金は貸すものではない、
貸すのなら差し上げる気持ちで貸しなさい」
お金が返ってくることはないのだから、
と教訓に残した。

ボクもその祖父の遺訓をそのまま母から受け継いで、
他人にお金を貸すときは差し上げるつもりで、
貸していた。
貸すだけのお金を持っていても、
差し上げることが出来ない場合は、
お断りしていた。

話が反れたが、

そんなわけで、
京染屋の一人娘の養子になった母。
その京染屋夫婦に子供がいなかったので養女となった母。


名古屋市西区に黒板塀が長く続く建物に、
その京染屋はあった。
その後、太平洋戦争ですべて無くなってしまった京染屋である。

母が年頃になって、と言っても18歳の時に、
見合いで迎えた亭主が警察官で、
実家では四男坊であった。

昔は長男が家督を継ぎ、その他の男兄弟は結婚して独立する。
これが通例で有ったが、この家では長男を除く男兄弟は、
全員養子になって出されて居る。

実家の長男はY姓で、
以後、養子に出た次男はT姓で、三男はA姓で、
四男はO姓と全員名前が違う。

次男T姓のボクから見れば叔父は、職業軍人。
我が家に訪ねてくる時は、
騎馬で軍刀を腰にぶら下げてやってくる。
我が家の近くに馬が繋がれていると、
叔父が来ているとすぐ分かった。

三男四男は警察官で、
これは父の叔父(ボクから言えばお爺ちゃんの兄弟)が
警察署長をしていたからと聞いている。

親父は「17番目の妾の子だ」と嘯(うそぶ)いていた。
その父の親父さん、ボクから見ればお爺ちゃんの写真を
一度見せてもらったことが有るが、
ちょんまげを結って、
紋付の羽織を着て刀を前に杖の様に構え、
椅子に座った写真であった。

ボクの父は4歳の時から竹刀を持たされていたと言うが、
警察官の時は四段であったらしい。

ボクが子供の頃、「今日は剣道大会」
「今日は囲碁大会」と聞かされると、
父の帰りが待ち遠しかったことを思い出す。
一番になったかどうかは知らないが、
大会の賞品を必ず持って帰って来るからであった。

賞品と言っても、いつも落雁の菓子折りであったが・・・

「落雁(らくがん)とは、米や豆、蕎麦、栗などから作った澱粉質の粉に
水飴や砂糖を混ぜて着色して、
型に押し固めて乾燥させたもの」と呼ばれる干菓子である。 

子供の頃はこんな和菓子しか無かった。
その他の和菓子では、あんころもちで、まれに大福が有った。

ボクが生まれた次の月に2・26事件があった。
どう言う訳か知らないが、
ボクが生まれた時は大雪で、ネルの白い着物を着せられて、
父に抱かれて庭の木の枝に真っ白に積もった雪を見せられた、
そんな記憶が今も残っているが、
その木は戦時中に燃料が無く、切り倒して燃料にして、
お湯を沸かしたり、ご飯を炊いたりして生活をしのいだと言う。

ボクが小学校一年生になった時、
アメリカ大陸の真珠湾攻撃で、
太平洋戦争が起きたように思う。

この後は、何時になるか分からないが、
綴りたいと思う。



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自己満足

2025年04月28日 05時22分59秒 | つれづれなるままに考えること
この一文は以前載せたものを、
先日、読み返し、よくできたエッセイと思い、
再度掲載します。

(自己満足)
物事を極めるというのは、並大抵のことではない。
それがゲームであっても、なかなか極めることは難しい。
ゲームには二通りあって、サイコロを振って出た目で遊ぶような
運任せのものと知恵を絞って遊ぶものがある。
中には運と知恵の両方を必要とするゲームもある。

知恵を使うゲームは、奥行きが深い。
代表的なのが囲碁将棋の類であろう。
学生時代、友人について囲碁を覚えた。
友人はアマチュアの四段であったが、教え方が極めてきびしかった。
最初にルールを教えると後は何も教えないで、ぐんぐんゲームを進めた。

囲碁は、相手と交互に白黒の石を碁盤の上に並べて、
碁盤の上の目を囲み、陣取り合戦をするゲームである。
下手な人が黒石を持ち、上手な人が白石を持つ。友人は下手なボクに
石を九つ先に盤面に置かせて始める。
何度やってもどうしても勝つことは出来なかった。当時の本因坊が書いた
「囲碁を始める人のために」を読んで、頭の中に入れても実戦では
うまく使うことは出来ず、考え考え戦ったがとても勝つことが出来ない。

