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(自己満足)
物事を極めるというのは、並大抵のことではない。
それがゲームであっても、なかなか極めることは難しい。
ゲームには二通りあって、サイコロを振って出た目で遊ぶような
運任せのものと知恵を絞って遊ぶものがある。
中には運と知恵の両方を必要とするゲームもある。
知恵を使うゲームは、奥行きが深い。
代表的なのが囲碁将棋の類であろう。
学生時代、友人について囲碁を覚えた。
友人はアマチュアの四段であったが、教え方が極めてきびしかった。
最初にルールを教えると後は何も教えないで、ぐんぐんゲームを進めた。
囲碁は、相手と交互に白黒の石を碁盤の上に並べて、
碁盤の上の目を囲み、陣取り合戦をするゲームである。
下手な人が黒石を持ち、上手な人が白石を持つ。友人は下手なボクに
石を九つ先に盤面に置かせて始める。
何度やってもどうしても勝つことは出来なかった。当時の本因坊が書いた
「囲碁を始める人のために」を読んで、頭の中に入れても実戦では
うまく使うことは出来ず、考え考え戦ったがとても勝つことが出来ない。
それでも、一週間たち二週間目にはいると、五回に一回は勝てるようになった。
九つの石を先に置いてはじめた碁石の数も、一つ一つ減らして、二ヶ月で五つになり、
三ヶ月経過する頃は四つにすることが出来て、
友人から上達が早いと褒められた。
どんなことにも熱中するボクの真骨頂である。やがて夢の中で敗因の
一手がわかるようになると、もはやのめりこみ過ぎであることを
ボクは良く知っている。
今、真にやらなければならないことは何かを考えると
ゲームに打ち込んでいる場合ではない。学生の本分は学問であるから
ゲームにうつつを抜かしている場合ではない。
その友人がプロ九段の棋士に教えを請うチャンスを得た。
黒石を持って臨んだ囲碁は、たった一目の差で敗れる結果となった。
プロは、途中経過をよく読んでいて、アマチュア四段の面目を潰さぬよう、
わずか一目差で勝つように手心を加えていたことに友人は
気付かなかった。
たった一目差で敗れたから、もう一回挑戦すればあるいは
勝てるかもしれないと思い、
「もう一局お願いします」と頼んだという。プロは顔色も変えず、
庭先を掃除していた、高校生ぐらいのどう見ても友人より若い
お弟子さんを呼んで、
「お相手をしてあげてください」と言って奥に入っていったという。
若いお弟子さんは友人に向かって、
「先に九つ石を置いてください」と言ったのだ。
九段のプロと今、互角に渡り合って戦い、わずかな差で負けた自分に対して、
小僧のようなお弟子さんに、先に九つ石を置くように言われたのは心外であったが、
仕方がないので言うとおりにしてゲームを始めた。
しかし、勝負の結果はどうであったかというと、友人の大敗であった。
(うまい好事家より下手な専門家)と言うことわざの良い例えである。
事ほどかように、プロの偉大さを知ったのである。
どんなに上手でも、アマはアマ、どんなに下手でもプロには敵わないことを思い知った例である。
アマチュアがどんなに頑張ってもプロにはかなわない。
極めたと言えども、それは自己満足に他ならない。
ボクは釣についてはかなりな腕を持っていると自負している。
あるときはぜ釣りに行くことになった。はぜは誰にでも釣れる
簡単な釣りだと思っていたので気軽に行くことにした。
舟で釣り場に行くのであるが、かなり年配のおじさんが、古びた竹竿を
自転車に乗せてやってきて、釣りの仲間に入った。1月のこと。
簡単と高をくくっていたはぜ釣りも、この時期はなかなか難しいことを
すぐに思い知った。
結果は、古ぼけた竹竿を持って参加したおじさんが、44匹で舟で一番の釣果。
ボクはただの6匹であった。冬場のはぜは難しいことを知ったが、
夏場のはぜ釣りも、それほど簡単ではない。
確かに誰にでもつれる釣りではあるが、うまい人とでは釣果が俄然違う。
ある時、淡水水族館で、偶然、はぜが餌を食べる瞬間に出会うチャンスを得た。
はぜは餌をいったん口にくわえて、ジッとして動かない。
やがて餌をパクリと呑み込むや、さっと移動した。
初めて釣る人は、はぜに針ごと胃袋まで呑み込まれているが、
上手な人は、針が上あごに掛かっている。
竿先からびくびくと手ごたえがあってから釣り上げるのではすでに遅く、
針は はぜの胃袋の中に納まっている。
水族館で見た「餌を呑み込んだあと移動」した状態である。
はぜは「のりで釣る」という。
つまり餌の上にはぜが乗ったのを感じて釣り上げろと言うのだ。
そうすると針ははぜの上あごに掛かって釣れてくる。
これは水族館で見た「餌をくわえたままの状態」をいう。
この「餌に乗る」状態を「糸を通して竿先から手元」に感じ取るのは容易なことではないが、
これを感じ取れなければ、はぜ釣りは出来ない。
ボクが「のりで釣って」200匹の釣果のとき、初めての人は多分40匹程度の釣果と思う。
それほどの差が出来る。
しかし、沢山釣っても、それが何になるのだろうか?
ただ他の人より沢山釣ったというだけの事である。
家に持って帰っても、四人家族では食べきれないのだ。から揚げにして、
南蛮漬けにして食べてもせいぜい一人当たり
五匹もあれば十分である。
趣味のことは、どんなに優れていても、それは自己満足でしかない。
深く考えれば虚しいことであるが、人生そのものが虚しいのであるから
このこと自体は充実していると考えられる。
春先はメバルのシーズンだ。90メートルも深いところまで糸をたらして、
十本針をつけて釣る。一匹、二匹、三匹と針に掛かる魚の手応えを
数えながら釣り上げるが、十本の針に全て掛かると、
仮に一匹の重さが200グラムとすると2kgの重さになる。
得意げに満艦飾になった獲物(釣り上がる魚)を見て喜ぶのは本人だけであって、
ほかの誰も喜ばない。
家に持ち帰るには、四人家族であれば、四匹もあれば十分なのである。
しかし、四匹だけ釣り上げるのはもっと難しい。
結局5匹か6匹になってしまう。
そんな時は釣れなかった人に差し上げるのが一番喜ばれる。
これも自己満足である。深く考えればこれまた虚しい。
人生そのものが虚しいのであるから、止むを得ない。
誰の言葉であったろうか、
Life is but an empty dream.
「人生はむなしい夢でしかない」あるいは、
「下天は夢 幻のごとくなり」と訳すのか、
このことを知った上で送る人生は、きっと有意義なものになるだろう。
締めくくりに、ボクの好きな一文を載せておく、
「たった一度の人生 本当に活かさなかったら
人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」 山本有三