89歳の誕生日の2日あとに転んだ。
前方からくる車を避けようと、
右側に出来た歩道に入ろうとして転倒した。
車は止まって、運転手と助手らしき人は降りてきて、
「ダイジョブですか?救急車を呼びましょうか?」
と転んでいるボクを見て言う。
「頭を打撲したのでは?」
やっと一人で起き上がって、
「頭を打っておりません、右頬が痛いです」
「頬から血が出ていますよ」
手をやると血が付いた。
確かに右頬の上が痛いが、大したことは無い。
「有難うございます。大したことは有りませんから」
そうお礼を言って、別れた。
場所は家まで50mほどの所であった。
帰って、頬の傷に薬を付け、
右手を見ると右手甲で体を支えたらしく、
手の甲が右半分黒ずんでいる。
左手を見たら。掌が右半分黒ずんでいる。
右歩道に入るべく足を運んだが、
車道から歩道への段差に足を取られて転倒したようだ。
転倒した際、右手の甲と左手の平で体を支え切れずに
右頬で頭を支えた。
そんな状況であったように思える。
残り幾ばくもない生命と思うと、
(10年も生きられそうもないと言うこと)
如何いうわけか昔のことが思い出される。
色々思い出しながら、
「人生100年」と言われてから、
かなり時間が経つ、自分も、どうも、
この100年の中に入っているかもしれない。
そう思うと気持ちが楽になってきた。
そこで思い出した昔のことを書いて、
ブログのネタにしようと綴ることにした。
まずボクの両親のこと。
明治維新になった時は、
母の両親は蜂須賀村(現在の愛知県あま市)で農業を営んでいた。
明治維新前は蜂須賀家に仕えていたという。
蜂須賀家の殿様は、廃藩置県とともに、
それなりの資産を貰って男爵か子爵か知らないが、
生涯暮らすことに必要な資産を貰って、
殿様の座を降りた。
蜂須賀家に務めていた母親の父も、
それなりの田畑を貰って、
蜂須賀家の家来から身を退き百姓になった。
蜂須賀の殿様は、世間知らずでお金の使い方も知らず、
どんな経緯か解らないが、賭け事に手を出し、
有り金すべてが無くなり、明日をもしのぐことが困難になり、
母の父の所へお金を借りに来た。
その時、母の父は昔の恩人のことであり、
お金が有ることを知れば、また借りに来るに違いないと考え、
自分が持てる、全財産(土地や田畑)をお金に換え、
殿様に渡すことにした。
そして翌日から、生きている間にお金に換えた田畑を、
買い戻そうと死に物狂いで働いた。
生活が苦しく、三人の娘を育てることが叶わず、
二人を養女に出すことにした。
養女を出すにあたって、出来の悪い次女を残し、
一番できの良い長女とついで三女を養子に出した。
その長女がボクの母であった。
祖父は、後に
「お金は貸すものではない、
貸すのなら差し上げる気持ちで貸しなさい」
お金が返ってくることはないのだから、
と教訓に残した。
ボクもその祖父の遺訓をそのまま母から受け継いで、
他人にお金を貸すときは差し上げるつもりで、
貸していた。
貸すだけのお金を持っていても、
差し上げることが出来ない場合は、
お断りしていた。
話が反れたが、
そんなわけで、
京染屋の一人娘の養子になった母。
その京染屋夫婦に子供がいなかったので養女となった母。
名古屋市西区に黒板塀が長く続く建物に、
その京染屋はあった。
その後、太平洋戦争ですべて無くなってしまった京染屋である。
母が年頃になって、と言っても18歳の時に、
見合いで迎えた亭主が警察官で、
実家では四男坊であった。
昔は長男が家督を継ぎ、その他の男兄弟は結婚して独立する。
これが通例で有ったが、この家では長男を除く男兄弟は、
全員養子になって出されて居る。
実家の長男はY姓で、
以後、養子に出た次男はT姓で、三男はA姓で、
四男はO姓と全員名前が違う。
次男T姓のボクから見れば叔父は、職業軍人。
我が家に訪ねてくる時は、
騎馬で軍刀を腰にぶら下げてやってくる。
我が家の近くに馬が繋がれていると、
叔父が来ているとすぐ分かった。
三男四男は警察官で、
これは父の叔父(ボクから言えばお爺ちゃんの兄弟)が
警察署長をしていたからと聞いている。
親父は「17番目の妾の子だ」と嘯(うそぶ)いていた。
その父の親父さん、ボクから見ればお爺ちゃんの写真を
一度見せてもらったことが有るが、
ちょんまげを結って、
紋付の羽織を着て刀を前に杖の様に構え、
椅子に座った写真であった。
ボクの父は4歳の時から竹刀を持たされていたと言うが、
警察官の時は四段であったらしい。
ボクが子供の頃、「今日は剣道大会」
「今日は囲碁大会」と聞かされると、
父の帰りが待ち遠しかったことを思い出す。
一番になったかどうかは知らないが、
大会の賞品を必ず持って帰って来るからであった。
賞品と言っても、いつも落雁の菓子折りであったが・・・
「落雁(らくがん)とは、米や豆、蕎麦、栗などから作った澱粉質の粉に
水飴や砂糖を混ぜて着色して、
型に押し固めて乾燥させたもの」と呼ばれる干菓子である。
子供の頃はこんな和菓子しか無かった。
その他の和菓子では、あんころもちで、まれに大福が有った。
ボクが生まれた次の月に2・26事件があった。
どう言う訳か知らないが、
ボクが生まれた時は大雪で、ネルの白い着物を着せられて、
父に抱かれて庭の木の枝に真っ白に積もった雪を見せられた、
そんな記憶が今も残っているが、
その木は戦時中に燃料が無く、切り倒して燃料にして、
お湯を沸かしたり、ご飯を炊いたりして生活をしのいだと言う。
ボクが小学校一年生になった時、
アメリカ大陸の真珠湾攻撃で、
太平洋戦争が起きたように思う。
この後は、何時になるか分からないが、
綴りたいと思う。