それでも、一週間たち二週間目にはいると、五回に一回は勝てるようになった。
九つの石を先に置いてはじめた碁石の数も、一つ一つ減らして、二ヶ月で五つになり、
三ヶ月経過する頃は四つにすることが出来て、
友人から上達が早いと褒められた。
どんなことにも熱中するボクの真骨頂である。やがて夢の中で敗因の
一手がわかるようになると、もはやのめりこみ過ぎであることを
ボクは良く知っている。

今、真にやらなければならないことは何かを考えると
ゲームに打ち込んでいる場合ではない。学生の本分は学問であるから
ゲームにうつつを抜かしている場合ではない。

その友人がプロ九段の棋士に教えを請うチャンスを得た。
黒石を持って臨んだ囲碁は、たった一目の差で敗れる結果となった。
プロは、途中経過をよく読んでいて、アマチュア四段の面目を潰さぬよう、
わずか一目差で勝つように手心を加えていたことに友人は
気付かなかった。

たった一目差で敗れたから、もう一回挑戦すればあるいは
勝てるかもしれないと思い、
「もう一局お願いします」と頼んだという。プロは顔色も変えず、
庭先を掃除していた、高校生ぐらいのどう見ても友人より若い
お弟子さんを呼んで、
「お相手をしてあげてください」と言って奥に入っていったという。

若いお弟子さんは友人に向かって、
「先に九つ石を置いてください」と言ったのだ。
九段のプロと今、互角に渡り合って戦い、わずかな差で負けた自分に対して、
小僧のようなお弟子さんに、先に九つ石を置くように言われたのは心外であったが、
仕方がないので言うとおりにしてゲームを始めた。
しかし、勝負の結果はどうであったかというと、友人の大敗であった。

(うまい好事家より下手な専門家)と言うことわざの良い例えである。
事ほどかように、プロの偉大さを知ったのである。
どんなに上手でも、アマはアマ、どんなに下手でもプロには敵わないことを思い知った例である。

アマチュアがどんなに頑張ってもプロにはかなわない。
極めたと言えども、それは自己満足に他ならない。

ボクは釣りについてはかなりな腕を持っていると自負している。
あるときはぜ釣りに行くことになった。はぜは誰にでも釣れる
簡単な釣りだと思っていたので気軽に行くことにした。

舟で釣り場に行くのであるが、かなり年配のおじさんが、
古びた竹竿を自転車に乗せてやってきて、釣りの仲間に入った。
1月のこと。
簡単と高をくくっていたはぜ釣りも、
この時期はなかなか難しいことをすぐに思い知った。
結果は、古ぼけた竹竿を持って参加したおじさんが、
44匹で舟で一番の釣果。
ボクはただの6匹であった。

冬場のはぜは難しいことを知ったが、
夏場のはぜ釣りも、それほど簡単ではない。
確かに誰にでもつれる釣りではあるが、
うまい人とでは釣果が俄然違う。

ある時、淡水水族館で、偶然、
はぜが餌を食べる瞬間に出会うチャンスを得た。
はぜは餌をいったん口にくわえて、ジッとして動かない。
やがて餌をパクリと呑み込むや、さっと移動した。

初めて釣る人は、はぜに針ごと胃袋まで呑み込まれているが、
上手な人は、針が上あごに掛かっている。
竿先からびくびくと手ごたえがあってから釣り上げるのではすでに遅く、
針は はぜの胃袋の中に納まっている。
水族館で見た「餌を呑み込んだあと移動」した状態である。

はぜは「のりで釣る」という。

つまり餌の上にはぜが乗ったのを感じて釣り上げろと言うのだ。
そうすると針ははぜの上あごに掛かって釣れてくる。
これは水族館で見た「餌をくわえたままの状態」をいう。

この「餌に乗る」状態を
「糸を通して竿先から手元」に感じ取るのは容易なことではないが、
これを感じ取れなければ、はぜ釣りは出来ない。
ボクが「のりで釣って」200匹の釣果のとき、
初めての人は多分40匹程度の釣果と思う。

それほどの差が出来る。
しかし、沢山釣っても、それが何になるのだろうか?
ただ他の人より沢山釣ったというだけの事である。
家に持って帰っても、四人家族では食べきれないのだ。
から揚げにして、南蛮漬けにして食べても
せいぜい一人当たり五匹もあれば十分である。

趣味のことは、どんなに優れていても、それは自己満足でしかない。
深く考えれば虚しいことであるが、
人生そのものが虚しいのであるから
このこと自体は充実していると考えられる。

春先はメバルのシーズンだ。
90メートルも深いところまで糸をたらして、
十本針をつけて釣る。一匹、二匹、三匹と針に掛かる魚の手応えを
数えながら釣り上げるが、十本の針に全て掛かると、
仮に一匹の重さが200グラムとすると2kgの重さになる。
得意げに満艦飾になった獲物(釣り上がる魚)を見て
喜ぶのは本人だけであって、ほかの誰も喜ばない。

家に持ち帰るには、四人家族であれば、四匹もあれば十分なのである。
しかし、四匹だけ釣り上げるのはもっと難しい。
結局5匹か6匹になってしまう。
そんな時は釣れなかった人に差し上げるのが一番喜ばれる。
これも自己満足である。深く考えればこれまた虚しい。
人生そのものが虚しいのであるから、止むを得ない。

誰の言葉であったろうか、
「Life is but an empty dream.」

「人生はむなしい夢でしかない」あるいは、
「下天は夢 幻のごとくなり」と訳すのか、
このことを知った上で送る人生は、
きっと有意義なものになるだろう。

締めくくりに、ボクの好きな一文を載せておく、

「たった一度の人生 本当に生かさなかったら
       人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」               
                       山本有三


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フランシーヌ

2025年03月20日 04時52分15秒 | つれづれなるままに考えること
どうゆう訳か、3月のある日、
散歩の途中に口に出てきた歌、

♪フランシーヌの場合は あまりにも哀しい♪

出てきたのはこれだけで、後の歌詞は覚えていない。
口ずさんだ曲は合っていた。

後が思い出せなくて、帰宅後調べた歌詞の一部は
下記の通りであった。

「フランシーヌの場合は あまりにもおばかさん
 フランシーヌの場合は あまりにもさびしい
 三月三十日の日曜日 パリの朝に燃えたいのちひとつ
 フランシーヌ(後略)」


(Youtubeから)
フランシーヌの場合ー新谷のり子

3月31日の朝日新聞の記事に基づいて作られた、
作詞いまいずみあきら、作曲郷五郎。

新聞記事は、「女性が焼身自殺」の見出しで、
「パリ30日発=APP」30日朝 拡大パリ会談の会場から
 200メートル離れた路上で、
 30歳の女性がシンナーをかぶって、焼身自殺した。
 フランシーヌ・ルコントと言うこの女性は、
 ベトナム戦争やナイジェリア内戦に心を痛め、
 自殺した時もピアフラ飢饉の切抜きを持っていた。(後略)」
とあった。

あまりにも悲しい話だ。

今、ロシアとウクライナ、イスラエルとガザ地区などなど、
いくつかの戦争が有るが、
戦争は「人の命を奪うもの」と考えると、
仕掛けた国のリーダーは、
自分が殺される立場になることを、
考えたことが有るのだろうかと思う。

死の苦しみ、近親者の悲しみなどなど、
人が造ってきた遺産を粉々につぶして、
復興させるのにどのくらいの労力とお金がかかるのか、
人の命の重さをどれほどのものか分かっているのだろうかと
考えるとやり切れない。

神様が戦争を仕掛けた張本人に鉄槌を振り下ろしてくれることを
願って止まない。


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男心?女心?

2025年03月11日 05時28分22秒 | つれづれなるままに考えること
今頃になって(こんな年になって)
感じるのは可笑しいかもしれませんが、
女心がよく解らないのです。

好きだとか、 嫌いだとか、
女性は自分の気持ちを自分で言わないからです。

流行歌の歌詞を並べました。

(1)女心がよく表現されているのはどの歌詞でしょうか?
(2)作詞者はどれが女性でしょうか?

回答をコメント欄に、
お寄せいただけると、嬉しいのですが・・・

よろしくお願いします。


(A)♪ つれて 逃げてよ  
    ついておいでよ
    夕暮れの雨が降る 矢切の渡し
    親の心に背いてまでも
    恋に生きたい二人です ♪


(B) ♪ 枯葉散る夕暮れは
    来る日の寒さをものがたり
    雨に壊れたベンチには
    愛をささやく歌もない
    恋人よ そばにいて
    こごえる私のそばにいてよ
    そしてひとこと この別れ話が
    冗談だよと 笑ってほしい ♪  


(C)♪ 好きと言われた 嬉しさに
    酔うて私は 燃えたのよ
    あなた あなたすがって みたい人
    肌を寄せても 明日は別れ
    窓に夜明けの 風が泣く  ♪


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